Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

しゃべる才能

2009-06-30 01:34:35 | Weblog
他大学の某先生のブログをいつも読んでいるのですが、先日はがっかりしてしまいました。曰く、

大学でよく知っている就職活動中の学生と会ったのだが、彼とはこれまでそんなに会話が弾んだことがなく、コミュニケーション能力がいまひとつな生徒だと思っていた。今度も、久々に見かけたものだから軽い挨拶程度というつもりで話し掛けたら、意に反し、彼がしゃべるしゃべる。どうやら就職活動で自分のそれまでのやり方を否定され、社会にもまれて成長したようだ。きっとどこかから内定がもらえるだろう。…

こういう内容なのですが、何を言っているんだろうと思いました。本気なのか、と。確かにこの件に限っては、先生の言い分が正しく、学生は社会にもまれて自分のやり方を変えたのかもしれません。でもこういう出来事は、この先生の主張のように一般化できることではないと思うのです。

つまりですね、単に学生は先生とは話題が見つからず、それで会話が弾まなかっただけじゃないかと思うわけですよ(その日はたまたま話がしたかっただけ)。友人たちとなら、活発に話し合いができる人なのかもしれないじゃないですか。だいだい、先生という立場の人と話すのは苦手、という学生はけっこういますよ。それなのに、コミュニケーション能力がいまひとつだ、と決め付けている。これはあんまりだ。

ぼくの知り合いにこんな人がいました。彼は文学部の学生でしたが、盛んに読書する方ではなくて、授業では特に目立った存在ではありません。先生ともたいした話はしません。ところが彼は別の顔を持っていて、実はパソコンや機械(車のエンジンとかそういうの)の扱いに長けていて、理系ばかりの人が集まるサークルでは部長を務め、フォーミュラーカーを造ったり、徹夜で映像製作(ドキュメンタリー)をしたり、とかなり有能な人材で、子分の面倒見もいいし、仲間内では大いにしゃべる、という人でした。しかし、彼は文学部の先生とはそんなに話をしません。たぶん共通の話題がないからだと思います。彼は果たしてコミュニケーション不足の人間でしょうか?先生と話をしないからと言って、誰とでもにこやかに会話しないからといって、コミュニケーションがいまひとつだと言えるでしょうか?もちろん違うはずです。

多くの場合、大学の先生ってのは、学生の一面しか知らないはずです。あまり話をしない学生であれば尚更です。それなのに、なぜ自分との関わりからのみその学生の性格を判断してしまうのか。これが不思議でなりません。

誰とでも(先生とでも)如才なく話せるってのは、一種の才能だろうとは思います。コミュニケーション能力が優れているのかもしれません。そういう人はなにかと目をかけてもらえるんだろうなあと思います。でも、そうでないからといって、コミュニケーション能力が低いわけではないし、そしてかりにそういう能力を獲得したとしても、それが成長だとはぼくには思えません。全ての人と笑顔で会話することがいま現代人に求められているとしても、そんな社会は薄気味悪い。コミュニケーションに秀でているわけではない人が、必死に自分の本性を偽って活発に振舞おうとしても、それは結局はその人のためにならないはずです。へとへとになってしまいますからね。

「破」でアスカがこんなことを言っていました。皆でいるとき、つまらない話がおもしろいふりをしているのは疲れる(あるいは馬鹿馬鹿しいだったか)。まるで興味のない話題でもさぞおもしろいようなふりをして聞いているのは、本当にうんざりします。自分がみじめになったように感じるし、いや罪悪感さえ抱きます。アスカよくぞ言ってくれたと、ぼくは胸がすかっとしました。だからぼくは、大勢で群れるのは嫌いです。あいにくぼくに興味のあるのは多くの人たちからは理解されないことで、大人数で話すのには適しません。新海誠がいかにすばらしいかとか、エヴァの走りになぜあんなのにも興奮するのかとか、ブロンジットの全作品リストが見たいだとか、そういう話題ってのは、一般の人たちの興味を引かないことなんです。で、ぼくの方はと言えば、多くの人がいる場で話題になるような事柄には、まるで興味がないときているんです。限られた友人たちと、限定された話をしていた方が心も体も休まります。

一般的な事柄について、誰とでも笑顔で話ができる、というのが確かに才能かもしれません。それが本当のコミュニケーション能力なのかもしれません。でもそういう能力を多くの人に要求するのは間違いだし、それができるようになることが成長だとも思えません。社会化されるということではあっても、必ずしも望ましい変化であるとは考えられないのです。

自分に興味のあることしか話せないというのはあまりにも閉鎖的だし、刺激に欠ける、という指摘は当たっていると思いますが、友人とだって完全に興味が一致するわけではないし(それに自分と相反する考えを聞けることもある)、それまで関心の薄かったことにも注目させてくれることだってあります(音楽とか)。しかしそれは、相手が友人だからこそで、興味の対象がまるで別で名前もよく覚えていないような人との会話の中では、かえって刺激を感じることなくストレスだけが溜まるということが起きそうです。

こんなことを書いていますが、ぼくもちょっと前まではもっと友好的で、ある授業などでは、先生との無駄話(主に文学について)が過ぎて、同じ受講生から、ぼくが毎回授業に出ていたら(休みがちだったのです)授業がもっとはかどらなかっただろう、などと言われたことがあります。先生とべらべらしゃべりすぎて、授業を止めていたわけです。

体調を崩し、同時に文学への関心も薄れたせいで、もうこういうことはなくなりましたが、コミュニケーション能力が落ちたというよりは、単に環境と関心の対象が変わっただけで、ぼくはもちろん成長したわけでもその逆でもありません。でも、ひょっとすると先生から見れば、だいぶ「変わった」のかもしれません。

いい加減まとめなくてはいけないですね。
まず、先生たるもの自分の知っている面からのみ学生を判断してはいけない。ほとんどの人は得意分野を持っていて、仲間内でそのことについてなら活発に議論できる。誰とでも如才なくコミュニケーションを取れる才能は万人にとって必要なわけではない。そしてそれができるようになったとしてもそれは望ましい成長とは限らない。

こういうことが言いたかったわけです。長くなりました…

エヴァ破 ネタバレなし

2009-06-29 01:07:40 | アニメーション
「序」は今週金曜ロードショーでやるみたいですね。「破」はどうなんでしょうね。やれるもんならやってみろって感じですよね。個人的には深夜の放送を期待。

内容に触れないで、どこから書けばよいのやら…
とにかくね、すごいですよ。かつて一度でもエヴァを好きになったことのある人なら、劇場で観なきゃだめです。劇場でこそ生きる作品ですよ、これは。ぼくはそんなに押し付けがましいことはブログでは書きませんが、今は言わせてください。劇場で観なきゃだめです。後悔しますよ。観なきゃだめだ観なきゃだめだ観なきゃだめだ観なきゃだめだ観なきゃ…

受験生に警告します。これを観て、頭の中がエヴァで一杯になって、勉強が手につかなくなって、それで受験に失敗することを覚悟するなら、すぐに観るべし。かつてのぼくがそうでした(TV版ですが)。でも、ぼくはそれでよかったと思っています。エヴァを観てがくんと成績が落ちましたが、今ではいい思い出です。たとえ受験に成功してもエヴァを劇場で観そびれて後悔するより、エヴァを観て受験に落ちて後悔した方が、将来的にはずっといいと思います。勉強や偏差値なんていずれどうでもよくなります。でもね、エヴァはどうでもよくなりませんよ。いや、好きなものってのは大人になったってどうでもよくなりませんよ。学校の勉強が楽しくてたまらなくて、アニメなんてカスだと思っているなら、受験を優先すればいい。でも、本当は観たいのに受験の最初の山場である夏を控えて迷っているならば、エヴァを観た方がいい。人生にとってはそちらの方が有意義だし、その経験が人生の宝になる。将来、「破」を劇場で観なかったことを後悔するのは、悲しいし不幸なことですよ。

技術的な点を一つ。パンフレットで知りましたが、エヴァの「走り」はCGだそうです。ですが、まったくCGらしさがありません。基本的な作画を本田雄が担当していて、TV版のあの奇蹟的な動きのダイナミズムを獲得しえています。リズムとタイミング、音、足や腰の配置、完璧だと思います。確かにCGでここまでの動きを達成できるのなら、今後のアニメーションの可能性も急激に拡がります。

「序」がTV版のストーリーをなぞっていたのに対し、「破」は基本的な路線すら踏襲していません。それなのに、満足を得ることができました。思いがけない展開と圧倒的な迫力の戦闘シーン。神がかってますよ。

TV版のエヴァではシンジたちが極めて閉鎖的な性格を有していて、レイとシンジが接近してもレイの死によってまた振り出しに戻ったり、というふうに心の交流が基本的にありえなかったのに比べ、「破」では少なくとも心の接近が積極的に試みられています。その点で、シンプルな印象を与え、複雑さというか困難さのようなものが取り除かれているようにも見えますが、それだけに直球勝負になっていて、感情移入はしやすいかもしれません。このことはたぶん好みの問題だろうと思いますが、最後に待ち受ける展開は強烈ですので、「エヴァらしさ」は相変わらずです。

終幕後、劇場で拍手の音が鳴り響きました。ブラボー。「破」は前作よりもよかったし、たぶん次作よりもいいと思います。これを超えるなんて、ちょっと想像できません。まさかこれほどとはね。

ロシア革命アニメーションB

2009-06-28 00:06:36 | アニメーション
ウラジーミル・タラソフとは何者なのか?
これが、今回のロシア革命アニメーション上映で生じた最大の関心事です。

さて。昨日また観てきました。このあいだは一番前のど真ん中に補助椅子を置かれたせいで、字幕の50%が見えなくなるという悲惨な事態に直面せざるをえなかったわけですが、今回は満席にはならず、大丈夫でした。それにしても、前回、2列目に座った人はたぶん、50%どころか何も見えなかっただろうと思います。椅子を個性豊かにするのもいいですが、どの席からでもスクリーンが見えるように、という最低条件はクリアしてもらいたいものです。

内容に触れる前にまた上映環境から始めてしまったのは残念ですが、ついでに言うと、ロシア語のクレジットなどがやはり前回同様切れていたようです。ぼくは日本語の字幕しか見ていなかったので気が付きませんでしたが、一緒に行った人によれば、画面の大きさとスクリーンの幅が一致していなかったみたいです。それと、音が割れていたのはどこの責任でしょうか?完全に言語ではなく雑音と化していた台詞にきちんと字幕が付いていたので、オリジナルははっきりとした音声だったと思われるのですが。ついでの最後。「ツイスター氏」における音声が、耳に不快なボリュームでした。じかに鼓膜に突き刺さり、頭を刺激するような。悪い意味で鳥肌が立ちそうでした。

8編の短編で構成されていたプログラムB。冒頭は、「惑星間革命」。火星でも共産主義革命を達成しようというとんでもない内容ですが、『アエリータ』の影響を受けているのでしょうか。同じような趣旨ですからね。ちなみに、かつて映画館で『アエリータ』を鑑賞していたとき、ひどくお腹が痛くなって、映画どころではありませんでした。それでも、それなりに印象深かったです。ところでこの「惑星間革命」は、実は内容はよく分からなかったです。解説を読むと、地球を逃げ出したブルジョアを追って革命軍が火星で革命を達成した、という話らしいです。しかしまあ、これを観ているときなんだかぼーっとしてしまって、別のことを考えていたんですよね…

「株主」は23分あって、本プログラム最長。アメリカの資本主義を批判する作品だと思うのですが、けっこうおもしろかったです。カーレースのシーンなんかは、キャラはあまり動かしていないのですが、一枚の絵をブレさせたりしていて、古い日本のテレビアニメってこんな感じなのかなあ、と思いました。いま見るとその省力化の作業がかえって斬新な手法に見えたりするから不思議なものです。リミテッドアニメーションも独自の手法に進化していますからね、日本では。

掉尾を飾るのはプログラムAに続いてタラソフの作品。前回(「射撃場」)も強烈な作品でしたが、今回もすごいです。「射撃場」は、そのスタイリッシュな絵に心惹かれましたが、「前進せよ、今がその時だ」は色彩が圧倒的です。そして奇怪なデザイン。とにかく多様な線と色の洪水に、驚倒しました。マヤコフスキーの詩とポスターをちりばめたそうですが(詩は朗読される)、激しくてこの作品によくマッチしていたと思います。マヤコフスキーは過激な言葉を投げつけ、絢爛たる色彩がそれを補完する。マッチョな彼の瞳がぎろりとこちらを睨んでくる動画も効果的でした。

しかし、「前進せよ、今がその時だ」と繰り返される歌詞のリズムは軽快で、若者のポップな音楽のよう(ちなみに実際には「フピリョーー・ブレーミャ」と聞こえ、邦訳の堅い印象とは異なる。「フピリョート」が「前進せよ」、「ブレーミャ」が「その時だ」の意)。とにもかくにも革命の熱狂と享楽的な雰囲気をありったけのヴィジュアルイメージに込めて表現した、爆弾のような作品。タラソフって何者?

さらば、けいおん!

2009-06-27 00:43:19 | アニメーション
別のネタがあるのですが、『けいおん!』が最終回だったので今日はそっちの方を書きます。

今回がほんとの最終回。番外編です。
すごくよかったです。前回もよかったですけど、今回はひょっとしたらそれ以上によかったです。ぼくの中ではベストエピソードだったかも。

まず始まり方もよかったです(「よかった」しか言ってませんね)。みお、りつ、つむぎたちの日常を台詞抜きで描写、最後に唯と憂の姿を映して、「寒いねえ」と唯に語らせる。で、OP。しびれました。冬の気配というものが画面全体から伝わってきて、無言であることが冬の緊張感をいやがおうにも高めます。唯が沈黙を破ることで、緊張感が一気にほぐれ、続いて「がちで…」と弾けた歌が始まる。引き込まれました。

前半は、唯を除いた部員たちの日常の「秘密」がさりげなく暗示され、彼女たちもそれぞれ抱える事情があるのだということに気が付かせてくれます。特に気になるのはりっちゃんですね。「彼氏」という言葉に敏感で、少し顔を赤らめる。好きな人でもできたか?と思わせといて、後半に突入。

結局、皆たいしたことはない「秘密」なのでしたが(いや秘密ですらなかった)、それぞれに生活があるんですねえ。唯は、わたしを置いて大人になっちゃやだよぉなんて言っていましたが、こうして皆少しずつ自分の時間を過ごしてゆくのかもしれません。

秘密が提示され、それを詳らかにし、そこに危機が到来して、しかしやがて唯のおばかなメールで皆の心を溶かしてゆく、という全体の語り口も見事でしたが、ぼくはなんと言っても前半の、秘密があるらしいぞ、というぼんやりとした提示の仕方にひどく惹かれました。それを支えていたのは風景描写ですよね。冬の雰囲気作りがとにかく巧い。息を白く、といったやや面倒な作業を怠らないのはもちろんとして、雲の色彩や画面全体の淡さによって張り詰めた空気感をよく表現していたと思います。

部員それぞれの日常を描き、最後は唯がかすがいのような役目を果たす、という構成は、まさしく最終回に相応しいものでした。緊密な構成による完結した話、かわいいキャラ、いいものを見せてもらいました。

スーパーマン

2009-06-26 01:15:45 | アニメーション
きのう学校の歯医者で歯石を取ってもらいましたが、それから歯がしみるんですよね。冷たいものや熱いものを飲むと。
今日、急にものすごく歯が痛み出してしまって、耐え切れず近所の歯医者に電話、診てもらいました。学校では虫歯があるからまた今度治療しますと言われたところです。きのうの刺激で虫歯が痛み出したのかなあと思って、覚悟して歯医者に行くと、知覚過敏であると言われました。虫歯じゃないんですか、と聞いたら、治療した跡があります、とのこと。うそつけよ!こんなところ治療したこと一度もないぜ。とりあえず知覚過敏の薬というのを塗ってもらって、家に帰りました。

実は歯医者に行く頃にはもう歯痛は収まっていて、どうして急に痛み出したのだろうといぶかしんでいましたが、治ったのでもういいか、薬ももらったことだし、と一安心しました。ところが、先程また痛みが。これって知覚過敏じゃないよ、と思うのです。あの歯医者、やぶじゃないのか。

それにしても、歯石を取ったら歯が痛み出すなんて。きれいにしすぎるのも考え物です。毎日お風呂に入る必要はないって言い張る人もいるくらいですからね。その人なりの生活を送ればいいはずなのです。不潔になれとは言いませんが、清潔すぎるのもどうかなと。こんなことを書くと汚らしい奴みたいに思われますが、ぼくは別に普通ですよ、念のため。

さて、フライシャー版のスーパーマンを観ました。特筆すべきは、メカが宝石を強奪する話でしょうね。この話が、宮崎駿演出の新ルパン最終話の下敷きになった作品だということは、知る人ぞ知る逸話でしょう。ぼく自身は、宮崎駿自らがそう語ったのは聞いたことがありませんが(あるいは単に忘れているのか?)、でも冒頭部分があまりにも似ているので、たぶん借用したのは間違いないと思います。

悪い奴に操作されたメカたちが宝石店を襲い、宝石を盗む。そしてスーパーマンがそいつらをやっつける、という単純な筋立て。一方ルパンの方は、やっぱりメカが宝石を奪うのですが、その犯人というのは偽ルパンで、そこに美少女と銭形が絡み、本物のルパンが颯爽と登場する、という話。これだけではなんのこっちゃ、ですが、よく練られた傑作だと思います。とりわけ本物のルパンが現れるシーンにはぞくぞくっと鳥肌が立ちました。かっこよすぎる。

「スーパーマン」では初めメカの姿は描かれず、その影だけが地面に映し出されます。飛行するメカの影がすーっと地を動き、一体どんな奴なんだと観客の想像を掻き立てます。うまい演出だと思います。ルパンの方ではこれと同じ手法が踏襲されていたかどうかは忘れてしまいましたが、ぼくなら真似したいですね。

ところで、「スーパーマン」の幾つかの話の中には、画面が暗すぎて何が起こっているのかほとんど分からず、で、結局よく分からないまま事件が解決してしまった、というものが見受けられました。フィルムの保存状態が悪いのか、当時からこのままだったのか知りませんが、「もっと光を…」って感じですね。

ベティ・ブープとは違うリアリズム路線の作画はよく描けていますが、いかんせん現代の目から見るとストーリーが安易過ぎ。なんでこんなに単純な物語が多いのでしょうか。対象年齢がかなり低く設定されていたのですかね。DVDの解説にはプロットのまとめ方が秀逸だ、みたいなことが書かれていた気がしますが、本当にそうでしょうか。もし実写だったら、このレベルの物語では到底受け入れられないと思います。10分未満という時間を勘案しても、やはり単純すぎますね。それがいいんだ、という意見はありうるだろうと思いますが、まあマニア向けですね。ただ、思ったより退屈はしませんでした。

歯医者

2009-06-24 23:25:44 | Weblog
歯医者に行ってきました。
といっても学校の、です。

歯の歯石や黄ばみを格安の値段で落としてもらえるよ、という話を聞いたので、じゃあせっかくだからきれいにしてもらおうか、という軽い気持ちでした。

やられました。すごいですね。こんなに苦しいとは…
ぼくは黄ばんでいるところだけをきれいにしてもらえると思っていたのに、歯に付いている全ての歯石を落とす、という話になり、これが苦悩へと続く門でした。
まず、怖いです。歯と歯茎の間、歯と歯の間に千枚通しみたいなやつ(感触から想像)をぐりぐり押し込み、がりがり削ってゆく(それとも鉤型のナイフか)。かなり怖かったです。そして痛い。歯茎刺してるよ!って感じで情け容赦なく、躊躇いもなく、どんどん刃物を口の中で振り回すんですからね。もう本当に痛いやら怖いやらで、苦悶に顔を歪めましたよ、ぼくは。

ちょっと待ったちょっと待った、って何度も言おうとしたんですけど、口はある意味で塞がれているし、かといって手を挙げて合図するのも格好悪かったので、結局我慢し通しました。もうこれは拷問でしたよ。でもこの体験ってけっこう色んな人がしているみたいですね。ぼくはもう二度と御免です。ああ、つらかったよ…終わったあと、まるでウォッカを立て続けに5杯も飲んだ人のように、足元が覚束なくてふらふらしましたからね。頭の中も呆然としてしまって、ものを考える気力なし。恐ろしい体験でした。

ぼくは目を手術したことがあるのですが、それに比すべき恐怖体験です。手術のときは、麻酔の注射を目の真下のよく隈ができるところに何度もぶっさして、瞼を指でごりごり押すのですが、あれが嫌だった。手術中は点滴の影響でおしっこがしたくなるし、咳もくしゃみもしてはいけないからかえって緊張してしまうし。ただ、精神安定剤のようなものを処方されるんですよね。今回の歯医者もそれが欲しかった…

しかし破格の値段。なんと60円也。

ロシア料理

2009-06-24 00:54:12 | お出かけ
きのう、久々にロシア料理を食べに行きました。

サラダ
ボルシチ
きのことチーズのつぼ焼き
ロシアンティー
ウォッカ
ナリブカソーダ

を頼みました(なんか忘れてないかな?)。
おいしかったですよ、とても。

つぼ焼きというのは独特な料理で、丸いつぼの形をした器に蓋をするようにしてパンをかぶせ、焼いたもの。中にはとろりとしたシチューが詰まっています(今回はきのことチーズのシチュー)。パンはつぼの側面にまでしっかりと吸着しながらつぼを覆っているので、まずはスプーンで蓋に穴を開け、そこからシチューをすくって食べます。もちろん蓋のパンを付けて食べます。さっきから「パン」だと言っていますが、イメージとしては、まだ焼く前の、練り粉のような形状です。それがいい具合に焼けているのです。で、このパンは一体どこまで食べればいいのかよく分からなくて、結局つぼを覆っている全部をはがして食べてしまったのですが、これで正解?

ロシアンティーには砂糖ではなくジャムが溶かしてあります。甘くておいしいですよ。普通の喫茶店にも置いてあることがありますね。

しかし今回の目玉はたぶんナリブカソーダ(名前違ってるかもしれないですけど)。ざくろ、ワイン、ソーダ、レモンの入ったお酒です。これがおいしいのです。ほんのりとしたすっぱさと、まろやかな甘味。かぐわしい香気が鼻をくすぐります。初めての味ですね。味のそれぞれの構成要素は、たぶん全部知っているのですが、これらがミックスされた味というのは未経験でした。色んな味がいっぺんに楽しめて、それでいて一つの味が主張しすぎることなく、バランスよく一体化しています。ロシアではポピュラーらしいので、旅行したらぜひ本場のを頼みたいですね。

別のロシア料理も食べたくなりました。

新海誠のDVD

2009-06-23 00:18:41 | アニメーション
今日は午前中から昼過ぎにかけて気分が重苦しくて、泣きそうになるほど気持ちが落ち込んでしまっていて、学校に向かう途中の電車で「ああもうだめだ、このまま引きかえそうか」と思いつめましたが、どうにかこうにか一日を乗り切ることができました。夕方辺りからは調子も出てきました。でも今またちょっと胸の辺りが重たい…

さて、『雲のむこう、約束の場所』のDVDが先日発売されました。もちろん、既にDVDは流通していますが(約7万枚売れたそうです)、今回のは廉価版です。2400円也。買おうかどうか迷っています。いや、既に持ってはいるのです。メモリアル・ファン・ボックスも所有しています。でも、欲しいのです。コレクションにしたい、という欲求もありますが、それよりももっと正当な理由があって、この廉価版にはロシア語版音声が付いているらしいのです。

『雲のむこう~』で、ロシア語の勉強ができるじゃないか!と思った次第です。のだめもアニメでフランス語を習得してましたしね(まあフィクションですけど)。何度も観ていれば(聞いていれば)自然とロシア語会話ができるようになるじゃないの、と密かに考えているのです。

しかし、大問題があって、『雲のむこう~』の台詞って、覚えてもしょうがないんじゃないっていう予感があります。「3000万以上の人間が暮らす街で、考えてみれば、会いたい人も、話したい人も、ぼくには誰もいなかった」とか、「まるで、深く冷たい水の中で息を止め続けているような、そんな毎日だった。ぼくだけが、(私だけが、)世界に一人きり、取り残されている、そんな気がする」とかいう言い回しだけ覚えてしまったら、こいつ一体何者だ!?ってことになると思うのです。それはそれで楽しいかもしれないですけどね…

そんなわけで、購入を悩んでいるところです。でもはっきり言ってしまえば、DVDを買ったところでいかなる台詞もロシア語で言えるようにはならない気が強くしますけどね。

愚者が出てくる、城寨が見える

2009-06-22 01:45:17 | 文学
光文社古典新訳文庫の『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』を読みました。マンシェット作。
マンシェットは日本ではあまり読まれていないようですが、なかなかどうして強烈な作品でした。

激しい殺戮が渇いたタッチで描かれる、みたいなことを聞いて、ソローキンを連想してしまい、それで興味を持って読んだのですが、それとはやはり趣が違っているようですね。

精神病院に入院していた若い女性が大企業の社長に雇われ、退院します。その社長は身体に疾患のある人を積極的に採用する人物でした。社長の甥の面倒を任された女性は、会社に住み込みで働くことになります。ここまでが導入部。

その女性ジュリーは甥のペテールを連れて外出しますが、そこで四人組のギャングに誘拐されます。命からがら彼らから逃げ出したジュリーとペテールは、社長の別荘だという奇怪な建物の写真を頼りに、そこに向かって必死に逃亡を開始します。

逃亡と追跡劇が中盤から展開するのですが、ここから物語は俄然おもしろくなり、凄まじいスピード感で疾走してゆきます。ところでここまで読んで疑問を覚えた方は勘がいい。というのも、どうしてジュリーは警察に助けを求めずに別荘に向かうのか、ってことが不思議に思うはずだからです。しかしジュリーは警察に助けを求めるどころか、逃走のために車を奪い、その運転手を殴り殺して金を強奪します。なぜ?警察が嫌いだから、というのがその理由らしいのですが、これは明らかにおかしいことです。狂っていると言ってもいい。実際、作中で彼女は「いかれた女」と書かれています。

行動と心理の関係が切れている、という意味のことが解説で言われていますが、その点はソローキンの『ロマン』を思わせますね。もっとも、『ロマン』はより先鋭的で、あまりに極端ですが。

さてジュリーとぺテールは殺し屋の追跡から必死に逃れようとします。銃撃戦をやらかし、火をつけます。彼らの通った後には、まるで車がぬかるみを走った跡みたいに、くっきりとした痕跡が、生々しく陰惨な痕跡が残ります。

殺し屋は身体に問題を抱えており、吐いてばかりいるのですが、この物語に登場する主要人物はいずれもどこか奇矯な人間たちです。「いかれている」わけです。しかし、ぼくはそちらに関心を奪われるというよりは、むしろ緊密な構成やスピーディでいて具体的な文体の方に興味が湧きました。訳者の中条省平が新訳を企図した理由もそういった事柄をクローズアップすることだったようです。

殺戮の限りを尽くす、などと喧伝されることがあるようですが、ソローキンを既に知っている身としては、これくらいのものは甘っちょろい。行動と心理の乖離も、その兆しは見られるとは言え、とりあえずの説明はなされているし、まだ究極的なところにまでは行っていません。新時代の曙を告げる鶏の役目は果たしているようですが、それは歴史的な意味では(文学史的には)重要であっても、現代のもっと過激な描写を知っている読者を十分満足させられるものではありません。では、どこがいつまでも現代性を保ちうるかといえば、やはりその構成と文体だろうと思うのです。それと、反吐を吐き続けながら銃を構える殺し屋、といった細部の設定など。

訳者の「繊細かつスピーディでありながら、ときとして病的なまでに偏執的にたたみかけるマンシェットの文体」という表現は、非常に的確だと思います。そして殺しの場面を具体的に描写しながら、決して恐ろしくはならない。これは見事ですね。

一読の価値あり、だと思います。

チェーホフの感じ

2009-06-21 00:06:48 | 文学
数日前から言及している「ある本」というのは、ロジェ・グルニエ『チェーホフの感じ』でした。ぼくがこの本のことを知ったのはたぶん2003年で、大学のレポートで題名を「チェーホフの感じ」にしたのです。ところが、書いたときはこの本のことを知らなくて、提出する直前になって本の存在を知り、パクリじゃないよって注釈を入れたのでした。だから題名が一致したのは偶然ですね。あの頃は全ての面で若かったですよ。ふふ。

ロジェ・グルニエはフランスの作家ですが、『チェーホフの感じ』を覗いてみると、よく調べてあるなあ、と感心します。単にぼくが忘れているだけかもしれませんが、知らないことがたくさんありましたからね。日本ではチェーホフの手紙というのはごく限られたものしか訳されていないようで、彼は仏訳や英訳でけっこう読んだみたいです。ロシア語はできないみたいですけど。ただ、ロシア語版も妹マリアによってかなり制限されていて全部は読めないみたいですけどね。今はどうなのかな。たしか新しいチェーホフ全集が刊行中ですよね(無論ロシア語で)。

さて、この本は長短の断章形式で構成されていて、短いのは1ページ、長いのは40ページほどです。研究書の類ではなくて、チェーホフにまつわる事情などが綴られています。解説でも触れられていましたが、この本の特徴は、そこにロジェ・グルニエの私見が入ることですね。チェーホフについての考えもそうですが、創作一般に対し、同じ作家として自分はどう考えているか、なんてことをときどき書いています。

そういえば、『かもめ』初演の失敗について調査していて、文士仲間の嫌がらせだった、と結論付けていますが、偉いですね。ぼくはこのことは2004年に出た日本の本で知りました。けっこう新しい見方なんじゃないかと当時は思ったのですが、そうでもなかったんですねえ。当時の新聞だか雑誌だかにも書かれてあったそうですし。

ところで、ぼくはチェーホフについて研究したいなあと思っていることがあって、それは「世界のチェーホフ」です。各国のチェーホフってのがいるんです。「チェーホフの再来」ヴァムピーロフ、「カナダのチェーホフ」ベズモーズギス、「アメリカのチェーホフ」カーヴァー、そして今回この本で知った「中西部のチェーホフ」アンダスンなど。こういった作家の作品から「チェーホフらしさ」とは何かということを考察しようじゃないかと。そういう壮大な試みなわけです!これは、チェーホフの作品だけを読んで、チェーホフらしさってなんだ、と考えるんじゃなくて、チェーホフらしいと「言われている」ものは一体なんなのかを探る試みなんですね。いわば、これまで散々言われてきた「私にとってのチェーホフ」から「皆にとってのチェーホフ」を明らかにしようという。発想の転換ですね(このへんはチェーホフ関係の文献に「私の…」という題が付くものがとても多いという事情を知らなければピンとこないかもしれませんが)。

ただ欠点は、「簡潔であること」「静的であること」を満たしていれば「現代のチェーホフ」になりうることは自明だってことですね。う、研究する必要がないかも…

話は変わりまして、村上春樹の新作、まだ読んでませんが、どうやらチェーホフの「サハリン島」が言及されているらしいですね。それで、岩波書店に問い合わせが殺到しているとか。絶版ですからな。しかしそういう人に忠告しておきますが、あんまりおもしろくないですよ。春樹の小説にどう書かれているのか知りませんが、これはあくまで学術的な調査であって、小説ではないんです。たしかに罪人のエピソードなどがいくつか紹介されたかもしれませんが、総じて楽しめるものではありません。これを読んで、チェーホフってつまらんな、と誤解しないでほしいです。

ちなみに、この『チェーホフの感じ』という本は、きのうグーグルのブログ検索で探してみたら、ぼくの以前の記事(『フランス短篇傑作選』)しかヒットしませんでした。読まれてないんだなあ。

東のエデンなど

2009-06-20 00:02:18 | アニメーション
本読み終えました。ネタが色々ありますが、とりあえず今はきのう最終回を迎えた木曜のアニメーションについて。本の感想は後で書きます。

「東のエデン」はおもしろかったです。ここ一年間で放送されたノイタミナ枠の作品では、一番でした。ただ、最終回はどうも唐突な気がして、まだ解決していない事柄はたくさんあるのに一体これからどうなるんだ?でも映画化決定らしいですね。11月の予定だとか。そこで秘密が明かされるのでしょうか。そのときまで生きていれば観に行きたいですね。

ついでに「Padora Hearts」。これもけっこうおもしろいです。最初はほとんど意味が分からなくて、どうなることかと思っていたら、謎に包まれていたストーリーが次第に明瞭になっていきました。幼稚さをも併せ持っていますが、それを払拭できればなおいいかも。幼稚さ、というのは、漫画の台詞を実際の声で聞くことで表面化されることがあるようです。例えば、アリスが「愚民ども!」と叫ぶ箇所など。文字で読む分にはなんとも思わないかもしれないですが、かわいい声で実際に聞いてしまうと、なんだかなあ、というふうに感じます。それにしてもこのアニメ、2クールなの?

さて「けいおん!」も昨日が最終回。と言っても、毎度おなじみ来週は番外編ですけど。
さすが京アニ、最終回の作画はノってましたね~。唯がギターを爪弾くシーンでは、表情をけっこう崩して描いているように感じられましたが、いやあ、ノってますね~。本当に表情が生き生きしてました。水の滴るいい男、なんて言いますが、彼女たちの顔はとって瑞々しくって、若さ爆発で、頬擦りしたくなりますね!別に変な意味でなしにね。

そういえばこのあいだ、唯がクーラーは好きじゃなくて暑い中を家でごろごろしているのが好き、みたいな話を憂がしていたけれど、その気持ちすごくよく分かります。ぼくもあんまりクーラー好きじゃなくて、窓開けて風を感じながら暑い中を寝っころがっているの好きです。

「けいおん!」はおもしろかったですよ。とにかくキャラが可愛いしね。これを観て癒されて寝る、という黄金パターンが来週で終わりかと思うとさみしいです。

もてもてチェーホフ

2009-06-19 00:34:31 | 文学
修士論文が切りのいいところまで終わったので、ある本を読み始めました。その全体的なレビューは近日中にアップする予定。

さて、その本はチェーホフのことを書いているのですが、チェーホフってやっぱりもてもてだったんですねえ。若い頃の写真を見たことがありますか?かなりハンサムですよ。身長は180cm以上あって堂々たる風貌。少し垂れ目で、髪の毛は気持ちよくウェーブをうっています。とてもさわやかな印象で、今で言うイケメンさんですね。

チェーホフの女性関係が40ページくらい延々と述べられていて、うふふ、と楽しくなってきてしまいますね。断っておきますが、ぼくはチェーホフに関してはけっこう物知りでして、ここに書かれてあるような事柄は基本的に大体知っているのですが、いつ読んでもコイバナってのは楽しいですからね。それに、忘れていたこともたくさんありましたし。

この本の著者はアヴィーロワとの関係には否定的でした。アヴィーロワはチェーホフとの関係を『私のなかのチェーホフ』という本にまとめていて、それに書かれた事柄の真実性については賛否が分かれているのです。著者が言うには(名前は今度明かします)、この本はあまりにも創作的な要素が強すぎるらしいです。ぼくもこの本は読んで、ここにレビューをアップしましたが、確かに小説みたいに読めて、というか小説でしたね。でも、すごくおもしろくて、そして根も葉もない虚構だとは思えませんでした。けれども、チェーホフからアヴィーロワに宛てた手紙は原本は失われていて、写ししかないのだそうです。しかも、アヴィーロワからチェーホフに宛てた手紙は散逸してしまって断片しか残っていないそうです。う~む、証拠がないということです。確かに怪しい…。でも、アヴィーロワのチェーホフとの関係を綴った作品は、ぼくにはとても感動的で、あれが嘘だったらショックだなあ。

チェーホフは、自分の戯曲の主演女優に言い寄られていたりするようですが(なんて羨ましい男だろう)、そっけなく断っているんですよね。チェーホフは生涯で誰も愛さなかった、なんてことが同時代人の口から証言されていて、それで冷たい人だとか言われているし、また絶望の作家なんて呼ぶ人もいます。一方でとても思いやりがあって、慈善活動をし、彼の周りには常にお客がいたそうです。でも、心の底は誰にも打ち明けなかったし、女性関係にも冷淡だったようです。相手からの求愛をユーモアでかわしてしまうんです。なんてニクイ男。

ところが、そんなチェーホフもやがて結婚します(アラフォーで)。相手は女優。自分は結婚しても妻といつも一緒にいたくはない、なんて言っていたチェーホフにとって、舞台のために地方を飛び回る女優は理想的なお嫁さんだったわけです。

チェーホフかあ。初期の短編を久しぶりに読み返してみたくなりました。

誤植の地図

2009-06-18 00:25:54 | 文学
きのうのことですが、調べものをするために近所の図書館へ行きました。しかし近所と言っても普段から行きつけの図書館ではなく、その日初めての、うちからはやや離れたところにある図書館です。というのも、目的の資料がそこにしかないようだったから。

ぼくは自転車を走らせて、そこに向かいました。空がどんよりと曇っていて、午後からは雨という予報も出ていたので、傘を持って。家で地図を見て場所を確認し、さらに携帯でその写真まで撮って出かけたのですが、少し道に迷ってしまいました。

ようやく図書館に着いて目的の本を探し出し、すぐにそれを読んでしまったのですが(ごく僅かな分量だった)、当然時間が余ることが予想されていたので、ぼくは家から一冊の本とメモ帳を持参していました。山形和美『文学の衰退と再生への道』。いまこれを読んでいて、夜になると少しずつ読み進めていたのですが、難解なのか、あんまり頭に入ってきませんでした。だから読むのに疲れていて、今日で終わりにしようと図書館に持っていったのです。家ではなかなかやる気が出ませんが、外でなら違うだろうと踏んだわけです。これが大成功でした。

ものすごくよく理解できるのです。著者の言っていることが自分の5本の指のようによく分かり、メモを取る手が止まりません。とりあえず読むべき箇所を全て読み終えると(はなから一冊丸々を読破しようと考えていたわけではなく、自分の関心の赴くところのみを読むことに決めていたのです)、一昨日までに読んでよく理解できなった部分を読み返すことにしました(ちなみに前日はだるくて読んでいなくて、本を読み始めたのは3日前だった)。ものの見事に分かるんです。ああ、こういうことを言っているのかあ、と思って、ぼくはせっせとメモを取りました。

どうしてこんなに理解できるのか。図書館にいると集中力が高まるのでしょうか。逆に、家にいると気が散ってしまって文章が頭に入ってこないのでしょうか。この事態に対し、たぶん多くの人は喜ぶことでしょう。もちろんぼくもうれしかったです。しかし、それよりも落胆と悲嘆の思いも強かったのです。ぼくはこれまで図書館で勉強したことは数えられるほどしかなく、ほとんどの場合は家で読書していました。そして、研究書の類はぼくには難しくて内容をつかめ切れないことが通例でした。ぼくはそれを本が悪いのか自分の頭が悪いのかどちらだろうと思いあぐねていたのですが、もうこれではっきりしたのです。ぼくの頭が悪かっただけなのだと。だって、家ではよく分からなかった本と全く同じ本が、図書館では何の問題もなく理解できてしまったのですから。ああ、これまでぼくが難解だと思ってきた本は必ずしも全部が難解なわけではなく、別の人たちはぼくなんかには及びもつかないほど多くのことを同じ本から吸収していたのだ!なんてことだ。ぼくがそれらの本を読むのに捧げていた時間も労力も無駄だった。これは悲しい事実です。

ところで、先の本は内容はとてもきっちりしていて、高度なことが書かれているのですが、どういうわけか、誤字脱字が異常なほど多いのです。非常に、ではなく、異常に、多いのです。見開き1ページに1つの間違いがあります。「むちゃくちゃ」が「むちょくちゃ」になっていたり、ひどいものでは、ブルームの著作「誤読の地図」が「訳読の地図」となっていたりしました。しかも、同じ間違いが続いていたりするのです。もはやこれは書き間違いや打ち間違いのレベルではありません。出版社は彩流社です。担当編集者か校正係かは知りませんが、一体どうなっているのでしょう。山形和美さんはもしかしたら手書きなのでしょうか?その字があまりにも達筆すぎて、編集者は読み間違えたのでしょうか。しかし、常識の範囲内で訂正できる間違いがほとんどなのです。こういうのは読む気を損なうので、誤字脱字は勘弁して欲しいですね。

図書館にいる間、雨が降ったようで、外に停めておいた自転車が濡れていました。しかし幸運なことに雨は大体あがっていたので、傘を差さずに家まで帰れました。ところが帰宅して間もなくするとまた雨が。本当に運がよかったです。

修士論文

2009-06-17 04:00:05 | Weblog
7時間ぶっつづけで論文を書いてました。夜9時から4時まで。もう寝ます。
ちなみに今日は図書館で3時から5時まで勉強してました。あ、これはたいしたことないか。でも近年では稀に見る勤勉ぶり。明日もこの調子でいきたいなあ。

それにしても、一つの章だけで5万字を越えているってのは、バランスが悪い…といってももう仕方ないけど。明日、仕上げだ。

情けないなあ…

2009-06-16 01:35:29 | Weblog
ネタがないのでいまさっき思ったことを書きます。

アヌシーが閉幕しました。で、そこに参加していた人のレビューを読んでいたのですが、羨ましいのと同時に自分が情けなくなりました。その人はぼくと歳もほとんど違わないのに、アヌシーにまで出かけて行って作品を観て、まあそこまではいいんですが、パーティにも出席して、それも構わないのですが、作家の人たちに積極的に話し掛けて感想を伝えているんですよね。ぼくは外国語ができないのでそれは無理だし、いやたぶん、通訳がいたとしても話し掛けられないと思います。

以前、ラピュタ阿佐ヶ谷でノルシュテインを目の前にして、ぼくは話し掛けようかどうか随分迷いましたが、結局何もできませんでした。また、高畑勲の講演会の帰りにご本人が歩いているのをこそこそと後をつけたぼくは、やはり何もできませんでした。恥ずかしかったり、失礼じゃないだろうか、と不安になったり、自分なんて、と卑下したり、何を伝えたらいいだろうか、と悩んだりしているうちに、好機は去ってしまうのです。なんて情けないぼく…

だから、作家の人たちに向かって、自分の意志を伝え、会話をすることのできる人が羨ましくもあり、自分のことを考えると落ち込んだりもします。ぼくはこんなことでくよくよ思い惑い、こうしてブログでそのことを告白していますが、おそらく積極的なその人にとってはぼくのような人間のことなど眼中にないのです。見ているものが違うし、歩んでいる道も違う。やれやれ。おれってやつは本当に駄目な人間だなあ。



話は変わりますが、実は密かに悩んでいることがあって(悩みばっかだな)、それは自分の俗っぽさです。大衆受けするような作品が好みであることに、引け目を感じています。感動を狙った実際に感動的な作品に涙する人たちは気持ち悪い、というような意見を先日たまたま某ブログで目にしましたが(大学の先生の書いたものです)、ぼくはその一人かもしれません。お涙頂戴ものっていうのは下らない、という偏見はぼくにもあって、ベストセラーの泣ける本とかはだから読まないのですが、しかしおそらくぼくがそれを読めば、それなりに楽しめると思うんですよね。映画も然りです。あまりに稚拙であればそうではないでしょうが、巧く作られていれば、感動してしまうと思うんです。こんな誰でも思いつくような泣ける話に感動するなんて、自分はなんてレベルの低い人間なんだ、と恥ずかしく思うわけです。例えば懐かしきセカチューとか、お決まりの話だと思うのですが、もし観ていれば、ぼくは泣きたくなったと思います。アホか、みたいに感じられればオッケーなのですが、そうはならないでしょうね…。

その一方で、いわゆる「芸術的な」作品、専門家受けする作品は、つまらなく感じてしまうことが多いのです。ノルシュテインやイシュ・パテルなど例外もありますが、アートアニメーションと呼ばれるものの多くに対しては、退屈だと思うことが普通です。非常に分かりやすい例で言えば、『ファンタジア』より『ファンタジア2000』の方が楽しめるんですよね。技巧や作者の意気込みなどは等閑に付します。とにかく「飽きない」という一点で言えば、後者のほうが上なのです。その評価には、画面の表面上の美しさやストーリー性などが大きな影響を与えています。鑑賞眼がないってことなのだろうか、と情けなくなります。飽きる作品にだっていい作品はある、という意見はあるでしょうが、眠くなってしまうような作品が傑作だとはぼくにはどうしても思えません。

アニメーションについて言えば、技巧的なことはほとんど分からないので、専門家が見ればうなるような箇所も見落としてしまっていることでしょう。それじゃあ、アニメーションを観ることに(特にアート系の短編)なんの意味があるの?って誰かに聞かれたら、ぼくは口をもごもごさせた後で、適当な台詞を吐いてその場をあとにするでしょう。ノルシュテインやパテルのようなすばらしい作品を探しているのだ、というのも答えですが、犠牲が大きすぎるような気がします。たぶん、自己満足というのが本当の理由なんですよね。小説だってそうかもしれません。これでは、確固とした鑑賞眼でもって作品を評価し、感想を持ち、新たな作品を開拓してゆく人たちに遅れを撮ってしまうことは当然ですね。ああだから、こんなくよくよしたことばかり書いているから駄目なんだ、ぼくは!

もう3年以上精神面を病み(と言ってもほぼ薬の副作用が原因)、その間小説はほとんど読めていません。そのかわりがアニメーションだったのですが(ということに結果なっている)、ここにきて、それにも逡巡が生じるようになりました。自分の嗜好性に疑いを抱くようになってしまったんですね。自分の感受性くらい、自分で守れ、馬鹿者よ、と言った詩人がいましたが、そうなのかなあ…励ましと受け取っておこう。