Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

イメージフォーラムフェスティバルA

2012-04-30 23:45:52 | アニメーション
新宿で開催されている「イメージフォーラムフェスティバル2012」に行って、プログラムAを観てきました。「A」は日本の短編アニメーション集です。

まず、ホールが満席になったのに驚きました。いくら休日とはいえ、短編アニメーションのファンってこんなに多かったっけ?毎年こんなに多かったっけ?
それと、もう何年もこういう催しのある所に出かけていると、見覚えのある顔がちらほらいるんですよね。ああ、この人たちも来ているんだな、と奇妙な懐かしさを感じます。


さて、田名網敬一の作品がとても印象的でした。奔放なイマジネーションで描かれるイラストの突飛な色彩は物凄い。なんとなくパテルの「死後の世界」を髣髴としてしまったのはどうしてでしょう。

それからALIMOの作品も印象に残りました。「開かれた遊び、忘れる眼」というのは、誰の詩を翻訳したのかな(詩は翻訳できないとエピグラムにありましたが)、シュルレアリスム的というかダダ的というか自動記述的というか、奇怪な語結合が特徴的な詩で、でもそれとなく意味が通じるような気もする不思議な詩。それと呼応するかのように、映像も様々な物の結合から成立していて、しかしその結合が全体で何らかの自然物ないし人工物を指示することはありません。いわば手術台の上の蝙蝠傘のような結合で、ある意味では化け物じみていますが、しかしある意味では神秘的でさえある。もっとも、結局のところこれがどのような作品であったのかぼくにはよく分からないので、解説のようなものが読みたい・聞きたいところですね。

水江未来の「AND AND」は、個人的には傑作の域に達していると思ってしまった。彼の作品は、かなり初期の頃のものから見続けていますが、近年は構成力が感じられて、ぼく好みになっていっています。抽象的というのでは違う気もするし、幾何学的というのでも足りない気がする、特異な作風を持つ作家ですが、近年のものは見ているとアニメーションのダイナミズムや快楽を感じられて、ぼくは好きだなあ。

雨っぽかった

2012-04-27 22:11:31 | Weblog
ずっと霧雨が降っていて、憂鬱な一日でしたが、学校へ行ってきました。
しかし休講でした。誰も来ない教室の前で30分待っていました。
確かに先週は授業休んだけど、なんでぼくにだけ連絡が来ないんだ・・・
やれ、やれ。

ところで、先週受けていた某試験に無事合格しました。詳細は、色々と確定したらここにも書くと思います。

事態が動いています。ぼくはその荒波に揉まれています。どこにも羅針盤なんてないので、ただふらふらと漂うばかりです。

夢は儚く・・・

2012-04-25 23:38:27 | Weblog
今朝のNHKのニュースで、ビックリマンシールが非常な高額で取引されていることを知りました。ものによっては数万円するらしい。そして、テレビに映し出された5万円だというそのシールに、ぼくは見覚えがあったのでした。

ひょっとするとひょっとするかもしれない。バイトから帰宅して、夕飯を食べ終えると、早速ビックリマンシールの整理を始めました。昔集めていて、それがぼくの部屋にあるのです。見た感じでは、かなりレアそうなカードがずらり。通し番号「1」のカードもあったりして、期待に胸が膨らみます。実際に売るかどうかは別として、高価なものを持っているというのはうれしいものです。

自分がどういうカードを持っているのかを把握した後、ネットで相場の調査をすることにしました。ところが・・・。この記事のタイトルからも察せられるように、ぼくの期待は泡とはじけ、夢は儚く散りました。全然レアじゃない!

ぼくの持っているカードというのは、どうやら希少価値の薄れたカードらしいのです。当時PTA等の批判を受けて、希少価値のあるものをチョコレートに封入することをやめてしまったらしいですね。というか、本来は貴重となるはずだったカードが、数多く封入されてしまったようで、結果として希少価値は薄れてしまったようです。う~む。

大体、どうやらレアなカードというのは、普通にチョコを買っても入っていないようなカードみたいですね。福袋版等の○○版とかいう種類のカードがあるらしく、そういうのが高価みたいですね。なーんだ。家にはまだまだカードがあるかもしれませんが、そういうのは持っていないはずなので、結局いずれも二束三文だと思います。まあ、今手元に数百枚はあるのですが、たとえそれを全部振り払ったとしても、一万円になるかどうかというところでしょう。値が付かないのもあるでしょうし。む、無念・・・。

しかし、部屋をひっかきまわしている間、ビックリマンのミニファイルを見つけました。カード保管用のシートです。その表紙の裏には、「ビックリマン憲章」なるものが書かれており、第一条には次のような文句が印刷されていました。「私はシールを、決して売り買いしないことを誓います。」

ももへの手紙

2012-04-24 22:46:49 | アニメーション
『人狼 JIN-ROH』の沖浦啓之の監督作『ももへの手紙』を観てきました。とても丹念且つ丁寧に作られていて、好感を持てますが、とりわけ前半はやや退屈で進行のテンポが緩やか過ぎるきらいもあります。そこが好悪の分かれ目ともなっているようでもありますが、しかし退屈な映画が全て悪い映画ではないように、この作品も非常に完成度の高い佳品であることは確かです。退屈だからつまらない、駄作だ、と決めつけるのは、さすがに稚気じみていますからね。

『ももへの手紙』を水の表象と絡めて論じた(たぶん専門家の)レビューがネットに上がっていましたが、それはぼくも強く感じました。作画監督の安藤雅司は、かの『千と千尋の神隠し』でも作画監督を務めた超優秀なアニメーターですが、この『千と千尋』という作品でも重要なモチーフとなっていたのは「水」でした。この点について既にぼくはブログで記事にしたこともありますが、ハクが河の主であったことに思いを致せば、少なくともそこに水との何らかの関わりを予想できるのではないかと思います。しかし今はこの点は措き、『ももへの手紙』について。『千と千尋』と『もも』との間には、元来テーマ上の類縁性はないはずなので、そこはあえて強調しませんが、『もも』における水のイメージの氾濫は余りにも明瞭です。瀬戸内海に抱かれる島、通過儀礼としての飛び込み、藁舟の海への奉納、クライマックスの嵐、そして海洋調査をしていた父。海で亡くなった父親からの便りが、海からもたらされるのも必然で、水に関する事象が全てこの映画では有機的に繋がっています。

この点を踏まえた上で、ぼくはこれから飛躍に飛んでいるかもしれない解釈をしたいと思います。別に研究しているわけではないのだから、自由な感想くらいいいよね。

映画全編に漲るこうした「水」のイメージは、結局のところ「涙」に集約されるのではないかと感じました。いわば、この映画は母娘が素直に涙を流すことができるまでの過程を描いているのではないか、と。喧嘩したまま父を失くしてしまったももは、映画の前半ではほぼ常に憮然としていて、涙も笑顔も見せない。その硬直した表情が崩れるのは「3人の妖怪」との出会いによってです。一方で母親も、娘には決して涙を見せようとせず、無理をして生活をしている。彼女たちが自然に涙を流せるようになるのは、「妖怪」たちが去った後です。つまり、「3人の妖怪」は母娘に涙をもたらしたと言えるのではないでしょうか。というより、もっと正確に言うならば、この「妖怪」たちは涙そのものでした。彼らがいわゆる妖怪ではないことは作中で説明されていますが、ではその実体は何なのか、ということはついに解き明かされません。ぼくは、彼らは父の涙なのだという思いを払拭することができません。亡き人の代わりに地上に残された人を見守る彼らは、水滴となって落ちてきましたが、それは父親の零した涙であるように思われて仕方ないのです。父親の涙が母娘の心を溶かしてゆく。したがって、「ももへ」とだけ書かれた手紙の続きは、涙=「妖怪」たちとの心の交流に全て言い尽くされており、最後に認められた父の言葉は、涙が乾くように跡形もなく消えてしまいます。

他にも多くの論点や視座があると思いますが、ぼくの感想の要点はこのくらいで。前半はいささか退屈かもしれませんが、よい映画ですよ。

apology

2012-04-24 00:47:10 | 音楽
amazarashiのニューアルバム『ラブソング』のジャケットから、ついにテルテルが姿を消した。これは何を意味するのだろうと思って、新曲『アポロジー』を聴いた。

新境地、と言えば分かりやすいけど、つまるところこれは、世界との和解だ。アポロジー、すなわち「ごめんなさい」をちゃんと言えるかどうか。世界に「ごめんなさい」と言えるかどうか。「どんなに嫌ってもただぼくを受け入れてくれた世界に ごめんなさい ちゃんといえるかな ごめんなさい ちゃんといえるかな ごめんなさい ちゃんといわなくちゃ」。

これで、ライブのタイトルの意味も明瞭になった。もしかしたら、まもなく秋田ひろむさんは文字通りヴェールを脱ぐかもしれないな。

『千年幸福論』がこれまでの集大成だったとしたら、『ラブソング』はたぶん新たな出発点になるはず。「やさしいラブソングをBGMに ラジオのパーソナリティが言う」と『カルマ』では皮肉に歌われたラブソングが、ここではどのように歌われるのだろう。とても気になる。

誰かのために生きるなんてできなかったぼくらのアポロジー
自分勝手に生きるぼくを全て許してくれたあの娘に
いつまでたっても変われない平凡なぼくらのアポロジー
どんなに嫌ってもただぼくを受け入れてくれた世界に

それにしても、聞き取りやすい声。最後の絶叫は鳥肌ものです。

NHKアーカイブス

2012-04-22 23:49:47 | テレビ
昼間のNHKに、なんとなく見入ってしまった。
かつて「新日本紀行」が放送した浪江町の当時と今。1973年と1981年の浪江町。

上映していたホールのお客さんが、自分の旦那や母親が映っていたことに喜んでいる様子は、涙ぐましかった。原発事故どうこうではなく、そこには普通の人の普通の反応があって、いや、普遍的な人々の普遍的な反応があって、その余りの普遍性に、涙を誘われた。そういえば、『ぽんぽこ』のラスト近くにもこういうシーンあったよな。あの頃にはもう戻れない、というのはだから普遍的な寂しさであるんだけれども、でも浪江町の場合は、それが単なる寂しさや切なさ、感傷ではなく、悲劇になってしまっている。

かつて、浪江町は東北電力の原発を誘致しようとしていて、一方でその反対派もいて、結局のところ浪江町に原発はできなかったのだけれども、その隣町に東京電力の原発ができて、そしてその甚大な被害を被ることになったのは、町長も言っていたように、皮肉なことだと言わざるを得ない。

いま「新日本紀行」の映像を見ると、自分の故郷でもないのに、ひどく懐かしい気がする。サーカスの滑稽な場面は、それを眺める笑顔ともども、とてもよかった。

だんだんだるくなる日

2012-04-21 23:04:46 | Weblog
今朝は休日だというのに午前中に起床。
そしてお昼過ぎに高円寺へ服を買いにお出かけ。春物の薄手のシャツが欲しかったのです。で、結局真っ黒のシャツを購入。いくらなんでも黒過ぎるだろう、というやつ。

帰宅する途中でお腹が痛くなる。そういえば、出かける直前にも腹痛が起きていたのだった。家に帰ると、なんとなく何もやることがないので、ロシア語でも読もうかなと思って机に向うも、やる気が起きないのですぐ放置。

夕方はごろごろ寝ていたらお風呂に入りそびて、夕食後しばらくしてから入浴。
出たら自分の部屋でちょっと勉強しようかなと思って本を開いたら、注が1ページもあったので、めんどくさくなってやめてしまう。

よし、実況プレイを見ようとなって、パソコンをつけて見る。でもなぜか動画がたびたび止まるので、少々フラストレーションが溜まってしまう上に、疲れる。

そして今に至る。なんかだるいなあ。早く寝ようかなあ。

もうすぐイメージフォーラム

2012-04-19 00:09:15 | アニメーション
もうすぐイメージフォーラムフェスティバルです。今月末からゴールデンウィークの終わりまで、ですね。

http://www.imageforumfestival.com/

今年のアニメーションの目玉は、和田淳の『グレートラビット』凱旋上映ですかねえ。まだ見ていないので、ちょっと楽しみにしています。他にもアニメーションプログラムはたくさんあるので、今年も連休中は忙しくなりそうだ。

ちなみに、イメージフォーラムと言えば、ハーツフェルト作品集がレイトショーで公開されています。こちらは今月の27日までだったかな。ハーツフェルト作品を未見の方で、映像に関心のある方は、行った方がいいと思います。はっきり言って、すごいです。衝撃です。超えてます。

そういうわけなので、今月~来月にかけてはイメージフォーラムに要注目。

翻訳

2012-04-16 23:12:15 | 文学
島亘『ロシア文学翻訳者列伝』という本が出版されていました。作者がどのような方なのかは存じ上げないのですが、目次を見る限り、かなり広範にわたって調査されている模様。ちょっと読んでみたいのですが、近所や大学の図書館には今のところないみたいです。残念。もっとも、いまは読む時間をあまり取れないかもしれませんが。

翻訳に関するあれこれを調べるのはけっこう楽しいので、ぼくもいつか日露の翻訳事情について勉強したいなあ。チェーホフを中心に据えてやってみたいものです。

あ、今日は短いな。

新聞に耳をすませば

2012-04-15 23:25:55 | アニメーション
いま、前の記事のコメント欄に書いたばかりですが、今朝の朝日新聞に、先日の聖蹟桜ヶ丘でのイベントに関する記事が載っていました。やはり1000人近くが来ていたらしいですね・・・でもそんなにいたかな?(あの日は桜まつりだったので、確かに賑わってはいたけど、全員が耳目当てではないしなあ・・・)

で、いまコメントしたばかりですが、もーりさんが紙面に登場していて、びっくり。やっぱり新たなファン層をこの映画は獲得し続けているのですね。そして、青春を応援する街ですか。なるほど。だからモニュメントは青春のポストになったのかな。確かに町おこしって、あるコンセプトが必要なのかもしれませんね。映画の舞台であるというだけではなく。

ちなみに、2500人というのは、ノートに書き込む人の数だそうです。だから、実際にはその数倍の人がかの地を訪れているとか。そういえば、ぼくも最近はノートに書き込みしてないしな。丘に置いてあったときは、書きこんだんだけど。・・・あれ、初めて見つけた日に書きこんだだけで、あとは書いたことなかったかなあ。つまり1回しか書きこんでないんだろうか?もったいない気もするけど、今更書きこむのもなあ、なんて。

それにしても、朝日新聞の記者が来ていたとは知らなかった。

普通の人

2012-04-14 21:39:44 | Weblog
どん底に突き落とされている。抱えきれない荷物を背負いこんでしまったみたいだ。はっきり言って、もうここまでだ。幾度となく同じようなことを繰り返しているけれど、ほとほと嫌になった。

ぼくには別になりたいものもないし、やりたいこともない。例えいま死んだって、後悔なんてほとんどない。そういう意味では、いい一生だったのかもしれない。自分ではそんなふうに自覚しているわけではないけれど。

ぼくは、普通の人間だった。平均的な人間、と言い換えてもいい。ここで詳細に人生を振り返るようなことはしないけれども、「思考」という面からだけ言っておくと、ぼくはたぶん非常に多くの人たちと同じようなことを考えて生きてきたような気がする。「多くの人」というのは、ここでは「同年代の人間」という意味で、小さい頃からぼくは同世代の子どもと同じように世界を見て、長じては同世代の若者と同じように世界を解釈した。彼らが笑う対象にぼくも笑い、彼らが怒る対象にぼくも怒った。大好きなものは、ときどきずれることもあったけれども、しかし大体においてぼくらの関心の対象は一致していたと思う。

でもぼくは、そのことを嘆いたりしない。個性が大事だとか、オリジナルであることを誇りにしなければいけないとか言うけれども、ぼくは皆と同じでよかったと思っている。その点が既に平平凡凡たる由縁なのだけれども。確かに、自分だけの秘密にほくそ笑む喜びは得られなかったかもしれない。でもぼくは、皆と同じ価値観を分かち合い、共に感情を共有する喜びを得ることができた。それは何物にも代えがたいものだから、ぼくはぼくの人生を後悔しない。自分の凡庸さに卑屈になったりしない。

ぼくは自分が「現代の若者」の、ある意味での「代表者」であるという錯覚に捕われたことがあった。いや、代表者と言うと選ばれたような印象を与えるけれども、そうではなく、「現代の若者」像を平均化した性格を持っているのがぼくだと考えていた。優しくて、繊細で、ひ弱で、何を考えているのか分からなくて、キレると怖そうで、大人しくて。もちろん、これはただの自意識過剰なのだろう。そもそも「現代の若者」のイメージは固定化できないかもしれないのだから。

ぼくは後悔なんてしていない。死ぬのはもとより怖くない。ただ死に至らしめる苦痛が怖いだけだ。その苦痛は、ひょっとしたら試練なのかもしれないけれども・・・いや、それは間違っている。苦痛とは単に、生から死へ切り替わるときの抵抗に過ぎない。つまり、慣性の法則。生に慣れた体が死を拒むだけ。もっとも、自ら死を選び取るのはまだ先のこと。でも結局、自分の人生は自殺で終わる気がしてしまう。少なくとも、このままでは。

4年経った

2012-04-13 21:06:47 | Weblog
ブログを開設してから本日で丸4年です。ロシア語の勉強は一向に長続きしないぼくですが、ブログはなんとか一定のペースで続けることができました。継続は力なりと言われますが、この習慣は何かの力になったかなあ。

最近、生活が妙に充実している気がするというのは、ネットで実況プレイ動画を熱心に見ているからです。何であれ、楽しみにしているものがあるというのは、いいことですね。プレイ動画を中心に生活が回転し始めています。いや、これっていいことなのか?

ところで今、かなり苦境に立たされてしまっています。思いがけないというか、やっぱりというか、それみたことかというか、ともかくロシア語に関わることで、かなりピンチになってしまいました。やばいぞ。どうしよう。とりあえず勉強して、それから対策を練らねば・・・どうしようもないと判断した場合は、逃げるって手もある。三十六計逃げるに如かず。

他に何か書こうと思ったことがあったような・・・思い出せないのでまあいいか。

桜を見に川べりへ

2012-04-10 22:56:51 | お出かけ
先日、せっかくだから桜でも見に行こうかな、と思い立って、近所の川まで自転車をこぎました。自転車で20~30分のところにあるその川の両岸には桜がずらーっと並んでいて、8分咲きってところでした。全国的には無名の場所だと思いますけど、たぶん近隣の方々の間では有名なのでしょう、お花見客が大勢いました。屋台まで出ていて、大変な賑わい。おまけに白熊みたいな犬が橋を闊歩していました(花見とは関係ないけど)。

ただ、別に友達と出かけたわけでもないので、自転車を押しながらなんとなく桜を眺めて、それで終了。確かにこれも「花見」には違いないですけれども、でもいわゆる「花見」ではないですね。

あ、こういう記事って、そのときの桜の写真とか載せるべきですよね。でもぼくは、写真を撮ることすらしなかったのでした。カメラ持ってないしな。

う~む、なんだかなあというムードになってしまったところで、今日はおしまい。

桜まつり

2012-04-08 21:32:02 | アニメーション
4月8日13時30分。
聖蹟桜ヶ丘で、『耳をすませば』にちなんだモニュメントの除幕式が行われるということで、行ってきました。ちなみに、本日から聖蹟桜ヶ丘駅の電車接近メロディが「カントリーロード」に変わりました(オルゴール風にアレンジ)。

除幕式の様子を撮影した写真や映像はネットに既にアップされているので、気になる方はそちらをご参照ください(検索すればすぐだと思います)。

30分弱のイベントでしたが、多摩市長や声優の本名陽子さんらが駆けつけ、滞りなく終了。最初にカントリーロードの演奏があり、それから関係者の挨拶が続き、本名さんご自身も歌声を披露されたりして(もちろん「カントリーロード」)、上々だったのではないでしょうか。まあ、ちょっとしたアクシデントもありましたけど、そういうのがあってこそ、印象に残るってものです。

さて、そのモニュメントですが、地球屋をイメージしています。残念ながらジブリ公認のモニュメントではないそうですが、しかしジブリに許可を得て作られたものです。普通の記念碑的なものだと思っていたら、どうやらポストみたいですね。と言っても郵便ポストではなく、青春ポストって言ったかな。自分の夢を手紙に書いて投函してください、というような趣旨のようです。なるほどね。でも本当に投函できるのかな。もしできるのなら、いつかあの「地球屋」が手紙で一杯になったらすごい。

除幕式の後、久しぶりの聖蹟を散策。西口がすっかり変わってしまっていて、例の木の像が隅に追いやられてしまっていて、びっくりしたのですが、それ以外はこれといった違いには気が付きませんでした。ただ、オーパに入っているテナントが数年前に比べてけっこう変わってましたけどね。

今日の聖蹟桜ヶ丘は桜まつりで、たいへん賑やかでした。公園の桜は満開で、花見客も。そして、やはりいつになく「巡礼者」が多い!年間2500人ほどのファンがこの街を訪れるようですが、今日だけでもかなりの数になったのではないでしょうか。一人で来ている人も、二人で来ている人も、数人で連れ立って来ている人もいましたが、なぜか一目で「巡礼者」だと分かってしまう人が多かったです。本当にどうしてだろう。それにしても皆とても若いな!高校生から大学生くらいなのかな。『耳すま』が公開された当時、まだ小学校にも入っていなかったような人たちが多かったです。確実に若年齢層にも浸透しているんだなあ。昔のファンはどうなったのかな。新しいものを好きになるっていうのは、きっといいことなんだと思うけど、でもちょっと寂しいね。だからせめてぼくは、ずっと、ときどきこの街を訪れようと思う。長く急な階段を降りているときに、自分はいつまでこの階段を昇り降りできるのだろうか、と考えました。杖をつくようなお爺さんになったら、この階段や坂道は無理だろうな。では、いつまでこの景色を覚えていられるだろうか、と考えました。そうだなあ。「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで」。そうだな、きっと、この景色は既にぼくの体に溶け込んでいるんだな、深く、奥の方に。

散策はロータリーで切り上げました。駅の接近メロディを堪能して、帰る。

ロシア語で/に耳をすませば

2012-04-07 23:20:28 | アニメーション
リスニングの勉強用に、ロシアで出ている『耳をすませば』を入手しました。他にも日本アニメのDVDを手に入れましたが、ビニール袋に入れられて輸送されてきたためか、一枚はパッケージがばっきばきにぶっ壊れてました。中味は無事そうだからいいけど(まだ確認してないけど)。硬い荷物と一緒に倉庫にぶちこまれてきたんだろうなあ。「割れ物注意」とか、そういうのロシアにはないのか。

で、早速ロシア語版『耳をすませば』を視聴。う~ん、全然分からん。まあでも、いいのです、リスニングの勉強用というのは口実で、ただのコレクションなのです。

ちなみに、ロシア語版は、吹き替えがおざなりというか、一人の人間が何役もこなす感じなんですよねえ。だから、雫の声と夕子の声が同じだったりするのです。声音は変えますけどね。別におざなりというわけではないのかもしれないけど、これって伝統なのかな。登場人物が歌うシーンは、ナレーター(!)が歌詞を早口にまずは全部言ってしまって、視聴者に意味を伝えておく。あとは彼女たちの歌を聴いてね、という方式。う~ん。

それにしても、ちょっとロシア人になった気で映画を観てしまう自分。日本ってかなりエキゾチックですね。不可解な漢字や、可愛らしい制服、団地の細々とした住居、どれもけっこう新鮮。

台詞はだいたい頭に入っているはずなんですけど、ロシア語を聞きながら/読みながらだと、うまく頭の中で再生できない。「クレモーナって、どんな街かなあ。素敵な街だといいね」とか、さささーっとロシア語で言われてしまうと、あれあれ~っとなってあっという間に場面が過ぎ去ってしまう。やれやれ。「荒々しくて、率直で、未完成で。聖司のバイオリンのようだ」という大好きな台詞も、あれあれ~っとなってしまったのは、いかにも悔しい。いかんいかん。こんなんではいかんなあ。

それにしても、このロシア語って、英語版からの重訳なのかな?
そういえば、タイトルは「心の囁き」(直訳)でした。こちらは明らかに英語版からの重訳。

冒頭オリビア・ニュートンジョンが歌っている最中にナレーションが入るのは、無粋。あそこで気分を殺がれてしまいました。いいところなんだけどなあ。・・・自分は日本人でよかったってことにしとこう。