Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

アンダーグラウンド

2012-06-30 23:07:33 | 映画
「『戦争と平和』、これははたして何であろうか?これは小説ではない、叙事詩ではなおさらない、歴史的記録ではさらさらない」――レフ・トルストイ

『アンダーグラウンド』、これは何だ?

3時間近く、一体ぼくは何を観ていたんだ?恐るべき大作、と一言で表現してしまっていいものか、いやよくない!しかしこの巨大な映画を、どうやって伝えればよいのだろうか?

旧ユーゴスラビア映画。1995年製作。クストリッツァ監督。3時間近くの長尺。パルチザンで共産党員のマルコとその友人クロの友情と裏切りと愛と死と笑いとダンスと戦争と涙と・・・それからあらゆることの物語。そうだ、これはあらゆることの物語でした。全部だった。トルストイの小説は「ぶくぶくのモンスター」と評されたことがありましたが、それに近いかもしれません。あらゆる要素を含んでいて、そしてそのあらゆることが中心になっている。19世紀ロシアの小説、ドストエフスキーやトルストイの大長編とのみ比較ができる、そういう圧倒的なスケールの大作でした。

物語は猥雑な喧騒と共に始まり、そして終わります。終始吹き鳴らされる民族音楽の音色は不埒なほど騒がしく、陽気。主要登場人物たちも狂ったように騒ぎ、暴れ、踊る。その一方で、物語は痛ましく、民衆は戦争に常に脅かされ、欺瞞が瀰漫し、騙された人々は地下で生き延びる。

ぼくはこの作品を解説してはいけない、あらすじを書いてもいけない。そんな気がします。この世の全てが濃縮された、圧倒的な3時間。ぼくはただ断片的に印象を書いていこうと思います。
クロと息子のヨヴァンが地下から地上へ出て、息子が月を太陽と勘違いする場面は滑稽で悲しく、そして彼が生まれて初めて太陽を目撃する瞬間は、余りにも美しく、涙を禁じ得ません。アレクサンドル・グリーンの短編「消えた太陽」を想起しました。

マルコとナタリヤが銃殺されて火をかけられ、車いすが炎を纏いながらぐるぐるとクロの周りを回り続ける、恐るべき現実と幻想的極美が一体となった場面は、生涯忘れられそうにありません。

この映画は、ユーゴスラビア現代史の一大絵巻であると共に、一大幻想でもあります。

「許そう。だが忘れん」

恐らくはこの作品は何ものかを許す作品でありました。そして「祖国」についての物語でした。

おかしい、駄目だ、ぼくにはこの作品をまとめることができない。しかしそれも当然です。この作品について知りたい人は、どんな俊英の書いた解説をも頼りにしてはいけません。ただこの映画を目撃してください。人の一生が、その人になって生きてみなければ決して理解できないように、国の興亡が、そこでいつまでも暮らし続けなければ絶対に体感できないように、この映画は、目撃することによってこの映画の中を生きなければ、知ることはできません。

もし宇宙に全能の神がいたとしても、神にはこの映画を創ることはできなかったでしょう。神にさえ不可能なのです。これは人間の映画だったから。

何度でも言いましょう、この映画は、全てです。トルストイよ、この映画を観て嫉妬せよ。

『ほしのこえ』同人誌

2012-06-30 01:33:46 | アニメーション
今夜は一言だけ。

『ほしのこえ』10周年記念同人誌「ほしから星へ」が8月にコミケで頒布されることになったそうで(新海誠の書き下ろしイラストが表紙)、一般からの「ゲスト原稿」も募集するとのことなので、詳細を見てみたら、イラストや漫画を募集するということでした。なんだ、原稿と言うと、てっきり論文だと思ってしまう文学畑の人間ですよぼくは。

書いている暇があるかなあと色々と気を回していたのですが、イラストや漫画じゃあどうせ描けないや。ちっ。

怒濤

2012-06-27 23:49:12 | Weblog
ロシア語の本、いい加減飽きていたので、最後の方はほとんど拾い読みみたいな感じになってしまいましたがとりあえず読み終えました。ふうっ。精神的にちょっと楽になりました。ぼくには難しすぎた。これが素晴らしい本だと感じられる人は、きっとぼくよりずっとロシア語ができて、尚且つ頭のよろしい人ですな。・・・とこんな調子で書いてゆくとまた愚痴になるので中座して、未来の話をしよう。

ロシア語の本を読み終えたら、是非日本の小説を読んでみたかったのでした。丸谷才一が猛烈に(と言ったらいかにも過剰な表現だけど)読みたい。あとやはり村上春樹か。最近読んでいないからなあ。それから、ひょっとしたら三島由紀夫、そしてタルホ。それから、海外の長編を読みたい。

そうした一連の読書が済んだら、(日本語で書かれた)専門書を読んでおこうかな。

と、夢想しているのですが、明日から怒濤の忙しさなのです。おちおち自分の部屋で腰を落ち着けている暇もない!というような。まあ、勉強で忙しいわけではないからよしとしますか。それだったら精神的に参ってしまうからな。

そんな具合で今日は寝ます。

早稲田の古書店街

2012-06-26 23:53:59 | 本一般
震災の日以来、久しぶりに早稲田の古書店街を往復しました。でも、たいした収穫はなかった・・・。

『ロシア神秘小説集』がありました。既に持っているので買わなかったけど(贈答用に買ってもよかったかもしれないな)。ただ、この本ってけっこう珍しいよな。古書店で見かけたのは初めてです。

ところで、『ナボコフ・ウィルソン往復書簡』ってどこの古本屋にも必ず置いてありますけど、そんなにつまんない本なのか、これは。そしてそんなに昔売れた本なのか。なんか、このテーマで一本エッセイが書けてしまいそうな題材ですね(?)。

今日は西日が眩しくて、目に悪そうな夕方でした。

そういえば、宇野重吉による『桜の園』註解は、けっこう安かったので買っておけばよかったかなあ。昔ぱらぱらっと読んだんですけど、すごくよい本だったので。

ロシア語の本、残りあと10頁を切りました。追い込みのだらだらっぷりは、我ながらすごい。普通だったら明日で読み終わるところですが、いったいいつになることやら。

・・・・・・・・・

ブログの左下に天気予報のパーツを付けてみました。天気予報の好きな(ぼくみたいな)人は、是非ご覧ください。ちなみに、クリックすると専用のページに行きます。そして世界の天気が見られます。日本の天気予報の下に「モスクワの天気」というパーツも付けてみましたが、情報が少ないので、モスクワの天気が気になる方は、そのページから探してみてください。

ノンセンスの論じ方

2012-06-25 01:27:28 | 文学
ノンセンス文学の論じ方。

0、そもそも論じられないと放棄
1、「ノンセンス」という言葉の定義やノンセンス文学史を記述
2、ノンセンス(無意味)からセンス(意味)を読み取る
3、作者の思想や創作の背景と、作品とを関連付ける
4、作品の具体的な細部・モチーフに注目して、作者の思想や同時代の社会・文学等々に結びつける
5、言葉遊びに注目して、言語学的アプローチや他の作品との比較を試みる

他にも色々あるかと思いますが、とりあえずこんな感じで挙げてみた(実際に論じ去る際には、これらの複合になろうかと思う。3と4は近いけど重点の違いかな)。

で、何が言いたいかといえば、どれもおもしろくないというか、これでは不満というか、そういうこと。もっとも、自分にできることだってやはりこうした方法しかないので、つまるところは自分に不満だということなんですが。もっとワクワクさせてくれる批評法はないものか。もちろん、○○理論の枠組みに作品を当てはめるというやり方はナシで。

結局のところ、批評はこうあるべきだとかって声高に叫んでみたところで、実際に自分が書いているものは自分がけなしているものと同じなんだよな。いやそれ以下でさえある。これはノンセンスに限った話ではなく。

こう生きるべきだって思っていても、実際の生き方はそれとはまるで違う。右手を動かすつもりで左の肩を動かしていたりする、そんな滑稽な人生だよ。

ノンセンスを書いている人だって、本当は大真面目なのかもしれないよ。

方法論とかじゃなくてさ、何かに憑かれたように書いたものって、ワクワクさせてくれるんじゃないだろうか。自分の執心の結実です、みたいな論文。本を読む根気もアニメを観る熱意も薄れた今の蒼白い自分では、そういうのは難しいだろうな。

それにしても、夕飯のときから頭が痛い。
ああ、今日は早く寝ようと思っていたのにな。
明日はどうやって生活していこうかな。

夏が来る

2012-06-22 23:23:49 | 音楽
『AIR』の「青空」が突然頭に浮かんできて、ずっと聴いていました。思えば、そろそろAIRの季節ですよね、夏ですね。

ついでに米良美一の「ヨイトマケの唄」も聴きました。ずっと前にNHKで歌っているのを聴いたことがあるのですが、そのとき、たぶん初めてぼくは歌で感動しました。少なくとも、それまでの人生では経験したことのない類の感動をしました。これはカヴァーですが、米良美一の代表曲とさえ言ってもいいような気がします。表現力がハンパないですよ。米良美一を「もののけ姫」でしか知らない人は(そしてその歌声が好きな人は)、絶対に聴いた方がいいですよ。

最近、amazarashiのYouTubeでの再生回数がぐんぐん伸びている気がします。それとも、着実に伸びていると言うべきなんだろうか?いよいよ有名になってきたのかなあ。

CALFがバイト募集かあ。へえ。

三谷版『桜の園』を観劇

2012-06-21 23:31:09 | お出かけ
渋谷のパルコ劇場で、観劇してきました。

青木さやかの前説で始まります。そこでも強調されていたように、今回の舞台は「喜劇」として演出されたもの。チェーホフ原作の『桜の園』にはっきりと「喜劇」と書かれているにもかかわらず、これまで日本では「悲劇」として演出されることが多かったことに疑問を抱いていた三谷幸喜が、初めてチェーホフ劇を「喜劇」として演出することになったのです。ぼく自身、チェーホフの作品には笑いの要素が多いと感じていたので、今回の公演を楽しみにしていました。

舞台の始まる前に、きれいなロシア語で観劇上の注意(携帯の電源は・・・等々)が放送され、それが日本語に訳され、というのを繰り返していたら、次第にピロシキやイクラの話になっていき、こういうどこか『煙草の害について』(チェーホフの一幕物)を想起させる脱線で、幕の開く前から観客の笑いを誘います。そして突如「それでは公演が始まります」と放送され、舞台が明るくなります。

総じて、想像以上に原作に忠実だったように感じました。それにしても『桜の園』は演出するのが非常に難しい芝居ですね。「喜劇」にしてはしんみりし過ぎているし、「悲劇」にしては笑いの仕掛けが多すぎる。今回は喜劇の要素を前面に出そうという演出だったはずですが、それでも芝居のそこかしこから滲み出してくる悲哀、哀愁、苦悶は、この原作が一筋縄ではいかないことを多弁に物語っています。しかし、三谷幸喜の演出は、『桜の園』のこの両義性を提示することに(思いがけず?)成功してしまっているようにも感じました。最初に書いたように、あるいは三谷氏が繰り返し述べているように、従来の『桜の園』は「悲劇」一辺倒で演じられてきたので、そのような笑いと涙の両義性には乏しかったかもしれません。これを、「笑い」一辺倒に逆転させてしまうことが演出家の狙いだったのかもしれませんが、でも実際の舞台を見てみると、確かに笑える箇所も満載なのですが、反対に思わず目に涙が浮かんでしまうようなシーンも少なからずあるのです。

概ね原作に忠実なので、憂愁を醸し出す原作の雰囲気がそのまま舞台上でも発散されています。大胆に台詞をカットしている箇所もあるようですから、そういう悲劇的な要素は全て削ぎ落としてしまうという手もあったはずですが、しかし三谷氏はそれを残しましたね。単に、そうしなければ芝居が成立しないという事情があったのかもしれませんが、少なくとも結果的には、笑いと涙が併存する両義的な芝居になったと思います。

「悲劇」的な側面について少々喋り過ぎたようですが、今回の芝居は、それでもやっぱり「喜劇」でした。冒頭近くのシーンから笑わせられました。エピホードフという使用人が、買ったばかりの長靴を履いて登場するのですが、この長靴が可笑しな代物で、歩くたびにピヨピヨと妙な音を立てるのです。これ、三谷幸喜の小芝居かと思ったら、そうではなく、ちゃんとチェーホフがト書きで指示していることなんですよね。完全に読み落としていました。他にも、こういった小ネタや会話の応酬で楽しませてもらいました。とりわけトロフィーモフ(藤井隆)絡みのやり取りはおもしろかったです。客席が大いに沸いた場面、いくらなんでもチェーホフはそんなこと書いてないだろと思って後で戯曲を確認してみたら、確かに「そう」は書いていない。しかし、結局「そう」いうことだと想像できる台詞は書いてある。つまり、三谷幸喜はチェーホフの書いた台詞を膨らませて、行間を読み、それを役者に喋らせているのですね。「ここはチェーホフが笑わせたかったところだ」と三谷氏が考えた(だろう)箇所は、チェーホフが書いたままの台詞ではなく、より具体的に、より現代的にアレンジして観客に差し出しているわけです。ぼくはちょっと感心しました。

適材適所の配役だったし、よい芝居でした。三谷氏には、ぜひ他のチェーホフ劇も演出してもらいたいです。

東京発-モスクワ行

2012-06-20 23:13:44 | Weblog
けっこう前から決まっていたことなのですけれども、ロシアの大学で勉強するための奨学金が下りることになりまして、今年の秋から一年程モスクワへ行くことになりました。

こう言うと、バイトの人は「いいな~」という反応で、ロシア関係者(?)からは「おめでとうございます」という祝言を頂戴するのですが、本心を吐露するならば、「不安」の一言に尽きます。不安というのは、主に語学力と生活力に対するものです。ふつう、不安と期待が織り混ざったような・・・などと言いますが、期待なんてほとんどありません。いやもちろん、語学がもっとできればいいなあという覚束ない期待はありますが、それには努力を要するわけで、自分にそれだけの努力ができるだろうか、ということが不安だったりするのです。

いざとなればやる人もいます。でも、これまでの経験上、ぼくはそういう人間ではないことが分かっています。追い詰められてもやらない。ついでに言えば、覚悟も定まらない。ぼやぼやふらふらしながらここまで歩いて来ました。いま急に「覚悟を決めろ」と迫られても、そうそうできるものでもありません。だから、このまま(生き方を)通しちゃおうかなあと思案中です。頑張って覚悟を決め努力するか、それとも目の前のことを愚痴をこぼしながらこなしてゆくか。前者の方がかっこいいんでしょうけれども、それってやっぱり難しいんですよね。

まあしかしあれだ、奨学金を受給するのだって選抜試験があったわけだし、ぼくも一応大学院の試験に合格しているわけだし、それなりに見込みがあるからいまここにいられるんだよな。きっと「やればできる子」なんだよ、きっときっと。いまは全然駄目だけどね。それともこんな現状で精一杯なんだろうか?

むかし『ジャンプ』の漫画に「才能のせいにするな」って台詞があって、当時「すげー台詞だな」と衝撃を受けて、それ以来、折りに触れて思い出すのですけれども、確かにもう才能のせいにする時代は終わりましたよ。それでも、「ひょっとしたら」って希望に未だにすがったりもしているんですけどね。自分はまだだ、まだこんなもんじゃないって暗示をかけて、努力してるのにまだまだ努力が足りないってことにして、頑張って、踏ん張って、呻吟してたら、見えてくる世界もあるかもしれないな。才能のせいにしない生き方は潔いけど、あるかなきかの才能にすがって努力し続けるって生き方も、それはそれで魅力的かもな。

だから、言っておく。おれはまだまだこんなもんじゃない。

(ごめんなさい、明日の夜には撤回するかもしれないけど。)

テルテルが飛んでいく背景

2012-06-19 23:21:11 | 音楽
今更ですが、amazarashiのアルバムの付録ゲームをやってみて、壁紙を入手しました。その一枚が下の画像。 どーんと掲げてみる。気分転換にと思って、こんな感じの別のイラストをデスクトップの壁紙に設定してみました。あんまり壁紙とかいじらないんですけど、まあたまにはいいかな。

で、そのゲームですが、所要時間は5分くらいなんですけど、クリアするのに30分はかかってしまった(つまり6回はチャレンジした)。意外と難しいというか、いやでも簡単すぎるよりはこのくらいが丁度いいのかな、というレベルでした。

ところで台風、凄いですね。・・・と書き始めたら、雨が止んでしまったよ。もう過ぎて行ってしまったかな。それとも目かな。


amazarashi ベスト盤があったら

2012-06-19 00:12:40 | 音楽
夏を待っていました
カルマ
ラブソング
アノミー
コンビニ傘
古いSF映画
千年幸福論
ワンルーム叙事詩
無題
理想の花
アポロジー
未来づくり

試しにこんな感じでまとめてみた。けど、色んなものが抜け落ちてしまいました・・・。自分の大好きな曲も入ってないし。こういうのって難しいんだよな。

醤油のことなど

2012-06-17 23:06:17 | Weblog
2年前に熊本に行ったときに泊ったホテルで、一人で寂しくお刺身などを食べていたわけです。そしてそのときの醤油があんまり美味しくてびっくりしたわけなのです。だから、あれから「醤油は熊本」と決めてしまって、熊本の醤油を買っているのです。

そんなわけで、きのうも熊本の醤油を買い、早速お刺身も用意して、ちびちび食べておりました。熊本の醤油は、甘いんですよね。甘くて濃厚。3年間熟成させたそうですが、なるほど芳醇な香りとこってりした舌触り。なかなかうまい。ですが、やはりあの2年前の醤油には敵わないような気がしています。あのとき、ホテルの人に「この醤油はどこのですか」と聞いておけばよかったなあ。ちょっと悔やまれます。

「「「「「「「「「」」」」」」」」」」」」

なかなか頑張れない日々が続いています。一日の中でも、ときどき具合がよくなって、本を読んでもつらくならない時間帯がある日もあるのですが、昼間は大抵ダメで、寝転がってはうーうー唸っています。確かに、数年前に比べれば体調は劇的に改善したわけですが、それでも心身ともに健康な人に比べれば、遙かに苦痛を強いられているわけです。

ぼくはもうダメなのではないか、勉強を続行するのは不可能ではないか、そもそも当たり前の生活をすることができないのではないか。何度もそう思って、投げ出しそうになり、死への愛慕を深めてきました。でも今は、たとえロシア文学の勉強を続けられなくなっても、なんとか最善の道を探していこうと思っています。

生きるということは、悔しかったり悩んだり怒ったりすることですけれども、うれしい出来事だってあるよな。最悪の時期にだって、夜は明けるし、花を咲くし、晴れるし、雨は降るし、風は吹くし、カフェの客は談笑するし、中学校では生徒がふざけ合ってるんだよな。特別に目を凝らさなくても、世界はすばらしさに満ち溢れている。

空は青い。すばらしい。
海も青い。すばらしい。
夜は暗い。すばらしい。
そうだろ?

新海誠がツイートしてたので

2012-06-14 22:11:04 | アニメーション
新海誠監督御本人がツイートされていたMAD動画。

星を追う子どもMAD 【死者を探す旅】


監督曰く、「このMADよく出来ていますねえ」。
ふつう、自分の監督作品が無断で編集されていたりしたら困ったりするところなのですが、新海監督はそうじゃないんですよねえ。

ちなみに、『新海誠アートワークス 星を追う子ども 美術画集』は明日発売(お店によってはもう出しているらしい?)。

・・・・・・・

見そびれていた『虹色ほたる』を観に行こうと思って検索したら、新宿では早朝にやっているだけだった。なぜ・・・。こんな時間あんまり人来ないだろうに。

細田守の新作とか、ギサブロー監督の『グスコーブドリ』とか、気になる長編が来月控えています。

・・・・・・・・・・・

今日のバイトは、肉体的にはちょっと大変な時間帯もあったけど、概して平和でした。和気あいあいと歓談もできたし、お菓子もいただけたし、よかった。今日のような日のバイトは、学校に行くよりも100倍楽しい。

きのうは、日常的なことが満足にできなくて、停滞気味でした。家でごろごろしながら唸ってました。肉体的にも精神的にもそわそわと落ち着かないこの現状を打破したいものです。

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amazarashiのニュー・アルバム『ラブソング』、発売中です。冒頭の「ごめんなさいなんて言いたかねえよ」に心臓撃ち抜かれます。

目白押し

2012-06-12 23:59:03 | Weblog
明日くらいから、イベントが目白押しなのです。
CDが発売されたり、画集が発売されたり、映画を見に行ったり、芝居を見に行ったり、ライブに行ったり、どこかへ遠出したり。(他にも実はビッグイベントあり)

この頃はプレイ動画を見ていないので、日常があんまし充実していないのですが、こうしてイベントは後にずらっと控えています。なんとなくいつもやる気が出ないのですが、ぼやぼやしてられんなー。いま取り組み中の本をさっさと読み終えないととりあえず。

エルミタージュ美術館、行くかどうかで迷ってます。美術館があるのは、ロシアとは言えペテルブルグなので、はっきり言って今のところ行く予定なし。だから、せっかく六本木に来ている今、見ておくのがいいような気もするのですが、しかしいつかは本場で見られる可能性もあるので、東京で縮小展示を見る意味はあんまりないかなあ、なんて思ったりもして、結局行きかねています。

「クズネチク」という単語を露和辞典で引いたら、「きりぎりす」と「しじゅうから」という二つの意味が出ていました。どういうことなんだ?

さあ、もうすぐ明日だ。

桜色前線

2012-06-11 23:58:22 | Weblog
話題らしいので、マドンナの nipple slip 動画を見てみる。なるほど。しかし53歳のを見てもなー。

nipple slip といえば、『峰不二子という女』が、Gyaoで無料視聴できるというのでこの間見てみたんですが、う~む、単に露出度が高いだけで、あんまりおもしろくない・・・。「大人なルパン三世」というコンセプトは分かるし、それなりにスタイリッシュに見せようとはしているんでしょうが、期待値より低いですね。残念。
何も裸を見せるだけが大人ってわけじゃないでしょうに。

そういえばそろそろプール開きなんですかね。すると、もうすぐ海ですね。最後に海で泳いだのは、4,5年前かな? 4,5年前に海で泳いでるっていう事実が、周囲を驚かせてしまいそうなぼくではありますが、今年も海に行かないかと誘われていて、でももうさすがに裸になるのは嫌だなあと思案している、肉体美という概念からは程遠いぼくであります。痩せてるんでね。ただ、ロシア娘が同行するというので、それはもったいないから行こうかなという気持ちもあるわけです。もったいないからね。いや、これは邪念だな。

心頭滅却すれば、ロシア娘もまた・・・

Light in June

2012-06-10 22:39:33 | Weblog
六月になりましたね。もう梅雨です。
六月の雨や曇りの日々にも陽は差すのだ、という気持ちでこんなブログタイトルにしたのですが(毎年この時期になるとそう説明してきましたけど)、ここ数日は改めてその事実を噛み締めておりました。

でも、光に向かうことを考えてもいいかな、と今では思っています。「六月の光」ではなく「八月の光」。これではフォークナーのタイトルそのままになってしまいますが、でもそれを目指してもいいかな、と思ったりします。

六月の日射しを待ち侘びる姿よりも、八月の熱射を満腔に浴びる姿。そういう姿を志向してもいいのだ、と思います。

もちろん、雨降りの午後に家の中でじっと苦しみに耐える自分を忘れるわけではないし(というか現在もそれからそう変わらないわけだし)、ブログのタイトルを実際に変更するわけでもありません。ただ、光に向かって進む意思を明確にしておきたいと思っただけです。

光を待つのではなく、光へ進む。ぼくらはきっと六月を乗り越える。