Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

十三本のパイプ

2010-07-31 00:14:39 | 文学
エレンブルグは驚嘆すべき作家である。

エレンブルグ『十三本のパイプ』をたった今、読了。
長編小説家として夙に知られるエレンブルグですが、短編もいけます。うまい。ときに真摯に、ときにユーモラスに、愛について、憎しみについて、狂気について、馬鹿げたことについて、語ります。「私」の所有する十三本のパイプの由来を物語る、という形式を備えたこの小説は、つまり13話ある短編小説集ということになるわけですが、いずれもパイプをモチーフにしているところに面白味があり、独特の滑稽さを漂わせています。

と言えば、ああ滑稽小説集か、と思われる向きもあるかもしれない。しかし、たわけたことと真理とは背中合わせであるし、また実際のところこの小説集には、悲しみに貫かれた作品も存在しているのです。

「映画スターのパイプ」は、実生活と映画との区別が付かなくなってしまった貧乏役者の不幸な一生を追った物語なのですが、これは傑作だと思った。一途な愛の哀しみと狂気とを描いて余すところがない。この役者は妻への愛ゆえに現実と虚構とを混同し、そして破滅してゆくのですが、その様子があまりにも滑稽で、馬鹿げていて、ありえなくて、どんだけアホなんだよ、と溜息をつきつつ、それでもこの作品が愛の悲哀に満たされていることに、愛の世界をひっくり返してしまうほどの狂った情熱が秘められていることに、慄然としてしまいます。本当に本当にこの役者は愚かだ。阿呆だ。現実と映画との区別がつかないから?いや、それほどまでに妻を愛しているから。

それにしても、この作品にはパロディめいた作品もあります。まず、「農場主のパイプ」はツルゲーネフ「初恋」における純朴な恋が「父」によって裏切られる物語の変奏と見れるし、「船長のパイプ」は冒険物語のパロディであり、そして「愛のパイプ」は探偵小説ふうの結構を備えています。また「信仰とパイプ」などはユルスナールあたりが「東方奇譚」で書きそうな題材です。エレンブルグは作品によって語りの真面目さの匙加減を変えていますが、それと同様に、小説の様々なジャンルをも自家薬籠中のものとし、巧みに使いこなしています。

これほどの手練れが今の日本であまり読まれていない、というのは悲しいことです(自分を棚に上げて言っているのが恥ずかしいですが)。来年はエレンブルグ生誕120周年であることだし、誰か大々的に宣伝してくれませんかね。どこかの研究者か出版社が。やや通好みの作風ではありますが、ストーリーはおもしろいし、機知も豊富だし、見直されてしかるべきだと思いますよ。それにしても今エレンブルグを研究している人・・・誰かなあ。

図書館でパステルナーク

2010-07-28 23:01:10 | 文学
今日は本当は学校の図書館に行く予定だったのですが、なんとなく眠いしだるいし暑いしでやめて、その代わりに近所の図書館に行ってきました。うちだとどうもやる気が起きそうにないけど、図書館でだったら半強制的に読書するだろう、と。

パステルナーク『リュヴェルスの少女時代』を読み終えました(正確には読了したのは帰宅してからですが)。別の題名で昔出ていたものが今年になって題名を改め出版されたのです。今年はパステルナーク没後50年だそうなので。この昔の本は、ずっと入手したかったのですが、いかんせん見つからない。あとがきによれば、600部しか出なかったそうです。どおりで。

パステルナークは言うまでもなく詩人ですが、『ドクトル・ジバゴ』を書いたことで有名ですよね。これは散文と詩とが奇跡的な融合を果たした驚くべき作品ですが、彼はそれ以前に幾つかの短めの散文を著しています。『リュヴェルス』もその一つ。パステルナークの短い散文小説で、ぼくの読んだことのあるものは、どれもかなり奇妙で、一つの物語としての体をなしていないように見えました。その点で、『リュヴェルス』は一応の小説としての体裁は整えており、確かに詩人らしい比喩が頻出するとはいえ、それなりに読み応えがあります。

しかし、そこはパステルナークの散文、一筋縄ではいきません。はっきり言って、あまりおもしろいとは言えず、万人にお薦めできるような小説ではありません。こういうのを嗜む人は、たぶん日本人のごく僅かでしょうね。ああ、ぼくもこういうのが好きだと言えるようになりたいものだ・・・ということは、やはりぼくにもよく分からなかったのですね。

家で読んでいたら、途中で苦しくなって投げ出していたかもしれませんが、図書館では違いました。気分転換に、と思って辺りの本を物色。村上春樹の小説を手に取ったり、イギリス怪奇小説集の目次を眺めたり、ちょっと違う場所に置かれていたブローティガンの小説を正しい位置に戻したり・・・。そうこうするうちに、読書中に起こるあの気怠さと苦痛は霧散し、ぼくは再び『リュヴェルス』に取り掛かりました。

この小説は、あとがきにもありましたが、「未知のままに生起する現象を、その未知のままに、謎のままに描いて、一人の少女の成長がじょじょに見えてくる」という不思議な魅力を備えています。読みながら、まさにこれと同じことを思い、感じていました。これは確かに「魅力」足りえているのですが、しかし一方で「意味を分からなくする」という危険を併せ持っています。ぼんやり読み進めてゆくと、いま何が書かれているのか、それは誰なのか、途端に曖昧になり、小説の森の中に置き去りにされてしまうのです。まるで少女の人生を体験しているようでもあり、あるいはこれが普遍的な人生そのものなのかもしれず、ともかく子供時代の人生経験というものをありのままに味わわせてくれる、稀有な書物です。子供時代には、周囲で何が起きているのか実はほとんど知らない(知らされるのは後になってから)とすれば、この小説はまさしく子供時代を読者に経験させます。そして人生というものがえてしてそうなのだとすれば、人生を読者に経験させていることになります。人生の本質的部分、と正確には言えるでしょう。このことを可能にしているのは恐らくパステルナークの曇りなき眼であり、詩人として培ってきた手法であるでしょう。(ふと、これをアニメーションにしたらおもしろいな、と思った)

とまあ、こういうことが一応言えるわけですが、いわゆるリーダビリティは高くないですね。時間を持て余しているとき、気持ちにゆとりがあるとき、じっくり読書がしたいとき、にお薦めです。

ジブリの袖珍本

2010-07-28 00:06:52 | 本一般
アリエッティ公開記念として作られたジブリの袖珍本(ミニ本のことですね)は、全部で12種類あるらしいのですが、これだけあると、もはやコンプリートする気さえ失せてしまう。とはいえ入手自体は容易いのですが。でもこれらを手に入れるためには、美術館へ出かけたり、DVDを購入したりしなければならず、相当高くつきます。どうせなら、おまけとしてではなく、普通に販売すればいいのに、と思うのはぼくだけではないはず。

ゲドのときも、『ゲドを読む』が無料で配布されましたが、これくらいならいいのです。しかし12冊となるともう・・・

そういえば、ジブリはDVDでも、最近は妙に特典を付けてかなりの高額で販売していますが、あれも勘弁してほしいのです。ファンであればとりあえずBOXの類は欲しくなるのですが、でも本当に必要な特典は少ないものです。やはり昔のように、映画本編と絵コンテ、それに最小限の特典だけで廉価で売ってほしい。廉価版を買えばいいじゃないかと言う人もいるかもしれませんが、そういうことではなく、あれば欲しくなるのがファン心理というものです。ジブリの商戦は、そのファン心理を悪い意味でくすぐる、えげつないものに思われてなりません。特典だけがぶくぶくに肥大していく姿は見たくありません。

宣伝のためか、利益のためか、よく分かりませんが、願わくはシンプルに。映画そのもので勝負してほしい。袖珍本の種類にしろ、DVDの特典にしろ、数が多すぎます。これで喜ぶのは全容を知らない無邪気な人だけでは。子供には種類が多すぎるし、DVDは高すぎる(親が困る)。

『図書目録』だけで終わりにしていたらよかったのになあ。

地図男

2010-07-25 23:34:53 | 文学
真藤順丈『地図男』を一気読み。
2008年の話題作ですね。現代日本の小説を読むことはぼくにとっては珍しいことなのですが、今日図書館に行ったらふと読みたかったのを思い出して、手に取ってみました。

感想。
たぶん、小説のアレゴリーなんだと思う。地図男は、分厚い地図帳に直接、あるいは付箋をたくさん貼り付けて、東京周辺の物語を書きこんでゆく。天才的な音楽センスを持った幼児Mの物語、東京23区で密かに繰り広げられているという、刺青として肉体に刻まれた「区章」争奪戦の物語、そして多摩川を挟んですれ違うムサシとアキルの物語。ただしそれらの物語の背後には、地図男自身の物語が隠されていた・・・。と簡単に要約できるのですが、この小説のポイントは、それぞれの物語そのものというよりは、それを語る語り口(文体というよりは語り口と言った方が正確か)、それとこの『地図男』自体の持つ小説というジャンルへのメタ性でしょう。

地図帳に書かれた物語は、何ページにも分割されて綴られており、ふつうの小説が1ページ目から300ページ目まで順々に進行してゆくのとは違い、飛び飛びになっていて、地図帳という分厚い本を行ったり来たりしなくては読み進めることができません。いわば、小説のリニアな構造を破壊しているわけです。コルタサルの『石蹴り遊び』やパヴィチの『ハザール事典』など、実際の小説にもそうした試みのものがありますが、『地図男』はそうした小説を小説の中に登場させたわけです。

この錯綜した物語の海の中で、全てを切り結んでしまうような人物が登場するのですが、その人物を出現させたことに批判はあるでしょう。せっかくのボルヘス的・迷宮的な構造が無に帰してしまうから。もちろんそういう批判がありうるのは分かるのですが、ただしこの『地図男』という小説は、なにもボルヘス的でラディカルな書物をのみ志向していたわけではないと思うのです。もう一つ大事なのは、語り。語りの口調そのものも大切ですが、誰が、誰に語るのか。これがたぶん『地図男』において一番重要なことだったはずです。そしてそれは、小説のアレゴリーたる『地図男』の中で、小説一般にとって普遍的な問題でありうる誰が誰に語るのか、という問題を読者に問いかける役割を果たしているように思えるのです。『地図男』における「誰が誰に語るのか」は、小説一般における「誰が誰に語るのか」という問題に直結し、そしてその問題は、作者によって「特定の誰かが特定の誰か」に語るのだ、という回答を得ているのです。

そのためには、恐らく多くの読者にとって単なるメロドラマに見えるだろう後半の「純愛物語」が必要だったのです。君があなたに。あなたが君に。ねえ、で呼びかけられる、切実な物語。ここには、あの人に伝えたい、という小説の最も根源的な部分が書き込まれています。形式的には先鋭的で、しかし実は初源的、それが『地図男』です。

各々のエピソードや語りにそれほど魅力が感じられないのは残念なので、必ずしも高い評価はできませんが、しかしこの初々しいながらも野心に満ちた小説の誕生は、うれしいことではあります。

となりのトトロ

2010-07-24 00:27:15 | アニメーション
思えばトトロに関してちゃんとしたレビューを書いたことがなかったなあ。
で、今日こそは、と思って、というのは嘘で、今日も別にちゃんとしたレビューを書く気は起こらないのであった。ところで先日のハウルにおける戦争の記事、2年くらい前にも全く同じことを書いていました・・・考えが変わっていないのは別にいいのですが(進歩がないとは言わないで)、書いたことを忘れていたのはどうかと・・・

さて、トトロです。
後半がこんなにも死に彩られているということに、もう何回見ているか分からないのに、初めて気がつきました。例の噂話(メイが死んでいるとかそういうやつ)が出てくるのもまんざらではないですね。トトロは少し怖い映画だ、と言った人がいますけど、個人的にはそんなふうには全然思わないのですが、ただし後半は死への恐怖に胸が締め付けられるような気がします。母親が死んでしまうのではないか、メイは池で溺れ死んだのではないか、そういった恐れがじわじわと広がり、太陽が沈みゆくのとちょうど並行して、心的にも暗く重苦しいものになります。

これは、まるでマイマイ新子と同じような構造ですね。前半の生命感が後半において失調する理由は、この映画が生というものの光と闇、あるいは美と醜との両面を同時に表現しているからだ、とぼくは考えましたが、トトロではどうなのでしょう。

確かにそういう側面に思いを巡らすことは可能でしょうけれども、しかし生命の両面性を描いている、とはどうしても思えません。実感として湧いてこないのです。死というものが生の一部だとしても(あるいは生が死の一部なのか)、トトロという作品はやはり生における生命性(死ではなく)を強調しているように見えます。前半は言うに及ばず、後半でさえ、サツキの疾走、ネコバスの躍動、人々の温かさ、といったものが前面に押し出されていて、結局母親もメイも無事でしたし、幸福のうちに物語は閉じられます。

生と隣り合わせの死を描きながら、それでもなお生を喜びとして謳い上げたのですね。

トトロにはすばらしいシーンが幾つもあり、それをいちいち数え上げることのできないのが残念。アリエッティと似ているとも言われるこの作品、しかしながらその出来はまるで違います。何が違うんだろう、と思いながら今日見ていたのですが、たぶん登場人物の行動のおもしろさが違うんですよね。ただ行為を遂行するための行動なのか、それとも行為そのものに興味がわくような行動なのか、その違いです。まあでも、トトロと比較するのはさすがに酷か。

暑いですね

2010-07-23 00:39:54 | Weblog
本当に暑いですね。これほどまで地上は暑くなるものなのか、っていうくらい暑いです。大気が熱に満ちていて、ベタな言い方をすれば、オーブンで焼かれているみたいですよ。

モスクワでも猛暑が続いているらしく、非常事態宣言が出されたとか。モスクワでは35度だそうですが、東京はもっと暑いぞ。気温って、芝生の涼しいところで計っている、ということを聞いたことがあるのですが、このアスファルトの照り返しの中で計測したら、38度はいくのではないでしょうか。猛烈に暑いですからね。

それにしても、こう暑くては本も読めやしない。・・・いやまあ、涼しくても読めないんですが。最近は、一冊の本を読破することがめっきり少なくなりましたね。読まなければいけない本は、めんどくて読まないし、読みたい本は、罪悪感から読めないんですよ。だいたい、読み始めると2分で疲れてしまって、もうギブアップです。どうしてこんなふうになっちゃったのかなあ。今も、ある日本語の本を読みかけているのですが、3日くらい前に放り出したままになっているんです。まだ25ページくらいしか読んでいない・・・。明日こそは読もう読もうと思ってこの体たらく。しかし明日こそは読破してやるぞ!と決意を新たにしてみる。

暑くても寒くても本を読まないとなあ。でもせめてもう少し涼しくなってほしいですが。あ、いま外で雨が降ってますね。ちょっと冷えてくれるといいなあ。

ハウルの戦争

2010-07-22 00:27:54 | アニメーション
最近はジブリネタが多くてナンですが、今日はハウルで。というのも、このあいだテレビで放映されてから、感想を書いてなかったので。ただ今日は短めでいきます。

ハウルについてはもう何度も色々なところで言及しているつもりなので、さすがにいいだろ、と思ってはいるのですが、肝心な部分については案外書いていないかもしれないな、と思い改めまして、ハウルにおける戦争について少し。本当は「星をのんだ少年」のシーンについて書くべきなのかもしれませんが、そこは以前に言及したことがあるはず(誰も覚えてないと思うけど)。

ハウルにおける戦争、ということでキーになるのは、何といってもハウルの台詞「ようやく守らなければならないものができたんだ・・・君だ」です(もしかするとちょっと間違った引用かもしれないけど確認するのが億劫なのでこれでごめんなさい)。もちろんソフィーに向けて言われた台詞なのですが、これを、そのまま文字どおりに理解している人が多いみたいで、ぼくなどはいかがなものかと思っているのです。学者にもそういう人がいて、困ったものだと思っているのです。

だって、この台詞を文字どおりに理解してしまうと、戦争を肯定してしまうことになってしまいますよ。戦争というのは何かを守るために人を殺すわけですから(人を守るため、国を守るため、利益を守るため)、守るといううことを正当化してしまえば、何をしてもよいということになります。ハウルは勇んで戦場へと向かいますが、それに対してソフィーはどう行動したのか。あの人は弱虫なのがいいの、みたいなことを言って、ハウルを戦争から遠ざけようとするんですね。ここにこそこの作品の意志が表れているとぼくは見ます。ハウルの一見勇敢な台詞は、ソフィーの行動によって否定されるのです。しかしながら最も痛烈な否定は、のちのハウルの表情のなさでしょう。過去から戻ったソフィーの目の前にハウルがうずくまっていますが、その顔は無表情で、血の気がありません。これが、戦争の結果なわけです。ハウルの台詞はハウル自身の無表情によって打ち消されたと言えます。

だから、弱虫のハウルが男らしくなったやっぱハウルってかっこいい~キャー、という意見には賛同しかねるわけです。ハウルは反戦から参戦へと移行し、ソフィーは非戦を貫きますが、やがて二人とも非戦の側につきます。サリマンは「このバカげた戦争を終わらせましょう」と言いますが、絵コンテにはしかし戦争は終わらない、と書かれています。そしてまだ軍艦の飛ぶ空の上を、ハウルとソフィーの城が浮遊するのです。

ハウルにおける戦争というテーマは意外と大きいと思うのですが、まあキーとなるのはこのハウルの台詞でしょうねえ。

BRUTUSのジブリ特集 2

2010-07-20 23:40:00 | アニメーション
今日、きのうの記事を読み返してもう一度よく考えてみたのですが、宇野常寛氏に対する批判は、ひょっとするとあまりフェアではなかったかもしれない。

というのも、第一に、聖司の台詞に着目して、コンクリート・ロードを肯定的なものとして捉えるという考え自体は、必ずしも誤読とは言えないからです。きのうは誤読と書きましたが、深読みのしすぎと言い換えましょう。あの台詞はストーリーの流れとしては、聖司の雫に対する態度の変化やそのあり方を示唆するものだったことは確かなのですが、注意深い観客にとっては、なるほど人工的なものを肯定する制作者の意志と捉えられるのかもしれない。

第二に、あの作品レビューは非常に短いものであり、そこだけから宇野氏の考えを読み取ることは困難だったからです。例えば、コンクリート・ロードを肯定することが即、開発の肯定(もちろん諦念から出発しての)に繋がるのかどうか、そういうごく基本的なことでさえも宇野氏に聞いてみなければ分からない。

宮崎アニメに対するある確固とした考えがあり(ちなみに宇野氏は『耳をすませば』を宮崎アニメとみなしている)、それに基づいて作品を分析する宇野氏の批評方法は、その「確固とした考え」に首肯できない人間にとって少々腹立たしいものに映るので、その時点で反感を抱いたままブログに批判的なことを書いてしまったのですが、冷静に判断してみると、聖司の台詞の件で宇野氏の言っていることには一応の妥当性がある。

『耳をすませば』が環境と人間との相互問題を大きく取り上げており、とりわけ開発された環境の中で人間がいかに生きるべきかということを問うている、ということを宇野氏が認識していたかどうかは判然としません。しかし、宇野氏の限られた字数のレビューを読むと、そのように認識していたとみなしたくなる。そのような認識自体は間違っていない、と考えます。もしも宇野氏の意見がぼくと同じなのであれば、彼は聖司の台詞をその問題に切り込む象徴的なものとして使用したと言えるでしょう。ですが、この使用が曲者なのです。この問題を指摘するためなら、もっと他によい箇所がある(井上ひさしの『耳をすませば』に関するエッセーを参照)。宇野氏の挙げた例では、この問題は副次的な意味でしかなく、その第一義的な意味はやはり聖司と雫との心の交流を象るもののはずです。

宇野氏が、本当に聖司の台詞を出発点にして環境と人間との相互問題に気付いたのか(もしも気付いていたとしての話です)、それとも別の個所、別の文脈からそのように想到するに至ったのか、ということについては、対談形式のこの短い作品レビューからは分かりません。いずれにしろ、あまりはっきりしない思考経路を度外視して宇野氏を批判してしまったのは、ちょっとフェアではなかったかな、と反省した次第です。

宇野常寛がジブリ作品に対してどれだけ理解があるのか、ということはもっとしっかりした論文を読んでみないと分からなさそうです。彼に対する評価は保留ということで。

BRUTUSのジブリ特集

2010-07-19 14:10:42 | アニメーション
雑誌『BRUTUS』のジブリ特集について。

この本の中で、ジブリ作品のレビューが宇野常寛と香椎由宇との対談形式でなされているのですが、その内容があまりにお粗末というか、レベルが低いのでげんなり。女優の香椎さんが質問して評論家の宇野氏が答える、という形式を踏んでいるのですが、その回答がよくないのですね。宇野氏は『ゼロ年代の想像力』で注目を集めた若い論客ですが、たぶんジブリ作品全般について真剣に考察したことがないのでしょう。

耳をすませばのレビューで、彼はこんなことを述べています。以下、引用。
                       ※※※
「宇野 (・・・)聖司が現代の消費社会を皮肉った「コンクリート・ロード」という歌を歌うんですが、彼は「コンクリート・ロードでもいいじゃないか」とも言うんです。以前の宮崎さんならコンクリート・ロードなんて許さなかったはずですよね。もちろん、「でも」と言っているので、肯定はしていませんが。
香椎 じゃあ、諦めなんですか?
宇野 諦めたうえで、ニヒリズムに負けず前向きに生きていこうということですよね。」
                       ※※※
これは対談ですから、聖司の台詞の引用が正確でないこと自体は大目に見ます。聖司は「コンクリート・ロードでもいいじゃないか」とは言いません。でも、問題なのは、宇野氏がこの間違った引用である「でも」に注目して、そこを出発点に「ニヒリズムに負けず前向きに生きていこう」というテーマを導き出してしまっている点。また、「コンクリート・ロードでもいいじゃないか」というニュアンスがその宇野氏の結論に奉仕してしまっている点。これでは、聖司が誰かと環境問題を論じた末にコンクリート・ロードでもいのだ、と話しているかのような錯覚を読者に与えかねません。

正しくは、「おれ、コンクリート・ロードの方も好きだぜ」。そもそもコンクリート・ロードは雫がふざけて作詞した歌であり、それを偶然見つけた聖司がやはりからかいを込めて歌います。そして、雫がカントリーロードを歌った後に、聖司が「おれ、コンクリート・ロードの方も好きだぜ」と言うのです。

耳をすませばという作品では確かに環境問題がかなり深刻なテーマになっていると言えます。コンクリート・ロードという歌が登場するのもその要素の一つであるでしょう。しかしながら、聖司の「おれ、コンクリート・ロードの方も好きだぜ」という台詞は、雫との交流の中から生じた台詞であって(最初はそっけなかった聖司の態度が実は本心からではなかったことを端的に示している例となっている)、ここに宮崎駿の意図を読み取り、ニヒリズムや諦念、そして肯定への意志を汲み取ってゆくのは「誤読」と言わざるを得ない。

恐らく最初に結論があり、作品のあらゆる細部をそれに奉仕させてしまっているのでしょう。しかし、これはすぐれた批評の在り方ではありません。作品は一つの結論に向かって完璧に統合されるべきものではなく、むしろ統合から逃れ出るものです。細部というものは統合のための部品なのではなく、つまり全体の中の一部に過ぎないのではなく、それ自体で意味を持ちうる自由な存在であって、統合を嫌うことはままあるのです。このことが分かっていない。

耳をすませばは典型的な例でしたが、宇野氏は他の作品でも同様の誤りを犯しており(自論に作品を奉仕させている)、正直言って、少々腹立たしい。自分なりの信念なり思想なりがあって、それに基づいて作品を論じていることに鋭さや快楽を覚える読者もいるのかもしれませんが、それと同時に、こうした言説がより多くの評論家嫌いを生み出していることを、そろそろ評論家や批評家は自覚するべきです。まず作品があり、そこから真摯に思考してほしい。不確かな己の考えを作品全体に適用しないでもらいたいのです。作品からあるテーマを導出するのは自由ですが、それを確立させるために細部を利用し、捻じ曲げてしまうことは控えてもらいたい。ブログなどで意見を開陳するのは構いませんが、本の中の作品レビューで、これが「解答」であるかのように意見を提出するのはやめてほしいのです。まあ、これは宇野氏に言っても詮ないことではありますが。

というわけで、ぼくの言えるのは、この作品レビューはあてにすんなよ、ということです。

アリエッティ ネタばれ少しある方向で手厳しく

2010-07-18 01:07:45 | アニメーション
このブログを定期的に見てくださっている方々は、ぼくがジブリ作品を好きなのはお分かりなのだろうと想像します。アニメーションが好きになるきっかけはもともとジブリだったし、ジブリ作品についてはあまり悪口は言いたくない。実際、悪口を言わねばならないような作品はほとんどない。

しかし、あえてジブリに対して厳しいことを言います。
これは悪口ではありません。少なくともぼくにそのつもりはない。憂い、と言えば正しいでしょう。

この作品の方向で進んでゆけば、ジブリは間違いなく終わります。
なぜか。
作品がつまらないからとか、出来が悪いからとか、そういうことではありません。そういうことはむしろ仕方のないことで、つまらないからジブリ終わったなとか、そういうことは言いたくない。ではなぜ、これでは終わってしまう、とぼくが危機感を抱いたかと言えば、ジブリが予定調和に入ってしまい、冒険しなくなったからです。

アリエッティを作った人たちは、ジブリ作品がいかなるものなのか、ということを本当によく理解している。いや正確に言えば、ジブリ作品の一般的なイメージをよく理解している。ジブリ作品は恐らくこのように世間に受容されているだろう、ということを実によく理解している。そして彼らはそのイメージに忠実に作り上げた。小人というファンタジックな設定がある、冒険がある、少女と少年との淡い触れ合いがある、美しい自然描写がある、等々。

主に宮崎駿が作り上げてきたものを、再生産しているのです。しかも縮小しながら。一方で宮崎駿は、過去に自らが築いたものを破壊する傾向が年々強まっています。この乖離性はなんなのか。宮崎駿は壊し、(高畑勲を除く)他の人々は宮崎駿の縮小再生産を繰り返す。宮崎駿は脱皮し続けているのに対し、新しい監督はその古い皮を寄せ集めてパッチワークをしている。

この新しい監督たち(ゲドとアリエッティ)は、冒険をしない。ジブリのイメージや宮崎駿らしさを求めて、粗悪な模造品を作り上げる。高畑勲や宮崎駿がこの先映画を作れなくなったとき、ジブリは過去の作品に似たもの(しかし結局は似ても似つかない代物)を生産するだけになってしまう予感がします。

ジブリが終わってしまう、と感じたのは、若い人たちの冒険心のなさにショックを受けたから。仮にジブリが存続したとしても、それはもはやジブリではありません。ジブリらしさとやらを守り続ける安心安全な「良作」しか生み出さないのでは、つまらない。もっと革新的なものが見たい。宮崎駿が先へ先へと歩を進めているように、他の人たちもせめてその心意気をもってほしい。可もなく不可もないような、「いい話」で終わってしまうだけの作品なんて、ジブリが作る意味があるのでしょうか。

猫(ニーヤ)の役割は明らかに耳すまのムーンをモチーフにしており、その風体までそっくりなのには驚かされる。
最初の車の移動は千と千尋の冒頭を髣髴させる。
宮崎アニメではお馴染みの洗濯物干しがなぜかここにも。
物静かな老婦人と好奇心旺盛な家政婦という組み合わせは魔女宅と同じ。

物語は平板で、起伏がありません。起伏がない作品でもいい作品はありますが、これはただ単に人物の行為を見せているだけで、正直退屈します。作画としてのおもしろさで演出力の不足を補ってほしいところですが、それもない。伏線はあるのに、回収されない。

この作品でたぶん最も大事なことの一つは、小人から見た人間世界の描写であり、端的に言えば世界の異化にあります。世界を、全く新鮮な目で見ること。この目を観客がアリエッティたちと共有することで、映画館を出た後も、世界を今までとは違った風に見つめることができるようになる、それが期待されるべきなのでしょう。

この映画では、異様に響く時計の音、やけに大きく感じられるバッタなど、小人から見た世界が確かに描かれます。でも、これは我々の想像力の範囲内なのではないのか。あの程度の世界なら、たぶん誰だって想像できる。宮崎駿は、かつてこんなことを語っていました。ハチは雨をよけられるし、鳥は風が見えるのだ、と。ハチにとって雨ははっきりと目に見えるものであり、雨粒がへこみながらフニュフニュして降って来るのが分かる。それはぼくらにとっての雨ではないかもしれない。しかし、小人にとっての雨とはそういうもののはずなんです。世界を小人の側から描くのなら、そこまでやらないといけない。単に時計が大きな音を立てるとか、バッタがバタバタとんでるとか、ネズミが大きくて怖いとか、そんなのは別に当たり前のことで、驚きようがない。

世界を見る目が洗われるような体験ができなければ、小人の世界を描いた意味はない、と言ったら言い過ぎかもしれません。でも、この映画はぼくの人生観を変えさせるような映画にはなりえていないし、そもそも人の人生観を変えてやる、というその心意気がなかったように思えてなりません。ジブリテーストの良質な作品を作りました。それでおしまい。

映画自体がドールハウスみたいな小さな佇まいですから、ある人は言うでしょう、つまらない。ある人は言うでしょう、佳品である。小粒ではあるが、悪くない、と。でも、そこそこの作品を作ることにどれだけの意味があるのか。これまでのジブリ作品の寄せ集めで、さしたる欠点もあるわけではない。感受性の強い人ならしみじみできる。でも、多くの人の心の奥底を根底から揺さぶるような、圧倒的な体験をさせることを希求しているようには見えないこの作品は、ジブリが作る意味はあったのか。

アリエッティについて語るつもりが、ほとんどジブリの今後やあり方を心配する内容になってしまいましたが、それというのもアリエッティについてはあまり言うべきことが見つからないから。これは自分にとって悲しいことです。

ぼくは世界を見る目を変えてくれる作品に出会いたい。

気儘に

2010-07-15 22:51:53 | Weblog
どうも書くことがない・・・
でもあんまり更新しない日が続いてもナンなので、気儘によしなしごとを書いておきます。

ジェイコブズの別の短編を読みましたが、基本的にこの人の小説は読みやすいんですね。会話が多いし。と、本音を言ってみる。地の文で読ませるっていうのはかなりの力量が必要ですからね。翻訳ではなかなかお目にかかれないですね。
しかし平井呈一は名文家ですねえ。こんな文章が書きたいものです。

さて、最近は朝が早くて夜も早い日が多いので、けいおんの時間になると眠くて眠くてたまらないときがあります。先日などは、ついうとうとしていたら、はっと気がついて、始まる時間寸前でした。
そういえばOPとEDが変わりましたよね。先週からでしたっけ。前の方がよかったような気が・・・でも4月にも同じことを思っていたけど、だんだん慣れてきて、いやいいじゃん、と思い直したんだったよなあ。今回もどうなるか分かりません。

とまあ、今日はこのへんで。

やるべきことを

2010-07-12 22:21:57 | Weblog
なんとなく今、ちょうど今、自信を喪失しています。
やるべきことをやっていないな、とか。
勉強していないな、とか。
しなければならないことは山ほどあるのにな、とか。
英語読んでないな、とか。
ロシア語読んでないな、とか。
日本語の小説読んでないな、とか。
日本語の研究書読んでないな、とか。

ところで、またパソコンの調子がおかしいぞ。
前と同じ症状で、それが悪化してる。
文字が書けないいいい。
だから今日はこのへんで。

見えない眼

2010-07-11 16:06:38 | 文学
エルクマン=シャトリアン「見えない眼」という短編小説を読みました。
ピンと来た人、いますか。
江戸川乱歩の「目羅博士」の元ネタはエーヴェルスの「蜘蛛」、そしてその「蜘蛛」の元ネタがこの「見えない眼」なのです。
以前、乱歩の「目羅博士」を読んだとき、あまりにもエーヴェルスの小説に似ていたので、模倣しているに違いないと思ったものですが、最近そのエーヴェルスがエルクマン=シャトリアンの小説を模倣していると知り、早速図書館で借りて読んでみた次第です。

乱歩の小説は、むしろこの「見えない眼」の方に近いですね。乱歩はさすがにこの小説のことまでは知らなかったと思われるので、偶然でしょう。なんというか、「見えない眼」は怪奇性と現実性がまだ未分化の状態で、前者はエーヴェルスによって深刻な恐怖へと高められ、そして後者は乱歩によって探偵小説的趣味へと引き上げられた感じ。エーヴェルス等の作品を知らずにいきなり「見えない眼」を読んだら、いまいち意味がよく分からないかも、と思ってしまうほど、肝心な部分の描写は暗示的で、はっきりしません。

ところでエーヴェルスは『プラーグの大学生』でもやはりG・マクドナルドの小説を模倣しているそうで、小説のアイデアを他から拝借、ということは随分やっているのでしょうか。それはそれとして、エルクマン=シャトリアン、エーヴェルス、乱歩の一種の模倣合戦は、「見えない眼」のテーマから言って、必然でさえありました。というのも、そのテーマとはまさしく「模倣」だったから。もっと言えば、模倣や鏡の恐怖がテーマであると言えるでしょう。誰が誰を模倣しているのか分からなくなってくるところにこれらの小説の不気味さがあり、そして模倣の隠れた本質があるように思えます。そういえば、トポールの『幻の下宿人』もかなり近いテーマの小説だった気がします。

こういうことは、昔のブログで書いたように記憶しているので、今日はこの辺で。

そうそう、耳すまのことを書いて、初めて閲覧数が大幅に上昇しました。これまではどういうわけか逆に大幅に下降していたんですよね。金曜ロードショー効果ですね。

USTの実況見ながら耳すま

2010-07-10 16:06:47 | アニメーション
きのうの金曜ロードショーは耳すまだったわけですが、いつもの放送とはちょっと違っていまして、なんとUSTREAMで本名陽子さんの実況付きだったのです。テレビで本編を視聴しながら、USTで本名さんがお仲間と喋っているところを同時に視聴する、といういささか困難な作業をファンは強いられたわけですが、これがどうやら成功したようで、ツイッターのフォロワーは1万人を突破、またUSTの視聴者数は4800人を突破して世界1位になりました。

ただ、もう少し本編とリンクした内容を喋ってほしい、という気持ちがぼくにはあって、なんだか本名さんたちがわいわい盛り上がっているだけのような気がしなくもなかったのですが、でもここぞというシーンでは裏話なども聞けて、押さえるえるところは押さえているな、という印象も。もっとも、裏話といっても、鈴木敏夫が声優で参加しているとか、コアなファンの間ではよく知られていると思われる情報だったので、新鮮味はなかったのですが・・・。
ただ、雫のモデルが監督の初恋の人だった、という情報は初耳だったかも。仮にどこかで読んでいたとしても、すっかり忘れていました。なるほどなあ。近藤監督は雫みたいなのが好みなのね。

耳をすませばについては、かなり色々な切り口から語ることができると思っているのですが、あえて今日は真っ向から語りたいと思います。最後の結婚してくれないか、という台詞について。

この台詞については賛否両論があるのですが、個人的には、「賛」の側に立っています。その理由。非常に単純なことなのです。結婚というものに対する認識が、中学生と大人との間では異なっているのです。つまり、大人にとっては結婚というのは必ずしも恋愛の延長線上にあるものではなく、様々な障害、親族間の葛藤等の問題を排除しては考えられないものであって、彼らにとってみれば中学生が結婚なんて口にするのまだ早すぎる、という結論になります。家庭を作らねばならない、経済的に自立せねばならない、ということは当然であり、そんなことを考えるのは中学生には不可能、結婚なんてちゃんちゃらおかしいよ、というわけです。しかしながら、中学生にとっての結婚は、そんなに現実的なものではありません。いわば、「恋愛成就の究極の形態」に過ぎないのです。

雫はともかく聖司はとてもしっかりした少年で将来を見据えていますが、それでもこのような結婚観を持っていることはありそうなことです。かなり一途な性格ですから、好きとなったら結婚まで考えてしまうことは必然であるように思えます。雫が聖司をそれと認識してからわりと間もない時期にもうプロポーズ、ばっかじゃねえの、という意見にはだからぼくは与しません。あの聖司ならばそこまで突っ走るはずだし、中学生にとっては結婚は恋愛の究極形態なのですから、結婚を目指さなくてはならないのです。それに、中学生って結婚のこと案外考えるものですよ。もちろん現実的な問題としてというよりは、憧れとして。好きな人と結婚できたらいいなあ、ということくらいは誰でも考えるのではないでしょうか。ぼくが耳すまを初めて観たのは中学生のときでしたが、最後のシーンは何も違和感はありませんでした。すんなりと受け止めました。自分の実感に即していたからです。

あと、物凄く展開の早いこの映画の中で、最後のプロポーズというのは必然であるように思います。なぜか急に名前を呼び捨てたりするようになったりして、いつからそんな関係に!?と戸惑ってしまいますが、これは宮崎駿のコンテが生きていますね。宮崎駿ならではの物語の進め方です。彼は、無駄なことは一切描きません。恋愛の途中のああだこうだはもう思い切って省いてしまって(もちろんそこが恋愛の大切なところではあるのですが)、どかんと思いをぶつけてしまう。少し仲良くなったら、もう呼び捨て。そして告白。イタリアから帰ったらプロポーズ。この畳みかけ方は、聖司の性格とも合っていますが、同時に宮崎駿の理想の恋愛観らしきものを反映してもいます。だから、もしも宮崎駿が監督だったらよりストレートな恋愛映画になっていたと思うのですが、近藤喜文が監督であったために、繊細な感覚が随所に見られるようになり、絶妙なバランスの映画となりました。

近年、耳すまや時かけが、一部の視聴者から鬱アニメの代表格として非難されることがありますが、それは本当に一部の感情がネットに流出して広まり、そして多数の人々の潜在的な感情や感覚を刺激したのだと思われますが、このような現状を、ファンとしてはやはり苦々しく思っています(このあと長い文章を書きましたが、削除)。

誰かに憧れを抱き、それゆえに悩み、そして前に進み出す、というのは立派な行為だと考えます。ぼくは昨日この映画を見て鬱になるどころか勇気をもらった。自分よりも「上の人」を描いた作品というのは、近代リアリズム以降は減ってしまったようですが(かつては違ったのに)、たまにはそういう作品があってもいい。いつも等身大の人物ばかりではそれこそ鬱になってしまう。理想形を見出し、そして自分もそれに近づきたいと願う。

そういえば、新海誠の新作映画のブログが昨日できました。
http://ameblo.jp/teamshinkai