Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

自分の拠って立つところ

2013-07-31 02:09:15 | Weblog
YouTubeで夏の画像集などを見ていたら(もちろんBGMはAIRや久石譲)、死にたくなるっていうか、未来を生きたくなくなってくるから不思議なもんだ。

それにしてもこういう画像を見て音楽を聴いていると、自分の拠って立つ場所は「ここ」なのだな、という気がしてくる。

いつだって「ここ」から始めなくてはならないし、「ここ」に戻ってこなくてならない。

ぼくは雑念が多くてついよそ見ばかりしてしまうんだけれども、常に「これ」を見据えていなくてはいけないよな、と自分を戒める。もちろん、「これ」だけを見続けて生きてゆくのは寂しいことなんだけれども、でも・・・。

ぼくの視線の先には、いつもあの宇宙探査ロケットが空を割って飛んでいる。

生きることの功罪

2013-07-29 02:32:19 | アニメーション
2013年6月7日、ぼくはコメント欄にこんなことを書いていました。

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「才能のある人が弱い人を排除してのし上がっているということを書いたとき、念頭に置いていたのは実は宮崎駿なのです。彼は、自分は若い才能を食いつぶすことでこうやって作品を作って生きている、という意味のことを何かのインタビューで述べていました。当時はその言葉の意味がよく分からなかったのですが、後になって「これはひょっとしたらすごい言葉かもしれない」と感じるようになりました。

ぼくらは誰かに支えられている一方で、誰かを蹴落として生きているのかもしれません。世間で認められている人は、その程度が一般の人よりも大きいでしょう。才能があって世に出た人が、支えてくれた誰かに感謝するのは当然ですが、しかし自分が蹴落としてきた人たちに謝罪することは、なかなかできることではありません。宮崎駿は、この負の面にも自覚的です。もしかしたら彼の真意は別のところにあったのかもしれませんが、しかしぼくは今このように彼の言葉を理解しています。

自分をもっと優秀な人と比べて「被害者」として嘆くばかりではなく、自分が「加害者」でもあるということに、「彼ら」は自覚的であってほしい(宮崎駿のように)、とぼくは思っています。ぼくは幸い宮崎駿の言葉を知っているので、ときどき自分(東大に通い奨学金をもらって留学している)を罪深く感じます。しかし、「彼ら」もそのように感じているのだろうか、と疑問に思うことがままあります。そこがぼくの不満ですね。ただし、この「謝罪」という行為・感情は「傲慢」ではないか、と思われるときもよくあります。要するに、ぼくはこういうことでうじうじ悩んでいるわけです。」

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『風立ちぬ』という映画が、この「被害者」と「加害者」のことを同時に描いた作品であるのは、間違いないような気がしています。既に多くのネット上のレビューで指摘されているように、この映画は一人の天才のもたらした災厄を描いています。ただ「美しいもの」を求め続けた結果、主人公は殺戮兵器を生み出したわけです。天才は巨大な利益を生産することができますが、一方で恐ろしい災いをも招来する。この矛盾を描破できるのは、当代の天才・宮崎駿を措いて他にいないでしょう。ただし、この映画は実のところ人間一般の生の功罪を描いているような気もするのです。

生きているということはただそれだけですばらしい、とは最近よく耳にする言葉ですが、それのみならず、生きているということはただそれだけで醜い。

天才であれば、生み出す功も罪も凡人より巨大でしょう。この作品は一人の天才に託して人間一般の功罪を描出している気がします。

『風立ちぬ』が、夢や才能の持つ二面性に正面から向き合っている、というのはすぐ分かることですし、そしてそれが天才の夢・才能に限定されるものではないはずだということも、自ずと気が付きます。問題は、それが劇的に表現されているのではないという点でしょうか。クライマックスに「ただ美しいものを作りたかっただけなんだ・・・」という主人公の哀哭でもあれば、なかなか感動的な映画に仕上がっていたと思うのですが、この作品にはそんな山場はなく、淡々と物語が進んでゆくだけです。登場人物の心理的な葛藤もほとんどない。

ぼくは正直この作品に戸惑っています。宮崎駿の後期作品の特徴を確かに備えた『風立ちぬ』は、自分の心に響いてしかるべきなのですが、そんなことはなかった。主人公のように懸命に生きていないから分からないのだ、と言われればそんな気もするし、夢や才能がないから分からないのだ、と言われればそんな気もします。お前は弱者の苦悩や、それでも生きようとする意志の方に興味があるから分からないのだ、と言われればそれが正しいような気もします。

天才の天才による天才のための映画。そう言って知らん顔することも可能なわけですが、そうしたくはない。全く困った話だ。

教養と花火

2013-07-28 00:15:22 | テレビ
中止になるかもしれないから見よう、という意地悪な動機から隅田川花火大会の中継にチャンネルを合わせました。すると、案の定土砂降りの雨と強風で花火大会は中止。花火師を始めとする関係者には誠にお気の毒なことで、また楽しみにしていた人たちにとっても残念な結果となりましたが、しかし中継を続ける番組のゲストたちの様子がおもしろかった。

とりわけ樹木希林がよかった。豪雨の中、久保田万太郎の花火を詠んだ俳句を次々と読み上げていったのです。花火大会にゲストとして招かれたので、事前に準備してきたのでしょう。大御所と言っていい女優ですが、下準備をぬかりなくやっている。こういうハプニングでもなければ全ての句を紹介する機会はなかったかもしれないのに、しっかりと調べてきている。しかもそれが久保田万太郎というのが憎い。

樹木希林は文学座の女優ですが、その文学座を立ち上げたのが久保田万太郎であって、彼は小説家・戯曲作家としてのみならず、俳人としても夙に知られています。ぼくも10年くらい前は少しばかり彼の小説を読んでいましたが、こんなにも花火に関する句を作っているとは知りませんでした。久保田万太郎は浅草生まれの江戸っ子ですから、隅田川花火大会の中継中に彼の句を紹介するのはいかにも相応しい。

彼の『三の酉』という短い小説は、ほとんどが会話の応酬で構成されている、やや特異な体裁を取っているのですが、この機会にこの短編をさらりと読み返してみて、その軽妙な語り口や末尾の儚さに、外国語文学ではなかなか味わえない感興を覚えました。三の酉というのはもちろん酉の市のことですが、一の酉は賑やか過ぎて嫌だ、行くなら二の酉か三の酉がいい、という意味の台詞が小説中に出てきます。さりげない台詞ですが、酉の市を知らない外国人にはたぶん分からない、日本人にしか分からないこういう微妙な部分が滋味深いですね。

久保田万太郎は戯曲を書いているし、文学座を立ち上げているし、何かの芝居の演出もやっていると思うのですが(もしかしたら勘違いかもしれませんが)、そういう彼の趣向が『三の酉』のような会話体小説を書かせたのだろうな、という気がします。プイグなんかとすぐ比べたくなってしまうのは外国文学が好きな人間の悪い癖ですが、久保田万太郎の小説は会話の妙に比重が置かれています。

さて、今回の中継は樹木希林のプロしての心構え、そして教養が垣間見えて、とても興味深かったです。

書かないとな、と思う

2013-07-27 00:02:11 | Weblog
何か書かないとな、と思う。帰国してからブログの更新回数が減っています。別に忙しくて更新する暇がないわけではないんだけど、何と言うか書く意欲が湧いてこない。以前だったらネタにしていたような出来事が、いま全くないわけではないのです。例えば、高浜虚子の句「去年今年貫く棒の如きもの」のロシア語訳についてちょっと考えてみたし、エスリンの『不条理の演劇』をついに購入したり(安値で)。でも、それらについて書いてみようという気が起こらない。どうせ碌でもないことさ、と妙に冷めてしまう。感情の高まりが最近はない。

あらゆることに対してやる気がないんだよなあ。いや気紛れに意欲が生じることもあるけれど、30分以上続かない。もう駄目だ・・・。

諸々

2013-07-24 23:27:07 | Weblog
プリントアウトしようと思ったら、紙がないじゃないか。明日までに必要なんだけど(たぶん)、朝コンビニで買ってこようかな。寝坊しなければ・・・!

ロシアで買いそびれたというか、あえて買わなかった本をamazon.comから取り寄せました。日本で買った方が労力はかからないし、しかも安い。amazonにはもう一冊注文していて、今月中には届く予定。あと別の本をロシアの書店に注文して、それが先日発送されたようなので、これもたぶん今月中には届く、かな。

ソログープの短編集が岩波から出ていたので、ようやく購入。帰国したら即買いするつもりでいたわりには、3週間もかかってしまった。

そろそろ本腰を入れて勉強せねばいかんなと思いつつ、なかなかやる気が出てくれない。日課として勉強できたらいいんだけどなあ。目標のないのがいけないのかなあ。人生の目標が。

駒場に行く機会をうかがっているのですが、なんとなく面倒だったり他の用事があったりで行けてない。本を返さなければ。

ああそうだ、今日は虚子の俳句のロシア語訳について書こうと思っていたんだった。すっかり忘れていた。明日以降に回そう。

素材と加工――『風立ちぬ』という映画

2013-07-21 01:18:53 | アニメーション
宮崎駿『風立ちぬ』について、「素材と加工」という視点から感想を書いておきたいと思います。なお、その際ネタバレする可能性があるので、未見の方は注意して下さい。

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と書いてみたものの、ネタバレして困るような「ネタ」はこの映画にはほとんどありません。大震災があり、世界大戦があり、少女との出会いと別れがある、というのは映画を見る前から多くの観客が共有していた情報ではないでしょうか。そしてこれら以外に大きな「ネタ」はないのです。流行りの「最後のどんでん返し」も当然ありません。映画の進行は極めて急速で、且つ淡々としています。どこかに山場を作ることを意図的に避けているとしか思えない。しかしそれにもかかわらず、ネット界隈では「泣けた」というような感想が多いのです。もちろん作品をけなす人もいるのですが、その一方で感動している人たちがいる。これほど「泣けた」という感想が多いのは、宮崎駿の近作では珍しいような気がします。では、宮崎駿はいわゆる感動大作を作るよう指揮したのでしょうか?それは違うとぼくは思う。

『風立ちぬ』は、明らかに『千と千尋』以降の後期宮崎駿の系列に属する作品です。後期の特徴というのは、物語の整合性の希薄性、突出したイメージ、不可解な登場人物の行動原理等であると個人的に考えていますが、それらは「情報<イメージ」という図式に還元できるかもしれません。つまり、イメージに比して情報量の少なさが、物語をしばしば不可解にし、登場人物の行動も一貫性を欠いているように見させてしまう。

ネット上を短時間だけ見回した限り、『風立ちぬ』に対してこのような観点から批判している人はほとんどいませんでした。誤魔化されているな、と思う。『風立ちぬ』においては、他の後期作品と同じように、明らかに説明が不足しています。例えば地震や戦争が起きても、それが関東大震災や第二次世界大戦であることは一切説明されません。普通、時間が大幅に経過したら、次のカットで「○○年」といった表示を出すことが定石ですが、そういった時間経過を明示する手段は全く取られません。観客はただ登場人物の台詞の端々から、「あれから何年か経ったのだな」とか「もうすぐ世界大戦が始まる頃だな」とか想像するしかないのです。仮に日本の近代史を全く知らない人がいたとしたら、この映画の時代背景はちんぷんかんぷんではないでしょうか。それにもかかわらず、情報量の少なさや登場人物の心理説明の少なさに対して批判の声が上がらないのは、今回の場合、恐らくそれらは観客の脳内でほぼ完全に補完可能なものだからです。映画は一応日本の史実をなぞっていますから、最低限の日本史の知識があれば、映画内で今どういったことが行われているのか理解することができるのです。ここが、ファンタジーだった『ハウル』や『ポニョ』とは異なる点です。たぶん観客の多くは史実を知っているので、それを映画における歴史的背景に自然に重ね合わせて見ることができているのです。ここでは史実=素材と、映画=加工とが、多くの観客内で一致していると言ってよいと思います。

素材というのは、題材と言い換えてもよいのですが、要するに芸術作品を作り上げるための材料のことです。一方加工というのは、素材を用いて出来上がった物(作品)、あるいは素材を作品にするための作業を指します。例えば歴史映画における歴史が素材、演出が加工(あるいは演出して出来上がった映画そのものが加工)と言えます。芸術作品というのは、ほとんど全ての場合、素材と加工から成立していると考えられます。

この二分法を持ち出せば、「泣けた」という感想が多かった理由も明らかになるように思います。これまで書いてきたように、この映画は後期宮崎駿の特徴を有しており、物語や登場人物の心理への説明を欠いています。そのような場合、登場人物に感情移入できないことが多く、観客は置いてけぼりにされる可能性が高まります。しかし今作では多くの人がそれとは違った反応を見せている。なぜかと言えば、彼らは素材に感動しているからではないでしょうか。つまり、薄幸の少女との出会いと別れという、いわば「難病もの」という素材の設定が、否応なく観客の涙を誘っているわけです。しかし監督は映画の中で悲恋を強調する加工=演出は一切していません。宮崎駿は、あくまでも淡々と描写してゆきます。

加工に全くひねりを加えない宮崎駿。『風立ちぬ』の評判は、素材(日本人なら誰でもわかる歴史の知識と難病ものという設定)に助けられていると言っていいと思います。

ところが、本来なら枯淡の雰囲気になるはずのこの映画は、「異様」としか言いようのないような迫力に満ちています。説明というものを完全に省いてしまったことで、映画の時代や雰囲気が、不定形で生々しい何かを醸成しているように思うのです。現在を生きているぼくらが現在という時代を定義できないように、『風立ちぬ』を見る者も『風立ちぬ』の時代を把握できないような錯覚に囚われるのです。『風立ちぬ』の時代に放り込まれたような錯覚、視界はもやもやとして先行きが見えない。知識としては知っているはずなのに、なぜか既視感はなくその時代の空気をひりひりと感じてしまっている。これは、加工することを極力避けた演出の賜物でしょう。

ちなみにこの異様な感覚は、作画や効果音もその醸成に大きな役割を果たしていると思いますが、今回はその話はなしということで・・・。

実在した零戦の設計者と文学者とを素材にして、映画という一つの加工物を創り出す今作では、素材と加工という視点からの分析は非常に有効だと思います。ここまでぼくは、宮崎駿は素材を加工することは極力避けていると書いてきましたが、しかし今作においてはそもそも主人公が大きく加工された人物です(実在した二人の人間が融合されている)。また、夢のシーンも加工性の高いものであると言えるでしょう。つまり、素材と加工とが複雑に入り混じった、極めて幻想性の高い独特な作品に仕上がっているわけです。

他にも書きたいことは幾つかありますが、まあこんなところでおしまい。

ラブソングなんて聴きたかねえや

2013-07-20 00:05:48 | 音楽
『僕が死のうと思ったのは』について、中島美嘉さんは「是非最後まで聴いて欲しい」と語ったそうです。「じゃないと絶対伝わらない」からと。公式HPに行くと、この歌は「究極の愛の歌」として紹介されています。

正直、ぼくは違和感を持ちました。秋田ひろむがそんな単純な「愛の歌」=ラブソングを書くだろうか。もちろん、「僕が死のうと思ったのは」というフレーズが反復されるこの歌は、単純なラブソングとは呼べないかもしれません。しかし、結局のところ全てが最後の愛の表明に収束されてしまうのならば、それは紛れもないラブソングと言えます。この歌が「究極の愛の歌」と紹介されたのは、3番の歌詞を最重要視して、「僕が死のうと思ったのはまだあなたに出会ってなかったから」というフレーズを愛の表明と捉えたからではないでしょうか。でもぼくには、この歌がただのラブソングだとは思えません。

この歌は1番から3番までありますが、それぞれ明らかにテーマがあります。

1番:自己
2番:他者
3番:あなた

というふうに、それは明示化することが可能です。1番では自己の内部における葛藤を歌い、2番では他者との関わりを歌い、3番では「あなた」に対する態度を歌います。個人的な感想を申し上げるなら、1番が最もamazarashiらしい。詩的というか文学的な歌詞と相俟って、昔のamazarashiを髣髴とさせます。2番も他者との関係に傷つき閉じこもってしまう(しまった)自分を歌っている点で、やはりamazarashiらしい。ただ3番だけが、「あなたのいる世界を肯定する」というやや陳腐な情感を歌っており、確かにこういった要素もamazarashiの根底にあるとはいえ、しかしそれだけでamazarashiをamazarashi足らしめる要素にはなっていないと思います。

また、1番のサビでは「満たされないと泣いているのは きっと満たされたいと願うから」と歌い、2番のサビでは「愛されたいと泣いているのは 人の温もりを知ってしまったから」と歌っている点にも注目したい。この歌は、「僕は死のうと思っていたけれど、「あなた」に出会ったからもう少しだけ生きてみようと思うようになった」というような歌ではないような気がするのです。ましてや、「愛する人ができたから生きていくよ」という前向きなラブソングじゃない。そうではなくて、まずは自己の葛藤とその克服への光を歌い、次いで他者との軋轢とそこからの救いを歌い、最後に「あなた」との出会いを歌っているのであって、自己との闘争、他者との闘争/逃走を経てようやく「あなた」に出会えた過程を歌っている。つまり、「あなた」だけが救いではないのであって、3番だけに重要な意味が込められているのではないのであって、3番で全てがひっくり返るのではないのであって、自己と他者それぞれの関係の中でも「僕」は光へ向けて歩き出そうとしているのです。

したがって、これはやはり単なるラブソングではないと思う。少し大袈裟に言うならば、「いかにして一個の人間が世界を肯定するに至ったか」を歌っているのではないでしょうか。これは秋田ひろむ自身を歌った歌なのかもしれません。

そういう歌を、一概に「愛の歌」と括ってしまうのはいかがなものかと思う。また最後まで聴かないと分からないような歌でもないと思う。よくよく歌詞を読み込めば、1番からだけでこの歌の志向を感じ取れる。

自己、他者、「あなた」を通して世界を肯定してゆく歌。もしこの過程をamazarashiの軌跡になぞらえることが可能ならば、やはりこの歌は秋田ひろむその人が歌うべきでしょう。しかし、誰かとの関係が開かれてゆく、あるいは結ばれてゆくこの歌が、その「誰か」に託され歌われる、というのもまた必然性があります。ただし、これをただの「ラブソング」として歌ってほしくはない。ラブソングなんて聴きたかねえや。

ここ数日

2013-07-18 00:06:04 | Weblog
知り合いの先生に食事をおごってもらう。ワインの美味しいお店だそうで、ただ自分はワインの味がよく分からないので、なんだか申し訳ない気がしましたが、でも自分としては随分飲んだので、少し酔う。それにしても、こういうお洒落な感じのお店を知っていると強いよな。ぼくもこれからは居酒屋ばかりではなくて、ちょっとばかしお洒落なお店にも足を運ぶようにしよう。

駅を利用したので本なり何なり買い物でもしていこうか迷いましたが、買い物をする気力が失せていることに気付き、やめてしまう。そしてやめてしまったことにぞっとする。ああ、自分は本が読めないだけではなく、ついに本を買うことすらできなくなりつつあるのか。無気力。だるい。

2年くらい前にも書きましたが、20世紀ロシア文学史の教科書を翻訳したいなと思う。ぼくはこれ以上先には進めそうにないけれども、ぼくよりも若い世代には、もっと先まで進んでもらいたい。だから、彼らの役に立つ本を出したいと思う。

せめて毎日1時間でもいいから読書する気力があればなあ。朝でも夜でもいいから、お願いだから。月の見えない夜に祈る。

例えばツァラを読む意欲を失う。未来派に関する論文を読む意欲を失う。タルホを読む意欲を失う。『山師カリオストロの冒険』を読む意欲を失う。TVアニメを見る意欲を失う。短編アニメーションを見る意欲を失う。長編アニメーションを見る意欲を失う。ジブリ映画を見る意欲を失う。一つ一つ失ってゆく。大事なものをぽとりぽとりと落としてゆく。この喪失に悪寒を覚えながら、鋭い懐旧に顔を歪めながら、ぼくは自分が無に向かって歩いているのを意識する。喪失の果てには何もない。

帰国したら、選挙が始まろうとしていて、てっきり原発が争点なのだろうと思っていたら、経済だった。おまけに原発維持を明確に打ち出している自民党を支持する者が多いらしい。ぼくはロシアにそんなに長い間滞在していたっけ?まるで浦島太郎だ。

今日は早く寝よう。

『宮崎駿ワールド大研究』

2013-07-16 01:15:00 | アニメーション
新宿の紀伊国屋に久々に立ち寄ったら、色んな本が出てました。ざっと見て買ってしまったのは、『宮崎駿ワールド大研究』。文学関連の本でも買いたいものがあったのですが、高い。高過ぎる。なぜ日本の本はこんな高いんだ。もっとも、この『大研究』は1000円弱でしたが。

ぱらぱらと拾い読みしてみたところ、意外とおもしろい。ライトなジブリ本かなと想像していたのですが、思った以上に突っ込んだ指摘がある。山川賢一という評論家(まどかマギカ論を書いた人)が大活躍で、この人が半分以上の記事を執筆。いちおう雑誌形式の本で、単著ではないので、10人ほどの執筆者が色んな項目/記事を担当しているのですが、その山川さんが一人で半分以上書いてしまっている。すごい熱意だ。しかもけっこう勉強している(という表現が悪ければ、「よく見ている/読んでいる」と言ってもいい)。1977年生まれという若さもいい。いわゆる若手研究者/評論家だ。

「ムスカはパズーの分身である:宮崎の描く悪役たち」と題された文章など、けっこうおもしろい。よくあるような分身論かなと期待せずに読み始めたら、漫画版ナウシカのミラルパやナムリスにも言及していて、というか彼らを悪役の一つの到達点とみなすことで、ムスカとパズーの分身関係を逆照射していて、興味深い。こういう視点は自分にはなかったなあ。ところで『ナウシカ』の「ヴ王」って、非常におもしろい固有名詞ですよね。ヴ王。この名前は何に由来するんでしょうか。

他にも、おかだえみこさんの発言に驚いたりもしました。彼女は『ラピュタ』を手塚治虫と一緒に見に行ったのだとか!そして手塚治虫はラピュタに嫉妬したのだとか。彼がナウシカに嫉妬していたらしい、という話は聞いたことがありますが、ラピュタもそうだったのか・・・。

この本もそうですが、若手の論客が好きなことを書いているのっていいですね。やはり若手はある程度傲慢で、向こう見ずで、傍若無人くらいなのがいいのかもしれない。先人や他者に配慮しつつせこせこ小さな領域だけで自足してしまうのは、よくないな。もっと大股で歩かなければ。

とあるロシア文学のエピソード

2013-07-15 01:23:11 | 文学
ゲンナジー・アイギの回想

「こんなエピソードがある。アレクセイ・クルチョーヌイフは現代の詩人たちに我慢ならなかった。と言うよりは、彼にとってはそんな詩人たちはほとんど存在していなかったと言う方が正確だろう。あるときサトゥノフスキーは、自分のことを知らないクルチョーヌイフに電話をかけた。そして何の説明もしないうちに、自作の詩を朗読し始めた。クルチョーヌイフは黙って聞いていた。途中でヤコフ・アブラモヴィチは朗読を止めた。「続けて下さい。続けて読んで下さい」クルチョーヌイフは催促した。朗読が終わると、クルチョーヌイフは言った。「あなたはどちらにお住まいですか? 私の住所はご存知ですか? 今すぐいらして下さい」。恐らくこれは、クルチョーヌイフが彼をマヤコフスキーやカメンスキー、フレーブニコフの系統に属する自分の詩人として認めた、特別な出来事の一つだっただろう。」

仮にこのブログをロシア文学の愛好者が読んで下さっているとしても、サトゥノフスキーという名前を聞いたことはないのではないでしょうか。研究者でも知っている人は少ないと思います。・・・いやしかし、ここでぼくがサトゥノフスキーの解説をすると思うのは間違いであって、単に次のことが言いたいだけなのです。「ロシア文学の世界は豊饒だ。知らないことが山のようにある」と。

というわけで、これから「知られざるロシア文学」というテーマで、日本に翻訳の(ほとんど)ないロシア作家やその作品を紹介していければいいかなと思います。・・・嘘です。いや正確に言えば、そうしたい気持ちはありますが、その作業は自分の能力の限界を超えるので、無理です。

なんだかもやもやしたまま今日は終了。

だらだらと

2013-07-12 02:22:21 | Weblog
だらだらと時間をつぶしている途中で、ロシア語の論文を一本読んでしまった。割と易しいロシア語で書かれてあったし、辞書を引かないで読んだので、すぐに読めたのだと思いますが、しかし何が書かれてあったのか、と聞かれると困るという・・・。最近は早く寝ることが多いので、しょぼしょぼする目をこすりながら、ぼんやりする頭で読んだというのも、いまいちよく理解できなかった理由かもしれませんが、これは言い訳。

ただ、なかなかおもしろいことが書かれてあったような気がするので、後日改めて読んでみようかな。

明日はどこにも出かけない予定でしたが、大学に行く用事ができました。必須の用事ではないので、だるかったりしたらやめますが。・・・あれ、眠いな。もう寝ます。

僕が死のうと思ったのは

2013-07-10 00:06:32 | 音楽
<<中島美嘉の新曲「僕が死のうと思ったのは」をamazarashi秋田ひろむが楽曲提供>>

というニュースを先程知ったのですが、amazarashiの歌はやはり秋田ひろむが歌わないとなあ、というのが正直な感想。しかもこの曲は以前ライブで秋田さん本人が歌っていて、そのときぼくはえらく感銘を受けたので、思い入れがありました。

中島美嘉は情感を込めて丁寧に歌ってくれるとは思いますが、でもamazarashiの歌ってのはねえ、amazarashiが歌ってこそなんだよなあ、という意見の人はきっと多いはず。

それにしてもamazarashiはどんどん知名度を増していっている(気がする)。今回の試みが成功すれば、もっと有名になっていくんだろうな。

どういう経緯で楽曲提供することになったのか知りたいですね。

新しい古書店

2013-07-08 00:13:36 | 本一般
近所に新しい古書店が建っているのを発見したので、今日早速見てきました。

なかなか充実した品揃え。文学、美術、マンガ、一通りある。しかも安い。シュペルヴィエル『ひとさらい』が2500円、というのは破格ではないでしょうか。『モダンの五つの顔』に至っては600円。いいのか。

去年ロシアに渡航してから開店したようなので、まだ1年も経っていないお店。この業界は厳しいと思いますが、どうかこれからも営業を続けてほしいものです。

山中桂一『詩とことば』というヤコブソン論をここで購入したので(600円)、せっかくですから明日からこの本を読んでみようかなと画策中(ってほど大袈裟じゃないけど)。意欲が保たれていればいいんですけどね。

ぼんやりと

2013-07-06 00:50:41 | Weblog
月曜に帰国してから、ぼんやりと過ごしています。一応この間にも本を整理したり、学生証を更新したり、最低限必要なメールをやり取りしたりしていましたが、勉強しているわけではないし、読書しているわけでもないし、趣味に熱中しているわけでもありません。ぼんやりとあらぬことを考えながら時間をやり過ごしています。

本の整理。
ロシアから配送した本を全て本棚に詰めることはできないので、既に本棚に収まっている日本語の書籍を抜いて、その代わりにロシア語の本を入れることにしました。ただ、その日本語の本の中には大事な本も含まれているので、早々に新しい陳列スペースを作らなくてはなりません。そうでなくては、永久に段ボールの中だ。でも、新しい本棚を置くスペースは自室にはもはやないので、廊下に設置するか、あるいは大々的に部屋の中を配置換えするか。悩ましい。

とりあえず、机の上はいま本やプリントで埋まってしまっているので、明日はこの机の上だけでも片付けよう。そうすれば、勉強する態勢だけは整えられる。

でも、次は何を読めばいいのかなあ。

集中力と根気さえあればなあ。あと意欲。

例えばそれは

2013-07-05 01:15:30 | Weblog
例えばそれは「運命の人」でもいいし、「全盛期」でもいい。ともかく人生最高のものであればいい。そういうものに既に出会ってしまっていたら、そしてもう二度と出会えないとしたら、ぼくらはこれからの生をどのように生きていけばいいのだろう。ぼくはそんなことを高校生のときからずっと考えてきた。「惰性の生」をいかに生きるべきか。下り坂の人生を。

再び出会えるかもしれない。もう一度、同じような出会いがあるかもしれない。そんなふうに思い直すこともできる。そしてそういう出会いが確かに再びあり得ることを、ぼくは知っている。でもその「再びの出会い」が一瞬で終わってしまったとしたら?またそんな邂逅が訪れることを10年間も待ち続けなければいけないのだろうか。

ぼくはたぶん、出会ってしまったんだと思う。そう、「しまった」のだ。その出会いは別れる前からあまりに切なく、残酷だった。小さな息遣いを自分の肩の上に感じながら、ぼくは最上の幸福と最深の絶望とを同時に味わっていた。ねえ、どうして幸福はこんなにも儚く、脆く、残酷なの? 不幸はどうして幸福の顔をしてやって来るの? ぼくはこんな世界の理が大嫌いだよ。

あるいは孝雄のように、あるいは貴樹のように、ぼくはずっと遠くを見ていた。「いま・ここ」ではない時空を見つめていた。ぼくはずっと現在から過去を眺めていた。そんなとき、君は突然ぼくの視界に現れて、そしてまた突然去っていってしまった。またぼくだけ置いてけぼりだ。ぼくは君の姿を街の中に探すだろう。それこそ新聞の片隅や駅のホームに君の影を求めるだろう。いや、ぼくは君の居場所を知っている。でもぼくは君の元へ行くことはできない。ぼくらの間には、壁が何重にも張り巡らされている。

壁や、断崖や、海や、山を、幾つ越えてゆけば、ぼくはまた君に出会えるのだろう? ぼくの目はもう君だけを追っている。

再びの「恋」も「運命の人」も「全盛期」も、もういらない。ただ君がもう一度ぼくの傍で夢を語ってくれれば、それでいい。しかしその夢が叶えば、君は永遠に遠い世界の住人になるのだ。

1000回メールを交換しても心の距離が1センチも埋まらない一方で、たった幾度かの会話の応酬で心がすっかり奪われてしまうことがある。

ぼくは選択を誤ってしまっただろうか。ああ、いつもそうなんだ。あのときもそうなんだ。だからぼくは、ただひたすらに、君に幸あれと祈る。危ないことがないように、幸運が訪れるように、良い人たちに恵まれるように。両手の指を交差させて、祈る。

さよなら。ありがとう。