Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

カールじいさんについて

2011-02-27 23:33:45 | アニメーション
『カールじいさんの空飛ぶ家』を見たのは随分前ですが、感想を書いていなかったので、備忘録的にここに書き付けておきます。

まず、ぼくにはそれほどの傑作だとは思えなかった。巷で言われるように、前半はよい。もっとも、それは例の無言の回想劇がすばらしかったから、という理由からではありません。そうではなく、前半にはリアリティがあったから。床が抜ければ落ちて怪我をするし、入院する。殴られれば血を流し、警察沙汰になる。そのあたりまえの経過がしっかりと描写されていて、ぼくは「おや」と思った。非常に「地に足のついた描写」がされているなと感じました。このリアリティをいかに持続させ、いかにクライマックスへと持ち込むのか、見物でした。

ところが、そのリアリティは一挙に飛散してしまいます。風船による家の飛翔と共に、リアリティもまた映画から飛翔してしまいます。家の華麗で壮麗な飛翔が、リアリティの消滅と完全に一致するわけです。まるで風船が家と一緒にリアリティをも持ち去ってしまったかのように、それは再び映画の中に降りてくることはありません。以後、この作品では摩訶不思議な出来事が展開され、ときに行動は物理法則を無視し、爽快なアドベンチャーの羅列となります。

もちろん、これは制作者側の狙いかもしれません。前半の異様なほど抑制されたアクションを家の飛翔と同時に解放して、それを自由に羽ばたかせる。それが見る者のカタルシスを引き出すに違いない、と。あるいは、そう感じる視聴者は多いのかもしれません。でも、ぼくは違った。残念ながら。

「リアルなこと」と「リアリティがあること」とは異なりますが、ぼくは別にアニメーション映画に前者を求めているわけではありませんし、後者をも必ずしも要求するわけではありません。しかしながら、あれほど大事にされていたリアリティが、一瞬にして飛び去ってしまうのが、作品の構造の問題として、もったいないように感じられたのです。アクションにはある程度のリアリティがあった方が(見る者の身体的な経験とある程度合致するものである方が)、より興奮度の高いものになるというのは確かでしょう。抑制から解放へのカタルシスと、リアリティを伴うが故のカタルシスと、どちらを選択するのかという問題に、制作者は前者と答え、ぼくは後者と答えた。それまでと言えばそれまでですが、腐心して得られたはずのリアリティが、後半の荒唐無稽のためのいわば通過儀礼としてしての役割しか果たしていなかったとすれば(それともジャンプ台としての役割か)、それはやはり残念であって、もったいないという気持ちになります。

前半の人気がとりわけ高い本作ですが、後半をバッサリ切って、風船で飛翔する瞬間までを一個の短編作品として提供した方が、作品の完成度としてはより高まったし、感動も一層のことだったと感じています。前半は後半のための壮大な序曲、助走なのではなく、むしろ後半は語られ損なった後日談であり、余計な付属物であるように思われるのは、無論ぼくの身勝手な感想に過ぎませんが、そこには相応の理由があるということです。

家が地上と手を切った瞬間、描写自体も地に足のつかないものになってしまったのは、実は合理的な理由からなのかもしれません。つまり、風船で家が飛行するというアイデアを形にするには、それが非現実的な、夢幻的な映像として屹立していなければならないからです。非現実を形作るためには、周囲を現実的描写で埋めておかねばらず、前半のリアリティは、やはり周到に準備されたものである必要があったでしょう。恐らく誤算は、その準備が「周到過ぎてしまったこと」。つまり完成度が高過ぎ、ほとんど一個の作品として完成してしまっていたことです。それがぼくのような倒錯的な感慨を引き出し、また論理的にもそれを裏付けることが可能になっているのです。

風船の飛翔によって現実と非現実との境目が切断されたとき、この映画は、両者が分離された状況で共存しているという、いささか不格好な体で浮遊し続けることになったように思います。

『幸福はだれにくる』

2011-02-27 00:37:42 | 文学
マルシャークの戯曲を読みました。
先日買った本です。

子供向けに書かれたとてもよいお話で、なかなか気に入りました。擬人化された「不幸」を色々な人にたらい回しにする物語なのですが、誰にこの不幸を背負わせるのか、といった駆け引きがおもしろくて、引きこまれます。不幸を人にくっつけてやるには、その人に物を売るついでに「おまけ」として渡さねばならず、それがいっかな上手くいかずに悪戦苦闘する、といった様子がおかしい。

しかし、巡り巡って不幸を背負わされた兵士は、一向に不幸を嘆くことをせず、またその不幸を誰かに売り渡すことを潔しとしません。いったい、あえて誰かを不幸な目に遭わせるなどと、そんなことができるだろうか?

もちろんこの兵士は最後は不幸から解放されて、めでたしめでたしとなるのですが、それというのも、不幸を恐れずに引き受けたからなのだ、という教訓的なオチがつきます。幸福は、不幸の後にやってくる、ということですね。児童文学のフルコースを堪能した気分。

こういう分かりやすい、教訓的な物語のわけですが、もしも不幸を誰かに押しつけることができるとして、そしてそれによって自分がその不幸から抜け出せるとしたら、果たして人はそうするだろうか、という問題提起はどうしてどうして深遠であり、さすがにマルシャーク、解決の難しい思想を潜ませています。ふつう考えられるのは、頭のよい人間(主人公)が策略によって不幸を「悪い人間」に売り渡す、という構図にすっぽり収まってしまう物語で、まあ正直なところマルシャークの戯曲もその構図に当てはまってしまうのですが(兵士は結局のところ自分に敵対していた人間たちに不幸を背負わせる)、しかしそこには因果応報的な要素もあり、不幸の受け渡しは倫理的に可能か、という問題はやはり生きています。

この作品では、それは「よくないことだ」という回答が与えられていますし、第一、不幸を恐れてはならない、という教えもあるわけですから、問題は提起されたときに既に解決されていると言えそうですが、これは一般化すれば、我欲のために他者を犠牲にすることは許されるのか、という問題であり、場合によっては非常な葛藤を胚胎しうる難問です。

憂き目や辛い目を他人に味わわせることがよくないことだと示しておきながら、しかしそれが「懲らしめ」のためだったら許される、というこの戯曲の骨子は、非常に分かりやすいものでありながら、少し問題を複雑にしているようにも見えます。

・我欲のために不幸を他者になすりつけるのはよくない。
・幸福のためには不幸を恐れてはいけない。
・「悪い人間」を懲らしめるためなら不幸を押しつけても許される。

不幸を甘んじて受け入れよ、不幸を不幸と思わず嘆かず生きよ。そうすれば幸福が訪れるだろう。これはそういう物語なのですが、そこに、「悪い人間」が登場し、舞台をひっかき回し、最後は不幸を背負わされてしまうのです。兵士は不幸を(仕返しないしは懲らしめとして)他人になすりつけることで幸せを得ますが、この結末で本当によかったのかなあ、と感じます。憂き目を見てもなお幸福を志向し幸福を感じて生きる道もあったのではないか、と。

『幸福はだれにくる』は、とてもおもしろいしよくできなお話なのですが、なんというか、いわば倫理的な不満がやや残りました。けれども、もしも結末を変えてしまったら、やけにフラストレーションのたまる劇になったことでしょうね・・・。だって、不幸を他人に押し付けた人間が幸福のまま暮らすなんて、やはり倫理的に許しがたいものがあるからです。不幸を売り渡した人間は、それを再び買わねばなりません。となると、第三の道が伸びていなければならなかったわけですね。兵士は不幸を売らず、身勝手な人間たちは不幸を買う、という。売らないものを買う、というアポリアをどう解決すべきなのか、というのはもはや倫理的・心情的な問題ではなく、文学的な構想・アイデアの問題です。マルシャークもこの問題に頭を悩ませたのか否か、分かりませんが、完成したものはこれはこれで、楽しい作品でしたよ。

児童向け、と言えば、ナルニア国物語が放映されていましたね。きのうは第2章で、今日は他局で第1章。う~む、この編成はなんとかならなかったものでしょうかね。ちなみに、両者とも、元の世界に戻るというのが切なくていいですよね。

怒りと癒し

2011-02-24 23:15:08 | Weblog
NZの地震で、新聞に写真が掲載された少年というか青年というか、彼はピースをしながら顔を歪めていたので(笑おうとしていたのか)、助かったのでうれしいのかな、などと暢気に考えていたぼくは、彼のインタビューを読んで衝撃を受けました。足を切断したのか。

その日だったかどうか正確なことは思い出せませんが、ともかくその頃、日本では、ナントカという男が首相に辞任を申し出たとか。わざわざこの時期を狙ったとしか思えないタイミング。いま政争やら内紛やらをしている場合じゃないだろうということは、誰だって分かる。この時期に党内部の紛争をあからさまに外示することによって、菅政権への打撃を図ったとしたら、これはもう言語道断としか言えない。それともまさか本当に、国際的な事件そっちのけで行動しているのか?まさかね。

写真の少年(青年)、テレビのインタビューで、ポジティブなんで気にしないです、と語る言葉が印象に残りました。

久々に怒りを感じた一件でした。これで終わると後味悪いので、次は癒し。

最近立て続けに、べにこさんという人が温泉に入る映像を見たんですけど、なんかいいなあ、あの人。妙にくねくね恥ずかしがっていて、言葉使いはやけに礼儀正しいし、そしてなぜか艶がある。けれども媚びている感じはしない。特におじさんに人気が出そうですね。

夢に見られた本

2011-02-23 22:02:52 | Weblog
なんとなくやる気がしないでいるのはいつものことなのですが、それにもかかわらず本屋に寄ったら、思いがけない本を見つけました。このあいだ、夢に見た本です。

まず手に入らないだろうと思っていて、大学の図書館にはあるのでそれで満足することにするかと自分を納得させていた本です。

ロシア語で書かれた二巻本で、よく欧米の研究書に引用されている、基本文献なのですが、日本にいるとやはり入手しづらい。10年くらい前の本なので、ロシアの一般書店にも既に置いていないし、ネットにもないようなので、諦めていました。ところが。一体どうして当然現われたのでしょうか。この本屋はちょくちょく確認しているのですが、まさか今日まで埃をかぶって埋もれ、誰かに発見されるのを待っていた、というわけではないでしょう。少なくとも去年まではなかったはずです。う~む、喜ばしい誤算だ。ハッピーなエラーだ。

それにしても、なんとなくやる気がしないでいるのがいつものことなので、せっかく貴重な文献が手元に来ても、それを使いこなせないのは情けないし申し訳ない話です。しかしながら、大事な夢に見られた本ですから、ぼくも有効活用できるようにがんばろう。

2011-02-22 14:34:25 | Weblog
今日は暇なので本を読もうとしたのですが、読めない。20分で挫折しました。別に難しい本というわけでもなければ、退屈な本というわけでもないのに。それでも、読んでいると飽き飽きしてきてしまって、これ以上座っていることができなくなるんですよね。なんとかならないかなあ。まあ、昔みたいにひどく具合が悪くなるということはないので、そこはありがたいのですが。でも、もっと昔みたいに、集中して何時間も読書していられるようにまたなりたいものです。

さて、近所の古書店の多くは、火曜が定休日らしいのです。だから、こういう無聊をかこっている日に出かけて行っても、無駄足を踏むだけなのです。困ったものだ。

うちにある本を片っ端から読みたいなあ、と昨日の夜などは思っていて、でも実際はこの体たらくですよ。たぶん一生読むことはできないと思いますが、それにもかかわらず、古書店に通いたいなあ、と一方で考えているわけです。読まない本ばかりが溜まってゆく。いやまあ、それはいいんですけどね。

とりあえず、次にぼくは何をすればいいのかな。何を読めばいいのかな。大江健三郎、ゴーリキイ、平野啓一郎、といったところが候補なのですが(ロシア語の本は除いて)、今のぼくでも読める本、というか今のぼくに適している本、というとどれなのかなあ。もうちょっとマイナーなのも差し挟みつつ、この三人の作家の本をとりあえず一冊ずつでも読めたらいいな、と思うのでした。そういえば、アンダソンやベズモーズギスなんかも早く読みたいなあ。と、こんなふうに、読みたい本はあるのですけれども、体が追いついていかない。ふう、やれやれだ。だいたい、天気のいい日に部屋に閉じこもって読書なんて、気がくさくさしてきてしまって嫌なんですよね。むしろ走りたいなあ。そうだ、風を切って駆けていきたい。草むらの上を。新しい靴を履いて。

水上へ・・・

2011-02-20 22:41:39 | お出かけ
水上へ旅行していました。で、帰ってきました。楽しかったです。

小学生の作文ならこれで終わってもおかしくないなあ、とふと思う。ぼくは実際こんな作文を連発していましたよ。作文というか宿題の日記でしたけれども。

水上は山の方へ行けば行くほど雪深くなっており、豪雪って感じでした。宿を取った場所はそれほどではなかったにしろ、でも屋根の上には雪が幾層にもなっており、やはりよく降るところなのですね。でも、これだけでは満足できない、ということで(雪を見に来たのだ!)、谷川連峰まで足を延ばすことにしました。スキー場のあるところです。バスで数十分、山道を登り、ロープウェイでスキー場まで。ぼくはスキーはできないのですが、なんとなく雪見のつもりで出かけたところ、思いがけず橇を借りられて、それで遊びました。まるで小学生のように。

ところで谷川岳の雪はビロードのように柔らかく滑らかで、また雪の粒も非常に細かく、さらさらでした。雪質がいいとの話を聞いていましたが、本当にそうですね!感激でした。今まではスキーができないということでスキー場は敬遠してきましたが、できなくてもこういう遊び方があるんんだなあ、ただただ雪を見るだけでも楽しいし。それに、ここは人の数がとても少なくて、広々していました。この時期は穴場みたいです。上級者の高いところから滑降してくるのを見るとすげえなあと思わずにはいられませんが、まあ自分には無理だな。

宿の部屋は非常に広くて、快適でした。で、ちょっとぼくのブログの話になったのですが、訪問者の数が少ないと寂しいけれど、多くても怖いな、と。誰が見ているのか分からない、というのはおもしろくもあり、また恐ろしくもありますからね。なるべく細々と、今くらいのペースでやっていけたらなあ、と思っています。いま来ていただいている方々のご希望に沿うような、新たな読者をちょっとだけ開拓できるような、そして何より自分が無理なく続けていけるような、そういう記事を書いていきたいですね(難しいかな)。

水上の話。写真は妙なほどたくさん撮りました。ほとんど人が写っていることもありここにはアップしませんが(というか自分のカメラじゃないけど)、写真というのも案外いいものですね。心のシャッターを押しているのさ、などとこれまでぼくはうそぶいていましたが、デジカメを買ってもいいかもなあ(持ってないんですよね)。

とりあえずね、楽しかったですよ。お腹が痛くなることもなかったし。色々あって書ききれないくらいですけれども、事細かに書くことがなぜだか躊躇われるので、このへんで切り上げます。なんとなーく漠然とした内容になってしまいましたが、充実した旅でしたよ。最後に。ぼくは遅くまで寝ず、早く起きる人間ですが、家ではよく寝ます。

宝箱の蓋は閉じておくべきだ

2011-02-17 22:55:34 | アニメーション
今の今まで、書いてやろう!という気に満ち溢れていたのですが、突然、やる気が萎んでしまった・・・なぜ?

ところで、ジブリ美術館で上映されている作品についてはこれまでも何度か書いてきたことがあったと思うのですが、美術館そのものについては、ほとんど言及してこなかったような気がします。そこで、今日は美術館について感じていることを少々書いておこうと思います。

「映画の生まれる場所」という部屋が館内にあります。そこには無数のイメージボード風のスケッチが壁一面に張られていて、大変迫力があります。近年ではノルシュテインのスケッチも混ざっています。さて、その部屋の半分は西洋風にアレンジされていて、黒ずんで堅そうな木の机がでーんと置かれ、洋書が所狭しと積まれ、天上からは飛行機やプテラノドンの模型がぶら下がり、世にも奇妙な置物が至る所でその存在感を放っています。ほとんどの物は色褪せ、金属は鈍く光り、長い年月を経たことを思わせます。

ぼくはこの部屋がとても好きです。少年の夢、という名前がピッタリくるような、少年が、あるいは少年の心を持った大人が憧れを掻き立てられる部屋です。こんな家に住みたい、と誰が思わずにいられるでしょう!洋書の百科事典か全集を思わせる、埃の積もったシックな装丁の書籍の数々や、天体を観察するのに用いられるのでしょうか、巨大な観測器が、心を締め付けるようです。

この部屋の出口付近に、大きな宝箱が置かれています。ぼくは、この宝箱こそが、美術館の思想を端的に表現しているような気がしています。思想。ひょっとすると大仰な言葉かもしれませんが、しかしジブリ美術館は一貫した思想の下に設計され、人々を招いています。「迷子になろうよ、いっしょに。」という美術館のコピーは有名ですが、このコンセプトは、人々の探究心や冒険心に訴えかけているような気がします。整頓された作品を、整然とした道のりにしたがって巡視するのではなく、好奇心をもって順路も何も関係なく、作品を発見しようとすること。そういう気持ちを刺激し、煽ってくる。館内は迷宮のように入り組んでいる、というほどではないにしても、自分が何階にいるのかがやや把握しにくい構造になっており、否が応にも冒険心に火を付けられます。自分で探し、自分で見つける。欲する者には惜しみなく与える。迷子になりながらも、自分で活路を開き、そして自分だけの場所、自分だけの秘密、自分だけの作品を発見する。それをこの美術館は促しているのではないか、とぼくは思っています。

だから、ぼくは美術館を案内したりはしない。ぼくは何度もここに足を運んでいますけれども、訳知り顔に解説したり、隠れたお宝を教えるようなことはしない。それは自分で見つけるものであって、他人が教えてしまうことは、発見のチャンスを奪ってしまうことになります。宝箱があって、その中身だけを「どうぞ」と言って差し出すことは、ぼくにはできません。宝箱というのは、自分で見つけるべきなんです。そして自分で蓋を開けてみるべきなんです。宝箱の蓋は、閉じてあるべきなんです。

引き出しを開けたら本が入っていたり、手すりを支える棒に綺麗な球が埋め込まれていたり、壁の上に何気なく思いがけない絵が飾られていたり、驚きが隠れているのがジブリ美術館です。いや驚きは常にベールの奥にあるものです。

最後に、トイレについて。各階にトイレはありますが、この美術館のトイレは快適さを追求して凝っており、必要がなくても一度入っておくことをお勧めします。最もすばらしいのは地下1階のトイレで、男子用にはスラッグ渓谷(『ラピュタ』の舞台)が窓の向こうに見える仕掛けになっています。

ほら、もう一度行きたくなったでしょう?

パン種とタマゴ姫

2011-02-16 23:51:31 | アニメーション
観てきました。

ようやく、です。
まあまあおもしろかったかな。やたら動き回っていて、画面に活気があったのがよかった。バーバ・ヤーガ(あるいはバーバ・ヤガー)がロシア民話に登場する人物であることは美術館でも紹介されていましたが、この作品のもともとの着想はブリューゲルの絵だそうです。ラピュタの外観はブリューゲルのバベルの塔を参考にしたと思われますが(あくまで推測、が根拠はある)、宮崎駿はブリューゲルが好きなのかな。

短編作品は、12本できたらDVDになるという噂(?)もありますけれども、1年に一本以下のペースですので、それが本当だったとしてもまだ少し先みたいですね。ちなみにぼくの好きなのは「やどさがし」ですね。あと「星をかった日」はやはり耳すま好きには堪らない。イバラードの世界が動く映像になった、というのは感動なのですあります。無論、「イバラード時間」というのもありますけれども、あれはあれでいいんですけれども、ね。井上直久の漫画もけっこうおもしろくて、今考えてみると、タルホに影響受けているのかなあ。星を売っているお店、という設定は、イバラードにも、タルホにもありますよね。

思いついたままを書いていますけれども、ひどく不親切な文章ですね。すみません。今日、ジブリ美術館の新作を観てきた、と言っているのです。で、登場人物の老女の名前がバーバ・ヤーガで、それはロシア民話に登場する魔女(みたいな人物)の名前である、と言っているのです。美術館の映画は全て短編で、これまで8本が公開されているのですが、それが12本になったらDVDになるとかならないとかいう話があるようなのですよ。近年の作品には「やどさがし」と「星をかった日」という作品があり、後者は、耳すまで美術を提供した井上直久の創造したイバラードを舞台にした物語なのです。そのイバラードの世界観は、どこか稲垣足穂のそれと似通っているなあと思ったわけです。

ところで、ぼくはこれまで数々のフィルムチケットを手にしてきましたが、今日初めて出典の分からないチケットを目にしました。これまで最も難易度の高かったのは、27歳のタエ子が背を向けてふとんの中に寝そべっているカットだったのですが(ほとんど灰色の長細い物体が横たわっているようにしか見えない)、今日のカットは、何かの機械(操縦席?)に誰かの足が突っ込まれている絵なのです。飛行服を着用しているようだったので、最初フィオかなと思いましたが、しかしあんな場面はないよな?赤いレバーが手前に描かれていて、それがヒントになるはずなのですが、どうしても思い浮かばない。ハウルのフライングカヤックでもないし。後期の作品かなあ。有力なのはポルコ・ロッソなのですが、あんなに足は細くないよなあ。機内の内装は木を基調にしていたようだったのですが、なんだろうなあ。ラピュタにはああいうカットはないし、するとフジモト?いや違うか。気になる。全作品の全カットを覚えているわけでは当然ないので、人物の映っていないカットは難しいのです。美術的には90年代から2000年代前半といった感じなのですが、それも怪しいかな。う~む、もう一度、今度は明るいところでじっくり見たら分かるんではないかと思いましたが、しかし美術館で見抜けなかったというのは、それだけでもう反省しきりです。最近はジブリよりも新海誠だしなあ・・・

ちなみに、コルベットでもないと思いました。あんな機内ではないような・・・。バカガラス?いや違う・・・。こういうときにフィルムコミックは便利なんだけど、持ってない。

これからきっと読む本

2011-02-15 23:26:05 | 文学
最近はろくでもない記事が多いような気がします。
昔はもっと、小説であれアニメーションであれ、レビューを書いていたぞ。

だから、うちにある文庫本を10秒間見渡して、これを読もう、という本を決めました。

エイメ『クールな男』
ストランド『犬の人生』
モラヴィア『倦怠』
マルケス『ママ・グランデの葬儀』
デ・ラ・メア『恋のお守り』

きっと読むぞ。3年以内にはな!

ところで、咳が止まりません。雪はもう溶けてしまったというのに。咳はいつまでも続くのです。いつもそうだ。早く薬を飲もう。

雪消ゆ

2011-02-14 22:10:51 | Weblog
「いま雪が降っています。それに何の意味があります?」
「もえろ、もえろ、明るくもえろ 消えないように」

ロシア文学で「雪特集」を組んだら何があるかな、と思って数え出したら、片手ほどしか思いつかなかった・・・忘れてるなあ。

チェーホフ「三人姉妹」には、「いま雪が降っています。それに何の意味があります?」という台詞がありますが、まさに無意味を問うたものですね。「タララ・ブンビ・ヤー、シジュー・ナ・トゥンベ・ヤー」といった無意味な言葉遊びもありますし、「チェハールトマ」論争もあるし、どうしてどうしてチェーホフは無意味というものを追究した作家なのですね。

一方、「もえろ、もえろ」の方はマルシャーク『森は生きている』の有名な一節。雪深い森の中で、少女が大きな大きな焚き火を見つけます。その炎を囲っていたのは12人の月の精たち・・・。

いま雪が降っています。東京に。
久々の大雪です。1時間経たないくらいで積もり始め、今やもう靴がざくざく言うほどです。降り出したのは夕方頃でしょうか?それとももっと早く?初めは雨だったようですが、6時過ぎにはみぞれに変わり、30分も立つと、雪になっていました。ぼくはこの大雪の中を帰宅しましたが、びちょびちょになっちまいましたよ。冷たい!でも、東京で生まれ育ったので、雪は楽しみです。(あめゆじゅとてきてけんじゃ。)

目を閉じると、夜の街に降りしきる真白い無数のつぶての残像。
雪はまるで何かの続きのように、音もなく降り積もる。
東京を白で塗り込め、閉じ込めてしまう雪は、浄化の象徴のように言われますけれども、それはあたかも忘却の、無の象徴のようにも思われます。無。黒と同様に白もまた、無に違いない。いや、むしろ黒よりも。
雪国では、雪は白い巨人がばらばらに崩れながら落ちてくるようなものだとすれば、東京のそれはさしずめ、白い蝶の死骸か。なんかシンボリズムっぽいな。

フョードロフ

2011-02-13 00:26:00 | 文学
SF(とりわけロシアのSF)が好きな人や、宇宙開発に興味のある人は、ツィオルコフスキーの名前を知っているかもしれませんね。この「ロケット工学の父」は、20世紀前半のロシアを生きた人物ですが、彼は不死の問題を取り上げ、人間は地球から宇宙へ飛び出してゆくべきであると唱えました。

人間を構成している原子は、死後分散してしまいますが、それを再び統合すれば人間は復活するというわけです。また、未来の人間、死を克服した人間は、独立栄養体となり、食物を摂取せずともよくなると言います。その生命体は球体となり、ただ太陽光のみがそこを通過する。

このような彼の思想に影響を与えたのがフョードロフであると言われています。ドストエフスキー、トルストイ、フレーブニコフ、プラトーノフらにも影響を及ぼしたとされる「伝説の司書」です。彼はキリスト教と科学の両面から復活事業について真剣に考察し、人間はそれを目指すべきだとしました。祖先を復活させるのです。フョードロフの理念の根本には、「祖先復活」と「自然統御」があると言われますが、それらは死の克服に還元できます。

自然統御というのは、通俗的な理解では、人間が環境を支配するというふうに解釈されがちですが、どうやら自然の法則性を統御するということのようです。自然の法則性とは何かというと、それがまさしく人は死すべきものという法則であり、他者を排斥する傾向であり、殺人を犯す(戦争をする)性質であります。

また、「父」に対し恩を受けている「子」は、それを何らかの形で贖わなければなりません。その恩返しが、祖先の復活事業なのです。祖先を、一人残らず文字通り復活させる。人間を構成している微粒子を再統合すれば、彼は蘇ることができると考えます。しかし復活した祖先たちで地上は溢れてしまうのではないか?だからこそ、人間は地球外へ、宇宙へと飛翔する必要性、否、必然性があるというのです。

フョードロフのこうした思想は、ありのままの現実を受け入れるのではなく、あるべき現実を創造しようという強い意欲と倫理観の表れだと考えることができます。現実とは「こういうものだから」それを受け入れるのではなく、現実とは「こうあらねばならない!」とよりよきものを志向するのです。

仮にフョードロフの思想を全面的に首肯できなくても、こういった激しい意欲や義務感は見習うべきかもしれません。われわれは現実追認に逃げてはいないか?と反省すべきかもしれません。

とはいうものの、フョードロフについて興味を惹かれるのは、その姿勢もそうなのですが、何よりも彼の特異な思想の方なのですよね。

『フョードロフ伝』と『ロシアの宇宙精神』という本がとりあえずよい導入書になると思われます。関心のある方は是非。ちなみに、フョードロフやツィオルコフスキーを部分的に扱った本なら他にもけっこうあるので、探してみるとおもしろいかも。

体調悪化

2011-02-10 23:31:35 | Weblog
きのうは文字通り一睡もできませんでした。
日曜も全く眠っていないし、火曜は2~3時間だし、そして水曜がゼロ。ということは、ここ4日間で満足に眠れたのは月曜だけということですね。半分が徹夜。なんじゃこりゃ。

横になると気持ちが悪くて、寝れないんですよ。仕方ないから壁に寄り掛かっていたのですが、それでも眠れないから、やることに事欠いて、ロシア語の詩を訳しました。椅子に座っている分にはまだ我慢できるんです。でも横たわるとダメ。

喉のかなり奥の方が赤くなっているようで、そのせいで喉を絞めつけられているような感覚がして、言葉を発したりすると吐き気がするのです。横になっても同じ。もっとも、今は声が出ないのですが。しかし鼻水は盛んに出る。

インフルエンザは軽症だったのですが、それが治った後のこれはなんなんですかね。インフルエンザの菌が残っているのか、それとも新たな風邪なのか。

ここ何年か、喉が猛烈に痛くなると、その翌日あたりに必ず気持ちが悪くなって眠れなくなるようになってしまいました。恐ろしくて風邪も引けやしない。が、年に何度も引いてしまう。昔は風邪くらいなんてことなかったような気がしますが、今はインフルエンザより怖いです。

それにしても、今日は眠れるのだろうか。無理そうなんですけど。うう、つらい・・・。睡眠を許されない、というのは一種の拷問ですねえ。

全快とはいかず

2011-02-09 23:32:26 | Weblog
床上げしましたが、昨日よりもむしろ今日の方が体調が悪いような・・・
喉はいがらっぽくて咳が出るし、だるいし頭は痛いし(もう治ったけど)。

さて、もうすぐバレンタインだそうですが、

「モテたでしょ~」
「いやあ、全然そんなことないっすよ」
「うそ~」
「ほんとですよ。最高でも、小中学校のときに3,4個ですって!」
「え~ほんと~!?」

というタレントの会話をテレビで目にしました。

3,4個って、けっこう多くないですかね・・・。別にいわゆるイケメン俳優ではなかったし、3,4個はがんばった方じゃないでしょうか。

高校は男子高だったので、バレンタイン騒ぎを間近で見たのは小中時代だけでした。なんか流行っていたようで、ぼくもその煽り(?)でもらったりしたこともありましたけれど、4個もらってたら多いよな、やっぱり・・・

高校生活はバレンタインどころではなかったので、すっかり縁が切れたと思っていたチョコレートですが、大学に入ってからもらうことが増えました・・・嘘です。

正直バレンタインなぞどうでもよろしい。と、つぶやいておく。
別に恨みもないしひがみもないんですけどね。いや、本当に。本当なんですよ。

さて。明日はより体調が回復しているとありがたいです。

インフルエンザ?

2011-02-08 17:58:40 | Weblog
喉に違和感を覚えたのが、日曜(2月6日)の夕方。
体のだるさを感じ始めたのが、その日の8~9時頃。
同じ頃、喉の違和感ははっきりとした痛みへと変貌してゆく。
熱を計ると36.7分。
10時頃、再び熱を計ると37.2分。
その後布団に入り、寝ようと試みるが、まんじりともできない。
0時前に起き上がって体温を計り直してみると、37.5分まで上がっている。
再び布団に入りものの、やはり寝れない。
何度か体温を計る。
深夜1~2時頃には、38.5分まで上昇。

寒気がして歯をがちがち言わせる。体の節々が痛む。それから朝まで結局一睡もできず、暇つぶしに体温を計り続ける。38.5分を保っている。

明け方、38.3分になっている。
起床して服を着かえる。38.1分になっている。
猛烈に喉が痛い。
梅干し入りのお湯を飲んで、病院に出かける。
病院でもう一度体温計。なぜか37.5分に下がっている。
インフルエンザの検査をするも、結果は陰性。しかし医師によれば、インフルエンザの可能性が極めて高いらしい。それでそれ用の薬を処方される。

帰宅してすぐに熱を計る。37.2分になっている。喉の痛みもだいぶ緩和されている。
まだ薬飲んでいないのに。


昨日、今日、と一日寝ていました。今では熱もすっかり平熱に戻りました。それにしても、体温が急上昇してから、徐々に下がっていったのは、自然治癒力でしょうか。だったら、やっぱりインフルエンザではなかったのかなあ。このあいだの腕の擦り傷も完治しましたし、意外とぼくは回復力が高いのか。本当に意外だ。

午後の恐竜

2011-02-05 22:46:41 | アニメーション
メディア芸術祭で短編アニメーションを見てきたのですが、目玉は何と言ってもこれです。

加藤隆『午後の恐竜』(星新一原作)。

いいとは聞いていたのですが、ここまでとは。アニメーション云々というよりは、原作がいい。これほどの想像力、天才的ですね。もちろん、映像もすばらしかったのですが、何よりも作品の構想と想像力に打ちのめされました。

NHKで放映されていたショートショートの一つなのですが、やはりNHKはアニメーションに関してすごいものを持ってくるなあ。いやまあそれはいいとして、『午後の恐竜』がどういう話なのかというと(以下ネタバレしまくり)・・・

ある男性が目を覚ますと、街に恐竜がいるわけです。でもその恐竜たちは手で触れることはできなくて、立体映像のように、ただ目に見えるだけ。妻の話では、朝からこういう状況らしい。そしてテレビはこの現象が地球規模で起こっていることを伝えている。テレビのある解説者は、猛烈なスピードで時代が経過していることを語っています。その言葉を裏付けるように、やがて恐竜の時代は終わり、始祖鳥が現われ、哺乳類が姿を見せ、やがて人類が誕生します。その頃、核兵器が消息を絶ったという話が挿入されます。男性は、この急速な時代の経過を目の当たりにして、全てを悟ります。ああそうか、そういうことなのか、と。人間が最期のときに走馬灯を見るように、この眼前の光景は、地球の見る走馬灯なのだ。これは、地球の記憶なのだ。家族と共にその地球の歴史を見守る男性の前に、一人の少年が現われ、やがて彼は大人に成長してゆきます。子どもは無邪気に父親に尋ねます。時代が経過しているっていうことは、もうすぐ未来が見えるの?・・・父は子と妻を抱き、地球の走馬灯の終わるとき、すなわち地球の最期のときを、三人で迎えるのでした・・・

この詩情と恐ろしいほど豊かな想像力。この作品を見たとき、このプログラムにはもうこれ以上の作品はないだろうな、と思いました。そして実際そうでした。この作品より前にこれ以上の作品はなかったし、この作品より後にもこれ以上の作品はありませんでした。ぼくにとっては、この『午後の恐竜』が今年の短編プログラムのベストです。ダントツで。とにかくすばらしかった。この作品と出会うために、ぼくはこれまでメディア芸術祭に通っていたんだと思う。