Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

詩論が読みたくて

2014-05-03 02:27:02 | 文学
それほど期待せずに手に取ったオクタビオ・パス『弓と竪琴』。

ところが。

おもしろいじゃないか。すごい。すごいぞ。宝石よりも貴重な文言が煌めいている。これほど充実した内容でこの分量(500頁超)というのもすごい。でもこの充実感に読み手であるぼくの精神が耐えられそうにありません。仮に全部で50頁くらいだってもう満腹の域ですよ。その10倍の量をどうやって消化したらいいのか。

良過ぎるものを書き過ぎるというのは読者への圧ですね。持ち堪えられない。ある意味で罪なことです。どんなに宝石が欲しくたって、自分が埋もれて窒息してしまうほどもらったら、かえって有害でさえあるわけで。

と書いてきて、この本をあす以降も読もうかどうか迷い中。精神的負担がなあ。

全部を平らげようとしたら、消化不良を起こすことは明らかなので、緩急を付けて、日にちをかけて読むのがいいんだろうと思います。

ということは、とりあえず明日、読むのかな。明日の気分次第かな。

小説を読む

2014-02-16 23:36:08 | 文学
人から読むよう頼まれていた原稿を読んだ。人というのは最近知り合った人のことで、作家を志している。原稿というのはその人の書いた小説のことで、200枚を優に超える。

その人の別の小説を以前読ませてもらったことがあって、それは大変すばらしい出来だった。でも何かの文学賞で最終選考まで残らなかった作品とのことだった。ただ、ぼくはその小説にいたく感心したので、感想をその人に伝えた。その感想を気に入ってもらったからなのかどうか知らないけれども、ともかく今回新しい作品を読んで下さいと言ってきてくれた。



一つの対象がある。その対象をキャンバスに写し取ろうと、なるべく正確にそれを模写する。でもそれはあくまでいまここにいる自分の視覚によって捉えられた対象に過ぎないから、対象を正しくキャンバスに写し取ることはできない。そこで、別の視座から見られた対象をもキャンバスに描くことにする。それを何度も何度も繰り返す。一つのキャンバスの中にその行為の結果を反映させれば、キャンバスの中には対象の多面性を目指した、対象とは似ても似つかない代物が描かれているだろう。

この実験を仮に「空間的」と評することが可能だとしたら、その人の小説は「時間的」と形容することができると思う。つまり、その人の志したのは、対象の時間的多面性だったのではないだろうか。存在の可能性と不可能性を巡る話だったと思う。しかしながらそれは急進的な実験性を前面に押し出してはおらず、読み物としても楽しめた。

巨大な才能と思考力だ。実力的にはいつデビューしてもおかしくない(そしてデビューしたらいきなり一線級の作家になれる)。あとは評価する側の問題だと思う。

文学フリマ

2013-11-03 00:11:25 | 文学
週明けの文学フリマに行く予定です。と言っても、出店するわけじゃあなくて、見学。

でも、実を言うといつか自分も出店したいなあなんて思ったりしてます。同志を集めて、批評も創作も漫画も何でもアリの本作って、赤字でも全然構わないから、誰かに読んでもらえたらなあと思ってます。皆で一緒に何かを作って、皆で一緒にそれを発表して、皆で一緒に反応を待って・・・っていうのが、やりたい。

上手とか下手とかは二の次で、大事なのは欲求。欲求の迸りを表現したいし、表現してもらいたい。この前、高橋源一郎が新聞紙上でいいことを言っていたよ。社会の問題を自分の問題として受け止めて表現している人たちの文章は、(一般的な論評とは違って)心に迫ってくるものがある、というような内容だったと思います。

自分と対象とを切り離して論じるのではなくて、まさに自分の問題として論じる姿勢がぼくも大事だと思う。そういう文章は、ときには破綻することがあるかもしれないし、歪な構成であるかもしれないし、稚拙でさえありうるかもしれない。でも、自分の熱情をいかにして文章に投影し、その熱量を保ったまま読者に提供するか、という問題は、もっと追求されてもいいテーマだと思ってます。

巧い文章ってのも一つの魅力だけれども、個性的でエネルギッシュな文章の方がぼくは好きで、そしてそういう文章を同様に好む人たちと一緒に文学フリマに出店したいなと思ったりしてますね。

ネットで発表することは簡単なんだけれども、やっぱりリアルな場所でリアルに集まって、リアルな読者の前で「文学をやる」っていうのが大事なんだと思ってます。つまるところ、ぼくの求めているのは「研究」とか「文学」とかじゃなくて、「楽しむこと」なのです。そしてぼくのとっての楽しみとは、「研究」とか「文学」とかじゃなくて、「表現すること」なのです。いわゆる「表現するべき自己」なんてものは持ち合わせていないんだけれども、それでも表現欲求というのは飽くことがない。

誰か文学フリマ目指しませんかねー。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

2013-10-11 02:27:52 | 文学
ノーベル文学賞の有力候補に挙げられていたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさん。惜しくも受賞はなりませんでしたが、彼女の本の中に、次のような一節があります。

あなたは人々になにを与えることができるんですか。満ち足りた生活? 豊かなくらし? そんなものが私たちの究極な目標になるはずがない。人間のできがちがう。私たちに必要なのは悲劇的な理想。明るい未来という儀礼があった。そして悲劇的な理想もあった。それを踏みにじることはできない。取り上げることはできない。それは生きつづけるだろう。ま、しかたない。お書きください。いまは何でも書いてもいいし、みなが書いている、しかし文学といえるものはどこにあるんですか。私たちに起きているようなことが、どこにあるんですか。S氏の死ひとつでもいい。このような死は……。
                               『死に魅入られた人々』111頁。

この本は、ソ連崩壊に際して自殺してしまったロシアの人々を巡るインタビュー集。引用文にある「S氏」は、共産党員でした。彼の自殺について、別の党員がインタビューに応えているわけです。

一般に、ソ連崩壊という出来事、一つの社会主義国家の崩壊という出来事は、「われわれ」にとって見れば、積極的に歓迎すべきことだったとは必ずしも言えないまでも、少なくともそう悪いことではなかったと思います。もっとも、ソ連が崩壊したときぼくはまだ小学生だったので、当時どのような言説が飛び交っていたのかは知りませんが。

ところがソ連の内部には、冷静に考えれば誰にでも明らかなように、大変な衝撃(しかも悪い衝撃)を受けた人たちがいたのです。共産主義の夢を追っていた人々。依然としてスターリンを信奉していた人々。しかし国家は瓦解し、彼らは生活/人生の目標を失いました。

もちろん、自殺した原因を全てソ連崩壊に還元するのは短絡的すぎるでしょう。しかし、少なくともこの本は次のことを教えてくれます。つまり、外側から見れば善だと思える事柄でも、内側の人々からすれば、死にすら至らしめる可能性を孕んでいるということ。事物の二面性。

この本は一つのドキュメンタリーであり、フィクションではありません。しかし、優れた文学というものが唯一の真実を提示するのではなく、それどころか真実の相対性を示唆するものであるならば、『死に魅入られた人々』も間違いなく文学の中に位置づけられるでしょう。だからこそ、「文学といえるものはどこにあるんですか」という党員の問いは、その文脈を超えて、ぼくの胸に突き刺さります。

ターナーとゴーリキーの坊ちゃんの上での出会い

2013-10-09 00:41:19 | 文学
ターナーについての言及が漱石の『坊ちゃん』にあると言うので、さてはあの釣りのシーンだなと当たりを付けてパラパラと本を捲ってみると、ゴーリキーが出てきたので驚いた。そのすぐ前には、なるほどターナーについて赤シャツと野だいこが会話を取り交わしている。

ターナーにしろゴーリキーにしろ、「坊ちゃん」にすれば未知の名前で、赤シャツたちのディレッタント気取りの俗物根性を揶揄する道具立てとしてここでは用いられているようです。

ただ、「光の画家」であるターナーに対して、ゴーリキーは当時(今もかな)の日本では『どん底』の印象が余りにも強く、「闇」「陰気」のイメージが先行しています。つまり、意図的にか無意識にか、「光と闇」の対立的構図が出来てしまっているのはおもしろいですね。

『坊ちゃん』は痛快な勧善懲悪式の物語として読むことが可能で、その意味では善と悪の対立軸が鮮明な作品です。だから、ひょっとしたら他の箇所にも対立構造が現われているかも、なんてことに注意しながら読み直してみるのも楽しいかもしれません・・・いや楽しくないかな。

いずれにしろ、いま自分はむしろ『吾輩は猫である』を読み返したいと思っています。この名前のない猫の話、中学生のときに抱腹絶倒して以来、読み返していません。いま読めばきっと別のおもしろさを発見できるはず、と見込んでいます。

モリヌークス問題

2013-10-04 01:11:56 | 文学
ロシア文学とモリヌークス問題(簡単に言うと、生来目の見えない人が成人して突然目が見えるようになったとき、球と立方体とを識別できるか、という思考実験のこと)とを関連させている人っているかなあと検索してみたら、いらっしゃいましたね。さすが。しかもマレーヴィチらの絵と関連させている。やっぱりそうだよね。視覚と触覚の関係は、そもそもモリヌークス問題に内在しているし、バークリ以来の伝統的な議論。あるいは、ランボーらのいわゆる共感覚の問題としても捉えられる。

ただ、多くの論者が指摘するように、バークリの「触覚」というのはしばしば「身体感覚」と同義であって、その意味では視覚と触覚との共感覚の問題としてモリヌークス問題を捉えるよりも、むしろメルロ=ポンティ的な文脈に移す、すなわち身体の中に目を位置づける方が適切である気もしますね。それは観察者の身体性を回復することであり、その人の視覚の個性や歴史を取り戻すことでもあります。そうすると、抽象的な、脱人間的な視覚を前提にしていると見落としてしまう事柄が、まざまざと見えてきたりするのです。

広くモダニズム芸術を扱う人で、モリヌークス問題に関心がない人がいたとしたら、そりゃあ「もぐり」だと言って憚らないぼくですが、しかしぼくの場合、モリヌークス問題には関心あるけどモダニズム芸術にはそんな興味がなかったりする。

Everything Stuck to Him

2013-09-15 01:23:36 | 文学
21~22歳頃のことだったかな、レイモンド・カーヴァーを原書で読んでみようと思って、どこかの書店で英書を入手した。Everything Stuck to Him って短編はタイトルがおもしろいし、程良い短さだったので、真っ先に読んでみた。村上春樹の翻訳ももちろん持っていたんだけど、未読だった。一度英語で全部読んでみてから、翻訳にも目を通した。

ちょうど同じ頃だったと思う、森茉莉の「気違いマリア」という短編を読んだ。そこにこんな箇所がある。「とにかく変なものはすべて、マリアにくっつくらしい」。「何もかもが彼にくっついていた」っていうタイトルと何か似ている。言うまでもなく、両者における「くっつく」という単語の意味合いは全く異なるんだけど(たぶんね)、妙にひっかかった。

「気違いマリア」とは別の作品だったかもしれないけど、人の感情が私に直に伝わってしまう、みたいなことが書かれた小説を、やっぱり同じ頃に読んだ。

他人の思惑や心の傷、悪意、哀しみ、そういったものが全部自分の心にくっついてしまう。そういうテーマの小説をぼくが実際に読んだのかどうか、もう分からない。でも「これは自分のことだ」とぼくは思った。読んだことがあるかどうか分からないのに、読書の感想を持ってしまったというわけだ。

ぼくは少年時代から20歳くらいまでの間、「他人の気持ちが分かり過ぎてしまう」ことにひどく悩んでいた。よく「人の気持ちを想像しなさい」とかって小学校で怒られたりするものだけど、あんまり想像できない方が人生楽なんじゃないのかな。人の気持ちが分かるっていうのは、美徳のように語られたりもするけど、当人にしてみればあんまりいいことじゃない。というか、よくないことだと思う。

「他人の気持ちが分かる」ことが悩みだなんて、ぼくはそれまで誰にも言ったことはなかったし、それが悩みだったんだよってことも、今の瞬間まで誰にも話したことはなかった。だってそんなことが「悩み」として認識されないってことは、少年のぼくも知っていたから。でも、当時はそれが本当に辛かった。

もちろん、全ての人の気持ちが分かるってわけじゃあなくて、親しい人に限られていたと思うんだけど、でもその親しい人に何かよくないことが起こると、ぼくの心は激しく反応した。まるで自分自身にそれが起きてしまったみたいに、あるいはひょっとしたらそれ以上に、激情に心を揺さぶられた。悔しくて悔しくて堪らなかったり、悲しくて悲しくて堪らなかったり。なんでこんなに自分が傷ついてしまうのか分からなかった。他人の感情の何もかもがぼくにくっついていた。

こんなことを書いたりするとさ、「他人の気持ちが分かる優しい人間をアピールしている愚劣な野郎」って烙印を押されそうな気がするんだけど、たぶんそういうことをちょっとでも感じてしまった人には、まあ当時のぼくの気持は分からないだろうなあ。「気持ちが分かる」ことが辛い悩みになってしまうって、そういう人には理解できないだろうなあ。

今のぼくは「分かり過ぎてしまう」ってことはない。かなり鈍感になったと思う。きっかけは、ドストエフスキー『罪と罰』だった。読んだのはたしか15~16歳の頃だったはずだけど、ぼくはラスコーリニコフに感情移入し過ぎた。ぼくの精神は危機に瀕した。そこで取った自衛策が、「感情移入しないこと」だった。読書にのみ採用した方策のつもりだったんだけど、いつの間にか人生にも適用されていた。何年もかけて、ぼくは少しずつ冷淡になっていった。

「優しくない」とか「怖い」とか、言われたことがある。ぼくはそれを、「お前は人の気持ちが理解できない人間だ」という叱責として解することがあった。複雑な思いだった。

一方で、「気持ちが分かり過ぎてしまう」ぼくの感受性を心配してくれる人もいた。ぼくはもうそんなんじゃないのにな、と思いつつ、うれしかった。

あんなにも人の気持ちが分かってしまったあの頃に戻りたいなと思う。でもあの苦痛は引き受けたくはないなとも思う。

まあいずれにしろぼくはこのままなんだろうな。

ちなみに、あえて曲解することもあるんだけど、それはまた別の話なのかな。

とあるロシア文学のエピソード

2013-07-15 01:23:11 | 文学
ゲンナジー・アイギの回想

「こんなエピソードがある。アレクセイ・クルチョーヌイフは現代の詩人たちに我慢ならなかった。と言うよりは、彼にとってはそんな詩人たちはほとんど存在していなかったと言う方が正確だろう。あるときサトゥノフスキーは、自分のことを知らないクルチョーヌイフに電話をかけた。そして何の説明もしないうちに、自作の詩を朗読し始めた。クルチョーヌイフは黙って聞いていた。途中でヤコフ・アブラモヴィチは朗読を止めた。「続けて下さい。続けて読んで下さい」クルチョーヌイフは催促した。朗読が終わると、クルチョーヌイフは言った。「あなたはどちらにお住まいですか? 私の住所はご存知ですか? 今すぐいらして下さい」。恐らくこれは、クルチョーヌイフが彼をマヤコフスキーやカメンスキー、フレーブニコフの系統に属する自分の詩人として認めた、特別な出来事の一つだっただろう。」

仮にこのブログをロシア文学の愛好者が読んで下さっているとしても、サトゥノフスキーという名前を聞いたことはないのではないでしょうか。研究者でも知っている人は少ないと思います。・・・いやしかし、ここでぼくがサトゥノフスキーの解説をすると思うのは間違いであって、単に次のことが言いたいだけなのです。「ロシア文学の世界は豊饒だ。知らないことが山のようにある」と。

というわけで、これから「知られざるロシア文学」というテーマで、日本に翻訳の(ほとんど)ないロシア作家やその作品を紹介していければいいかなと思います。・・・嘘です。いや正確に言えば、そうしたい気持ちはありますが、その作業は自分の能力の限界を超えるので、無理です。

なんだかもやもやしたまま今日は終了。

チェーホフと世界文学

2013-05-25 04:21:20 | 文学
『チェーホフと世界文学』という三巻本がロシアで出版されていることを知りました。今日、書店に行ったらその第二巻と第三巻が置いてあって、思わず手にとって見てしまった次第。随分巨大な本で、しかも第一巻がなかったので購入しませんでしたが、世界各国におけるチェーホフの受容が扱われているようでした。

日本では、今年に入って『チェーホフの短篇小説はいかに読まれてきたか』という本が刊行されたようですが、分量的にはこの本の比ではないですね。さすがロシア本国だけあって、ものすごい研究書があるもんだ。

欲しいなあ。でも巨大過ぎるんだよなあ。一巻だけないというのも間抜けだよなあ。う~む、迷う。

ちなみに目次を見ると「日本」もあって、そこには柳富子さんと佐藤清郎の論文の翻訳が掲載されていました。

ああ、やっぱり買っておけばよかったかなあ。それにしても第一巻の内容ってどんなのだろうなあ。ロシア本国での受容を扱っているんだろうか・・・。もう一度この書店に行ってみようかなあ(やや遠いんだよなあ)。ああ、迷う。

・・・・・・・・・・・・・・

夕方から雷雨。小止みになるのを待って歩き出しましたが、駅の近くの道路が川になっていた! 渡れないので、ぐるりと迂回することに。しかし、迂回先の道路も川! ちっくしょうめえ、と頭にきましたが、仕方ないのでつま先立ちで川を渡る。でも当然靴も靴下もびしょびしょになってしまった。ズボンの裾もね。モスクワの道路事情の悪さは、晴れていれば笑い飛ばして終わりですが、雨の日は怒り心頭。なんでこんな馬鹿げたことになるのだ。

それにしてもここのところ毎日が雷雨。

ロシアの学位論文

2013-03-07 02:46:04 | 文学
少し時間の空いたときに、この前入手したロシアの学位論文を読んでみました。が・・・ひどい。最初の3ページほどの間に、事実関係の誤りを二つ見つけました。一つはただの調査不足とみなせるもので、まあ許せますが、もう一つは滅茶苦茶と言っていいほど見当違いなミス。この論文を入手した当初、ざっと目を通した段階では、多くの参考文献を調査していてすごいなあとすっかり気落ちしてしまったのですが、改めて最初から読んでみると、かなりレベルの低い論文であることが分かりました・・・と言ってもまだ10ページ強しか読んでいないのですが・・・でもこういうミスを連発しているようでは、たとえこの先どんなことを提唱しようとも、それは事実に基づいていないのではないか、という懸念を払拭しきれません。論文の書き方にも問題があります。あるところではAという文献を引用元にしているのにもかかわらず、別のところでは、同じテキストからの引用であるにもかかわらず、Bという文献を引用元にしていたりするのです(つまり、例えば『坊っちゃん』から引用するときに、あるところでは新潮文庫から、別のところでは岩波文庫から引用している、ということです)。ありえない。ロシアの学位論文ってこんなにレベル低いの?よくこんな論文が審査通ったな。というか、なんで通したんだ。この人の論文がたまたま大外れだったのかもしれませんが、ロシアの学位論文のレベルを疑ってしまう。

「学位論文」という書き方をしてきましたが、たぶん日本でいう「博士論文」に相当するものだと思うのです(そうでなければ電子図書館に保管してネットで販売しないだろうし)。ロシアの大学のシステムがどうなっているのかいまいちよく知らないのですが(と無知を告白)、「アスピラント」と呼ばれる人たちが書くのがこの「学位論文」で、そしてその「アスピラント」は日本における博士課程の学生に大体のところ相当するようです。でもあれかな、修士課程と博士課程の中間点くらいの位置づけなのかな。

ちょっとねえ、ぼくの読んだ学位論文のレベルが低過ぎて、ロシアの大学システムについて関心が出てきてしまったよ。

ぼくのやっている研究は、日本では今のところ東大生か有名大学の教授しか学術論文を書いていないので(卒論やレポートは除外)、その質だけで言えば、ロシアよりもレベルが高いのかもしれないなあ、なんて思ったり。もちろんロシアには大変立派な論文があるわけですが、実はそうでないのもある、というのは当たり前のことかも。要は個人差か。

博士論文の電子図書館

2013-03-01 04:39:15 | 文学
ロシアで書かれた博士論文の電子図書館のサイトを偶然見つけました。

disserCat — электронная библиотека диссертаций
http://www.dissercat.com/

ここで博士論文を購入することができます。だいたい500ルーブル程みたいです(1500円くらい)。

で、早速購入してみましたが、苦戦しました、案の定。
だからそのやり方をここに書いておきます。第一に自分の備忘録的な意味で、第二にこのサイトを利用しようとする誰かのために。

まず、上記のサイトに行きます。
検索して読みたい論文を探します。
その論文をクリックして別ウィンドウを開いたら、そこに論文の目次が表示されます。そのウィンドウの上あるいは下に、「в корзину」(カゴの中へ)という表示があるので、それをクリックします。
すると、自分のカゴの中にその論文が入れられます。
そのカゴの中に論文が入っていることとその値段を確認したら、「Оформить заказ」(注文)をクリックします。
すると画面が注文画面に切り替わります。そこに自分のメールアドレスを入力して、送信します。
ここまでは簡単。問題はここから。

「Оплатить」(支払い)の画面になるはずなので、「Оплатить」をクリック。すると、多くの支払い方法が表示されます。ここではロシアの携帯電話による支払方法について説明。自分の携帯会社を選んだら、改めて「Оплатить」をクリックします。すると、新しい画面が現れるので、そこで「携帯電話」→「自分の携帯会社」の順番にクリック。そうして自分の電話番号を入力します。それから「続行」をクリック。その直後に、自分の携帯電話にメールが届きます。そこには12ケタの数字が書かれているはずです。その番号を、送り主に返信します。携帯電話会社が「ビーライン」であれば、たぶん「8464」という番号からメールが届くはずなので、宛先を「8464」、本文に「12ケタの数字」を入れて、送信します。これで完了です。

ただし、携帯にお金が入っていなければいけません。事前にお金を入れておいてください。論文が500ルーブルであれば、530ルーブル程が必要な金額になります(余剰の30ルーブルが何のお金かはよく知りません)。事後払いは不可です。事前にお金を入れておかなければ、携帯電話会社から12ケタの数字は送られてきません。

以上で説明終わり。
しかし実は最初ぼくはクレジットカードで支払おうとしたのです。でも、どういうわけかできなかったのです。VISAカードなら支払えると書いてあったのに、本当にどうしてでしょうか。仮にカードで支払えないのだとしたら、日本でこのサイトを利用するのはちょっと手間になります(日本にも店舗のあるWestern Unionという銀行(?)も支払いに利用できるので、不可能ではないけれど)。
そもそも、このサイトは日本人研究者にどのくらい知られているのでしょうか。皆知っているのだとしたら、どうやって支払っているのでしょう。それが分からないと困りますねえ。

そうだ、お金を払った後、論文はワードファイルとPDFの両方で開くことができるようになります。ただし、リンクの有効期限は数日間らしいので、ワードにしろPDFにしろ、保存しなければなりません。保存が済んだら、本当に全て終了です。

ちなみに、この作業の間に電子図書館のサイトから何通かメールが送られてきます。大事なのは、自分のログイン情報に関してのメールです。まずメールに書かれたパスワードでログインし、その直後にパスワードを変更しなければなりません(最初のパスワードは一度しか使えない)。

こんなところでしょうか。ああ、日本でもこのサイトを使用したいのだけどな・・・。
それにしても、早速論文をちらっと見てみたけど、さらっと読めないのが情けない。あと参考文献の豊富さに落ち込む。どうやってそんなに手に入れたんだよ。なんとなくがっくりな日。

傷だらけの魅惑

2012-12-13 04:40:24 | 文学
ロシアの作家ハルムスについて、簡単な紹介文を書くとしたらどんなタイトルがいいだろうなとちょっと考えました(内容じゃなくてタイトルであることに注意)。「ハルムス――傷だらけの魅惑――」なんてどうだろうと思いついたのですが、しかし何となく聞き覚えのある語感。「もしかして・・・」と検索してみたら、「傷だらけの魅惑」というのは、沼野充義先生の『永遠の一駅手前』に収録されている論文のタイトルでした。もちろんハルムスを紹介しています。断っておきますが、記憶の片隅にあったのを思い出したというわけではないのです。本当に同じタイトルを思いついたのです。たぶん、二人は(僭越ですが)同じ思考回路を辿ってこのタイトルに行きついたと思われます。

いやしかし、このタイトルはそんなに特別なものではないのです。言ってみればハルムスを巡る一種の言葉遊びのようなものなのです。ハルムスって、harms とも charms とも表記できて、それぞれ「傷」と「魅惑」ですね。ここから、「傷だらけの魅惑」ってタイトルが出来上がるのです。もちろん、逮捕されて監獄病院で亡くなったという悲話、長らくその作品が葬られていたという残酷な歴史も踏まえて「傷」と言っていると思うのですけれども。

でもこういう話はその論文の中で既に紹介されているのかな?いま手元に本がないので確かめようがないのですが、たぶん触れられているのだろうな・・・

シュルレアリスム百科事典 in Russia

2012-09-22 06:26:33 | 文学
ロシア版『シュルレアリスム百科事典』の編者の一人ガリツォヴァは、20世紀ロシア文学とダダイズム/シュルレアリスムとの類似性・同時性に注目した論文でも知られ(邦訳あり)、この分野でのスペシャリストです。この百科事典には、「ブルトン」や「アラゴン」という項目はもちろん、「ロシア」や「ズダネーヴィチ」という項目も設けられており、広くロシア文学に目配せした編集になっています。もし日本だったら、「瀧口修造」や「日本」という項目があるでしょうね。

さて、ロシアにおけるシュルレアリスムというテーマは、個人的な印象ではこれまでそれほど活発には論じられてこなかったような気がしています。もちろんこのテーマで書かれた論文は存在していて、例えば、フォースター「ロシア文学におけるシュルレアリスムの問題に寄せて」;ハルジエフ「マヤコフスキーとロートレアモン」;カーリンスキー「20世紀のロシア詩におけるシュルレアリスム」等々があります。

ただ、ロシア未来派をイタリア未来派と比較して論じる立場がそれなりの正当性を保ちえるのに対して(仮に一部のロシア未来派がその関係性を否定していたとしても)、ロシア・アヴァンギャルドとフランスのシュルレアリスムとを比較することは、難しいと思われがちです。というのも、ロシアからフランスへザーウミを輸出し、ツァラと共闘したズダネーヴィチのような例外を除いて、直接的な影響関係を両者の間に見ることが困難だからです。ロシア・アヴァンギャルドの幾つかの事例はブルトンの実験とは直接的には明らかに無関係であり、フランス・シュルレアリスムがロシア・アヴァンギャルドの詩人に影響を及ぼしたとみなすことができないのです。

このような、世界文学における影響関係と同時多発性の問題は、現代において益々先鋭化しています。ハロルド・ブルームを援用したインターテクスチュアリティの理論、ドゥルーズの「反復」理論、あるいはハッチオンのパロディ理論・アダプテーション理論を礎に、ダムロッシュの世界文学理論を射程に収めた理論的構築が為されるべきでしょう。更に現代世界文学を論じる際には、ウェブ理論が必須であると思います。直接的な影響関係抜きの同時多発的文学の存在は、これまでも意識的・無意識的に言及されてきましたが、ロシア文学におけるシュルレアリスムを考える際にも、この理論的枠組みが必要になるときが来るかもしれません。個人的には、直接的な因果関係がなくとも、二つ(以上)の事例を対照させることで浮かび上がる要素もあるはずですから、もっと気楽に取り組んでもいいように思うのですが、アカデミックな世界ではなかなか難しいようです。もっとも、シュルレアリスムとアヴァンギャルドに関しては、フロイトの無意識の発見がしばしば媒介になり、その切り口から両者の関係性に照明を当てることができるかもしれません。

このように、ロシア文学とシュルレアリスムとを比較して論じることには学問的な困難さが伴うのですが、しかしある種のロシア・アヴァンギャルド文学を読むとき、その印象がシュルレアリスムの詩に近似している、あるいはブルトンの提唱する理論の明証となっていることに、驚きを隠せません。近年立て続けに翻訳の出たハルムスについて、その作品集は彼をシュルレアリストであると言明しています。その本には解説が一切付されていなかったため、その根拠が分からないのですが、しかしロシア版『シュルレアリスム百科事典』もまた、ハルムスの所属したグループ「オベリウ」をシュルレアリスムの代表例に数えています。ハルムスやオベリウに所属した詩人たちをシュルレアリストとみなす立場は、必ずしも主流であるとは言えないと思いますが、ただしこのような見方は、やはりある真理を突いているのではないでしょうか。シュルレアリスムのオブジェクト(対象)への関心とオベリウ・グループの物/対象への関心という興味の一致の他に、ふつう結合しえないイメージの結合という創作法の一致も看取されます。『百科事典』が指摘するように、ダダイズムからシュルレアリスムへの移行と、ロシア・アヴァンギャルドの発展史は、音声への関心から意味への関心という点で軌を一にしており、それぞれ言語実験を音声的領域から意味的領域へ移しているのです。恐らく、その文学史的な発展を個人史の枠組みで達成してしまったのが、20年代前半~後半にかけて作詩していた一部のアヴァンギャルド詩人たちでしょう。

『百科事典』を読みながら沈思する。でもこのテーマは難しいな・・・

文学的な

2012-08-02 02:12:13 | 文学
なんとなく8月になってしまっていた。

で、既に午前1時半を回ってしまっている。というのも、先程まで本を読んでいたからで、その本というのは三島由紀夫の小説で、その小説というのは今までそれこそなんとなく読んでこなかった『仮面の告白』なのだった。

正直言って、ぼくはそれほど感銘を受けませんでした。もしも二十歳前後で読んでいれば、「これぞ文学だ」みたいに勘違いしちゃっていたような気がするんですが、今読んでみると、「まあこれも文学だな」くらいの冷めた感慨しかない。

告白というジャンルが、文学の中でごく一部を占めているに過ぎないという自明の事実についてだけそう言っているのではなくて、なにかこう、若い頃の三島由紀夫の自意識の強さに、ぼくはいま距離感を感じてしまう。この小説は、事実に基づいた告白なのか、それとも大幅に脚色されたフィクションなのか、という議論には立ち入りませんが、はっきり言ってその辺の細かい事情はこの際どうでもよろしい。ある程度は三島由紀夫自身の心情や経歴が反映されていると見るのは間違いないだろうし、また同時にこれが実人生と瓜二つではありえないというのも間違いないだろう。でもそういった事柄よりも、気になるのは語り手の自意識の過剰さであり、自分の苦悩に苦悩するといった自縄自縛の苦痛です。

いやに論理的、理性的に秩序だって整理される自らの性質や心情の分析がどこまで正しいのかはぼくには判断付きませんが、しかし男色や少年愛好への自覚と拒否感のせめぎ合いはひりひりするほど痛ましい。そうした自意識の苦悶や、サディスティックで残虐な妄想に耽る語り手の想像力、あるいは男性に欲情するエピソードそのものに、いわゆる「文学的香り」がするのは事実ですが、しかし一方でそういった「文学的香り」は、二十歳前後の文学愛好家の間でのみ重宝されるのもまた事実であるように思われます。極めて文学的な、余りに文学的な作品ですが、少なくとも今のぼくにはそのような文学らしさが胡散臭い。鼻につく。

この切羽詰まった感じ、二進も三進もいかない感じよりも、洒脱で肩の力の抜けた小説の方がぼくにはいい。もちろん、『仮面の告白』という小説を否定したいわけではありません。これは完全に好みの問題であり、気分の作用です。いや、『仮面の告白』は非常によく書けている作品だと思います。でも、ぼくはこれを崇めたりはしない(この言葉はつまり、『仮面の告白』がある種の人々にとっては「崇め」る対象になりうることを示唆しています)。そういうことです。

走れ芽野

2012-07-16 22:50:04 | 文学
で、森見登美彦の『走れメロス』を読んでみたわけですが、これがなかなかおもしろかったのです。他に「山月記」「藪の中」「桜の森の満開の下」「百物語」が収録されていたのですが、表題作「走れメロス」が殊の外おもしろかったです。この著者は若いながらも古雅な文体を操る作家で、それでいて内容は峻厳にはならず、逆にユーモラスであるところが特徴なのですが、「走れメロス」はそのような作者の長所が見事に発揮された、実に愉快な短編でした。文体と内容とのギャップが際立ち、滑稽を醸し出す手法はこの作家の自家薬籠中とするところでしょう。一方で、この作家の書くものは人間心理の深刻な洞察をも含んでおり、それはこの短編集に収められたほとんどの作品に見られました。

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今日、自宅にいわゆる「ふりこめ詐欺」の電話がかかってきました。皆さん気をつけましょう。

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勃然とやる気が出ることもあり、トトロに生長を促されたドングリのように、先程みるみる内に気合が高まったのですが、しかしふと我に返ってみると、一夜明けたトトロのドングリみたいにそれは小さく芽を出しているだけでした。けれども、完全に地中に隠れているよりは、少しでも頭を覗かせている方がいいのです。たぶんね。それでは今週も始まるよー!(尾田栄一郎ふうに)