Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

本を購入

2011-07-31 12:57:07 | 文学
きのう、モスクワの書店に行ってきました。ガイドブックに載っているようなお店ではなく、ちょっと隠れ家的なお店。そこで丹念に物色して回ったのですが、これといったものが見当たらず、買わずに帰ろうかと思っていたところで、オレイニコフの詩集を発見。薄っぺらい冊子が2冊に単行本が1冊の計3冊、約1000円ほどで購入しました。収穫があってよかった。本当は何かの研究書や論文集が欲しかったのですが、まあいいや。

今回はこれしか買いませんでしたが、この書店はかなりマニアックな品揃えで、文学や芸術関連に関心のある人の多くを満足させられるのではないでしょうか。

ところで、ハルムスを研究対象にした卒業論文がネットにアップされていたので、早速読んでみました。ぼくも少しだけ卒論でハルムスをやりましたが、これオンリーというのはけっこう珍しい気がします。どうでしょう。

従来の先行研究を踏襲した論文で、日本の「ハルムス学」の域からは出ていないように見受けられましたが、注は丁寧に付けられており、体裁も整っているので、しっかり勉強しているんだな、と思いました。児童文学との関連を取り上げたのは興味深く、そこをもっと突っ込んでもよかったのではないかな、と感じました。ただ、有名な「男が家を出ました」という詩を、政治的な解釈には留まらない、ハルムスの詩学の集大成的なものと見る視点は大変おもしろかったです。概して、児童向けの作品と大人向けの作品とはしばしば切り離して論じられる傾向がありますが、前者はむしろその作家の深奥の作家性・文学性のあからさまな発露と見ることが可能であり、そういう意味でも、児童向けの詩にハルムスのビブリオグラフィーの中で重要な位置を与えたことは、意義のあることだったように思います。

また、ハルムスの活動時期を区分していたのは明確であり、議論を進める上でも有効になりうるので、その姿勢は評価されるべきでしょう。もっとも、この論文では完全には有効に機能し得ていなかったきらいがありますが・・・。

と、偉そうにつらつら書いてきてしまいましたが、いったいぼくにこんなことを書く資格があるのか?人のことより自分のことをきちんとしなければならないのに。何はともあれ、この学生が大学院に進んだのかどうか分かりませんが、もしそうであれば、2,3年後が楽しみですね。

風邪

2011-07-30 16:02:21 | Weblog
事の次第はこうだ。

その日はやはりとても暑い日で、ぼくは汗をダラダラ垂らしながら学校まで出掛けて行きました。で、休み時間に脂取り紙をリュックから引っ張り出して、てかてか光る額から脂をふき取ろうと思ったのです。ところがこの脂取り紙はとんだ代物でして、実に2年間ほどぼくの鞄に眠っていたものなのでした。それで、パッケージを開いたときに、ぱっと白い粉が飛んだのです。はっとしたぼくはそれを吸い込んでしまい・・・それから急に喉が痛くなりだしたという訳なのです。あの粉はなにか体に有害な物質なのだろうか・・・

それが一昨日のことで、昨日の午後にはしかし喉の状態もだいぶよくなって、今日にはもう痛みはなくなりました。ただ喉のいがらっぽさは長引いていて、咳と鼻水も少々。風邪をひいてしまったようです。それにしてもあの粉が原因で?菌でも潜んでいたんだろうか。




いま文学の授業ではチェーホフを読んでいます。有名な「学生」という小説。先生の説明はよく分からないので残念ですが、この小説はなかなかチェーホフらしくておもしろいですね。最初に読んだのはたぶんぼくが大学1年生のときですから、本当に久々の再読です。ロシア語では初読です。冬、焚火のそばで学生がキリストの受難に思いを馳せる、悠久な時の流れを感じさせる小説。世紀を跨いでぼくらは古代人の感覚を受け継いでおり、両者は一本の線で繋がれている。他方が振動すれば、もう片方も共振する。そしてこの先の人生を思う。そういう物語です。未来人はぼくの感情に共振することがあるのだろうか・・・

ロシアでの授業

2011-07-26 22:22:22 | お仕事・勉強など
ようやくロシアでのロシア語の授業が始まりました。
今回は、ロシア語の勉強をするためにロシアへ派遣されたのでした。
で、昨日クラス分けのテストをして、今日から授業が開始されたということです。

そのテストですが、筆記と面接の二つありました。筆記の方はまあまあできたかな、と思っていたら、面接の際に、もう採点が終わったのでしょう、「あなたは大変よくできているわ、すごいわ!」と言われました。ところが。いざ面接が始まってみると、ぼくは頓珍漢な受け答えをしてしまい、相手の質問もよく聞き取れない始末で、ちょっと怪訝な顔をされていたような気が・・・

で、今日クラスに行ってみたら、皆さんぼくよりも会話ができるみたいで、しまったな、と。ペーパーで頑張りすぎてしまったか。ただ、ペラペラというような人はいなかったので、そこは配慮されたみたいです。文法は一通り習っているけど話すのが苦手、という人達が集まるクラスなのかもしれません。まあ皆さんぼくよりもしっかり話せますが。だいたいロシア語歴3年前後の人が集まるところみたいです。ぼくはその倍やってますが・・・まあ、ほとんどさぼっていたので、たぶん凝縮すれば1年くらいです・・・と言って自分の才能の不足を慰めておく。

それにしても、モスクワは暑い。連日35度くらいある感じです。正確な気温は知りませんが、街中の電光掲示板には34度と表示されていました。おかげで水を大量に飲んでいます。こっちでは水は買わないといけないのですが、大学の寮はときどき閉まっていたり売り切れていたりするので、困ります。いや、これはけっこう深刻な問題で、熱中症ぎりぎりの感じでいつも部屋にいます。日曜日は本当に危なかったです。

とりあえず健康に気をつけることを第一に勉強も頑張りたいですが、勉強はけっこうつらい・・・疲れる。それにできないのがつらいし恥ずかしいし。でもやるしかないのかあ。ああ、なんでこんなことになってしまったんだろう。さて、明日はまた新しい授業です。明日は文学関係の授業が取れるようなので、それに出席しようかな。

モスクワに到着

2011-07-23 23:52:59 | お出かけ
とうとうモスクワに到着しました。
モスクワ、かなり暑いです。昨日、今日、と乗り物に乗ったり外を歩き回ったりでかなり疲れました。月曜からは学校が始まるので緊張しています。今朝は早起きして格変化の復習をしました。・・・単に寝られなかっただけなんですが。

色々と書きたいことがあるようなないような気もしますけれども、今日は疲れてへばっているのでこのくらいで。とにかく無事に到着したということです。さて。休日はとりあえず明日で終わり。月曜からが不安だ・・・

渡航前に

2011-07-21 11:25:27 | Weblog
というわけで、明日からロシアへ行ってきます。
もし色々な条件が整って可能であれば、向こうでもブログは更新するつもりです。が、もし更新できなかった場合に備えて、とりあえずTBとコメントを投稿できないように設定しておこうかな、と思ってます(コメントが来てしまっても返事ができないですからね)。あしからず。できればロシアからブログを更新したいなあ、と願っていますが、どうなることやら。

8月22日に帰国する予定です。それまで皆さまお元気で。ぼくも体調には気をつけたいものだ。

五人集

2011-07-21 01:37:18 | 文学
久々に1時を回っても起きている。早く寝なきゃ!

さて、『ラテンアメリカ五人集』がついに刊行されたみたいです。が、「シリーズ全四冊完結」とかいう驚愕の文句も新聞には踊っていたような・・・え、このシリーズの復刊はたったの4冊で終了ですか?

しかし、最後の一冊が『ラテンアメリカ五人集』だというのは大変ありがたい。ぼくはこのアンソロジーが読みたくてたまらなかったのでした。それにしてもこのタイミングで出版かあ。22日からロシアに行ってしまうんだよなあ。おまけに極度の金欠で、いま手持ちのお金がほとんどない状態。

帰国したら買わねば。

恋に気付くアニメーション

2011-07-20 00:15:27 | アニメーション
新海誠の作品を、ぼくはこれまで「届かないメッセージ」や「喪失感」「何物かになる以前の関係性」などといった観点から把握してきましたが、先日の自分の文章から、「気付くこと」というモチーフで語ることも可能なのだな、と思うようになりました。

『ほしのこえ』や『雲のむこう』であれば、「それが恋であることに気が付くこと」が物語の核になっていますし、今作の『星追い』であれば「寂しかったことに気が付くこと」が重要な結節点になっています。

「気付く」というのは非常に些細な心の動きのような気もしますが、しかしながら実は劇的な転換でもあるのです。これまでのもやもやとした関係性が、その気付きによって鮮やかな輪郭を取り、確かな「あるもの」として立ち現われてくる。それによって当事者たちの見ている景色も一変し、彼らは行動に駆り立てられてゆく。

例えば『ほしのこえ』では、ノボルとミカコは最初恋人同士としては画面に登場しません。ミカコはノボルにとってあくまでも「割と仲のいいクラスメイト」に過ぎないのであって、恋人ではありません。たとえその関係性が他者から見て恋人関係に他ならないものであったとしても、当事者たちの間では、まだそのような関係は確立されていないのです。

ところが、二人が離れ離れになってしまうことによって、お互いがお互いをどんなに必要としていたか、今も必要としているのか、そういうことに気が付いてしまうわけです。つまり、どれだけ君のことを好きだったか、ということに。その想いがラストに向けて交互に語られてゆくのですが、いわば恋心が累乗されてゆく映画の仕掛けは見事であり、この恋のクレシェンドに見る者は心音を高鳴らせてしまう、という寸法です。・・・と書くとなんだか味気ないのですが、こういう心の些細な動きに敏感な人間は、まるで踊り子がサンバのリズムに体が自然に乗ってしまうように、恋のクレシェンドに歩調を合わせて、自らも二人の感情を追体験してしまうのです。

『雲のむこう』もやはりそのような「気付き」が重要なモチーフになっているのですが、しかしこの作品ではクライマックスにおいて、その「気付き」が「忘却」に一転してしまいます。ここが何とも切なくて、「忘れちゃった」というサユリの台詞にぼくは滂沱の涙を流し(心の中で)、打ち震えます。どんなにあなたのことを求めていて、どんなにあなたのことが好きだったか、それを伝えたい、それさえ伝えられれば・・・どうか、お願い、この想い、届いて・・・!!!ああ、サユリ~~~~!!!!!

人が何かに気が付く、ということ。ただそれだけの心の動き。しかしそれが極めて動的で劇的な大転換になりうる。新海誠はそのことを示唆してします。

中学生のとき、ぼくは「好き」という気持ちがよく分からなかった。だから、相手には「好き」とは言えなかった。でも、離れ離れになってようやく、それが「好き」だということに気が付きました。まだ幼かったんだね、で普通は済ませられてしまう心の機微。でも、この転換を新海監督は最大限にまで拡大して、且つ克明に描破してくれた。ぼくにはそれがうれしい。

思えばぼくは『ほしのこえ』によって青春を蘇らせ、そして終わらせたのかもしれないな。バージョンアップするために。

コクリコ

2011-07-17 00:13:46 | アニメーション
悪くない映画です。ぼくはまるで期待せずに見に行ったせいもあるかもしれませんが、想像よりもいい。以下、少々のネタバレも含めつつ、感想。

「ジブリらしさ」というものについて考えさせられました。ぼくはこの「ジブリらしさ」なる概念にはやや抵抗があるのですが、それでも、そういうものの存在に想到させられる。

ジブリらしさ。
このブログを度々読んで下さる方々は、ぼくの毎度の長文(最近は短いことが多いですが)に別に嫌気がさしているわけではないと思いますので、たぶんある水準以上の読解力や論理的思考力が備わっているのだろうと推察します。ですから、この「ジブリらしさ」を語る際に必要な、やや込み入った話も許して下さるものと思います。

まず、ジブリらしさとは一体どのようなものなのか、という点。そもそもジブリ作品に共通する分母など存在しているのでしょうか。高畑勲や宮崎駿を中心に様々な監督を輩出しているスタジオジブリという制作会社のスタッフの中には、当然スタジオを去る人もいるわけですし、逆に新たに加わる新人もいるわけです。作品ごとに監督が変わり、作画監督が変わり、美術監督が変わります。それでも、「ある一定の絵柄」を維持していることは確かですので、その絵を指して「ジブリらしい」と言うことはできるだろうとは思います。またやはり一定の水準を超えた背景を指して同様に言えるのだろうと思います。例えば、新海誠の新作のキャラクターデザインが「ジブリっぽい」というような言い回しは可能なはずです。あるいは非常に描き込まれた抒情豊かな背景を「ジブリのような風景」と言い表すことは、あながち間違いではないでしょう。ところが、世間一般で言われる「ジブリらしさ」というのは、少なくともその大部分は、恐らくそういった形式的なものではなく、映画の内容を指しています。曰く、エコロジカルで、老若男女が楽しめる、云々。

よく知られているように、ジブリ作品はしばしば作品ごとに観客のターゲットを絞っています。それにもかかわらず、どういうわけかジブリ作品は老若男女が安心して見られる内容でなくてはならない、と一部で信じられています。いつの間にか「ジブリらしさ」というのが安心ブランドと同義になっていて、作品が公開されるたびに、今作はジブリらしさを裏切っているとか、継承しているとか、ぼくには不毛に感じられるような議論がなされてきました。しかしながら、例えば『もののけ姫』は子どもから大人まで誰もが楽しんで見られて且つエコロジカルな映画ですよ、と宣伝されたことは決してなかったですし(むしろそういったイメージを裏切る努力がなされていたことを、当時を知る人は思い出すべきです)、またそうするべきでもありません。

いつ頃からそのようなイメージが固定するようになったのかは見極められませんが(少なくとも『もののけ』のときには既にあった)、そうした世間の期待をジブリ作品に勝手に押しつけておいて、その上で、これは「らしい」とか「らしくない」とかを論うのは、やはりお門違いだと思います。既に固着してしまっている世間のイメージに応えなければならない、とジブリ作品の監督たちを縛り付けるのは、あまりにも横暴に過ぎます。大衆迎合を大衆が求めるのかどうか分かりませんが、ことジブリに関して言えば、世間はジブリが大衆に迎合することを願っているようにしか見えない。ラピュタやトトロのような、誰が見ても楽しめるような、胸躍る作品、心温まる作品を作ってくれ、そうでなければジブリ作品ではない、と。

ぼくはそのような意見は不毛だと感じていたし、宮崎駿の後期作品における果敢な挑戦(映画を壊す)を非常に好ましく見ていました。過去の遺産の傍で立ち止まることをせず、絶えず進化を続けようとしている。ときに実験的な作品を作ってゆく姿勢を、ぼくは当然だと考えていました。なぜ世間はこの態度を理解しないのだろう、と。

ところが、『アリエッティ』にぼくはかなり不快な衝撃を覚えました。よく劣化ジブリとかいう類の表現が使われましたし、ぼくもそれに類することを書いたかもしれませんが、この作品は、世間の思ういわゆる「ジブリらしさ」というものをただ寄せ集めてパッチワークしただけの代物に過ぎないように感じられたのです。ジブリらしさ。つまり、世間がジブリに求める期待、イメージ、レッテル、そういったものを制作側が巧みに取り入れて、観客におもねった(無論そのような意識はなかったでしょうが)作品。なるほど映画としては目立った瑕疵がない。しかし美点もない。冒険精神がない。果敢なチャレンジがない。小じんまりとまとまっているだけ。ああ、世間の期待に応えたんだな、そう思うしかありませんでした。

さて、前置きがかなり長くなってしまいましたが、今回の『コクリコ坂から』には、「ジブリらしさ」がありました。ただ、ぼくの感じた「らしさ」というのは、世間に貼りつけられたレッテルではなく、キャラクターの立ち姿であったり、過去作品からの作画的引用であったり、そういった技術的・形式的な側面です。それがよい方向に作用しているように感じました。ジブリのキャラクターたちの持つある種の「品の善さ」あるいは「凛々しさ」。それが感じられて、映画全体がとても心地よいものに仕上がっていたように思います。出生の秘密もの、という極めてメロドラマチックで陳腐、滑稽でさえあるモチーフを上手く扱い切れていなかったことはこの映画の最大の欠点であり、ぼくの不満でもありますが、映画全体の醸し出す雰囲気は、「ジブリの絵柄」という「品」の与るところ大であり、いわば爽やかな熱気とでも言うべきものに包まれていました。

熱気。主人公たちの通う高校の部室棟の取り壊し反対運動を軸に物語は進められてゆくのですが、その様子が、まるで学園祭前夜のような熱気に彩られており、非常に楽しげでなのです。小ネタも満載で、随所でにやりとさせられる。

過去作品を思わせるシーンや設定が多いにもかかわらず、それが鼻につかなかったのは、たぶん何度も言うように、その品性が映画の雰囲気とよくマッチしたからなのだと思います。

恋愛要素について。企画書等を読む限り、出生の秘密というものを主人公たちの両親の生き方に絡めて、重層的に恋愛を描く方向で映画作りは進められたはずなのですが、実際にはその重層性が感じられませんでした。つまり、出生の秘密という陳腐な要素だけが目立ち、それを契機として新たな物語が動き出す、というようには機能していなかったように思いました。したがって、薄っぺらなものになっている。ヒロインたちの恋愛の描写はスピーディで、宮崎駿の演出を思わせさえしたのですが(彼は恋愛を非常に大胆に描く)、一方ではテンポがよい、他方では大雑把過ぎる、という感想を持たれるでしょう。

全体的に見て、それほど悪くないように思います。ジブリ特有のキャラクターデザインの凛々しさがよく作品内容にマッチして、ささやかな情感のある物語になっていました。

39度!?

2011-07-16 00:35:07 | Weblog
前にも書いたように思いますが、今月からぼくはロシアへ行きます。
7月22日出発です。
で、1ヶ月後に帰国する予定です。

さて、モスクワの気温はどんな感じかな、とネットで調べてみたら、驚くべきことに、7月21日の予想最高気温が、39度であった。え、それホント?どういうことなんだ・・・と思って、さきほど改めて色々なHPで確認してみたら、なぜかHP毎に予想が全然違う。ものによっては、30度を切っている予報もある。一体どれを信じればいいんだろうか・・・。今は25度~30度くらいみたいなんですが、来週から急激に上がるという予報が出ているんですよね、HPによっては。う~む、持っていく服に迷うなあ。なんで天気予報が10度も違うんだろう。

もしかして、昨年は異常気象だか何だかでものすごく暑かったので、その昨年のデータを基にしているんだろうか。天気予報というのはたぶん統計と確率なので、元にするデータが新しければ新しいほど予想気温は高くなるし、古ければ古いほど低くなる。そういうことなのかなあ。うう・・・でも結局来週の気温が分からないなあ。

そういえば、すったもんだがありましたが、無事にロシアへ行けることになりそうです。色々と心配事は絶えませんが、まあ何とかなってくれるといいです。そういえば、出発までの間なにかロシアネタを書くことにしようかなとふと思いましたが、たいしてネタもないのでやめます。

トランクに荷物や心配事や夢を詰め込んで、ぼくは旅立つことにします。29度か39度かも分からない世界へ。

何を書くべきか

2011-07-15 00:42:34 | Weblog
何を書こうかと、ぼくはいまパソコンの前で考えている。
蚊がパソコン画面の前を時折り横切るのを見やっては、かつてのぼくは文字通り「蚊も殺せない男」だったことを思い返す。いまではほら(と言ってぼくは蚊を叩く真似をする)、思い切ってやってのけられるんだよ。まだ躊躇いは残ってるんだけどね、なかなかそれだけは消えてくれないのさ、風呂垢みたいにね。

さて、と言ってぼくはしばし放心する。何も考えない。ただぼんやりしている。すると右腕が痒くなってくる。さっきの蚊に血を吸われたんだろうか。やれやれ。ぼくは比較的蚊に食われやすい方なんだ。そういう人は実際いるらしい。ぼくみたいな人は。

で、何を書こうか、とまた悩む。遊覧船に乗ったことを書こうか、神保町を歩いたことを書こうか、フレデリック・バックの絵を見たことを書こうか、それとも、自分の気懸りを書こうか?

また、ぼくは迷っている。「話のネタ」はある。でも、それらを全部書くわけじゃあない。よい思い出は文字の形で残しておきたい気もするけれども――まあ、ぼくにも色々事情があるんだ。

背中が痒いから掻く。すぐによくなる。そしてまたしても書くことがなくて頭を悩ませる。頭をちょっと掻く。眉間を掻く。そろそろクーラーを止めようかな。いや、これを書き終えてからでいいや。ああ、ぼくは書いているんだな。いつの間にか、585文字も書いているんだな。

とりあえず、気懸りはきれいさっぱり消えてくれればいい。いつも何かしらはあるんだけどね。さあ、寝ようか。明日も早いぞ。

気付くだけの物語

2011-07-12 17:59:17 | アニメーション
このところ外出先で人と会ったりして楽しい時間を過ごすことが多かったです。たまに会うひと、久々に会う人、いつも会う人、それぞれですが、いずれにしろぼくは大抵の場合されるがままになっているというか、御膳立てされたメニューに乗るだけというか、自分からここへ行ってこうしようぜ!とは発案しないで、優柔不断で無計画で人様におんぶにだっこ状態です。たまには、「ここで待っていたまえ。***行きのチケットを買ってくるから。・・・ほら、ついでにコーヒーも買ってきたよ。飲みなよ」とかなんとか、言ってみたいものだ。まあでも疲れるからいいかな?

さて。物語の核心というのは、主人公が何かに「気付くだけ」でもいいのではないか、というのが今回のテーマ。例えば『星追い』では、ヒロインが「私は寂しかったんだ」と気付くことが大事なポイントとなるわけですが、そういうのを許容できない人が多いみたいなんですよね。あんな冒険をして、それが動機だったの?いやいや、ドラマトゥルギーとして、もっと重要な動機付けが必要なんじゃないのかい?などなど。

『千と千尋』という映画も、ただ「気付くだけ」の物語だったと言えます。これはいまだにヒロインの成長譚だと考えている人がかなりいて、それを信じて疑わない人さえいるわけですが、まず言っておくと、少なくとも宮崎駿は成長譚というものを破壊するつもりであの映画を作ったことは事実なわけです。ぼくは別に、監督がこうと言うから作品もこう感じなければいけないのだ、と主張したいわけでは毛頭なくて、監督がどう言おうが、『千と千尋』を成長譚だと感じてしまったのなら、それはそれで構わないのだと思います。その人にはそう感じるだけの必然性があったのでしょう。たとえそれが制作者の思惑に反していたとしても、上映されてしまった作品は既に見た人のものですから、感じ方は十人十色でよいのだと思います。

しかしながら、あれは成長譚である、それ以外の物語ではありえない、と排他的に信じてしまうのはいかがなものか。少なくとも監督が成長譚を破壊したいと言って『千と千尋』を作っているのだから、成長譚ではない、という可能性も考えてみたい。端的に言えば、あれは「生きる力の覚醒」の物語であり、ぼくはそれを水のモチーフと絡めて理解していますが、千尋が生きる力を「思い出す」物語だと言い換えられます。記憶と同時に人間の奥深くに眠る生きる力を思い出す物語です。あれだけの冒険をして、ただ思い出しただけなの、なんのこっちゃ、と感じてしまう人もいるみたいですが、でも『千と千尋』というのは、そういう、人によっては非常に些細な感覚と感じられるものをドラマチックに描いた作品ですよ。

千尋はただ「思い出した」だけです。それはたぶん、『星追い』のアスナがただ「気付いた」だけの物語と呼応しています。それでは物語が成り立たない、動機あるいは結論が弱すぎる、と感じる向きはあろうかと思われますが、でも些細な一歩をドラマチックに描いてもいいと思うんですよね。

例えばぼくなんかは、昔から成長していません。少なくとも成長は感じていません。少年漫画のキャラクターたちのように、修行して強くなって今まで倒せなかった敵を倒すことができるようにはなかなかならないし、かめはめ波を打てるようにもならないわけです。ただ同じところをぐるぐる回っているだけで、成長を実感できないのです。ところが、漫画やアニメ、あるいは小説では、成長することが是とされる。この成長神話は、ところが非常に堅苦しいものです。成長しなければいけない、という強迫観念に縛られてしまう。でも人間ってそんなに絶えず成長を続ける生き物なのでしょうか。あるいは人類は?文明は?キャラクターが成長するのではなくて、つまり何かができるようになった、何らかの問題を独力で解決することができた、という達成を得るのではなくて、それよりもっと手前の段階を真摯に描こうとする映画があっていいのではないかと思いますし、ぼくはむしろその方に共感します。

人間は誰もが何かを達成できるわけではないし、必ず成長できるわけでもありません。それにもかかわらず、成長は素晴らしい、獲得は素晴らしい、という文言が巷には溢れています。しかし果たしてそうなのだろうか。千尋は成長したのではない。彼女はただ自分自身の中にある生命力を思い出しただけです。アスナは、自分の真実の気持に気が付いただけです。それは成長とは言えないけれども、前へ進むための第一歩にはなるのだろうと思います。いや、前へ進む可能性なのだと思います。確かにささやかな可能性ではありますが、いわゆる長足の進歩のようなものではなくて、単に前方に展望が開けただけ、という可能性の開示に過ぎなくても、それは人生にとって非常に大事なことだと思います。

アスナは成長した、と考える人もいるだろうと思います。でも彼女は気付いただけです。そしてそれでいい。少なくとも自分の気持ちに気が付かないまま成長してしまうよりも、遙かにいい。ああ、思えば、新海誠の作品というのは、「気付く」物語だったんだな。自分の気持ちに気が付いてゆく過程を克明に描いてくれる。そしてそれはとてもドラマチックなことなんですよね。

このごろ

2011-07-10 23:34:01 | Weblog
このごろは人と会ったり、やるべきことをやったり、けっこう忙しい日々を送っています。
しかも連日早寝早起きなので、この時間になるともう眠くなってしまいます。

今日考えたこと。
芸術家というのは、世界を描きたいんだな、と。
リアリズムであれ印象主義であれ抽象芸術であれ、世界を描きたいんだな、と。眼前の世界をどのように捉えているかによって、その表出手法も違ってくる。無対象芸術でさえ、世界を描いている。人間の通常の視野では見えないものを描いている。これが本当にリアルな芸術なんだ、と芸術家は信じている。そして彼らはしばしばその見方を強要する。

でもたぶん、現代人は世界の見方を選ぶことができる。これはすばらしいことだと思う。ぼくには抽象的な芸術が世界の正しい反映だとは残念ながら思えないんですけれども、でもときにはそれが本当に世界を表現しているように見えることがある。リアリズムはもちろん、印象主義的な光景を自分の目で見ることがある。例えば新海誠の作る映像を世界の中に見出すことがある。いつもその見方で眺める、というのは難しいけれども、選択肢を持っているというのは悪いことじゃあないと思います。

明日も、出かけます。

蓮の花

2011-07-07 23:16:42 | お出かけ
今日は久々の遠出をして、埼玉県まで行って参りました。
ひたすら電車に乗っていたので、埼玉県という実感はなかったのですが、どうやら埼玉県らしいですよ。

で、何をしてきたかと言えば、広々とした公園に行ってきたのでした。公園と言ってもアレですよ、滑り台と砂場があるやつではないですよ。そうではなく、蓮の花のある公園に行ってきたのでした。お釈迦さまが池の底からそーっと出てきそうな雰囲気の蓮池。水面にはアメンボが何匹もすいすい走っていました。

今日は比較的涼しい気候だと感じていたのですが、それも束の間、午後を回ると日差しも少々強くなって、かなり暑い。汗だくになりながら公園を散歩しました。

そうそう、公園に行く前に、駅前でラーメン屋に入りました。ラーメン屋に入るのはかなり久しぶりです。ぼくはギトギトした料理というのがダメで、それで豚骨ラーメンなんかは食べるとたちまち腹痛を起こしてしまうので、なんとなくラーメン屋からも足が遠のいていたのでした。しかし今日は駅前にあるお店がそこくらいしか見当たらなくて(後になって近くにモスバーガーのあるのが分かった)、仕方なくそこに入りました。で、頼んだのは塩ラーメン。まあこれなら平気だろうと。

実際今日は丸一日お腹を壊すことなく、平穏無事に過ごすことができてよかったです。
蓮池の公園ではメロンクリームソーダまで飲んだのですが、お腹は大丈夫でした。いやあ、よかった。

なんの感想なんだかイマイチよく分からなくなってきましたが、ともかく、久々の遠出は無事に終了してよかった、楽しかった、ということです。

ミニ・ミステリ

2011-07-06 23:38:57 | 文学
あまり時間が取れないと言うか、小説読んでる時間があるなら勉強しろよ!という強迫観念から小説を手に取れないでいたのですが、超短編を2,3つまみ食いする程度なら問題なかろうと言うことで、『ミニ・ミステリ傑作選』をちょっと読んでみました。

目次を見てみたら、知らない名前がけっこう並んでいます。でもちらほら有名どころも。その中から、ロード・ダンセイニ、ジェラルド・カーシュ、ジャック・ロンドン、セルバンテスの短編を読むことにしました。

ちっぽけな犯罪めいたほら話から、国家間の戦争にまで波及するような大きな事件まで、かなり幅広い題材を取り扱っていますね。ちょっと気の利いたトリック集かな、なんて思う心も少しありましたが、なかなかどうしてバラエティに富んだ事件簿でして、読んだのは4編だけですがおもしろい。

中でもジェラルド・カーシュのほら話がユーモアがあって一番よかったかな。けどジャック・ロンドンの「豹男」が語る物語もよくできた短編で、いい。何より「豹男」というのがいい。「豹男」ってなんだ?

10ページに満たない短編がほとんどだと思うのですぐ読めてしまう手軽さが魅力の『ミニ・ミステリ傑作選』。中味もかなり充実しているようで、そこもうれしい(まあチェーホフ含めて5編ほどしか読んでいないわけですが)。

・・・・・・・・・・・・・・・
そうえいば、何となく急に忙しくなった日々。
爪で指を切ったのは今日で3回目。
かき氷は明後日におあずけか。
明日は雨なのか。
呟いて終わる。

困った

2011-07-06 00:14:42 | Weblog
最近は中身の薄い記事でなんだか申し訳ないのですが、いま、困ったことになっています。だから、その困ったことについて少し書いておこうと思います。

実は今月からロシアに行くことになっていたのですが、行けなくなるかもしれないんですね。うん、困った。たぶんあまり詳細は書かない方がいいと思うので書きませんが、とにかく困っているのです。まあぼくは困っているだけでどうすることもできないのでありますが。

ロシア語でメールを打ったり読んだり、ストレスが溜まる・・・

それにしても、さきほど新海誠のティーチインの様子をHPで読んで、感心しました。新海監督はプロップをご存知か。けっこう幅広い知識をお持ちのようだ。加えて村上春樹の小説の英語版を読んで、その「salvation」(救い)という単語から問題系を広げていくところとか、非常に知性を感じました。その知性にあやかりたいものだ。

暑いのは苦手なようで、今日は日中歩き回っていたら、少し具合が悪くなってしまった。そのあとすぐに涼んだので大丈夫でしたが、気を付けないと。今年の夏は山に行こうと思っていたのですが、難しいかなあ。

ああ、かき氷が食べたいよ。