天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

鷹12月号小川軽舟を読む

2019-11-27 05:42:04 | 俳句


鷹12月号に主宰・小川軽舟が「デカフェ」という題で発表した12句を読み合います。今月の対談者は田花之弘。田花が○、天地が●。

書き物に夕日差したり秋簾
○日本的な情緒を感じます。「書き物」と映像をぼやかした点はどう思われますか?
●「書き物」と大づかみして味が出ているでしょう。「夕日差したり」はなんでもないんだけれど「秋簾」を感じます。
○今時の文筆業の方はいきなりパソコンに向かってキーを叩き始めるのが当たり前ですよね。でもこの句の主人公は敢えて原稿用紙と万年筆に拘っているんですよ。でも無意味な拘りではなくいきなりキーを叩くよりそのほうがいい作品ができる事を経験上知っている。そう思ったら今の時代だと「書き物」という少々雑に思える表現は決して雑ではないし「秋簾」も納得できます。

横浜の古きホテルの秋思かな
●一読してぬるいと思いました。「古きホテルの秋思」、そりゃあそうでしょうと言いたくなる。常識の範疇を出ていないのでは……。
○だからでしょうね。横浜という地名が浮いてしまっているような気がしたのは。
●作者にとって思い出の深いホテルであって書き留めておきたい衝動が起ったのはわかります。ぼくも世間一般に通用しそうもない句を書きますから。句を書こうとする発端はそれでいいですが公にリリースするとね。こういう句ってほかの地名、たとえば「長崎」でもよくなっちゃうわけです、すると歌謡曲の「御当地ソング」になってしまう……。
○いやー、全く同感です。作者の想いとは別に読者が期待するのは「古きホテル」ではなく「解体中のホテル」「廃墟のホテル」ではないかと。

顔見えず秋海棠にかがみをり
○誰の顔が見えなかったのか想像を読者に丸投げしてますね。
●これは作者が想像できるところでおもしろいです。一瞬顔が見えたんだろうね。この花は丈がそう高くないから子どもを想像できるところがいいです。秋海棠を感じさせるさりげない一物俳句、決まっています。
○自分はもう少し読者に想像させる材料が欲しかった気がします。
●いやあ、これでいいです。

汀女忌の玉子の薄きオムライス
●中村汀女は1900年(明治33年)4月11日 生まれ、1988年(昭和63年)9月20日死去。星野立子、橋本多佳子、三橋鷹女とともに4Tと並び称されその一人だね。さてこの句の眼目は「玉子の薄き」、これが汀女を引き立てるかどうか。
○申し訳ないのですが誰かしらの命日に毎年共通する季節感があるのかと疑問を感じる立場です。ですから忌日俳句は詠むのも読むのも苦手でして。洒落た店のオムライスはフワフワ卵で母親の作ってくれた時は薄い卵でした。
●忌日俳句の季節感に対する君の指摘は妥当だと思うが、季節感よりその人を追悼できるかでいいと思う。この句は君の言うように洒落た感じにできていて、それは「とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな」と書いた作者の人となりに合うと思いました。
○釈迦に説法、天地に説法ですが季語であろうとなかろうと食べ物は美味しそうに詠めというのは俳句の基本だと思っています。そういう意味で昔ながらのオムライスを食べたいと思わせる魅力をこの句からは感じました。

色鳥や生垣低き保育園
○ここでの「低き」はいいですね。保育園の敷地の中をみせてくれます。季語自体にカラフルなイメージがあってそれに対して地味な日常のワンシーンで繋ぐところがいぶし銀的だと思います。
●同感です。大人の胸くらいの高さの生垣を思います。いま防犯を重視した金網のフェンスが多いですからこういう句を読むとほっとします。色鳥という季語も素直でいいと思います。

足跡に松葉平らや茸狩
●微細なところを見ていますね。やわらかな林間の道は足跡がつきやすい。その上にふわって浮いたような松葉を見たわけだ。
○自分には景が浮かびませんでしたがそうやって読むのですね。なんだか作者は地べたに寝転んでまで「物を良く見る」を徹底している気がしてきました(笑)
●幼少のころ父についてよく茸狩に行きました。そのことを濃厚に思い出させてくれました。父の早足について行った道を。この描写には滋味があります。

わらわらと滑子掻きとる朽木かな
○「わらわらと」に天地さんと同じ鷹の血筋を感じます。何人か集まってきて滑子を採っている場面でしょうか。あるいは朽木からわらわらと滑子が生えていたのか。
●腐りかけた木、それが滑子を生やす土台。そこにいっぱい滑子が出てきた。それを掻き取っていてぞくぞくします。すぐ味噌汁に入れて食べたくなります。「わらわら」は効いてますね。ぼくと同じ血筋とはうれしいですが先に主宰にやられちゃいました(笑)
○あー、やっぱり鷹の人は副詞の使い方に気を使うんですね。「掻きとる」はやはり実体験からくる表現でしょうか。
●実体験か、そうでなければきちんと見たのでしょうね。

あけび甘し山の空気のすぐ冷ゆる
●太陽が傾いだ4時ころ、あるいは雲に日が陰ったときの冷えだろうね。木通の甘さと空気の冷えが微妙に引き合うと思う。
○自分も全く同じ読みでした。山の天候は変わりやすいと言いますが体感の温度変化も激しいのでしょう。わざわざ「甘し」と書いたところにあけびの旨さに感動した作者がいました。あけびの甘さと山の冷涼感が響きあっています。

明け方の彩雲広し牧閉す
○「牧閉す」は聞き慣れない言葉ですが廃業する畜産酪農家の事でしょうか。上五中七に何かしらの大きな希望を感じるだけに下五との落差が大きく感じます。
●「牧閉す」は廃業じゃなくてれっきとした秋の季語。夏の間草をいっぱい食べた牛や馬が預けられた牧場から帰って行き牧場を閉ざすことだよ。
「彩雲」のほうが聞き慣れない言葉で、これは日光が雲の水滴などで屈折していろいろな色を帯びた状態。「彩雲」は写真で見るほうがわかりやすいともいえるが、「彩雲広し」で作者は優秀な写真家と闘っている。この中七は卓越した言葉の使い手と優秀なカメラマンとの闘いを感じました。言葉の使い手が決して負けていない。それほど「彩雲広し」は卓越した表現だと思います。簡潔にして勇壮な景観をものにした技量に感服しました。
今回の12句で特選を1句挙げろと言われれば、ぼくはこれにします。
○「牧閉す」、勉強になりました。

菊人形衿の白きは小菊もて
●衿以外のところは大きい菊で装い衿をちいさい菊であしらっているのか。細かいところが気になるのはまるで杉下右京だね。
○俳人と言われる人種は細かい所が気になる人達です。杉下右京が実在の人物なら俳句が上手いかもしれませんね。物を良く見てさりげなくリフレインを効かせています。

珈琲はデカフェ夜長の窓あけて
●カフェインレスコーヒーを飲みもう寒い秋の夜の窓を開けて外気を楽しむ。カフェインがないのだから寝そうなものだが……。
○「デカフェ」とは初めて聞く言葉でした。一読してエラク洒落た句だなぁと思いましたが天地さんの仰る通りだと思います。
●窓あけて何するんだろうというようなことをうんぬんするより、言葉のしらべの美しさを感じれば俳句はいいなだよね。
○確かに。

割るるとき力をゆるめ胡桃割る
○このブログを意識して詠んだ句でしょう。
●そんなことはないでしょう(笑)。ぼくは胡桃をやっとこで挟んで金槌で叩いて割っているのだけれど、作者は胡桃割り人形ふうの道具を使っているだろうね。万力みたにじわじわ圧力をかけていく方法。それを「割るるとき力をゆるめ」に感じます。金槌で叩いていてもこの感覚はわかります。胡桃の継目みたいなところに罅が入るともうそんなに力は要らないわけ。そこでさらに力を足すと中身が潰れてしまうので。
競馬でだんとつに1位で来た馬はゴール前で流すのに似た感覚だね。
○それは直接軽舟さんに確認しておいて下さい(笑)
読みはかなり近かったです。胡桃の殻がいくら固いからといって割る時は決して力を入れっ放しではないと。むしろ力を入れるのは一瞬だけ。そうしないと金槌で割ったらバラバラになってしまいますから。そういうある種のコツといった物も「写生」の対象になるんですね。



撮影地:北浅川流域
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5 コメント

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Unknown (田花)
2019-11-27 08:57:03
書き物に夕日差したり秋簾


パソコンを使えば効率良く仕事が出来るのに敢えて原稿用紙とペンに拘る職人気質な作家の背中が見えました。改めて見てもいい句だと思いました。



汀女忌の玉子の薄きオムライス

てっきり

汀女忌や玉子の薄きオムライス

だと思っての感想でした。「や」で切らなかった理由は作者のみ知るですがやはり切ったほうがオムライスが美味しそうに感じます。


明け方の彩雲広し牧閉す

季語の意味を知ると確かにこの句は秀逸です。役目を終えての充実感や無事に動物達を返せる安堵感と世話をした牛や馬との別れの寂しさが伝わってきました。忘れられない句になりそうです。
返信する
Unknown (Tuki)
2019-11-27 13:31:12
楽しく読ませていただきました。

汀女忌の玉子の薄きオムライス

ふわとろ系のオムライスが主流の昨今、作者も日頃はそうしたふわとろ系オムライスに馴染んでいるものの、昼食時に街に出てふと一軒の洋食屋のショーケースに昔ながらのオムライスを見つけ、ふと今日が汀女忌であることに思い当たる。作者は迷うことなく、その洋食屋に入り、オムライスを注文したに違いない。季語というか汀女に捧げるオムライスの感。

色鳥や生垣低き保育園

色鳥という季語斡旋によって、色鳥だけではなく、園庭に遊ぶ園児の姿もイメージされ、それ故にますます彩りの豊かさを感じさせる。

割るるとき力をゆるめ胡桃割る

動詞を三つも使いながらその過剰感がないことを含め、自動詞「割るる」を極めて上手く使っていると思う。
返信する
Unknown (Tuki)
2019-11-28 20:58:53
横浜の古きホテルの秋思かな

今月の12句の中では面白みが感じられない句だと思う。
それはそれとしての一考察。

読み手にしたら、横浜である必然性はないのだが、それは読み手の都合であって、作者にとっては横浜でなければ読む意味がないのだろう。こうしたことは少しも珍しいことじゃあないと思う。
横浜を長崎に替えても、それで例えば文法的に破綻するはずもなく、句としては地名交換前と同様に成立する。同様に成立することと、句としては同価値であることは全くの別問題であり、いくら句として成立したところで、それをもって交換可能とは言えないのではないだろうか。
この句において、横浜の場合に読み手に伝わる情報・イメージと同じ情報・イメージを長崎としても伝達可能であるはずがなく、まさにそれがこの句において作者が横浜と敢えて特定した理由であろう。

一般に季語が動くとか動かぬとかの視点があるが、状況は概ね上記と同様と考える。
仮に動かぬ季語、交換不能の季語があるなら、それは季語以外の措辞によって特定し得る情報であり、それ故に当該句においてそれは過剰な情報以外の何物でもなく、情報的に不要であるはずだ。
一方、動く季語があるとするなら、それはその交換可能性故に、特定が必要なのであり、その特定の意志、嗜好こそが作者性だとは言えないだろうか。

横浜という地名、言葉がもたらすイメージと可能性の中で、この句は味わうべきである。その結果、あまり面白みを感じられないとしても、それは横浜の所為ではなく、また、作者の意図したところと異なるものでもないだろう。
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Unknown (Unknown)
2019-11-28 22:45:00
横浜の古きホテルの秋思かな

要は芭蕉の「言ひおほせて何かある」に集約されているのかもしれません
返信する
Unknown (Unknown)
2019-11-29 03:32:01
「言ひおほせて何かある」

そういうことを言っているのですね、初めて知りました(恥)
幾ら言葉を尽くしても、そして、言葉を尽くせば尽くすほどに言い尽くすことは難しい、としたら、俳句という短詩型は言い尽くしてしまう恐れのある型なのかも知れませんね。
とは言え、私には、言い尽くすこともできませんが。
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