Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

2012-11-30 04:42:11 | Weblog
昨日の昼頃から降り出した雪は、今も降り続いています。おかげでかなり積もってきました。

大学の敷地内で撮影

写真の奥に見える車は、この何秒か後にぼくの前を通り過ぎて、そして行き過ぎたところで雪に埋もれて立ち往生します・・・

天気予報では明日は気温が上がって雨になるらしいんですよね。本当かなあ。

室温がけっこう下がってきているのですが(ストーブを付けるかどうかの境界線上)、明日暖かくなるんだったら今夜一晩くらいは我慢するかあ。

明日はまた事務手続きだあ。嫌だなあ。

それにしても、昨日・今日と論文が読めていないぞ。明日、その分までまとめて読むことができればいいんだけど・・・事務手続きがあああ。

詭弁

2012-11-28 04:05:41 | Weblog
アクロバティックな批評だとか、スリリングな批評だとか、そういうものは詭弁であるような気がしてならない今日この頃。批評上の思考実験、言語ゲーム。無論、それはそれとして(つまり一個の言語作品として)楽しむことができると言うのならば(そんな奇特な読者が世界にはごまんといる)、それでいいのだけれども、でもそれが扱っている対象への敬意はどうなってしまったのか。そういう思考実験/言語ゲームを楽しむ著者/読者は、その批評対象に本当に惚れ込んでいるのか。本当に惚れ込んでいる読者を嘲弄しているわけじゃあないだろうけれども、しかし敬意を欠いている気がしてならない。

例えば、Aという文学作品について批評するBという評論があったとして、前者が大好きなaさんは後者を読んでも難解で的外れに感じ、後者が大好きなbさんが前者を読んでも興味を惹かれない、というような現象は往々にしてあるのだけれども、それというのも、BがAに対する敬意を欠き、自分の理屈を展開するのにAを利用しているだけだから、ということが実際にある。「敬意」なんていう曖昧な概念がどうして感じられるんだと怒られそうだけど、でもこういうことは分かってしまうのだよ。

もちろんこれは文学作品に限らず、批評対象がどんなものだって生じうることだと思う。いや随分ナイーブなことを言ってやがるとせせら笑う人がいるだろうけれども、でもこれは非常に大事なことだと最近よく分かるようになった。

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通常そうだと考えられている意味をひっくり返し、意味の地平を広げる・・・とか、常識を塗り替える・・・とか、そういうのってもういいんじゃないのかななんて思う今日この頃。常識の中でどのようなことができるのか、通常の言語でどのような世界を創造できるのか、そういうことの方に価値がある気がする。少なくとも自分はそっちの方が好きだ。ある小説を読解するのに、そこで使われている言葉の語源を明らかにし、ここには実はこんな意味が隠されているのだよ諸君、そうなるとこの小説も大きく変貌してしまうだろう?みたいな文章を読むと、うんざりなんです。言葉の多義性とか、揺らぎとか、もういいんじゃないかな。

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いや違う違う違う。自分はこんな愚にもつかないことを書きたかったんじゃない。そうではないのだ。もっと愚劣なことを書きたかったんだ。もっと卑劣で陋劣で愚劣なことだ。でもそれはここには書けない。だからただ馬鹿を晒け出すような文章になってしまったのだ。こんな文章読み返したくもない。

冬、唇を舐めてはいけない

2012-11-27 03:21:17 | Weblog
久々に授業に出たら、先生が休みだったよ!
だから、授業の代わりにドストエフスキーの『白痴』の映画を観ることになりました。ところが、途中で生徒が一人減り、二人減り、・・・ついには4人となりました。

『白痴』はおもしろい小説ですが、映画もまあまあかな。主人公ムイシュキンの顔立ちが、イメージしていたのと違っていましたけどね。ぼくの脳内設定では、相当な美青年なのだが!映画のムイシュキンは、確かに痩身で神経質そうな感じは合っているけれども、もっとこう、無邪気な感じがあった方がいいのでは・・・とまことに勝手ながらケチを付ける次第。

それにしても、3時間観たのに第一部完ってどんだけだよ。もちろん第二部は観なかったのですが、別に続きは気にならない。知っているから。

今朝起きたら路面が白く凍っていて、どうやら夜のうちに雪が降ったみたいです。そして昼前から再び降り出して、それ以降はずっと雪でした。それにしてもモスクワでは、雪が降るとすぐに路面が凍結してしまうようですね。転びそうで危ない。気を付けなけりゃあ。

夕飯は、またしても昨日の魚。なぜなんだ。もうそんなに残ってないよとかっておばさんが言うから、ついつい魚にしてしまったじゃないか。でもなんで昨日と一緒の魚なんだよ。おまけに今日のは骨だらけだった。

外を10分くらい歩いていると、唇が凍りそうになるんですよね。冬、外で唇を舐めるのはよそうと思いました。

そろそろ通行証を更新する時期だ。今週中にやらなけりゃあならないのだが、いつやろうか。迷う。

ガリー・ポッター

2012-11-26 03:48:39 | Weblog
寮の食堂ではいつもテレビがついているのですが、今日は『ハリー・ポッター』をやっていました。すると、通りがかったロシア人がこう言いました。「ガリー・ポッター!」

ロシアでは、どういうわけか[h]の音を[g]と発音します。だから、「ハリー・ポッター」は「ガリー・ポッター」になるし、「ハムレット」は「ガムレット」、「ハンバーガー」は「ガンバーガー」です。では「ハ」行の音は存在しないのかと言えばそんなことはなく、[kh]の音(喉の奥から出すハ行の音)があります。ちなみに、「ロビン・フッド」は「ロビン・グッド」になるため、英語圏の人には大層おもしろく聞こえるみたいです(「ロビン、いいね!」)。

食堂のレジ係のおばさんは、テレビでおもしろそうな番組がやっていると、レジを後にして、テレビの前のテーブルにどっかと座り、熱心にテレビを見つめます。レジに人が来ると名残惜しそうに仕事に戻ります。そしてまたテレビの前に引き返すのです。今日もまた彼女はテレビの前にやって来ましたが、そのときぼくは見たのです、彼女が揉み手をしながら顔をほころばせているのを。こんなに「ハリー・ポッター」を楽しみにしているおばさんがいるっていうことを、映画制作者に教えてあげたいくらいですね。

さて。さっきから口の中のありえない箇所が沁みるのですが、どうやってこんなところを切ってしまったんだと思いを巡らせるに、たぶん食堂で夕飯を食べたときに魚の骨が刺さったのではないかと。ガリー・ポッターを見ながら食べてたので、注意散漫になったかな。

顔が凍る

2012-11-25 04:16:36 | Weblog
日が落ちてから、モスクワ中心街を3駅くらい歩いたんだよ。そうしたら、顔が凍ったね。
今日は寒かった。空気が張り詰めていた。
この分だと、冬は外歩けないな。
だって顔は覆いようがないもんな。

今日は本を買いそびれた。手持ちのお金が少なかったので、不安になったから。でも新刊本で、たくさん出ていたので、また近いうちに機会が訪れるだろう。

ところでアクーニンの新刊が出ていた。題名は・・・忘れた。いつか日本語に訳されるだろうか?

それにしてもどうしてこんなに手持ちのお金が少なかったかと言えば、月末だからだ。ぼくは基本的に毎月一度しかお金を下ろさないので、月末になれば自然とお金は少なくなる。でも、今月は本をたくさん買ったり食事にたくさん行ったりということはしていないので、こんなに余裕がなくなるはずはないんだがなあ。そもそも下ろしている金額が少なすぎるのか。

でも近いうちに寮費を支払わなくてはいけないので、今度下ろしてこなくては。
お金を下ろしたら、ゆっくり外食でもしたいものだなあ。

終わりで始まり Acoustic Ver.

2012-11-22 04:49:45 | 音楽
amazarashi『終わりで始まり』


いつもの帰り道 ふと見上げたいつもの夜空
なぜだかあの頃とは違って見えたんだ
そうだな 僕も少しはもまともになれたかな 
いや そうでもないか 今も変わらず上手く笑えない毎日です
あの頃の仲間も 無茶はしなくなった そりゃそうだ あいつも立派な父親だもんな
部屋の中で死にそうな顔をしていた僕も 今じゃこんな歌も歌えるようになった

友達のお陰で立ってるんだ
家族のお陰で歩けるんだ
あなたのお陰で生きてるんだ 
ありがとうなんて言いたかねえや

でもさ

いつか僕らが離れ離れになる そのときだって笑っていたい
塞ぎ込んだ過去も正しかったと言い張るために笑っていたい
それだけでいつかの叶わなかった夢も ただの過ぎた景色になるんだ
結局空っぽのままのこの手 僕らは大きく振り合って
答えさえ見つけられなかった目に涙を溜めてさよならして

悲しむな これがスタートラインだよ
僕らの終わりで始まり

この世界はそれほど 綺麗なもんじゃないけどさ
そんなに急いで出ていくことはないじゃないか
僕らの期待を 世界はよく裏切るけれど
期待していなかった喜びに ときどき出会えるんだ

裏切られたことに胸を張るんだ
信じようとした証拠なんだ
疑った分だけ損したんだ
傷ついたなんて言いたかねえや

だから

この先何があったって僕は振り向かずに走っていきたい
躓いた昨日も助走だったと言い張るため走っていきたい
それだけで僕らの笑えない思い出も ただの笑い話になるんだ
あのときついに崩れ落ちた膝で暗闇の中駆け抜けて
あのとき砂を握った掌で確かなもの掴みたくて

分かるだろ これがスタートラインだよ
僕らの終わりで始まり

日々が過ぎて 年が過ぎて 大切な人達が過ぎて
急がなくちゃ 急がなくちゃ なんだか焦って躓いて
もう駄目だ 動けねえよ 蹲ってても時は過ぎて
考えて 考えて やっと僕は僕を肯定して

立ち上がって 走り出して そのとき見上げたいつもの空
あの頃とは違って見えたんだ あの日の未来を生きてるんだ
全てを無駄にしたくないよ 間違いなんてなかったよ
今の僕を支えてるのは あの日挫けてしまった僕だ

「ありがとう」とか「愛しています」とか分からないけど歌っていたい
信じてくれたあなたは正しかったと言い張るために歌っていたい
それだけだ 僕の背中を押すのは あなたが喜んでくれる顔
あのとき伸ばし続けたこの腕で大きくギター掻き鳴らして
あのとき何も言えなかった口で下手くそな歌を叫んで

いつだって ここがスタートラインだよ
僕らの終わりで始まり

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たぶん、ライブ『千年幸福論』の後にかかっていた曲ですね。通称「スタートライン」。あのときとは明らかに音源が違うし、今回はアコギの弾き語りなので、だいぶ雰囲気が異なります。それにしても、まさに「弾き語り」といった感じで、率直。ちなみに歌詞はたぶんほぼ完全に合っていると思います。もっとも、表記法はかなり違うでしょうけれども。

自分に期待していること

2012-11-21 19:46:34 | Weblog
という題名で書こうと思って、考えました。実に1時間考えて、諦めました。何もない。ぼくは自分に何も期待していない。そして期待と希望とは違うってことが分かった。

ところで午前4時頃はブログへのアクセス人数が多いことが判明したのですが、時差から見て、この人たちって皆ロシア在住なのか?このブログは、ロシア在住の人が多く見ているのか?

自分に何も期待していないとはいえ、すべきことすらできないと、やはり落ち込む。できて当然のことすらできないと、やはり悄然とする。あああ、ぼくもう、疲れたよ・・・

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つらい・・・なんでこんなに重苦しいんだ。鬱鬱とし過ぎて何も手につかない。食事を摂る気さえ起らないのだから、外出するなんてもってのほか。生活無能力者。孤独死。意志薄弱。あああ、助けて・・・

未来づくり

2012-11-20 04:32:29 | Weblog
           今までのことなんて帳消しにしたいんだけれど
           今日までの失敗なんて破り捨ててしまいたいけれど
           こんな僕だからこそ あなたが好きになってくれたって言うなら
           もういいよ もういいよ それだけでもういいよ
           胸はって 僕は僕だって 言ったっていいんでしょ
           いつだって ここに帰ってきたっていいって言ってよ
           僕は精一杯僕を肯定するよ
           ただ僕を 信じてくれたあなたを 肯定するために
                              (「未来づくり」)

こんなふうに未来ってつくられていくんだなあ。
自己嫌悪的なことを書こうかと思っていたのですが、せめて今日くらいは中止。

今度こそ、Whisper of the Heart

2012-11-17 20:04:35 | アニメーション
『耳をすませば Whisper of the Heart』という有名なファンサイトがあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~hn7y-mur/mimisuma/index.htm

それにまつわる思い出。
HP自体は1996年というかなり早い時期に出来ていたようですが、ぼくがそれを見つけたのは2002年の秋頃のことです。その頃ようやくパソコンを覚え始めたぼくは、早速『耳をすませば』の検索をしてみたんですね。そのときに見つけたのがこのサイトだったわけです。夕方でした。学校内のパソコンが置いてある場所で、ぼくはひたすらそのサイトの文章を読みふけったものです。まさに感動の出会いと言っていい。そこには、ぼくの求めていたものがぎゅうぎゅうに詰まっていたのです。映画に関する考察、舞台となった場所の地図、そして何よりもこの映画に対する情熱と愛情。『耳をすませば』に対するほとんど狂おしい愛がぼくの中で急速に活性化しました。「サークルを作ろう」と決めたのは、思えばこのときだったかもしれません。

2001年の冬にぼくは聖蹟桜ヶ丘に初めて出かけました。ところが、方向音痴のぼくには舞台になった場所が見つけられなかったんです。それでも、そこの市立図書館に入ったりして、ちょっとだけ「耳すま気分」を味わいました。その約一年後、ぼくはHPで確かな情報を得て、再び聖蹟桜ヶ丘に足を踏み入れました。当時はまだ通称「耳丘」は閉鎖されておらず、ぼくは丘の上から街を見下ろしたのでした。他にも、坂道のカーブ、松の木の生えている階段、ロータリーなど、随所に見所がありました。その後ぼくは何十回もこの地を訪れることになるのですが、あのときはただただ目の前の光景に感動していました。

HPには、それからほとんど毎日のように訪れるようになりました。書き込んだりもしました。フォーラムで議論もしました。あれから10年が経ち、HPにはもはやあの頃のような活気はありません。パソコンが急速に普及し、ネット環境も整った今、『耳をすませば』に関する情報は至極簡単に入手できるようになりました。管理人さんが4月1日におっしゃっていたように、もう役目を終えつつあるのかもしれません。けれども、ぼくはこのHPほど充実した『耳をすませば』関連のサイトを他に知りません。そしてたぶん、これほど多くのファンから愛された『耳をすませば』のサイトもないのではないでしょうか。ぼくはこのサイトが大好きです。「お役目ご苦労さま」とはまだ言いたくありません。これから再び活性化し、在りし日の賑わいを取り戻すことを切に願っています。

鍵をかけた部屋

2012-11-15 04:07:19 | Weblog
「誰かに笑われてる気がして 外に出られなくなった事」
「鍵をかけた部屋 戦っていた あの頃の僕 壊れた心 壊れたギター」
                           (『美しき思い出』)

「あの頃の僕」っていうのはつまり、今のぼくですね。
ビザ関連の用事で授業に出ていなかったことが重なって、誰かに陰口を叩かれているんじゃないかとか、そういう不安が増長してしまい、学校へ行く勇気が持てません。まるで不登校の小学生みたいだけど、ぼくの精神年齢はそんなもんです。「あの日本人がいないと清々するよ」とか言われているんじゃないだろうか、登校したら「あの日本人来ちゃったよ」とか陰でひそひそ言われるんじゃないか、そういう不安です。そういう不安と必死で戦って、今日は負けてしまいました。

「鍵をかけた部屋 戦っていた」っていう歌詞が出てくるあたり、やっぱり秋田さんはよく分かってるよなあ。

ぼく自身が常々言っていることですが、不安というのは止めようとしても止めようがないものなので、不安になるのはやめなさいと言われても、そりゃ無理なわけです。むしろ逆効果と言っていい。不安や、何らかの負の思考というものに捉えられてしまったら、もうそれしか考えようがないのです。ぼくはそんなに一途に思いつめることはないので、こういう負の思考に生活全体が押し潰されてしまうことはありませんが、ただこの不安が登校という行動に結びついている場合、一日に一度は必ず葛藤することになるわけです。この不安と正面切って戦わなければならないのです。でも不安と戦って勝つなんて、勇者じゃないんだからさ、誰にでもできることじゃあないよ。不安や恐怖というのは、傍から見ればちっぽけなものかもしれませんが、当人にとっては魔物です。他人の不安や恐怖をみくびっている人間は、いつかしっぺ返しを食らいますよ、と不吉な予言をしておく。もっとも、昔のぼくにはこういうことが分からなっただろうから、今そのしっぺ返しを食らっているのかもね。

ぼくが授業に出られない理由を挙げてみる。
1、事務手続きで欠席が続いた
2、ロシア語ができない
3、授業に出ても楽しいことが何もない
4、活発なクラスメイトが多く、そりが合わない
5、以上のような理由から、疎外感を覚え、次第に不安を募らせた

こんなところですかね。

最近ぼくは思うのですが、いま自分は、たぶんこれまでロシアに来た多くの留学生よりも頑張っている気がするのです。ロシア語が聞き取れない・話せない状態でロシアにいるっていうのは、想像以上に過酷ですよ。しかも友達もいない。クラスは人数が多くて疎外感を覚える。そういう外的な状況に加えて、ぼくの精神的な弱さを考慮すれば(これ重要です)、ぼくがこれまでどれだけの苦悩に耐えてきたか、もはや何ぴとにも計り知れませんよ。

早くゴールしたいものだ。

Whisper of the Heart

2012-11-14 04:25:23 | アニメーション
昨日は夕方からずっと『耳をすませば』のことを考えていたのですが、今日も引き続き考えています。今朝、学校へ行く前にパソコンを開いていたらいいことがあったので、「でも今日はきっと幸福な日にはならない」と思って学校へ。そうしたら、何だか知らないけどビザの件が一段落していました。ぼくのいないところで話が進んでいて、無事にビザが更新されることになりました。ほっ。もっとも、それからは別にいいこともないので、やっぱり幸せだったのは午前中だけだったなあ。

耳すまの有名なファンサイト
http://www.asahi-net.or.jp/~hn7y-mur/mimisuma/index.htm
について書こうと思ったのですが、今夜はメールを書きまくったので、疲れてしまってもはや書く気が起こらない・・・。気が向いたら明日書きます。

ところで、明日学校行くのが本気で嫌なんだけど、どうすれば・・・(こちらの問題は解決していない)

あと、昨日からトイレの水の流れがおかしいんですが、どうすればいいのだ・・・

否定的な言葉ばかり

2012-11-13 05:09:55 | Weblog
あんまり更新しないのもナンなので、一応更新しておきますが、特に書くこともないのでした。否定的な言葉ばかりが浮かんできてしまう。でもぼくは、せめて今日くらいはそういう言葉を書きたくないと思いました。せめて今日くらいは。だからぼくは、始まりの台詞をここに載せる。



「歌えよ。知ってる曲だからさ」

ぽつりぽつりと喜ばしいイメージが湧いてくる。
自分にもとうとう故郷ができたんだなってこと。東京に住んでいるときから既に東京は故郷でしたが、モスクワに来てみて初めて、それは本当の意味で故郷になりました。

「歌えよ。知ってる曲だからさ」

もちろん、これは映画の始まりの台詞ではないし、物語が始まる台詞でもない。でも今日は、この台詞がぼくにとっての始まりの台詞だ。・・・いや、ごめん、自分でもたぶん来月読み返せば意味がさっぱり分からないと思う。けれど、それでもいい。今という時間を乗り越えるために、ぼくはこの台詞を選んだのだから。そしてこの台詞から、肯定的な思想が生まれたのだから、やはりこれは始まりの台詞なのだ。

愚弄するもの

2012-11-10 04:00:23 | Weblog
厳しい状況は依然として続いていますが、今日はそれとは無関係なこと。

前にも書こうとして、そして結局書けなかったような気がすること。愛好するということ。

例から入って行こう。
仮に、チェーホフのことが大好きな教師がいたとします。彼は本当にチェーホフが好きで、その幾つかの作品には人生観を揺さぶられていました。人生そのものが大きく様変わりしたと言ってもいい。彼はチェーホフをテーマに卒業論文を書き、教師になった後もときどきチェーホフの芝居を観に行っています。仲のよい友達にはチェーホフを読むよう薦め、その魅力を熱く語ります。

ここに読書家がいたとします。彼は万遍なく様々な種類の本を読んでいます。チェーホフ全集も読みました。ところが彼にはチェーホフの魅力がいまいち分からない。確かに優れた作家だとは思うものの、決して心打たれない。暇潰しでチェーホフ全集を読んだと公言して憚らない。

この二人は偶然知り合う。そしてお互いチェーホフをよく読んでいることを知る。しかし、教師はチェーホフ全集を読破していませんでした。彼は、読書家がチェーホフのことを好きでないにもかかわらず、チェーホフ全集を読破していることに納得いかない。我慢ならない。彼は、この読書家がチェーホフを、そして自分を愚弄しているように感じてしまう。・・・

この感情について、ぼくは随分前から書いておきたいのでした。読書家というものは、えてして好きでもない本をよく読みます。手当たり次第に読むので、その中に好きな作家とそうでない作家が出てくるのは当然のことです。だから、常識に照らせば、彼は全く悪くない。しかし、彼は愚弄する者です。チェーホフが好きな人のことを愚弄している。チェーホフが好きな人は、彼の行為に嫌悪感を抱く。

こんな例えに似ているかもしれない。ある男性がある女性を好きだったとする。ところが別の男性が現われて、彼女を手籠めにしてしまう。しかしその男性にとって、彼女は単なる遊びであり、決して真剣な恋ではなかった。これは愚弄ではないか?

恋愛や読書に限らず、アニメーションでも、絵画でも、ゲームでも、音楽でも、ともかく愛好家の存在する限り、いや対象への愛の存在する限り、こうした愚弄は存在するように思うのです。ぼく自身、そういう愚弄を犯しているはずだし、味わっているのです。

どのようにしてこの愚弄に抗えばいいのか?ぼくには分かりません。誰か教えて下さい。

ぼくは、チェーホフ全集を読んだ読書家よりも、チェーホフの作品に人生を揺さぶられた、全集を読破していない人の方にシンパシーを覚えます。その人の方が本物の読書を経験していると無邪気にも思います。でもそれだけでは駄目なんです。

もちろん、このチェーホフ愛好家だって、他の作家や他の分野では、愚弄する者になっているかもしれません。そして全集を読破した読書家は、別の分野においては愚弄される者になっているかもしれません。そういう応報的な関係は無限に続いているのだと思いますが、でもそれが何なのでしょうか。自分が愚弄されたからと言って、愚弄した罪が消えるわけではないし、愚弄した罰として愚弄されているわけではないのです。この踏みにじられた感情を、どのようにすればよいのでしょうか。誰かを踏みにじってしまった自分を、どう処罰すればよいのでしょうか。この愚弄にどう抗えばいいのか?ぼくには分かりません。

ありったけの愛を注いだ対象は、誰かによって蹂躙される。もしそれが世界の理であるのならば、ぼくはもうどうすればよいのか・・・。

悪意恐怖症

2012-11-09 04:22:11 | Weblog
昔からそうなのですが、誰かから嫌われているのではないか、という不安がものすごく強いです、ぼくは。周囲から嫌われているのではないか、何らかの悪意を持たれているのではないか、という恐怖。例えば、知人の何気ない仕草に疑心暗鬼になってしまうのです。

現在ぼくは、クラスメイトと寮の隣人たちに悪意を持たれているのではないか、と不安になっています。要するに、人からどう見られているのか、ということをひどく気にする性質なのだと思います。

なんとなく嫌われている気がして、部屋の外に出るのが怖い・・・。このままでは授業になんか出られそうにありません・・・。やばい、本気で怖い。

挫折

2012-11-08 00:28:14 | Weblog
1、論文を読む意欲が出てきたかなと思ったら、学校に通う意欲を損ないました。不登校になりそうです。

2、間違い電話のくせに何度も電話がかかってくるのは何故なんだ。

3、やはり自分は超重要な書類を持っていないことが判明。この場合、最悪の事態ってなんだ?

~解説~

1、自分は極度に引っ込み思案なので、クラスの輪の中に入っていけないのであります。日本でさえそうなのに、そこでなされる会話が英語あるいはロシア語では、入っていけるわけがないのであります。しかしそれはそれで仕方ないとこれまで考えていたのですが、最近になって、先生が「休憩時間には教室にいないで皆と一緒に食堂でご飯を食べてきなさい」とぼくに勧めてくるようになってしまったのです(それまでは、ぼくは一人ないし韓国人と二人で教室に残って昼食を食べていた)。これは甚だ迷惑なのです。先生にしてみれば、むしろ親切でやっていることかもしれませんが、皆と一緒にご飯を食べるなんて、ぼくにはいたたまれないのです。韓国人の生徒は滅多に授業に出てこないため、ぼくはもうどうすればいいか分かりません。今日はたまたま午後に用事があったので食事はせずに済みましたが、来週からが不安でたまりません。この不安のために、ぼくは午後の授業をキャンセルすることすら思案しています。馬鹿げていると思うかもしれませんが、これがぼくのどうしようもない性格です。このような状況に加えて、やはりロシア語の聞き取りができないことが致命的です。というか、聞き取りができないからこそ、休憩時間まで皆と一緒にいたくないのですが。思うに、自分のような学力の低い人間は、留学してはいけなかったのです。

2、知らない番号から何度も電話がかかってくるので、今朝ついに出てみたら、何のことはない、間違い電話だった。「誰ですか」と質問しても、それには答えないでよく分からないことをべらべら喋るばかり。こっちが黙りこくっていると、向こうから電話を切ったので、やれやれと安堵していたら、今日また同じ番号から電話があった。どういうことなのかさっぱり分からない。向こうはこれが間違い電話だということに気が付かないのか?

3、これのせいでほとんど鬱状態。なぜ自分がその書類を持っていないのかよく覚えていない。そして、これがないとどうなるのかもよく分からない。そもそもビザの延長ができなくなるのか、それとも新しいビザを申請していることの証明書の発行ができなくなるのか、寮の通行証が発行されなくなるのか、学費を再度納入しなければならないのか。いずれにしろ、極めて深刻な事態に陥る。でも、失くすということはほとんど考えられないので、大学に提出しているはずなんだ。問題は、なぜ提出してしまったのか。そしてどこに提出してしまったのか(大学には異常なほど多くの窓口があり、しかも統率されていない)。またなぜ大学側はそれを受け取ってしまったのか。



胸が苦しい。黒い鉛がつかえているようだ。全て投げ出したくて堪らない。不安と絶望で死にたい。もういい。自分にしてはよくやった方だ。