Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ひと月振りに

2013-10-31 23:36:22 | お出かけ
先月の半ばに行ってからしばらく立ち寄っていなかった近所の古書店へ、今日の午後顔を出しに行きました。そうしたら、そこで何と4時間くらい話し込んでしまった。この間、お客は一人しか見えなかったです。大丈夫か?

先月もこのブログで少し書いたのですが、ぼくの大学の先輩に当たる人が近所に住んでいるということで、じゃあせっかくなので紹介して下さいみたいなことを言ったまま時が過ぎていたところ、今日ぼくが書店の主人にその話をしてみたら、その先輩の人に電話してくれて、ちょうどこれから伺うところだったんですよ、みたいな返事が来て、その人と会うことになりました(あえて一文にまとめてみたんですがちょっと分かりにくいかな)。

20分くらいでその人が来て、同じ研究室出身ってことなので、あの人は今、みたいな話をひとしきり。それから近辺の古書店に関するローカルトークや、新しく出店される予定のお店のこと、ブックオフの行く末などなど、古書店のご主人も交えて3人でだらだらだらだら立ち話。

繰り返しますが、この間お店にやってきたお客さんはたったの一人でした(大丈夫か)。

せっかくなので今度一緒に飲みましょう、みたいな話も出て、まあ実現するかどうか分からないけれども、ひょんなことから人との繋がりが生まれるのはおもしろいですね。

また近いうちに寄って、今日の話の続きをしようかな。

為末大がいいこと言った

2013-10-30 23:22:32 | Weblog
ハードルの為末選手のツイートをたまたま見たら、とてもいいことを言っていた。長いけど、以下引用。

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努力には三つある。何を、どうやって、どのくらい。努力を怠らないと言っている人が、どのくらいだけを話している事が多い。自分で選んだ道でもなく気がついたら歩いていた道でただ耐えて積み重ねる事は努力を怠っているともいえる。選ぶ努力は結構辛い

人生の前半は努力すれば夢は叶うでいいと思う。でもどこかのタイミングでそれを客観視しないと人生が辛い。努力すれば夢は叶う→叶っていない現在の自分→原因は自分の努力不足。努力原理主義を抜けられなかった人は、こんな自分を許せなくて何かを呪って生きていく。

”一生懸命やってだめだったけど、自分に向いてなかっただけだ”負け惜しみと世間は言うかもしれないけど、気にしなくていい。世界はもっと広く、人間の能力はでこぼこしていて、一つの事に縛られるなんてもったいないと僕は思う。

(以上、10月28日)

競技をやり始めて最初の頃は横一線でライバル達と争っていても、段々と年齢を重ねていくと、敗れて去り、敗れて去りと、徐々に減っていく。勝ち続けるという事は誰かを負かして諦めさせるという事も含んでいて、それでも僕は僕が最も努力しているから勝っていると思っていた。

24歳で始めてアメリカに行った時、ハードルを始めてたった1年の16歳の少年に負けた事があった。学校に通いながら一日1時間の練習でそれでも僕を追い抜いていく人間をみて、もしかして人間には持って生まれたものがあるのではないかというのを考えるようになった。

僕が倒してきたライバルは、本当に僕よりも努力していなかったのだろうかと悩むようになった。もしかしたら僕よりも努力した人間もいるかもしれない。それでも勝つ事はできなかった選手がいる。誰かが引退して声をかけられるたびに、背中が重くなっていった。

(以上、10月29日)

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こういうツイートに対して、「努力を否定するな」と否定的な反応も多くあるけれども、ぼくは為末さんを擁護したい。そして彼の真摯な人間性を評価したい。今年になってから何度かぼくが繰り返してきたことと、この一連のツイートは見事に呼応している。

「才能のない人は努力しても無駄」。為末さんのツイートをそう理解して否定的に捉えてしまう人がいる。これは、その人の理解力が足りないというよりは、何か別の問題だと思う。ぼくは「無駄」とまでは思わないけれども、でも同じ努力だったら、才能のある人の方が勝つのは真理だと思ってる。いやそれどころか、たとえ才能のある人の方がそこまでの努力をしなかったとしても、勝ってしまうことがあるということも、真理だと思う。このことは、ちゃんと認めないといけない。それをせずに、お前が負けたのは努力が足りないからだと言うのは、とても残酷なことだ。為末さんの言うとおり、何かを呪って生きていくことになる。

努力は必ずしも実らないかもしれない。このことを、きちんと知っておいた方がいいと思う。それでも努力して掴みたいものがあるのならば、努力すればいい。努力すべきだ。でもそれを知らせずに努力を強いることは、あまりに無責任で残酷だ。

一年間ちゃんと勉強すれば、テストで90点以上必ず取れるよ。そうある生徒に言うとする。その子は本当に一生懸命に頑張って、毎日勉強した。でも、期末テストで思ったような成績を残せなかった。その子にどんな声をかけてやるか。君はまだ努力が足りないから、もっと勉強すべきだと言うのか。それとも、よく頑張ったね、もし辛かったらもうこんなに勉強しなくてもいいよと言うのか。前者の場合、その子は勉強を続けていつか大学者になるかもしれない。後者の場合、その子は見捨てられたと感じて不登校になるかもしれない。・・・

しかし、その大学者は勉強すること・研究することを嫌っているかもしれない。いや、そもそも学者になんてなれず、勉強しても勉強しても成績の伸びない自分を責め続けるようになるかもしれない。一方で後者の場合、その子は学校の勉強はそこそこで済ますことを覚え、別の分野に自分の活躍できる道を見出し、好きなことを見つけ、幸せに過ごすかもしれない。

もちろん、今言ったことは全部可能性の問題だし、一つの比喩と考えてもいい。ただ大事なのは、努力は必ず実るし、努力はすばらしいといった文言が、どんなに虚偽を孕んでいるかということに目を凝らす必要があるということ。努力を否定しているわけじゃ決してない。でも何に対して努力するのかが大切だということ。どんなことにだって二面性がある。為末さんやぼくの主張にも、悪い側面はある。けれども、ひたすら努力を推奨することにだって悪い側面があるんだ。そしてそのことはおざなりにされている。意図的に無視されている。

そもそも努力することができない人だっている。そういう人に対して努力不足を指摘してどうなるんだろう。別の分野だったら頑張れることがあるかもしれないよ、時間が経てば努力することができるようになるかもしれないよ、という言葉だって、結局のところ努力至上主義だ。

敗れ去った人たちの努力(それは勝ち残った人たちの努力を凌ぐものであったかもしれない)に思いを馳せることはとても大事なことだ。それと同時に、努力したくてもできなかった人たちの無念に思いを馳せることも大事だと思う。「努力も才能の内」とはよく言ったもので、どうしても努力できない人たちがいる。

うまくいかないことを、才能のせいにしてしまう人がいる。努力のせいにしてしまう人がいる。どちらもとても辛いことだと思う。一方で、才能だったら諦めがつくけれども、努力では諦めがつきにくい。努力も才能の内かもしれないのに。

努力と才能の問題というのは、ここでこんなふうに私見を述べるだけでは決して解決を見ない、複雑な難問だと思う。でもたぶん確かだと思われるのは、努力=美徳という等号が、絶対的なものではないということ。ともかくこの問題に対して世界的なアスリートが一石を投じたことを歓迎したい。こういう時代が来たんだと、うれしく思う。

11月11日

2013-10-29 22:38:33 | Weblog
ときどき、ネットで検索してみる。自分にとって大事な「キーワード」を組み合わせたりして、同じ関心を持っている人が他にもいるんじゃなかろうかと、探してみる。でも、ヒットするのは自分のブログくらいで、他にいいのが見つからない。ひょっとしたら探し方が悪いのかもしれないし、自分の基準が厳し過ぎるのかもしれない。いずれにしろ、見つからない。

でも、4ヶ月くらい前にぼくは気が付いたんだけど、必ずしも趣味が同じだからと言って気が合うとは限らないし、趣味が違うからと言って気が合わないとも限らない。例えば、新海誠を知らない人とだって仲良くなれるかもしれない。その人は確かにまだ新海誠を知らないけれど、そしてたとえ知ったとしてもぼくと同程度に好きにはならないかもしれないけれど、それでもぼくらは仲良くなれるかもしれない。趣味というのは、その人の心の奥深くに根ざしている場合だってあって、その趣味がその人の性質を表しているということは大いにありうるのだけど、それにもかかわらず、趣味は違うけれど根っこは同じものを持っている、ということがありうる。あるいは、根っこは違ってさえいるかもしれないけれど、響き合う何かを持ち合っているということが。

だから、自分の趣味のキーワードを検索してヒットしなかったからと言って、孤独に感じる必要なんてないし、絶望する必要だってない。その人は単にネット上で発言していないだけかもしれないし。

ここではっきり言っておくけれども、ぼくは出会いの奇跡というものを信じている。この世界に「雫」が存在しているということを信じて疑わない。仮に――本当に仮にだけれども、ぼくが死ぬまでに「雫」という存在に出会えなかったとしても、ぼくは死ぬ間際まで、その最期の瞬間にだって、この世界に「雫」がいることを疑わない。美しいその出会いが自分には訪れなかったとしても、この世界に「雫」がいなかったことにはならないから。ぼくは奇跡も、奇跡の価値も、信じ続ける。

11月11日、聖蹟桜ヶ丘に行こうと思う。たまたま午前中に用事があるので、その帰り、昼過ぎにでも。そこで喜ばしい出会いがあるに違いないだなんて、まさかぼくだって信じていやしないんだけど、でもこの日は特別な日だから。

ミシュス、君はどこにいるの。・・・いいや、そんなことはもう言わない。むしろ、「会いに行くよ、ヤックルに乗って」。こちらの方が適切だ。

秋物、冬物

2013-10-27 23:44:28 | お出かけ
ロシアで随分服を捨ててきてしまったので、秋物がないということで、高円寺まで服を買いに行きました。

今日は高円寺フェスティバル(?)だそうで、普段よりも人が多い。古着屋も大賑わい。そんな中で約2時間、厚手のパーカーを目当てに探し歩きましたが、なかなかこれってのがない。散々迷った挙句、冬物の上着を買ってしまった。秋物のはずだったのに。

それで、帰宅してから改めて近所のお店へ買いに行きました。そこでとりあえず秋物を入手。でもやはり帰宅してからじっくり素材を確かめてみたら、意外と薄手なんですよね。薄手の長袖くらいは持ってるので、もっと厚手のが欲しかったんだけどな。

けれどもしばらくの間は暖かい日が続きそうなので、とりあえずはこれでいいか。

今月はあんまりお金を使ってないなあ(よかった)と思っていたら、今日一日で7000円の出費。くっ。

今日は久々に早く寝ようかな。

覆面

2013-10-27 01:06:36 | Weblog
覆面ってのに憧れる。ブログも、当初はほぼ覆面状態だったんだけど、段々と知り合いに認知されるようになってきた。ぼくは自分から進んでこのブログの存在を教えたことはほとんどないと思うんだけど(少なくともブログを知ってもらおうとしたことは一度もない)、それというのも、なるべく覆面状態でいたかったから。なんで覆面状態でいたいかっていうと、素性を知られると書くことが制限されてしまう気がするから。もちろん、例えば反社会的なこととかは覆面であれ何であれ書けないけれども。

反社会的・反人道的なことを書けないのは、それがもしかしたら人を傷つけるかもしれないからで、そして倫理に悖るかもしれないから。あと、自分の発言が元で誰かに非難されることが怖いから。実はこれは、覆面であってもなくても同じこと。結局、誰かに非難されるのが怖くて自分も非難しないって要素が多分にある。

ブログというのは、世界中に公開しているわけだから、自分の発言を誰かから非難される可能性が常にあるわけだ。一方で、仮に知り合いが多く見ているとすれば、開かれているはずの場所は実のところとても狭められていることになる。開かれているというのは建前で、開かれていることで被る悪影響だけを残しながら、実際には閉じられた場所で発言している。

開かれていることの利点は、知らない誰かと繋がることができるってこと。でも経験上、ブログでそれはとても難しい。

リアルな場所の自分とは別の自分をブログでは出したいのに、ブログが閉じられているせいで、それができない。だからブログとは別の場所で別の自分を曝したいと思う。

でも、最近思うんだけど、リアルな場所とは別の自分なんて、本当にいるのか?このブログと違う自分なんて、本当にいるのか?

ぼくはぼくからは逃げられないってわけだ。

祭り

2013-10-25 02:15:09 | Weblog
今週の土曜日から約1週間強、神保町で古本市がやりますが、学会の直前(というかもろ被り)なので、ぶらぶらすることはできないだろうなあと思ってました。

あと、今週の土日には高円寺でなんとかフェスティバルがあるとのことなんですが、ちょうど日曜日に高円寺に繰り出そうかと思っていたところなので、お祭りと被るとちょっと嫌だなあなんて思ってました。

今日になって、学会の準備を開始。急いで原稿を作ってしまう。配布用資料も読み上げ用原稿も、1日でほぼ完成。まあしかし、本当はとんがったものにしたかったんですが、結局今まで書いたものの寄せ集めみたいな感じになっちまった。残念。要旨が既に発表されているので、やはりそれに沿う形にしなければいけないだろうなあと考えた結果なのです(手抜きじゃないんだよ)。それにしても、色々と分かってしまった。今回の発表には活かせないけれども(そして今後発表する気はないけれども)、色々と分かってしまった。

そんなわけで、神保町に寄る余裕が出てきました。

高円寺のフェスティバルの中に、本市みたいなのがあるみたいなので、せっかくなので行ってみようかななんて思い始めてます。高円寺に10万人くらい来るって情報もあるので、やっぱりちょっと嫌だけど(人混みが嫌なんです)、せっかくだから。

ちなみに学会、司会の先生たちに事前に原稿をお送りしたいと思っていて、1週間くらい前を目処にしようと個人的には思っているので、タイムリミットは今週末。今日でほとんど終わったと言えども、まだ幾つか手直しするところ、考えるべきところがあります。でも明日授業あるんだよな・・・先週も忙しくて休んでしまったし、明日はゲストの先生が来られるそうなので、できれば出席したいんですが、どうしようかなあ。台風も来るというし。・・・原稿をお送りしたら、たぶん直しを入れないといけなくなると思うので、来週も忙しそうだ。

書き終えたけど

2013-10-24 02:53:23 | お仕事・勉強など
とりあえず原稿は書き終えたんですけど、要旨を書くのを忘れていて、慌てて仕上げる。要旨はロシア語なんですが、日本語で文面を考えるところから始めて4時間くらいかかったんじゃないか。要旨なのに・・・。なんでこんなに時間がかかるんだ。ネイティブの先生にチェックしてもらうためのメールを今日中に送ろうと思ってたんですが、見直す時間を少しくらいは取りたいので、明日に回すことにしました。で、明日からは学会の準備をしなければいけない。本当は今日から準備しようと思ってたんだけどな。っていうか、いずれにしろ学会発表の準備を10日間で終えてしまっていいのだろうかと、申し訳ない気持ちがあるのですが(通常授業の発表だってもっと時間をかけるんじゃないか)、もう仕方がない。まあ20分喋るだけだからな・・・。

ああ眠いな・・・。チェーホフの主人公張りに眠い。

とりあえず更新

2013-10-21 02:10:59 | Weblog
前回、頭痛がするという話を書いたんだけど、一昨日の晩から昨日の昼にかけて、またしても頭が痛かった。しかも、頭と言っても普通の場所ではなかった。頭の上の方で右の方、とにかく妙な部分が痛かった。けれどずっと痛むわけではなく、ときどきズキッという痛みが走る。後頭部が痛むのは脳卒中だ、なんて話をどこかで聞いたことがあったようななかったような気がするけれど、右上が痛むっていうのは何かあるんだろうか。いずれにしろ、今は収まった。

今日は寒かったけれど、電気代がもったいないので暖房はつけなかった。ストーブはまだ出していない。でも、夜は鍋物でしたよ。
明日は暖かいと天気予報は言うんだけど、個人的には今日くらいの気温で安定してくれた方がうれしい。もっとも、今日のような天気(雨)は御免だけど。

さあて、今週が正念場だ。と言って自分を追い込んでも頭が働かなければ意味がなく、できるだけリラックスしながら、適宜休憩を取りながら、パソコンに向かう。

そこはかとなく痛い

2013-10-18 00:32:53 | Weblog
頭痛薬を飲んだ割に頭痛が治り切らないというか、そこはかとなく痛いというか、軽い違和感というか、何はともあれ眠い。この薬ですぐに痛みが治まらなかったことは今までなかったんだけどなあ。自分は頭痛持ち(ってほどひどくはないかもしれないけど)なので、常に頭痛薬は携行しているのですが、効かないんじゃ持っていてもしょうがないじゃないか。いやでも効かないってほどではなくて、なんというかそこはかとなく痛いだけなんだけど。

きのう、普段は行かない図書館に行ったら、机で勉強しているJC(たぶん)と10回くらい目が合った。偶然1,2度目が合うと、お互い気になるのか、「またこっちを見ているんじゃなかろうか」とそわそわし出してついつい顔を上げて盗み見してしまうという。・・・不審者?

それはさておき、今日は図書館が閉館日だったので、調べ物は明日しなくてはならなくなってしまった。やれやれだ。

眠いなあ。本の読み過ぎで疲れてしまうなんて経験は、いつ以来だろう。

締め切り

2013-10-16 01:17:24 | お仕事・勉強など
いつの間にか、二つの締め切りが迫っていた。一つは学会で、一つは某誌への原稿。もはや心理的にロシア文学から離れてしまった身としては、短期間で二種の原稿を仕上げるのは容易ではないと思われたが、離れてしまった方がむしろ色んなアイデアが湧いてくるのは不思議なものだ。(もしかしたら困ったことだ?)

学会の方は、「ぶち上げてやろう」なんて気焔を上げていたけれど、やはり無難な線に落ち着きそうな感じがしてきた。他方、某誌への原稿は、「アメリカと関連させなければならない」という制約があって、苦戦しているのだけれど、しかしそれ以外はむしろ他の学術誌に比べて自由なので、書きやすい。のだけど、改めて思うに、自分は論文を書くのが苦手だし、下手だ。気儘に思い付いたことをだらだら書く方が性に合っている。今回はちょっとした一発ネタで勝負しようかなと思っているんだけれども、いわゆる「論文」にはならないことが見越されているので、編集の方にこれでもいいかと事前にお伺いしてみなければならないかもしれない。ちなみに、本当は「アメリカと関連させなければならない」ということはなくて、無理しなくてもいいということだったんだけど、仲間外れ(?)は嫌なので、アメリカと絡めて書きたい。どんな要望にもお応えできますよってことを見せとかないといけない(誰に?)かなと。と言いつつ、アメリカは導入部分で使うだけなんだけどね。

なんてことを書きつつ、締め切りに間に合わない、というか原稿がまとまらないという事態に陥る可能性がけっこうあるので、不安でもある。自分のような人間が、「すみません、書けませんでした」と言って投稿しないのは何様だよってことになるので、早いとこ読書を切り上げてとにかく書き始めなければ。でも今読んでる本、索引含めて550頁超あるんだよな・・・長いよ。

学会の準備もあるしなあ。学会って、自分一人が恥をかく場だったらそれはそれで構わないんだけど、司会の先生にも迷惑がかかってしまうし、せっかく貴重な時間を割いて聞きに来てくれる人たちにも失礼だし、できる限りいいものを作らないといけないんじゃないかという責任感もあって、ちくちょう、手を抜くところがないじゃないか。ブログ書いている暇なんてないんだけど、読書時間と睡眠時間を削ってこうして更新しております。

未確認飛行物体(UFO)

2013-10-12 00:08:38 | Weblog
午後3時過ぎ、自宅を出るときにふと空を見上げたら、きらりとしたものが目に入りました。あれ、と思って空の彼方にある一点を凝視しましたが、確かに何かが光っています。青空の中でほとんど動きません。飛行機ではないし、ヘリコプターでもなさそうです。白っぽい粒のようなものが、眩ゆい光を湛えながら、家々の屋根に区切られた青空の中でじっとしていました。とはいえ、時折り少しだけ下降したり、あるいはこちらへ近づいてくるようにも見えました。

これってあれじゃないですかね、いわゆる未確認飛行物体、つまりUFO。だって、まさしく「未確認飛行物体」ですよね。

実はこの類のものを目にするのは人生で二度目。最初のときは、たしか小学生だったかな、夕暮れのベランダから空を眺めていたら、緑色の円盤状のものが凄まじいスピードで飛び回っていました。このとき母も一緒に目撃していて、この出来事は未だに語り草です。結局、あれが何だったのかは分からず仕舞いでした。

そして今回もたぶん謎のまま終わってしまうのでしょう。映像記録を残しておけばよかった、と思わないでもないですが、まあいいや、別にテレビ局に投稿するでもなし、大勢の人にUFOの存在を証明しようとするでもなし、ぼく自身が覚えていればそれでいいので。

そんなわけで、ちょっと不思議な体験をした日。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

2013-10-11 02:27:52 | 文学
ノーベル文学賞の有力候補に挙げられていたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさん。惜しくも受賞はなりませんでしたが、彼女の本の中に、次のような一節があります。

あなたは人々になにを与えることができるんですか。満ち足りた生活? 豊かなくらし? そんなものが私たちの究極な目標になるはずがない。人間のできがちがう。私たちに必要なのは悲劇的な理想。明るい未来という儀礼があった。そして悲劇的な理想もあった。それを踏みにじることはできない。取り上げることはできない。それは生きつづけるだろう。ま、しかたない。お書きください。いまは何でも書いてもいいし、みなが書いている、しかし文学といえるものはどこにあるんですか。私たちに起きているようなことが、どこにあるんですか。S氏の死ひとつでもいい。このような死は……。
                               『死に魅入られた人々』111頁。

この本は、ソ連崩壊に際して自殺してしまったロシアの人々を巡るインタビュー集。引用文にある「S氏」は、共産党員でした。彼の自殺について、別の党員がインタビューに応えているわけです。

一般に、ソ連崩壊という出来事、一つの社会主義国家の崩壊という出来事は、「われわれ」にとって見れば、積極的に歓迎すべきことだったとは必ずしも言えないまでも、少なくともそう悪いことではなかったと思います。もっとも、ソ連が崩壊したときぼくはまだ小学生だったので、当時どのような言説が飛び交っていたのかは知りませんが。

ところがソ連の内部には、冷静に考えれば誰にでも明らかなように、大変な衝撃(しかも悪い衝撃)を受けた人たちがいたのです。共産主義の夢を追っていた人々。依然としてスターリンを信奉していた人々。しかし国家は瓦解し、彼らは生活/人生の目標を失いました。

もちろん、自殺した原因を全てソ連崩壊に還元するのは短絡的すぎるでしょう。しかし、少なくともこの本は次のことを教えてくれます。つまり、外側から見れば善だと思える事柄でも、内側の人々からすれば、死にすら至らしめる可能性を孕んでいるということ。事物の二面性。

この本は一つのドキュメンタリーであり、フィクションではありません。しかし、優れた文学というものが唯一の真実を提示するのではなく、それどころか真実の相対性を示唆するものであるならば、『死に魅入られた人々』も間違いなく文学の中に位置づけられるでしょう。だからこそ、「文学といえるものはどこにあるんですか」という党員の問いは、その文脈を超えて、ぼくの胸に突き刺さります。

ターナーとゴーリキーの坊ちゃんの上での出会い

2013-10-09 00:41:19 | 文学
ターナーについての言及が漱石の『坊ちゃん』にあると言うので、さてはあの釣りのシーンだなと当たりを付けてパラパラと本を捲ってみると、ゴーリキーが出てきたので驚いた。そのすぐ前には、なるほどターナーについて赤シャツと野だいこが会話を取り交わしている。

ターナーにしろゴーリキーにしろ、「坊ちゃん」にすれば未知の名前で、赤シャツたちのディレッタント気取りの俗物根性を揶揄する道具立てとしてここでは用いられているようです。

ただ、「光の画家」であるターナーに対して、ゴーリキーは当時(今もかな)の日本では『どん底』の印象が余りにも強く、「闇」「陰気」のイメージが先行しています。つまり、意図的にか無意識にか、「光と闇」の対立的構図が出来てしまっているのはおもしろいですね。

『坊ちゃん』は痛快な勧善懲悪式の物語として読むことが可能で、その意味では善と悪の対立軸が鮮明な作品です。だから、ひょっとしたら他の箇所にも対立構造が現われているかも、なんてことに注意しながら読み直してみるのも楽しいかもしれません・・・いや楽しくないかな。

いずれにしろ、いま自分はむしろ『吾輩は猫である』を読み返したいと思っています。この名前のない猫の話、中学生のときに抱腹絶倒して以来、読み返していません。いま読めばきっと別のおもしろさを発見できるはず、と見込んでいます。

何者

2013-10-06 02:11:48 | Weblog
いまだ自分が何者にもなれていないことに、焦りを感じる。こういうことに焦りを感じることって今まであんまりなかったんだけどな。周囲の人が何者かになっていき、なっていくであろうという最中に居続けるのは辛いことだ。まあ、これまでは自分のことに精一杯で、周囲の世界を見る余裕なんてちっともなかったのが、最近はちょっと余裕が出てきたってことなのかもしれない(なんて楽観的)。

「私は健康状態がずっとよくなく、どのような種類の研究であれ稀にしか、しかも短い期間しか没頭することができなかった。」

こんなことを書いている研究者(文学じゃないけど)が18世紀にいたのですが、勇気づけられるよね。自分の場合は実に7年以上も「健康状態がずっとよくなく」て、苦しみ続けていて、「どのような種類の(以下略)」わけですが、勉強するには最良の時代を喪ってしまったよ。だからこそ、この期間にたくさん勉強した結果としていま何者かになりつつある人たちに対して「凄いなあ」と感心する一方で、「負けてなるものか」と悔しい気持ちもあるのです。勉強したくてもできなかった悔しさっていうのかな。単に敗残者の哀しみ以上のものがあると思うんですけどね。

華々しく活躍する人もいれば、汚辱に塗れて這いつくばりながら生きる人もいる。自分にはもう前者は無理だけど、後者にもなりたくはない。だから違う世界に行ってみようと思ったんだよな。蓄積された勉強の成果を問う世界ではないところに。そこがどこなのかは分からないままだけど、足掻くしかない。

辛くて勉強できない。勉強を諦めてしまった。好奇心が続かない。本が読めない。苦痛だ。風呂に入る気力もない。そういう状況を克服した視点からではなく、今まさにそうであるという視点から何かを書きたいと思う。そういう視点からでも何かが書けるということを訴えたいと思う。いつか空の光が射し、誰かが自分を何者かであると認め且つ自分でも認められる日が来ることを願うよ。

そろそろ秋

2013-10-05 01:59:59 | Weblog
今日はけっこう冷えてました。明日も20℃くらいらしい。でも、このまま一気に秋かなと思うと、そんなことはなく、来週はまた暖かくなってしまうみたいです。早く寒くならないかなあ。極端に寒いのは嫌だけど、もう10月なんだし、せめてもうちょっと涼しくなってもいいと思う。

ところで、来月はイベントが幾つかある気がしてたんですけど、いざ数えようとしても、なかなか思い出せません。おかしいなあ、11月4日と11月20日と・・・あと何だっけ?・・・あっ、いま分かった。ジブリ関連のイベント(映画公開)を忘れていたんだ。なんだ、思い出しちゃったよ。

ちなみに、来週末から3日間、某学会があるのですが(「某」と言っても別に隠し立てするつもりはないんだけど)、聴講しに行こうと思ってます。そのついでにターナー展にも寄るつもりです。たぶんね。

学会といえば、11月初頭に学会で発表することになっているので、来週末の別の学会が終わったらレジュメの準備を始める心算。発表要旨のタイトルがあまりにもやる気がないというか、手抜きというか、いい加減だったので、発表内容はそれとは違ったものにしないとな。

学会で発表するのは今回で最後になると思うので(少なくとも自分はそのつもり)、今までとは趣向を変えて、ぶち上げてやろう(何を?)かなと考え中。ちょっとねえ、これまでは慎重に慎重に、なるべく批判が来ないようにと注意を払ってやってきたんですが、今回は色んなものをぶち上げてやろうと。もういいやと。だから、昨日も書きましたけど、モリヌークス問題とかイタリア未来派とかツァラとか、ぶち込んでやろうかなと。これまで自重してきたものを披歴しようじゃないかと。発表要旨に沿う形で進めることは進めるはずなので、そんなには脱線しないと思いますが、色んな分野に接続されうる、色んな興味に開かれた発表にするつもりです。今のところはね。

発表なり論文なり、自分を押し出すのが嫌で、なるべく客観的な記述を心がけてきましたが、それというのも、自分を押し出した結果批判されたとしたら自分が傷ついてしまうのを恐れていたからなんですよね。でもね、もう最後だからいいやと。勝手にしやがれと。だから、この学会発表はイベントには数えてないんですよね。どうでもいいから。知ったこっちゃないよ。


秋になるのはいいけど道端の銀杏がなあ。