Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

酉の市 ~見世物小屋~

2008-11-30 00:07:56 | お出かけ
熱は下がりましたが、喉がまだ痛くて、咳も少し出ます。風邪はまだ治らないようです。

さて、二の酉に続き、三の酉にも行って来ました。場所は前回と同じく新宿。
今回のお目当ては見世物小屋。いまどき珍しいです。このあいだは何となく入りませんでしたが、どうしても見てみたかったので、今回はこれのために来たと言っても過言ではありません。

小屋の前で、客寄せが盛んに宣伝しています。「蛇女」が登場するとか。どうせデマだろうと思いつつ、どんなものかと中へ。
横に広い造りで、もちろん立ち見。坂になっていて、後ろに行くほど高くなります。人体模型のようなものを解説していました。解説しているのは、なぜかセント君(漢字だっけ?)のコスプレをしたちょっと太めの男性。まあこんなものだろうな、と思っていたら、次はマジックをやるという。予期していたものの、内心はがっかり。でもせっかくだから見ていくことにした。

そうしたら、マジックは意外とすごい。ティッシュがうどんになったり、紙切れが千円札になったり。そして次に取り出したのは風船。あの、野球の応援とかで使用される、長細いやつです。それを長~く膨らませて、何をするかと思ったら、口の中に入れてゆく。どんどん喉の奥へと入れてゆき、最後はすっかり飲み込んでしまった。そして、もう取り出さない。どうなってるんだ?このあたりから、演目は激化。

ろうそくを取り出して、それに火をつけ、またも口の中に入れる。一本が二本に、二本が四本に、最後は十本の火のついたろうそくを口の中へ入れ、舌で消化。白い煙が口からぷは~。男は「少し火傷しました」と言って、水をちょっとだけ口に含み、それからなんとドライアイスをがりっ。かじりついて、破片を食べてしまうと、口と鼻からはドライアイスの煙がもわもわと。結局、結構な大きさのあったドライアイスを全て食べてしまいました。

そして遂に「蛇女」が登場。実は日本最後の女芸人だそうで、名を「小雪」と言うそうです。彼女は50本ものろうそくに火をつけ、水のように滴る蝋を口の中へ流し込みます。このろうそくは低温ろうそくなどではなく、そこらに売っている本物。口の中に蝋を溜めて、ろうそくの火にそれを吹きかけた瞬間、まるで大爆発が起きたかと錯覚するほどの炎が燃え上がりました。よくウォッカをライターに吹きかけて火炎放射のようなことをする漫画や映画がありますが、あれのグレードアップバージョンといった感じ。

最後は蛇女の本領発揮。黒光りするアオダイショウを袋から取り出し(もちろんうねうねと生きている)、がぶりと噛み付くと、頭を引きちぎりました。ぶちっという生々しい音が。それから切り口から蛇の生き血を啜ります。こんなことをする人間がまさか日本にいるとは…。いくら芸とはいえ、さすがにこれはすごい。テレビでは絶対に見れない光景ですね。

とりあえず演目は一回りしたようです。20分間の見世物がくりかえし行われるようです。ぼくは途中から入ったので、最初の演目も見ることにしました。それは、セント君が鎖を鼻から入れ、口から出すというもの。ほっしゃんのうどん芸のこれまたグレードアップバージョンといったところでしょうか。見ていてちょっと気持ち悪い…。ここでぼくにとっても演目は完全に一巡し、小屋から出ることにしました。小屋の中ではだんだん左から右へとお客が流れていく仕組みになっていて、ぼくも自然と外へ。

いやあ、見世物小屋はすごかった。本物でした。

今日は二の酉のときよりずっと混んでいて、先週の高尾山並み。土曜だからでしょうか。なかなか充実した時間を過ごすことができました。

最低の事件

2008-11-27 01:01:52 | Weblog
最近知った最低のニュース。

①電車内で幼虫を200匹もばらまいた

これは本当に最低、というか最悪な事件ですね。犯人の動機は、驚く女性を見たかったから、ということだそうですが、信じられない。幼虫というのは釣りの餌に使用される小さなものらしく、それを3600匹もポケットなどに入れて身に付けていたという。いったいどういう神経をしているのだろう。自分自身、気持ち悪くないのだろうか。ぼくは別に虫が嫌いというわけではなく、昔はよく虫取りをして遊んだものだが、小さな幼虫を何百、何千と持ち歩くなんてことは不気味で、できない。

②高校生が修学旅行先のアメリカで集団万引き

ナショナリズムを振りかざしたくはありませんが、恐らく多くの人が「日本の恥」と思ったのではないでしょうか。学校の先生・関係者は赤っ恥をかきましたね。たぶん万引きをした高校生たちは、軽い気持ち、度胸試しや遊びのような感覚でやったことなのでしょうが、仮にそうだとしたら、幼稚すぎます。それにしてもわざわざ海外でこんなことをするとは。日本でならやっていい、というわけでは当然ありませんが、彼らには外国と日本との区別がつかないのでしょう。外国で日本人が何か犯罪を犯せば、日本人全体のイメージが悪くなってしまいます。けれど、そんなの関係ない、と開き直っている様子が目に浮かびます。そこが幼稚なところですが。

悪ノリしてしまうのは若さの特権かもしれませんが、許される範囲がありますからね。今回はそれをオーバーしています。しかし本音を言うと、ぼくもそういうふうに悪ふざけをしてしまう高校生でいたかったなあ…

風邪を引いてしまったことと学校図書館

2008-11-25 23:36:48 | Weblog
きのう、喉に違和感がある、と書いたのですが、翌朝(つまり今朝)目が覚めると、喉がすごく痛くなっていて、おまけに体が重く、だるい。起き上がって歩き出すと、頭が妙に重たくて、体がふらふらする。これは、熱があるな、と思いつつ、服を着替え、体温を測りました。7度7分ありました。そんなに高熱ではないですが、かなりだるい。紅茶を飲んで、病院へ行きました。

連休明けにしては思ったよりも空いていて、助かりました。インフルエンザではないようで、解熱剤などをもらって帰宅。それにしても、いつも通っているこの病院は、診察時間がいやに短い。こんなに短くてちゃんと分かるのだろうか、と少し疑問に思います。

家に帰って昼食を済ますと、部屋で夕方まで横になっていました。その間に汗をかいて熱はほとんど下がりました。医者の見立ては正しかったということでしょうか。診察時間はあんなに短いのに。

ところで、学校で借りている本の期限が今日までだと思っていたので、できれば今日本を返しに行きたかったのですが、こんな体調では無理で、諦めました。インターネットから貸出延長ができるのですが、既に一度延長しているから無理だとは思いつつ、先程その予約画面を見たのですが、思いがけず、もう二冊も本を延滞していることを知りました。すっかり思い違いをしていました。まさか、もう5日間も延滞していたとは…!

この大学は、本を延滞すると、その延滞した日数分だけ次の本が借りられなくなる制度になっています。延滞金というのが罰則としては一般的だと思うのですが、このような、本が借りられなくなる、という制度は厳しい。まあ、こちらの方が延滞金よりも有効かもしれませんが。

熱を出したのは、山登りの疲れと昨日の寒さ、そして夜更かしのせいだと思います。だから、今日はもうこのへんで眠ることにします。ただ、寝れるかなあ。

CLANNADイメージボーカルアルバム(ゲーム)

2008-11-25 02:31:03 | アニメーション
『クラナドイメージボーカルアルバム/ソララド』を借りて、聴いています。

収録曲は、「少女の幻想」「オーバー」「海鳴り」「遠い旅の記憶」「一万の軌跡」「空に光る」の6曲。

「オーバー」と「一万の軌跡」はそれほど好みではないのですが、それ以外はいいですね。クラナドっぽいです。「少女の幻想」はアニメでも使われていますが。幻想的というか、時に神秘的で、riyaの声の効果も大きいですが、透き通った空気感があります。

「遠い旅の記憶」は、他とは違った曲調ですが、これはこれでいい。初めは違和感がありましたが、繰り返す聴く内に、耳にも馴染んできました。いまでは一番のお気に入りです。

ゲーム音楽だからなのか、全体的にゲームっぽいです。なにが「ゲームっぽい」と感じさせるのかは分からないのですが。でもなんとなくFFを聴いているような気分に。

そういえば、『クロノ・トリガー』が発売されましたが、あれの音楽はすごくいいんだよねえ。昔やったとき、あの音楽が大好きだった。中世のときの音楽や、黒の夢の音楽、他に最も好きなのがあったんだけど、その場所の名前を忘れてしまった…。最後にラボスが待ち構えているところなんだけど…

閑話休題。
今日はすごく寒かったですね。そのせいかどうか分かりませんが、いま少し喉に違和感が…明日、痛くなってなければいいんだけど。では、クラナドを聴きながら眠りますか…

高尾山へ~感想とガイド~

2008-11-24 01:13:40 | お出かけ
高尾山へ行ってまいりました。
初めてだと思っていたら、実は小さい頃にも登っていたようです。もっとも、そのときは山頂にまでは行かなかったとか。

さて、常識かもしれませんが、高尾山へ行くには京王線の「高尾山口」駅で降車するのが一般的。中央線の「高尾」駅からではかなり歩くことになります。もっとも、二つの駅を結ぶ電車は通じているようです。しかし、新宿から行くなら京王線の方が圧倒的に安い(370円也)ので、こちらがお勧め。

新宿を11時発の京王線に乗り、いざ高尾へ!
電車はけっこう混んでいて、ドアに寄りかかりながら車窓から景色を眺める。しばらくすると自然が多く目に付き出します。ぼくは聖蹟桜ヶ丘までは何度も足を運んだことがあるのですが(電車andバイクで――乗っけてもらっただけだけど)、その次の駅・百草園から先へはまだ行ったことがなかったので、それも楽しみ。百草園なんかは、散策すると完全に田舎で東京とは思えないのですが、電車から見るとそんなことはないのですね。

さて、次第に電車は混んできて、終点近くになると乗車率400%かってくらい。まさか今乗っている人たちが全員高尾山を登るのか?とは俄かには信じ難いのですが…しかし全員が「高尾山口」駅で降り、そのまま高尾山へ。とにかくものすごい人で、夕方の新宿東口出口の付近並み。いやそれ以上。通りにはおみやげ屋さんや蕎麦屋さんが軒を連ねていて、いずれにも長蛇の列。とりあえず脇目も振らず前へと進みます。やがて山の中に入ります。ここからが「1号路」。高尾山頂へは全部で1号~6号路+1コースあり、登り始める前に選択できるコースは3つ。どこから登っても山頂へ到達します。1コース(1号路)を選んだ場合、更に3つのコースを途中から選択できます(つまり枝分かれ)。なお高尾山頂をぐるっと巡るコースが最後に一つ。こういう情報は、「高尾山口」駅に置いてあるパンフレットに書いてあるので、初心者はもらっておくといいと思います。

で、1号路を登り始めたわけですが、ここがものすごい人。新宿のエスカレーター並みに人がずら~っと縦に並んでいて、ただしその列は延々と続いているわけですが、そこを歩いていく感じ。道の横幅は広く、完全に舗装されています。途中で小さい救急車みたいな車が通りました。そのくらいは整備された道です。したがって、あまり山登りをしているという気はしませんね。

リフトやケーブルカーに乗ることもできますが、これもものすごい行列で、並ぶ気は余り起きませんでした。ただし、そのリフトやケーブルカーの終着点までの道のりがけっこう急坂で、個人的には想像以上にしんどかったです。その終着点付近には自販機や茶店が建ち並び、山の中とは思えません。そしてそこからの道はなだらかで、山頂まで目立った坂はありません(階段はありましたが)。体力に自信のない人で、でも山頂まで行きたいという人は、リフトに乗った方がいいかもしれませんね。きついのは、そのリフトが通っている山道だけですから。

さあ、ここからが問題。浄心門という大きな門が、リフトから降りてしばらく歩くと見えてきます。これをくぐり、まっすぐ行くと、道が男坂と女坂という二つの道に分かれています。すぐに二つの道は合流するのですが、合流してからが、大変なことになります。交通渋滞と言っていいでしょう。人混みで歩けなくなります。これは新宿に例えるなら、通勤時間帯の新宿駅ホーム並み。更に進むと、高尾山薬王院というところがあり、ここでまたも渋滞。10メートル進むのに、実に30分かかりました!そこを過ぎると少し空いてくるのですが、これはさすがにうんざりしますよね。自然を求めて山に来たら、都会よりも人がいた、という滑稽さ。

そこで、1コースを選択した人は、途中で別のコースへ移動するのがいいと思います。目印は浄心門です。この門の付近に、枝道があります。それを探しましょう。

山頂に着いたのが2時30分過ぎ。登山開始から2時間以上は優に経っていました。下山している途中で日が暮れては事なので、お昼ご飯を食べたら休憩もそこそこに下り始めました。3時5分頃です。今度は、誰が1号路など行くものか、ということで、稲荷山コースへ。このコースは舗装などはされておらず、ようやく山登りをしているという気分に(まあ山下りだけど)。たぶん舗装されているのは1号路だけではないのでしょうか。木の根っこにしばしば足を取られながら、急な坂道や階段を、ひたすら下へ、下へ。日が傾きかけ、西日がまさに林立する針葉樹をオレンジ色に染めています。尾根伝いを歩き、暗い木蔭を降り、下山したのは4時15分頃。

さて、肝心の紅葉情報ですが、はっきり言って、まだです。テレビでは、この連休が見頃、などと宣伝し、CMでは広末涼子が真っ赤に紅葉した高尾を歩いていますが、まだです(あれはCGだね、などと噂している登山客もいた)。確証はもてませんが、たぶん来週末辺りが見頃なのではないでしょうか。聖蹟桜ヶ丘が12月初め辺りだと思うので、高尾もそのくらいでは?今は、「色づき始めた」という感じです。

下山してからも大変です。京王線の「高尾山口」駅では、切符を買う人の長蛇の列。帰る前に購入しておくのがいいのでしょうが、しかし、昼以降の登山では、行きでもかなり人が並んでいます。スイカを持っている人は、かならずチャージしておくとよいでしょう。ぼくはどちらも怠ったので、どうしようかと思いましたが、中央線の「高尾」駅まで歩くことにしました。たっぷり20分は歩きますが、これまで山を4時間半も歩いているので、平地を20分くらい、という気になります。それに中央線は空いているので、余裕で座れます。京王線は満員のようだったので、20分歩いて後はずっと座るか、すぐに乗れるけど新宿まで1時間立ったままか、どちらがいいかってことになりますね。

ここでおさらい。
休日に行くなら、
1号路は回避するべし。
スイカにお金をチャージしておくべし。
券売機が空いていたら、行きに帰りの切符を購入しておくべし。

ただし、足腰の弱い人は、いくら空いているとはいえ、他のコースは歩きにくいので、舗装された1号路を行くのがいいのかもしれません。

それにしても、これだけ山を歩けば、充実感がありますね。山頂に着いたときはちょっとうれしかったです。

続・三丁目の夕日

2008-11-22 00:46:41 | 映画
CLANNADショックから立ち直れない…
気分転換をしないとダメになる…エヴァのときのように…

さて、金曜ロードショーで「続・三丁目の夕日」がやっていました。
なかなかよくできてるんじゃないですか?あんまりよくなかった、という声も聞いていたので、そんなに期待してなかったんですけど。ただまあ、展開が見え見えですが。

けれども、この映画は意外な展開にハラハラドキドキ(←古っ)するものではなくて、あの時代の空気を感じ取って懐かしんだり憧れたりするものなんじゃないかと。密接な人間関係を細い目で眺めたりしてね。

一番よかったシーンは、茶川(吉岡秀隆)の小説「踊り子」の一節を吉岡秀隆がナレーションするところ。文章もなかなかよかったけど、やっぱり吉岡秀隆の声はしんみりするよね。あの声に癒やされます…

給食費を払ってないから給食を食べない真面目な生徒、という設定は、昨今の給食費滞納問題へのアンチテーゼ?というのはあまりに安易な発想か。

冒頭のゴジラはけっこう迫力があった。そういえば本場のゴジラってもう全く観なくなったなあ…。

なんというか、書くことがあんまりない。今日はもうこのへんで。

CLANNAD 第一期

2008-11-21 00:14:30 | アニメーション
CLANNAD第一期DVD最終巻に収録されている「智代編」を観終わって、思う。
CLANNADはやばいよね。これは「おもしろい」に「超」が付くよ。

「智代編」に限らず、CLANNADを観ながら胸が熱くなったことは何度あったか。特に風子のエピソード。これは泣きました。6話くらいまでは単に「まあまあおもしろいな」っていう程度だったのが、8話で感涙です。「病院で眠り続ける少女」「記憶喪失」「しかし忘れないもの」という泣かせる道具の定番をこれでもかと盛り込めば、そりゃあまあ、泣いてしまいます。「笑わせるのは難しいけど泣かせるのは簡単だし、それにちょっと展開がベタだよね」という批判は当然あるでしょう。今更セカチューでもないけれど、そういう大衆的な、泣かせてなんぼ、という映画や小説が低く見られがちだというのは、その通りだと思います。でもCLANNADは、そういう世間の常識など吹き飛ばしてしまうほどの透き通った哀しみと喜びに溢れかえったアニメーションです。

とにかく演出がいい。特に風子のエピソードでは、あの「星型」の彫刻がとても上手に小道具として用いられている。最初は、姉の結婚式に出てもらうための「ちょっとへんてこなプレゼント」に過ぎなかった。おそらく、多くの視聴者はあれを「よく分からない変なもの」程度にしか見ていなかっただろうと思います。それが、実は星ではなくヒトデだということが分かったとき、それは「ギャグ」になるわけです。しかし、「どう見ても星なのに、本当はヒトデ」というそのカラクリが、あとあと意味を持ってきます。次第に人々が風子の存在を忘れ始め、そして到頭完全に風子の存在を忘れてしまった後、その彫刻だけが手元に残ります。けれども、それが「ヒトデ」だと認識することで、皆の心の中に風子の思いが確かに沈殿していることが暗示されるんですね。

彫刻の役割の変化の仕方はすばらしい。はじめ伏線だと気付かせることなく、物語に溶け込んでおり、しかも最後に抜群の効果を発揮する。ぼくは『ワンピース』のクロコダイル編を思い出しました。戦いが始まる前、仲間だと識別するために腕に包帯のようなものをルフィたちは巻きますが、それが最後、仲間の王女との別れの際に、「仲間の絆」として機能する。こうした機能の変化が物語に動的な感動を生み出すんですね。

それと、智代がテニスの試合をしているときに明らかになる朋也の渚への気持ち。あのような短い時間に、流露した恋心と、朋也を慕う女生徒の気持ち、妹を想う姉の気持ち(ひょっとして姉の杏も朋也を?)が凝縮されて表現されており、叶精二だったら「文学的」と評するでしょうか。

個人的には春原が好きです。あのへたれっぷり(「番外編」で寝ながらペットボトルを逆さにしてがぶ飲みするだらしなさに妙なリアリティがある)、しかしときどき真面目になり、意外にスポーツ万能で(まあスポーツ推薦だけど)、猛烈なツッコミを会得していて、そして本当はすごくいい人な春原。かなり好きです。

女性キャラでは、どういうわけか智代が好き。「智代編」を観る前も、顔だけだったら一番、と思っていたんだけど、「智代編」を観た後では、まるごと好きになってしまった。で、その「智代編」だけども、観終わったあと、少し切なくて軽い放心状態。これは「智代編」だけのせいではなくて、CLANNAD第一期を全部観終わったせいでもあると思う。ぼくは、アニメーションを観て、放心状態になるほど感動したことが今までで5回くらいある。CLANNADがそれに加わった。

「智代編」は、智代が朋也の彼女という驚きの設定。しかし、何事に付け優秀な智代と、不良で学校のつまはじき者の朋也との間の関係は、周囲からは奇異な目で見られていた。あるとき、朋也は忠告される。「智代は高みへ登れる人間だ。あなたとは違う。あなたは智代の足を引っ張るだけだ。よく考えるんだ、自分がどういう人間と付き合っていて、自分がどういう人間なのかを」。ついに別れる二人。彼らは学校ですれちがっても声を交わすこともなくなった。やがて進学しない朋也の就職が決まったある日、街に雪が降る。桜並木で出会う智代と朋也。彼女は言う、私がお前の元へ行く、と。彼も言う、おれがお前の元へ行く。優等生とろくでなしが、互いに歩み寄る。これって古典的な身分や階級を越えた恋の話の亜流、なんでしょうけど、いいですねえ。

なんていうか、ベタな話なんだけど、人の感情をとても丁寧に描いていて、演出もその感情の起伏を強調し、感情移入しやすくしている。ありふれた話だから馬鹿らしくて感動できない、という意見もあるだろうけど、なぜか既視感はなく、胸の一番奥に迫るものがある。

とてもいいものを観た。今夜のAfter Storyが楽しみだ。

ジャック・フィニイ『ゲイルズバーグの春を愛す』

2008-11-20 00:43:20 | 文学
結局、すぐに読んでしまいました。
で、おもしろい。
もしこれがウェブサイトだったら、「お気に入り」に登録決定。

ところで今日、『異色作家短編集』のあとがきを書店で立ち読みしていて、その中に風間賢二の文章があったんですが、彼の若い頃の読書の思い出が、今のぼくと見事にリンクしていて、まるで自分のことのようでした。彼は、こんなことを言っていました。

自分はフランス純文学バカで、ミステリやSFなどは大衆小説だと思って見下していた。ただ、澁澤龍彦から入った怪奇小説や幻想小説の本などは、かっこいいと思っていつも小脇に抱えていた。ところが、ふとしたきっかけから純文学以外の小説も読んでみて、衝撃を受けた。エンターテインメント小説の免疫がなかった自分には、展開やオチが派手に見え、一気に夢中になってしまった。その中に、ジャック・フィニイもいた。

この文章の「フランス純文学バカ」を「ロシア純文学バカ」に変えたら、これはぼくのことです。確かに、幻想小説の本をいつも持ち歩いているわけではないし、SFを見下したりはしていませんが、でもたくさん読むわけではないのに幻想文学を見つけると欲しくなるし、SFやミステリは自分には関係のない世界だと思っていました。ところがどうだ。ジャック・フィニイの小説のこのおもしろさは。

『ゲイルズバーグの春を愛す』に収められている小説の幾つかは、SFとかファンタジーとかに分類は可能なのかもしれませんが、そういう区分を超えて、とにかく読ませるし、設定も展開も興味深い。いずれも読み応えがあり、一定のレベルに達している。「もう一人の大統領候補」などは、堅苦しい題名とは反対に、優れた児童文学だとみなせうる出来だと思います。

「独房ファンタジア」は最も印象深い一編。少し甘ったるいストーリーですが、かなり強烈なイメージを喚起します。「脱獄するのではないか」という恐らく大方の予想を裏切った、優しい結末には驚きました。「悪の魔力」は魔法の出てくる不思議な話で、少しHなドタバタコメディー。「おい、こっちをむけ!」は世に名を残したいという執念の男の物語。幽霊になってでも名前を残そうとします。「大胆不敵な気球乗り」は、気球に乗りたいという願望を実現させてしまった男の少しファンタジックな物語。「コイン・コレクション」は、人生の別の可能性の世界に迷い込んでしまった青年の戸惑いや喜びを描きます。これは量子力学の異端の思想「姉妹宇宙」に想を得ているのかもしれません。表題作「ゲイルズバーグの春を愛す」と「クルーエット夫妻の家」「時に境界なし」「愛の手紙」は、現在と過去との相克が中心テーマ。

「ゲイルズバーグ」は、過去の名残りをとどめる町ゲイルズバーグに近代化の波が押し寄せようとするとき、奇妙な事件が起きる、という話。工場建設を推進するはずの人物が、夜、あるはずのないレールの上を走る電車に轢かれそうになり、町から撤退することを決める。また古い建物の火事を消した昔の消防士たち。死んだ男からの電話。「過去が現在を撃退している」このゲイルズバーグとそれを愛する「私」。幻想的な物語です。

「クルーエット夫妻の家」は、家と共に次第に過去化してゆく夫婦を描き、明らかに過去を美化しています。「時に境界なし」は一種のSFとみなせます。ぼくはどうもSFというやつは苦手で、なんとなく設定や道具立てなどがバカらしいと感じてしまうのですが、この小説にもそう感じてしまいました。ただ、過去へ旅するという発想は、ありふれたものながらも、ジャック・フィニイ独自の考え方にも通底しており、すんなりと読むことができます。もっとも、最後のオチはもう途中から予測できてしまいましたが。「愛の手紙」はこのあいだ感想を書きました。

この中では、最初に挙げた「もう一人の大統領候補」が一番短編の魅力に溢れているように感じました。虎を催眠術にかけたという少年の物語なのですが、その真相が最後に明らかにされます。

いやあ、おもしろかった。世界にはおもしろい小説がいっぱいあるのですね。『異色作家短編集』を読んでみようかな…

DoGA・CGアニメコンテスト傑作選1 R

2008-11-19 02:44:46 | アニメーション
DVDで出ましたね。レンタルしてきました。

DoGAのCGアニメコンテストには、今年の春に中野まで行って鑑賞してきましたが、その歴代の受賞作をまとめたものがDVDで発売。中野では「外伝」(選外ではあるがおもしろいもの)が売られていて、欲しかったのですが買えなかったんですよね。このDVDは受賞作を集めたものということで、うれしい限りです。

さて、中味はというと、玉石混交ですね。というか、ほとんどは「なんだこれ」というような作品。そういえば、DoGAってこのノリだった…。大体が2000年から2008年までの受賞作で(一本だけ1992年という早い時期の作品も)、ナンセンスとさえ言える馬鹿馬鹿しい設定の作品が目に付きました。ひたすら格闘したり、麻雀親父が変身して敵と戦ったり、反重力ブーツ(要するに空飛ぶ靴)を履いた遅刻ぎりぎりの女子高生が学校まで猛スピードでダッシュしたり。

知っている作品もあって、その一つが新海誠の『彼女と彼女の猫』。2000年の受賞作ですね。たしか声も新海誠本人が当てているはずですが、これがなかなか上手い。あんなふうに優しく注意されたら、イチコロですね。ぼくが女だったら、の話。ま、猫の役だけど。

あと、『Loop pool』も知っている作品。これはメディア芸術祭で初めて観たときからとても印象に残っていて、とてもよくできていると思っていました。DoGAでも受賞していたんですね。色彩が非常に綺麗なんです。ストーリーはよくあるループ状の話なのですが。蝶を蜘蛛が食べ、蜘蛛を蛙が食べ、蛙を魚が食べ、魚を鳥が食べ…という。

アホらしい作品も多い中、一番いいと思ったのは、『走れ!』という極短いアニメ。赤ん坊が画面の手前に向かって駆けて来て、やがて少年になり、青年になり、結婚し、酔っ払い、という人生の一連の流れを全部かけっこの中で表して、最後は幽霊でゴール。短い中にユーモアも感じさせる、おもしろい趣向の作品でした。ただ、どこかで観たような気がするんですよね…気のせいか、それとも本当にどこかで観ているのか…?

もっと色々と観てみたくなりました。

酉の市 in 新宿

2008-11-18 00:45:38 | お出かけ
酉の市に行ってきました。
新宿の花園神社。

酉の市に行くのは初めてで、それがどういうお祭りなのかもよく知らないのですが、伝統的なお祭りだし、屋台も出るだろうから行ってみよう、と。

4時半頃に着いたのですが、屋台が神社の外、歩道にまでずら~っと出ていて、驚きました。予想以上。神社の中も広くて、色々なお店が出ています。普通お祭りに出てくるお店は全てある、といった感じ。あんず飴、わたあめ、焼きそば、じゃがバター、たこ焼き、チョコバナナ、甘酒、射的、ソースせんべい、いか焼き、お面、くじ引き、ラムネ、リンゴ飴、チキンハンバーグ、ヨーヨー、焼き鳥、おでん、おやき、フランクフルト、たいやき、焼きとうもろこし、お好み焼き…。他に、変り種として、鮎の塩焼き(うまそう!)、サザエ、ホタテ、見世物小屋、なんてものもありました。見世物小屋の看板には、「蛇をまるごと飲み込む」なんていうことが書かれていました。本当か嘘か…。見たかったのですが、お金を節約して自制。三の酉のときにまた行こうかな。

5時近くになって、急に人の数が増えたようです。お参りしている人も、そこらへんをぶらぶらしている人も、何かを買い求めている人も、いつのまにか増えていて、賑やかになってきました。

熊手がたくさん並べられていて、その様子はまさに宝石をばら撒いたようにきらびやか。お客さんが熊手を買うたびに、「お手を拝借して…よ~」の掛け声と共に三本締め。こういうのは見ているだけで楽しいですよね。外国人も何人か来ていましたが、日本の祭りって感じがします。ぼくはあんず飴やたこ焼きなどを食べたあと、お店の奥まったところで焼き鳥を食べましたが、こういう屋台で食べるのはいいですね。汚らしいテーブルクロス、すわり心地の悪い椅子、狭苦しいスペース、知らないおじさんとの同席、ごったがえす店、おもてから聞こえる喧騒、きらめく熊手…こういうもの全てが日本の祭りらしくて、いい気持ちになります。

ところで、酉の市と聞いて思い出すのは、今は亡き近藤喜文さん。『耳をすませば』の監督です。彼が生前『アニメージュ』に連載していた、スケッチと短文からなる『ふとふり返ると』の最後の回で、この酉の市、三の酉のことが描かれています。そこには優しそうににっこりと笑っているお父さんが、小さな女の子に熊手を買い与えている様子が描かれています。そしてその絵に付けたコメントの最後に、近藤さんはこう記しています。「”今宵会う人みな幸せ”」。これは、与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる桜月夜 今宵会う人みな美しき」という歌の下の句をもじったものです。それとも、「みな美しき」を「みな幸せ」と、間違って覚えていたのでしょうか?いずれにしろ、非常に近藤さんらしい間違え方/もじり方です。「みな幸せ」と端正な文字が付されたスケッチが載ったのは『アニメージュ』1998年2月号。近藤さんが亡くなったのは同年の1月です。酉の市と聞くと、ぼくはどうしても近藤さんのこと、このスケッチのこと、そしてこの「みな幸せ」という言葉を思い出してしまいます。

心地良い宵でした。

ジャック・フィニイ「愛の手紙」

2008-11-17 00:55:52 | 文学
ジャック・フィニイの『ゲイルズバーグの春を愛す』に収められている短編「愛の手紙」を読みました。原題は The Love Letter 。いま訳したら、たぶんそのまま「ラブレター」になると思いますが、やや翻訳が古いので、こうなったのでしょう。それとも訳者の趣味?

それはいいとして、最近読んだ漫画『きみにしか聞こえない』で、ぼくは「愛の手紙」という小説の存在を知りました。ついでに言うとジャック・フィニイという作家の存在も。この人はミステリーやファンタジー系の作家に分類されることが多いらしく、ぼくはそういう分野には疎いので、知らなかったのだと思います。日本で有名かどうかもぼくには分かりませんが、邦訳はかなり出ているようです。

さて、『きみにしか聞こえない』のあとがきで、原作者の乙一が、この「愛の手紙」のような作品を書きたくて、この(漫画の原作となった)小説を書いてみたのだ、というようなことを述べています。漫画化されるに当たって多少の変更はあったろうと思いますが、ぼくはこの漫画がとても気に入ってしまい、このような話の元になった小説とはどんなものだろう、と興味を持ったのです。

『きみにしか聞こえない』は、時間差がある中で電話をし合う少女と少年が主人公。彼らは空間はもちろん時間にも隔てられています。未来から過去へ、過去から未来へ電話をする二人。

「愛の手紙」も同様に、時間に隔てられた青年と少女の物語です。
80年も前の古い机を購入した青年は、そこに隠し引き出しがあることに気付きます。そしてその中には、1882年5月14日の日付のある手紙があった…。それは少女の書いたラブレター(愛の手紙)で、誰に向けるというでもなく、架空の誰かに、理想の男性に対して書かれた手紙でした。そして青年は奇妙な気持ちでその手紙に返事を出します。一週間後、机の別の隠し引き出しを開けてみると、そこにはもたもや手紙が…

解説によれば、ジャック・フィニイは過去志向の作家だったそうで、現実への嫌悪、過去の賛美は「愛の手紙」にもはっきりと見出されます。

かなり後ろ向きの作家と言えるかもしれません。この青年は、これから健全な恋ができるのか、手紙の少女は、その時代をどのようにして耐え忍んだのか。決して出会うことのできない相手を想い続けて生きていくことは、苦しいことでしょう。最後に二人の出会いが用意されていれば(80も歳が離れていたとしても)、まだ救いがあるのですが、この小説にはそうした希望がないように感じられます。

これは、いつまでも過去を引きずる人に対して、それでも未来を向いて生きろと呼びかけるのか、それとも、いや過去を大事に生きていけと語りかけるのか、という相反する思いと対応を想起させます。普通は、前者が聡明な立場だとされるわけですが、後者のような、過去ばかり見ている立場があってもよいのではないか、と言うジャック・フィニイ。この判断は容易ではないように思われます。しかし、未来を信じないのならば、そこには希望はないでしょう。とはいえ、過去の光芒を夢見つつ生きることだって肯定されていいではないか?

さて、こういう時間を超える話で思い出すのは、『トムは真夜中の庭で』です。この小説は、「愛の手紙」と比べると、より完成度が高く、また未来志向の作品であるようです。ラストは感動的ですしね。「愛の手紙」は、閉じた、ある意味で極めて「芸術的」な作品だと言えるでしょう。「芸術的」と言うのは、実用的ではない、実生活に害を及ぼしさえする、純粋に文学的な、という意味です。けれども、そういう小説も必要でしょう。実生活への指針を与えるような作品よりも、こういう、世俗的なこととは無関係な小説の方が、しばしば印象に残ります。こうした作品が生まれる限り、文学はまだ存在理由があると言えます。

今日のごはん

2008-11-16 00:55:17 | Weblog
寝坊したので朝はなし。

昼はから揚げとご飯。から揚げは近所のスーパーで、ご飯は昨日の残り。

夜はミートソースのスパゲッティ。
ところで、もう近年では「スパゲッティ」という言葉は死語で、「パスタ」という言葉が定着したと言われますが、うちではいまだに「スパゲッティ」と言います。「パスタ」っていうとなんか気取ってる気がして…というのは時代遅れ?

で、このミートソースを食べるとき、チーズをふりかけましたが、直後に賞味期限切れが判明。期限切れと言ってもただの期限切れではなく、1年半も切れてるじゃないかーーー!家族が全員食べてしまった後。しかもぼくはいつもにも増してたっぷりかけてしまったのでした。大丈夫か?

今日は夕方から雨が降りましたが、その雨の中、タルトを親が買ってきました。最近(ぼくが)手作りのケーキ屋を見つけて、それからちょくちょく買うようになったのです。今日はブルーベリーと杏のタルト。他に、木苺のタルト、さくらんぼのタルト、洋ナシのタルト、バナナとパイナップルのタルトなど、いくつも種類があります。最後に挙げたものの他は、全て賞味しました。中でも、今日買ったブルーベリーと杏のタルトが一番美味しかったです。ほどよい酸味と甘味の絶妙なバランス。うむ、うまい。

最初に買ったのは木苺(とブルーベリー?)のタルトでしたが、これを食べてからものの5分としないうちに、急激にお腹が痛くなってしまいました。これを食べた他の人たちは何ともなかったので、食中りとかではなく、ぼくと木苺との相性が悪かったのか…。美味しかったのですが、以来、怖くて買えない…

ちなみに、昨日はきりたんぽ鍋でした。味が濃くてなかなか美味しかったです。ぼくは秋田へ旅行したときに食べたことがあるのですが、味はそのときよりよかったような…。でも、その地域の物は、やっぱり現地で食べるのが一番ですよね。旅行で楽しみなのは食です。
明日も鍋の予定。
寒くなると、やっぱり鍋。これに限る。

芸能人歌がうまい人王座決定戦

2008-11-15 00:48:07 | テレビ
芸能人ってのは歌が上手い人が多いですね。
特に今回優勝したつるのはすごい。
生で聞いているわけでもないのに、感動してしまった。
心を震わすような、叫び。
決勝戦は僅差になったけど、つるのは圧倒的だったと思う。
音を外さずに的確に当ててきて、しかもよく伸びる。
高音なのに、かすれない。
独特なハスキーな部分もあるんだけど、かすれているとは言えなくて、
力強い、ピンと張った声。
本当に、どこかのプロのバンドのボーカルみたいだった。
前回よりも、上達しているような気がする。
羞恥心で歌う機会も増えて、
ひょっとしたらプロの指導を受けているのかもしれない。
惚れ惚れとするような歌声だった。

あと、スピードワゴンの井戸田は、
どういうわけかこの番組ではあまり評価されてないように見えるけど、
実はすごく上手いと思う。

しかし、やはりつるのだ。
本当に、他の歌手の曲をカバーしたアルバムを出せばいいと思う。
人気もあるし、売れるんじゃないか。
何より、彼の歌声で数々の名曲を聞きたいと思う。

初めてロシア文学を読む君へ(4)

2008-11-13 01:28:29 | 文学
今日はなるべく短く書くつもりです。

さて、ドストエフスキー、プーシキン、トルストイ、チェーホフ、ゴーゴリを一通り読み終えた後、何を読むべきかというと、レールモントフなどはいかがでしょう。プーシキンの衣鉢を継いでいる、とでも言うべき反逆詩人です。作風は違いますけどね。手っ取り早く、『レールモントフ選集』Ⅰ・Ⅱを読んでしまうのがいいと思います。これが手に入らなければ、岩波文庫の『現代の英雄』を読みます。そして叙事詩『ムツイリ/悪魔』。これくらいでいいでしょう。ちなみに、レールモントフは27歳の若さにして決闘で命を落としました。

次にコロレンコ。日本では比較的マイナーな作家ですが、なぜか最近コロレンコの翻訳が二冊立て続けに出版。『コロレンコ短編集』と『森はざわめく/不思議の不思議』です。後者は群像社から。これらから読んでもいいですが、買えば高いし、まだ図書館には入っていないと思うので、やはりお薦めは岩波文庫。『悪い仲間/マカールの夢』と『盲音楽師』。コロレンコの小説でいちばん有名なのは「マカールの夢」だと思うので、これだけは読んでおくといいでしょう。その他の作品は、はっきり言って読んでいてもあまり役には立ちません。ただ、『盲音楽師』はとてもよくできた作品だと個人的には評価しています。

それからガルシン。チェーホフ、コロレンコ、ガルシンで一つの時代=短編の時代を形成している、と見るのがオーソドックスなロシア文学史観。つまり、ガルシンも短編作家。『ガルシン全集』というものが存在するのですが、この本は図書館にない可能性が高いし、また全集を読む意味も余りないような気がします。もちろん、好きになったら読めばいいのですが。ただ出発点は、岩波文庫の『あかい花』が基本。また新潮文庫から『ガルシン傑作集』という短編集が出ています。一部、岩波文庫の収録作品とかぶっていますが。

さあ、これで19世紀ロシア文学の世界も豊かになってきました。次回は、更に19世紀の作品を読んで、より理解を深めましょう。次はレスコーフとゴンチャロフかな。あ、その前に、ツルゲーネフを忘れていた…

『ブリュレ』

2008-11-12 02:25:51 | 映画
これは、現在公開中の映画『ブリュレ』の感想ではありません。
『ブリュレ』の監督が急逝したことについての、若干の随想です。

『ブリュレ』の監督は、32歳だったそうです。新海誠がいま35歳くらいですから、同世代と言っていい。どうして新海誠の名前を出すのかというと、彼はこの映画に寄せて文章を書いているからです。以下、新海誠のホームページから転載。

 「双子のパラドックス」という思考実験がある。双子の片方がロケットに乗ってずっと遠くまで行って、再び地球に戻ってくる。すると相対性理論により地球に残った片方のほうがずっと歳をとっていて云々、というやつである。僕がこの美しい映画を観て思い出したのは、この言葉だった。
 地上に生きるしかない僕たちの時間も、ある意味では人によって流れ方が違う。僕たちは愛する人とずっと同じ時間を生きたいと願うが、それを叶えることは実はとてもとても難しい。だから誰しもそれぞれの生き方を学ばなければならない。双子の旅はそういう焦燥に貫かれていて、だからその姿は、とても深刻に僕たちの胸をうつ。
 そしてその若い焦燥を、おそらくは主演の中村姉妹を含めた制作者たちも共有していたのではないか。世界の何処に立つべきかをまだ迷っているかのような双子の姿を見ながら、僕はそう想像する。きっとその時期、その人たちにしか撮り得なかった一篇なのだ。奇跡のようなフィルムだ、と言うほかない。(新海誠・アニメーション監督)

新海誠がなぜこのような文章を書いているかというと、この映画に関わった人たちの何人かが彼の友人だからだそうです。同世代の監督とは、どうだったのでしょうか。
『ブリュレ』は、この人の初めて監督した映画だったそうです。しかも、長い年月をかけてようやく日の目を見たとか。しかし、その初監督作品が公開中に、死んでしまった。これから、というときに。

新海誠はまだ20代のときに注目され、デビューしました。それからコンスタントに作品を発表し続けています。大きな賞も受賞しました。一方、『ブリュレ』の監督は、32歳でようやく映画公開に漕ぎ付け、これから、というときに亡くなってしまいました。32歳のデビューというのは、映画界では早いのか遅いのかぼくには分かりませんが、無念だったでしょうか。それとも、幸福だったでしょうか?ぼくはときどき思うのですが、本当に幸福な死というのは、まだ叶わぬ夢の実現に向けて歩いてゆこうとするときではないでしょうか。夢が叶った後に満足して死ぬのではなく、まさに夢見ているときに死ぬのが、人間の幸福なのではないか。ぼくはゲーテの『ファウスト』のラストを思い浮かべています。ファウストは人類の未来のために土地を干拓し、絶えず努力している民衆の姿を見て、「時よ止まれ」と言ってしまうのですが、これから、という瞬間こそが最高の一瞬になりうる。そして『ブリュレ』の監督は、その「これから」という時に亡くなったのです。叶えたいことがあったでしょう。もっと映画を制作したかったでしょう。しかしそれを「無念」とみなすのではなく、死ぬときまで見続けた「夢」とみなすのです。夢をついに見つけられない人も多いこの世の中で、夢を抱き夢に抱かれて眠ることは、幸せなのではないか。夢を見続けた人は、夢に見られて死んでゆくのかもしれません。