Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

だらだら書く

2013-11-30 23:10:49 | Weblog
自分が軽率すぎて困るってこととか、10年前に比べてちっとも進歩していないこととか、そういうことの他にもっと別なことを書こうと思ってたんですが、それが何なのか忘れてしまった。忘れてしまった状態で書き始めたので、見切り発車。

大阪では初雪って話を昨日(だっけ?)聞きましたけど、それは当然驚きましたが、24年前に降っていたってことにも驚きました。東京で11月に降雪があったのって、今から何年前のことなんだろう(そもそも11月に雪が降ったことなんてあったんだろうか)。

冬になるとこの部屋寒いんだよなあ。夏はエアコンつけるけど、冬はなぜかつけない習慣。そして習慣を変えるのに抵抗がある自分は、やはり今日もつけない。

天気予報のとき、いつもみなかみに目が行ってしまう。あそこだけ他の地域に比べて気温がぐんと低い。今度は草津にでも行ってみたいけど、しかし温泉以外に何かあるんだろうか。ま、温泉街をそぞろ歩きするのも一興だとは思いますが。

久々にだらだら書いた気がします。いやそうでもないかな。

本棚を購入

2013-11-26 21:25:00 | Weblog
『かぐや姫の物語』の感想を書くとか言っておきながら、書いてないですね・・・。今日もそれとは別の話。

蔵書が本棚の許容量を超えてからもう月日が経ちますが、なかなか本棚を追加購入できずにいました。しかしこの間ずっと手をこまねいていたわけではなく、色んなことをしていたわけです。まあでもその話はおいといて、今日ついに本棚を購入しました。

といっても、まだ自宅に本棚はなく、来月運送されてくる予定です。

これでやっと段ボールに入っている本とか、平積みになっている本とかを収納する目処が立ちました。やったね。

あとは、どの本をどういうふうに収納するかという問題がありますが、追々考えよう。

かぐや姫の物語 前置き

2013-11-24 00:19:57 | アニメーション
パンフレットに掲載されている監督・高畑勲の解説と俳優・山口智子のレビューによって、この作品の肝の部分は言い尽くされているのではないだろうか、という気がしなくもないですが(とりわけ山口智子のレビューは実によく書けていた)、でも一応自分の言葉で感想を述べてみたいので、ここに少し書いておきたいと思います。

まず初めに言うと、すばらしかった。ここまで感動するとは思っていませんでした。感動する用意なんてできていませんでした。高畑勲の監督作は、世間的にはなぜか冷遇されている気がするのですが、もし何らかの先入観があって『かぐや姫の物語』を見に行くつもりがないという人がいたら、ぼくはその人に「試しに行ってごらん」と勧めたい。

でも、今yahooのレビューを少しだけ閲覧してみたら、低評価もそれなりにあって、驚きました。どんなに優れた作品で、どんなに自分の心に届いた作品でも、それが万人から理解されることはない、という当たり前の事実に、打ちのめされました。ああいうレビューを見ていると、文章のひどさ(文法的な誤り、誤字など)や内容のひどさ(事実誤認、明らかな的外れ、無教養、傲慢な姿勢など)にうんざりし、そういう人たちから低評価されてしまうことに義憤を感じる一方で、そういう人たちから高評価されてしまうことに遣り切れなさを感じてしまいます。もちろん、そうではないレビューもたくさんありますが、そうではないレビューも低評価だったり高評価だったりして、結局のところ万人から支持を得られているわけではないのです。

傑作だからこそ評価が割れるのでしょうか? ドストエフスキーだって、万人から理解されているわけではありません。生前は評価されなかった天才たちも大勢います。でもぼくは悔しい。こんなにも心揺さぶられる作品がけなされるのは見るに堪えません。ひょっとしたら「批評」というのはこういう瞬間に誕生するのかもしれないな、とふと思いました。

なんとかこの作品のすばらしさを人々に伝えたい。もっと知ってもらいたい。その欲求の一方で、しかし自分の言葉でそんなことが果たして可能だろうか、この作品を伝える言葉などそもそもありうるのだろうか、という不審が沸々と湧いてきます。この欲求と不審に引き裂かれながら、それでも欲求の勝る時間というものがあって、そういうときに慌てて「批評」を書かなくてはなりません。

どうやら前置きが長くなりすぎたようです。そしてその間に、不審の影が大きくなってきてしまいました。

『かぐや姫の物語』は、様々な見方をすることができます。ぼくは、「喪失の物語」としてこれを捉え直してみたい。そして一人の人間が生きて死ぬまでの過程とその「物語」とを密に関連させてみたい。というのは、ぼくが劇中で涙したのは、まさに「喪失」のシーンであったから。喪失の予感と、喪失の実現。

すみません、たぶん明日書きます。ぼくは劇場で嗚咽を堪えるのに必死でした。感動したからいい作品だなんて言うつもりはありません。ただこれは自分の心に響きました。余りにも高く、深く。よもやこれほどの衝撃を受けるとは、全くもって予期していませんでした。その衝撃の大きさのあまり、レビューを書くことすらできない・・・。

疲れる

2013-11-21 00:21:05 | Weblog
日々色んな文章を追うのに疲れる。書くのも疲れる。ブログを書く気力が起こらないぞ。

昨日は、学校に行くと動悸が起こるって話をしようと思ったんだけど、うっかり忘れてしまった。まあ今に始まったことじゃないから別にいいんだけどね。

で、今日は、amazarashi『あんたへ』がなかなか自宅に郵送されてこないことにやきもきした。17時くらいに郵便局に電話して、やっとポストに入れてもらった。「冷凍睡眠」は圧巻だった。

ふーむ、ブログを書いているうちに少しずつ元気が戻ってきた。やはりこんなふうに漫然と、文章にほとんど気を使わずに書き散らせるってところは魅力だな。もうここ何年もの間、読むのよりも書く方が好きだ。どうしようか迷っていたんだけど、やはりここをホームにするのがよさそうだ。だらだらと下手な文章を延々と連ねていられるから。そうすることで、精神の疲れも和らぎ、落ち着いてくる。

こっから外は、戦場だ。

イラストレーターになってほしい

2013-11-19 23:57:17 | 音楽
さっきまでSOL に出演してた amazarashi の生放送、よかったね。特にイラストレーターを目指してるっていうサキとの対話はよかった。素でもらい泣きした。サキ、どうか頑張れよ。そしてイラストレーターになってくれよ。

色々と考えさせられましたね。

なんか短いけど今日はこの辺で。

一時的に

2013-11-18 00:17:21 | Weblog
いま、一時的に(たぶん)忙しいです。

色々と戦略を練ってみたけれども、しかしそんなことは元々性に合わない。おもしろかったらやるし、つまんなかったらひく。それだけだ。そしてなるべく真摯に物を書いてゆく。打算はいらない。できるだけ正直に、真面目に。それをぶつけるべきところにぶつけてみる。こうやって生きる他ない。

他人の動向や思惑を気にしたって仕方ない。あちらはあちら、こちらはこちら。

いつも世界はサカサマだ

2013-11-14 23:53:06 | アニメーション
「上り坂」っていう言葉がある。文字通りに捉えて、これを人が上ってゆく坂のことだと思ってる人たちがいる。もちろんそれは間違いじゃない。でも完全に正しいわけでもない。なぜなら、坂の上にいる人から見れば、「上り坂」は「下り坂」だから。つまり、そこには「坂」があるだけであって、「上り」とか「下り」とかいう形容詞は、全くもって相対的なものなのだ。もしも自由に飛び回れる視点の持ち主がこの世界を眺めたら、そこには「上り坂」も「下り坂」もなく、ただ「坂」があるだけだろう。

『サカサマのパテマ』という映画は、一言でいえば、こういう「坂のパラドックス」を主題化・構造化している。地上人から見れば、重力は地中に向かって働いている。でも地底人から見れば、重力は空に向かって働いている。後者は空に落ちてゆくのだ。しかし彼らにとって、それは決して不思議なことではない。彼らの世界ではそれが真理であって、空は奈落に他ならない。

こんなふうに書くと、この映画は難解なんじゃないかって敬遠したくなるかもしれない。でも実は全然難解ではなくて、小難しい理屈なんて出てこない。世界が変われば見方が変わる。人が違えば見方も異なる。そんな当たり前のことを、本当は誰だって知ってるはずのことを、重力が正反対に働く世界を並立させることで、見事にビジュアル化している。

そういう意味で、この映画は異文化コミュニケーションや未知との遭遇がテーマだと言っていい。「異文化」や「未知」というのは、自分の属しているのとは異なる文化、世界、人間のことで、例えば地上世界と地底世界なんかがそれに相当するわけだけど、よりミクロなレベルで言えば、異性のことでもある。少年にとっての少女、少女にとっての少年。もうお分かりのように、この映画は「ボーイ・ミーツ・ガール」の王道なのだ。

ところで、「地上世界」や「地底世界」なんていう言い回しをする限りにおいて、ぼくもまた一つの偏見に捉われたままだ。この言い方は、「地上世界」の側から見た視点に由来していて、「地底世界」から見れば、「地上」こそ「地底」に他ならないから。でも相対的な概念/言葉がこんなふうに全部サカサマになってしまうのでは、ぼくらは意味の通る文章なんて書けやしない。つまり、ぼくらはぼくらの見方に否応なく縛られていて、別の見方に立って何かを考えることが、ほとんど不可能なのだ。

この映画は、そのことも教えてくれている。どんなに相手のことを分かった気になっていても、本当にその人の立場になってみない限り、実は全く理解していなかったことを。他者理解というものが本質的に極めて困難であるという事実を『サカサマのパテマ』は描いて見せるわけだけれど、でもこの作品はそれによって絶望を提示したりしない。それどころか、事も無げに、あっけらかんと、こう言い放っているかのようなのだ。「だったら相手の立場になってみりゃいいじゃないか」って。

一つの価値観が、次々とひっくり返されてゆく。特定の価値観、自分(たち)の価値観だけを真だとすることがどんなに愚かしい営みなのかということを、『サカサマのパテマ』は映画全体で示してくれている。そんな価値観は、別の人から見たらサカサマの価値しかないんだぜってことを、陽気に教えてくれている。

世界はいつもサカサマで、こんがらがっているけれど、でも他者同士が手を結べば、空だって飛べてしまうのだ。色々と詰めの甘い部分もあるけれど、希望と可能性に満ちたいい映画だと思う。

ぼくは匿名じゃない

2013-11-13 23:31:45 | 音楽
amazarashi『匿名希望』限定視聴開始。
これはかっこいいね。個人的には『あんたへ』よりもずっといい。


amazarashiが今よりもずっと知名度が低かった頃、googleで「amazarashi」と検索すると、ぼくのブログがトップあるいはかなり上位に表示されていた。そのことを友人に話したら、彼はこう言った。「じゃあ絶対ブログ見てるよ」。

あれから月日が流れ、amazarashiは次第に有名になっていった。単純検索してもぼくのブログは現れない。でもぼくは、心のどこかで信じている。秋田ひろむはこのブログを読んでいる。

たとえそれが愚かな願望に過ぎなくても構わない。誰もが「そんな馬鹿な」と言って嘲笑っても構わない。ぼくはこれから秋田さんに宣戦布告する。

「あんた」の歌う通り、「あんた」はぼくの代弁者じゃない。そしてぼくは匿名でもない。秋田さん、ぼくはあんたに追い付かないといけない。泥濘を這いずり回る生活もこれでお仕舞いだ。とりあえずあんたの背中を追いかける。

ぼくはこの苦しみも悔し涙も忘れない。この苦しみと悔し涙から生まれたものを抱え続ける。逃げることを断罪しない。闘うことを推奨しない。闘う辛さを表現しない。諦めてしまう弱さ、努力できない虚しさ、何もできない無力、全部背負い込んで、それでも立って歩いてみせる。あんたが投げ出そうとしてる弱さも無気力も背負い込んでやるよ。

ぼくはジュブナイルなんて歌わない。死んだ魚の目をしてた頃のあんたを歌うよ。ぼく自身を歌うよ。

秋田さん、ぼくはあなたの歌を曲解してますか。一人で競争心を燃やしてるなって笑いますか。いや、あんたはそんなことしない。それは、分かってる。

これは真剣勝負だよ、秋田さん。大袈裟でもなんでもなく、生きるか死ぬかだ。もう「追いつめられたステージ際」なんだから。近くぼくは行動する。人生の半分以上にわたって溜め込んできた鬱憤を、恨みつらみを、一気に昇華させる。

もう用意はできているんだ。

雨、封印された空き地

2013-11-12 00:58:27 | お出かけ
予告通り、聖蹟桜ヶ丘に行ってきました。って、ブログ上で予告してたっけな?人には(意味もなく)告げていたのですが。まあいいや、ともかく行ってきました。

本当は午前中に家を出て、お昼をロータリーのお蕎麦屋さんでいただこうと思っていたのですが、なんとなく寝過して、結局家を出たのはお昼過ぎ。もちろんご飯は食べてしまった。

お昼頃はけっこう暖かくて、厚着していたのでちょっと失敗したかななんて思っていたのですが、次第に雲行きが怪しくなって来ました。今日はロータリーを通り過ぎて、久々に給水塔まで行ってきたのですが、その近くでポツポツと雨が降り出しました。

最初はフードを被れば防げるような降りだったので、特に慌てもせずに「思い出の階段」へ。ああ、ここに来るのは何年振りだろう。「あれ」から訪れたことがあっただろうか。一段一段登ってゆくと、右手には「あの空き地」。しかし真っ先に目に入ったのは、入口の封鎖でした。鉄線が張られている。空き地の奥には苔むした倒木が静かに横たわり、その手前一面はまだ青々としていました。垂れ下がる紅葉は色づいておらず、時期が早かったようです。ここは秋が深まれば、紅葉は赤々と燃え、赤や黄色の落ち葉が足元を埋め尽くし、それはそれは美しい場所になるのですが。でもたとえその時期に来たとしても、この鉄線の向こうに行くことはできない。こんなふうになったのは、いつからだろう。

音もなく降り募る落葉。間断なく雪のようにはらはらと落ちてくる黄色の葉。その光景を思い出す。でもあれは、百草園だったな。百草園から東寺方まで踏破して、夕闇の迫るのも構わずに、ぼくらは紅葉や楓の葉と戯れていた。あれはもう、一昔前。

けれども、そんな感慨に浸る間もなく、ぼくは階段を足早に登り始めました。雨が強まったのです。登りきったところには、大きなドングリの木と照葉樹。ここでしばらく雨宿り。

とても静かで、雨がジャンパーに落ちる音や風の音の他は、何も聞こえませんでした。時折り、木々が風に揺られる音に混じって車の走る音が聞こえ、坂道を走り抜けて行ったりしました。

給水塔は文字通り目の前にあったので、雨が小止みになるのを待って、その給水塔を経由して帰ることにしました。ところが、方向音痴なぼくですので、来た道じゃないと帰り道が分からない。あれれ、ここはどこだ、と思った矢先に、突然の豪雨。まるで台風みたいな暴風雨で、慌てて近くの横道に逃げ込み、再び木の下で雨宿り。風の通り道から外れていたこと、木々が密生していたこと、幾つかの幸運が重なって、これほどの雨の中でも大して濡れずに済みました。

やがて向こうの空に青が広がり、辺りも明るくなって来て、雨もほとんど止みました。来た道を辿り、帰途に就きます。ただ、雨の襲来で気温が急激に下がり、だいぶ寒くなってきました。青空は勢力をいよいよ広げ、すっかり気持ちのいい天気になってしまいましたね。

去り際に「あの空き地」をもう一度確かめました。ぼくは今後ここに来ることがあるだろうか。来るとしたら、一人で?それとも誰かと? たとえそれが誰であろうとも、この空き地の思い出をその人に語ることはないんだろうな。

晴れ、曇り、雨、そしてまた晴れ。目まぐるしく変わる天気でしたが、これもまたいい思い出になりました。

河豚

2013-11-10 01:08:29 | お出かけ
初めてふぐを食べました。ふぐ刺しってやつ。でもなんか味がないな・・・。量も(テレビとかで見るよりも)少ないし。お手頃価格で食べられるふぐってのは、こんなもんなのかな。もみじおろしは美味しかったですけどね。あと、ふぐの唐揚げも食べました。こちらはけっこうイケましたね。

ええと、詳しく書こうと思えば書けるのですが、何となくそういう気分ではないので、今日はこんな感じで。

そういやあ、文フリで大学の後輩に当たる人に会って、挨拶してきたのですが、今も同じ大学に通っているにもかかわらず彼とは実は面識がなく、この間が初対面でした。どういう人なのかなと前から関心はあったのですが(文学界では有名人なので)、これまでは機会がなかったですね。なかなかおもしろそうなことをやっているみたいなので、もうちょっと様子を見てみようっと。彼がネットでやっていること(やろうとしていること)は、個人的にはとてもおもしろいと思ってます。ぼくも方向性としては同じようなことをやろうしましたが、生憎才能と知識と技術と意欲と実行力(ほか諸々)がなく、現在のところ半ば放棄しているんですよね。彼はぼくよりも才能と知識と(以下略)が格段にあるはずなので、今度お伺いを立ててみようかな。

逃げ道、あるいは知の悲しみ

2013-11-07 23:01:13 | Weblog
児童虐待のニュースが流れると、加害者も幼少期は被害者だった、みたいな報道がよくなされて、それに対して、「虐待の連鎖は止めなければならない」とか「たとえ被害者であったとしても虐待を正当化することは絶対できない」とか、そういう報道がなされたりします。ぼくはそういうのを見ていて、最近いつも思うことがあります。

これから書くことは、虐待を擁護することではもちろんないし、それを防ぐ手立てを提案することでもありません。全くもって個人的な感想であり、実情に全然即していないかもしれません。真面目にこの問題について考察したわけではないし、それどころか実は本当に書きたいのは別の主題とさえ言えます。

別の主題というのは、「逃げ道」のことです。幼少期に虐待されたことのある親が自分の子供に対しても虐待してしまうのは、この逃げ道を知っているからではないのか、と思うわけです。ぼくには子供なんていないのでよく分かりませんが、でも子供に対してイライラしてしまうことはよくあると思うのです。そういうとき、うるさいなあとか、いい加減にしろとか、出て行けとか、思うこともあると思うのです。場合によったら引っ叩きたくなることすらあるかもしれません。でも、普通は叩かない。それがいけないことだと分かっているから。ぐっと堪えるわけです。ところが、幼少期に暴力を振るわれて育った人は、この我慢が難しいような気がするのです。というのも、彼らは暴力という逃げ道を知っているからです。選択肢の中にそれが入っているからです。多くの場合、暴力はいけないことだということが自明なので、選択肢にすら入っていない。でも、自分の人生の最初期に植え付けられた暴力という経験は、大人になっても選択肢として残っていると思うのです。

イライラしたときは暴力を振るう。これが選択肢にある人とない人。この差は大きいと思います。暴力に限りませんが、それをすることによって一時的に快楽を得られる行為は、依存するんですよ。いくらでも例を挙げられますが、リストカットや麻薬もその一つですね。

あるいは、何か苦しい事態に直面したとき、それを乗り越えるのではなく回避してしまう道を一度でも選んだことのある人は、そういう習性が残ってしまう傾向があるように思います。

これらは全て、逃げ道を知ってしまったから生じる苦しみです。一度も暴力を振るった(振るわれた)ことがない、リストカットの経験がない、人生から逃げたことがない、そういう人は、思うに「強い人」ではなくて、単に「運のよい人」です。一度でもそういう経験があれば、これからもそういうことを繰り返さないために、多大な努力を必要とします。運のよい人がのうのうと生きているのに比べて、そういう人たちは心に血の汗を流しながら、我慢に我慢を重ねてやっとのこと暮らしているのです。

ぼくは以前、訳あって肉体的・精神的に非常に苦しい生活を送っていたことがありますが、そのとき初めて覚えたのが、「苦しいときは横になる」ということです。当たり前だと思われるかもしれませんが、それまでのぼくはたとえ体調が辛くても課題をこなし続けていました。ところが、「横になる」ことを覚えた今のぼくは、少し体がだるいくらいでもすぐに横になってしまう。俗に言う「怠け癖がついた」というやつですが、でもこれはそんな生易しいことではなくて、もっと深刻なことではないでしょうか。ぼくは逃げ道を知ってしまったのです。知らなければ選択肢に入っていなかったものを、知ってしまったがゆえに選択してしまうのです。しかもそれは単なる選択肢の一つであるどころか、最も魅力的なそれですらあるのです。

中学のときに怪我を口実に運動会から逃げたこと、リストカットなど、他にもぼくの知ってしまった逃げ道は幾つかあるのですが、一度それを知ってしまったら、克服は困難を極めます。

どんなに運のいい人でも、一つくらいは自分の逃げ道に思い当たるのではないでしょうか。その人は、今後一切それを行わないことを自分に課さねばならないとしたら、到底無理だと思うかもしれません。でも一部の人は、現にそれを為し続けているのです。しかしながら、それを為すことのできない人も当然います。ぼくの実感としては、それが普通です。

よく人は、「彼は努力ができない」「彼女はすぐ諦めてしまう」「あいつはいつもあんなことをしている」と言って断罪し、その人の人間性を否定的に捉えてしまいがちだし、自分とは違うタイプの人間だとして無視してしまうことがありますが、けれども彼と我との差は、実はほんの些細なものなのではないだろうか、と最近思います。

何か悪いことを仕出かしたとして、誰かがニュースで報じられたりします。一部のコメンテーターはそれを非難したりするわけですが、ぼくがいつも思うのは、「自分じゃなくてよかった」ってことです。自分がその人と同じ状況に立たされていたら、自分もその人と同じことを仕出かしたんじゃないだろうか、あるいはもっとひどいことを? テレビの中で手錠をかけられている人物とぼくとは、紙一重なんですよ。この世はルーレットみたいなものです。次は誰だ、次は誰だと、悪魔か何かが笑っているかもしれない。

問題は逃げ道を知っているかどうかということに尽きる、とまでは言いませんが、それを知っているのと知らないのとでは、大きな差があることは確かだと思います。

もっと寛容になれないだろうか、といつも思ってます。こんなことを言うと、お前は子供を殺した親を許せと言うのか、と罵倒されそうですが、そういうことではなくて、なんというか、自分の問題として捉えることができないだろうか、ということです。つまり、子供を殺した親について考えるのではなく、子供を殺した自分について考える、ということです。そこから出発しないと、何もかも駄目なんじゃないか。

そんなことは分かっている、理想論だ、そういう声も多いでしょう。他者の身になって考えろってことだろ、そう言う人もいるでしょう。でも、違うのです。これは想像力の問題ではありません。「知」の問題です。知ることの恐ろしさを知ることができるか、ということです。

でも本当は、「知の悲しみ」を知らない世界で生きてみたかったなあ。

赤面症の季節

2013-11-04 23:39:49 | お出かけ
予定通り文学フリマに行ってきたわけですけど、おかしいなあ、コミティアに次いでコミュ障っぷりを如何なく発揮してしまったよ・・・。前回は、緊張してうまく喋れない、というマァ可愛らしい症状でしたが、今回は赤面と発汗でしたね。これはマズイだろ、と思うと益々顔が熱くなってきて、いよいよマズイだろ、と思ってゆくという悪循環。もともとアガリ症だとは思いますが、普段はこんなに人と話すのに緊張しないんだけどなあ。なんで肝心なときに。

今日はあんまり購入するつもりはなかったので、あんまりお金を持参しなかったのですが、それでも想定以上の買い物にはなりました。

明日以降、ぼちぼち読んでいこうかなと思ってます。

それにしても、こうやって文学を楽しんでいる人たちがいるっていうのは、大変喜ばしいことです。

変更

2013-11-04 00:14:37 | Weblog
ブログの記事単体を表示すると、その下には「キーワード」「同じカテゴリの記事」「このブログの人気記事」という一覧が載っていましたが、2か月程前から「このブログを見た人はこんな記事も見ています」という情報が掲載され始めました。

このような情報を掲載することを、goo側はユーザーに前もって告知することがありませんでした。それは突然始まったのです。

ぼくはこの情報が掲載されることに少々悩んでいました。ブログというのは誰が見てもよいように公開されているとはいえ、具体的に誰が見ているのかが分かると、困る場合もあるのです。「自分が見ていることを知られたくない」というユーザーもいると思いますし、自分のブログが勝手に他人のブログにリンクされてしまうことに強く抵抗を感じる人もいるでしょう。

ですから、このような「サービス」(それは括弧付きのサービスです)が開始された直後から、ぼくはすぐにこれを非表示にしようとしました。ところが、これを非表示にするためには、最初に書いた幾つかの一覧を全て非表示にする必要があったのです。「キーワード」はコンピュータが自動抽出しているのでしょうが、あまりに馬鹿馬鹿しいためそもそも不要だったものの、「このブログの人気記事」というのは、アクセス解析のできないこの無料ブログにおいては、アクセス解析の一端を担ってくれていて、わりと重宝していました。それで、今まで非表示にする決断ができずにいました。また、何ら告知がなく始まった「サービス」だったので、近いうちに仕様が再び変更されるのではないかと、淡い期待をしていました。でも、そのような気配は今のところありません。

仕方ないので、さきほど非表示に踏み切りました。

確かに、こういう「サービス」があれば、未知の人と繋がる可能性は広がるかもしれません。でも、ここには何か「嫌なもの」がある。それが何か具体的に名指しすることはできませんけれども、個人的にはfacebookに通じる「嫌なもの」(ぼくはfacebookが苦手なので)があるように勝手に感じています。

ネットをやっていながら、別に「閉じたい」わけじゃありません。むしろ「開きたい」と思っています。しかし、誰にでも開きたいわけじゃないし、閉じてしまいたいときだってある。

あるいは、秘密を書いている人だっているわけです。世界に公開しておいて何が秘密か、と怒る人もいるでしょうが、でも秘密というのは誰かに打ち明けたいものです。自分のことを知らない誰かに相談したい秘密もあるのです。まだ知り合ってはいない誰かに自分の想いが届いてほしい、と切に願ってブログを綴っている人もいるのです。

世界に公開しているのだから、誰かに知られてほしくない秘密を書くなんてけしからん、仮に知られたとしても自業自得だ、なんて言う人がいたら、その人はネットというものを分かっていないと思います。あるいはネットと人との関係を見誤っています。

色んな人がいて、色んなネットの使い方があります。それなのに、強制的に開いてしまうようなサービスは、無神経極まると言っていいと思っています。そう、無神経なんですよ。無神経としか言いようがない。ブログって本来こういうものだろ、だからその特性を最大限発揮できるように仕様を変更する、これに適応できない人間は使用法を間違っているのだ・・・これは無神経ではないですかね。もしこんな無神経な人間が近くにいたら、少なくともぼくはできるだけ関わり合いを持たないようにします。そういう人間に付いていく人も多いのでしょうが、ぼくは御免ですよ。

文学フリマ

2013-11-03 00:11:25 | 文学
週明けの文学フリマに行く予定です。と言っても、出店するわけじゃあなくて、見学。

でも、実を言うといつか自分も出店したいなあなんて思ったりしてます。同志を集めて、批評も創作も漫画も何でもアリの本作って、赤字でも全然構わないから、誰かに読んでもらえたらなあと思ってます。皆で一緒に何かを作って、皆で一緒にそれを発表して、皆で一緒に反応を待って・・・っていうのが、やりたい。

上手とか下手とかは二の次で、大事なのは欲求。欲求の迸りを表現したいし、表現してもらいたい。この前、高橋源一郎が新聞紙上でいいことを言っていたよ。社会の問題を自分の問題として受け止めて表現している人たちの文章は、(一般的な論評とは違って)心に迫ってくるものがある、というような内容だったと思います。

自分と対象とを切り離して論じるのではなくて、まさに自分の問題として論じる姿勢がぼくも大事だと思う。そういう文章は、ときには破綻することがあるかもしれないし、歪な構成であるかもしれないし、稚拙でさえありうるかもしれない。でも、自分の熱情をいかにして文章に投影し、その熱量を保ったまま読者に提供するか、という問題は、もっと追求されてもいいテーマだと思ってます。

巧い文章ってのも一つの魅力だけれども、個性的でエネルギッシュな文章の方がぼくは好きで、そしてそういう文章を同様に好む人たちと一緒に文学フリマに出店したいなと思ったりしてますね。

ネットで発表することは簡単なんだけれども、やっぱりリアルな場所でリアルに集まって、リアルな読者の前で「文学をやる」っていうのが大事なんだと思ってます。つまるところ、ぼくの求めているのは「研究」とか「文学」とかじゃなくて、「楽しむこと」なのです。そしてぼくのとっての楽しみとは、「研究」とか「文学」とかじゃなくて、「表現すること」なのです。いわゆる「表現するべき自己」なんてものは持ち合わせていないんだけれども、それでも表現欲求というのは飽くことがない。

誰か文学フリマ目指しませんかねー。