Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

村上春樹『1973年のピンボール』

2008-12-31 00:52:42 | 文学
ぼくは村上春樹の小説はこれまでほとんど読んでこなかったので、来年はたくさん読んでやろうと思っています。彼がノーベル賞を取るまでにはほとんどの小説を読み終えておきたいですね。…これは一種のジョークですが、しかしだいぶ以前から春樹はノーベル文学賞の候補に名前が挙がっていることは有名で、大学の先生の中には、春樹が受賞したときに備えて、新聞社から解説記事を依頼されたときのことを想定して既に文章を書き上げている人もいるそうです。聞いた話によると、ですけどね。

さて、『1973年のピンボール』は春樹の初期作品で、『風の歌を聴け』の続編的位置付け。詳細なストーリーにはここで立ち入りませんが、どちらも二十歳くらいの男性の生活を綴ったものです。それにしても、春樹には文学的なセンスが溢れるほどあります。センス、という抽象的な言い方しかできないのはぼくの語彙の少なさが原因ですが、しかし本当にセンスとしか言い得ないような言葉の選び方、比喩、文章全体の小気味よさが春樹の小説にはあります。島田雅彦は春樹が嫌いらしく、彼の小説を酷評していますが、島田雅彦の『徒然王子』などを読む限りでは、どう見ても春樹の方に軍配を上げたくなります。この小説では作者がユーモアを出そうと苦心しているさまが痛々しいほど感じられ、読むのが辛くなるほどです。

ま、それはいいとして、春樹の小説は無駄が省かれていて、的確な文がきちんと順序よく揃っているという印象。ピンポイントでいま必要な言葉を当ててくる、という感じ。時にリリカルで時に乾いた口調の文章は非常に読みやすく、頭にすんなりと入ってきます。想像を絶する比喩、シュールレアリスティックな言葉の衝突が小説の至上のあり方として称揚されるときもありますが、やはり春樹のような滑らかで人間の感情に訴えかけてくるオーソドックスな文章の方が、長い小説を読むのだったらぼくは好きです。

ところで、映像作家の新海誠が村上春樹に入れ揚げていることはよく知られていますが、『1973年のピンボール』には、新海作品に出てくる台詞がほとんどそのままの形で綴られていました。というよりは、『雲のむこう、約束の場所』には『1973年のピンボール』と同じ言葉が使われている、と言うべきでしょうね。講談社文庫の60ページにそれはあります。「家に帰って服を脱ぐたびに、体中の骨が皮膚を突き破って飛び出してくるような気がしたものだ」。「雲のむこう」では、東京で下宿しているヒロキが自分のアパートに帰ってきたときにこれによく似た独白が流れますね。他にも新海誠の映画で印象的なフレーズを『1973年のピンボール』の中に発見することもあり、これは軽い驚きでした。このようにして、ある作品の中にある何かの感情やリリシズムといったものが別の作品に注ぎ込まれ、そしてそれらは新たな享受者に受け継がれてゆくのだな、と思いました。

読書家の愉悦について

2008-12-29 00:54:53 | 文学
読書家の愉悦について考えてみた。
読書家にとって一番の幸せとは、好きな本を読んでいるときではなく、好きな本について誰かに講釈しているときでもなく、好きな本について空想しているときでもなく、好きな本の感想を書いているときでもないと思う。そうではなく、書店で本を選びそれを購入するときじゃないか?

大学の先生がこんなことを言っていた。曰く、自分の家には可動式の書棚があり、膨大な数の本がある。ときどき親戚が家にやって来てその書棚を見るたびに、同じことを自分に聞いてくる。この本は全部読んでいるの、と。先生曰く、読んでるはずないじゃないか。読むために本を買うわけじゃないんだ!

この先生の言葉に全ては凝集されている気がする。そうだ、必ずしも全ては読むために買うわけじゃないのである。ただ、手元に置いておきたくて、どうしようもなく欲しくなって買うのだ。あるいは、本が自分を呼んでいることがある。「この本はおれに買われるべきだ」ということがときどきある。その筋の人間にとってはとても貴重な本が売りに出されているときなどは、これは他の誰でもなく、まさに自分が買うべきだ、と思うことがある。少し前の朝日新聞で鹿島茂が同じようなことを書いていたから、たぶん多くの人が同様に考えているのだろうと思う。

本を買ってしまったら、もうそれだけで満足して、ぼくはその本を読まない。誰かの作品集だったら、揃えるだけ揃えて、全巻に目を通すわけじゃない。いい本を見つけて購入するとき、それを自分の書棚に納めたときが、非常にわくわくしていて、逆説的な意味で言うと、いわば「読書の愉悦」を味わっている。もちろん、買うだけではなく実際に読む本もたくさんあるけれど、しかし購入した全ての本の割合から言うと、そういうのは少ない。

ただし、こういうことをしていると、どんどん本は溜まる。これが苦悩の種。先に引き合いに出した先生だったら、まだいい。家が広くて2万冊くらいは収納するスペースがあるから。でも、ぼくのうちはどうだ!家も部屋も狭いから、購入できる本の数は限られてくる。せめて5000冊くらいは置けるスペースがほしいのに。1年くらい前に新しい本棚を買ったのだけど、もうそれが本当に限界。その本棚もそろそろ埋まりつつある…。これからどうしようかと、今から思案中。やっぱり一戸建てを建てて書斎を作るしかないのかなあ。うう…無理そう。

アニメ版『動物農場』

2008-12-27 00:20:02 | アニメーション
このあいだ、小説版『動物農場』について書きましたが、今日はアニメ版『動物農場』について。もちろん小説が原作です。

ハラス&バチュラーの夫婦コンビが監督の『動物農場』は、1954年のイギリスで制作されました。原作がソ連を諷刺するものだったため、アニメ化にはアメリカが関与していたそうですが、しかし『動物農場』という作品は、ソ連だけを諷刺するものではなく、凡そ権力構造というもの全般を諷刺する優れた寓話です。

さてアニメ版『動物農場』は、原作の単純化に過ぎない、お世辞にも傑作とは言えない作品のように思えました。ストーリー展開は基本的に原作どおりなのですが、細かな部分で異同がかなりあり、ラストは完全に改変されていました。評論化筋の間で議論が起こるのはどうやらそのラストについてだそうですが、個人的にはそれに至るまでの性格設定にまず問題があるように感じられました。どういうことかと言うと、最初に動物たちが人間の主人を追い出しますが、それはその人間が暴虐で乱暴な、一口に言えば「悪い人間」だから、彼の搾取から脱け出そう、というふうに事が運んでいましたが、そう単純に善悪を決め付けてよいものかどうか、という疑問が残るのです。また、豚のナポレオンがやがて権力の中枢に着くことになりますが、このアニメーションでは、それというのもナポレオンが狡猾なやつで、初めから権力者になろうと企んでいたから、というふうに描かれています。それは違うのではないか。ラストでは、豚の圧制に対し他の動物たちが再び決起するところを描きますが、こういうふうに権力者を「悪者」としてしか描写していないのでは、このアニメーション作品は権力の腐敗全般を諷刺する作品にはなりえません。これでは、悪い奴が権力者になったからそいつを追い出してしまえ、という単なる内輪もめを描いているだけではないのか。

たとえ悪者でなくても、権力の座に着けば、権力者は誰でも傲慢になり、権力は腐敗するのだ、ということを描かなければ、意味がないのではないか。原作に比べ、アニメ版では動物たちの性格が一層誇張され、特にナポレオンは根っからの悪者になってしまっています。権力者になるのは悪い奴だ、だからやっつけろ、という発想はあまりにも貧困で、稚気じみています。1954年という時代を考えると仕方のない面もあるのかもしれませんが、しかしもう少しなんとかならなかったものか、と現代から見ると思えてしまいます。

カラー原画(作画枚数のことだと思う)は30万枚、とパンフレットの解説に書かれていましたが、とてもそんなに枚数が費やされたとは思えませんでした。むしろ、止め絵が多いなあと感じていたくらいで。総じて、個人的にはちょっと残念な出来ですね。本編は74分なので、無駄に長くなくてよかったなと、そればかりが褒める点です。と言ったら皮肉すぎますが。

ちなみに、
「全ての動物は平等である。しかしある動物はほかのものよりももっと平等である」
というスローガンは傑作ですね。後半の文は、「平等」の意味から考えると全くナンセンスな文になっているのですが、それが滑稽で可笑しい。

性格診断とかポニョとか

2008-12-26 01:56:12 | Weblog
ちょっと事情があって、性格診断テストというか、心理テストをやらされたのですが、あまりの分量の多さに腹が立ってきました。二種類あって、片方はそうでもないのですが、もう一方が設問の数なんと225問です!これはいくらなんでもやりすぎだろ…。しかも、重複している設問が複数ありました。これでいいんだろうか、と思いつつ、こなしていきましたが、一時間かかりました。長くて30分と言われて渡されたんですけどね。まだ結果は出ていませんが、やってみて自分でも分かったのは、いかに身勝手な人間か、ということです。愛するより愛されたい、と思う人間です、ぼくは。

ところで今日から修士論文に再び取り掛かり始めました。それに関係する本を読み始めた程度ですが。これでまた、自分の好きな本から遠ざかることになります。合間合間に読みたい小説をできるだけ読んでやろうとは思いますが、果たしてそう器用に専門書と小説とを読み分けられるかどうか。読みたい小説、読まねばならない専門書、洋書、と三種類の本を読みこなしていかねばならないので、本当に大変です。それに専門書と洋書は読んでも書いてある意味がよく分からないことがほとんどなんですよね。やっぱりこういうことをやる職業には向いてないのかなあ、と気落ちするばかり。他の人(主に研究者)がどのくらい理解しているのか、統計を取りたいくらいです。もちろん、中には大変理解しやすく書いてある良心的な本も存在するわけですが。でも少ないですよね、そういうの。

大橋のぞみちゃんのことですが、なんだか『ポニョ』という映画は彼女や彼女の歌う主題歌に食われてしまった形ですね。一部が全体を吸収してしまったというか、凌駕してしまったというか。ところで先日のジブリ汗まみれには彼女がゲストで出ていて、将来の夢を幼稚園の先生、と答えていました。どうして?という鈴木敏夫の問に対しては、小さな子供が好きだから、と。ここで誰もが入れたかったツッコミを入れなかったところは、鈴木敏夫は偉いですね。

松本清張『点と線』

2008-12-25 00:10:43 | 文学
探偵小説はめっきり読まなくなってしまいました。小学生の頃は、あの怪人二十面相シリーズを愛読していて、全46巻を読破したのですが。中学に上がってからは読まなくなり、今に至ります。ただ、小学生の頃は探偵小説は好きだったので、たぶん潜在的にはこういうのが性に合っているのかもしれません。

『点と線』を手に取ったのは全くの偶然で、図書館でぶらぶらと適当に文庫コーナーを眺めていたら松本清張の本が目に入って、そういえばこの人の小説は一冊も読んだことがないな、と思ったことに由来します。一番有名な『点と線』くらいは読んでおこうと決めて、アーサー・クラークの『幼年期の終り』と一緒に借りました。SFにしろ探偵小説にしろ、(最近の)ぼくには縁のなかったものばかりですが、まあ好奇心ですね。

『点と線』、おもしろかったです。会話も多くて読みやすいですし。適宜挟まれる人物の描写も簡潔にして的確。映像の喚起力が強いですね。まるで刑事ドラマを観ているようでした。ただ、幾つか欠陥というか、論理の弱いところもありました。それは、第一に、文庫の「解説」で平野謙も指摘している箇所なのですが、ホームで列車を見通せる4分間に目撃者がそこに到着するのはよしとしても、肝心の目撃される側がその時間にぴったりホームを歩いているというようなことがありえるのか、という点。犯人が色々と工作したのかもしれませんが、説明がなかったので疑問が残ります。ここは読んでいる最中ずっと気になっていたのですが、解説で指摘されているところを見ると、やはり皆同じように感じるのですね。

そして第二に、お時の行動心理。彼女は何のために列車に乗ったのか、ということです。彼女も殺人計画の片棒を担いでいたのか、それとも単純に旅行しようと誘われたのか。後者だとかなり奇妙な旅行になるので疑問が湧いてくるはずだからちょっと考えにくいですし、だからと言って前者だとすれば彼女も悪者になってしまい、またそうならばしかるべき説明が作者から施されてもいいように思えます。結局のところ、理由が分からないのです。

更に第三に、都合のよい出来事が起きすぎていること。刑事がその出来事からヒントを得て推理し問題を解決するのですが、そんなに丁度よく起きるものでしょうか。かなり作為的なものが感じられます。作者の手が目に見えすぎています。

これらが探偵小説としての欠陥に思えました。それと、これは仕方のないことですが、この小説のトリックは現代日本では通用しません。ただそれは残念と言うより、時代を感じさせてかえっていいかもしれません。見せかけの情死という発想も盲点を突いていて、おもしろいですね。時代といえば、五右衛門風呂が出てきたり、改札で駅員が切符を切っていたり、父親の物言いが高圧的で口数が少なかったりと、昭和33年に刊行された小説らしく、懐かしさを覚えました。ぼくはその時代に生まれていませんけれども、なんとなく「昭和」という感じがして、和みますね。

それと、列車がきっかり時刻表どおりに駅に入ってくることを前提としているこの小説は、極めて日本的と言えますね。ただ、いくら日本でも4分くらいの誤差はかなりあるので、ちょっと厳密すぎるかな、という気がしますが。

マトリックス

2008-12-23 00:40:26 | 映画
先日の土曜日に『マトリックス』がやっていました。1999年の作品なんですね。あれからもう9年かあ。つい最近の映画だと思っていたら、時が経つのは早い。当時、学校の先生がこの映画を観て、よく分からないところがあった、なんて言っていたような。それから何年か経った後、大学の先生が、あのカンフー・シーンはどうのこうのと言っていたような。たぶん日本文化が外国に与えた影響(あるいは外国映画における日本文化とか)について話していたと思うので、その文脈で『マトリックス』を出したんだろうな。

『マトリックス』が押井守の影響を受けている、という話は有名ですね。例えば頭の後ろに機械との接続口があるところとか。あとカメラワークなんかがよく挙げられるのかな。格闘シーンは酔拳と日本の漫画のごた混ぜといった感じ。銃弾をすばやく身をかわしてよけるところは、かなり漫画チックですね(体の残像がいくつも見える)。もし銃弾を手で止めてそれを指の力で打ち返したら、完全にドラゴンボールなので、それをやったらおもしろかった。まあ、日本人が見たらギャグにしか思えないかもしれませんが。

さて仮想現実というのはパソコン技術の向上とともに色々なメディアで見られるようになったテーマですが、『マトリックス』はよくできている方だと思いました。どうして人間は仮想現実の世界で生きねばならなくなったのか、という肝心なところを忘れてしまったのですが・・・。ロボットと人間が対立して、太陽エネルギーを必要とするロボットに対抗するため人間は自ら空を雲で覆い太陽を隠し、でロボットは人間を養分とするようになり、人間はロボットによって生み出されるところまでいき・・・それからどうして人間が仮想現実の世界で生きるようにロボットに仕向けられたのか、その理由を忘れてしまった。人間は現実世界で眠らせ仮想現実の夢を見させておけばいいだろうとロボットは考えたのかな。でもそうしたらわざわざ仮想現実をユートピアに近づける必要はないし、なんでだろう(結局ユートピアにはならなかったが)?

アクションシーンは日本人が見るとちょっと馬鹿臭いところもあるんだけど、そういうところも含めてなかなかおもしろかったです。最後の救世主登場のシークエンスなどは、ちょっと感動的でさえあった。すげぇ、強すぎる、と。

ところで今日は寒かったですね。強風と横殴りの雨の中、自転車に乗って帰りましたが、手がかじかんで、家に着く頃には完全に寒さで麻痺していました。昼頃は暖かかったんだけどな。6時半の段階で新宿は5.6度らしくて、体感温度はそれよりずっと低くて3度くらいだったんじゃないかと思っています。ちなみに今ぼくがキーボードを叩いているこの部屋も寒い。

アーサー・クラーク『幼年期の終り』

2008-12-22 00:57:41 | 文学
ぼくはSFは苦手で読まないのですが、今年亡くなったアーサー・クラークは評判が高いですし、新海誠も学生時代に彼の本を愛読していたという話ですし、SFの代表的なものくらい読んでおいた方がいいだろうと思って、手に取りました。『幼年期の終り』は作者の最高傑作との呼び声も高く、SF史上屈指の名作ということなので、これが一番いいだろうと思ったんですね。ちなみにぼくの読んだのは新訳ではなく、ハヤカワ文庫版です。

で、感想なのですが、う~ん、世界観は壮大で、後半には様々な奇観が登場し、プロットも巧みでそれなりに楽しめたのですが、傑作かと聞かれれば、答えを渋ってしまいます。ぼくはSFの知識は皆無で、他のSFと比べられないので、この作品の世界観が奇抜であるのか凡庸であるのかの判断すらつかないのですが、何か突破力に欠けるような印象が残りました。突破力というのはだいぶ抽象的な表現ですが、爆発的な何か、突き抜けるような快楽が不足していたような、そんな気がします。

人類の目的、存在意義といったものが問われるこの作品では、テーマが深淵でSFの枠組みを超越している、といったような評価があるようですが、でも深遠なテーマだったら他の文学ジャンルには腐るほどあるわけで、この小説を称揚する理由にはなりません。その描き方が他よりも長けている、ということは言えるかもしれませんが。突如宇宙から飛来したオーバーロードたちが人類を統治する真の目的が最後まで秘匿され、それが小説の牽引力になっているのは確かで、しかもその目的が人類の存在そのものに関わってくる展開は、お見事です。更に言えば、人類とオーバーロードとを対比させ、進化する可能性のない一方に悲哀を、次の世代にラディカルな進化を託し自らは最後の世代となる一方に終末を用意する手練も、この作品がポエティックと呼ばれる由縁でしょう。

しかし、これらの長所がありながら、どうもぼくはそんなに楽しめなかったです。ペンで書かれた風景描写からSF的な風景を表象することがぼくにはできなかったのか、その風景描写がたとえ図像を結んだとしても、実際にこの目で見るような感銘を受けなったのか、はっきりとは言えませんが、そういうところにも問題があるのかもしれません。SF的な景色は嫌いではないのです。アニメなどで見る分には差し支えないので。ただ、文章で読むと、どういうわけか嘘臭く感じてしまうのです。色々と科学的な説明で裏付けられた未来装置には特に違和感があります。

『幼年期の終り』は、SFが苦手なぼくにとっても楽しめる箇所が幾つもあり、また全体を通して抵抗感も少なかったのですが、どうもその、単純に言えばそれほど好みではないですね…。存在の悲哀とか、遼遠な世界観とか、分かるのですが、いまいち胸に迫ってこなかったというのが本当のところです。なかなか優れた小説であることは認めますが、ぼくにとっては傑作ではないかな。

それと、昔から思っていたのですが、SFが好きな人というのは、たぶん好奇心旺盛で想像力の豊かな人なんだろうな。

レーモン・クノー『地下鉄のザジ』

2008-12-20 00:54:49 | 文学
きのう0時過ぎにブログを更新したはずなのに、表示がどういうわけか1時間ずれて、23時台になっている。それともこっちの勘違い?う~む…

さて、レーモン・クノー『地下鉄のザジ』を読みました。しかし、なんとも感想を書きにくい小説です。レーモン・クノーは『文体練習』で有名なあのレーモン・クノーその人であり、ヌーヴォー・ロマンの代表的存在。ヌーヴォー・ロマンというと、言語実験に終始した筋がないつまらない小説、といった印象がありますが、「ザジ」はいちおう筋があります。それにほとんどが会話文なので、すらすらと読むことができます。翻訳からでは言語実験の実体を明確に知ることはできませんが、定評ある生田耕作訳によって、俗語の言い回しと高雅な文体のないまぜが際立ち、また表現そのもののおもしろさも現れてきています。いつも「けつ喰らえ」を付け足すザジや、いつも「おしとやかに言う」マルスリーヌなどの例は、言葉によるその発話者の性格の形成を意味しているのと同時に、反復による言葉自体の魅力をも表現しているでしょう。「おしとやかに」しかものを言わないマルスリーヌは「おしとやか」以外の性格を剥ぎ取られ、類型的/漫画的な人物に固定されていますが、最後の最後にそのアイデンティティが揺さぶられます。これはまさに言葉によって構築された堅牢な建物(人格)を、言葉によって突き崩す行為だと言えます。最後、マルスリーヌの口調によって、読者は彼女の正体を察するわけです。

取るに足らないような出来事を会話の応酬で描写してゆく前半に対し、後半は得体の知れない人物がついにヴェールを脱ぎ、登場人物たちを混乱に陥れます。終盤には大乱闘もあり、前半に比べて読者を惹き付ける展開になっています。

鳥と人間とがチェンジする純粋な言語遊戯(急にオウムだかインコだかが人間の言葉を話し、人間がその鳥の口癖を言う)などは楽しめますが(ハルムス的ですね)、総じて判断するならば、それほどおもしろい小説ではなかったです。フランスでは刊行当初、ベストセラーになったそうですが、ちょっと信じられません。読み易いことは確かですが、途中で何度も退屈しました、ぼくは。少女ザジの奔放でほとんど破廉恥な言葉使いが爽快感を生むと評判になったようですが、今ではそんなに目新しくはないですからね。こういう、「子供が大人に反発する」式の小説は、よっぽどのことでなければすぐに古びてしまうということでしょうか。『ライ麦畑でつかまえて』などは永遠の青春の書のように謳われていますが、ぼくにはギャップがありましたし。読んだ時期が悪かっただけかもしれませんけどね。

Snow White 白雪姫

2008-12-18 23:14:12 | アニメーション
記念すべきディズニー長編第一作にして、世界アニメーション史上カラー長編第一作。ちなみに長編アニメーション第一作は1926年の『アクメッド王子の冒険』(ロッテ・ライニガー監督)。『白雪姫』は1937年です。カラーで且つ長編のアニメーションとしては『白雪姫』世界初だったということです。よく『白雪姫』は世界初の長編アニメーションだと勘違いをしている人がいるので、お間違えのなきよう。

ご存知『白雪姫』のストーリー。
白雪様がそのあまりの美しさゆえに継母である女王の嫉妬を買い、毒リンゴで眠らされてしまうが、やがて王子様のキスで目を覚まし、王子様といつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ、というお話。

こんな単純な話で80分強ももたせます。映画の主な舞台となるのはドワーフの家。白雪姫が女王の魔手から逃れ、森の中で動物たちに案内されて見つけたのが7人のドワーフたちの家です。その家はものすごく汚れていて、蜘蛛の巣、ほこり、ほったらかしの食器、と今まで誰も片付けたことがないかのようなところなのですが、白雪姫はこの家にはお母さんがいなくて、子供たちばかりが暮らしているのだと思い込んで、勝手に掃除を始めます。家が小さかったので、子供たちが住んでいるのだと思ったわけですね。リスや亀や小鳥などと一緒に部屋をきれいに掃除するのですが、この描写が異常に長い。

やがてドワーフたちが仕事から引き上げてきます。あの有名な歌「ハイ・ホー」を歌いながら。♪ハイ・ホー、ハイ・ホー、仕事が好き…。彼らは部屋がきれいに片付いているのに仰天し、怪物が二階で寝ているのだと思い込みます。わざわざ人の家をきれいにする怪物なんて、おかしいですけどね。それはそうと、二階で眠っている白雪姫を見つけて、すっかり仲良くなってしまうドワーフたちと白雪姫。白雪姫はドワーフたちに食事を作ってやり、食べる前に手を洗いなさいと言いつけるのだが、今まで手なんて洗ったことのないドワーフたちは反対して、でも結局洗うことになり、そして食後は歌とダンス。この過程がもうドンちゃん騒ぎで、やっぱり異常に描写が長い。

女王が老女に変身して白雪姫に毒リンゴを食べさせてからは、あれよあれよという間に話は進みます。仕事に出かけたドワーフたちは、危険を察知した動物たちに家へ引き戻されます。老女が白雪姫に毒リンゴを勧めるシーンと動物の背に乗ったドワーフたちが家に急ぐシーンとが交互に挿入され、緊迫感を高めます。老女は仕事を済ませた後、家の前でドワーフたちに見つかり、崖の上まで追いつめられ、落雷のショックでそこから転落します。眠り続ける白雪姫をドワーフたちはガラスの棺に納めて時が過ぎてゆく…というナレーション。やがて王子がやってきて、白雪姫は目覚めます。再びナレーションが入り、終幕。いつまでも幸せに暮らしましたとさ。

どう考えても、物語の進行の時間配分がアンバランス。たぶん普通の作劇法であれば、ドワーフの家での描写(掃除をしたり手を洗ったり)はもっともっと削減されるはずです。変わりに重きを置かれるのは王子の描写。白雪姫が眠りについた後、主役の座をいったん王子に譲り、彼にカメラを合わせるはずです。彼が白雪姫に恋焦がれていること、白雪姫が眠りについているとの情報を知るところ、それから白雪姫の元へ馳せ参じるまでの旅、そうしたくさぐさを描写するはずです。しかし、それがない。その理由の一つはたぶん王子のアニメートが困難だったからでしょう。特典映像で語られていましたが、男性のアニメートの困難さゆえに王子パートはかなり削られたそうです。白雪姫が眠りについた後の「王子編」が存在しないのは、そういった事情があったからかもしれません。

現在の商業映画で見られるようなハイ・テンポなストーリ展開は『白雪姫』にはありません。だから今の観客は飽きてしまう可能性もあります。それに、どうせ誰でもよく知っている話です。では、どこを楽しむべきか。恐らく、白雪姫とドワーフのアニメーション表現です。分かりやすく言えば、「動きのおもしろさ」です。本当に奔放な動きをする、少し滑稽なドワーフたちと、滑らかで優雅な白雪姫。そのアニメーションは、いま見ても古びていないどころか、アニメーターの目標足りえています。すごいですね。

ところで、この映画にはのろまな愛すべき亀が登場しますが、これは手塚治虫の漫画に登場するやつとそっくりです。ディズニーファンだった手塚治虫はここから採ったのですね。彼の未完のアニメーション『森の伝説』などを観るとその影響は明らかですが。

1937年にこれほどの技術があったというのは正直驚きです。その頃の日本のアニメーションなんて、ほんとにつまらないものが多かったですからね。観るのにはかなりの忍耐を要しましたよ。かつて、確かにディズニーは偉大だったのでしょう。完全に群を抜いており、圧倒的ですね、これは。

特に感心した点。
1、鏡の主(?)の表情。炎がめらめらと鏡の中で燃え上がり、緑色の不気味な仮面のような顔が現れて、真実を告げる。あのゆらめき、CGがないのにすごい。
2、井戸の底から白雪姫を撮るカット。意表をつくカットですね。それに溜まった水の表現が秀逸で、水溜りなどもそうなのですが、じんわりとやはりゆらめいている。ああいうのは特殊な撮影技法で出せるのかな?専門家の解説を聞きたいところ。

タブッキ『インド夜想曲』

2008-12-18 00:00:00 | 文学
『動物農場』と『私のなかのチェーホフ』の間に読んだ本だから、アップする時間が前後してしまいましたが、やっとここに。タブッキの『インド夜想曲』です。

何年も前から読んでみようと思っていた本で、楽しみにしていたのですが、しかし結果はそれほどおもしろくなかったです。「僕」が失踪した友人を探してインドを旅して回る、というのが本筋で、各章ごとに色々なエピソードが語られるという構成が原則なのですが、魅力的なエピソードもあれば単なる状況描写の域を出ないようなエピソードもあり、連作短編集になり切れない長編、長編になり切れない連作短編集、のような曖昧な印象が残ります。もう少し強烈でどぎつい、もしくは儚げで切ないエピソードを連発すれば、読後感も違ったものになったことでしょう。

さて、その読後感ですが、この小説は最後に大どんでん返しが待っており、狐につままれたような気分になる人がたくさんいるはず。しかし、これに似たオチはボルヘス『伝奇集』の中の一編「刀の形」で既知のものであり(ぼくの場合はごく最近知ったのですが)、目新しさは感じませんでした。で、悪いことに、そればかりか、こういうからくりを使いたいのならこれほど話を長くしないで、ボルヘスのように短編の形で表現すればいいじゃないか、とすら思ってしまったのでした。オチに斬新さがなくても物語中のエピソードの豊かさで勝負ができていればこうは思わなかったでしょうが、先ほど述べたようにエピソードの力が弱いので、オチてなんぼ、という小説に感じられ、それだったら短編でいいよね、と思ってしまったわけです。

『インド夜想曲』は決して長い小説ではありませんが、さりとて短編の枠にも収まりません。短編の魅力を掴み損ねた、かといって長編の魅力も薄い、なんともアンバランスな小説になっているような気がします。

ここではちょっと酷評しているようですが、タブッキの評価は国際的にとても高いものと認識しています。また、『インド夜想曲』が他の多くの小説に比べて劣っているとも考えていません。ただ、ぼくにはそんなにおもしろくない小説だったということに過ぎません。今度、彼の別の小説にもチャレンジしてみるつもりです。それでぼくのタブッキへの評価が定まる…そんな気がします。

WALL・E ウォーリー

2008-12-17 00:51:49 | アニメーション
観てきました。
新設された新宿ピカデリーにて。ここはものすごくきれいで、広くて、駅の近くにこれだけ大きな劇場ができるのはうれしいですね。コマ劇場にはスクリーンの小さな劇場が多いですが、ここは大きかったです。まあ、スクリーンが幾つもあるいわゆるシネコンなので、他のスクリーンもこれと同程度かどうか分かりませんが。
なお、オープン記念で1000円で観られるチラシが家に入っていたので、それで観てきました。HPからはクリスマスサービス券などがダウンロードできたと思います。それに、一度鑑賞すると、もう一枚の1000円で観られるサービス券がもらえます。

さて、席について、照明が落ちて、予告編が始まったのですが、これにはうんざりさせられました。時間も全てひっくるめて20分あり(ちゃんと計りました)長いのですが、それより何より、内容がお子様向けなのです。ぼくは『ウォーリー』の吹き替え版を観たのですが、字幕版でもこんなにお子様向けだったのでしょうか。ドラえもん(すごい、一発変換だ)、たまごっち、ヤッターマン(これは変換できず)、更にはナントカレンジャー…。普通の映画の予告編ではないのです。新宿ピカデリーでは、『ウォーリー』はお子様向けの映画として認識されているのでしょうね。吹き替え版がいけなかったのかもしれませんが、ぼくの持論として、「アニメーションは吹き替えで観るべし」というのがあって、どういうことかと言うと、アニメーションというのはやっぱり動きが命なので、字幕に気を取られて映像に集中できないのはよくない、と思うのです。全ての外国映画に共通することかもしれませんが。ま、外国語を聞き取れればいいんですけどね。ただ、今回は失敗だったかもしれません。予告編がお子様向け過ぎた理由にはなるかどうか分からないのでそれはおいておいて、そうではなく、『ウォーリー』という映画は声が少なくて、あまり吹き替えにする意味がないのです。それと、映像の中の英語までも日本語表記にしてしまっているのはやりすぎだと思います。例えば看板に本当だったら「Attention」とあるべきところを、「注意」に直してしまっているんですね。これは、オリジナルに手を入れていることになるし、外国の映画という感じがなくなってしまうので、ちょっとなあ。

あまりにも前置きが長くなってしまったのですが、肝心の本編の感想をここらで。
本編もお子様向けかな、という印象です。「ポニョ」も小さな子供向けだ子供向けだと言われていたわりに、ぼくは特別そう感じなかったのですが、『ウォーリー』ははっきりとそう感じます。単純な物語に単純なテーマ、そして教訓がある、という現代的な童話みたいな話です。ピクサーもこの程度かあ。どうしてこんなおもしろくもないテーマにするのかなあ。アニメーションは子供のもの、という固定観念からアメリカは脱け出せないでいるのでしょうか?

いちおうストーリーを紹介しておくと、地球に一体だけ残されたゴミ処理ロボット(ウォーリー)の元へ、ある日宇宙船がやって来て、そこから最新式の真っ白なロボットが出てくる。彼女の名前はイヴ。ウォーリーが見つけた新芽をイヴにプレゼントすると、彼女は動かなくなってしまう。まもなくイヴにお迎えが来て…という話。いいか、ここから先も書いてしまおう。ウォーリーはお迎えの宇宙船につかまってそのまま宇宙へ(さすがロボットだから可能なのか)、それから巨大宇宙船に到着するが、そこは人間が大勢暮らす場所だった。そこでは人間は常に椅子型の乗り物で移動し、決して歩かないから、全員が太っている。ウォーリーはイヴを追って、お決まりの大騒ぎ。実はイヴが派遣されたのは地球で植物が育っているか確かめるためで、確認された今、人類は再び地球に帰還することになる。ところがそこに邪魔が入り、ウォーリーとイヴは追われる羽目になり、でも最後はなんとかなって結局地球に到着。人間は大地に足をつけて歩くべきだ、というお話ですね。ウォーリーとイヴとの友情のことは書きませんでしたが、そこがこの映画の最大の見所ではあって、前半はウォーリーのイヴへの、後半はイヴのウォーリーへの想いが軸になっています。ここが泣かせどころですね。

いい話であることは確かですが、それだけって感じですね。映像はよくできています。どれを取っても平均値は越えているのかもしれませんが、個人的には何か秀でたところのある映画が好きなので、物足りなかったです。ただテーマは今更こんなことをなあ…という気はしますね。ナウシカの後にこんなアニメーションを作ってはいかんと思うのです。

ちなみに、エンドロールのときの映像はよかったです。

篤姫が最終回

2008-12-15 23:52:00 | テレビ
最終回だった『篤姫』、見ました。平均視聴率は1996年の『秀吉』以来の高さだったそうです。『秀吉』は30%もあったそうです。『篤姫』は30%の大台にはついに達しませんでしたが、最後の一ヶ月はそれに迫る勢いでした。今回の最終回も28%台。

それはそれとして、一年間、毎週欠かさず見ていましたが、おもしろかったです。特に最終回は、万感の思いと言うのでしょうか、見ていて泣きそうになるシーンが二箇所ありました。一つ目は、母娘の対面。離れ離れになり、もう二度と会うことは叶わないと思われた人たちに再び会えるシーン。なんというか、ぐっときましたね。二つ目は、ラストの篤姫がゆっくりと瞳を閉じるシーン。ここは、思いがけず、本当に思いがけず、嗚咽が洩れそうになりました。こんなことってあるんですねえ。

視聴率もよかったし、おもしろいと評判なので、今回の大河ドラマが特にいい出来だったと思われる方もいらっしゃるでしょうが、でも個人的にはそれほど突出していたとは思っていません。前田利家や山内一豊(漢字はこれで正しいの?)や義経は篤姫と同じくらいおもしろかったです。特に『義経』ではカメラが凝っていて、場面場面が一幅の絵のようで、光と影のコントラストが強調されている、美しいカットの連続でした。だから、どうして今回だけこんなに評判になったのか、ぼくにはよく分かりません。女性の心をつかんだ、なんて言われ方をよくしますけれど、そうなのでしょうか…。

けれどそうは言っても、やっぱりおもしろいことには変わりありませんでした。本当に数奇な運命だったのだなあ、と感慨が残ります。それに、和宮も似たような人生を送ったのですね。その運命における偶然の対比も興味深かったです(演出で対比させているのではなく、もともとの運命が対比的だということ)。

話は戻り、1996年の『秀吉』について。これは竹中直人のものすごいエネルギッシュな演技がとにかく強烈で、非常に楽しめましたね。
話は進み、来年の大河『天地人』について。またしても武田と上杉の時代のようですが、それは去年やったばっかじゃないか!と思っている人はたくさんいるはず。あの時代はどうも暗くて田舎臭くて、ちょっとなあ。信長と秀吉が活躍する少し前なんですよね。その泥臭さを不潔だと思われないように演出して欲しいです。
更に次の大河は『竜馬伝』。あの福山雅春が主演。竜馬って感じじゃないけど、大丈夫かなあ。

『私のなかのチェーホフ』

2008-12-15 02:05:19 | 文学
「書きたいことがありすぎてまとまらないんだ」。

今のぼくの心境です。なおこの台詞の出処が分かった人はなかなかのものです。是非お友達になりたいですね…

それはともかく、何から書こうかまだ迷っています。『篤姫』の最終回のことも書きたいし、ジブリ汗まみれにも言及したいし、題名に挙げた『私のなかのチェーホフ』についても、そしてタブッキの小説についても書きたいのです。

でもとにかくこの題名通りの文章を書くことにします。後のことは完全にはしょり、別の日に回しましょう。

リジヤ・アヴィーロワ『私のなかのチェーホフ』(群像社、2005)。
ぼくはこの本を読んで有頂天になりました。なんておもしろいんだ!きのう、ジョージ・オーウェルの『動物農場』の感想で「途中で一度も飽きずにこんなにもすらすらと読めたのは、久しぶりです」と書きましたが、今の気分はこうです。「こんなにもぐいぐい引き込まれながら読めたのは、久しぶりです」。

この本にはアヴィーロワの短編が3つと、『かもめ』初演についてのアヴィーロワの短文と、チェーホフからアヴィーロワに寄せた手紙が何通かと、そして「私のなかのチェーホフ」と題された長い回想記が収められています。圧倒的におもしろいのはこの回想記。ぼくは実を言うとチェーホフに関してはかなり詳しくて、関連文献をたくさん読んでいるので、当然この回想記のことも、どういう内容なのかも知っているのですが、恥ずかしながら今まで読む機会を得ず、今日こうして初めて読むことになったのですが、こんなにおもしろいとは予想していませんでした。内容はまさしく「チェーホフとの恋」が綴られており、チェーホフとの馴れ初め(夫婦や恋人でない場合にもこの言葉を使っていいのかな)から彼の死の報に接した頃までのことが事細かにエピソード豊かに記されており、チェーホフ・ファン垂涎の回想記です。ところが解説にもありますが、研究者の間ではこの回想記は眉唾物だと断じられていて、というのもアヴィーロワが言うには彼女がチェーホフに恋していたのみならず、チェーホフもまた彼女に恋していたということになるのですが、そんなのは彼女の勝手な推測か創作に過ぎない、とみなされているのです。ぼくもこれまでは研究者がそう主張するのならそうなのかなあ、と漠然と思っていたのですが、この本を読んで、そんなもやもやした思いはすっかり消し飛んでしまいました。チェーホフの恋を信じきっているわけではないのですが、でもアヴィーロワが今まで言われてきたような自己顕示欲の強い女性だとは思えなくなりました。解説でも触れられているようにブーニンがアヴィーロワを支持していたことは有名ですが、ぼくもどちらかと言うとアヴィーロワ寄りです。

それにしても、この回想記は、チェーホフ全集を読破した人にのみ与えられる至福の書です。これまで知識としては知っていた色々なエピソードや短編小説が、この回想記ではまさにチェーホフとアヴィーロワの生活の中に息づいており、新しい生命を獲得しています。そうだ、今までは魚拓でしか知らなかった魚を、水の中に見出したようなものです。本当にうれしくなりました!あの有名な『かもめ』と仮面舞踏会のエピソードをアヴィーロワ自らの回想記で読めるなんて、幸せだあ。チェーホフにある程度肩入れしている人でなければ、このような幸福な気持ちにはなれないでしょう。だから、この本はチェーホフ初心者には薦めません。翻訳されているほとんどの作品や手紙に目を通した人こそが最良の読者です。

それにしても、トルストイがさりげなく登場して、入院しているチェーホフが面会謝絶でないとアヴィーロワから聞かされると、「明日にでも見舞いに行こう」と告げるシーンなど、ぼくは声に出して笑ってしまいました。本当に声に出して!なんで笑ったのか?たぶん、トルストイのそのあまりにもさりげない登場の仕方(「かのトルストイが」などと持ち上げたりしない)や、面会謝絶でないと知ればすぐに「明日にでも見舞いに行こう」と言うその子供のような素朴さが、大トルストイというイメージとのギャップの大きさゆえに、おもしろく感じてしまったのだと思います。

なんだか、チェーホフやアヴィーロワのことを知らない人にとっては、ぼくのここまでの文章はちんぷんかんぷんかもしれませんね。二人の関係すらぼくはまだ書いていないのですから。でも、事実説明をする気にはなれないんです。ただ、読後の余韻に浸っていたくて…たゆたっていたい…

アヴィーロワの短編小説にもほんの少しだけ言及しておきます。とてもチェーホフ的です。特に最初の「不慣れ」という小説は。人間の感情の機微の描き方、文章、構成、チェーホフの小説だと言われても、知らなければ信じてしまいそうになります。もっとも、次の「忘れられた手紙」はそうではありません。最後の「権力」にはチェーホフの影響を感じます。いずれも一定以上の水準には達しているようにぼくには思われます。

ちなみに、『私のなかのチェーホフ』という本は過去に何冊も出ていて、この本の出版された同じ年(2005年)にも刊行されています。つまり、同じ内容の本が二冊ほとんど同時に世に出たという奇妙なことが起こったのです。これは、前年の2004年がチェーホフ没後100周年の記念の年であり、チェーホフ関連の本の刊行が相次いだことと関係しています。なお、その本の題名は『チェーホフとの恋』。原題が『私の生活のなかのチェーホフ』と言うので、かなりの意訳ということになりますね。ぼくはどちらも持っています。片方あればいいじゃないか、と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし群像社版にはアヴィーロワの小説が同時収録されているし、『チェーホフとの恋』は注が詳しく、また独自の解説があります。二つとも欲しかったのです。…というのは半分ホントで半分ウソ。実のところは、題名が違うものだから、別の本だと思って二冊とも購入してしまったのでした。

J・オーウェル『動物農場』

2008-12-14 01:12:09 | 文学
『動物農場』(角川文庫)を読みました。
収録作品は、「動物農場」「象を射つ」「絞首刑」「貧しいものの最期」。
「動物農場」の他は短編です。

ジョージ・オーウェルのこの本はどこで購入したものだか今ではとんと忘れてしまっているのですが(どうせブックオフかなあ)、かなり前からこの作家の小説を読みたいと思っていました。特に『1984年』が有名なのでそれが一番読みたい本だったのですが、どうも手に入る機会が今のところなく、『動物農場』に落ち着きました。しかしオーウェルの小説と言えばやはりこの二冊なので、その一方を読んでおくことは、まあ教養として、いや自己満足として役に立つかな、と思います。

前置きがだらだらと長くなりました。実は『動物農場』をいま読もうと思い立った直接的な動機があって、それはこの小説を原作とするアニメーション映画がもうすぐ公開されるからです。と言っても、その映画はだいぶ前に制作されたものなのですが。ともかくハラス&バチュラー監督のこの映画を観る前に、予習しておこう、というわけです。

この小説がソ連を諷刺した動物寓話であることは事前情報として知っていましたが、細かいところは何も知らず読み始めたところ、思ったよりもおもしろい。というか、すらすら読めました。途中で一度も飽きずにこんなにもすらすらと読めたのは、久しぶりです。

農場で人間に飼育されていた動物たちが反乱を起こして、主人である人間を駆逐したのちに、動物が主人である王国を作ろうとしますが、しかし理想の国家などは夢物語で、豚が人間に代わって権力者の後釜に座っただけだった、という話。この小説は確かにソ連を諷刺しているようで、スターリンやトロツキーに当たる動物が登場し、その独裁者ぶりは目に余るほどですが、しかし訳者が解説で述べているように、これはある特定の社会構造のみを諷刺しているのではなく、権力構造そのものを暴き出している、と言えます。凡そある集団が持続的に団結して何事かを成そうとするとき、必ず辿るであろう過程を描出している、と言った方がいいでしょうか。初めは理想があり、平等がありますが、次第に規則が歪められ、デマが飛び、意見に相違のある者は放逐され、暴虐、制裁が君臨します。その過程は残酷と言うよりむしろ滑稽とさえ言えると思います。ぼくは「動物農場」を読んで、高畑勲の「ぽんぽこ」を思い出しました。あれにも、狸の集団が分裂したり独裁者が出現したりといった権力構造が描かれていて、ひょっとすると高畑勲は「動物農場」を参考にしたのかもしれないですね。

この小説で最も印象的だったのは、頭は鈍いものの誰よりも働き者である雄馬ボクサーの純朴さと、そして彼が連れて行かれそうになるときに、いつもの皮肉な態度を一変させて興奮して「全速力ですっ飛んでくる」ロバのベンジャミンの姿です。滑稽さやある種の恐怖感に似たものが充満するこの小説の中で、唯一の感動的な要素だと言っていいでしょう。

さて、「象を射つ」と「絞首刑」は、作者オーウェルがビルマで働いていたときの体験を題材にしている短編で、どちらもビルマが舞台です。短編としての魅力があり、なかなかおもしろいです。「貧しいものの最期」はパリ(なぜか翻訳では「パリー」と表記されていて、ぼくはこれがフランスのパリだとは最初気付かなかった)での「わたし」の入院生活を描写しています。陰鬱で不潔な監獄のようなその病院での生活の模様を詳細に記していて、これはこれで非常に興味深い小説だと言えます。一種のルポルタージュに近いかもしれません。幾つかの文学作品の例を出して19世紀の病院の非人間的性格を指摘するところなどは特に興味深いですね。

ところでこの本は訳者の解説が揮っていて、実に50ページあります。これに加えて開高健の解説と年譜、「あとがき」が合わせて20ページ。小説の文庫本でこれほど解説が充実しているのは珍しいのではないでしょうか。解説と言ってもジョージ・オーウェルの伝記のようなもので、やはりすらすらと読み進められます。全てひっくるめて言うのですが、お薦めできる本です。

スタジオパークに宮崎あおい

2008-12-13 02:01:25 | テレビ
今日、12日金曜日のスタジオパークに宮崎あおい(以下あおいちゃんでいいよね)が出演していました。ぼくは彼女が前から好きで、と言っても『純情きらり』で彼女のことを知ったのでそれほど年期は入っていませんが、とにかく好きなので大変驚き且つうれしくなりました。スタジオパークでは、普通、ゲストがインタビュールームに行くまでに一般のお客さんたちの間を通るのですが、その際、お客さんたちからたくさんの握手を求められることがほとんど恒例となっていて、それで歩くのがどうしても遅くなってしまいます。ところが、今日のあおいちゃんの場合、誰も握手を求めようとはしませんでした。どうして?こんなに人気がある(はず)なのに…と初め訝しく思いましたが、ああそうか、予め規制がかかっていたんだ、と考えました。つまり、たぶんお客さんが握手を求めていつもよりゲスト(あおいちゃん)に殺到することが予想されるので、そういうことはしないで下さい、という禁止のお達しがあったのだ(たぶん)!

さて、インタビューは当然『篤姫』のことで、自分と篤姫とは同じようでいて、でも違うという客観視もできている、というようなことを言っていました。以前、同じスタジオパークで、橋爪功から「役者というのは役になりきってはいけないんだ」とアドバイスされたという話を柊瑠美がしていましたが(『すずらん』の頃ですが)、それを思い出しました。

それにしても、あおいちゃんは本当に可愛くて、『純情きらり』のときはそのあまりの可愛さゆえに彼女がアップで映っているときはテレビ画面をぼくは正視できなかった、ということを以前このブログに書いた覚えがありますが、それほど可愛くて、『純情きらり』以来一遍に好きになってしまったのでした。

今日のあおいちゃんはとても涙もろくて、インタビュールームに入るなりもう泣いていました。『篤姫』の撮影が終わってから、涙もろくなってしまい、大変に感じやすくなっている、とのこと。番組の最後でも泣いていました。泣きっぱなし。今は蓄える時期なのだそうです。この感じやすい時期に、なるべくたくさんの本を読み、お芝居を見て、勉強しそれらを吸収するのだと。立派な心掛けですね。

ところであおいちゃんは『篤姫』で一番印象に残ったシーンとして、前回の放送の小松帯刀との会話シーンを挙げていました。彼は自分のかつての恋心を打ち明けた後、篤姫に尋ねます。もし養女の話がなかったら、自分と結婚してくれましたか、と。このシーンは前前回の放送の予告でも出てきていたので、ぼくはそのとき篤姫の答えを予想しました。彼女はこう答えるはずだ、いえ、家定様と結ばれる運命だったと思います、と。実際には、篤姫はこう答えました。夫・家定と相談いたします、と。なるほど、これしかない、と今なら思えます。あおいちゃんは、この応答を帯刀との関係の集大成だと呼んでいましたが、そればかりでなく、家定との関係の、そして篤姫という女性の生き方の集大成であるように思えます。好きになった人をいつまでも想い続けることは、一本筋の通った真直ぐな生き方の反映だからです。しかも、はっきりと否定せずに、やんわりと否定するその答えは、品があり、成長した篤姫の姿を印象付けます。

そういえば、先日の朝日新聞の投書欄に、今の若い人たちにはかつて日本人の持っていた鼻濁音の発音が見られず、ドラマで篤姫もまた鼻濁音のない発話をしているのを聞くのには軽い忍耐を要した、という意味のことが述べられていましたが(ちなみにこの投書は別に『篤姫』を攻撃するものではなく、鼻濁音のなくなった現代を嘆くものです)、こうした事態を憂慮するのは「私だけだろうか」と結ばれていて、ぼくは即座に思ったものです、「あなただけだ」と。まあ色々な人がいるので実際には他にも憂慮している人が大勢いるのかもしれませんが、そのせいであおいちゃんの声を聞くのに忍耐を要するのでは、ちょっと可哀想な気がします。でもしかしこれは、完全な脱線でした。

あおいちゃんは、映画、NHKのドラマ、CM等に出演して、民放のトレンディドラマには出ませんが、こうして大女優になっていくんだなあ、と思います。来年には舞台があるそうです。40年後、どんな女優になっているんだろうなあ。