Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

amazarashiが良すぎる件について

2011-03-31 15:10:48 | 音楽
『奇跡』を聴く。

「なんで今日まで生きてたんだ」から始まる詩。

生きてることが奇跡だったら
躓いたのも
奇跡 奇跡

歩きだすのも
諦めるのも
好きにさせろよ
奇跡 奇跡

躓いたのが奇跡だったら
このもやもやも
奇跡 奇跡

立ち向かうのも
引き返すのも
ぼくらの答え
奇跡 奇跡

・・・・・・・・・・・・・・・

生きていること、それだけで奇跡なんだ、という言葉は流布しているとしても、その中身について考えたことはなかったような気がします。生きているということは、悩むことだし、躓くことだし、諦めることだし、引き返すことだし、焦ることだし、投げやりになることだし、嫌悪することだし、腹痛を起こすことだし、嘔吐することだし、怒ることだし、泣くことだし、喚き散らすことだし、殴ることだし、落ち込むことだし、侮辱されることだ。でも生きていることが奇跡だったら、それさえも奇跡。生きることが奇跡だなんていう言葉は、実は生半可な気持ちで諭すような台詞じゃあなくて、もっともっと深い、覚悟を決めた言葉なんですね。

そうか、躓くのも諦めるのも奇跡か。そうだな。気持ちがだいぶ楽になる。一方で、「奇跡の価値」についても考える。奇跡だということで、そんなに重宝すべきなのだろうか、と。何をやってもそれが奇跡だと言うのなら、奇跡の価値って一体なんなんだろう。

よく分からない。よく分からないけれども、現代の吟遊詩人たるamazarashiが特別なバンドであることは分かる。ヴォーカルの秋田さんの声がぼくは好きです。

いずれ大学を辞めるだろう

2011-03-30 23:07:21 | Weblog
日常に活気を?

ふん。

ぼくは大学に残っている価値のない人間だと心底思う。もうこんなことは始めからわかっていたことなのになぜ今日までぼくは大学で安穏とした日々を送っていたのか。馬鹿者。真の意味で馬鹿者である。

とにかく語学力のなさ、あるいは語学の才能のなさはほとんど信じられないほどだ。こんな人間が存在しうるということにぼくはちょっとした驚きを覚える。はっきり言って、新しい語学を勉強し始めてまだ1、2年ほどの学部生のレベルすら下回っていると思う。だからと言って別に死ぬ必要はないと思われるが、しかし少なくとも大学に残っている必要はない。まるっきりない!

ここは頭を切り替えよう。大学に残る必要性はそもそもないのだ。いったい誰がお前の存在を求めていると言うのだ?いや、否定的思考はよそう。ぼくは大学に必要な人間ではない。これは客観的な事実だ。そして、そういう人間は、早急に別の道を探した方がいい。これは論理的帰結だ。ぼくの悲観など介在する余地はない。

いずれ大学は辞めるだろう。それでいい。できれば早い方がいい。これまで費やした時間はもったいなかったが、まあ人生の糧とでも考えるとしよう(そう考えなければやっていられない)。ではどの道に進むべきか?幸い教師の資格は持っているが、活用する気は今のところない。これから一般企業に就職というのは難しいだろう。文筆業も厳しいらしい。・・・要するに、ぼくは社会的人間として最底辺に位置しているということだ。何か新しい道を模索することもできない。かといって今の場所に留まることはもはや不可能だ。絶対に不可能だ。

引き返す道はない。しかし先に進む道も閉ざされている。さあ、どうする?ぼくは高校生のときにこの問題を考えた。高校生の自分は、この難題に「自殺」と答えた。今、もう一度ぼくは考える。よくよく考えてみる。さあ、どうする?

春休みの計画

2011-03-28 18:00:00 | Weblog
大学が休みに入る2月初旬、ぼくは漠然と春休みの計画を立てていました。

1、ロシア語の長詩を1篇訳す
2、ロシア語の短編を最低1篇訳す
3、ロシア語の研究書を毎日読む
4、日本語の長編小説をたくさん読む

いま振り返ってみると、大体このような計画だったように思います。しかし実現したのはゼロです。実に、ゼロです。3番以外は、途中までやりました。でもいずれも中途半端に終わっています。3番に至っては、手を着けることすらしていません。それでも、2月半ばまでは、わりと順調に進んでいたように思います。そのときは特に詩にかかりきりになっていて、いつ頃訳し終わるかな、と指折り数えてその日を計算していたものでした。

ところが、2月も末になると、がくんとペースが崩れ、読書や勉強が手に着かなくなりました。ただ平野啓一郎の『決壊』だけは読了しましたが、その他の成果となると、皆無です。本当だったらあれもこれも読んで、充実した毎日を送っているはずだったのに・・・!

そうこうしている内に地震が起き、本当に何かをする心の余裕が失われました。今ではだいぶ生活が平準に戻りつつありますが、それにもかかわらず、ぼくの心はいまだに空虚です。何かを欲求する情熱は冷め切って、虚脱感と無力感と無気力に苛まれています。まただ。地震が起き、胸の内がざわざわと波立ったのも束の間、しばらくするとそれも収まり、平坦な荒野が広がるばかり。

いや、読みたい、という熱意はあるのかもしれない。でも、精神と身体が疲弊しているのを感じます。へとへとなんです。何かをする前から、ぼくはもう草臥れている。必死に回帰しようとした日常は、ぼくの場合、こんなものです。日常に活気を!生命を!愛を!

チェーホフらしさ

2011-03-27 23:37:50 | 文学
チェーホフ生誕120周年記念(1980年)に作成されたパンフレットの中に、柳富子先生の小文が収められているのですが、簡潔且つ的確にチェーホフの特徴を捉えていて、うなった。ぼくはうなった。

チェーホフと類縁性のある日本作家を挙げた後で、「これらの作家に共通する特徴」として、柳先生は次のように書いています。「思想のあからさまな表明を嫌い、人間の生きざまを日常の視座から抑止のきいた文体で捉えている点である。しかも、日常の奥に危機意識を潜ませ、深渕を垣間みさせる」。これはまさにチェーホフの特徴に他なりません。

また、チェーホフ評価の変遷をやはり簡潔且つ的確に述べています。チェーホフの聡明さ、温かさ、誠実さ→一切の希望を殺す残酷な作家、難解なイメージ→前向きのチェーホフ→不条理の側面。というふうに。

なるほどなあ。こうしてみると、チェーホフというのは正反対の評価を包含している作家なのですねえ。分かってはいましたけれども(自分でそういう発表をしたこともあるのだが)、こうして改めて提示されると、「チェーホフ文学のもつ豊饒さ」にやはり嘆息しないわけにはいきません。

それにしても、こんなふうにチェーホフの特徴を把握すると、カーヴァーがなぜチェーホフ的と言われるのかがよく分かりますね。読後感はまるで違うものですが、確かにチェーホフ的だ。ベズモーズギスもそうなのかな。

チェーホフか。

ツルゲーネフ「ムムー」

2011-03-26 22:49:08 | 文学
実は読んだことがなかったツルゲーネフの有名な短編。で、お恥ずかしいことに、なんとなく思い描いていた内容とまるで懸け離れたものだったことに、軽いショックを覚えました。こんな勘違いがあるんだなあ。

「ムムー」はたぶん日本では映画の方が有名なのでしょうけれど、そちらは未見。
原作の方は、邦訳がなかなか見つからず(というか探してなかったんだけども)、これまで読む機会に恵まれなかったのですが、たしか去年、古書店で「ムムー」の収録された本を100円で購入できたので、ようやく読むことができた次第です。

聾啞者の大男ゲラーシムの物語。地主屋敷で見張り番のようなものとして働いていたゲラーシムは、お仕えする女主人の気紛れに翻弄され、ついには愛犬のムムーを自らの手で溺死させるに至る。これは、『猟人日記』と同様に、農奴制を痛烈に批判ないし揶揄した小説であると考えられます。女主人の我儘によって、彼女に仕える者たちはいつも怯え、恐怖し、場合によっては不条理で不本意な人生を歩まされます。その代表格としてゲラーシムがここでは描かれており、懸想する相手には逃げられ、愛犬を殺さねばならなくなります。作家は女主人を表だって批判したりはしませんけれども、しかし彼女が雇い人たちに及ぼす負の影響を詳らかにしてみせることで、その圧政を浮き彫りにしています。

このような分析を押し進めてゆくと、当然それは1850年代当時の時代背景(農奴制)に突き当たることになります。ツルゲーネフが農奴解放に果たした役割をこの小説に認めることもあるいは可能かもしれませんし、少なくともその意向を認めることはできるように思います。いずれにしろ、「農奴解放とツルゲーネフ」というテーマの内部に「ムムー」を定置させることになるのでしょう。しかしながら、個人的には、そういうところよりもむしろ、ゲラーシムが聾啞者であることに関心を惹かれました。更に言えば、且つ極めて正直者であるところに。

口がきけず耳も聞こえないということの他に、ゲラーシムは少々頭も足りない男だ、みたいに描かれているのですが、それと同時に心根は真っ直ぐな正直者であるらしい。一方では、物凄い怪力の愚鈍な男。他方では純真な男。この二つの性質の共存は、文学作品では比較的しばしば見られるように思います。もっと言うならば、文学では白痴であることと無垢であることの共存がテーマになることがよくあるように思います。このテーマは、子どもと無垢という別のテーマに変奏されることもありうるでしょうし、子どもと残酷さという正反対のテーマに接木されることもありうるでしょう。ベストセラーになった『アルジャーノンに花束を』は、知能を持つことの苦悩と白痴であることの天真爛漫さ、それに対する周囲の反応を克明に描いた作品です。

愚かであることと無垢であることとは、このように両立するものとして提示されるのですが、しかし賢明であることと無垢であることとは、いっかな結合しません。これはなぜなのか。西洋では、聖書の伝統があるから、知恵の実を食べてしまった人間は病苦を背負わなければならないという観念が支配しているのかもしれません。

ロシアでは、ユロージヴイ(瘋癲行者)という伝統が中世にあり、苦役者が襤褸をまとって白痴のふりをするのですが、しかし彼らは実は時の政権を批判しているのです。ここでは、白痴と賢明とが結びついています。

ゲラーシムには、一見して賢明さはないように感じられますが、しかしひょっとするとユロージヴイの役回りをさせられているのかもしれないな、と思いました。愚かな真似をしてしまう彼ですが、しかしその行為は彼を恣にする権力を逆照射しており、彼の行動に胸を痛める読者がいるとすれば、その悲しみは怒りへと変わり、矛先は女主人に向かうことになるのです。「権力を風刺する機能」を有したユロージヴイとしてのゲラーシムは、まさにその一点において「賢明さの機能」を果たしているのであり、こうして彼は、賢明-白痴-無垢の奇跡的三位一体を体現するに至っているのです。

それにしても、ゲラーシムをユロージヴイに見立てることは、結局のところこの小説を農奴解放というテーマの枠内に置くことになるんだなあ。う~む。ぼくはもっと、別のことを感じながら読んだのに、いざ小説について考えようとすると、読書中の感想を裏切る結果になってしまう。これは何か、不誠実なことのように感じるのですが、どうなのでしょうか・・・

整理整頓

2011-03-25 00:08:04 | 本一般
地震で机や本棚から大量の本やプリントが部屋中に散乱して、それらを片付けたのはいいのですが、そのとき、不要なプリントやチラシが大量にあるのに気がついて、もっと整理しなきゃな、と考えていました。今日改めて、不要なものを捨て、有効活用できていない場所をより有効に活用するために、本の配置替えをしました。その結果、本棚にそれなりにまとまったスペースができました!やった。

このスペースには、ハードカバーの本を置こうと思っています。ちなみに、床に置かれている本はそのままにしておきました。これらを本棚に移すのはわけないことですが、そうすると、何と言いますか、ありがた味が薄れてしまうような・・・。次に買う本は、本棚にしまえるのです。これはうれしい。

今日はこれといったネタもありませんので、これで終わり。ああそういえば、昨晩雪が少し降りました。

できること

2011-03-23 23:13:15 | Weblog
今回の震災に当たって、海外から日本に多くのメッセージが寄せられています。東京大学では、以下のサイトでその声を届けています。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/solidarity.html

東京大学のHPを見る人は限られているような気がするので、ここでも紹介しておきます。一人でも多くの方が、この連帯のメッセージを読んで元気づけられたらいいですね。英語、ロシア語、韓国語などに日本語が併記されているので、かなり大勢の方々がこれを読むことができるのではないでしょうか。

福島やその近県の農作物について。摂取制限された作物は仕方ないのかもしれませんが、そうではないもの、例えば栃木のイチゴとか、そういうものはこれまで通り食べたいとぼくは思います。原発の恵みを享受してきた人間の一人として、こういうときだけ原発の影響を忌避したくない。他の人たちがどう反応するのか分かりませんし、またぼくには他の人にぼくと同様の行為を強要することはできませんが、少なくとも自分は、これらの県の農作物で放射線濃度が基準値を下回っているものは、これまでと同様に食べていきたい。どこどこ産だからといって毛嫌いしたくない。至極当然のことです。

とても短い小説を二篇、読みました。思えば地震以来の読書かもしれません。ちょっと腰を落ち着けよう。自分にできることをやっていよう。

スタジオジブリ物語

2011-03-22 23:03:39 | テレビ
きのうテレビでやっていたので見ました。
前半は、いわばジブリ前史で、後半はやはり宮崎駿が中心。

前半が興味深かったですね。まだほとんど無名の頃の宮崎駿のテレビ出演映像は初めて見ました。あと、パクさんというのはアンパンをパクパク食べていたからそう呼ばれるようになった、というのは初めて知りました。かなり前から理由が気になっていたのですが、これでやっと謎が解けました。しかし小学生のあだ名みたいだな。

50年くらいを一気に2時間に短縮したので、かなりすっ飛ばした感があって、もっと詳しく知りたいのに、と思わざるを得ませんでしたが、でもこれは仕方ないのかなあ。とりわけジブリ時代のすっ飛ばし方はすごかったですね。高畑・宮崎両監督以外の作品は内容に触れることさえしませんでしたし。後期は「千尋」で紹介終わってるし。「千尋」は「水と記憶」の映画である、みたいな紹介の仕方は、まあ叶精二さんが制作に関わっているから出てきたものなのでしょうが、これはぼくの持論と一致するのでちょっと公民権が得られたようでうれしいのであった。もっとも、それだけに収斂される映画ではないんですけどね。で、宮崎駿と水、というテーマがありうることを番組は示していましたが、これもぼくにとっては前々から興味深いテーマなので、ちょっとうれしいのであった。もっとも、このテーマは既にかなり論じられているのかな。

そうそう、『雪の女王』における目の描き方が、その後の日本のアニメにおけるそれに決定的な影響を及ぼした、という指摘は非常に興味深かったです。なるほど、そうなのか。誰か検証してください。もう検証済み?

ついでなのでナウシカについて。
ナウシカって、いま思えば原発の物語として解釈できるからすごいですよね(核兵器をめぐる物語だという指摘は最初からあったと思いますが、原発の物語に限定することもできる)。文明の利器を用いて自然を克服しようとする者、自然と共生しようとする者、という対立ないし融和は、原発というワードを中心に回っているような気さえします。その意味で、(特に漫画版で)クシャナが非常に魅力的に描かれているのは、やはりすごい。文明の利器/核を利用しようとする人間が、あまりに人間的であることを暴きだし、彼女を善悪の彼岸に置いている。

だからぼくは、「もののけ」でエボシが死ななかったことにやはり感心しています。鈴木敏夫は、エボシを殺したらどうですか、と提案したらしいですが、しかし宮崎駿は結局エボシを生かした。エボシというのはクシャナ的な、最も人間的な人間。彼女を殺してはいけなかった。ぼくらの過去を、今のぼくら自身を否定することになるから。ぼくらが悪だったと断罪することになるから。でも、誰にもそんな資格はない。人間が清濁併せ持つ存在だということを宮崎駿はナウシカやもののけで描いたのだから、もし最後にエボシを死なせていたら、ものすごく薄っぺらな映画になっていたと思います。

それにしても、鈴木敏夫はけっこう映画に口を出すみたいで、宮崎駿や高畑勲はそれに対して、「何をっ」とその指摘を乗り越えてゆくのですが、力のない監督は、唯々諾々と従ってしまっているような傾向があるようなないような。ないですか?

前半で近藤喜文さんがあんなにクロースアップされていたのに、肝心の彼の監督作品には触れずじまいだったのはかなり残念でした。それにしてもきのうの蒼井優は妙にかわいかったな、とそれが印象に残った。

太古にことばありき

2011-03-19 23:42:12 | Weblog
ブログというものは日本はおろか世界中で見ることができるものでしょうけれども、最近のぼくが念頭に置いているのは東京の人たちでした。東京は困難な状況にあるけれども、でも東北はもっと大変なんだぜ、ということをこのところ書いてきたつもりです。

ところが、その意図はどうやら必ずしも伝わっていないらしいことが分かりました。東京のことばかり書いて、被災地への想像力に欠けている、と受け取られているらしいのです。あまつさえ東京の危機を喧伝していると。

これは、ごく一部の人による誤解なのか、それとも多くの方々の共通理解なのか、それは分かりませんけれども、もしも後者だとすると大変残念なので、そんなことはないのですよ、とここで申し述べておきます。

東京在住の人を念頭に置いているのは、ぼくが東京に住んでいるからです。そして、彼らの恐れや不安を日々感じてきたからです。ぼくには東北や東京近県に住んでいる家族や親戚、友人・知人が何人かいますが、彼らの恐怖や孤独といった感情に対して、届けてあげたい言葉はあっても、それが余りにも無力で、またかえって逆効果になることを危惧しています。だから、これまで励ましや同情の類のメッセージを発することはしませんでした。いったいそのようなことがぼくにできるでしょうか?確かにここには様々な考え方があると思います。でも、ぼくは、そのメッセージがかえって被災者を怒らせ、傷つける可能性の方を重んじているのです。恐れている、と言ってもいいです。だから、ぼくにできることは、微力ながらせめて都民の不安を取り除くことでした。そのために少々興奮し浮足立っていた面があったことは、またそのために誤ちすら犯したことは、先日書いたとおりです。

落ち着いてきてからは、ぼくは自分の心構えについて書きました。平常通りの生活を続けよう、と。何があっても慌てず、冷静に、心を平らに保ち続けよう、と。このときぼくは、東京が大地震に襲われても、放射能まみれになっても、とやや過激な言葉づかいをしました。恐らくそれが「不安を煽っている」と誤解された要因の一つではないかと思いますが、自分としてはそういう意図は全くなかったとしか言えません。もしもこの言葉が誰かに不安を与えたのであれば、それは謝らなければならないのかもしれないし、軽率だったのかもしれません。でも、そういう意図ではないことは、文脈から明らかであるとぼくは思っていました。

また、実際に放射能の危険と隣り合わせの人たち、地震に遭われた人たちに対して無神経ではないか、という問題に対しては、そうではない、としか言えません。東京が先日と同規模の地震に襲われる可能性はあの時点でかなり高かったのですが、それでも今は淡々と日常を生きようではないか、とぼくは書きました。全く同じ文脈で、ぼくは放射能のことに言及しました。配慮を欠いていた?そうだろうか?ぼくはあの言葉を書いたとき、福島へ思いを馳せていただろうか?東京が放射能まみれになっても、と書いたとき、その恐怖に怯える人々に胸を痛めていただろうか?・・・ぼくは、それでも平静を保ちましょう、と書きましたが、それは想像力を欠いた無神経な驕慢に過ぎなかっただろうか?お前はいいよ、楽天的なお前は、地震が起きても放射線が拡散しても、能天気に生きていけるのだからな。だがそうではない人間の方が多いんだよ。それがお前に分かっているのか?お前は己の悲劇的な楽天的感性にのみ準じて物事を思考し、他者への配慮を決定的に欠いているのではないか?他者の痛みを死ぬまで知ることのできない、想像力と友愛における不具者ではないのか?お前は楽天的に生きたらいいさ。勝手にそれを説くがいいさ。しかしそれを見る者聞く者はそれに嘔吐をもよおすんだぜ。・・・でも、ぼくは、ぼくは、どうか多くの人に日常を送ってもらいたかった。それだけだったんです。福島の方々がどのように感じるのかぼくには分かりません。ぼくは精神的な跛行者なのかもしれません。でもぼくは自分なりに考えて書きました。だからこそ精神的に足をひきずっているんだよ!考えた末にしたためた文章がこれだ!傷つき、眉を顰め、怒りを表す人たちがいるんだよ。どんなに「そうではありません」と弁明したところで、もう取り返しはつかないんだよ。安全なところで書き続ける卑劣な豚め。お前は、人間なのか?

言葉というものは、どうしてここまで曲解されて伝わってしまうものなのでしょうか。言葉を用いるのがとても怖い。ぼくは文章を書くのが好きだし、読むのも好きです。解釈が十人十色であることは承知しているつもりです。けれども、こんなにも恐ろしい思いをしたのは、初めてかもしれません。軽い気持ちで始めたブログですが、これほどまでに危険な行為だったとは、と戦慄しています。

一連のブログ記事の言い訳みたいになってしまいましたが、でも、これすら、誤解されて伝わることは避けられないのかもしれません。そうだとすれば、言葉っていったい何なのでしょう。伝達道具としてはあまりに欠陥すぎる。どうしたらいいのか、正直分かりません。いま、絶望に囚われています。ぼくは誤読の積極的な可能性を信じているし、言葉の力といったものも信じています。それでも、この絶望感は・・・

ぼくは本当に、思いやりや友愛、共苦、情けといった精神の欠損した、あまりにも不完全な人間であるのかもしれません。いえ、今は強くそう感じています。言葉の問題以前に、自分自身の問題なのかもしれません。

流言飛語の類

2011-03-17 14:48:02 | Weblog
先日、親戚の原発の専門家の話では、というようなことを書きましたが、そういうことは控えるべきでした。深くお詫びいたします。

不安を煽るようなメールが巷で多く出回っているようだったので、ぼくとしては、大丈夫だよという専門家の話を交えてそういう不安を鎮静化させようという意図だったのですが、しかしどういう理由であれ、他の人たちからすれば出所の怪しい情報を発信してしまったのは、いかにも軽率でした。文学研究においても、出典は必ず明記すべきというのは、卒論レベルの論文でも徹底して指導されることです。ぼくはそれができていなかった。反省しています。

こういう点も含めて、ぼくは浮足立っていた。恐らく多くの方は今もそうなのだと思います。ぼくが言うのもおかしいですが、親戚の誰それの話、出典の明記されていない情報は、信じてはいけない。ネットやメールで曖昧な情報を発信する人は、善意であれ、やはり浮足立っているが故にそうしている場合が多いかもしれません。そういう人は自制心や正しい判断力を欠いている可能性があるので、なおさら信用すべきではない。

また、放射線に関しては、テレビや新聞で情報に接する限り、素人が正しく理解できるレベルを超えているように思われます。放射線の種類、その各々の特性、拡散距離と強度の反比例関係、時間による減衰、などなどが絡まっており、素人が僅かな数学の知識と一般常識をいくら駆使しても、危険の予測や解明はできません。日々新しい情報が出てくる現状において、放射能と放射線の区別もついていなかったような人、あるいはシーベルトという単位を今回初めて聞いた人などは、自己判断は不可能なので、政府と専門家を信頼して、その判断に従うほかありません。出所不明の情報に振り回されてはいけないし、自分で不安を募らせて過剰に心配する必要はないはずです。自分にはどう考えてもコントロールできない事柄なので、むしろデーンと構えている方がいいと思います。パニックにならず、臨機応変に対処するためにも。

もっとも、これですらあくまで素人の考えなので、自分の一番信頼する人の意見を参考にするのがよいと思います。ただその際に注意すべきは、何度も繰り返すように、放射能に関しては、チェーンメールはもちろん、専門家ではない友人・知人の意見も、出典不明の情報も、信頼に足るべきものではないということです。ぼくは専門家ではないので放射線についてはまるで分かりませんが、心構えを説くならば、東京の人たちは過度に不安がらずに、なるべく日常を生きるべきだと思っています。もちろん、節電と備えは万全にして。とにかく不安を煽らないこと。そして煽られないこと。

ふと、百先生ならこの都民のパニックをどうおもしろおかしく描写するかな、ということを考えました。あるいは漱石ならどう冷静に論評するかな、と。あるいはチェーホフなら。いま危機的状況にあるのは東京ではありません。東北地方です。そこへ想像力を巡らし、その上で、ぼくらは自分のやるべきことをただ淡々とこなしてゆくべきです。

最後に。東北にお住まいの方々は、もう限界だと聞き及んでいます。でも、どうか暴動は起こさないでください、と祈るような気持ちでおります。喧嘩しないでください。争わないでください。こんなことを言える立場ではないですけれども、飢餓の苦しみを知らないお前が何を、とお思いかもしれませんけれども、でも、どうか、東北人の粘り強さで、この艱難辛苦を耐え忍ぶ心の強さで、ぼくらを驚かせてください。いま、日本は海外からも注目を浴びています。日本人の、東北人の辛抱強さと冷静さで、世界をあっと言わせてしまいましょう。そうしたら、どんなに胸のすく思いがすることでしょう。東北は日本の誇りだと、世界の誇りだと、誰もが思うに違いありません。でも何よりも、自分たちのために、無茶はしないでほしいのです。ああ、早く東北へ食料を!

位置について、よーい・・・

2011-03-16 15:11:32 | アニメーション
「高畑勲・宮崎駿作品研究所」の叶精二氏は、今回の事件を受けて次のように書いています。

阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件に揺れた1995年、宮崎駿監督は(事件発生以前に)
「On Your Mark」で放射能汚染された大地とコンクリート壁で覆われた退廃都市を描きました。
最悪の状況でも「On Your Mark(位置について)」を映像のリフレインで繰り返し、
「やり直しは可能だ」「まだ引き返せる」と語りかけました。
今度も再起の可能性を信じたいものです。
また、同時上映された「耳をすませば」を監督された故・近藤喜文さんは
以下のように語っていました。
「困難な時ほど、より健やかに」と。
(http://www.yk.rim.or.jp/~rst/cgi/minibbs01/minibbs.cgi)

アニメーションを研究する側、あるいは文学を研究する側は、実際的なことには無力かもしれないですけれど、この叶さんのように、過去の作品から教訓を引き出したり再起の希望を見出したりして、人々を勇気づけることはできるのだな、と思いました。アニメーション・文学を問わず様々な作品を鑑賞しその解釈を自分なりに行ってきたぼくも、そして文学研究にささやかながら従事する者として、叶さんに続きたいものです。

「On Your Mark」は、6分半の短編で、舞台は「放射能汚染された大地とコンクリート壁で覆われた退廃都市」です。その退廃都市で、二人の警官が翼の生えた少女を宗教団体から救出し、コンクリート壁を抜けて、外の汚染されたはずの大地の大空へと少女を飛び立たせる、という物語です。特筆すべきは、リフレインが多用され、何度も場面が巻き戻されて最悪の状況から希望へと物語が変転してゆくことです。ここに、叶さんは「やり直しは可能だ」「まだ引き返せる」という希望を読み取っています。

現実問題として、「引き返し」はもはや不可能の事態になっていますが、しかし「やり直しは可能だ」というのは本当だと信じたい。この作品では、放射能汚染された無人の土地がむしろ清浄の地、人間のいる都市が退廃した場所として描かれているように見え、そこには宮崎監督の思想が垣間見えますが、しかしそのような世界でさえも「生きるに値する」ということを宮崎駿は常に描いてきました。人間は本当にどうしようもないものだ、原発の安全を宣言してきた人間もどうしようもないものだ。でも、それでも生きるに値するのだ。苦しんでいる人がいる。助からなければよかったと嘆く人がいる。それでも、人生は生きるに値する。「On Your Mark」の次に作られた「もののけ姫」という作品はそういう物語でした。

「人間の業は罪深い」という思想があります。しかし、だから罰を受けねばならないのではなく、だから生きねばならないのです。宮崎駿は、いつもそんな世界を描いてきました。

世界はやり直しが可能だし、生きるに値する。「On Your Mark」で汚染された土地を憧憬すらした宮崎駿は、次回作の「もののけ」で、再び人間の側へ戻ります。「On Your Mark」は「位置について」という意味ですが、この作品(あるいは漫画版ナウシカ)で一度人間の業を認識した宮崎駿にとって、その行為はまさに出発点だったのであり、そこから、「よーい、どん!」と人間賛歌の作品群を、ときに楽天的すぎるほどの作品群を生みだしていったのではないでしょうか。何度でも言いますが、人間は、人生は、生きるに値する。思想的にどん底まで降りて行った宮崎駿の結論です。ぼくは彼の結論に従う。いまは、「On Your Mark(位置について)」の時期です。これから、よーい、どん!と飛び出してゆきます。

生きるための武器を何にするのかについて、amazarashiは「ぼくは歌で。君は何で?」と歌いましたが、ぼくはペンで。そしてアニメーションと文学で。これで生きていきます。

ぼちぼちいこうぜ

2011-03-15 22:27:18 | Weblog
うむ、ちょっと浮足立っていた。
国外にいる友人から、東京はもう安心なんじゃないか、というメールを2日くらい前にもらったので、何をアホなことを言っとるのだ、とそのときは思って「何をアホなことを言っとるのだ」という調子で返信してしまいましたが、うむ、普段の冷静沈着を自他ともに認めるぼくとしては、これは浮足立っていたぞ。しまった。このぼくですら、自制心を失くしていた。ごめんなさい、とこの場を借りて謝っておきます。

もうこんな世界で生きていたくないとか、夜寝るときはただこのまま目覚めないことを祈るとか、そんなことばかり常々言ってきた自分としては、東京で大地震が起きようが、放射線が拡散しようが、いつも通りぼちぼち生きていくしかないのであります。ぼくはこういう生き方しかしてこなかったし、これからもこういう生き方しかできないのです。じたばたと必死になって生きようと努力したりはできないのです。まあいいや、と日常をこれからも生きていくことにします。東北はもっと大変なんだぜ。

ただ、ぼくのような生き方をしていない人、本当に生きようと欲している人には、今回のことはお気の毒です。お気の毒というか、なんともやりきれないですね。その心痛はいかばかりか。ですが、もっとつらいのは東北だよなあ。

きのう、東京では通勤時の大パニックが起こりましたが、これは東電の他にJRも悪いのかよく分かりませんが(東電が悪いのは確かだけど)、これだって被災地に比べれば、朝飯前なのです。もっとも、こちらは人為的ミスなので甘受しようという気にはなりませんがね。それにしても、こんなのが毎日続いたら死ぬぜよ、と思っていたら、今日はわりと普通の感じでしたね。よかった。

放射能まみれになっても、泣き言を言いながらなんとか生きていくしかないし、ぼくはそういう道を選んでいるのだと思います。これは生き方の問題です。ぼくはいつの間にか、そういう道を歩いていたみたいです。ぼくはそれでいいけれども、家族はどうなんだ、という問題はありますが、今のところ家族もそういう生き方みたいですね。まあ、いずれにしろ疎開する場所なんてないし、ぼくは東京で生まれたから、東京で生きていきますよ。なんだかんだ言ってここがふるさとですからね。もし退避せざるを得なくなったら付和雷同してどこかへ退避するまで。それだけです。日常を、淡々と、生きていきます。早く死にてえ、って性懲りもなく呟きながらね。

それはそうと、なんとか今の事態が収束に向かい、被災地は一日も早く復興してくれるといいなあ。またぼくは東北へ旅したいですよ。少なくとも今は、今の東北のために、節電ですね。そのためブログは当分閉鎖しようかなと思いましたが、日常性を保つために、またどうせメールチェックや情報収集のためにパソコンは開かないといけないので、節度を保ってぼちぼちと更新していけたらいいなと思います。どうぞご理解ください。代わりに、ストーブやヒーターは消して、遅くまで電気を付けないで早めに寝るようにします。

そんな、感じ。

ああいま、余震ですごい揺れている・・・

国難

2011-03-13 16:50:08 | Weblog
これは第二次大戦以来の日本の国難ではないかと思いますが、何とかやっていくしかない。

東北から関東にかけて、M.7以上の余震が、今後3日間の間で起こる確率は70%以上だそうです。こうしている間にもそれが起こりかねないかと思うと、正直恐ろしくなる。ただ、あくまでこの数字は目安であり、確率であるので、今後の状況次第では変動するという。しかしながら、もう一度あの規模の地震が東京で発生する可能性があることは確かなので、気を確かに持っていようと思います。

なお、親戚の原発の専門家にお話を伺ったところ、福島の放射能が東京まで飛散する恐れは、「現時点ではまず考えられない」そうです。低い濃度の放射能しか今のところ確認されていないと報道があるし、過度に不安がる必要はないと思われます。

原発を巡っては、情報が錯綜していたり、そもそも伝達が遅い、という批判がありますが、官房長官の受け答えを聞いていると、かなり頭の切れる人という印象を持ちました。不確実で曖昧な情報に流されるのではなく、ここは政府を信頼するしかない。

ぼくは、11日は早稲田大学で特別講義を受けていて、そこで地震に遭ったのですが、その後色々あって結局、開放された大隈講堂に一泊することにしました。しかし、私鉄が運行を再開し、しばらく様子を見ていたものの、どうやらぼくの家の方角に行く電車は終夜運転するようなので、普段のJRは使えないですが、その私鉄に乗り、家の近所まで行って、そこから歩きました。帰宅したのは深夜2時近くになっていたと思います。

大学を後にしたときはもう0時を回っており、それから移動を始めるのは迷いましたが、ひょっとしたら家に母が一人かもしれないと思いましたので、帰ることにしました。途中で公衆電話から自宅にかけたら、父も帰宅しているとのことだったのですが、もう大学を出てしまったし、やはり帰ることにしました。

しかし、恐らく大学に留まることが正解だったでしょう。無理に帰宅するのは危険だと判断して、ぼくも当初は残ることにしました。ただし、家にもし誰かが一人で残されているとしたら、そして帰宅手段が徒歩も含めて一応あるとしたら、帰らざるを得ない。このジレンマについて考えなければいけないな、と思いました。

今後、状況によってブログの更新が疎かになるかもしれませんが、色々と忙しいためであります。あと、皆さんいらないものは捨ててしまいましょう。今回部屋を片付けていて、いかに不要の物を後生大事に取っていたかが分かりました。

東北の沿岸部は壊滅、一つの町の住民の半数と連絡が取れない、などと報道されていますが、ぼくらはいたずらに慌てず、淡々と「そのとき」に備えていくしかありません。

よりよく生きていきましょう。

無事確認

2011-03-12 11:45:16 | Weblog
仙台の兄の無事を確認しました。しかしきのうから飲まず食わずらしい。

ちなみに、きのうから携帯の電池が切れてしまってどうしようもなかったのですが、今日部屋の中で充電器を探し当てたので、いま充電中。

それにしてもえらいことになった。

なお、東北にご家族のおられる方で、連絡が付かなくて心配していらっしゃる方もいるかと思いますが、それは現在の極端な通信規制と、公衆電話の不足が一因なので、過剰に心配することはありません。兄の場合、公衆電話に2時間並んだそうです。携帯よりは固定電話が通じます。一人でも多くの方のご無事をお祈り申し上げます。