Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ドラゴンボール 実写と漫画

2009-02-28 00:03:08 | 漫画
ドラゴンボールの実写版がもうすぐ公開されます。
CMで少しだけ観ましたが、あれだけでは判断つきません。でもたぶん、設定を借りただけの作品になっていると思います。

ぼくは、それはそれで構わないと思っています。でも、大事な部分だけは変更しないで欲しいとも願っています。ハリウッドが作ると、惚れた腫れたの映画になってしまいそうで怖いです。戦う理由として、地球を守りたいからとか、ある女性を守りたいからとか、そういうものが大きくなってくるのは仕方のない面もあります。娯楽映画ですからね。しかし、ドラゴンボールを映画にするのなら、そのような陳腐な理由だけにはして欲しくないのです。

ドラゴンボールで次第に明らかになってくるテーマというか、一つの強烈な感情があります。それは、「誰よりも強くありたい」という悟空やベジータの気持ちです。とにかく相手に負けないこと。守りたいものがあるから戦うというのはその通りです。しかしそれは建前に過ぎません。本当は、その敵と戦って勝ちたいのです。とにかく負けたくないのです。だから戦うのです。これはひょっとしたら危険な思想かもしれないのですが、でもこんなに純粋な気持ちは、他に滅多にあるものではありません。偉そうな理由をつけて戦う凡百のヒーローよりも、ドラゴンボールのキャラクターたちの方が、よほど輝いて見えます。

悟空は相手の命を絶つことに執着しません。むしろ情けをかけます。けれどもそのことを巡りベジータと対立します。ドラゴンボールにおいて、この殺生のテーマは段々と浮かび上がってきます。あるいは、「悪」を巡るテーマと言ってもよいかもしれません。どういうことかというと、鳥山明が最後に辿り着いた結論は、絶対悪なら殺しても構わない、ということなのです。それはブウ編で象徴的に描かれています。加えてドラゴンボールの後の作品『カジカ』でもそのテーマは前景化しています。しかし逆に言えば、少しだけでも「善」があるのなら、殺してはならないのです(そして普通の人間には必ず「善」がある)。

だからぼくはハリウッド版が、無闇に無辜の市民が殺されたり、または悟空が誰か愛するようになった女性を守るために戦いを始める展開に流れ込むことを恐れています。そうなってしまったら、それはもうドラゴンボールではありません。確かに漫画でも地球人はあっけなく殺されてしまうので(たとえ生き返るにしても)映画にばかり奇麗事は要求できないのですが、でも映画には漫画で深められた悪についての考察を出発点にして始めて欲しいのです。ちなみに、漫画では最後まで悪だったのはフリーザくらいですよね。セルは微妙なので(というのは彼も単純に悟空よりも強くありたいと願っているだけのように見えるから)。純粋悪のブウは善人に生まれ変わりますし。

単なるアクションもののメロドラマにはなって欲しくないです。

牛丼と古本屋

2009-02-26 23:40:20 | お仕事・勉強など
ここのところ非常に長い記事が続いてしまい、このブログを縁あって読んでくださる方々にはさぞご苦労だろうと…こんなことを書いているからまた長くなるのですが。

ところで最近gooブログのシステムが変更されて、これまで1000番までしか出なかった閲覧数の順位が、10000番まで出るようになりました。現在gooブログはおよそ120万弱存在しているようですが、ぼくのブログの順位はだいたい6000~9000番くらいみたいです。去年は600番くらいのことがあったので(ポニョ・バブル)、そのときに比べるとかなり順位を落としていますが、全部で120万あることを考えれば、上出来かもしれませんね。しかしマメに稼動しているブログの数は数万くらいかもしれないですけど。

さて本日の本題。会社の説明会に行ってきました。で、思ってしまったのですが、ぼくはサラリーマンに向かない性質(たち)なのではないか、と。「社会に貢献する人財を育成する」というのがその会社の経営目標で、まあそれはどの企業も似たり寄ったりだろうと思うのですが、ぼくはどうもそういうことに関心がないのです。「社会に貢献する人間」になりたいとも育成したいとも思わないのです。むしろ、社会に貢献しない人間、社会からつまはじきされる人間、そしてこれは厳密に比喩的な意味で言うのですが、正典(カノン)よりは外典(アポクリファ)、正常よりは異常、リアリズムよりはロマン主義、聖職者よりは聖痴愚を、好んでいるのです。後半はちょっと逸脱気味の喩えですが、要は、自分の定める目標に向かって邁進してゆくようなタイプの人間は、リアルでは苦手なのです。「リアルでは」、とわざわざ断るのは、アニメーションなどではそういう人は憧れの対象になるからです。しかしいずれにしろ、ぼくは社会システムの中で成長したいのではなくて、社会からはみ出したところで生きていたいと思うのです。もちろん、暴力や麻薬に溺れるというような意味ではなくて、精神的なアウトロー、社会の出来事を斜に構えて眺めるクールな男として、生きていきたいと思っているのです。社会からは逃げられないのだよ、全部ひっくるめて社会だろ、とかそういう批判はあるでしょうが、そういうことではありません、念のため。

↑の文章には嘘があるように思います。しかし、正直に書いている気もします。どちらなのか、ぼくには分かりかねます。

吉祥寺で古本屋に入りました。ここはかなり幅広いジャンルの本を扱っているところで、しかも質的にも充実しています。カルヴィーノのハヤカワSF文庫とか、珍しいものも置いてありました。文庫で4000円の高値がついていたあの本はなんだっけかな…。ちなみにぼくはここで『東西ミステリーベスト100』という本を買いました(200円)。海外と日本のミステリが100篇ずつリストアップされているという優れもの。ま、よくある類の本ですけどね。でもコンパクトな文庫である上に、特別に198位までの海外作品がアップされているのはうれしい。ただ1986年出版、とやや古いのが玉に瑕。ぼくは基本的にミステリには関心が薄かったのですが、心を入れ替えたのです。

遅いお昼ご飯は牛丼。2、3年ぶりに食べました。もし2、3年前が豚丼だったとしたら、かれこれ5、6年ぶりになります。牛肉の汁が沁み込んだご飯を口の中にかきこんでいるとき、ぼくはふと、こういうのも悪くないな、と思ったのでした。スーツを着て、とんだ時間に牛丼屋で牛丼を食べているぼく。店内にはアンジェラ・アキの「手紙」がかかっていて、「ぼく」が未来の自分に宛ててメッセージを書いている。ああ、切ないな。あの頃のぼくが今のぼくを見たら、なんと言うのだろう。許してくれるかな。こんなにみじめでも、ぼくは生きているよ。ねえ、こういうのもアリなんじゃない?自信満々の人ってぼくは好きじゃないよ。目標を達成した人って、遂に達成できなかった人の諦めと哀しみを知らないんじゃない?ぼくはそういう悲哀を分かち合える、共苦の精神を持った人間になりたいよ…

しみじみしたところで擱筆。明日は雪だといいな。

村上春樹のスピーチについて

2009-02-26 00:38:23 | 文学
村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチの全文和訳。以下のサイトから引用しました。
http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090218

                         ☆☆☆

いつも「卵」のそばに 村上春樹

 本日、僕はここエルサレムに、プロフェッショナルな「嘘」の紡ぎ手、すなわち小説家としてやってきました。

 もちろん、嘘をつくのは小説家だけではありません。政治家もまた、嘘をつきます(これは皆さんよくご存じですよね)。外交官も、軍人も、機会さえあえば、中古車のセールスマンや肉屋、建築業者であっても、彼らなりの嘘をつきます。しかしながら、小説家のつく嘘は、彼らの嘘とは違います。彼らが嘘をついた時のように不道徳だと責め立てられることはありません。それどころか、小説家の嘘が器用であればあるほど、世間や批評家たちからより大きな賞賛を得ることができるのです。

 これはなぜでしょうか?

 僕なりの答えはこうです。つまり、小説家によってつかれた巧妙な嘘は、あたかも本当のように見えるフィクションを作り出すことによって、新たな場所に「真実」を導き出し、その真実に新しい光りを照らすことができるからです。

 多くの場合、「真実」をもとのかたちのまま理解し、正確に表現することは事実上不可能です。だからこそ僕たち小説家は、その隠された場所から真実を誘い出して尻尾を掴もうとし、フィクションの位置に移し替え、フィクションのかたちにそれを作り替えるのです。しかしながら、僕たちがこれを達成するためには、まず最初に真実が僕たちのどこに属するのかを、はっきりさせる必要があります。

 これが、上手に嘘をつくための重要な資質です。

 けれども本日、僕は嘘をつくつもりはまったくありません。それどころかできるかぎり正直でいようと努めます。僕にだって年に数日は嘘をつかない日があるし、今日はたまたまその日なんです。

 ですから今日は、どうか皆さんに本当のことを言わせてください。

 本当に多くの人々が、僕に「エルサレム賞を受け取りに行くな」と忠告してきました。或る者は、もし僕が受賞するなら僕の本に対してボイコットを扇動すると警告さえしました。

 その理由はもちろん、ガザで激しく続いていた戦闘です。国連のレポートによれば、封鎖されたガザ地区では1000人以上の非武装市民――子供や老人たちが命を落としました。

 受賞の通知を受け取ってから、僕は何度も何度も自問しました。「こんな時期にイスラエルにまで旅行して、文学賞を受け取ることは適切な行動なのだろうか?」、「僕はどちらか片方を支えることになり、圧倒的な軍事力を行使する国策を是認したと思われやしないか?」。

 もちろん僕は、そんなふうに受け取られるのは御免です。僕はどのような戦争にも賛成しないし、どのような国家も支援しません。そしてむろん、僕の本がボイコットの憂き目にあうのを見たくはありません。

 しかしながら、熟考のすえ、最終的に僕はここに来ることを決心しました。僕がここに来ると決めた理由のひとつは、あまりにも多くの人々が僕に「行くべきでない」と言ったことです。おそらくほかの多くの小説家と同じように、僕は天の邪鬼です。多くの人々から「そこに行くな」、「それをしないでくれ」と警告を受けると、そこに行き、それをしたくなる傾向があるのです。

 あなた方は「それは小説家だからだよ」と言うかもしれません。そう、確かに小説家は特別変わった種族です。この連中は、自分の目で見たもの、手で触ったものしか本当に信じることができないのです。

 それが今日、僕がここにいる理由です。

 僕は立ちすくむよりもここに来ることを、目を反らすよりも見つめることを、沈黙するよりも語ることを選びとりました。

 これは僕がいままさに、政治的なメッセージを伝えにきた、という意味ではありません。もちろん、あることについて正しいのか、間違っているかの判断をすることは、小説家の重要な義務のひとつです。

 けれども、こうした判断をどうやって他の人々に伝えるかを決めるのは、それぞれの書き手に任されています。僕自身は、そういったことを物語、それも超現実的な物語に移し替えて示すことを好みます。これが今日、僕が直接的な政治的メッセージを伝えないにもかかわらず、皆さんの前に立った理由です。

 しかしながら、どうか皆さん、ここで非常に個人的なメッセージを送らせてください。これは僕がフィクションを紡ぐ時、常に心に留めていることです。僕はそれを一枚の紙切れに書いて壁にはっておくというよりもむしろ、僕の「心の壁」に彫りつけられていること……それはこういうことです。

「高く、固い“壁”と、それにぶつかると割れてしまう“卵”があるとき、僕はいつも卵のそばにいる」

 ええ、どんなに「壁」が正しく、どんなに「卵」が間違っていようとも、僕は「卵」のそばに居続けます。どこかの誰かが「何が正しくて、何が間違っているのか」を決めるとき、それはおそらく時間と歴史が決めるのでしょう。けれどもし、どのような理由があろうとも、壁のそばに立って仕事をする小説家がいたとしたならば、その作品にはどんな価値があるというのでしょうか?

 このメタファー(暗喩)はいったい何を意味しているのでしょうか? それはいくつかの場合において、とてもクリアで単純です。高く固い「壁」とは、爆撃機であり、戦車であり、ロケット砲であり、白リン弾です。そして「卵」とは、それらに壊され、燃やされ、撃たれる非武装市民……、これがその暗喩が意味することのひとつです。

 けれどもそれがすべての意味というわけではありません。もっと深く考えることもできます。こう考えてはどうでしょう。僕たちひとりひとりが、多かれ少なかれ「卵」なのです。僕たちは唯一かけがえのない魂を内包した、壊れやすい殻に包まれた卵なのです。これは僕にとっての真実であり、皆さんにとっての真実でもあります。そして僕たちはそれぞれ――多少の違いはあっても――高くて固い壁に直面しています。その「壁」の名は、そう、「システム」です。システムは僕たちを守りを固めるためのものですが、しかし時折自己増殖して、冷酷に、効果的に、システマティックな方法で、僕たちに殺し合いをさせるようし向けます。

 僕が小説を書く理由は、ひとつしかありません。それは個々人の魂の尊厳を立ち表わせ、光りをあてることです。「物語」の目的とは、システムが僕たちの魂を蜘蛛の巣のように絡め取り、その品位を落とすことを防ぐために、警戒の光りをあて、警鐘を打ち鳴らすことです。

 僕は強く信じています。物語を書きつづること、人々に涙や慟哭や微笑みをもたらす物語を書くことによって、個々の魂のかけがえのなさをはっきりさせようとし続けること、それこそが小説家の仕事であると。

 僕の父は昨年、90歳で亡くなりました。彼は教師をリタイヤし、たまに僧侶として働いていました。彼が大学院にいた頃、軍隊に招集され、中国戦線に送られました。戦後生まれの僕は、彼が朝食前に必ず家の仏壇の前で深く祈りを捧げる姿をよく見かけました。ある時、僕は父に「なぜお祈りをするの?」と訪ねたところ、彼は「戦争で亡くなった人のために祈っている」と答えてくれました。

 彼は敵味方の区別なく、すべての人のために祈りを捧げている、と語っていました。仏壇の前で正座する彼の背中を見ると、僕は彼に死の影がまとわりついている、と感じました。

 そんな僕の父も、彼の語った思い出とともに死にました。僕はもうその思い出を知ることはできません。けれど、彼のまとっていた死の存在感は、僕の記憶に残っています。それは彼が僕に遺してくれた数少ないなかのひとつ、そして最も重要なものです。
 
 僕は今日、皆さんにお伝えしたかったことはただひとつです。

 僕たちは誰もが人間であり、国籍や人種や宗教を超えていく個人であり、システムと呼ばれる固い「壁」に直面する「卵」だということです。どう見たって僕たちに勝ち目はなさそうです。壁はあまりにも高く、あまりにも強く、そしてあまりにも冷たい。もし僕たちに勝利の希望がいくらかあるとすれば、それはかけがえのない独自性を信じ、自分と他の人々の魂とを互いにつなぎ合わせた「暖かさ」に頼るしかありません。

 少し考えてみてください。僕たちはそれぞれ、いまここに実態のある魂を持っています。システムはそれを持っていません。僕たちはシステムが僕たちを司ることを許してはなりません。僕たちはシステムがひとり歩きすることを許してはなりません。システムが僕たちを作ったわけではない。僕たちがシステムを作ったのです。

 これが今日、僕が皆さんに語りたかったことのすべてです。

 僕はエルサレム賞をいただいたことに感謝します。僕は世界中の多くの地域で僕の本が読まれていることに感謝します。そして今日ここで、皆さんに語る機会をもらえたことにもまた、感謝します。

                         ☆☆☆

メディアではこのスピーチの一部分しか伝えていません。「卵と壁」の比喩の部分です。ぼくは最初新聞やテレビなどでこの比喩を知ったとき、なんだか陳腐だな、と思ってしまいました。ところが、先日スピーチの全文和訳を読んで、いたく感動しました。なんと力強く優しいメッセージなのだろう。要約という形式では伝わらないものがあるのですね。それで、ブログの読者の方々とこの感動を分かち合うために、やはり全文を引用してみたわけです。

フィクションという形でしか真実は提示できない、という村上春樹の主張は、新約聖書から脈々と続く西洋的な伝統を引き継いでいるように思いました。イエスの言葉は、比喩を通してしか語られません。この意味で春樹は非常に文学的・欧米的なセンスの持ち主です。春樹の小説は本当にそういう風に書かれていますよね。真実を直接突くのではなく、その周囲の雰囲気みたいなものを比喩を交えて語ります。以前このような手法についてぼくはどこかで触れたことがあるような気がするのですが、ともかく何度も繰り返すように、春樹は非常に文学的センスを持った稀有な作家だと思います。

春樹がエルサレム賞を辞退せずに現地でスピーチを行ったことを非難する人たちは大勢いるようです。25日付け朝日新聞朝刊に載った斎藤美奈子の「文壇時評」(だっけ?)は公然たる春樹批判でした。この文芸欄を担当する人は、春樹擁護派と敵対派とに分かれるようです(ほとんど替わりばんこに担当者が交代している気も)。

さて斎藤美奈子による批判の要点は幾つかあって、まず「卵」の側に立つという主張は誰でも言える(政治家でさえ)、単にカッコイイだけの総論だということ。また「壁」に立ち向かわない市井の人々を描くところに純文学の存在意義があるとして、「壁」を敵にまわそうとする春樹を暗に非難。結局のところ、小さな個人を描いているのは春樹ではない、本当に「卵」の側に立っているのは別の作家たちだ、とでも言いたいようです。

エルサレム賞を辞退してもしなくても春樹は非難されるだろうなとは思っていましたが、小説家というのは辛い仕事ですね。ぼくは、沈黙するのではなく語ることによって小説家としての立場を墨守した村上春樹を支持します。

湯浅政明『カイバ』

2009-02-25 00:42:05 | アニメーション
ぼくは昨日から『カイバ』のことを書きたかったのです。ところが、『つみきのいえ』がアカデミー賞を受賞したというニュースが飛び込んできたため、よりタイムリーなそちらの方を記事にしたのでした。あんなに長くなるとはよもや思いませんでしたけどね。

延ばされたついでに別の関係ないことを。
昨日は都立の試験だったようで(中央線の乱れで多大な影響を受けたとか)、今朝の朝刊の別刷りに試験問題が掲載されていました。国語の問題を見たのですが、むむむ…。論説文は簡単なのですが、小説がちょっと。ぼくは昔から国語が得意で、中学生の頃に当時の都立の試験問題を解いたことがありますが、私立に比べてめちゃくちゃ簡単で、こんなの誰でも解けるじゃん、とか思っていました。中学のときは駿台の模試で国語だけ偏差値が70を越えていたし(名前も載った)、高校ではなんとまあビックリ80を越えたこともありました。大学に入った後にはセンターの現代文で満点が取れたこともあり(時既に遅しですが)、国語力にはそれなりの自信があったのですが…。今回の小説の問題、分かりませんでした。自分ができなかったからこう言うのは負け惜しみみたいですが、悪問じゃないですか、あれ。最初の「あらすじ」が問題を解く鍵になっているのはどう考えても作成者の不手際だと思われるし(ヒロインが家に帰りたくなくなっていた、ということはそのあらすじの解説でのみ示されるにも関わらず、それが設問を解く唯一のヒントになっている)、選択肢にこれというものがありません。消去法を試みても、「そうではない」と排除できるような決定的な材料が不足しています。

そもそも小説の問題を作るのは難しく、矛盾を伴うものです。「登場人物の気持ち」を忖度する問題が必ず出ますが、正解が問題文中に書かれているわけではないので、推量するしかないのです。正解は作者にさえ分かりません。恐らくこういうことだろう、という憶測が果たして正しいのか、それは怪しいのです。「作者の気持ち」にも全く同じことが言えます。中学生もそういうことに疑問を感じているとは思いますが、健気にがんばっているんですね。偉いぞ。

うう、『カイバ』について書くはずが…。
『カイバ』のこと。
前から観たいと思っていましたが、ようやく日曜日に観終えました。
記憶をチップに保存し、金次第で体や記憶を交換できる世界。記憶を失った少年(青年?)は何者かに追われていたところをポポという若者に助けられ、宇宙へと旅立ちます。以前の体を売り、カバのぬいぐるみの姿を借りて。行く星々で様々な経験をする主人公。彼は一体誰なのか、謎のままに物語は進行してゆきます。

謎の多い作品です。全12話ありますが、主人公の名前の謎が分かるのが実に10話。それまで、彼がワープだとかカイバだとか(そしてもちろんその時々の肉体の名前で)呼ばれているのですが、本名が分からないのです。特に9話はかなり混乱させられます。フラストレーションがちょっと溜まりました。また、登場人物の謎も最後の最後に明かされます。あの人の記憶はあの体の中に、とかあの人は実はこの人だった、とか。

どんなに肉体が変わっても、記憶が失われても、あなたを愛します、というテーマは後半になって色濃く前面に出ます。中盤にかけて伏線が色々と張られているのですが、それらが回収されるのが本当に終わり近くになってからで、そういうことなのか、と後から気付くという仕掛け。本当だったらここで一気に感動するべきなのでしょうが、謎の描写にいささか食傷気味というか、解明を焦らされすぎていたので、その反動か、それほど感動できませんでした。謎や伏線も過剰なのは逆効果ですよ。

それに、攻殻機動隊やエヴァなどの影響が強く現れています。ポポの思想に至っては人類補完計画そのままであり、さてこれはいかがなものか、と気になりました。『妄想代理人』のクライマックスの描写にも似通っているし(探せば他にもあると思われますが)、様々な意匠の合体のような印象を持ちました。

それにしても特質すべきはその絵柄ですね。手塚治虫的な、あるいはトキワ荘的な古風な絵。全体的に丸っこくて、細部への執拗な描き込みは完全に排除されています。こういう絵は細かい絵よりも動かすのが楽ですから、躍動的な動きが生まれます。制作者の意図は知りませんが、ダイナミックな動きの実現ということは、その意図の内の一つではないかと推測されます。監督の湯浅政明は非常に優れたアニメーターですから、そういうものを目指していたとしても不思議はありません。設定は現代的ですが、表面的には古めかしさを装った作品で、非常にチャレンジ精神溢れる作品だと思います。こんな絵でも現代的なメッセージを表現できるのだと世に知らしめたのではないでしょうか。とはいえ、いくつかの場面で、ぼくは絵と内容とのギャップを感じてしまいましたが。

『マインド・ゲーム』以来の傑作か、と期待が高かった分、少しがっかりしています。おもしろいことは確かなんですけどね。『マインド・ゲーム』が10だとしたら、『カイバ』は7くらいですかね。

『つみきのいえ』をめぐる冒険

2009-02-24 23:25:38 | アニメーション
昨日に引き続き、『つみきのいえ』に関して数言。

アカデミー賞を受賞したのは『おくりびと』と『つみきのいえ』なのですが、案の定、メディアの取り上げ方は非常に偏っています。もちろん、前者を大きく報道し、後者はついでのように扱うのです、『つみきのいえ』も受賞しましたよ、というふうに。テレビでの報道の比重は明らかに前者を重視していますし、朝日新聞では受賞記事の紙面に割かれる割合は極端なほど前者が大きいです。朝日新聞24日付夕刊の「窓」欄が例外的に両者をなるべく平等に取り扱おうとしているように見えましたが、やれやれ、『おくりびと』に寄せる文章の方が量的に上なのです。

アニメは日本で唯一誇れる文化だ、などという極論もしばしば聞こえてくる昨今ですが、未だにアニメへの偏見が根強いことが今回の報道で露呈しました。もっとも、『つみきのいえ』のような作品はいわゆる「アニメ」ではなく、もっと広く「アニメーション」として認知されるべき作品です。「アニメ」と「アニメーション」とは別物だということは以前から言われていて、前者は主に日本のTVアニメ、後者はそれすらをも包含する巨大なジャンルを意味しています。その中でも、便宜的に「アート・アニメーション」という呼称が用いられることのよくある範疇に、『つみきのいえ』は属していると言えるでしょう。

もし『おくりびと』が受賞しなければ、『つみきのいえ』の紹介・解説はより充実し、上記のような説明が試みられたかもしれないのですが(『つみきのいえ』の受賞の方が先だったのでこういう幻想を抱いたのです)、そうはなりませんでしたね。日本人の目が「アニメーション」に向くいい機会だと思ったのですが、実写映画に主役の座を奪われてしまいました。惜しい、と思うのは身勝手すぎる思惑か…

ところで、アカデミー賞という賞そのものにも疑惑の目を向ける必要があります。カンヌやベルリンは国際映画祭ですが、アカデミー賞というのはあくまでアメリカの映画祭です。外国語映画賞という部門はインターナショナルですが、しかし基本的にはナショナルな映画祭です。それなのに、日本はアカデミー賞の受賞を最も大きく報道し、重要視します。アメリカで認められた、ということが何よりうれしいようなのです。「日本アカデミー賞」という名称は非常に卑屈で奴隷根性丸出しの最低な名前だと思いますが(関係ないですが「ロシア・ブッカー賞」というのも気に食わない名前です)、日本の映画関係者はこういうところをどう思っているのでしょうか。ぼくは右翼ではないし、アメリカと敵対せよ、日本古来の誇りを取り戻せ、などと主張する気はさらさらないですが、単純な話、どうしてこんなにアメリカに受け入れられることを喜ぶのだろう、と不思議に感じるのです。『千と千尋』のときも、ぼくはとてもいぶかしく思いました。

話題を切り替えて、きのうのブログの文章のこと。かなりフルってしまい、実に4000字を越える、これまでで最長の記事になりましたが、Googleのブログ検索に引っかからない!のです。多くの人に読まれるのは怖くもあるので、ま、いいか、とは思うのですが、なんだか寂しいのでした。ちなみに、すごく長い文章だったので、ここに論旨の流れをちょっと解説。

『つみきのいえ』に批判的な意見→こんなので感動するなんてどうかしてる→受け手に責任をなすりつけるのではなく、作品の分析をする方が建設的→『つみきのいえ』の独特な雰囲気を醸成する演出について→『つみきのいえ』は非-知の領域を描き、観客の非-知の領域に訴えかける

以上です。まあ何のことはないですね。次は『カイバ』について書きます。

つみきのいえ

2009-02-24 01:34:34 | アニメーション
一昨日まではあまり書くことがなくて困っていたのに、今は書きたいことがたくさんあります。まずは、『つみきのいえ』から。

アカデミー賞の短編アニメーション部門でオスカーを獲得した加藤久仁生の『つみきのいえ』。この作品に対するぼくの感想は以前のブログで既に述べていますが、ここで改めて態度を表明したいと思います。http://blog.goo.ne.jp/khar_ms/e/daaea92caba30d0d0c7d791ba7892da5

↑の記事からも明らかなように、ぼくはこの作品は非常に優れた作品だと思っているのですが、この作品に対する否定的な見解から検証してゆきます。

http://www.animations-cc.net/festivals_report/r014-hiroshima08-04.html
http://animationscc.blog105.fc2.com/blog-entry-207.html
http://www.animations-cc.net/interview/i017-hiroshima0803.html

山村浩二を中心としたアニメーションの研究組織でAnimationsという会があるのですが、上記のリンク先は、会員の方々の座談会でのコメント(三番目のリンク先)、積極的にブログで情報を発信している土居さんのコメントなどです。

では最初のリンク先の文章から検討します。

>『つみきのいえ』は、観客が勝手にいろいろなことを想起することを許す作品なのではないかと思った。この作品を評価する人は、作品「自体」をきちんとみておらず、自分の思い出やノスタルジー、もしくは過去の似たような作品のデータベースを検索して(検索のためのタグは実に多く付いている)、勝手に感動しているのではないか。

去年『ポニョ』が公開されたとき、ぼくは有名なもーりさんのフォーラムでこの作品について様々な議論を行ったのですが、そのとき感心したことがありました。主にJNさんという方と議論を戦わせた(あるいは共闘した)のですが、このJNさんという人は、作品を分析するときに、その作品を評価する/しないのは、観客の受容の仕方(ないしは観客の才能自体)が悪いからだ、という論理は意識して使わないようにしている、ということを述べていました。どのような評価が出来したとしても、それはその作品にそのように受容される要素があったからであり、観客の側に責任があるのではない、ということです。そうしなければ、特にネットなどでは中傷合戦になってしまうので自分はそうした態度を取っている、というようなことを言っておられたと思います。

作品分析の方法として、読者反応理論や受容論など、受け手の側からアプローチしてゆく研究があるのは確かなのですが、しかしそれと観客の責任論とは別個の問題です。それを踏まえた上で本題に入ります。先の引用では、『つみきのいえ』は観客が色々と自分の過去を検索できるようなタグがたくさんついている作品だ、ということを言っています。これは、JNさんの態度と近似する表現です。しかし、そこからこう結語します、「(観客が)勝手に感動しているのではないか」。このアニメーションで感動する人はちょっとアレだよね、と言っているようにも取れる発言で、場合によったら個人攻撃にもなりうる発言です。『つみきのいえ』はたくさんの引き出しが備わっている作品だと認めている一方で、それを実際に引き出して感動する人は何も分かってない、と言うのは、いかがなものでしょう。この点は非常に気がかりです。

>「泣いてください」という声がきこえてくる音楽

とも述べています。ここで重要なのは、「泣かせる」ことがあざといかどうかです。三番目のリンク先「座談会」においてもこのことは話題に上っています。山村浩二が言うには、もともと『つみきのいえ』は「泣かせる」ために制作したという背景があるようですが、それは果たして重要なことでしょうか。グェンさんという方は、『岸辺のふたり』と比較して、感動することを「ボタンを押す」と表現していますが、『岸辺のふたり』はボタンを押してしまっている。この作品を観ることによって得られる感動はほとんど機械的なものだとさえ述べられています。それに対して『つみきのいえ』はそうではない。しかしそこがいいところだと彼は述べています。ところが、多くの観客はボタンを押されてしまっている、と山村浩二は指摘します。そして次のように述べるわけです。「僕はこれでボタンを押される方がどうかなと思ってしまうけど」。これは土居さんとも共通する態度で、取ってはいけない態度ではないかと思います。

ここまでのことをまとめてみます。『岸辺のふたり』が非常に巧く作られていて、観客は自然と感動を得られるようにできているのに比べ、『つみきのいえ』はそうではなく、誰でも感動できるようには作られていない。そのことは、これが「感動」を目的に制作されたことを勘案すると、失敗なのではないか。一方で、だからこそよいのだ、とも言える。というのも、観客に判断を委ねているから。実際、この作品には、プライベートな記憶を呼び起こすタグがたくさん付いている。…しかし山村・土居の両氏は言う、でもこんなので感動するなんて観客に問題があるんじゃないの?

感動を伝達する作品としては失敗しているのにもかかわらず、感動してしまう観客たち。感動しない人たちから見れば、こんな安っぽい出来の悪いもので感動するなんておかしいよ、ということになるのだろうと思います。そういう気持ち自体はよく分かります。しかし、「感動」する観客が実際のところ大勢いるのですから、観客に責任をなすりつけるのではなく、そうなるだけの原因を作品から探るのが建設的だと思います。ちなみにぼくの考えは最初のリンク先で読めますが、後で改めて書くつもりです。なお「感動」は個人的な問題だし、一見下らないファクターにも見えますが、ここでは議論の流れからして重要な要素になっています。

土居さんが「雰囲気もの」と言ったりしていますが、座談会での銘々のコメントなどを見るにつけ、これらの言葉はぼくの中では『つみきのいえ』よりも『或る旅人の日記』に相応しいような気がします。加藤久仁生がある種の「雰囲気」を醸成するのが巧い作家だということはぼくも言っていますが、初期の作品ではそれに演出力が伴っていなかったように思えます。ところが、今作ではきちんと雰囲気が演出されて増幅しています。確かに「ワインでチーン」は普通なら物足りない描写ではありますが、あのような雰囲気が全体を覆う作品の場合、過度の演出は逆効果です。膨大な記憶の海を潜りそれ(記憶)を取り戻した老人が、その膨大さに見合った行為をラストにしていたら、それこそ興ざめで、雰囲気ぶち壊しです。膨大な記憶の海が一杯のワインに凝縮されるところに『つみきのいえ』の『つみきのいえ』たる由縁があり、あくまで寡黙な老人が点景となる静寂の支配する「小ささ」、これこそが『つみきのいえ』の本領ではないでしょうか。「小」が無限に拡がる「大を」包摂するイメージと、海なる「大」が「小」を飲み込もうとする設定とが拮抗しており、個人/記憶、家/海、個々の努力/環境問題、などの対立項が浮かび上がります。そこでは、「小」を「大」に優るものと捉えるのではなく、「小」と「大」との融和を図っていると言えるでしょう。それが、この作品の雰囲気です。小さいもの(庶民の家庭、個人の感情、次第に小さく伸びてゆく家など)への暖かな眼差し、大きなもの(記憶の海、海面上昇)の遼遠さ、これらが一つの雰囲気を形成しているのです。

かなり長くなりましたが、続けます。最初のリンク先から引用。

>積極的な生も死も選ばず、ただ惰性によってのみ積み上げ作業を行っているように感じられる。

更に、二番目のリンク先から引用。

>慣性・惰性で生きる人が本当にふとしたことで感傷に浸るというただそれだけを描いているだけという印象がありました。

積極的な行動によってドラマは生まれるし作られるのだ、という考え方は理解できるものですが、しかしだからと言って、惰性で生きている人間には共感を得られない、という見方は偏っていると思われます。ぼくは、意思的な行動ではなく、無意識的な行為にむしろ大きな可能性を感じています。プルースト的な無意識、デジャ・ヴは芸術の可能性を拡げましたが、バタイユの言葉を借りるならば、こういう「非-知」の領域を扱うことは、非常に芸術的で繊細な、上質な仕事だと思います。知ること(知)に還元されえない領域というのは非常に大切だとぼくは思っていて、それというのも、「なんでも0か1か的な議論」を葬り、「分からない」ということを積極的に発信できるからです。全てを「知」に還元させることは、芸術作品を鑑賞する上で最も危険な行いです。理解からこぼれてしまうこと、言葉では表現できないくさぐさ、それらの存在を肯定し、だからこそそれらへの接近を可能にすることは重大な芸術上の営みであるべきです。

『つみきのいえ』では、老人は惰性で生きているかどうかはぼくには分かりかねますが、しかし過去を追体験する(幻視する)ようになったのは偶然、無意識によります。このような無意識に何らかの意味付けをすることなしに、ただありのままにそれを描写するという方法は、芸術にとって意味があると思います。それは、記憶の不思議、生の不思議を無言で浮かび上がらせ、まさしく観客の「非-知」の領域に訴えかけます。この領域を意識して言語化し、理解しようとするのではなく、「非-知」のままに受容する必要性を、いや必然性を、ぼくは感じます。

色々と付言したいことはあるのですが、長くなりすぎたのでここまでにします。4427字でした。すごい。

スターウォーズ エピソード3

2009-02-22 00:23:31 | 映画
ダースベイダーの過去を描く三部作の最後の作品。初めて観ました。
『スチームボーイ』に出てきたような乗り物がありましたね。車輪みたいな形状で、その中に入って運転するやつ。ライトセイバーは明らかに日本のチャンバラの影響を受けていますが、この乗り物もひょっとして?でも制作時期を考えるとぎりぎりなので曖昧ですが。

本来ならば強大な敵であるダースベイダーの過去を綿密に描くという発想はとてもおもしろいですね。スターウォーズ・シリーズは壮大な父と子の物語ですが、最初に撮影された作品が子の物語だったとすれば、後年の三部作は父の物語ですよね。

ぼくはシリーズの全てを把握しているわけではなく、それどころか覚えていない部分もかなりあるのですが、熱狂的なファンがいるというのは頷けます。世界観の遠大さはもちろん格闘シーンがカッコイイですしね。

ぼくは小説ではSFってどういうわけか駄目なんですが、こういう映画とかアニメーションとかならむしろ好きな方です。小説の場合、機械の動力の仕組みなどをアレコレ説明されても嘘臭いとしか思えないのですが、実際に眼前に映像を突きつけられると、すげえ!ということになります。架空の話だということが自明ですから、嘘の世界に何の抵抗もなく入っていけるというか。ところが小説だと、俗世間に足を引っ張られて、なかなか本の中の世界に没入できません。想像力が欠乏しているためでしょうか…。映像を見せられないと分からないというのでは、小さな子供とおんなじですね。やれやれ。

第一作も久々に観たくなりました。

風子、見参

2009-02-20 22:53:31 | アニメーション
CLANNAD、風子が再見参しましたね。驚きました。まさか病気が治って生身の身体で現れるとは。アフターでは風子は出てこないと思っていたので、本当にびっくりしました。それにしても、朋也たちと同様、風子もまた記憶を失っているのでしょうか。風子は、彼らのことを覚えているのでしょうか。今回の放送ではそのような素振りは見せませんでしたが。もちろん、記憶自体が失われていたとしても、大切なものは人々の心の中に確実に残っているのですが(第一期の風子のエピソードで明らかなように)。どうも陳腐な言い回しになってしまった…。

ところで前回の放送で朋也は立ち直り(第18話は本当に感涙ものでしたね)、これから生きてゆく意欲を取り戻しました。今回の放送では、彼がすっかり大人になっていることが示されていて、このことにもぼくは驚かされました。あの保育園の場面です。陰口を聞いて、「昔の俺だったらキレてたんだろうな」と苦笑するシーン。しかし正直に言うと、ぼくは朋也の成長に鬱になってしまいました。大人な性格を示されると、ぼくは「はうあっ」と唸り声を上げ、落ち込んでしまうのです。なんて最低な奴なんだ、おれは。朋也の悲しさや悔しさは本当によく分かるので、彼がそこから立ち直ったことを喜んであげたいのですが、実際には、立派になった姿を見て、鬱々としてきてしまうのです。

前回の放送で、汐に向かって朋也が「お前も変わった趣味してるな」と呟くシーンがありましたが、ここでぼくは「うぐおっ」と唸りました。「お前も」の「も」という言葉は、明らかに朋也が渚の存在を前提としていることを物語っていて、彼の心には当然のように渚の思い出が依然としてその奥深くにまで根を張っていることが見て取れます。渚も変わった趣味をしていたけど、お前「も」そうだな、というわけです。そして後半の、あの渚を想っての号泣には、さすがに感動しましたよ。まさかこの「も」が伏線だったとは穿ちすぎですが、でも個人的には「も」のおかげでより朋也と彼の渚への気持ちを分かち合えたような気がします。

そういえば、汐の先生って、やっぱり「あの人」なんでしょうね…

『ワーニャ伯父さん』のことなど

2009-02-20 00:41:05 | お仕事・勉強など
どういうことを書こうかという方向性が定まらないまま、徒然なるままに書き出してしまいました。そうだ、日頃感じていること、そして今日もやはり感じたことを書くことにしよう。

ぼくはこの4年間を無駄に過ごしたという気持ちから脱け出せません。いちおう学校には通い、大学は卒業し、大学院に入り、論文も書き上げましたが、しかし今の自分、将来の自分の役に立つようなことは何一つしなかったと自覚しています。この間、体調を崩しており、学校に行かない日はほとんど家でごろりと横になって時が流れるにまかせていましたが、そういうわけで、読書することも稀で、語学の勉強も怠りました。まだ2005年の初め頃は活力がありましたが、それもやがて消沈し、ぼくは本当に何もしなくなりました。

人よりも寄り道をしているせいで、本来の学年相応の歳よりもぼくは上です。そのため、これから一般企業に就職することを考えると、年下の人たちと同じ作業をするのはいいとしても、同い年ないしは年下の人からアレコレ指示されて動くのは少し抵抗があるし、同じ歳で役職も給料もまるで違うというのには受け入れ難いものがあります。入社したら当然最初は分からないことばかりでしょうが、その歳でそんなことも分からないのか、と言われそうな気がして、びくびくしながら会社に通うことになるでしょう。電話の対応も、パソコン操作も、いや機械そのものもぼくは苦手で、世事に疎い。世渡り下手なのね、と以前少しだけバイトしていたところの人から同情されたことがありましたが、このように理解してもらえれば助かるものの、そうでない多くの人たちからは睨まれていたと思います。

ぼくは何もせずに、いつの間にか大人になっていました。その間に、多くの人は自分のやるべきことをやり、専門性を身に付けました。種を蒔かなければ芽が出ないのは道理です。もちろん必ず芽が出るとは限りませんが、蒔かなければ出ることは絶対にあり得ません。ぼくはまず畑を耕すことから始めなくてはなりません。しかしそもそも畑はあるのか?そんなことを考え、無為な日々が過ぎてゆきます。

高校生の頃に読んだチェーホフの「ワーニャ伯父さん」に次のような台詞があります。「二十五年というもの僕は、この母親と顔つき合わせて、まるでモグラモチみたいに、ろくろく表へも出ずに暮してきたのだ。」「この年まで僕は、生活を味わったことがない、生活をね!君のおかげで僕は、一生涯でいちばんいい時代を、台なしに、すってけてんにすっちまったんだ!」

若い頃は崇め奉っていた人物が、実は俗物だということが分かり、その人のためにこれまで働いていたことが全て無駄だったということに気付いたワーニャが怒りを爆発させる場面です。25年もの膨大な時間を無為に過ごしてしまったという強烈で苦悶に充ち満ちた絶望。その気持ち、痛いほどよく分かります。ぼくには4年間を完全に無駄に過ごしてしまったという悲しみと遣り切れなさと怒りがあり、これらの感情が一緒くたになってぼくの胸を圧し潰します。

しかし、今になって思うのですが、このワーニャもまたチェーホフ流の喜劇的な人物ではないでしょうか。ワーニャは以下のように言います。「……もしおれがまともに暮してきたら、ショーペンハウエルにも、ドストエフスキイにも、なれたかもしれないんだ。……ちえっ、なにをくだらん!ああ、気がちがいそうだ。……お母さん、僕はもう駄目です!ねえ、お母さん!」これに答えて母親は、「だから、アレクサンドル(ワーニャが若い頃崇めていた人物)の言うことを聴くんです!」

この母親の言葉は本当にうんざりさせるものですが、それと同時に可笑しみもあります。その盲信性と頑迷さは笑いの対象でしょう。ワーニャの発言にも哀れさばかりがあるわけではありません。ショーペンハウエルやドストエフスキイにもなれたかもしれない、と嘯く様子は、たとえ絶望に駆られたせいであったとしても、滑稽です。これは『かもめ』に出てくる、自らを「なりたかった男」と名付けるソーリンとも通底するものがあり、喜劇性が備わっています。そもそもワーニャが激情に陥って怒鳴り散らすシーンは観劇していると妙に笑いのツボを刺激され、大変に馬鹿げた印象を与えます。過去の自分について鬱積している憤懣を辺り構わずぶちかますワーニャの姿は、傍から見ると滑稽なのではないか?今からではどうしようもない過去のことを論じ立て、その責任を他人に押し付ける様子は、身勝手だとすらみなせるかもしれません。

もちろんぼくは、ワーニャの気持ちがとてもよく分かります。それは先ほど書いたとおりです。しかし、ワーニャの姿というのは建設的とは呼べず、いわば悲しみをたたえた喜劇性を身にまとっています。

そうか、そういうことなのか。ぼくは初めてここまで理解しました。チェーホフ劇は読めば読むほど、年を重ねれば重ねるほど、味わいが変わってきます。チェーホフの「喜劇」という考え方に対しては多くの論文が書かれ、それをすっかり理解している気になっていましたが、ワーニャもまた喜劇的な人物だということにぼくはこれまで気が付きませんでした。頭では分かっていたかもしれませんが、心の底からそうだと了解できませんでした。

しかしそれでもやはり、ぼくはワーニャに同情し、そのもだえ苦しむような苦悩を思うと、まさしく胸が張り裂けそうになります。そしてぼくもまた、自分の失われた4年間を嘆かずにはいられない気持ちになります。そうではないのだ、もっと建設的に生きねばならないのだ、今からでも遅くはないぞ、明日から始めればいいさ!この声との間で、今日もやはり迷うのです。

メビウス『アルザック・ラプソディ』

2009-02-19 01:29:36 | アニメーション
あのメビウス原作・監督の『アルザック・ラプソディ』を観ました。メビウスはフランスの漫画家で、日本の漫画家やアニメーターにも多大な影響を与えたことで知られていますね。本作は彼の漫画『アルザック』のアニメーション化。

DVDで鑑賞したのですが、字幕が出ない!ナレーションが全てフランス語で、もちろんチンプンカンプン。DVDに問題があったのか、それともプレーヤーか。しかしメニュー画面に「字幕」欄がなかったので、これはDVDに原因が?あるいはぼくの操作に問題があったとか。ナレーションを多用したアニメーションなので、物語の意味は皆目分かりませんでした。

本作は3分半ほどの短さのショートショート14本で構成されていて、全体として繋がりはなく、個々が完全に独立した作品になっています。そのため、意味が分からないまま最後まで観続ける、という地獄からは回避できます。もっとも、字幕があったとしてもどうやら内容はシュールなようで、明確な意味は掴めなかったかもしれません。それに、この作品は細かい意味を積み重ねて全体を見渡すようなものではなく、メビウスの絵の醸し出す独特な雰囲気と設定に酩酊するべきもののような気がします。

必ずしもはっきりとしたプロットがあるわけではなく、意味が分からないままに心を奪われてしまうような短編もありました。例えば、アルザック(渋い顔をした壮年の男、ユパ様に感じが似てる?)が切り立った崖の上で焚火をしている。崖の縁には、何やら尖った物体が3つあり、その先から引きずられたような跡がのびている。次の瞬間、ロングショットに切り替わる。するとその崖から巨人がぶら下がっているのが見える。縁にあった3つの物体の正体は、巨人の大きな爪だったのだ。巨人の足元にはうにょうにょとした触手のようなものが無数に伸びて、その足に絡み付いている。次第に巨人はその触手に引っ張られてゆき、ついに落下する。その震動で崖は崩れ始め、アルザックは翼竜に乗り、飛び去ってゆく…

このように取り立てて言うほどのプロットがない短編ではなくとも、つまりある程度のプロットが存在していても、いずれの作品も多分に幻想的であり、魔界的な要素に満ちています。アルザックの旅するところは遠い未来の地球か、それとも異世界か。登場人物は異形の姿をしていて、道具や装置は未来的。好きな人は好きな作風でしょうね。

メビウスの絵を見たことがありますが、彼の作品をアニメーション化すると、どういうわけか原作の絵と印象が変わってしまうんですよね。原作はもっと繊細なタッチだったと思うのですが。

字幕がなかったのは返す返すも残念ですが、しかしそれだけに一層、意味は分からないけどなんかいいものを観たぞ、という気分になりますね。

プチシアター vol.1

2009-02-17 22:48:17 | 映画
『プチシアター vol.1』を観ました。
ところで今日は11時から断水なので、それまでに寝ようと思っていて、早くこのレビューを書き上げてしまうつもりです。
さて収録作品は、「魅惑の一缶」「ハーヴェイ」「岩のつぶやき」「パイロット」の四作品。例の如く記憶に従って書いているので題名は若干違っているかもしれません。いずれもショートフィルムです。

「魅惑の…」はお馬鹿ムービー。ガールフレンドを自宅に招待する約束をして、彼女をもてなす準備をしている青年がキッチンで缶詰を開けると、そこからものすごい数の蝿が飛び出してきた。彼女が来る前に、この蝿どもを退治しなくてはならない…その奮闘。ひまし油みたいなのを飲んで下痢をして、それを流さずに放置、なんていう描写はとんでもなく下品で、はっきり言ってぼくの趣味ではないのですが、でもやっぱりちょっと笑ってしまいます。だいたいそれで蝿をトイレにおびき寄せて退治しようとでも思ったんですかね?効果なかったみたいですが…。むしろ彼女がやってきてから効果を発揮するという…。どうしようもないショートフィルムで、こういうのが作られてるっていうことを知ると、なんだか安心しますね。あ、馬鹿な奴いるぞって。いや、いい意味でね。

「ハーヴェイ」は、小説ならたぶんおもしろかったんでしょうが、実写で観るとかなり怖いです。文字通り半分だけの体をした初老の男が、隣人の女のもとに忍び寄る。お決まりのシャワールームで二人は出会い、女は気絶。男は彼女の体を真っ二つに切断し、二人は一つとなる…。体を切断する音、ギーコーギーコーという鋸かなにかで切断する音が聞こえるんですよね。う~む、気味が悪い。しかし一番醜悪なのは半分だけの体と、無理矢理に一つに繋ぎ合わされた二人の体です。切断面にはごちゃごちゃしたものが見えていて、繋ぎ合わせてもそれは隠されません。というのも、幾つものリングみたいなもので繋がれているその隙間から、内部が丸見えだからです。女の半身が体を引き離そうとしてぐいぐいっと切断面を掴んで引っ張るところは、げーって感じですね。ちなみに、この映画は全編モノクロ。これでカラーだったら嘔吐ものですよ。しかしいずれにしろ、子供が見たらトラウマになりそう。でもどこか馬鹿馬鹿しさも残る映画です。

「岩のつぶやき」は一転して見事なアニメーション。岩の感じる時間と人間の感じる時間とを対比させて、人類/文明の盛衰を描き出します。人類が文明を築き上げる長い努力も、岩から見ればほんの一瞬の間にしか過ぎず、文明の崩壊へ至る過程は突然で、悠久の自然からすればそれはまるで岩の見る一睡の夢でしかありません。崩壊の様子はカタルシスをもたらし、それと同時に視聴者は自然の長いサイクルに思いを馳せてしまいます。人間とは違う時間感覚に着目したのは非凡なところで、宮崎駿なども虫の感じる世界について語っています。制作者たちの謙虚で誠実な態度と自然への畏敬の念を偲ばせる、とてもよい映画だと思います。

「パイロット」は楽しい作品。パイロットがコクピットで打ち上げ態勢に入り、いざ出発するのですが、なんと彼の乗っているのは宇宙船でも飛行機でもなく、テニスボール!ラケットでボールを散々打ちまくる男にキレたパイロットは、彼に向かって飛び掛り、ぶつかって攻撃します。そして仕舞いには本当に宇宙へと飛び出してゆく…。やはりこれも馬鹿げたムービーですが、他のに比べるとどこか爽快感があります。ただ、パイロットの顔に当たる照明が黄色や緑で、かなり気持ち悪いです。

「岩のつぶやき」を除く三作品はどれもゲテモノで、B級カルト映画的なノリも見られます。下らない映画観たいなーって気分の時にはいいかもしれません。不思議なのは、なぜ「岩のつぶやき」がこれらとセットになってDVDに収録されているのかってこと。確かに岩が少し不気味で、普通ではない映画ですが…

村上春樹『カンガルー日和』

2009-02-17 00:50:56 | 文学
年末から村上春樹のレビューばかりですね。海外文学のレビューが少なくなっているかもしれません(あまり自覚はないですが)。でも、春樹は今年中にほとんど読んでやるんだという気でいますので、これからもちょくちょく書いていくと思います。これまで全くといっていいほど彼の小説を読んできませんでしたからね。

ところで劇団ひとりと大沢あかねが結婚したそうですね。吃驚です。そんな関係だったなんて…いつから交際していたのかな。

『カンガルー日和』についてです。ぼくは講談社文庫で読んだのですが、村上春樹による「あとがき」には23編の小説が本書に収められている、と書かれてあるのに、実際には18編の小説しかありません。これはどういうことなのでしょう。平凡社の単行本から講談社文庫に移るさい、5編が抜け落ちてしまったのでしょうか。ちょっと気になります。

村上春樹の小説っていうのは、読んでいるときはものすごく楽しめるのですが、一日経つと忘れてしまうものが多いです、ぼくには。例外として『ノルウェーの森』が挙げられますが、これにしたって筋を正確に覚えているわけではなく、ただなんというか、小説に靄みたいに漂っていた雰囲気のようなものを覚えているだけです。『カンガルー日和』も、読んでいるときはのめり込むほど楽しめましたが、昨日から一日経つと、なんだか記憶が曖昧になってしまっていて、よく思い出せません。目次を見ても内容を思い浮かべられないものがちらほら。そんな中から気になる作品をピックアップします。

まず表題作の「カンガルー日和」。題名が冴えていますね。「運動会日和」とか「遠足日和」とかと同じ使い方で、カンガルーを見るのに最適な日を「カンガルー日和」と呼んでいるわけです。こういう少し可笑しなネーミングセンスは抜群ですね。ちなみに会話のセンスも春樹は抜群で、

「ねえ、ビールでも飲まない?」と彼女は言った。
「いいね」と僕は言った。

というような対話は、翻訳調であり且つクールで、趣味の問題でいえば、ぼくは好きです。

「4月のある晴れた朝に
100パーセントの女の子と出会うことについて」という短編は、センチメンタルな小説でありながらもどこかユーモアがあり、というよりは、ユーモアがありながらも少しセンチメンタルで、こういうちょっと馬鹿げた、でも哀しげな話が書けたらいいなあ、と思います。

次は「眠い」。チェーホフの初期の短編にも同名の小説があって、春樹はそれを知っていたのかな、と気になります。ただ内容は全く違っていて、チェーホフの方は、子守りの少女が眠くて眠くてたまらずに思わず…という話なのですが(←どんな話だよってツッコミが入りそうですが)、春樹の方は結婚式に出席した「僕」が眠くて眠くてたまらず、眠気を覚ますために英単語の綴りを思い出そうとする、という話。こう書くと、この短編の内容がまるで伝わりませんね。要するに筋という筋がないので、粗筋が書けないのです。

げ、もう1261字も書いてる。もう途中は全部すっ飛ばして、最後の「図書館奇譚」。これは他のに比べればやや長い小説です。図書館の地下にある牢屋に閉じ込められた「僕」の話。怒りっぽいおじいさんと、羊男と、美少女が登場します。『羊をめぐる冒険』にも現れた羊男がここにも登場するのですが、彼が出てきてから、この短編は俄然幻想味を帯びてきます。超現実的色彩、と言った方がいいかもしれません。子供向けのような単純な筋を持ち、一種の冒険譚なので、小さい子供にも楽しめる内容ではないかと思います。最後に少しグロテスクな描写がありますが。

せっかくなので他のも少しばかり。「あしか祭り」はあしかが「僕」の家を訪れ、意味の分からない長広舌を振るって寄付金を集めるという話。それだけなのですが、なんと言ってもあしかが何の説明もなく現れてしまう当たり、奇天烈な味わいがあります。超自然の現実への突然の介入、とかなんとかいくらでもこの現象を言葉で言い表すことはできそうですが、どのような言葉で表現しても、ここにはどこか詩的な趣きがあることを忘れてはいけないと思います。

「鏡」は恐怖小説の体裁を取っていて、銘々が順繰りに怖い話を語るゲームを主催する「僕」が、中学校で夜警をやっていたときに体験した出来事を告白します。これは「分身」がテーマの小説で、いささか19世紀的な傾向が見られますね。もちろん現代風にアレンジしているのですが。殊更に描写される不規則に開閉するドアの動きの反復が、分身という反復を生み出しているとも取れるこの小説は、読者の心にも恐怖のイメージを増幅/反復させ、反響させます。春樹もこういうのを書くんだな、という意味で、つららのように新鮮な作品。

春樹って意外と奇想の作家で、短編も巧いな。やはり読んでみてよかった。

カダレ「災厄を運ぶ男」

2009-02-16 01:00:14 | 文学
イスマイル・カダレ「災厄を運ぶ男」を読みました。これはたしか『夢のかけら』という本に収められていたはずです。この本をぼくは拾い読みしていて、カダレの「災厄を運ぶ男」も読んだことがあるような気がしていたのですが、今回目を通してみて、初見だということがはっきりしました。

イスマイル・カダレはアルバニアの作家で、ノーベル文学賞の候補だと言われています。翻訳には『誰がドルンチナを連れ戻したか』『夢宮殿』など4冊があり、ぼくはその内の3冊を読んでいます。この「災厄を運ぶ男」は短編で、(ぼくの知る限り)5作目の邦訳というわけです。ちなみに今秋には『死せる軍隊の将軍』という小説が刊行予定です。

世界的に有名な作家だと言われますが、日本での知名度はいまひとつですよね。だいたいアルバニアってどこにあんだよ、という人も多そうです。しかし、ぼくはカダレについて解説できるほど彼のこともアルバニアのことも詳しくないので、カダレについてもっとよく知りたいという人は、『誰がドルンチナを連れ戻したか』の「訳者あとがき」などを読まれることをお薦めします。というか、『ドルンチナ』を丸ごと読まれることをお薦めします。なんと言ってもカダレの代表作ですし、また邦訳されたものの中では随一のおもしろさを誇っている小説だと思いますので。土俗的な信仰と探偵小説的プロットが結実した、冴えた作品です。

前置きが随分長くなってしまいました…「災厄を運ぶ男」についてです。

オスマン帝国の支配下、バルカン半島の女たちもイスラム教徒の女たちと同様、チャドルというヴェールを着用するよう帝国から御触れが出た。そこでハジ・ミレトは彼女たちにチャドルを届けるため、50万ものチャドルを隊商に積み、バルカン半島へと旅立っていった。ハジ・ミレトは途中でチャドルも何も覆っていない素のままの女性の顔を生まれて初めて目にする。そうして苦悩が生まれる。果たしてチャドルを着用することがいいことなのか、そうではないのか?

イスラム教徒の風習を揶揄している小説だとみなせるわけですが、小説としてのおもしろさにも気が配られていて、最後に思いがけない事件が起こり読者を驚かせます。ハジ・ミレトは逮捕されるのです、オスマン帝国によって。その逮捕の理由はほとんど呆れるばかりのことであり、馬鹿馬鹿しいのですが、一種の監視社会を皮肉る出来事にもなっていて、メタファー的な要素が強いようです。

イスラム教とキリスト教の対立を煽ると言うよりは、一方的にイスラム教を貶化し、自由の敵として攻撃しているように見えます。読み方にもある程度の偏りがあることは認めますが、しかしやはりそうした傾向はテクストの内部に厳に存在しているはずで、こういう他者排除の公式は、現代の目から見ると非常にステレオタイプ的で且つ危険な試みであることは疑えません。チャドルの着用にしろハジ・ミレトの逮捕にしろ、自由を奪う主体がイスラム教に限定されることで、テクストがこうした危険な罠に陥ってしまっているのだと思いますが、もしも宗教が絡んでこない話であったならば――そういう想定は困難ではありますが――この小説は自由を考える一つの寓話として今以上の輝きを放っていた気がします。

ちなみに女性の神秘化という傾向も見て取れました。オスマン帝国が権勢を誇っていた時代設定ですから、意図的に小説の方法も旧式に還したのかもしれませんね。それに、生まれて初めて女性の顔を見る男の視点で物語られるため、どうしても華やいだ描写になってしまうのは無理からぬことかもしれません。これはむしろ異化と言うべきか?ま、そのへんの議論はさておき、今日はこれでおしまい…

「トトロの家」全焼

2009-02-14 23:55:15 | アニメーション
「トトロの家」が全焼した。阿佐ヶ谷にあって、宮崎駿が自著で紹介したことで知られる、近所でも有名な場所だったそうだ。それが、写真で見る限りは家の骨組みだけを残して、焼けてしまった。近くでは最近不審火が何件かあったそうで、14日未明に起こったこの火事も、ひょっとしたら付け火かもしれないようだ。

ぼくはここへ行ったことがない。これまで何度も行こうとしたのだが、焦ることはない、減るもんじゃなし、と思って、のんびりと時期を窺っていた。ところが、今回の事件である。自分でも意外に思うくらい、気落ちしてしまった。

もちろん、「トトロの家」本来の姿を見ることができなかったことが残念でこんなにも落胆してしまったのだが、それとは別に落ち込んだ理由がある。それは、大切なものを失ったという純粋な喪失感だ。これは見ることが叶わず残念、という独り善がりな気持ちとは別個のものだ。今まで見たことがないけれども確かに存在しているというものに、どれだけ支えられてきたか。それが、もし放火だとすれば、取るに足らないようなちっぽけな悪意によって潰滅させられてしまった。

『星の王子さま』に「一ばんたいせつなものは、目に見えないのだ」「かんじんなことは、目に見えないんだよ」という台詞があることは余りにも有名ですが、この言葉は普通、外からは見えない心のことを指して言われる場合が多いようです。けれども元々のそのコンテクストは、心のことに限定されているわけではありません。王子さまのこういう台詞があります。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ……」。それを受けて、「その美しいところは、目に見えないのさ」という発言が生まれるわけです。まだ「トトロの家」へ行ったことがないぼくにとって、まさにその「トトロの家」こそが「目に見えない」ものであり、砂漠における井戸であったのです。それがあるから、世界も少しだけ輝いていられる。

「ラピュタ」の「君をのせて」は、「あの地平線 輝くのは どこかに君を かくしているから」で始まりますが、これは「星の王子さま」の文句を借用していると思われます。そして今回の事件で、ぼくは本当に「君」を失ったような喪失感を味わったのです。

耳丘は閉鎖されてもそこに残っています。立ち入りが禁止されたことで、汚されることが減り、むしろ聖地としての価値を高めたとも言えます(もちろん異論はあるでしょう)。しかし、今回の事件は耳丘とは違います。「それ」が完全に焼失してしまったのですから。無念でなりません。

メディア芸術祭のアニメーション(3)

2009-02-13 00:39:13 | アニメーション
メディア芸術祭でアニメーションを観てきました。『ヘルズ・エンジェルス』『ストライク・ウィッチーズ』『ステファンの恩返し』など。

「ヘルズ」の感想ですが、一言でいえば滅茶苦茶。なんだこれ。こんなアニメもあるんだあ、と少々驚きました。ヒロインが突然地獄へ行ってしまうところから物語はスタートし、現世へ帰るために奮闘する様子を描きます。中澤一登の描くキャラクターの容姿と勢いがぶっ飛んでいて、物語もその勢いに乗って突っ走ります。いちおう聖書のカインとアベルの話が下敷きになっているのですが、話はそこから派生して、あらぬ方向へ。

『マインド・ゲーム』を志向して失敗したアニメ、という印象で、『もののけ姫』のイメージも盛り込まれています。タタリ神とかシシ神/ディダラボッチの液状化した身体とか。後半になると唯心論みたいな理屈が前景化するようになり、なんとなく宗教っぽくなります。『かもめのジョナサン』みたいな。あるいは『マトリックス』とか。やろうと本気で欲すれば何でもできるんだ、という。

ストーリーがどうとか、なんでバレーボールの試合があるのとか、そういうことにこだわっちゃいけないアニメなんでしょうね。とにかく突っ走っていくそのスピード感に酔い痴れるべし。好き嫌いは分かれそうですが。

『ステファンの恩返し』は一編5分のショートストーリーの連続。1時間強続くのですが、ぼくは最初の20分だけ観て、席を立ってしまいました。もういいかな、と。できるだけ早く帰りたかったし。

『ストライク・ウィッチーズ』は、メディア芸術祭で評価されたのに当たり、一部で話題になりましたよね。こんなパンチラ・アニメに文化庁からお墨付きが与えられたぞ、と。ぼくも前からこのアニメのことは知っていたのですが、観たことはなくて、どんなものかと思っていたのですが、けっこうおもしろかったです。たしか静止画は見たことがあって、それと大体のストーリーも聞いていて、うまく描けば迫力があるシーンがわんさか出てくるアニメになるんじゃないかと予想していましたが、実際空中での戦闘シーンは気持ちよかったです。

そういえば「シカフ」の作品集も後半の30分だけ観ました。どれも韓国のアニメーションでしたが、思ったよりもレベル高いですね。
現実と幻想との狭間にある世界を描いていて、それが寓話になっている話など、奇抜な発想でアニメーション化していて、見応えあり。巨大なウサギを飼っていることを隠していた男と、彼に気がありそうな女。しかし実はその女にも秘密があって…
途中から観た作品はひょっとして『ウルフ・ダディ』のチャン・ヒュンユン監督の最新作?最初から観てみたかった…無念。
最後の作品はどうやら国境を違法に抜けようとする子供の姿をやや夢幻的に描いていました、詩情を感じました。

どんな気分のときにも文章を書くと落ち着いてきますね。ふう。

※2月15日 補注
「シカフ」の作品は、全てクレジットがハングルだったので韓国人が制作したものだと思っていましたが、どうやら外国の作品が幾つも混じっているそうです。