Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

『きみにしか聞こえない』

2008-10-31 03:51:44 | 漫画
「携帯と時差というギミック(道具)を使い、相手に何かを伝えようとする物語」と言ったら、人は何を思い浮かべるでしょう。アニメに詳しい人なら、たぶん新海誠の『ほしのこえ』と言うでしょう。しかし、これは乙一原作の漫画『きみにしか聞こえない』の要旨です。


ブックオフで立ち読みしたのですが、途中で思わず泣きそうになってしまい、困りました。かなり泣けます、この話。

携帯電話を持っていない、今時珍しい女子高生が主人公です。彼女がしかし、頭の中で携帯電話を空想しているうちに、本当にその空想の携帯電話が鳴り出してしまいます。というところから話はスタート。電話の繋がった相手は高校生の少年で、彼女と彼とは心の中で会話をします。そのうち、この空想の電話の相手とは時差があることを、別の回路で繋がった28歳の女性から教えられて…

この、「電話で話す相手とは場所はもちろん時間までもが別の世界に属している」、という設定が、後になって効いてきます。

それにしても本当に『ほしのこえ』を髣髴とさせる内容で、こういうのが好きな人にはたまらないと思います。

そういえば、アンジェラ・アキの『手紙』という歌にも通じるものがありましたね。これは漫画を最後まで読まないと分からないのですが…

あと、なんか散漫な感想になっていますが、途中で、これって少年が主人公じゃね?とか思えてきますが、最後はやっぱり少女が主人公だなあと納得。

それと、絵が清潔感があってとてもよかったです。少女が可愛くて少年がかっこいいという王道。でもそのイケメンぶりが男女ともにハンパなくて、惚れ惚れ。

とにかくすげーおもしろかったです。

アードマン・コレクション2

2008-10-30 01:49:53 | アニメーション
『アードマン・コレクション2』を観ました。アードマンというのは、『ウォレスとグルミット』シリーズなどを制作しているイギリスのスタジオのことです。質の高い作品ばかりを連発するスタジオは、他に日本のスタジオジブリ、ロシアのパイロットフィルムなどがありますが、アードマン・スタジオもその一つ。

このDVDに収められているのは、『ウォレスとグルミット』シリーズのような有名なものではない、短篇ばかりです。

このコレクションを観て驚いてしまいました。というのも、ぼくは「アードマン」と言えばやっぱり『ウォレスとグルミット』を想像してしまい、楽しげな作品を期待していたからです。しかし、ここに収められていた作品のほとんどは、そうではなかったのです。しょっぱなからブラックユーモア炸裂、最後はおどろおどろしい血の噴出。「コレクション1」が割と楽しい作品が多かったのに比べると、陰鬱さが際立ちます。もっとも、「コレクション1」にもきわどい作品はありました。そこでもやはり血の描写があったのです。けれども、それが間接的な描写だったとすれば、「コレクション2」は直接的。また、刑務所から仮出所した男の独白が延々と続くものもありました。こういう普通ドラマにはなりがたい作品を撮っている一方で、ドラマ性豊かな作品もありました。「舞台恐怖症」。

この作品によって、「コレクション2」は救われていると言ってもいい。舞台に生きていた男は映画の時代に取り残されてしまう。彼は犬を調教して、その犬を映画に出演させる。それは、ある横暴な役者の依頼によるものだった。やはり舞台人だった女性は彼の映画に出演するようになる。しかし、男は映画俳優の傍若無人さに怒り、対決する。だが、奈落へ突き飛ばされてしまう。そこへ女性がやってきて、男の見方をする。犬も役者に攻撃を仕掛ける。彼は不運も重なって命を落としてしまう。そこへ光り輝く存在が奈落から現れ、役者の魂を真の奈落の底へと連れ去ってしまう。舞台人の男は女性とともに外へ、「ショーのつづきをしよう」と言って、外界へと出てゆく――

希望を感じさせなくもない作品で、プロットも練られていて、「コレクション2」の中では最もドラマ性があります。しかし、そこにも影が忍び寄っていて、というのも、この舞台人の男の顔が醜く造形されているのです。それだからこそ、舞台の上でのパフォーマーとしてしか生きていけず、スクリーンの中では活躍できないのです。また彼は常に劇場で暮らし(そこに置いてあるバスケットの中に入っている)、外に出ることはありません。そのため女性と二人で外に出ようとするラストが意味を持ってくるのですが、しかしアニメーション全体の基調として明るさというものは抑えられていて、無気味さが漂っています。

けれどもやはり一番陰惨な作品は最後の「バビロン」でしょう。これは、戦争や紛争で金を儲けようとする人間たちを非難している作品なのですが、とにかく暗い。どんよりとした緑色の空の下、大きな屋敷で彼らの会議が開かれているのですが、その演説の最中にとんでもないことが起こる…

アードマンだったら愉快でスピーディなアニメーションを作るだろうと思っていたら、裏切られました。今度、「コレクション3」も観てみよう。

ちなみに、「コレクション1」には日本語字幕が付いていませんでした。台詞のない作品も多く、また英語を聞き取れなくても筋が分かる作品ばかりだったので、それほど問題ではなかったのですが…なんで字幕がないんだろう…

神保町の古本市

2008-10-29 00:10:16 | 文学
いま神保町で開催されている古本市に、昨日行ってきました。学校帰りに寄ったので(通り道にあるのです)夕方になってしまいましたが。もうこの時期は日が暮れるのが早くて、5時頃ともなれば相当辺りは暗い。

ぼくはこの古本市に毎年行っていて、去年も確か夕方頃からの「参戦」で、暗くて本がよく探せなかったのでした。

お目当ての本はロブ=グリエの『反復』という小説。だいぶ前にこのブログで長めの感想を書いたことがあるのですが(つまり本を読んでいる)、手元に置いておきたくて、安値で入手できないかなと思ったのです。まあ、Amazonとかで購入すればいいのかもしれないですけど。

で、結局見つからなかったのですが、別の本を買いました。岩波文庫の『フランス短篇傑作選』。「戦利品」はこれだけ。ただ、前から欲しかった本なので、手に入ってよかったです。

この『フランス短篇傑作選』を購入しているときから、雨がぽつりぽつりと降り出してきて、古書店は早々に店仕舞いの仕度。このくらいの雨ならいいだろうに、とも思いますが、やはり本は水には弱いですからね。でもなんだか見足りないし、『反復』を新刊で購入したらいくらかな、と思って書泉グランデに入りました。しばらくしてから外へ出ようとすると、なんと豪雨。稲光も激しく、夏の夕立のよう。待っていても止まないと思って(天気予報では夜から雨かも、みたいなことを言っていたから)、近くのコンビニまでダッシュ。そこそこ濡れてしまいましたが、そこで傘を購入して一安心。でも外に出たら、雨は小止みに。でもやっぱり雨は降り続いていたので、傘のおかげで助かりました。
電車に乗って、最寄り駅で降りたところ、そこには雨の降った形跡がありません。降ったのは神保町の辺りだけだったのか…。東京って以外に広いんですねえ。

お金がもっとあったら、もう一度神保町に行って、よさそうな本を探したいところなのですが…今度映画を観に行くしなあ…お金が…
それにしても、たくさんの人出で、本が好きな人がこんなにいっぱいいるのかと思うと、少しうれしくなりました。

『最後の国民作家 宮崎駿』

2008-10-28 01:34:46 | アニメーション
酒井信『最後の国民作家 宮崎駿』(文春新書、2008)という本を読みました。出版されたてほやほやの本です。

最近は修士論文を書かなくてはいけないので時間がないはずなのですが、ちょっと暇なときに読んでしまいました。ぼくは読むのが遅い方なのですが、この本は特に難しいところもなく、すんなりと理解することができました。

とりあえず、この本にどういうことが書かかれているのか、その紹介。

宮崎駿の作品の特徴は、「現実感覚」と「時間的な奥行き」を与えるような「もの」「仕事」「風景」の描写にこそある。
「もの」というのは、例えば『ラピュタ』におけるロボット兵のような「もの」のことだが、そういう「もの」を一つ描くに当たっても、宮崎駿は、それを誰がどのような経済基盤で作り、それを必要とした文明なり社会なりはどのようなものだったかを、時間的な広がりの中で考えた上で描いている、ということだ。
「仕事」というのは、『千と千尋』における千尋の下働きの描写に、それが「冒険」であるほど、驚きや発見が織り込まれているように、普通は背景に追いやられてしまうような日常の仕事がきっちり意味を持って描かれているということだ。
「風景」というのは、人間と自然のせめぎあいの場である「町外れ」を、宮崎駿はその作品の舞台に据えてきたということだ。
そういう「もの」「仕事」「風景」に、宮崎駿は「現実感覚」を与えている。その「現実感覚」は、現代の日本が失ってしまったものだ。だからこそ、アニメーションの中でそれを再構築した宮崎駿は、「平成日本」を代表する「国民作家」となったのである。

以上が、だいたいの要旨です。著者自身が最後にまとめてくれているので、ぼくはかなり手抜きしてしまいましたが…。
ここで言われていることは、基本的には正しくて、というのも宮崎駿はその「現実感覚」を「リアリティ」という言葉で表現していることがあるからです。ちょっと使われている文脈が違うのですが、宮崎駿の頭の中には、作品に「リアリティ」を付与することの重要さが根付いているのだと思います。いま、ぼくは「作品」と一言で言ってしまいましたが、著者の酒井信さんは、それを「もの」「仕事」「風景」に下位分類して分析してみせたのだと思います。

ただ、この本には少し気になる部分もいくつかあります。それは冒頭から既に出現していて…「成長するにつれて面と向かうのが照れ臭く」なるのがジブリ作品だとこの著者は述べているのですが…というのも彼は1977年生まれの、ジブリが成長するのとほぼ軌を一にしている世代の人間で、それがその世代の人間の実感であると言うのですが…あんまりジブリにこだわりのない、宮崎駿にもこだわりのない人が、宮崎駿をテーマに本を書いて欲しくないなあ、というのがファン心理としてあるわけで…
ぼくはこの著者よりも少し下の年代の人間ですが、大人になってからジブリに面と向かうのって恥かしいかなあ…と考え込んでしまいます。まあ、たしかに、ジブリを真剣に考える、ということをする人間は大学にはほとんどいませんけどね(それははっきりしているのです)…
それとの関連で、『ポニョ』を「三十路に足を踏み入れた人間が映画館で一人で見るにはしんどいアニメ」と言い切っているところから推察するに、この人は本当にアニメーションというものから縁遠い人なんだなあと思わずにいられません。本を読めば、この人がよく勉強していることは分かりますが、そもそも一体何のために宮崎駿をテーマに本を書こうと思ったのか…それが見えてこないのです。現代の日本社会を、宮崎駿を切り口に見つめ直してみる、という趣旨のようなのですが、なぜ宮崎駿なのか…まあ、こんなことに拘泥するのは一部のファンだけだと思いますが、気になってしまって…

内容と関係のないところで字数を使いすぎてしまいました。
内容にも「なんで?」という点が幾つかありまして、その一つが、著者が「右」と「左」の思想に強く捕われている点。この両派の間の揺らぎの中で、戦中・戦後の日本のアニメは発展してきたのだ、と著者は強調し、「右」と「左」を「(友)愛」と「正義」と言い換えたりもします。しかし、宮崎アニメはその二項間の揺らぎから脱却しようとしているのだ、と結論付けるわけです。けれども、その前に、宮崎駿というのは実は「右」の価値観に根差した考え方をしている、などと言うわけです(宮崎駿がふつう「左」の考えの持ち主だと捉えられていることに反論しているわけですね)。「ここで重要なのは宮崎が「右」であるか「左」であるかを見極めることではない」と書いているわりには、そのことに非常にこだわっているのです。果たして日本のアニメーションの歴史を解明するのに、「右」だとか「左」だとかいう旧式の二分法が有効かどうか、疑問符をつけてしかるべきでしょう。

それから、人間の文明と自然との対立軸を、著者は宮崎アニメに導入して考えている、ということは要約のときに「風景」を説明する際に触れましたが、文明が浸透した自然を「奇形化した自然」と名付けているわけです。そこまではいいのですが、いったいどのキャラクターがそれを代表するのかというと、ちょっと首を傾げざるを得ません。まず、『ナウシカ』の王蟲。これはいい。では『魔女宅』のキキは?『紅の豚』はポルコ?『ハウル』はハウルだって?議論の余地がありそうです。

このようなところが気になりましたが、基本的な論旨は通っているので、それほど問題ではないでしょう。
新書ということで、手軽に読める本ですから、宮崎アニメの深い考察などは期待できません。そういうのが読みたい人は、『宮崎駿全書』を読むべし!

初めてロシア文学を読む君へ(3)~ゴーゴリ~

2008-10-27 01:16:55 | 文学
取り立てて書くネタのないときは、この記事を書いている気がします…

ということで、これから本格的にロシア文学を読んでいこうと思っている人に向けての読書案内。前回までで、ドストエフスキー、プーシキン、トルストイ、チェーホフを紹介しました。ところで、これはトリビアなのですが、チェーホフの『狩場の悲劇』という小説が、実は文庫になっているということを最近知りました。中村白葉訳ですから、かなり古いものです。その名も『猟場の悲劇』。知り合いのロシア文学の先生にこのことを話したら、知らなかった、と言っていました。しかもチェーホフを専門に研究している先生です。どれだけ知られていない事実か、これで明らかでしょう。この文庫化は実に驚くべき事実なのですが、チェーホフに疎い人にはあまりショッキングではないかもしれませんね。でも、あの『狩場の悲劇』が文庫とは…信じられない気持ちです。

さて、これら四人の大作家を読んだ後にお薦めしたいのがゴーゴリです。この作家も大作家ですが、日本での知名度は先の四人に比べると劣っていることは否めないでしょう。その作品が最初に翻訳された明治時代から、有名でも無名でもない、といった宙ぶらりんな存在感でした。けれども、ロシア文学を本格的に読もうとするなら、やっぱりゴーゴリはある程度は読んでおきたいところです。そこで、お薦めの本。

講談社文芸文庫の『外套・鼻』がいいでしょう。「外套」と言ったら岩波文庫版、といった固定観念は捨ててしまいましょう。やはり、翻訳が古すぎます。講談社版は、二十世紀の研究成果を踏まえた翻訳になっています。ゴーゴリの小説は「語り」のおもしろさが重要だということが言われていて、その点に配慮した翻訳になっています。岩波文庫では、そのへんの妙味を味わうことができません。一番いいのは『ソヴェート文学』に掲載された江川卓訳(なんと落語調に訳してある)を読むことなのですが、これは一般の人にとって入手困難でしょう。

それから岩波文庫の『狂人日記』を読みます。表題作の「狂人日記」は、講談社の『外套・鼻』に収録されていますが、この岩波文庫には他に「ネフスキイ大通り」と「肖像画」が収められており、この二作目当てです。

そして岩波の『検察官』。ただ、この作品は、光文社の古典新訳文庫で『査察官』として新訳されており、そちらの方がいいかもしれません。もともと「検察官」という訳語は誤訳だと指摘されていて(例えば工藤幸雄に)、「査察官」に改名するべきだ、と言われていたのですが、ようやくそうなりました。

最後に長編『死せる魂』を読みます。遍歴小説です。長いですが、やはり読んでおきたい小説です。
ゴーゴリの小説は他にもたくさんあり、全集で読むことができます。ゴーゴリの作品にははずれがなく、何を読んでもそれなりにおもしろく感じることでしょう。

ちなみに、ぼくが大学二年生のとき、何を思ったか、テスト直前の時期に『ゴーゴリ全集』を読破することを思い立って、全て読んでしまいました。テストの結果は(幸い)覚えていません…

でもまあ、無理に全集を読むことはないと思います。上に挙げた作品で十分でしょう。

ゴーゴリを読んだ後は、どうする?これで、一般の日本人でも知っているようなロシア作家のコーナーは終わりです。ここからが本番です。まだ著名な作家は残っていますが…例えばゴーリキー…この人は20世紀なので、読むのは後回しにします。まず19世紀の作家から攻略していきましょう。レールモントフ、ガルシン、コロレンコなどが次のターゲットだ!

修士論文を書き始めた

2008-10-26 02:55:13 | お仕事・勉強など
昨日から、ついに書き始めました。二日で8600字。まあまあのペース。ただ、これだけ書いても全体の10分の1でしかないのです。修士論文は8万字以上、原稿用紙にして実に200枚以上の分量を書かなくてはいけない決まりになっているので。ぼくは卒業論文で約170枚書いたので、「あと30枚」と思えば書けそうな気がしてくる、ということはなく、精一杯やった結果の170枚だったので、あれが限界、もう一文字も書けません、というのが正直な感想。

ぼくは基本的に最初から(序論から)順に書いていって、最後に終論を書く、という方法を取っていたのですが、今回は、途中から書き始めてしまいました。本当は序論に書くつもりで調べていたことが、全体の構成を考えたとき、真ん中に入れた方がよさそうだぞ、と思い直したからです。調べてから時間が経つと、やっぱり書く勢いが減殺されてしまうような気がして、調べたことはすぐに書く、というのがいい気がします。ただ、これから書こうと思っていることは、一年前に調べたことなんですけどね…

200枚に届かない予感がしているのですが、調べることはまだたくさんあって、締め切りにも間に合わないような…

ぼくは大学院で文学を研究している(ことになっている)のですが、文学作品に対して批評をする、というのは難しいですよね。4000字程度だったら問題ないのですが、8万字となるとちょっと…何を書けばよいのやら。先生からは具体的な作品分析を求められているようなのですが、ぼくはどちらかと言えば、文学史の流れとか、文学作品に現れるあるトピックについての歴史的考察とか、そういうものの方に適正があると自覚しています。そういうのは、頭が悪くても、文献を調べれば何とかこなせますからね。

さて、と。明日で一区切りつけたいところだな。

木曜深夜のアニメ

2008-10-25 02:34:49 | アニメーション
最近、文学に関する話題が先行していて、アニメーションについては口をつぐんでいた気がします。今日は久々にそのアニメーションの話題。ぼくは毎週木曜の深夜に3本集中して見ているので、それの感想。

「のだめカンタービレ」

同じ原作なのに、ドラマと比べてなぜこんなにおもしろくないんだ!?というのが先週までの意見。というのも、ドラマでは2時間使ってみっちり描いていたことが、アニメではたったの25分で済まされてしまっていたからです。千秋の指揮者コンクール優勝の過程は、あまりに描写がおざなりだったと思います。それに、オーケストラの演奏のシーンがほとんどカットされているのも残念でした。ここは物語的にも、作画的にも、クライマックスになりえるところなのに。

ただ、今週から話の中心がのだめに移り、描写がおざなりな点は、少し改善されたようです。それでも、のだめの葛藤(千秋と一緒にいるためにピアノの超絶技巧をマスターしようとするが、それは彼女からピアノの楽しみを奪う)は、想像してね、みたいな感じで、もうちょっとのだめの心の内を追ってくれたらなあ、と思わずにいられませんでした。ただ、改善の兆しは見えるので、これからじっくりドラマが展開していってくれるとうれしいですね。

「夜桜四重奏」

これはなんというか、可もなく不可もなく、いたって普通。OPの歌はけっこう好きなんですけどね。今週になってやっと本筋に入ったのかな、という感じで、二刀流の新キャラ(だよね?)も登場したし、これから、という作品。

「CLANNAD」

これがおもしろいアニメだってことは、今更言うまでもないのですが、しかし何度でも言いましょう。おもしろい。OPは新海誠チックの光の使い方をしていて、かなり影響が濃いです。もし新海誠がテレビアニメを作ったら…と想像すると、興奮してくる…まあ新海誠はとりあえずおいといて。

歌もいいですね。抒情的、というか、切ない気持ちになります。演出も切なさを感じさせるもので、「のだめ」と違って、人の気持ちを丹念に描いてゆきます。ドラマとして描いてもいるのですが、何より作画でそれを表現してしまっているのが非凡なところ。特に先週の放送で、芽衣が髪の毛を手でくしゃっとやるシーンがあったのですが、手を戻したときに、髪の毛がゆっくりと元の形に伸びてゆくところがきちんと描かれていました。これには驚いた。ああいう非現実的な、漫画的な髪の毛を描いているのに、それに現実味を与えてしまう。つまり、見る者に、そのときの彼女の気持ちを自分のことのように感じさせてしまう。その手腕には脱帽です。

今週は、極めてありきたりな話の展開で、だから普通だったらつまらなくなりそうな回だったのに、演出が優れているのでしょう、決してそんなことはありませんでした。一番の目玉は春原が登場するシーンですが、そこは、かなり異様な作画でした。あの「ひだまりスケッチ」の最後から2番目の話における作画を髣髴とさせる、枚数を費やした、臨場感のある作画。そこではストップモーションの技法が用いられていて、時間が引きのばされているわけですが、効果抜群でした。

とても切なくて、笑えて、作画もメリハリが利いている。CLANNAD、恐るべし。おたくアニメだと白眼視して侮ってはいけません。

初めてロシア文学を読む君へ(2)

2008-10-23 02:06:13 | 文学
最近、更新が滞っていました。ちょっと気分がすぐれなかったもので。

さて、今日は「これからロシア文学を本格的に読んでいこう」、と思っている健気な人に向けての講座、第二回目。前回は、ドストエフスキーとプーシキンについてでした。今回はトルストイとチェーホフ。

プーシキンを一通り読み終えたなら、次はトルストイに進むとよいでしょう。まず、『戦争と平和』にチャレンジしてみるとよいかもしれません。この小説は非常に長いですが、そのかわり、とてもおもしろいです。物語性が豊かで、起伏があって、話の中に引き込まれます。ただ、作者トルストイ自身の戦争論が随所で披瀝されるのには、閉口。

これを読み終えたら、『幼年時代』『少年時代』『青年時代』を立て続けに読みます。全部読むのが面倒、という人は、『幼年時代』だけでもよいかもしれません。『少年時代』と『青年時代』は、もっと後でも構いません。ただ逆に言えば、『幼年時代』だけは必ず読んでおくべきです。

それから『アンナ・カレーニナ』を読みます。非常に重要な小説ですので、丹念に読むことをお勧めします。これが終わったら、『光あるうち光の中を歩め』『クロイツェル・ソナタ・悪魔』を読むとよいでしょう。そして『イワン・イリッチの死』と『復活』。最後に、トルストイの民話集(『人はなんで生きるか』『イワンのばか』)。

トルストイは、宗教的に「転回」した作家で、途中から道徳的なメッセージ性が強くなりますが、その芸術家としての技は衰えていない、というようなことがどこかで言われていた、ような気がします…

さあ、トルストイを読んでしまったら、もう大作家の大作は終わりです。確かに長い小説は他にもありますが、残っているのはほとんど、『罪と罰』よりも短い作品です。
その「短い作品」ばかりを書いた作家、チェーホフが次のターゲットです。

まず、新潮文庫から出ている二冊の戯曲集、それに短編集を読んでみるとよいでしょう。つまり、『かもめ・ワーニャ伯父さん』『桜の園・三人姉妹』(以上が戯曲)、『かわいい女・犬を連れた奥さん』です。これらの作品を読んで、「あんまり好きじゃないな」と思った人は、チェーホフはこれでやめてもよいでしょう。できれば「六号室」や「無名氏の話」「退屈な話」も読んでほしいところですが、チェーホフがつまらないと感じられたら、これらの小説も、文字通り「退屈な話」だと思ってしまう可能性があります。そんなに無理して読むことはありません。

では、「チェーホフってすげぇおもしろいじゃん!」と思ってしまった人は、次に何を読めばいいか?ぼくは、松下裕個人訳、筑摩書房版の『チェーホフ全集』を初めから読むことをお薦めしたいと思います。もし、チェーホフを研究したいと思っているのなら、中央公論社版の『チェーホフ全集』を読んだ方がいいのですが、そうではないのなら、筑摩書房版で十分です。

両者の違いですか?中央公論社の方は、決定版で、ほぼ全ての作品が収録されています。それに対して、筑摩書房版は、多くの作品が割愛されています。特に前期の作品(一般にチェホンテ時代の作品と呼ばれる)は、大部分が選から漏れていると考えてよいでしょう。「じゃあ全然ダメじゃん」、と思ってしまうかもしれませんが、実はそんなことはありません。このチェホンテ時代の作品は、非常に短いものがほとんどで、チェーホフが家族を養うお金のために「書き散らした」作品です。中には優れたものも多くありますが、そういう作品は、筑摩書房版にも収録されています。つまり、筑摩書房版『チェーホフ全集』を読んでいれば、主要な作品はほぼ全て押さえることができるわけです。万歳。

しかも、この全集は装丁がきれいで、文字の組み方も非常に読みやすく配されており、また一冊の本の厚さは適度で、いかにも「全集」といった重々しさはありません。この本の体裁は、少年時代に「怪人二十面相シリーズ」や「ルパンシリーズ」を読んだ人には懐かしい、「あの感じ」を呼び起こします。

この全集を読んだ後で、中央公論社版にのみ入っている作品を興味に従って読む、というのが賢い方法と言えるでしょう。たとえば、戯曲は全部読みたいから戯曲だけ中央公論社版を読むとか(基本的に11巻と12巻の2冊にまとまっていますが、14巻に未発表の戯曲が入っています)。

初期の作品を読んだ後に後期の作品を読み返すと、別の世界が見えてきます。ぜひ全集を読んでほしいですね。全集を全部読むのはちょっと…という人は、全集の最初の方の巻と中頃の巻を適当に選んで読むか、岩波文庫の短編集を探して読んでみるとよいかもしれません。ちなみに、チェーホフ初期のユーモア短編は、『チェーホフ・ユモレスカⅠⅡⅢ』でも読むことができます。

思った以上に長くなってしまいました。しかし、これでロシアの「四大作家」(ぼくがいま勝手に名付けた)は攻略しました。ここからが、何を読むべきか、本当に悩むところです。第三回で、その道しるべを示したいと思います。ゴーゴリかな…

念のために言っておきますが、トルストイにはまってしまったら、全集を読んだって全く構いませんから。

プラトン『国家』

2008-10-20 01:36:32 | 文学
プラトンの『国家』を読もうと思って、中央公論社の『世界の名著』シリーズを借りたところ、この本では中味が省略されまくっていることが分かった。第三巻などはまるまる一巻抜けている。

『国家』を借りた目的は第十巻にあるミメーシス論を読むことだったのだが、その部分がそっくり抜け落ちていた。そんなに長くないのだから、訳せばいいのに。しかも、この箇所は文学関係者にとっては非常に重要な部分で、プラトンの『国家』と言えばこの第十巻のミメーシス論、と言えるほどなのに。例の洞窟の比喩などが哲学関係者にとっては重要なのかもしれないが、文学関係者にとっては違うところが重要なのだ。

結局、プラトン全集を借りるしかないな。ミメーシス論に深入りする気はないのだが、その前提となる一番基本的な文献くらいは読んでおきたい。あとアリストテレスの『詩学』があるが、こちらは既読。といっても、細かい内容はさっぱり覚えていないけど。

ちなみに、ミメーシスっていうのは、現実模倣という意味です。アリストテレス的な意味では。

鬼平犯科帳

2008-10-18 23:45:41 | テレビ
きのう、鬼平犯科帳がやっていましたね。

小さい頃は毎週やっていて、当時のぼくはそれほど好きではなく、むしろ銭形平次の方が好みだったのですが、あれから月日は流れ、ときおり放送される鬼平犯科帳が楽しみになってきました。当時そんなに好きではなかったというのには理由があって、このドラマには艶めかしいシーンが必ずあったからです。その点、銭形平次は陽気な雰囲気で、こちらの方が子供向けだったと思います。しかし、2時間のスペシャルドラマとして放映される鬼平犯科帳には、そういう家族で見るにはちょっとためらわれるようなシーンがなくなりました。その方がいいだろうと思います。

さて、今回は「引き込み女」。引き込み女というのは、盗賊の一味で、その盗賊の狙う店に予め雇われて、盗賊が押し込みをする手引きをする役割の女のことです。その女が、店の旦那と恋に落ちて、このまま盗賊の手引きをするか、それとも旦那と共に駆け落ちするかで思い悩む…

毎度のことですが、役者が揃っていましたね。猫八は死んでしまいましたが、代わりの長門裕之もなかなかいい味を出していると思います。中村吉右衛門は言うに及ばず。あの、ときに重厚ときに軽快な演技は他の追随を許さないのではないでしょうか。そして、今回の主役と言える引き込み女には余貴美子。年増だけれども美貌の女、という設定ですので、普通のドラマだったら、もっと綺麗どころを起用するのではないかと思うのですが(例えば黒木瞳とか)、余貴美子。彼女が不器量だというのでは決してないのですが、この起用はシブい。

ただ残念だったのは、市川染五郎の起用。親類同士の共演という話題性を先行させたのかな、と勘繰りたくなります。というのも、その役どころが余計なものに見えてしまったので。最後の弓を持っての登場シーンは、なんとなく水戸黄門を連想してしまい――彼だけ現実離れしている――妙に浮いていました。落ち着いたトーンの鬼平犯科帳に、そういうヒーロー的に登場するキャラは必要ないでしょう。

このドラマには甘さがありませんでした。悲劇で終わるところもそうですが、何より鬼平の盗人への台詞、「生きながらのこぎりを挽かれて苦しんで死ね」には、山椒太夫を思い出しました(もとの説教節版)。この、残酷さをビブラートで包んだりしない、偽らないところが好きです。

そして、鬼平犯科帳を語るなら忘れてはいけないのが、食。このドラマの、というか原作者の池波正太郎の食へのこだわりは夙に知られています。今回は、ナス。味噌をぬっているようでしたが、あれ、美味しいんですよね。このブログでもずっと前に書いたことがありました。

また見たいなあ。

ル・クレジオの短編小説

2008-10-18 00:23:00 | 文学
ル・クレジオの第二短編集『海を見たことがなかった少年』を読みました。
「アザラン」はこの収録作品の内の白眉だったと思います。では、それ以外の作品も含めて感想。

「モンド」と「リュラビー」はどちらも、子どもやアウトサイダーだけに共有できる世界を大人が取り上げてしまったり、大人の無理解に子どもが苦しむ話、とひとまとめに言うことができると思います。

「竜児神の山」は原題は「生き神様の山」というらしいのですが、どうしてこういう邦題に変更したのかよく分かりません。これは、少年が山頂で不思議な体験をする話で、そこで不思議な子どもに出会うのですが、その子どもが「竜児神」だと言いたいのでしょうが、「生き神様」ではなぜいけなかったのか、だいたい「竜児神」ってなに?という疑問が湧いてきます。
ところで、山頂で少年ジョンは「黒い熔岩の塊」を見つけます。しかしそれは普通の石ころではなくて、それは「まさにこの山の形をしていた」。ジョンがのぼってきた断層も、ふもとの部分も、その石には備わっているのでした。つまり、いまジョンは石ころを見つめていて、その石ころはまさにジョンのいる山そのもので、ということはそこにもジョンがいるはずで、そのジョンは更に石ころを見ていて…という無限ループがここに構成されるわけです。実際、テクストにはこう記されています。「そのとき、またもや、ジョンは自分を取り巻く不思議な視線を感じた。未知なものの存在感が、彼の頭に、肩に、躰全体に重くのしかかっており、それは大地をすっかり覆う、暗く力強い視線だった」。この視線の正体は、ひょっとしたらこの後に現れる子ども(超自然的な存在であることを暗示)であるかもしれないのですが、しかしそうではなく、自分自身の視線であるかもしれないのです。
こういう、自分を見ている自分を見ている自分を…、というイメージは、縦に並んだ絵描きなどを連想すると考えやすく、またそれほど珍しくはないのですが、絵にしやすいですね。山村浩二がたしかこういうテーマでアニメーションを作っていたような気がします(「バベルの図書館」だっけ?)。「頭山」もこういうシュールな作品でした。アニメーションにすればおもしろくなるのではないか、などと思った次第。

一つの小説に紙面(じゃないけど)を取られすぎました。次。

「水ぐるま」はとても短い作品で、少年が自然と感応し、死者たちの王国の国王になっている自分を夢想する話。

表題作の「海を見たことがなかった少年」は、少年が憧れ続けた海へと旅立つ話。この小説ではテクスト内部の人物を語り手に設定しています。「リュラビー」と同様、海に憧れる子ども(「リュラビー」では少女)が主人公ですが、結末は大きく違います。「リュラビー」では少女は最後に人間たちの世界に帰り、大人の凡俗さに傷つけられますが、「海を…」では少年はもう二度と元の世界に戻ってきません。

「アザラン」は傑作です。この小説だけ主人公、というか中心人物は大人で、放浪者のようです。ある貧しい地区に流れてきたこの人物マルタンを巡って話は展開します。やがてこの町を移転させる計画が持ち上がり、そのときマルタンと町の人々はどうするか…。「アザラン」というのは、マルタンが子どもたちに話して聞かせるお伽噺の理想郷とでも言うべきところ。

「空の民」は自然と交感する少女の話。彼女はどうやら目が見えないらしいのですが、小説の中でははっきりとは触れられません。ただ、色についての質問や(あおってなあに?)、目で見ればすぐ分かるようなことを質問していることから、そうではないのか、と推測されるのみです。ただ、「かつて彼女はこれ以上美しいものを見たことがない」というような記述もあって、やっぱり目は見えるのかな?とも思ってしまいます。その一方で、「彼女には今突然見えたのだ、(略)青い空が目の前に」と、今までは見えなかったと思わせる記述もされています。
もともとちょっとよく分からない小説ではあって、彼女のいるのは「人間のいない国、砂と埃の国で、唯一の境界として地平線に長方形の地草があるだけ」の国の村のはずれです。そこへ兵士が通りかかって、「まず地面の黄色い大きな平原があるんだ、生えているのはトウモロコシに違いない、と思うな。赤土の山道があってまっすぐ野原のまん中まで通ってる」土地の話をします。そして兵士が去ってしまった後、少女は突然、目の前にその「黄色い大きな平原」を見るのです。たぶん少女は幻視しているのだと思うのですが、記述があいまいで、よく分かりませんでした。そういう書き方をしているのかもしれません(単にぼくの理解不足かも)。

最後に「牧童たち」。これは都会のある少年が砂漠に一人やってきて、そこで牧童たちに出会い、生活を共にする話です。しかし、最後にこの少年は、あの「リュラビー」の少女のように、都会へと帰ってゆきます。

この短編集は、既に明らかなように、子どもを主人公ないしは重要人物に据えており、またテーマも似通っています。それは例えば自然との感応、ユートピア(への憧れ/の消失)、放浪です。ル・クレジオは一貫して自然を文明よりも上位に位置付けて思考しており、この短編集では、その関係が子どもと大人の関係とパラレルになっています。

ユートピア志向は『パワナ』などにも通底するテーマで、思想的に興味深い本なのですが、ただ惜しむらくは、ほとんどの作品があまりおもしろくないということです。文章の多くが状況描写に費やされていて、しかもその文章が客観視にこだわっており、読者を引き込む魅力に欠けるのです。解説者(翻訳者)に、「これ以上単純平明な文学言語というものは想像し難いほどだ」と評される彼の文章は、しかしぼくには、そんなに単純平明なものとは思えませんでした。「空は熔岩のまわりで絶えずできたり壊れたりし、間歇的な太陽の光はいくつかの灯台の光の束のように動いていた」というような文は、構造としては単純ですが、果たして「平明」と言えるかどうか。こういう風景描写や状況描写(彼はこうした、ああした)がえんえんと続くのです。一文が短い、イメージが明確、といった、平明で簡潔な文章であれば、読みやすくもなるのですが、上記のような文が続けば眠気を誘うだけです。翻訳の問題だという気もするのですが…

また、物語としても、ほとんど起伏のないことが多く、そういう面でも読者を虜にすることはできません。「牧童たち」は、冒険小説にもなりえる作品ですが、スピーディな文章でなければ難しいでしょう。また、他の作品にも共通することですが、心理描写が非常に少ないのです。人物の心理を、客観的な状況の描写で補っている観があります。

全体的に言って、非常に興味深い本なのですが、あまり読書をしないというような人には、この短編集は読み通せないかもしれません。ただ、途中はつまらないのに、最後でなるほど、と思わせる作品がほとんどだということを、最後に付け加えておきます。

西遊記とドラゴンボール

2008-10-15 21:39:57 | 映画
おとといテレビで『西遊記』が放映されていました。なんとなく最初から最後まで見てしまったのですが、想像していたよりも楽しめました。特に中盤の孫悟空とギンカクとの飛行勝負は、映像技術を駆使して圧巻の出来だったと思います。でも、飛べるんだったら山の上の玉を取りに人をやらずに自分で行けばいいじゃん(けっきょく自分で来たが)、とか思ってしまって、ちょっと脚本に無理があるような気もしましたが、ま、いいでしょう。

そんなことよりも、気になることがありました。『ドラゴンボール』との類似です。『ドラゴンボール』が中国の『西遊記』に想を得ている部分があるのはそうなのですが、そういうことではなく、鳥山明の『ドラゴンボール』オリジナルの部分と似通った箇所があったのです。

まず、『西遊記』のひょうたんの内部。これって、『ドラゴンボール』のブウの体内と同じではないですか。三蔵法師が繭みたいなものに包まれてしまっているところは、ブウの体内に取り込まれた悟飯たちの状況とそっくりです。
それから、キンカクが孫悟空に向かって言う、「わが弟にならぬか」という台詞。これは、フリーザの父クルド大王がトランクスに向けて言った、わが息子にならぬか、という台詞をパラフレーズしたものに他なりません。どちらも、自分の弟/息子を倒された後に吐いた言葉です。

玉を求める冒険の旅、その結果甦る龍…『ドラゴンボール』とよく似ています。
ひょっとすると、同様の指摘は既に何度もされたのかもしれませんね。誰が見たって、この類似は明らかです。
監督は、よっぽど『ドラゴンボール』が好きなんだろうな。

初めてロシア文学を読む君へ(1)

2008-10-14 23:26:02 | 文学
これからロシア文学を本格的に読んでみよう、と思っている人向けに書きます(いるのか?)。想定年齢はだいたい18歳前後。そうではない年齢の人でも、ロシア文学に不案内だったら、ぜひ参考にしてみてください。ただ、小学生にはちょっと難しいかも…

まず何から読むべきか、と迷ってしまう人は多いはずです。知っている名前はドストエフスキーとかトルストイとかで、二人ともものすごい大長編を書いているから、どうしよう…

そこで、試しにドストエフスキー『罪と罰』を読んでみることをお薦めします。まず、ロシア文学の空気に慣れることが肝心です。この小説はたしかに長いですが、一般の人がロシア文学に対して抱くイメージをほぼ完全に備えており(長さの点でも)、「ロシア文学を読んだ」という気にさせてくれるので、これからどっぷりロシア文学につかる準備になるのです。

次へのステップは、実は二つあります。
まず、『罪と罰』にすっかりはまってしまって、ドストエフスキーの小説をもっと読みたい、という人のためのステップ。そういう人は、もうどんどんドストエフスキーを読んじゃって下さい。ただし、どうせ読むのなら、順番にこだわった方がいいでしょう。最初に『貧しき人々』を読みます。それから『二重人格』、『死の家の記録』、『地下室の手記』を読みます。そして『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』を、なるべくこの順番通りに読みます。もっとも、『未成年』は入手しづらい場合があるので、そのときは飛ばして構いません。『虐げられた人々』『永遠の夫』『賭博者』は、『貧しき人々』と『カラマーゾフの兄弟』の間だったらいつ読んでもいいでしょう。もっともっと読みたい人は、福武文庫の『ドストエフスキー短編集』(上下)を読みます。それでも足りない人は、全集を読みます。そこには「作家の日記」が収められています。なお、『白夜』はコーヒーブレイク程度とみなし、いつ読んでもいいでしょう。
念のために言っておきますが、この順番で読まなくてはいけない、という規則はありません。上記はあくまでぼくのお勧めの順序です。

さて、『罪と罰』にピンと来なかったという人のためのステップ。ドストエフスキーを読み終えた人のためのステップでもあります。プーシキンはいかがでしょう。ロシア最高の文豪です。とりあえず『オネーギン』を皮切りに、『スペードの女王・ベールキン物語』『ボリス・ゴドゥノフ』『大尉の娘』と読み進めていきます(いずれも岩波文庫)。新潮文庫の『スペードの女王』はあまりお薦めできません。というのも、「スペードの女王」以外の収録作品は、物語としてそれほどおもしろくないからです(おまけに未完)。また、岩波文庫の『プーシキン詩集』が入手できれば、それを読んでおくのもいいと思います。更に、群像社から出ている『青銅の騎士』はぜひ読んでおきたい本です。「青銅の騎士」はプーシキンの代表作だから、というのもありますが、ここで群像社という出版社を知っておくことも大事だからです。早く知るに越したことはないでしょう。群像社は、ロシア文学専門の出版社で、これからロシア文学を本格的に読んでいくのなら、いずれとてもお世話になるところです。

さあ、プーシキンを読んだ後は――
でも、これ以上書くと長くなりすぎてしまうので、また次の機会に。今度はトルストイとチェーホフ、ゴーゴリについて書くと思います。

最後に蛇足で付け加えておきますが、一人の作家をこんなに読み込むのは、彼らがロシア文学において非常に重要な作家だからです。また、この記事はロシア文学を「本格的に」読んでいくことを目指している読者を想定して書いているので、ちょいちょいロシア文学を齧る、という読者を念頭には置いていないからです。でもそういう読者向けのロシア文学案内があってもいいですけどね…

ジーニアス・パーティ・ビヨンド

2008-10-14 00:42:00 | アニメーション
見てきました。『ビヨンド』は前作『ジーニアス・パーティ』の続編的映画。
妄想炸裂の激しいアニメーションでした。

『ビヨンド』は、前作同様オムニバス形式のアニメーションで、「GALA」「MOONDRIVE」「わんわ」「陶人キット」「次元爆弾」の五編から成ります。

前作よりも楽しめました。また、アニメーションの表現がパワーアップしている気がします。まあ、監督はダブってませんけど。

「GALA」は、少し物足りない気もしますが、なんでもないことを音楽も含めた演出で力任せに乗り切っている、という印象を受けました。最後にオチが付きます。

「MOONDRIVE」はダークなタッチで、話としては今回の五作で一番まとまっているのですが、全体的にまあ可もなく不可もなく、といった感じ。

「わんわ」。この作品はまさしく妄想が爆発していて、色彩の洪水で、酔いそうになります。ほとんど直線というものがなく、ぐにょぐにょと曲がりくねった曲線で絵が描かれているため、見ていてなんだか落ち着きません。また、キャラクターに輪郭線がなく、背景のモノに溶け込んでいます。ふつう、黒か茶の輪郭線があるのですが、ないというのは、ずいぶん思い切ったことをやったな、と思います。それに、『ポニョ』で話題になった「絵本のようなタッチ」で描かれていて(曲線の多用もそう)、今作の中でも特に実験的な作品です。なお、曲線曲線と言っていますが、そういう印象だった、ということで、実際に全部曲線だったとは保証しません…あしからず…

「陶人キット」は、まるで長編映画の導入部分のよう。この設定で、2時間を越えるドラマを描けると思います。それだけに、ラストがあまりにもあっけなくて、仕方ない気もしますが、やはり残念。ちょっとホラーちっくでもあり(なんとなく今敏を連想)、「あの奇妙な物体」の質感もよくできていたと思います。

最後の「次元爆弾」は、「天才」と言われる森本晃司の作品ですが、ちょっと言っちゃっていいすか、意味が分かりません。とはいえ、とても印象深いアニメーションです。何がなにやら訳が分からないのですが、人の歩く動作だけで「魅せる」ことに成功しており、映像自体も詩的。ま、意味は分からないんですけどね。

あまり褒めませんでしたけど、『ビヨンド』は全体を通して、アニメーション表現が非常に優れており、傑作と言っていい。個人的には前作よりもはるかにグレードアップしていると感じています。4℃の底ぢから、見せてもらいました。

学校選び

2008-10-13 01:14:51 | お仕事・勉強など
今日はいつもとは書く内容をがらりと変えて、学校選びについて。しかもいつもにも増して独断と偏見で。

そろそろ受験勉強が本格化する時期だと思うのですが、小学生が中学受験する意味っていうのが、昔からよく分からないんです、ぼくは。もちろん、小学校でいじめられていたから、同級生が行かない学校を受験したい、というようなケースは例外ですが、そうではないごく普通の小学生が何のためにわざわざ苦しい勉強をして中学受験しなくてはならないのか。

中高一貫の中学を受ける場合

公立は授業内容が悪い、私立の方が丁寧だ、という意見がありますが、公立だってそれなりにやってくれるし、どうせ多くの人は塾に行きますしね。私立っていうのは、同じくらいの学力の人が集まって、先生もそういう学力の生徒を相手に授業するわけだから、中途半端な学校に入ってしまったら、上を目指せなくなってしまうと思うのです。開成なら別だけど。中高一貫だったらせいぜい早稲田か慶應で、大学に入るに当たり、東大は難しくなってしまいます。ぼくの高校受験のとき、早大学院に行った友達がいたけど、彼はものすごく勉強ができて、進学校に進んでいたら、たぶん東大にも入れたと思う。とてももったいない。まあ、偏差値が全てではないけど。

ただぼくの言いたいのは、中途半端なところに入学したら、いい大学に入ることは難しくなるのではないか、ということです。こんなことを書くのは、小学生で勉強があまりできなくても、中学、高校と上がるにしたがって、どんどん勉強ができるようになる人がいるからです。すごい勉強ができるようになる素質があるのに、あるレベルの学校に拘束されているのは、可哀想だ。

大学受験でいいところに入るのは難しいから、中学生、高校生の内にその付属校に入れてしまった方が楽、という考え方が受験界にはありますが、そんなことない、と思っています。高校受験までは、文系科目が得意な人でも数学をやらないといけなくて、でも大学受験だったら、そんなことはないからです(私立の話)。

しかも男子校の場合

しかも男子校を受けるのは、最悪の選択だ、と個人的には思っています。小学生っていうのはまだ本当に子どもだから、恋だの愛だのっていう感情は、人によったら経験してないってこともありうるわけです。まあ多くの人は経験しているとは思いますが。しかも、恋っていうのはひやかしの対象だと思われていたりするわけです。でも、中学は違う。恋というのがどういう感情かっていうことを、初めて知ることができる可能性のある時代なのです。中学、高校時代というのは、まっすぐに人を好きになれる時代です。好きな人を中心に世界が回る時代です。そういう経験っていうのは、やっぱり必要だと思うのです。大学に入ってからでは、遅い。で、そういう経験というのは、勉強なんかよりも1000倍大切で、まさに何物にもかえがたい。ぜひ共学に行ってほしいですね。

電車で通う場合

せめて中学までは歩いて通えるところがいいですよ。学校の近所に住む友達の家に行って、別に意味もなくだべったりできるから。家が遠いと、遅くまでおじゃまできませんからね、中学生だったら。

地元の公立でいいじゃん、って思うのです。自分は剣道をやっていて、その学校は剣道がすごく盛んだから、その学校に行きたい、というような人は、じっくり考えてみたほうがいいと思いますね。何より剣道が大事だ、という答えが出れば、その学校を受験すればいい。そういうことです。

ぐだぐだと書いてきましたが(いつも文章が長くなってしまう…反省)、これは極私的な考えですので、さらーって読み流してもらえればけっこうです。中学から私立の男子校に通って、すごく楽しくて、今は東大生!って人もいるだろうとは思うのですが、そういう方は、こういう考えもあるんだなあ、と理解してくだされば…