Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

来週の予定

2014-02-25 00:45:17 | Weblog
バシッと決まりました。
会ったことのない人たちと会ってきます。
どんな人たちなのかは大体知っていますが、なんか凄そうな面々なので、既に怖気づいています。戦々兢々です。気の利いたことは言えないと思うので、幻滅されると嫌だなあと。

その輪の中ではぼくだけ異色の存在で、最近は文化的な営みにも参加していないし、ああ不安だあ。でも楽しみだあ。

今年の予定が幾つか固まりつつあり、それに向けて準備しています。新世界が待っている。

タンブラーとか

2014-02-20 00:11:18 | Weblog
このブログ、不要というか不快な機能が実装されてきているので、嫌だなあと思うことが去年くらいからあります。あとツイッターとかに比べて反響が少ないこととか、手応えを感じられないので、どうもやる気がなくなってしまったり。

何年も前から、タンブラーを試したい気持ちがあって、数年前に日本語版もできているので、ときどき思い立ってタンブラーの評判を見たりするのですが、これってやっぱりSNSの延長なんですよね。そこまで繋がりたいと欲しているわけじゃないというか、いや繋がりたくはあるんだけど、自分から繋がろうとするのがめんどいというか・・・。

他の人のブログ見るのって、けっこう時間を取られたりするので、ぼくは数人の人のをチェックするので精一杯です。これ以上は増やせない。10人以上のブログ主と繋がるのって、やっぱりけっこう負担だと思います。それに、自分からアクションを起こさなくてはいけないこととか。義理で「いいね」を押したりとか、絶対嫌なんだよなあ。繋がろうとする方向性はいいんですが、やり方が間違っている気がします。なんか村社会の不文律を守らないと駄目みたいな空気があって。

だからタンブラーにはなかなか手が出せない・・・。

一から関係を構築していくのがめんどい。

っていうか、頭痛い。この部屋ペンキ臭くて敵わない。

小説を読む

2014-02-16 23:36:08 | 文学
人から読むよう頼まれていた原稿を読んだ。人というのは最近知り合った人のことで、作家を志している。原稿というのはその人の書いた小説のことで、200枚を優に超える。

その人の別の小説を以前読ませてもらったことがあって、それは大変すばらしい出来だった。でも何かの文学賞で最終選考まで残らなかった作品とのことだった。ただ、ぼくはその小説にいたく感心したので、感想をその人に伝えた。その感想を気に入ってもらったからなのかどうか知らないけれども、ともかく今回新しい作品を読んで下さいと言ってきてくれた。



一つの対象がある。その対象をキャンバスに写し取ろうと、なるべく正確にそれを模写する。でもそれはあくまでいまここにいる自分の視覚によって捉えられた対象に過ぎないから、対象を正しくキャンバスに写し取ることはできない。そこで、別の視座から見られた対象をもキャンバスに描くことにする。それを何度も何度も繰り返す。一つのキャンバスの中にその行為の結果を反映させれば、キャンバスの中には対象の多面性を目指した、対象とは似ても似つかない代物が描かれているだろう。

この実験を仮に「空間的」と評することが可能だとしたら、その人の小説は「時間的」と形容することができると思う。つまり、その人の志したのは、対象の時間的多面性だったのではないだろうか。存在の可能性と不可能性を巡る話だったと思う。しかしながらそれは急進的な実験性を前面に押し出してはおらず、読み物としても楽しめた。

巨大な才能と思考力だ。実力的にはいつデビューしてもおかしくない(そしてデビューしたらいきなり一線級の作家になれる)。あとは評価する側の問題だと思う。

国語辞典

2014-02-15 00:58:53 | Weblog
「既にして」という言葉って意外と知られてないみたいで、馴染みがないという人たちがいたから、漢語表現とかでよく使いますよって言ったら、辞書に載っていないんですと返された。へー、そうなんだと思って、でも小学館の日本国語大辞典には載ってるんじゃないのかなあと思いつつ、まあいいやと思って帰宅して、さっき手元の辞書を見てみたら、普通に載ってるので、なんでってなった。一体どの辞書に掲載されてなかったんだろう・・・むしろそっちの方が気になるぞ。

それはさておき、早く帰ろうと思って学校帰りには使わない(でも速い)電車に乗ろうとしたら、ものすごい遅延してて、ものすごい混んでた。やっと乗車できたと思ったら、次の駅で車外に吐き出されて、そのまま乗り込めなかった。で、また次の電車待ち。しかもそれが緊急停止信号を受信したとかでなかなか来なかった。ちっ。

雪がすごい降ってた。まだ降ってんのかな。・・・降ってた。

登校

2014-02-14 00:00:01 | Weblog
明日は昼間から大学で用事があるのですが、ついでに気になる雑誌も読みたいので、午前中に行かなけりゃ。まず図書館行って、それから用事。

いつ終わるのか分かりませんが、明日は雪だって言うじゃありませんか。帰りが遅くなればなるほど雪に難儀する可能性が高まりますね。まあいいんだけど。

ともかくそういうわけなので、今日は早く寝ないとな。

ああなんか諸々めんどいなあ。気持ちの浮き沈みが激しいなあ。
さっき、「今付き合っている人たちの方が百倍価値があった」という一文を目にした。ぐっとくる。ぐっとこない人はいないんじゃないかって思うくらい、ぐっとくる。言葉というのは、文学というのは、人というのは、権威から顕彰されたものがすばらしいのではない。権威ができるのは、新たな権威と落ちこぼれを作ることだけだ。たとえ落ちこぼれが権威にまで這い上がったとしても、この権威システムの維持と強化に加担しているに過ぎない。のし上がるということは、他者を排除することだ。新たな「落ちこぼれた自分」を生み出すことだ。自分だけが這い上がろうとする限り、その人は他者を排除し続ける。辛かった頃の自分の気持ちを他者に味わわせることになる。悔しさは力になる、努力は皆に平等、そういった文言は、自分自身を正当化するための欺瞞に思えてしまう。

ぼくは負けた。だから勝ちたいと思う。でも次勝ってしまったら、あの負けたときの屈辱を誰かに味わわせてしまうことになる。それは許されることなんだろうか?悔しさは力、努力は平等。そう言ってぼくは自分を正当化したくない。その正当化によって、どれだけの屈辱を強いられたか、ぼくは忘れてしまったのか?それは忘れてはならないし、忘れていない。そして忘れていないのならば、同じことはできない。悔しさを晴らすことによって、新たな悔しさが生まれる。いや、生む。このサイクルに加担したくない。もう嫌だ。

「今付き合っている人たちの方が百倍価値があった」。世に知られていない人の言葉だけれども、偉い作家は見向きもしないような言葉だけれども、こういう言葉を掬い取っていきたい。

タイトル入力めんどくさいな

2014-02-13 00:40:16 | Weblog
ここ2年くらいの間、自分が考えていたこと(システム)が、既に環境として整えられてきていることを知って、驚愕の一日。ぼくの知らないところで色んなことが変わり、動いていた。こういう変化をぼくは歓迎したいし、できればコミットしたい。「既存のシステムなんかおれがぶっ潰してやんよ」とある人が言ったとか言ってないとか(本当は言ってないらしいけど)、まあとにかく今は確かに色んなことが動いている。

こういうことは、ぼくのような「大衆」の構成員が集まってあれこれ考えていても駄目で、一人の「天才」を待たなくてはならなかったわけだけど、でもその「天才」だけでも駄目で、大衆の要求が高まっていなくてはいけなかった。また「環境」も整っていなければならなかった。

いま、最低限の「環境」、それから「大衆」、そして「天才」という条件が揃った。幸か不幸かぼくには守るものなんてないし、どうせ終わりの中を惰性で生きているだけなので、このチャンスには全力を尽くして乗っかるしかないと思ってる。

最初は皆から馬鹿にされると思うけど、というかたぶん最後まで馬鹿にされると思うけど、そもそも人のことを馬鹿にする人にぼくは関心がないのだ。

とりあえず5月を目処に、打って出ようと思ってる。どうせ破滅を待つだけの人生だったんだ。おもしろいことをやってみようじゃないか。まるで少年時代みたいに。

エッセイ3

2014-02-12 02:22:53 | Weblog
古書店から頼まれていたエッセイ、とっくに送っていたのですが、どうやら発行はソチ閉幕後らしいので、書いたものを書き直すことにしました。でもこの際、中味を全く違うものにしてしまおうかなあ、と思案中。

ただ、どういうものを書けばいいのか、考えれば考えるほど分からなくなってきました。できれば自分にしか書けないようなものにしたいのですが、かといって専門知識みたいなものは払拭したい。専門知識を披露したくないというだけではなく、そういった知識に裏打ちされたことも書きたくない。日本人なら誰でもアクセスできる情報源だけを用いて書きたい。その中に自分らしさを出したい。

一部の人だけが知っている(知りうる)情報を基に文章を組み立てるのは、フェアじゃない。ロシア語が分からないと調べられないようなことについて書くのは、それなりに需要のあることかもしれないけれども、ぼくは嫌だ。別にロシアを紹介するわけじゃあないんだから。ロシア文学について教えてくれと言われれば、知っていることを話すけれども、そうでもなければ今はもうそんなことしたくない。ぼくは自分で「専門家」だとか「研究者」だとか名乗ることにものすごく抵抗がある。できればそういう括りでくくられたくないと思ってる。

そういうことだから、何を書けばいいのか迷ってる。誰でも知っている(知りうる)ことを材料にして、自分らしく組み立てたいのになあ。

何もない

2014-02-10 00:53:16 | Weblog
視界の隅で、なにものかが蠢いている。飛蚊症かもしれないし、そうでないかもしれない。

数十年に一度の大雪だというのに、何もなかった。思い出に残ることが何もなかった。

疲れとだるさの違いが分からなくなっていることに気付く。

精神的にまずい方向に落ち込んでいる。時間が経てば回復するはずだが、それまで待てるのか。

私という人間は、既に終わっている。

終わっている人間がこの先生きてゆく意味があるのか。

人間は幸せになっているのだろうか。日本人は前より幸福になっているのだろうか。「この世に生まれてきたからには、幸せになる権利がある」と言って自分の幸福に拘っている人間ばかりではないのか。

忘れられない思い出。

親戚のお葬式の日はとても暑い日だった。まだ10代だったぼくは、「自分が死ぬときはこんな暑い日は嫌だな、参列者に迷惑だから」という意味のことを呟いた。母が「優しいのね」と言った。でも違う。そうではない。「参列者に迷惑」と思ったのは、自分が今の状況をいい迷惑だと感じていたからに他ならない。自分のような「犠牲者」を出したくないだけだった。利己心。本当は死者を悼まなくてはならないのに。嘆きに身体を貫かれる代わりに、暑さにうんざりしたのだ。なるほど、葬式とは「そういうもの」なのかもしれない。だから利己心が糾弾されなくてはならない謂れはない。とはいえ、褒められるべきものでは絶対にない。
人生では、こういうことが往々にしてある。

人間は100年前より幸せになっているのだろうか。100年後もっと幸せになっているのだろうか。

自分が幸せになるためには、感情はいらない。他人を幸せにするためには、感情がいる。ぼくに感情はいらない、そう言えたらどんなに楽だろう。感情がなくなれば、そう言えるのに。

終わりの中を生きている。どうせこの先何もない。あるのは屈辱。終わり方を探している。幸福な終わり方を。その意味でぼくは幸福を探している。自分の幸福。

異様に降った

2014-02-09 01:08:04 | Weblog
20年ぶりの大雪だったらしいので、小学生以来だ。
でも東京でここまで降ったのは、記憶にないですね。確かに小学生から中学生くらいの頃は、毎年けっこうよく降っていたような気がしますが、でも丸一日ずーっと降り続いていることなんてあっただろうか。しかも、雪質がいつもと違っている。いつもは牡丹雪ぽくて、水分をたくさん含んだ湿った雪なんですが、今回のは割とさらさらしてました。だから風が吹くと地吹雪になって、顔を細かい雪が叩きつけてくる。

こんな天気だから誰もいないだろうと思って、近所に髪を切りに行ったら、けっこうお客さんがいたのでびっくり。変わり者が多いなー。

家の前を雪かきしましたが、これってシーシュポスの神話だなと思ってすぐにやめてしまいました。雪かきしてもしても、後からどんどん降り積もるので、全然効果が現われません。むしろ雪を捨てた部分が一層高く積もってしまって、逆効果すら疑われる状態。

ベランダが雪で埋まって、家も雪に閉ざされてしまって、すごい威力だなあ。

このくらい降れば、かまくらが作れるんじゃないかと思ったんですが、近所の公園では誰も遊んでいませんでした。もったいないなあ。

それにしても、将来どうしようかなあ。雪と関係ないけど。今ネットで色々調べてたら、「なにやってんだろう」って思った。馬鹿みたいだ。やるべきことが見つからない。やるよう要請されてもいない。やりたいことはちょっとある。そしてそれはロシアとは関係ない。オリンピックは割と好きなんだけど、今回ロシアが絡んでいるというだけでちょっとした不快感を催してしまうほど、今はロシア(の芸術)を嫌悪してしまっている。なるべく自分からロシア臭を拭い去りたい。

急に不愉快な話になってしまった。明日は早めに起きたいなあ。そして雪かき。



追記:20年ぶりどころか45年ぶりだったらしい。すごいな。

書店、仲間、専門

2014-02-08 03:21:01 | Weblog
モスクワの書店情報をしかるべきサイトに提供しました。他に適任者がいるだろうと思って黙ってきたのですが、あることがきっかけで、こちらから申し出ました(元々もしよかったら提供して下さいとは言われてたんだけど)。これからモスクワに行かれる人の役に立ってもらえたら幸いです。

去年くらいに書いた気がするのですが、仲間について。そのとき自分がどんなことを書いたのかは忘れてしまったんですが、仲間というのは排他的なシステムでもあって、仲間内ではわいわいやっていて楽しいかもしれないけど、他所から見ればかなり腹立たしい。例えばある集団の何人かが同人誌を作るとして、その仲間内では盛り上がるんだろうけど、その仲間に入れなかった人は寂しいだろうなと。

だから仲間を嫌う人もいるわけで、少年時代とかに仲間に入れてもらえなかった経験のある人なんかは、そうなんじゃないかなあ。でも、そういう人が大人になってから、どこかの集団から仲間に加わるよう求められ、そして加わってしまったら、みっともないことこの上ない。というか、申し訳ないけれどもちょっと哀れだ。

ぼくの思うところでは、仲間というのは排他的であるけれども、それでも共同で何かを分かち合うという体験は何物にも換え難い。だから、ぼくは仲間を作りたいと思う。

専門について。もうね、素人と専門家と、ほとんど垣根なんてないと思ってます。これも随分前に書いたことがある気がします。例えばロシア文学の専門家っていうのは、ただロシア語が読めるだけって悪口言う人がいるみたいですが、案外当たってると思います。少なくともぼくは自分の専門性なんて感じたことがありません。だから、専門家たちが集まって何かを書いたりするのは、もう大して意味がないんじゃないか。専門家も素人も自由に参加できるプラットフォームが必要なんじゃないか。いやもうそういう場所はあるわけなんですが。

「専門家」と呼ばれる人たちが、一般向けでござい、啓蒙でございと大衆に「専門分野」を紹介する時代はもうとっくに終わっているんじゃないか。たぶん、かつて「ただの風景」が発見されたように、今は「ただの人」が発見されつつある時代だ。「専門家」という既に何者かである人が高みから説教するのではなく、未だ何者でもない、匿名の、ただの人が自らを発信する。そうでなくてはならない。そういうシステムを構築しなければならない。

高みを望む人の方が多いかもしれないけれど、ぼくはそういう人になりたくない。ぼくに専門性はいらない。

陽なたのアオシグレ

2014-02-06 23:43:18 | アニメーション
『陽なたのアオシグレ』については、ここで感想を記したことがあったっけ?ちょっと思い出せません・・・。まあともかくこの作品について書こうと思ったんですが、なんかお腹痛い。夕飯食べてからお腹がぐるぐるいっている。

だからさっさと切り上げてしまおう。『陽なたのアオシグレ』はもう2回観ましたが、確信しました、めちゃくちゃ好きです、これ。

ハチャメチャで何でもアリで、すっ飛ばしていて、かっ飛ばしていて、いったれーって感じのアニメーション。

途中、「ノーパン喫茶」なる看板がちらりと映ったのが気になりました。うける。Dr.スランプに「喫茶ノーパン」が出てくるけど、昔こういう喫茶店って実在してたんでしょうか。調べればすぐ分かりそうですが。

まあいいや。お腹痛い。

喋らない生徒

2014-02-03 23:10:11 | Weblog
吃音が職場で理解されないことを苦に自殺した人のニュースをやっていたけれど、やはり環境というのがとても大事だと思う。

ぼくが中学校で教育実習をしていたとき、1年生のクラスに、誰とも一切話さない生徒がいた。その生徒がなぜ口を開かないのか、当時ぼくは知らなかったし、今も知らない。吃音ではないと直感的に思ったし、単に極度にシャイなだけなのかもしれない。それは分からない。とにかくその生徒の声をぼくは一度も聞かなかった。

ある日、授業中に先生がその生徒を指名して何かを答えさせようとした。その生徒は椅子から立ち上がると、そのまま一言も発せず、俯くばかりだった。先生は、その生徒を急かして、何か答えるように要求した。でもその子は顔を赤らめたまま何も言わなかった。教室が少しざわめき出した。誰かが囃し立てた。公然と揶揄する者も現れた。先生は更に答えを要求した。しかし生徒は黙ったまま佇むばかりだった。

授業後、ぼくは先生に尋ねた。どうしてあの子が答えるのをあんなに長いこと待っていたんですか? 先生は、こう言った。社会に出たときのための訓練をしているんだ。あの子のためなのだ、と。

ぼくに教育のことは分からないけれども、この先生は間違っていると思ったし、今も思っている。一体この先生は、生徒がなぜ口をきけないのかを正しく理解しているのだろうか? 少なくともぼくの耳には、この生徒が精神的・身体的な理由で話すことができないというような情報は入ってこなかったから、単に性格の問題なのかもしれない。でもたとえそうであったとしても、いやそうであるならば、あんなふうに授業中に質問を浴びせたのでは、アガリ症の人は一層恥ずかしくなって話すことができないに決まっているじゃないか。

こういうふうにして、生徒には負の記憶が刻まれてゆく。「恥辱」という記憶だ。社会に出たときの足枷になる記憶だ。けれども、それが分かっていながら、痛いほど分かっていながら、ぼくはその生徒に何もしてやれなかった。実習生だから、というのは言い訳にならないと思う。せめて何か優しい言葉をかけてやりたかった。ぼくにそれができなかったのは、それが贔屓に当たるのではないかと恐れたからだ。いや正確に言えば、他の生徒から贔屓と咎められるのを恐れたからだ。つまりぼくは自己保身のために、その生徒をただ見つめることしかしなかった。

ぼくは周囲の人たちに恵まれた。本当に恵まれていたと思う。吃音というのは、極度のアガリ症の結果でもあり、リラックスしているときには大抵の場合症状は出ない。だから普通に友人と会話しているときなどは、言葉に詰まることはそれほどない。それでも、ときどき言葉が出てこないこともある。ぼくはそういうときには同じニュアンスの言いやすい単語を咄嗟に発するのだけど、そういう「技」を使えない人もいると思う。そもそも使えない場合というのもある。そんなとき、大事なのが周囲の理解や優しさだ。言葉に詰まったり、繰り返したりするのをからかったりしないで、見守ってくれること。あるいはさりげなく話題を変えてくれること。

あの先生は、たしか学年主任だったと思う。自分のやり方が絶対に正しいと信じているような人だった。ぼくが授業で少し工夫しようとすると、必ず自らの指導法に変更させるような先生だった。だから、何もしゃべれない生徒を一人立たせたままずっと答えるよう要求し続けることが、その生徒のためになると本気で信じていたんだと思う。

その生徒がなぜ口を開けなかったのか、ぼくは知らない。でも、授業中に先生から詰問され、周囲の生徒から囃し立てられることが、将来社会に出てからの訓練になるとはどうしても思えない。

あの先生は、もしかしたら今頃教頭にでもなっているかもしれない、そんな気がする。

雪山にでも行かれるんですか?

2014-02-02 02:17:04 | Weblog
昨夜、帰宅してジャケットを脱ごうとしたら、ファスナーがぶっ壊れました。

今朝、お店で修理してもらおうと思ったら、断られました。直らないらしい。でももう10年近く着ているので、これで十分なのかもしれません。

そこで、新しいジャケットを買いに近所を色々と物色して回りました。結局2万円以上するダウンジャケットを購入。ただし、もう2月ということで冬物はセールになっており、およそ半額でOKでした。

で、購入するか迷っているとき、店員さんに「これは水を弾きますか」と聞いたら、「大雨でなければ大丈夫です」と言うので、「雪はどうですか」とまた聞いてみたら、「直に座ったりするのでなければ大丈夫です」という返事でした。そして、「雪山にでも行かれるんですか」と逆に質問されたので、「いや、そういうわけじゃないんですけど・・・」と答えたら笑ってました。

でも雪山でも大丈夫なくらい暖かいダウンジャケットみたいです。そんな暖かいやつは東京ではいらない気もしますが、まあいいか。

この半年で、服をたくさん買ってます。そういう時期なんだなあ。