Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

貴重な本

2009-09-30 00:50:35 | 文学
ロシア語読むのめんどい。誰か代わりにやってくれないかなー…

このあいだ、古書店で『現代ソビエト短編集』というシリーズを二冊買いました。ロシア文学の翻訳にはぼくはけっこう詳しいつもりだったのですが、このアンソロジーの存在は知りませんでした。どうやらロシアの出版社が発行しているようです。翻訳は有名な方ですが(宮沢俊一)。

二冊で2000円でした。ぼくは更に『評伝 ロシアの作家たち』という本も買ったので、税込みで2600円ほどになりました。こんなはずでは、と思いつつも、もう少し店内を物色していたら、亀山郁夫の論文集が売られていました。その中にぼくにとって重要な論文が入っていたので、欲しい!と思ったのですが、3000円近くする…。これはもう、さきほどの2600円か、こちらの3000円か、どちらを買うか、という問題になりました。迷いに迷い、結局この3000円の本は図書館にあるだろう、と考えて、『現代ソビエト短編集』の購入を決めました。

それからそばにある図書館へ行き、同じ区内の別の図書館に亀山郁夫の本が存在することを確認、その本を求めて自転車でかなり遠くの図書館まで走りました。ようやくのことでその本をゲット、家に帰ってから読みました。

さて。本題はここから。購入した『現代ソビエト短編集』は、ネットで調べてみると全三冊あることが分かりました。ぼくは二冊しか買えなかったので、そこは残念ですが、しかし驚いたのは金額。ぼくの手元にないその第三巻は一冊でなんと3000円、そしていまやぼくの手元にある本に至っては、アマゾンで7777円もすることが判明。どうやらかなり希少な本らしく、日本の大学の横断検索で調べてみると、全巻を所蔵している大学はないようです(一校にしかない巻もあり)。

これは珍しい本を手に入れた、とぼくはもう大喜びです。目次を見てみると、知らない作家の名前がずらり。例えばマテヴォシャンとか、ペトキャヴィチュス(!)とか。どうやらソ連に住んでいる色々な民族の作家の短編集であるようです。

うちにはそんなに高価な本はないので、これはその中ではかなりの貴重書ということになります(まあ一般的に言えばそれほどではないんでしょうけどね)。もしお金に困っても、ブックオフには売らないぞ…価値の分かるところに!

ちなみにこの本、一冊1ルーブル55コペイカだそうです(本に書いてありました)。今なら日本円で4円くらいです。!?

繰り返しの効用

2009-09-28 01:42:37 | アニメーション
何事につけ、繰り返し行うことは新たな発見をもたらしうるものです。

このあいだのカナダ・アニメーション・フェスティバルで、既に観たことのある作品を幾つも再見しましたが、「こんなにすごい作品だったっけ」と思えるものがありました。その一つがジャック・ドゥルーアンの「心象風景」。DVDで観たことがあるきりでしたが、大画面で改めて鑑賞してみると、その迫力に驚きました。ピンスクリーン独特のメタモルフォーゼが画面全体で展開され、壮観。人間の顔のアップなども瞳が細かく描き込まれ、異様な感動を覚えました。

このように、再度の鑑賞で新たな発見があることは分かっていたのですが、なかなか一度観た作品をもう一度観ようという気にはなれないでいました。なんとなく、時間がもったいないような気がして。ぼくは本でも一度読んだものはほとんどの場合もう読みません。忘却にまかせます。でも、何度も読み返したほうが理解が深まることは知っているのです。アニメーションも同じ。一度では把握し切れない作品が大半のはずです。それでも何回も観ることは怠ってきました。ジブリ作品などは繰り返し観るのですが、それは例外です。

しかし、これからは、機会があれば既に観たことのある作品でももう一度鑑賞してみようかな、と思うようになりました。そうしないとどんどん忘れちゃいますし、大幅に評価が上がるということもありえないですからね。ドゥルーアン然り、ラーキン然り。

だから本も、昔読んだやつを引っ張り出してこようかなあ。

世界を視る目線

2009-09-27 01:44:45 | Weblog
朝日新聞の記者が添削係を務めているというエントリーシートの書き方講座みたいなもののチラシがポストに入っていました。たしか先週も入れられていたのですが、そのチラシには、どのように添削されているのか、という具体例が出ています。それがなんともおぞましい(!)とさえ言える内容で、未だに憤慨が収まりません。唖然・呆然・憤然です。

色々と文句はあるのですが、全部並べ立てていても仕方ないので、一つだけ。
学生時代にがんばったこととして、学生は飲食店でのアルバイト経験を挙げていました。そこには、どのように自分が仕事を覚え、先輩から認められるようになったのかが、具体的に記述されていました。

それに対し、朝日のベテラン記者だというその添削係は、次のようにコメントしていました。学生は人生経験がないからか多くの人がアルバイト、サークル、部活について書く。それは没個性的だ。驚くような内容ならまだしも、飲食店など論外だ、と。

人には様々な考え方がありますから、この記者の理屈を完全に否定するべきではないかもしれません。それに、一理あるのも確かです。しかし、学生のエントリーシートの場合においては、こういう考え方は明らかな間違いだと言いたい。この記者は、学生には人生経験がないと言いながら、しかし人が驚くような体験の記述を求めています。これは矛盾しています。そうではなく、ありふれた経験の中にも、自分なりの発見や工夫をした経験を述べればいいのです。アフリカでボランティア活動をずっとしてました、なんて学生はそうはいませんよ。皆、大したことはしていないのです。せいぜいサークルを立ちあげたり、間伐ボランティアをしたり、その程度ですよ(ぼくのことですが)。

飲食店での仕事は没個性的で、論外だ、という記者の認識は間違っています。というか、失礼でしょう。いったい、実際に仕事している人たちのことを考えて書いたのでしょうか。この人は新聞社で何を取材してきたのでしょう。

どんな仕事であっても、それを自分なりに独自のものとして捉える努力こそが讃えられるべきです。この記者は、たぶん異化という言葉を知らないし、その概念も知らないのでしょう。日常的なものを、異質なもの、初めて見るものとして眺めること。それがこの変わり映えしない世界を輝かせる一つの手段です。学生はそのことを弁えていたのに、記者には想像すらできなかった。どっちが先生だか分かりません。

新聞というのは、非日常的なことを書くことが多いですから、そういう考えにすっかり染まってしまっていたのかもしれません。ありふれたものなどに価値はないのだ、と。でも、世界というのは99%はこれまでの反復から成り立っている、ありきたりなものです。そこにいかに差異をもちこむか、その方法の一つが異化という思考法です。

この記者は、子どもの目線(それは異化という目線でもある)を忘れてしまった、つまらない大人なんですね。たぶん多くの大人はそうなんでしょう。宮崎駿の言う「イバラード目」とか、新海誠の目線とか、そういう世界を輝かせる目線の持ち主とは対極にあります。ぼくはなるべく新海誠寄りにいよう、と自戒を込めて改めて誓うのでした。

路上に咲いたアニメーション

2009-09-26 02:18:45 | アニメーション
渋谷で『路上に咲いたアニメーション ライアン・ラーキン』を観てきました。
ライアン・ラーキンはアニメーション監督。ぼくは6年ほど前に彼の作品を観たことがあったのですが、それっきりで、それほど気に留めていない作家でした。2005年に彼の数奇な半生をアニメーション化した作品がアカデミー賞を受賞したことで再評価が進んだそうですが、そのことも知りませんでした。2007年に彼が亡くなり、そして今年には日本で彼の全作品が公開される運びとなりましたが(奇蹟だ)、それにも大いなる喜びを感じていたというわけではありませんでした。ただラーキンは優れたアニメーターですので、それで観に行くことは行くけどね、という気持ち。

ですが、ぼくはたぶんラーキンへの認識を改めなければいけない。とりわけ「ストリート・ミュージック」は紛れもない傑作です。既に観たことのある作品ですが、当時はそれほど印象に残らず、これが偉大な作品だという認識はありませんでした。今日、二度目の視聴をしましたが、すごい…

マクラレンのように軽快でパテルのように変容する、これほど自由で愉快で美しいアニメーションは他にほとんど例がないのではないでしょうか。抽象アニメーションの作り手ということで、サザーランドがマクラレンの後継者と呼ばれているそうですが、その音楽に合わせた動きの軽快さを真の意味で最初に継承していたのはラーキンだったのかもしれない、と思わされました。

まことに自由で変幻自在なそのアニメーションは色彩も豊かで、「動き」というアニメーションの最大特性を奪ってしまったとしても、それでも鑑賞に十分耐えうるほどの美しさを備えています。水彩の抽象画は輪郭がぼんやりしていて、隣接する模様と完全に溶け合っています。色の移ろい具合が見事で、精密な写実画よりもより多くのものを描き出している気がしました。スクリーンに映し出されているのは、ただ赤や黄や青といった色の「染み」で、それがぼやぼやと風景のようなものを形作り、様々な時刻における景色を現出させています。絵画の特徴として、小によって大を語る、みたいなことがありますが、まさにそれですね。少ない情報だけでより多くの情報を観客の脳にインプットしています。

しかしながら、ラーキンの真骨頂はやはり「動き」にあります。「ウォーキング」(かつては「歩く」と訳されていた)では、ただただ人間の歩くという動作をアニメートしていて、それだけで一個の作品に仕立て上げています。これは実写をトレースしたものではないか、と思っている人もいる、という話ですが、それは明らかに違っていて、アングルや遠近法などが実写ではありえないそれになっているし、様々な誇張が見られます、肉体のバランス、足の大きさなどで。アニメーションというのは単に人間の動きを模倣していてはつまらない、とぼくは思っていて、そこにどのような誇張を加えるか、が大事なはずです。もちろん、見過ごされている人間の動きを「発見」し、それを忠実に再現することは興味深い試みですが、それをグロテスクに誇張するのはより芸術的な方法だと言えるでしょう。ブラザーズ・クエイの人形が人間を模倣していないのは、恐らく彼らがそのことに自覚的であるからです。

日本で、ただ「歩く」という動作だけで一つの作品を作れる人を挙げろと言われれば、森本晃司が頭に浮かびます。あと、「やどさがし」の近藤勝也とか。ラーキンの軽快さは出せないかもしれませんが、しかし彼ら独自の動きの美学は表現できると思っています。

ラーキンの遺作、少し残念な出来でした。どこまでラーキンが関わったのか、専門家でないぼくには分かりかねますが、動きにキレがない気がしました。絵はラーキンのもののようですけれど、アニメートまで彼が担当したのでしょうか。全盛期を髣髴させるよいところもあったのですが、全体的に見て、傑作とは言い難い。悲しいですね。

ちなみに、初期作品「シランクス」は初見でしたが、これは隠れた名作かも。メタモルフォーゼがふんだんに使われており、アニメーションの醍醐味を感じることができました。

ライアン・ラーキン。今までそんなに関心なかったけど、立派なアニメーション監督だったんだなあ。ちなみに彼は若き日の栄光を捨てホームレスに身をやつしましたが、そこらへんの詳細はクリス・ロビンソン『やせっぽちのバラード』で説明されているのでしょう。土居さんという、ぼくの大学の先輩に当たる学生(話したことはなくて一方的に名前を知っているだけだけど)が翻訳をしていて、歳が近いのでちょっと悔しいけど、ラーキンの作品がとてもよかったので宣伝しておきます。ぼくは読んでいないのですが…

カナダ・アニメーション・フェスティバル

2009-09-25 00:48:09 | アニメーション
時間がないのです。
今日は手短に。

久々にアニメーションの記事。ここのところ、書きたくてうずうずしていました。
いま、下北沢のトリウッドで、毎年恒例のカナダ・アニメーション・フェスティバルが開催されています。10月16日まで。ちなみに京都国際マンガミュージアムでも開催されています。が、こちらは今月27日まで。

プログラムAの作品は、半分くらいは観ているのですが、最後の「ある一日のはじまり」が観たくてこのプログラムも視聴。6年間くらいずーっと観たかった作品です。

とてもよかった。ロシアの作家ハルムスの短編で「あるよく晴れた一日のはじまり」という作品があるのですが、ある点でそれとも似ている。もちろん題名だけではありません。断片性ないし平行性という点で、似ているのです。アニメーションの方は、ある程度の主要なストーリーがあり、それが意外な方向へと進んでゆくのですが、その一方で、それ以外の数々のストーリーラインも共存しており、それら複数のストーリーが薄い関係性を保っています。それに対しハルムスの作品では、主要なストーリーというものは初めから存在しません。ある朝の断片的な出来事が並置されるのみです。しかし、そこにさえ僅かながらの関係性が潜んでいます。ハルムスのこうしたモンタージュ性は当時の映画との関係が指摘されていますが(ヤンポリスキー)、アニメーションで似たような題材(そして似たような名前の作品)が制作されている、ということはハルムス研究者の間ではたぶんほとんど知られていなかったと思います。実に興味深い事実です。「ある一日のはじまり」と名付けた時点で、その作品の大体の方向性は定まっていたと考えられますが、作家のもともとの志向性がそういう題材を選ばせたのか、それともその題材がそういう方向性を備えていたのか。たぶんハルムスの場合は前者だと思いますが、アニメーションの方はどっちだったのでしょう。解説などを読むと、やはり前者であったような気がしてなりません。

接写してゆく表現方法なども興味深かったです。

ただ、もう時間がありません。もっと書きたいことはあるのに…

ドノソ「閉じられたドア」

2009-09-24 01:25:28 | 文学
このあいだ、ドノソ(ドノーソ)の「閉じられたドア」について、これは傑作だ、という意味のことを書きましたが、ぼくはまだその真価を理解しえていませんでした。ぼくは次のように書きました。

                        ★

彼はただ眠るためだけに、いや眠ってそのドアを開くためだけに人生を選択し、計画します。その結果彼に襲い掛かる数々の不幸。その過程の描写は、奇想をテーマとしているにもかかわらずリアリスティックな筆致であり、生じる出来事も日常的な困難ばかり。ですが、この小説は「生きる目的」一般に敷衍できるような寓意性を確実に有しており、その力強い描写は深い感銘を残します。これは自らの理想のためだけに自らの一生を捧げる男の物語であって、その生き方が何より力強いのであり、圧倒的に美しいのです。しかも、この作品の非凡なところはこれが完全にリアリズム小説なのではなくて、あくまで摩訶不思議な物語、奇妙な男の一代記として成立している点にあります。これだけの短編はざらにあるものではない、と思います。すばらしい。

                        ★

「生きる目的」、つまり「人はどのように生きてゆくべきか」ということについて書かれた小説だとぼくはみなしたわけですが、それは余りにも浅い読みでした。ぼくがこの小説に感動したのは、たぶんこれが「世界の秘密」に迫っていたからではないかと思うのです。およそ文学(あるいは芸術)の究極の目的は、この「世界の秘密」を追究することだと考えています。もちろん文学に関しては色々な考え方があり、それらを排除する気は毛頭ありません。ただ個人的には、「世界の秘密」を探ることが文学の至上課題であるように思われてなりません。では「世界の秘密」とは何か?それはこの世界の成り立ち、人はどこから来てどこへ行くのか、人間の目に見えない世界の秩序、といった巨大且つ単純な哲学に他なりません。

人間の生きる目的というのも確かにそうした哲学に属するものですが、しかしこの小説の第一の主題は、そういう「特定の何か」を描くことではなく、人間が「世界の秘密」に肉薄しようとする過程そのものを描くことにあったのではないかと思えてきたのです。物語の始まりは・・・

少年は幼い頃よりとにかく寝てばかりいて、長じて彼は母に言う。自分は寝ているときは至福を味わっているが、ひとたび起きてしまうとその幸福感を忘れてしまう。夢の世界に通じるドアは閉じられてしまう。自分はそれを開きたい。そうすれば、夢の中の幸福感を現実に持ち込むことができる。そのためには、眠らなければいけないんだ…

これは、閉じられたドアの向こうにある何か、それを求める物語ですが、現実世界からはそれは決して感知できません。世界からは隠されている何かが、しかし自分にとっては一番大事だと考える主人公は、それを追い求め続けます。それさえ明らかにできれば、現実世界がひっくり返ってしまうほどの効果をもたらすことができると信じて。まさに、現実世界からは見えない「世界の秘密」を探し求める小説だと言えます。

世界の秘密、世界の謎を解き明かしたい、と考える人はたくさんいるでしょうが、「閉じられたドア」はそのプロセス自体を作品化した、稀有な小説だと思います。隠された世界の秩序を描写しようとすると、えてして不条理になったり辻褄があわなくなったりするものですが(ハルムスの小説が好例)、ドノソの小説は立派なリアリズム小説としても成立しており、幻想性とのバランスがとてもいい。これほどの逸品、純文学愛好家の方は読まなきゃ損です。あ、もうとっくに読んでいる?再読をお勧めします!それほどの傑作です。

東京03かあ・・・

2009-09-23 00:19:30 | テレビ
キングオブコント見ました。

お笑いっていうのは好みがかなり分かれるでしょうから、議論は紛糾しそうですが、個人的には東京03が優勝っていうのにはいまいち納得がいかないです。お前には笑いが分からんのだ!と決め付けられるのは困りますが、ぼくとしては一回目のロッチとしずるがよかった。

ロッチの一回目のネタは警察の取調室でのひとコマを演じたものですが、なんとも軽妙で、自分たちの生活を思い出させてしまうような喚起力もあって(つまり「あるあるネタ」としても力を発揮していて)おもしろかったです。一切口を割らなかった男が、刑事(だったっけ?)のカツどんの注文に徐々に反応してゆくところが滑稽でした。ああいう人っていますよね。子どもに多いのかな。ものすごい意固地になっているのに、自分の権利は守りたいから、自分が損しないようにきちんと口を挟んでくる人。その何とも言えない可愛らしさと可笑しさを巧みに表現していたと思います。

それと、カツどんの注文のややこしさに刑事が混乱してしまうところ。それに対して男は注文の仕組みをしっかりと理解していて、遂に主導権を握ってしまう。いま、サービスやら何やらでけっこう料金体系が複雑な場合があるので、そこを突いた、かなり笑えるネタでした。あと、ドレッシングを両方とも注文してしまうシーンなどは、ぼくも欲張りだからけっこうやっているので(マックでナゲットのソースを両方もらう)、個人的にツボでした。

しずるの一回目のネタもそれに劣らずおもしろかったです。名前分かりませんが、縛られていた方の口調が何とも言えずよかった。人によっては狙いすぎに感じるかもしれないですけどね。まあこれらはみんなぼくの意見なので。ストーリーの進展としてはよくあるパターンかもしれないですが(逃げてもよいのに別の目的に夢中になって逃げないところはベタですね)、「逃げちゃうよ」という台詞に思わず吹き出してしまいそうになりました。ただ、二回目のネタはちょっと…

あと、最下位だったジャルジャルはぼくとしてはけっこうよかったですよ。二回とも楽しめました。なんで評価されなかったのかが分かりません。

決勝出場者としのぎを削った芸人たちが点数をつけるというシステムには問題ないでしょうかね。やっぱり芸人同士で色々あると思いますから、私情をさしはさむ人がいてもおかしくない。先輩との関係がどうたら、とか。M-1みたいにベテランか、素人100人の判断に任せた方がよい気がします。R-1も審査員に問題があったような…

ある種の優れたコントや漫才というのは、やはりある種の短編小説に類似していると思っています。シュールでナンセンスな、一風変わった奇妙なコント・漫才を見ていると、そういう種類の短編を読んでいる気分にさせられます。そのたびにぼくは、彼らは小説を書いても上手いんじゃないかと思うわけですが、文章力さえあれば、実際かなりのものを書くのではないでしょうか。お笑いを馬鹿にする知識人は多いと思いますが、なかなかどうして、ムロージェックあたりを思わせる才能の持ち主もおりますよ。

神保町にて

2009-09-21 00:21:21 | 文学
パソコンの不調で、いくつかのサイトが適正に表示されない状態が続いていますが(コメントもできない)、ちょっとストレス溜まるなあ。

今日ではないですけども、学校へ寄ったついでに神保町に行ってきました。
収穫は池田健太郎の『「かもめ」評釈』一冊。
これはすごい本で、チェーホフの「かもめ」をごく短く区切って、それぞれに詳細な評釈を加えたものです。宇野重吉の『チェーホフの「桜の園」について』を御存知の方は、それを思い浮かべてもらえれば、だいたい想像がつくと思います。この宇野重吉の本もとてつもない本で、いわゆる演出ノートなのですが、これほど詳細な注をつけるものなのか、これほど演出家というのは戯曲を読み込むものなのか、と驚倒させられます。

テクスト分析という言葉が昔流行りましたが、その極北だと言えるかもしれません。もっとも、ぼくはどちらも通読していないのですがね…。

さて、神保町の古本祭りは来月末から例年通り開催されるようです。ぼくも行く予定です。まだ具体的な日にちは決めていませんが、最初の方と最後の方と、二回くらい足を運ぼうかなと考えています。まあ大学の近くなので、頻繁に行こうと思えば行けるのですが。

今どうしても欲しい本、というのはないですけども、あったらいいなあ、くらいの本は何冊かあるので(値段次第ですが)、ぶらぶらしながらそういうのを探すのもいいですね。

去年は雨が途中で降りました。あれからもう一年か。早い…

蜷川幸雄に愛される俳優

2009-09-20 01:05:48 | テレビ
NHKの土曜スタジオパークに小栗旬が出ていました。いま大河ドラマで三成役をやっていますからね。
石田三成は、これまでは悪い人みたいに描かれることが多かったみたいですが、今回はそうではありません。かなり同情を買う、実はいい奴、という描き方がされています。その代わりに泥を被っているのが家康。あの時代って、秀吉、三成、家康といるので、誰を主役に据えるかで描き方が変化してしまうんですよね。秀吉側をよく描くなら家康は都合が悪いし、その逆も然り。また秀吉をよく描こうとすると、三成が秀吉の負の面を背負うことになるので悪くなる。というふうに。今回は家康が悪人的な感じ。

どうでもいい話でした。

さて小栗旬って、いままでぼくは大して意識してなかったし、出演ドラマもほとんど見ていない気がします。今年の大河ドラマで初めて真剣に彼の演技を見ました。人気先行だろう程度に思っていたのですが、意外や意外、うまいじゃないですか。女性ファンが多いのは、まあかっこいいからだと思いますが、芝居も上手ですよ、彼。藤原竜也と仲がよいそうで、顔もどことなく似ていますよね。同い年なんですかね。このあいだは同じ舞台に武蔵と小五郎役で出演していたし、二人はいま若手を代表する俳優だと思います。いやほんとに。

で、NHKのこの番組では蜷川幸雄もビデオ出演したのですが、まさしく叱咤激励していました。「お前は二番手三番手でいいなんて言うが、そんな低い志でどうする。お前は中心になるべき俳優なんだ。それだけの才能を持っているんだから。世界には、若くてもっとすごい役をやっている俳優がたくさんいる。彼らを見るんだ。不良高校生役なんて誰だってできるんだよ。」などなど…

ああ、蜷川幸雄にものすごい愛されているんだなと感じました。こんなに評価されてるんだなあ。とすると、やっぱりすばらしいものを持っているんでしょうね。小栗旬の演技がうまいと感じたぼくの眼も、節穴じゃないな…(と自分も褒めてみる)

一度、演技のうまい若手俳優だけを集めて、群像劇なんかを二時間ドラマでやってほしいなあ。いくらかっこいい/かわいい俳優でも、下手だったら興ざめですからね。ちょい役で若手芸人を出すとか、そういうのはやらなくていいですから。

アレーの小説についてのはずが

2009-09-19 01:10:16 | 文学
電車の中でアレー『悪戯の愉しみ』を少し読む。
おもしろい。
冒頭の「親切な恋人」は既読ですが、それでもおもしろい。
私事ですが、このあいだごく短い小説を書いたことがあって、それとよく似ている!小説を書いたのは「親切な恋人」を読んだ後ではありますが、もともとの構想はアレーとは関係なくて、ハルムスとソローキンを念頭に置いていました。物語に恋人を登場させよう、という着想はアレーの小説から得られましたが、ここまで感触を似せる意図は全くありませんでした。「アレー体験」が脳内にも刷り込まれていたのでしょうか。

ちなみに、ぼくのその小説「これはアイじゃない」について簡単に述べておきます(興味のない人が多いと思いますが…)。
語り手の「私」とその恋人とが中央アジアへ出かけます。彼らは砂漠地帯を歩き回りますが、夜、火をつけるものがないことに気がつきます。そこで、「私」は手斧で自分の腕を切断、火にくべます。それだけでは足りないので次は脚。しまいには恋人に向かって頭を差し出す…という話。
この小説は「私」の回想記という体裁を取っていますが、語り手が死んでしまうところがミソです。ハルムスの、語っている対象が消滅してしまう作品を参考にしました。ぼくの場合は語っている主体が消滅します。一方、ソローキン的だというのは、ストーリーの突然の転調。それまでは単なる恋人同士の楽しい旅行だったのが、急に惨劇に変わる、というところをソローキン作品から借りました。また、この切断という行為は恋人のために行われているので、そこはアレー的ですね。タイトル「これはアイじゃない」の「アイ」は、英語の「I」と「愛」とを掛けています。
なお、タイトルそのものはドヴラートフの同名のタイトルからの借用。もちろん内容はまるで違います。
このように、非常にブッキッシュな短篇で、かなりインターテクスチュアルな、そして戯れ的要素の強い小説です。真面目にホラーを書いてやろうなんて全く考えていなくて、ほとんど遊び感覚で書きました。どうも真面目に小説を書く、ということがぼくにはできないらしく(できなくなってしまったらしく)、ちょいと斜に構えた姿勢からしか作品が生まれません。こんなことは誰かが既に書いてしまっている、いまさら愛や冒険でもあるまいし、などという思いが押し寄せてきて、本気で取り組むことができないんですよね。遊びの中でしか成就されない、というか。
ちょっと寂しいですね。

あれ、アレーについて書こうと思ったら、自分のことを書いてしまった。あれれ。

超短編アンソロジー 其の弐

2009-09-18 00:32:58 | 文学
英語の論文を読んでしまったので、『超短編アンソロジー』の残りを全部読むことができました。わーい。

おもしろかったのは、

ワイルド「弟子」
吉行理恵「梨の花の揺れた時」
谷川俊太郎「そのものの名を呼ばぬ事に関する記述」
萩原朔太郎「死なない蛸」
逸名「絵師」
ルナール「蛇」
谷川俊太郎「黄いろい詩人」
入沢康夫「樹」
筒井康隆「天狗の落とし文」

谷川俊太郎の「そのものの…」は、まさしく異化のお手本のような作品。シクロフスキー(をはじめとするロシア・フォルマリストたち)が文学にとって非常に重要なものであると考えたこの異化という手法は、あるいは「非日常化」とも訳されたことがあり、そちらの方がこの概念を伝えるのに適しているかもしれませんが、要するに日常見慣れているものを違ったふうに捉え直すことです。そのために、奇妙な語結合が試みられたり、ありふれたものをいかにも異様に描き出すのですが、本作では後者の手法が取られています。そのものの名前を言わないで、まるで初めて見るかのように対象を描写してゆく。そうすることで、われわれのものを見る目は洗われ、思考法そのものが刷新されるのです。

「死なない蛸」は、まるでハルムスの「赤毛の男」の物語のようです。たぶん既読作品ですが、新鮮な驚きがありました(単に忘れていただけなんですが)。赤毛の男の物語は、語り手が語っているはずの対象の人物が、虚無の中に溶けて出し、初めから存在していなかったような印象を読者に与える、極めて不可思議な、忘れがたい作品。一方「蛸」は、水槽で飢えていた蛸が空腹のあまり自分をすっかり食べ尽くしてしまいますが、しかしそれでもその存在は確かに水槽の中にありつづけているのだ、という奇妙な話。身体が無に帰すのは共通していますが、ハルムスにおいては存在自体が怪しくなり、萩原朔太郎においてはむしろ一層その存在が際立ってくる、というふうに両者は好対照を成します。また後者には動機づけが存在することも異なる点として挙げられます。

超短編というのはその「短さ」によって特徴付けられますが、内容的にはどうなのでしょう。必ずしもオチに頼らないところが、編者の本間祐によればその魅力に繋がっているらしい。また、極端に短い物語(それは物語である)の中に世界を一気に凝集してしまうところが一つの特徴であるようです。小によって大を語る、という姿勢が見られるといよいよ超短編らしくなるようでもあります。

ここで、ぼくなりの定義。短い物語の中に世界の不思議を詰め込んだのが超短編である。

あまりにも漠然としていて、ほとんど何も説明できていないことは承知していますが、今のところはこのくらいのゆるさが丁度いいです。
もちろん、ハルムスの短い物語群も超短編の範疇に入ります。世界の不条理さの本質を短い中に描いていますしね。

ところで超短編傑作選というシリーズが出ているみたいですね。図書館に置いて欲しいなあ。

幸せな時間

2009-09-17 01:20:47 | 漫画
柊あおい『耳をすませば 幸せな時間』を再読。
いよいよ本領発揮というか、ぼくの専門は『耳をすませば』なので、色々とこれについては語ることができるわけですが、今日は続編の漫画「耳をすませば 幸せな時間」を読んで感じたことを二、三。

『耳をすませば』の頃とは画質がけっこう変わっていますね。それと、この漫画の設定では彼女は中学一年生でしたが、「幸せな時間」では映画に合わせて中学三年生になっています。したがって、顔付きはだいぶ違います。聖司はそれほどではないですが。

内容は、『耳をすませば』というよりはむしろ『猫の恩返し』に近いです。自分の時間というものを認め、それを大切にしましょう、という話です。「幸せな時間」を読んだことのない人のために粗筋を書いておきます。

中学三年生になった雫は、夏休みに友人の夕子から、ぼやぼやしていると聖司がどこか遠くに行ってしまうわよ、と忠告されます。その日、通りで鳥の羽根を拾った雫は、その足で地球屋に向かい、主人の西老人から不思議な話を聞かされます。ある晩鳥が地球屋を訪ねてきて、自分の羽を自分に売り渡したこと。その羽はいま壁に飾られており、満月の光を三度浴びると人はその羽を付けて空を飛ぶことができるようになるということ。鳥の羽は、死を運ぶということ。10月に入り、羽のことでなぜだか不安を感じた雫は黒猫のルナの声に導かれ、猫の図書館を訪ねます。そこで調べれば羽について何か分かるかもしれない。館内で自分の時間を奪われそうになった雫はしかしバロンに救われ、三度目の満月の光が射し込む地球屋に直行します。しかし一足早く、聖司はあの羽を身に付け、鳥に変化していました。

…もうお気付きだと思いますが、これは夢。けれども雫は聖司にこう言います。「もし聖司がどこか遠くに行くって言っても たとえそうなったとしても… 聖司と私が同じ想いなら ……きっと 道はどこかでつながっていると思ってる」
誰もが「それぞれの時間」を持っています。皆、次の世界へと羽ばたいてゆきます。でも、いいじゃないか。本当に鳥になってしまうわけじゃないんだからさ。
というお話。

こうして読み返してみると、いま「みんなのうた」で流れている「YELL」という歌を思い出しますね。「さよならは悲しい言葉じゃない」という歌詞が印象的なこの歌と、テーマが共通しています。人はそれぞれの道を歩んでゆくから、どこかで必ず誰かと別れなければならないけれど、さよならを言わなくてはいけないけれど、それは悲しいことじゃないんだ、次の世界へのエールなんだよ、という歌です。

「幸せな時間」は当然映画とリンクしていますから、聖司が外国へ旅立ってしまう可能性を仄めかしているわけですね。でも、思いが通じていれば、道は必ず再び交わる。そういうメッセージですね。映画への原作者からの返答であるとも考えられるでしょう。「幸せな時間」の中では、もちろんより卑近な問題としてこのテーマは捉えられていて、すなわち受験がそうですが、中学を卒業したら皆ばらばらになってしまう、ということがこのテーマの発生するきっかけだったわけです。ところが、ぼくとしては、やっぱりこのテーマは映画の結末に接続させたいという気がします。そしてそこから更に、より普遍的な意味で(「YELL」で歌われているような意味で)捉えるべきだと思います。

自分のことに引き付けて考えてみるに、人生のある段階で誰かと別れなければならないというのは辛いことです。ぼくは今まさにそのような状況に置かれています。就職するのか、大学に残るのか。また、友人がおのれの道を歩いてゆくのを許せない自分がいます。というのも、別れが愈々深刻に決定的になるし、自分だけが取り残されてゆく気がするからです(「ぼくだけが、わたしだけが、世界に一人きり取り残されている、そんな気がする」)。自分の道を見つけるのは容易いことではありませんが、しかし人が道を見つけたときは、笑顔で送り出してやるべきではないか、とそんなことを「幸せな時間」を読んで思いました。難しいですが。でも、そんな優しい気持ちにさせてくれる物語ですよ。ちょっと拙いですけどね。

超短編アンソロジー

2009-09-16 00:34:20 | 文学
ちくま文庫の『超短編アンソロジー』。
30分だけ読みました。
「夢見」と「ノンセンスの微笑」のセクションの中からおもしろかったものを。

「夢を買うた男」(日本昔話より)
たしかどこかで読んだことのある話でした。大金を掘り当てる男の夢を別の男が買って、そしてその夢の通りに行動してついに長者になる、という物語。ですが、おもしろい部分はこの粗筋からははみ出していて、なんと言っても、男の鼻から虻がぶーんと出てきて、佐渡島の方へ行って、また鼻の中へ戻ってくる、というところがおもしろい。

「自転する男」(岡崎弘明)
青年が自転しながら屋敷の周りを巡っている。という話。
実はその屋敷には女性が住んでいて、青年は彼女をまさに太陽に見立てて、それで自分は太陽の周りを回る星に扮しているのでした。なんじゃこりゃ。

「眼鏡」(ユダヤ笑話より)
極めて論理的な思考法で自分の眼鏡のありかを探す話。論理的なだけに、ばからしい内容との落差が笑いを生みます。

「牛乳」(村上春樹)
既読でしたが、やはりおもしろい。最初に読んだときも衝撃的におもしろかったのですが、すっかり内容を忘れてしまっていて、で、再び読んでみたらおもしろい。とにかくおもしろいってことです。ただ、どことなく不吉な奇妙さや怖さのようなものが漂っている気がして、愉快とは言えません。人間による相互理解の不可能性を短編の中に閉じこめている、と書いたら大袈裟でしょうか。

つづきを読んだらその感想もアップしようかな。
よし、今日は短かったぞ。

スロー・リーディング?

2009-09-15 01:57:19 | 文学
スロー・リーディングとか、遅読のすすめとか、そういう言葉を最近よく目にします(耳にはしませんが)。今日読んだ今福龍太の本(『身体としての書物』東京外国語大学出版会、2009)にも、「遅く読むこと」を積極的に評価する記述が見られました。もとはベンヤミンの主張だと彼は言うのですが。

遅く読むことって、本当にいいことなのでしょうか。今福龍太の(そしてベンヤミンの)考えによれば、遅く読むことで、言語が記号性の領域にのみ回収されてしまうことを避ける効果が期待できるとのことです。遅く読むことで言葉の物質性を感じることができ、そしてそうすることで豊かな知的経験を与えてくれる書物をわれわれは渇望しているのだ、と。

ぼくなんかは読むのがけっこう遅い方で、でもかえって強迫観念的に速く読まねば、という思いに急かされて、焦ったりいらいらしたりしながら本を読むことが多いです。これは健全ではないな、と思っても、仕方ないのです。だから、遅く読むことを認められると、少し安心します。

遅く読んだほうがよりよく理解できることってのはままあります。ほとんどの場合がそうだと言っても過言ではないかもしれません。ここにこそ、外国語の本の方が深く理解できることがある、という理由が潜んでいます。原語で読んだから理解できるというよりは、丹念に辞書を引いて、分からない部分は調べながら読むから、深い理解が得られるのだと思います。小説だとすれば、原語で読んで初めて感動できた、ということもありえます。「遅読のすすめ」は、「外国語のすすめ」と表裏一体の関係にあるのかもしれません。

でも人間には時間が限られているし、現代求められている情報リテラシーは、たぶん遅読とは正反対の能力です。論文を書くにも、どれだけ手際よく先行研究を読んでしまえるか、それを把握してしまえるか、ということが往々にして問題になります。大学でこそ遅読=精読を実践すべきなのに、要領のよい読みが推奨される場合があります。この折り合いを付けるのは難しいことです。

もちろん速読でも構わない本、是非とも精読すべき本、という二種類があるのでしょうけれど、その性質に適した読みがいつも可能だとは限りません。判断基準も曖昧です。

ぱらぱらとページをめくってゆくだけで、大体の内容を把握してしまうことは、場合によっては可能です。ただ、そうした読みでは細かい部分を考察できないし、また誤読の不安に常につきまとわれます。逆に細かい部分に拘ってばかりいる遅読では、全体の内容を捉え切れない恐れがあります。時間がかかりすぎることも問題です。

速読でも遅読でもなく、普通のスピードで読書することが、実は一番効果的なのかもしれません。大切なのは緩急です。大事なところはじっくりと、そうでないところはさらさらと、読んでゆく。たぶん人は昔からそういうふうにして本を読んできたはずです。大事なところは人によって異なりますが、それはそれでいい。

ああ、今日もちょっと(文章が)長めかなあ。明日は短めがいいな。

最近買った本のことなど

2009-09-13 23:42:29 | 文学
きのう夕方、突然暇になったので、部屋にある本の数を数えました。
ちなみにうちは一軒家ですが、部屋はものすごい狭いです。恥を晒すのは露悪的で趣味じゃないですが、3畳半しかありません。机を置いて、布団を敷いたらもう一杯です。本棚が二つあるのですが、そこがもう埋まってしまったので(「通常の」並べ方をした場合は)、いったい何冊になったのだろう、と好奇心が湧いたのです。数年前に数えたら、たしか400or500冊くらいでした。で、今回は、891冊でした。辞書や参考書の類は数に入れていませんが、押入れには昔の教科書や参考書がぎっしりです。

納戸にしまったものも入れれば、1000冊くらいは購入した計算になります。本を買い始めたのは8年前からなので、この期間に1000冊弱ほど購入したことになります。1年で120冊くらいですね。ある大学の先生などは一月でそれくらい買うそうなので、多い人から見れば少ないし、本に興味のない人から見ればすごく多いのでしょうね。

読書好きの人の家庭って、大抵はもとから家に本があるんです。1万冊くらいある家もあります。でも、うちはなかったんですねえ。一人の人間の指で数え切れるくらいしかなかったんです。だから、ぼくが1000冊も本を持っているのは、うちでは異例のことなのです。

家もそうですが部屋が広くないので、置けるのは1000冊が限度でしょうねえ。こういう悲しみは大きな家に住んでいる人には分からないでしょうね。今まで、本が置けないという理由でどれだけ購入するのを渋ってきたことか。それでも、1000冊だから、1冊100円だとしても10万円は本に費やしたことになります。もちろん実際はそれ以上になるのは確実。まあぼくのお金の使い道のほとんどは本なのでね…

本当は5000冊くらい所有していたいのですが、この家では無理そうです。ですが、最近また買ってしまいました。増える一方です。

ジョージ・オーウェル『一九八四年』
ブコウスキー『町でいちばんの美女』
吉行淳之介編『奇妙な味の小説』
アンダスン『ワインズバーグ・オハイオ』
ベズモーズギス『ナターシャ』
アレー『悪戯の愉しみ』

実際はもっと買ったのですが、とりあえず。
『一九八四年』は最近出たばかりの新訳版です。前から欲しかったのですが、手に入らなかったので。
ブコウスキーの本は、ショートショートということで買いました。
『奇妙な味の小説』は、奇妙な味の小説というのがどのくらい奇妙か興味があったから。
アンダスンはアメリカ中西部のチェーホフ、とロジェ・グルニエが呼んでいたから。
『ナターシャ』はもうかなり前から読んでみたかった本ですが、後で読もう、後で読もう、と思っているうちに何年も経って…のパターンでした。ブックオフで見かけたのを機に一念発起(?)。ちなみに彼はカナダのチェーホフです。
アレーもショートショート関連で。それにこの人の小説おもしろい。

軽めの記事になるはずが、思いがけず長くなりました。明日は短ければいいな。