![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/97/e268e08d129c5c7770245fc5dbae8093.jpg)
きのう、フリースクールゆうび小さな学園(千葉県柏市豊四季360-2)へ俳句の話をしに訪れた。今年、当園は園長が内堀輝夫から植田誠に交替した。88歳になった内堀があとを植田に託した。
その植田が学園生にパソコンから離れた遊びを開拓したいという。それには俳句がうってつけではないかと思い、夏ごろ小生は若者に受けそうな俳句をいくつか書いて当園に送っていた。それを見た学園生やその父母は俳句に興味を持ったらしく、一度、小生の俳句講話を聴きたいということになったのである。
集まったのは内堀、植田らスタッフを含む9名。内堀のほか全員小生より若く、15歳が2人、22歳が1人、あとは30代、40代の学園生の母という陣容であった。
内堀がインタビューアーとして小生に俳句のあれこれを質問するという時間を持った。
ここで小生は、句会において自分の句について説明するのはナンセンスということを強調した。自分は出す一行にすべてをかけるべきで、それを喋って説明したら出した一行は死ぬ、それは母親の子殺しに等しいという話をした。
これに新園長の植田が「ほおー」と声をあげ、おもしろく新鮮という輝きが表情に出た。
フリースクールは不登校をはじめさまざまな問題を抱えている子が(子にかぎらない)来ている。
すると自分を語ってわかってもらう、自分をしゃべることで解放するということにスタッフは腐心していることだろう。自分を語ることはいいことなのである。
しかし句会において自句を語ることはご法度。しゃべりたいなら他人の句をじっくり鑑賞してそれに言葉を費やすこと、他人の句のよさ、あるいは問題点をしっかり語ってあげること。そういったことで言葉の新しい交流がある、それが毅然とした言葉の世界であり、それが自分や他人を生かす新たな道である……。
ぼくの考えていることを俳句を知らない植田が瞬時に理解したのであった。内堀は不世出の教育者と崇めるのだが、彼の後継者も抜群の感受性を持っていると感じた。
ぼくの出した俳句についてどれが好きか挙げて感想を述べ合うくらいがせいぜいと思っていたが、内堀が「では俳句を書いて句会をしよう」という。
15分くらいで全員が1句書いた。なかには3句書いた子もいて驚いた。全17句で3句選であったが選句がはやいのも驚いた。
外に出てとんぼに心おどりだす
という句に3点入った。「心おどりだす」はまさに初心者なのだが悪いとは言わなかった。ここが欠点というのはまだ先のことだ。
うたたねのきみのむこうのくりばやし ベイカー
ベイカーと愛称される15歳男子の句この句を見たときぼくは驚いた。なんという妙なる取り合わせ、本日の特選。
この子に季語意識が根ざしたら、下五を「栗の花」「栗笑ふ」などとして一句をもっと鮮明にするだろう。教え甲斐がある。どのようにしてできたか聞きたいほどであった。この句に小生のほか5点入り最高得点になった。これも驚きであった。ここに集まった諸君は俳句を見る目がある。
帰りがけ中学生の母のみちるさんが「俳句ってもっとむずかしいものかと思っていましたが、生活の中でできるんですね」とにこにこしていた。
ああいい日であったと思った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/a0/d8e128096abdab06b336202de84b73c7.jpg)