Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ミラクル・メーカー

2010-03-29 00:38:29 | 文学
奇跡を行う者(ミラクル・メーカー)がいる。
彼はどのような奇跡さえ引き起こすことができる。
けれども実際に奇跡を引き起こすことはない。
奇跡を起こす能力はあるのだけれど、奇跡は行わない。

そういう人物がいたとする。というか、ある小説にそういう人物が登場する。これは一体誰のことなのか?ある人は言う、それは作家自身の投影だ。その作家は奇跡それ自体に強い憧れを抱いていたから、自分をミラクル・メーカーになぞらえたのだ、と。とてつもないものを書く能力があるのに、実際には僅かな行しか書くことができない、そういう自分の似姿であると考えることができる。憐れでもあり滑稽でもあり、しかし自負も籠っている。自分は奇跡を起こせる。ただそれをやらないだけなんだ。なにか、勉強のできない子供の言い訳のようにも聞こえる。

ところがこれは、神の寓喩でもあるのではないのか。まさしくどのような奇跡さえ起こすことのできる存在、山をも動かし、海をも割る。しかし、決して人間生活に介入せず、傍観者に徹する存在。ミラクル・メーカーとは、神そのものに他ならない。神の沈黙へのあてつけなのか。それとも同族意識か。

ミラクル・メーカーという発想は、他の作家からの影響だという。我々の世界と隣接する世界からの使者というキャラクターに啓示を受け、奇跡を行う能力があるが奇跡を行わない、という存在を生み出した。それは作家自身でもあり、子供でもあり、神でもある。

ところでこのミラクル・メーカーは、結局ミラクルを実行しないが、ミラクルな(というよりはファンタジックな)事態に巻き込まれてしまう。ここに何か示唆があるような気もするけれど、分からない・・・さっぱり分からない・・・

プリンターを買う

2010-03-27 01:33:15 | Weblog
実はパソコンを購入してからずっとプリンタがない状態が続いていたのですが、昨日ようやくプリンタをセットアップしました。途中で「問題が起きました」というメッセージが出て、終了してください、と表示されたのですが、いま終えるわけにはいかんだろ、ということで、そのウィンドウを閉じたら、なぜか何事もなくセットアップが完了。なんだったんだ?

そのあと色々パソコンをいじっていて、PDFファイルを開いたら、バージョンアップしてください、と表示されて、それでやろうとしたらなぜか失敗したみたいで、で、そのままPDFファイルが開けなくなってしまった。Adobeのなんとかいうソフトを購入して閲覧してください、というメッセージが出るばかり。仕方ないのでHPに行って、Adobe Readerをインストール。とりあえずPDFファイルは見られるようになりました。でも、もう何が何だか。パソコンのことがよく分からないぼくみたいな人間にとっては、このパソコン文明社会は不親切すぎます。お手上げですよ。他にもぼくのパソコンには問題があるみたいで、修復してください、というメッセージがあるのですが、よく分からないのでそのまま放置しているのです。だって、これこれを間違ってインストールしたらクラッシュします、と怖いことが書いてあるんですからね。

ところで、新しいプリンタは前のに比べて格段に早いですね。前のが古すぎて遅すぎただけなのかもしれませんが。技術は進歩している。良くも悪くも。

学位記授与式でした

2010-03-25 01:36:04 | お仕事・勉強など
今日(もう昨日ですが)は大学院の修了式でした。
修了証書をもらって、学生証を返して、ああとうとう卒業したんだな、と思いました。
式には出席しましたけれど、ぼんやりと座っていたので、あんまり人の話を聞いていませんでした。学長(ですよね?)の話も断片的に聞いていて、制度的なものを創造的な力で打ち破ることの大切さとか、ゲーテ『ファウスト』のファウストが知を追求する過程で道を誤ったように、人生で迷うことはあるけれどもそれは当り前なのだ、とか、そんなお話だった気がします。すいません、ぼんやりしすぎでした。

ところで賞をもらっていた人のことをぼくはほんの少しだけ知っていて、CGの世界では知る人ぞ知る、という存在なのではないかと思っております。まあ、残念ながらあんまり接点はないのですが・・・

明日は学部の卒業式だそうです。ぼくは久々に家でゆっくり過ごします。

批評行為

2010-03-24 00:58:01 | 文学
批評ってなんなんだろう、と最近改めて思います。
もしも実際の文学作品に全てが書き込まれているならば(書かれていないものまでも書き込まれているならば)、批評行為は蛇足に過ぎません。その文学作品を丸ごと解明する、という試みは幻想にすぎなくなります。となると、批評行為とはすなわちある種のルーペということになるでしょうか。文学作品の特定の側面を拡大して読者に注目させるという意味です。もしも文学作品が、限りなく球に近い多面体であると想定するならば、批評とはその一つの面を拡大する試みです。あるいは、それぞれの面の相互作用を明らかにする試みです。これはあまりうまい比喩ではありませんが、しかしそのように考えてみると、批評の役割というものが少し見えてくるように思います。

文学作品に従属する批評、という発想はここから生まれてくるのでしょうが、しかし、拡大鏡で仔細に眺めてみるならば、多くの人の気づかなかった箇所が注目され、作品からより豊饒な意味が引き出される、という結果を招来しうるはずです。創造的な批評の始まりです。

批評は、文学作品をネタにしてそれとはまるで別の物語を創出する行為なのかもしれません。その意味で二次創作にも近い。いやそれは違う、あくまでその作品の豊饒さを明らかにすることこそが批評の役割だ、と考える人は多いでしょう。どちらが正解なのかはぼくには分からないけれど、しかしこういうことをああだこうだ言うことが既にして批評の一部をなしていると言えそうです。

批評を読んで、ああそういうことだったのか、こんな読み方もできるんだ、と視野が拡大されることは大いなる喜びです。その喜びと、小説を読んで自ら何かを発見する喜びと、どちらが大きいのか、ということが問題なのかもしれません。ひょっとすると、その喜びは同量なのではないだろうか。もしもそうだとすれば、批評にも存在価値がある。逆に言えば、その一点にしかぼくは批評の存在価値を見出せないでいます。こんなふうに読んだらおもしろいよ、と喜びを共有する試みが批評の出発点となっているのではないか?ああ違う、ああそうか、これは、「ぼくの出発点」なんだ・・・。

色々と誤解されていたり誤った情報が伝えられているジブリ作品について、正しい知識を得て喜びを共有しよう、という発想からぼくはかつてサークルを作ったのだった。これが出発点なんだなあ。分かち合いたい、素晴らしい視点を提供したい(どうだ、こんな見方ができるんだぞ!)、という無垢な発想が、ぼくにとっての批評の出発点なのでした。小難しい理論なんかは二の次のはずなのです。喜びの共有。これが至上命題であって、視点の清新さや知識量の多寡を競ったりするのは本来ぼく向きではないはずなのです。原点に立ち返ろう。文学作品だって同じことだ。その作品の「真実」を明らかにすることなんて、ぼくは端から望んじゃいない。その作品の豊饒さを引き出す、なんていうのも建前だ。ただ、この作品はこんなふうに読めばものすごい感動できるよ(感動というのはもちろん泣ける、という意味ではありません)、ということを伝えたいだけなんです。好きなことを他の人とも分かち合いたいだけなんです。

文学作品と批評とどちらが優れているとか、本当はそんなのはどうでもいいことなのかもしれないですね。ただその作品が好きである、というのが初めにあって、それを伝えようとすれば、それが批評と呼ばれるようになるだけのことなのかもしれません。とすれば、両者はいわばコミュニケーションの一モデルを成しているのであり、表裏一体なのです。少なくともぼくにとってはそうなのです。

机を整理する

2010-03-22 11:20:26 | Weblog
例のS-1グランプリとやら、ぼくのこれまで見たお笑い番組の中で最低の部類に属するものでした。しかもそれで賞金が一億とは・・・。そんなにソフトバンクはお金が余っているのか・・・。ネタも企画もひどくて、あれはちょっとおかしい。いやかなりおかしい。優勝したノンスタイルにしても、もともと漫才の方がおもしろいし、一億をぽんともらっても困るだけでしょう。妬みやら嫉みやらで潰されないか心配です。いっそ寄付するとか、そういうような、とにかく自分のお金にはしないという方向で使い道を検討するのがよいように勝手に思っています。ケンコバとジュニアなんて、はなから優勝する気がない(一億をもらう気がない)ふざけた話芸で、視聴者には失礼である一方で、しかしそれが賢明な判断だったかもしれない、と思わせるような大会でした。

さて、がらりと話は変わり、先日自室の机を整頓したことを少しだけ。
そう、整理したのですよ。小学生になるときに買ってもらった勉強机をぼくは未だに使用していて、でーんと部屋に置いてあるのですが、そこには何やらごちゃごちゃしたものが色々あるわけです。想像つくでしょう、鎌倉で買った大仏の置物とか、スーパーボールとか、きらきら光る石とか、磁石とか、あと歯とか。そういうものですよ。昔からため込んでいた物で氾濫していたので、それを全部どかしてスペースを作ろう、というわけです。もちろんそのスペースには本を入れる予定です。

で、使えないマジックや鉛筆や何やら訳の分からない物を処分して、ようやくすっきりしました。もっとも、前述の物たち(大仏とか歯とか)はそのまま残すことにしました。でも、それでも、随分広いスペースができあがって、これで薄いハードカヴァーだったら10冊近くは置けそうです。やれやれ。洋書を置くスペースがないと悩んでいたので、これでちょっとは問題が解決しました。解決?いや単なる先延ばしなのかもしれませんが。

近い将来、電子書籍が出回るとのことなので、そうなったら蔵書の悩みともおさらばですね。けれどそうなったら、古書店とかはどうなるんでしょうか。本を探しての古書店巡りは好きなんですけどね。思いがけない本に出会ったり。これはすごく読みたい本なのにどこにもなくて・・・というような悩みも存在しなくなるのでしょうか。それはそれで寂しい。電子書籍がどういうものなのかをぼくはよく知らないので、よく分からないのですが、ネットからダウンロードしたり本屋でソフトを購入したりするのでしょうかね。

でもぼくは、頭脳に直接インストールしたい、と最近は思っています。1ページ1秒くらいの速度で。これって読書の愉悦を無視した、知を情報に還元する、やってはならないことなのでしょうか。しかし、本の中身を丸ごと理解したい、という欲求の行きついた先なのです。

新海誠に関する論文を読む

2010-03-20 01:53:32 | アニメーション
『アニメーションの映画学』所収の論文、加藤幹郎「風景の実存 新海誠アニメーション映画におけるクラウドスケイプ」を読みました。新海誠に関する論文で、ここまで本格的なものを読んだのは実は初めてだった気がします。

この著者は基本的に、風景と人間との対応関係を前提にしているのですが、ぼくの見たところ論文の勘所はそこにではなく、映画の中の細部への注目にあります。例えば、『秒速』において、第一話でタカキが一人列車に座っているカットと、第三話で大人になったアカリがやはり一人列車に座っているカットとを連結させ、「一〇年以上の歳月を閲して、ようやく向かい合わせにすわることが可能になったかのように見えるよう画面が構成されている」と指摘する個所などは、ぞくぞくと鳥肌が立つほどで、ロマンチックで切ない想像力を掻き立てられます。

他にも、「春の落花と冬の降雪は白の主題系の中心を占め、この映画がふたつの季節の隔たり、ふたつの距離の産出、ふたつの恋愛の破局を描くことに照応する」という、『秒速』の「白の主題」を巡る卓見(白の主題とは、まさしくクラウドスケイプ、すなわち雲の風景が基点になっている)など、刮目すべき高見がテキストで星のように煌めいています。

また、『秒速』におけるロケットの打ち上げも白の主題系に収まるものであり(噴射された夥しい白い煙)、それをタカキの孤独感の精神風景とみなすことには納得できます。ただし、ぼくは新海誠においては風景と登場人物との断絶感を見てとっていて、加藤氏があくまで両者の融合した地平を目指そうとするのには、もろ手を挙げて賛同できかねます。

新海誠が世界的に希有な「風景映画」の作り手であり、その創作においては物語内容よりも風景が先行する、という主張は、新海誠映画の風景の重要性を余すことなく伝えています。また、加藤氏はどういうわけか登場人物の名前を記載しない方針を取っており(これは彼の他の論文でもそうなのでしょうか)、そういう執筆方法からも、偶然か必然か、風景の特例化が透けて見えます。しかしそれでもなお、風景は人間の存在を前提にしており、それとの関係の中で生きてくるものだという。それが普遍的な主張にとどまるのならば、ぼくは判断をためらいますが、しかし殊新海誠に関する限り、その主張は必ずしも当てはまらないのではないか、と思うのです。あるいは、風景-人間という関係性を脱構築するものとして新海映画が機能している様相が垣間見えてくる、と言ってもいい。

『雲のむこう』のサユリは、世界で自分だけが取り残されているという孤絶感を内語します。世界は恐ろしいほど美しいのに、私はそこから無限に遠ざけられている――このような繊細な感覚は、実は他の作品の登場人物にも見られるもので、『ほしのこえ』のミカコなども、孤軍奮闘する姿を通して、ノボルとの永遠に思えるくらい隔てられた距離を通して、そして美しい風景を通して、その孤独感が浮き彫りになります。新海作品では風景描写の美麗さはほとんど特異なほどで、監督の風景への拘りは、加藤氏も書いているように「異常」とさえ言えるかもしれません。登場人物はそのような美しすぎる風景の中に画像としてはうまく溶け込んでいますが、しかし心理的には断絶しています。風景の「美」に対して、人間の「苦」がクロースアップされ、登場人物たちは風景に参入することができないのです。

象徴的なロケットの噴射の例で考えてみましょう。これは、タカキの孤独な心象を見事に表現した風景となっています。この光景を目撃して、カナエは自らの想いを封印することにします。というより、いかにタカキが自分から遠い存在であるのかを残酷なほど深く理解します。何かは分からないもの、存在するのかさえ分からないものを求めて、ひたすら孤独な旅を続けるロケットに、タカキのアカリを求める心情が重ね合わされているのですが、そのように考えた場合、これは一つの心象風景であって、風景と登場人物との関係が密接なように見えます。ところが、この風景はアカリにとっては自らの孤独(タカキと共に生きることができないのならば、それは孤独でしかない)を強調するよう作用しているのです。新海作品では、圧倒的な存在感を放つ風景は、登場人物の心理的な孤独感を強めてしまうのです。確かに、表面的に見れば、それは風景と登場人物との対応関係ということになるのかもしれません(いわば反比例の関係)。しかしながら、より物語内容に即して見るならば、この関係性は、関係性というよりはねじれなのです。登場人物たちにとって、風景は重荷であって、残酷な美であり続けます。それが一人の少年の心象風景であるときでさえ、一方では少女の喜びや期待を裏切る絶望の風景として立ち現れてしまうわけです。

風景との心理的な一体化が果たせない、それに裏切り続けられてしまう登場人物たちの孤独をいかにして解消するのか。それこそが、風景美を誇る新海誠の試みになりえるのではないでしょうか。新海誠ならではの試みです。風景と登場人物との協同関係を無条件に前提してしまう視点からは、こういったテーマは見えてこないのではないでしょうか。人間は世界の美を前にしてどのようにそこへ参入してゆけるのか。自分の暗黒面をどのように風景と交流させるのか。世界の中で生きている「私」、という自我論的な問題は人間にとって深遠な問いでありえますが、その問題を追求するのが新海誠のアニメーションである、とひとまず言っておいてもいいのではないかと思います。

なぜ希望を語らないのか

2010-03-19 00:52:01 | Weblog
自戒を込めてのタイトルだと受け取ってください。

今日、非常に刺激的な文章を読みました。とりあえずそれへの言及は今日のところは避けておきますが(後日ひょっとすると言及することがあるかもしれませんが)、それがあまりにも力強く、肯定的なものでしたので、ぼくもまた「肯定的であること」を目標としてみたくなりました(年始の目標はまさにこの「肯定すること」でした)。

そこでは知の情報化に対する抵抗、決して死なない文学のことなどがパワフルに語られていたのですが、ぼくはふと、ぼくたちはなぜ希望について語らないのか、ということを考えてしまいました。社会全体の行く末に対する希望、という意味ではなくて、ここではもっと狭い意味、というよりは卑近な意味で、研究者の希望、ということです。

研究者になろうという人、あるいはそういう人たちの周辺にいる人は、まず間違いなく、研究者への道がいかに暗く困難で挫折の多いものであるかを吹き込まれています。大学を出てもポストがない。いくら優秀でもないものはない。お金の工面の大変さ。博士の就職難が声高に叫ばれる現在、こうした認識は間違いではないでしょう。将来を悲観している人は身近にもいます。ぼく自身、自分の未来を暗澹たるものだと考える癖がついてしまっています。どうせ勉強ができないから・・・云々。

しかし、なぜ誰も希望を語ろうとしないのか。恐らく先生の立場からすれば、安易な気持ちで研究者への道に進んで後悔してほしくない、という「情け」があるのでしょう。ですが、研究者になること、いや、本物の知を獲得することの喜びについて、もっと語るべきではないでしょうか。情報としての知を金銭のように蓄え、それを一般人に下達する、という研究者(ないしは大学教師)のイメージは打破されねばなりません。そうではなく、情報に還元できないある種の体験としての知を獲得できる、極めてスリリングで喜ばしい経験をする人間になることこそが研究者への道なのだと、もっと強調してもいいはずではないですか。バフチンにだってドゥルーズにだって人はなりうるのですし、実際、バフチンやドゥルーズは存在していたのです。ある意味で、研究者になることはバフチンになることです。バフチンの仕事は誰も追随できない、などと卑屈になる必要はありません。あのように書き、あのように思考することは、他の多くの人間にとっても可能なはずなのです。なぜ、自分はどうせ駄目だから、などと言うのですか。なぜ、バフチンのように書くことを諦めるのですか。バフチンが一つの答えを発見したように見えるから、それがあまりにも偉大な答えのように見えるから、それで自分はそのような発見者にはなれない、と尻込みしているのではないですか。はっきりと言っておきます。それは違う。答えを提示するのは必ずしも思想家の役目ではありません。それは知を情報に還元するあの悪しき働きに過ぎないのです。そうではなく、問い続けること。これこそが研究者のありうべき姿勢なのです。そしてもしそうであるならば、それはバフチンになることでもあります。あなたがたはバフチンにだってなれるのです。なぜそう希望を説かないのですか。

ポストがないから、お金がないから、勉強ができないから、研究者にはなれない。どうしてそう悲観ばかりしているのですか。もしもあなたがバフチンに憧れを抱くのならば、彼のいる場所にもっと近づきたい、と望んではなぜいけないのですか?ぼくは、これらの問題をないがしろにしているわけではないし、そのつもりもありません。ただ、こういう問題を語る前に、もっと希望を語るべきではないか、と言いたいのです。もしも研究者になりたいのならば、つまり情報ではない知を獲得したいのならば(無論それは研究者にならなくともよいのですが)、暗澹たる未来とやらを嘆く前に希望について語る勇気と気概を持つべきではないでしょうか。

以上、自戒を込めて。

かっぱ寿司

2010-03-16 18:25:13 | お出かけ
先日、かっぱ寿司へ行きました。店舗が郊外にあるのですが、駅からさらにひたすら歩きました。あ、三鷹なんですけどね。ジブリ美術館に行った帰りに寄ったのです。美術館からたぶん30分くらいは歩いたんじゃないかと思います。そろそろ道に迷ったんじゃないか、という頃になってようやくたどり着いたのでした。まあ一本道だったんですけどね。バス通りで、いざとなったらバスがある、というのは安心でした。

回転ずし屋に入ったのは本当に久しぶりで(もっとも、普通のお寿司屋さんに入ったことは実は今までの人生で一度もないんですけどね、もっぱら宅配で、もっともそれも年に一回ですけどね)、ちょっとわくわくしました。回転ずしと言っても、昔みたいにレールの周りのカウンターに並んで食べるのではなくて、ちゃんとテーブル席が用意されています。別にカウンターで食べてもいいんですけどね。

お寿司は全て一皿105円で、一皿に二貫ずつのっています(二個で一貫と本当は言うそうですね?)。だから一個50円の計算ですよ、安い。肝心のお味は、まあまあといったところ。まあ、100円の味かな。不味くはないですけど、ネタがものすごく冷たいことがあったりして、そういうところが残念だったりしました。でも、トロサーモンや大トロは美味しかったです。ちょうど「トロ祭り」とやらをやっていたところで、よく分かんないんですけど、安上がりだったのかなあ。

ぼくはトロとサーモンばかりを食べていました。サーモンって、トロみたいな味わいじゃないですか。ぼくはそう思ってるんですけど。貧乏人の戯言ですかね・・・。

安いし、小さな子供連れにはうれしいお店ですね。また、(お金のない)大学生のグループとか、そういう連中にもいいかもしれないですね。どうせ、一人1000円程度しか食べないんですから。けれど、お金持ちで、味にうるさい人にはちょっと物足りないかもしれないですねえ。

そういえば、将来マグロが食べれなくなる、なんて話をよく聞きますが、「日本人はいい加減マグロを食べるという食習慣を見直した方がいい」、なんてことを言う人がいますけど、マグロ、普段食べてませんから!

お正月とか、そういうときくらいですよ。まあ、たまにはその、今回みたいに安いのをちょびっとつまむこともありますけどね。

ヴィトケヴィッチ その後

2010-03-16 00:50:09 | 文学
エスリンの本を図書館で借りてきました。英語版と邦訳版の二冊。前者は増補改訂版であり、後者は初版に基づいていました。どこが違うのかと見比べてみましたが、要するに、前者には東欧の文学が入っているのです。だからここに、ヴィトケヴィッチやゴンブローヴィチが登場しているわけです。

あと、ムロージェックなども紹介されておりましたが、基本的には大差ないのではないかと思います。ですから、最初に日本語版を読んで、それから抜け落ちている個所として英語版を読めばよいのではないでしょうか?

というか、もう『不条理の演劇』を読むものとして話を進めていますが、いつからこんなことになったんだろう・・・

ちなみに、ヴィトケヴィッチは工藤幸雄の翻訳があることが判明。さすがです。今度探してみようっと。しかしいずれにしろ、彼の全体像をつかむにはポーランド語かフランス語、それとひょっとすると英語がばりばりにできないといけなそうなので、ぼくには厳しいかなあ。せめて英訳がたくさん出ていたら、短いものを選んで読んでみたいんですけどね。

ヴィトケヴィッチ的なもの

2010-03-15 01:14:55 | 文学
ヴィトケヴィッチ、ヴィトケーヴィチ、ヴィトキェヴィッチ、と表記法は色々ありますが、同一人物です。20世紀前半のポーランドの前衛芸術家で、作家であり写真家であり画家でもあったようです。シュルツやゴンブローヴィチと並ぶ巨大な作家でありながら、日本ではほとんど紹介されていません。ぼく自身、彼のことはほとんど知りません。

ヴィトケーヴィチに言及した日本語の論文・本は幾つかありますが、彼の創作の翻訳はまとまった形では存在していないと思われます。英語やフランス語でなら読めるのでしょうが、どうせ翻訳で読むのなら日本語がいいですよね・・・。まあぼくの場合、ポーランド語でも読めなくはないような気がしなくもない・・・でも途方もない時間がかかりそう。

ヴィトケーヴィチについては、エスリンが『不条理の演劇』の新版で論じているとのことですが、彼は不条理演劇の先駆的存在とみなされています。不条理の系譜、というものにはぼくも少し興味があって、ジャリ『ユビュ王』などは前々から読んでみたい作品の一つです。ベケットやイヨネスコに先行する形での不条理文学としては、他にもロシアのゴーゴリやハルムスの文学があります。現代美術家であるケントリッジはズヴェーヴォやゴーゴリ、ジャリの文学をモチーフにした作品を手掛けていますが、それらは不条理の系譜に連なるものであって、ケントリッジのアニメーションに通底しているように見受けられる孤独や実存的不安は、人間存在の不条理感覚に裏打ちされたものなのかもしれません。

不条理演劇という名前はエスリンが命名したものだとしても、それはもっと早くから存在していて、まだ型にはまる前のそれに今は関心があります。ヴィトケーヴィチの作品とその理論を知ることは、黎明期の不条理文学を知ることにも繋がるのではないでしょうか。

ということで、誰か翻訳してください・・・(他力本願)

ヴィトケーヴィチ

2010-03-14 02:06:08 | 文学
『ヴィトキェヴィッチの世界』という本を入手しました。700円。しかし、同じお店で売られているもう一冊は4200円でした。そちらには帯が付いておりましたが、それだけでこんなに違うの!?

それはともかく、ヴィトキェヴィッチ(またはヴィトケーヴィチ)の作品には随分前から興味があって、読んでみたいと思っていました。この本は評論集であって、残念ながら彼の著作は読めないようなのですが、どこからか翻訳が出ていないものでしょうか。『ポロニカ』あたりでありそうな気はしますが・・・

まずは作品を読んで解説書というのが正道ではありますが、解説書から先に入って、この人がどのような作品を書いているのかを概観するのも悪いことじゃないな、と思います。で、気になっているのが 、Esslin のThe Theatre of the Absurd. これは『不条理の演劇』として40年前に翻訳が出ているのですが、ヴィトケーヴィチについて書かれているのはどうやら新版らしいのです。この翻訳が新版に基づいたものであるのか否かはまだ確認していないのですが、たぶん初版に基づいているのではないか、と。で、いまちょっと大学のOPACで検索してみたら、改訂版というのがありました。

試しにAmazonで検索してみたら、第三版というのが売られています。しかし高いなこれ・・・

う~む、迷いますねえ。安ければ買っちゃいますけど、高いんですよねえ。別にヴィトケーヴィチを専門に研究しているわけでもないしなあ。う~む。いずれにしろ『不条理の演劇』は読まないといけなさそうなので、これは買いたいなあ、と思って検索したら、これも高いなおい・・・とりあえず図書館で借ります。

ちゅうずもう

2010-03-13 01:53:31 | アニメーション
今日はね、色んな意味でネタが多いのですが、夜も更けてきましたので、『ちゅうずもう』についてのみ。

ジブリ美術館で、新作(と言ってももう2カ月経ってますが)の短編『ちゅうずもう』を観てきました。ぼくはジブリ美術館の短編は一応全て観ていますが、その中でもこの作品は一番エンターテインメントしています。端的にいえばおもしろい。とっても愉快で、幸せな気持ちになれる、よい映画です。ウェルメイドなだけじゃないか、と文句を言う人がいるかもしれませんが、でも突き抜けた爽快感があるとぼくは思っていて、その一点に向かう勢いや畳みかけ方にとても好感を持てました。

ねずみが相撲を取る民話を基に作られています。爺さんとばあさんの貧しい家に住み着いているねずみたちは、白いねずみたちに相撲で負けてばかりいます。それを目撃したおじいさんは、おばあさんと協力して「大ごちそう」を用意します。豆腐の田楽とぶつ切りのサンマが入ったそば団子。これをたいらげたねずみたちは今夜も白ねずみたちと取り組みをして・・・

ねずみたちの行儀のよいポーズが可笑しいし、相撲の取り組みの動きも楽しい。ねずみなのにダイナミックで、でもダイナミックなのにねずみだから笑えてしまう。人間界を模倣している様も滑稽で、いっちょまえに「水入り」まである。その一方で、蛍の光が夜道を照らすシーンは神秘的でさえあり、こういう場面をさりげなく挿入するところがジブリらしい。

ロシアのピロットスタジオ(パイロットスタジオ)の「宝の山シリーズ」のようなものをジブリは制作して、DVDで出してくれないかなあ。美術館の作品は、12作品たまったらDVDが出るらしいんですが、まだまだ先の話ですよねえ。

こんなに幸福な気持ちになれるアニメーションを観たのは久しぶり、という気がします。

アクセス解析

2010-03-11 00:43:24 | Weblog
いまお試し期間中ということで特別にアクセス解析ができるのですが、それを見て、意外な事実に驚く。なぜだか「ボードリヤール」での検索が多いみたい。このブログでボードリヤールを取り上げたのはたしか一度きりで、それもしょーもないことこの上ない記事だったはずなので、これが未だに読まれているかと思うと恥ずかしいというか、もはや恥辱。ボードリヤールのことなんてぼくは何にも分かっていないし、いったいあの当時は何について書いたのだったかも失念しておりますが、とにかくしょーもない内容だったことは確かなので、過去の失敗をさらしているようなものですね、これは。

深夜、トップページの閲覧が多いようですので、だいたい固定の読者の方々というのがいらっしゃって、見てくださっているようです。また、このブログのタイトルが検索されているらしいのですが、その理由は分かりません。人づてにタイトルのみ聞いている(それで好奇心で探してみる)、ということなのでしょうか。

それにしても、過去に書いた記事のはずなのに、ある種の読者にとってはそれもまた現在に属しうるんですよね。垂直的な時間構造が、ネットという空間上における読書という経験で「水平」に変換されてしまう。ぼくにとっては過去のしょーもない記事であっても、別の人からすれば、それは「いま初めて読むもの」であり、現在の記事足りえているわけです。これは怖い。怖いですねえ。ろくろく意見も変えられないです。まあそんなことは言ってもぼくはけっこうころころと意見を変えますけどね。

まあとにかく、アクセス解析で色んなことが分かりました。いや、知りすぎてしまった。無邪気に書いている方がたぶんいいはずなのに。

学位記授与式?

2010-03-08 23:24:55 | お仕事・勉強など
しまった。大学の卒業式の存在を完全に失念していました。
自分が本当に卒業できるのだろうか、ということが心配である一方で(もう確かめられるのかな)、式があることを忘れていたとは。あまりにも完全に忘れていたので、その日にバイトを入れてしまった・・・

ところで大学院の卒業式って、学位記授与式っていうんですかね?もしこれがそうなら、バイトの日ともろにかぶっている・・・
なんとか日程を変えてもらうしかないですねえ。う~む。
いやあ、普段はきちんとしている方なんですが、いつも肝心なところが抜けているんですよねえ。昔からそうなのです。やっちまったなあ。

同人誌を読む

2010-03-06 01:10:06 | 文学
今回はぼくも参加させていただいた、ntmymさんの主催する同人誌「YUKIDOKE VOL.3 ミズオト」のウェブ版が完成したということで、早速読みました。旅行に行っていた都合で感想を書くのが遅れましたが、とりあえずここに記しておきたいと思います。なお、ウェブ版は↓で公開中。

http://yukidokeweb.blog95.fc2.com/

収録作品は、
「イチョウ並木通り」
「トリビヨ」
「グレイ」
「still」
「ポラロイド・子供と」
「山田ゆたかの誕生日」
「仮面の姫」
「『鍵が無いぞ、稲垣か!?』~ようこそ回文の世界へ」
「ハルムスの超短編」
「アストランチア」
「ロシア海岸」

まず自分のに言及するのもそのナンですが、「ハルムスの超短編」はロシアの作家ハルムスの翻訳です。解説のボリュームがややありすぎたかな、という気がします。内容には触れないでおきますが、表紙について。実はntmymさんから事前に試作版を送っていただいていたのですが、ぼくはちょっと変更をお願いして、今の形になったのです。前の形は、ハルムスの顔が全く描かれていなくて、帽子とパイプがあって、パイプから煙が、という表紙でした。顔のないのは、ハルムスの顔が不気味だから、というのもそうなのでしょうが、赤毛の男の話からの連想で、実態のない人間というイメージがあったのかもしれません。これは非常に正当な連想で、ハルムス作品の表紙としては申し分のないものだったのですが、ただぼくの思ったのは、随分スタイリッシュな絵柄だな、ということなのです。うまくまとまっているからこそ、そこからハルムス作品の持つ不気味さが消えてしまっているような気がしたのです。それであえて、不気味さを押し出してみるのも一案ではないか、と提案してみたのです。その結果、完成したのがこの表紙です。うっすらとハルムスの人相を描くことで、実態のない人間というイメージを保ちつつも(人間の存在不安)、不気味さも同居していて、予想を超える出来となりました。期待以上のものに仕上がったので、満足です。ありがとうございました。

自分の作品についてが長くなりましたね。
「イチョウ並木通り」は、童話風の心温まる作品。ちょっと宮澤賢治を連想。出来事が想定の範囲内に収まっているのは、これが子供向けだからでしょうか。

「トリビヨ」は、村上春樹の『夜のくもざる』に出てきそうなシチュエーションから始まります。何とも訳のわからない設定。ただ、トリビヨの正体がすぐに明かされてしまうのが、個人的にはちょっと肩すかしでした。いっそのこと、何だかよくわからないものとして物語の最後まで押し通した方がよかったのでは、と思いました。その意味で、他の短編の方がおもしろかったです。作者は奇妙な雰囲気を醸し出すのがうまく、これらの作品は超短編としての魅力を備えています。

「グレイ」もやはり奇妙な味の作品。今回はこういうのがけっこう集まった感があります。宇宙人が突然クリーニング屋にやってきて、そのまま地域に溶け込んでしまう、という物語。大きなテーマとしてはコミュニケーション問題があるのでしょうけれども、小説としても楽しめて、なかなか滋味深い。

「still」についてぼくは的確な意見を述べられないのですが、幾つかの作品には心惹かれた、とだけ言っておきます。

「ポラロイド・子供と」は、詩なのでしょうか?最後の数行がかなりよかったです。

「山田ゆたかの誕生日」は、前号の続きないし番外編と見られますが、それを読んでいない読者にはたぶんよく分からない話になっているので、そこは残念かな。個人的には、前回の方がよかったです。勢いがあって、あと設定もなかなかおもしろかったので。今回は、やや冗漫な印象を捨てきれません。出来事の省略の仕方とか、また逆に緻密な描写とかの選択がうまくいけば、完成度は一挙に上がると思われます。

「仮面の姫」は今回では随一の出来と見ました。シュオッブの「黄金仮面の王」(でしたっけ?)に触発されたのかどうかは知りませんが、それを髣髴とさせる、かなり強烈な物語。背景画も魅力的で、世界観によくマッチしています。小説の完成度は高く、アマチュアのレベルは超えているでしょう。いや、個人的にはかなりよくできた小説の部類に入ります。

回文ですが、これはなかなかおもしろいですね。言葉遊びによって不条理な世界が現出する。音を重視した結果、言葉と言葉とが普段ではありえない結合をするところがおもしろい。その衝突の結果、奇想天外な意味が導出される。いまいちな作品から奇跡的な結合を果たした作品まで色々あります。

「アストランチア」は、少女同士の妖しげな関係を描いた、スリリングで繊細な一品。ぼくはこの種の作品を読んだことはほとんどないので、その意味でも新鮮でした。続きが気になります。

「ロシア海岸」は、やはり奇妙な味の漫画。ロシアということで俄然興味を惹かれましたが、一見してロシアらしきものは出てきません。そこがまた何とも言えない魅力で、ある種の不条理漫画とさえ言えるかもしれません。その一方で、最後は幻想的で、魅力的なアイテムも登場。繰り返し読んで深く深く味わってみたくなる作品です。

あろうことか自分の作品についての言及が一番長くなってしまいました・・・。また、いずれの作品も一言ずつを目標にしていた割には、長くなってしまって・・・