Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

脱・葡萄;脱・ロシア文学

2013-09-30 00:50:35 | Weblog
ジェムシードレスという葡萄を最近初めていただきました。これが美味しい。甘い。もはや葡萄の範疇を超出しています。見た目は甲斐路そっくりで、味もけっこう似ているのですが、食感はジェムの方がサクサクした感じでスッキリと食べやすく、名前の通り種(シード)もありません(レス)。しかし何と言ってもその甘さが凄い。何度も書きますが、もはや葡萄ではありません。あまりの甘さに、実を噛んだ瞬間に思わず「あっ」という叫び声を上げてしまったほど。こんなものがあったとは。本当に美味しいです。

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あまちゃんが終わってしまい、寂しい。

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ロジャー・シャタックの本(英語)を探していたら、全国で所蔵している大学図書館はごく僅かであることが判明。え、なんで? この人ってアカデミックな世界では無視されているの(そんな馬鹿な)? Amazon にはけっこう在庫があるようですが・・・買うほどでもないような・・・。というか、翻訳出してくれ。

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脱ロシア文学をして、興味の赴くままに読書し始めました。すると不思議なことに、これまでどうしても体が言うことを聞かずに読書に打ち込めなかったのが、少しは集中力が持続するようになりました。というか、机に向かって本を開くことができるようになりました。今まではそんな簡単なことができなかった。そして、離れたことでかえってロシア芸術というものをよく眺められるようになった気がします。例えば、エイドスという概念をよく知らないでキュビスムなんかを考えていた自分がそれを理解できなかったのは当然だったなあとか認識できるようになりましたね。やっぱりね、プラトンとかアリストテレスとかよく知りもしないで、いきなりマレーヴィチだのマチューシンだの言ったってね、分かるわけがない。もちろん、ぼくだって最低限の本は読んでいましたけど、読むだけではいけなかったんだなあ。字面を追うだけでは。

リオタールとか、グリーンバーグとか、ジェイムソンとか、読まないと(読み直さないと)いけない人がたくさんいる。でも何よりもまずカントが読みたいな。いや、「これ」がいけないんだ。何よりも大事なのは、考えることだ。読み終えることだけに汲々としてはいけない。

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留学関連の質問が、メッセージやコメントで稀に寄せられますが、ぼくが回答しても、なぜかほとんどの人がお礼を言わない。なんでだ? これって普通の礼儀だと思うんですが。こんな常識的な礼儀作法のできない人は、留学して何かを得るよりも、日本でまず日本人ときっちり人付き合いをした方がいいと思う。

自棄買い

2013-09-27 01:32:19 | 本一般
月曜日に古書店で見かけて、でもお金がなくて(1000円しか持ち合わせがなった)買えなかった本を、木曜の今日買いに行ったら、既に売り切れてました。火曜は書店が休みで、昨日は雨だったので、今日が(個人的には)最短だったはずなのですが、もう売り切れかよ。確かに、売れてしまっていたら嫌だなあと危惧してはいましたが、まさか本当にこの本が・・・。ちくしょうめ。

購入した人がこの本の価値を知っていたのならば許せるけれども、何となく目に付いたからという程度の理由で買っていたのだとしたら許せん・・・と身勝手な感情が湧いてくる。

がっくりきてしまいました。それまでの意気込みのやり場に困ったぼくは、そのまま自棄買い。欲しいと思う本を手当たり次第に購入してやったぜ。でも本当に欲しかった本は手に入らなかった・・・。

こうなったらAmazonの出番だってことで、いま早速注文しておきました。ちょっと高いけど仕方ない。

ところで、もはや自室には本の置き場がないので、購入したばかりの本は紙袋に入れたままになって隅に放置されています。そこで、廊下の突き当たりに本棚を設置することに決めました。ただ、そうすると部屋のドアが開かなくなるので、今のドアを取り払って、スペースを必要としないドア(引き戸とかアコーディオンドア)を新しく取り付ける方向で検討に入りました。できれば10月中に全て完了させたいものです。

最近涼しくなりました。室温は25度。外は20度以下でしょうね。明朝まで最低気温は16度にまで下がるそうです。新しい本棚が我が家に運び込まれる日は、何度くらいになってるかな。

ベリンスキーを追って

2013-09-24 23:54:52 | 本一般
ベリンスキーの評論が読みたくなって、岩波文庫の『ロシヤ文学評論集』を自宅の本棚に探す。この上下巻はもう何年も前に、たしか神田の古本屋で購入したもの。それから何度か別の古書店でこのベリンスキーの本を見かけたことはあったけれど、もう購入済みなので無視してきました。2年前に復刊されたときも、「ふ~ん」程度でした。

ところが、いざ本棚を探しても、見つからない。何度も何度も見返し、本棚以外の場所(平積みされてるところとか)も丹念に探しましたが、どうしても見つかりません。すると、これは段ボールに入れて階下の納戸に仕舞い込んだ何冊もの本の一つだろうか、という考えが頭をよぎりました。やれやれ、ベリンスキーの評論も段ボール行きにしちまったか。深夜だったので、納戸の探索は翌日に回すことにして、その日は寝ました。

ところが、翌日になって二箱の段ボールの中を引っ掻き回しても、ベリンスキーが出てきてくれない。おかしい。それに段ボールは他にもあるはずなのに、それが見当たらない。どういうことだろう。消えてしまった段ボール(とベリンスキー)!

埒が明かないので、再び購入する作戦に切り替えました。2011年に復刊されているので、まだ新刊書店にもある可能性が高いし、実際つい最近もどこかの書店で目にしたばかりでした。とはいえ新宿や神保町に出るのはめんどいので、地元の新刊書店を片っ端から当たることに。

1軒目は駄目。2軒目(ブックオフ)も駄目。3軒目も駄目。とうとう最後の4軒目。ここになければその日の内に入手するのは諦めるしかないというところで、ついに邂逅。やったね。早速購入。

しかしながら、この『ロシヤ文学評論集』には、読みたいと思った評論が掲載されておらず、結局、図書館で著作集を借りることになったのでした。これまでの奮闘は何だったんだ。

余談ですが、ポーランドの詩集『北の十字架』も本棚から消えている。これはあの二箱の段ボールにちゃんと入っているんだろうな。・・・

嘘みたいな古書店

2013-09-20 23:54:44 | 本一般
それは驚くべき古書店でした。

河出の「怪談集」シリーズが、全巻揃っていました。ラテンアメリカも、ロシアも、東欧も。

更に、創元SFのロシア・ソビエトと東欧のSF傑作集もそれぞれ揃っていました。

更に更に、ハヤカワの『宇宙翔けるもの』『竜座の暗黒星』『アトランティス創造』の3冊が揃っていました。

信じられない・・・。

もちろん、「怪談集」シリーズが揃っているお店は他にもあるかもしれないし、ハヤカワの3冊が並んでいるお店も探せば見つかるかもしれない。でも、これらが同じ書店の中の「出来事」(これは単なる現象ではなく出来事ないしは事件だ)であることに、驚かずにはいられません。

店内を物色していたぼくは、ムスカ状態に陥っていました。ムスカが「読める、読めるぞ」と言うときに「えー!?え!?」と小声でぜいぜい興奮していたように、ぼくもあんな表情で息を荒げていました。これほど充実した品揃えは、ちょっと想像できません。仮に誰かがぼくに、「怪談集」シリーズがあって、創元SF文庫もあって、ハヤカワも全部あって・・・などと言おうものなら、ぼくはその人物をほら吹きと断じていたでしょう。あるいは、そりゃ君の夢物語だよってことで憫笑していたでしょう。

そしてこのお店には他にもたくさんの貴重書・良書があるようでした。あんまり欲しいものが多過ぎて、8700円を費やしてしまったよ。ちなみに価格帯は相場ってとこでしょうね。

感動したのでお店の人にその感動を告げてみたら、これらの本は最近買取したようなことを言っていました。近在の愛書家でもお亡くなりになりましたかね・・・。

何はともあれ、すごい。

成長神話を否定

2013-09-19 00:09:30 | Weblog
個人的には、半沢直樹よりもあまちゃんの方がおもしろいと思ってます。あまちゃんは途中から見始めたけど、それでもおもしろい。

今日はアキが成長神話を否定してくれていて、うれしかった。変わらないことって大事なんじゃないのか、成長しろって強要する必要はないんじゃないのか。だって人間は自然に成長していくものだから。自分で目指すようなものじゃないんじゃないか。

もちろん、こういう言説は経済成長とかそういった類の事柄と結び付けられてしまいがちであるんだけれど、もっと単純に一個の人間について言ったことだと捉えていいと思う。

経済は常に成長を目指すべきではなく、一定の水準で滞ることに満足してもよい。「知足」という思想が大切だ。・・・「経済」を「人間」に言い換えてもいいと思う。向上心を持つことが偉い、成長はすばらしい、自分を高めるべきだ・・・そういった言説は、もういいや。いらんよ。もっと自然に身を任せてもいいんじゃないかと思う。人間は成長したくなくっても成長してしまうし、成長したくても時が来れば成長しない。できればそういう理を受け入れたい。

人間は必ず成長を続けるべきで、それが人間の本性であり、そしてそうした人間こそ尊敬に値する、みたいな言説は、幻想です。幻想に縋るのはもうやめにしようじゃないか。どうせ時は移ろい流れゆく。人は段々変わっていってしまう。その変化だけで十分だよ。

行って、成長して、帰ってくる。いや、そんなんじゃなくていいのだよ。行って、帰ってくる。それだけでいいのだよ。元のまま帰ってくる。それでいいのだよ。

そもそも成長神話なんて、もうとっくに否定されてんだ。

近所の古本屋

2013-09-18 00:02:28 | お出かけ
用事からの帰り、近所の古書店に立ち寄ってみた。500円ぽっちしか買わなかったけれども、店主のおじさんは話し好きと見えて、ぼくに声をかけてきた。

すると、この近所に(ぼくの)大学の先輩に当たる人が住んでいるらしいことが分かった。今はネット書店を営んでいるそうだ。40歳くらいと言うから、たぶん面識はないだろうけれども、ちょっと興味が湧く。生憎その書店の名前を忘れてしまったので、検索することができないけれど、古書店の主人がぼくのことをその先輩に伝えておきますよと言っていたので、秋になったらお店にまた足を運んでみよう。

秋と言えば、今日は清々しい秋晴れだった。あとひと月もすれば、日中でも肌寒い風が吹いたりしているだろうか。やはり、急激に寒くなるモスクワよりも、緩やかに季節が進行する東京の方が、ぼくは好きだな。

肺から血を吐いて死ぬ

2013-09-17 00:31:37 | Weblog
できることならぼくは15歳前後の少年少女に囲まれて生きたかった。屈託のない笑顔、無邪気な冗談、純粋な怒り、繊細な感受性、我が儘、横暴、喧騒、手の届かないものへの憧れ。そうしたものの中で生きたかった。

でもぼくがその地へ赴けば、肺から血を吐いて死んでしまう。ぼくの肉体は、もうそういう環境には耐えられないのです。

自分の住みたかった地に絶対に住めないと分かっていてなお生き続けなければならない。鳥のように朝を越えてゆかねばならない。

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地位も、名誉も、お金も、いらない。ただぼくは14歳の「ぼくら」に見せたいんだ。大人になってもぼくがぼくのままであることを。ぼくはぼくらを忘れてはいないし、そして彼・彼女らにもぼくを忘れてほしくない。ただそれだけなんだ。「ねえ、私を見て」。ただそれだけだったはずなんだ。

23歳のとき、ぼくは、自分が手に入れることができなかったものを事も無げに手に入れている人間に出会った。ぼくの人生はその人の前に敗れ去った気がした。ぼくらの人生は、否定されてしまった気がした。その人はこれからぼくが手に入れることができないものを易々と手に入れるだろう。ぼくらの敗北はより無残になるだろう。ぼくらの誇りは、劣等感に様変わりするだろう。性的早熟とか、能力とか、語学力とか、どうでもよかったはずなのに。

ぼくは、ぼくらの誇りを取り戻したい。ぼくらの純真を、ぼくらの熱情を、ぼくらの愉悦を。

仮に肉体が耐えられなくとも、精神は大丈夫なはずだ。精神は血反吐を吐いたりはしない。いざ、青き清浄の地へ。供は誰だ?

幸せを君たちに

2013-09-16 01:58:04 | Weblog
努力している人や頑張っている人を否定するわけじゃあないんだけど、興味ないんだよなあ、そういう人たちに。いかに努力して、悩んで、頑張って、それを成し遂げたか。そういう話に、何の関心も湧かない。こんな困難があったけれども、こんなにスキルアップできました。あっそ。全く申し訳ないけれども、共感できない。

どんなに努力しても駄目でしたって話も、それほど好きなわけじゃあない。そういうのを聞くとこっちまで悔しくなってきてしまうから、嫌だ。

そういうのじゃなくて、どんなに努力しようと思っても、結局努力できませんでしたって人には共感できる。やる気がなくて、だるくて、めんどくさくて、頑張りませんでした。だから平凡な人生を歩んでいます。なりたい職業に就くことができませんでした。不平不満ばかりが溜まります。大きな壁にぶち当たったら必ず逃げるようにしています。・・・

努力する人が偉いとか、頑張っている人を応援しようとか、そういうコピーって一種の脅迫なんだよ。そんなふうにできない人たちがいるってことを忘れないでほしいんだよな。甘えだろうが卑怯だろうが、どうしても逃げ出してしまう人がいる。頑張ろうと思っても気持ちが奮い立たない人がいる。体に鞭打とうとする気力がない人がいる。

努力する人が偉いだって? 何の取り柄もなく挫折感を抱いたまま無気力に生きている人を自分は尊敬したいね。だってどう考えてもそっちの方が尊いじゃないか。自分は生きるに値しないと思って生きているんだよ。皆から「あいつは敗北者だ」と思われながら生きているんだよ。それでも生きているんだよ。

これは自明のことのように思われるんだけど、でも多くの人は頑張っている人の方が偉いと考えているみたいなんだよな。必死に英語を勉強しながら一人で会話練習を続けているサラリーマンと、無気力に打ちひしがれて机に突っ伏しながら今日も生きてしまったことを後悔する受験生と、どちらが尊いか。明らかですよ。

こういう当たり前のことが正確に認識される世界になってほしいものだと切に願う。

ところで昨晩夢を見た。旧友が何人か出てきた。君たちは、尊くなくてもいいから楽しい人生を送っていてほしい。どうか、幸せを君たちに。

Everything Stuck to Him

2013-09-15 01:23:36 | 文学
21~22歳頃のことだったかな、レイモンド・カーヴァーを原書で読んでみようと思って、どこかの書店で英書を入手した。Everything Stuck to Him って短編はタイトルがおもしろいし、程良い短さだったので、真っ先に読んでみた。村上春樹の翻訳ももちろん持っていたんだけど、未読だった。一度英語で全部読んでみてから、翻訳にも目を通した。

ちょうど同じ頃だったと思う、森茉莉の「気違いマリア」という短編を読んだ。そこにこんな箇所がある。「とにかく変なものはすべて、マリアにくっつくらしい」。「何もかもが彼にくっついていた」っていうタイトルと何か似ている。言うまでもなく、両者における「くっつく」という単語の意味合いは全く異なるんだけど(たぶんね)、妙にひっかかった。

「気違いマリア」とは別の作品だったかもしれないけど、人の感情が私に直に伝わってしまう、みたいなことが書かれた小説を、やっぱり同じ頃に読んだ。

他人の思惑や心の傷、悪意、哀しみ、そういったものが全部自分の心にくっついてしまう。そういうテーマの小説をぼくが実際に読んだのかどうか、もう分からない。でも「これは自分のことだ」とぼくは思った。読んだことがあるかどうか分からないのに、読書の感想を持ってしまったというわけだ。

ぼくは少年時代から20歳くらいまでの間、「他人の気持ちが分かり過ぎてしまう」ことにひどく悩んでいた。よく「人の気持ちを想像しなさい」とかって小学校で怒られたりするものだけど、あんまり想像できない方が人生楽なんじゃないのかな。人の気持ちが分かるっていうのは、美徳のように語られたりもするけど、当人にしてみればあんまりいいことじゃない。というか、よくないことだと思う。

「他人の気持ちが分かる」ことが悩みだなんて、ぼくはそれまで誰にも言ったことはなかったし、それが悩みだったんだよってことも、今の瞬間まで誰にも話したことはなかった。だってそんなことが「悩み」として認識されないってことは、少年のぼくも知っていたから。でも、当時はそれが本当に辛かった。

もちろん、全ての人の気持ちが分かるってわけじゃあなくて、親しい人に限られていたと思うんだけど、でもその親しい人に何かよくないことが起こると、ぼくの心は激しく反応した。まるで自分自身にそれが起きてしまったみたいに、あるいはひょっとしたらそれ以上に、激情に心を揺さぶられた。悔しくて悔しくて堪らなかったり、悲しくて悲しくて堪らなかったり。なんでこんなに自分が傷ついてしまうのか分からなかった。他人の感情の何もかもがぼくにくっついていた。

こんなことを書いたりするとさ、「他人の気持ちが分かる優しい人間をアピールしている愚劣な野郎」って烙印を押されそうな気がするんだけど、たぶんそういうことをちょっとでも感じてしまった人には、まあ当時のぼくの気持は分からないだろうなあ。「気持ちが分かる」ことが辛い悩みになってしまうって、そういう人には理解できないだろうなあ。

今のぼくは「分かり過ぎてしまう」ってことはない。かなり鈍感になったと思う。きっかけは、ドストエフスキー『罪と罰』だった。読んだのはたしか15~16歳の頃だったはずだけど、ぼくはラスコーリニコフに感情移入し過ぎた。ぼくの精神は危機に瀕した。そこで取った自衛策が、「感情移入しないこと」だった。読書にのみ採用した方策のつもりだったんだけど、いつの間にか人生にも適用されていた。何年もかけて、ぼくは少しずつ冷淡になっていった。

「優しくない」とか「怖い」とか、言われたことがある。ぼくはそれを、「お前は人の気持ちが理解できない人間だ」という叱責として解することがあった。複雑な思いだった。

一方で、「気持ちが分かり過ぎてしまう」ぼくの感受性を心配してくれる人もいた。ぼくはもうそんなんじゃないのにな、と思いつつ、うれしかった。

あんなにも人の気持ちが分かってしまったあの頃に戻りたいなと思う。でもあの苦痛は引き受けたくはないなとも思う。

まあいずれにしろぼくはこのままなんだろうな。

ちなみに、あえて曲解することもあるんだけど、それはまた別の話なのかな。

リストカッターの詩

2013-09-10 16:37:25 | Weblog
コミティアに行ったとき、どうしても目に留まってしまった。そこにはたぶん『リストカッターの詩』という詩集が置かれていて、傍らには「私は、リストカッターではない」と題されたプリントが並べられていたのだと記憶している。ぼくはその半折にされたプリントだけをいただいて、その場を立ち去った。サークルの人はいかにも病んだ風の男性で、ぼくが言葉をかけてもニコリともしなかった。少し時間をおいてまたこのサークルを見に来たとき、そこには彼の隣に女性が座っていた。

帰宅してから「私は、リストカッターではない」を読んでみた。思いがけず、「私」は女性だった。サークル席にいた陰鬱そうな男性が書いたものだと思い込んでいた。もしかしたら、彼は「私」の「旦那」なのかもしれない。

「私」は、リストカットはしないらしい。ボディカットをするのだそうだ。理由は簡単だ。リストカットは人目に付くし、「私」が属しているらしい精神看護の世界では、リストカッターは人格障害者と見られるから。

「リストカッターというのは、見せたくて手首を切っている面もあるのだと思う」
「どうやら、リストカットというのは、依存症があるようなのだ」
「基本的には、リストカットは何らかのストレスによって行われることが多い」
「切るとすっきりしたり、人によっては、生きている実感が得られる、という人も居る」
「基本的に、リストカットでは、まず死なない」
「要するに、リストカットというのは、「辛いんだ、苦しいんだ」という表現の一つなのだろう」

全面的に同意したい。とりわけ「依存症がある」という指摘は正しいと思う。何年も前、ぼくは紛れもないリストカッターだったけれど、一度切ってしまうと止められなくなるというのは身に沁みて実感できる。なぜなら、「切るとすっきり」するから。「すっきり」することを知ってしまったから、もう止められない。いや、「すっきり」という言葉は弱過ぎる。「快楽」と言ってもいい。ぼくの経験では、リストカットというのは、人が感じられうる最大の快楽の一つだ。これほど甘美な瞬間は他にほとんど例がない気がする。刃物を手首に押し当てるときの緊張、ゆっくりとそれを横にずらしていくときの狂おしい熱中、切り終えたときの体中の弛緩、血が滲み出てくるのを見つめる歓喜。この一連の経験を通して、それまでの自分の苦悶が蒸発してゆくのをはっきりと自覚できる。今まで感じたことのないような幸福感に包まれる。

でもそれが「表現方法としては不適切」であることも十分に分かっている。それが分かり過ぎているから、ぼくはリストカットを止められたのかもしれない。最後に切ったのは今から7~8年前だ。今やもうぼくはリストカットをするような歳ではないし、まだ半袖の季節だからリストカットをしたくない。

まだ半袖の季節だからリストカットをしたくない。――ぼくは追い詰められている。これだというきっかけはないけれど、2~3日前に知らない番号から6件の不在着信があって以降、なんとなく精神状態を崩している。神経が参ってしまっている。久々に死にたくて堪らなくなっている。坂道を転げ落ちている恐怖、落ちぶれてしまった絶望、取り残された不安。昨夜布団の中で、自分がリストカットをする瞬間を何度も繰り返し想像してみた。試しに右手の爪で左の手首を引っ掻いてみた。たったそれだけでも、気持ちが少し楽になるのを感じた。もう一度やりたい。

リストカットは自殺行為ではない。ただ死を願う人はリストカットをしてしまう。甘えかもしれない。妥協かもしれない。自己満足かもしれない。自殺するほどの度胸はないけれど、自分はこんなにも苦しいのだと誰かに知ってほしくて、自身の体を傷つける。どうせなら、公衆の面前で喉笛を掻っ切って死ねればいいのに。ざまあみろと誰かを嘲笑しながら死ねればいいのに。お前らはおれ一人救うこともできないのか? それなのにどんな幸福がありうるっていうんだ。どんなに才能があっても社会に尽くしてもロシア語が堪能になっても本を出してもボランティアをしてもおれ一人救うこともできないのか? おれはお前らの十字架だ。

この十字架を背負って、全部の十字架を背負い込んで、生きてみろよ。

来ないものを待っている

2013-09-09 14:17:23 | Weblog
彼は大学病院の喫茶室で来ないものを待っている。昨日が来るのを待っているように。

どうしても許せないと思ったものを、許せそうに思ってしまう深夜。

7か月先のことも分からないのに、7年後だってさ。生きてるかどうかも分かりゃしない。

秋晴れの日。

明日は朝が早いのです

2013-09-09 01:15:58 | Weblog
自分の武器は何だろう、と考えてみる。もちろんナイフではないし、ヌンチャクでもない。ではペン? そう言い切ることもできない。

この間、あなたの頭の中はものすごく整頓されているね、と言われたことがあった。どうやら体系的に見えるらしい。ぼくの頭の中では物事が有機的に結びついていると。そうは感じられないので、どうしてそう思うのか聞いてみたら、幾つか例を出してくれて、そのまま何となく説得されてしまった。その人が言うには、この「体系性」がぼくの武器らしい。しかし、どう考えたってぼくの頭の中が整理されているとは思えない。これほどぐちゃぐちゃな脳みその持ち主も珍しいのではないかと思われるほどだ。もっとも、たしか漱石も自分の頭の中がぐちゃぐちゃだ、と言っていた(と思う)ので、案外人の感想の方が自分の実感よりも正しいときがあるのかもしれない。とはいえ、ぼくの場合は実感の方が正しい気がする。だって、普段のブログの内容はてんでまとまっていないじゃないか。これが何よりの証拠。

じゃあ自分の武器って何だろう。恥ずかしながら、頭のよさとか才能とか、そういうものは人並み以上ではないとはっきり自覚している。文章もあんまり巧みではない。

ただ、ぼくは自分の感受性とそれを表出する能力にだけは、ちょっとだけ期待したいと思ってる。自信は全然ないんだけど、もしぼくが少数でも一部の人たちから認められるものを持っているとしたら、それは自分の感性を前面に押し出す文章でしかありえないと思う。ぼくには衒いはないし、好きなものは好きと言い、嫌いなものは嫌いと言う率直さも(良いか悪いかは別として)性格として備わっている。

と書いてみたけれど、この程度の感性の持ち主も文章の書き手もいくらでもいるだろうし、そもそもそれが果たして武器になるのかどうか怪しい。いや、それ以前にぼくに自慢できるような(例えそれがほんの少しだったとしても)感性が備わっているのだろうか。最初の土台が既に揺らいでいるよ。でも、せめて期待はしたいんだよな。他には武器なんてないから、本当にないから、感受性には、せめて感受性には、期待したいんだよな。

と書いてみたけれど・・・。だからぼくはカッターナイフを握りしめるのだ。

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明日は朝が早いのです。

宮崎駿は見た

2013-09-07 02:46:28 | アニメーション
宮崎駿の引退記者会見、全部見ましたが、幾つかの発言が印象に残りました。

その内の一つ、ロシアの記者からノルシュテインの影響を問われて、宮崎駿は次のように言いました。ノルシュテインは「負けてたまるか」っていう相手です、と。「友人です」と言いつつ、「負けてたまるか」と競争心を剥き出しにする。いやはや、宮崎駿の熱情は未だ衰えていません。たとえ体力に衰えが兆していたとしても、その精神は頑健。それにしても、ノルシュテインにライバル心を燃やすことができるのは、宮崎駿をおいて他にいないのではないでしょうか・・・。すごいなあ。

それから、一番心に残った作品として、『ハウル』を挙げていたのも印象的。『ハウル』は「棘」だと。ゲームの世界をドラマにしようとしたとか、どのように理解してよいのか分からない発言でしたので、いつか誰かがこの点についてもっと突っ込んだ質問をしてほしいものです。

過去作品は振り返らないとか、『風立ちぬ』ラストにおけるダンテ『新曲』の煉獄のモチーフとか、声優についての考え方とか(昔の映画の役者の存在感を常に念頭に置いている)、そしてもちろん「この世は生きるに値する」とか・・・印象深い発言が幾つも。

あと、『紅の豚』の頃を境に、日本の状況(あるいは世界の状況)が変化していったことに触れていて、それがとても興味深かった。

初期作品の公開するスパンが短かったのは、それまで溜め込んでいたものを吐き出すだけだったからです、みたいなことを仰っていましたけれども、それもやはり『紅の豚』辺りまでですよね。つまり、『紅の豚』~『もののけ姫』の間に創作の転機があったのではないでしょうか。ちょうど漫画版ナウシカの連載を終了したのもこの時期のことです。そして、作品の印象が変化するのもやはりこの頃(『もののけ姫』あたり)です。

『紅の豚』っていうのは、本来だったら必要な説明が欠けていたりして、後期作品の特徴を備えています。でもそういう類似ばかりではなく、もっと根本的な部分で後期作品と地続きになっているような気がします。

まあそのへんはおいといて、この記者会見を見ていると、ひょっとしたら宮崎駿はまたやってくれるんじゃないか!?という気持ちにさせられてしまう。それがたとえ長編映画ではなくとも、何かやってくれるんじゃないかと。依然として燃え盛っている意欲。情熱。

とりあえずはお疲れ様でした。でも、あくまで「とりあえず」です。ぼくはまだまだ宮崎駿に期待してます。

ぼくも宮崎駿に遅れを取ってばかりはいられません。どんどん離されていくのは仕方ないとしても、見えなくなってしまってはしょうがないので、なんとか付いていかなくては。時間は限られている。創造的時間は10年だ。明日からがその10年になるようにしなくては。

最後に。「アニメーションは、世界の秘密を覗き見させてくれる」みたいなことを仰ってましたが、これは名言でしょう。宮崎駿は世界の秘密を覗き見たんだ。芸術家の究極的な目標は世界の秘密を知ることだと、ぼくは個人的に思っているんですが、ぼくもいつかその秘密に肉迫したいなあ。ここは感動しましたね。「ラピュタは本当にあるんだ!」みたいな感じで、「世界の秘密は本当にあるんだ!」って。宮崎駿は、それを見たんだ。

予告

2013-09-06 00:45:17 | Weblog
このブログの左下の方にある「メッセージ」機能、来年の2月までに停止させます。

というのは、このメッセージは自動的にgooメールの受信箱に届くように設定されているのですが、そのgooメールが来年の3月1日から使用できなくなるためです。正確に言えば、無料サービスはなくなり、全て有料化されることになったからです。もちろん、わざわざ有料サービスを使うつもりはありません。また、このメッセージは少なくとも現在のところは、恐らくgooメールとしか連動していません(と書いてみて思ったのですが、もし他のメールとも連動させられるなら、そちらへ移行すれば済む話かもしれませんね)。

gooメールというのはこの「メッセージ」を受信するのにしか用いておりませんので、無料サービスがなくなってもそれほどの損害は被らないのですが、でももしメッセージ機能を利用できなくなってしまえば、心理的な打撃は少なくないですね。

もう少し様子を見てみるつもりですが、やはり駄目らしいということが分かった時点で、メッセージ欄を削除することになるかと思います。というわけですので、個人的にコンタクトを取りたい・・・という方は、躊躇わずにどしどしメッセージをお送り下さい。今だけですからね!


追記
他のメールアドレスにも振り分けることができるようです。・・・が、そうしたくはない理由もありまして(設定の都合上、メッセージの他にコメントをいただく度にその通知メールも来るように設定されてしまうのですが、普段使っているメールにそういう通知メールが来てほしくはないというのがありまして)、やはり停止させる方向で検討します。

不審というか不安

2013-09-05 00:40:31 | Weblog
東京でオリンピックを開催するかどうかって話には、大して関心なかったのですが、ここへ来て、特殊な意味で関心が出てきました。

というのは、このオリンピック招致、いつの間にか国策になっているのに気付いたので。ロシアに出かける前は、東京でオリンピックを開催することに賛同する意見は比較的少なかったはずで、民主党政権もそれを後押ししていなかったと思いますが、自民党政権はそれを明らかに後押ししている。いやまあそれは知っているつもりだったんですが、でもここまで露骨だとは知りませんでした。政権が後押ししているというのはつまり、国民に後押しするよう強制するってことだと知りませんでした。

自宅には、東京開催に賛同する旨の署名を集める回覧板が来ました。近くの小学校のフェンスには、「東京でオリンピックを!」という意味の横断幕が掲げられています。なにこれ。怖いんだけど・・・。そして皇族を招致運動に担ぎ出してきた。政治利用どうとかって話以前に、「日本国が一丸となって」みたいな思想が怖い。東京開催に反対したら「非国民」の烙印を押されそうな雰囲気が怖い。テレビでも(かつての)東京オリンピックの話題をはじめ、オリンピックの話が最近多い。

こうやって、ある雰囲気を醸成していくんだなあ。対象はまず子ども。道具はテレビ。

もしこの1年の間にオリンピック招致反対から賛成へと意見が切り替わった人がいたとすれば、その人は政府に煽動・洗脳された可能性が高い気が・・・。もちろん、それは当人の自覚なしに行われる。自分の子どもやテレビを通して、東京で開催することのすばらしさを吹き込まれる。

ぼくは別に反対ってわけじゃあないし、まあ賛成でもないんだけど、こういう風潮は怖い。政府ってやろうとすればやれるんだなってことが分かった。そしてマスコミや自治体はそれにすぐ従ってしまうんだなってことも。

・・・ところで全然関係ないんですけど、起床時から首が痛い。寝違えたかな。