Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

聖蹟桜ヶ丘

2010-10-31 00:57:15 | テレビ
今日は久しぶりに小説をたくさん読みました。たくさんたくさん。疲れた・・・

先日のちい散歩の舞台は聖蹟桜ヶ丘でした。と言っても2008年12月の再放送でしたけどね。駅から多摩川方面へ向かい、それからいろは坂まで歩いていました。けっこうな道のりだったはずです。

聖蹟桜ヶ丘と言えば、何といっても『耳をすませば』です。来る11月6日に、本名陽子さんを招いてのコンサートがそこで催されます。既に応募は締め切られていますが、当日会場に空きがあれば入場できるはずです。去年まではそうでした。
ぼくは毎年応募しているのですが、今年は生憎学会と重なってしまって、どうしても参加できません。11月の最初の土日と言うのは他にも別の学会などがあるみたいで、ちょうどいい時候なんですかねえ。

最近はらきすたなどがアニメで町おこしの代名詞的な存在になりつつありますが、耳をすませばもまた町おこしに貢献しているようです。聖蹟桜ヶ丘に集う耳すまファンは、必ずしも近隣住民にとってありがたい存在ではなかったはずですが、いまこうしてコンサートが毎年開かれるようになり、それに地域の方々が大勢出席されている、ということは、次第に町の文化にこのアニメーション映画が根付いてきたのを物語っているのでしょうか?「外の人間」として、そうなっていることをぼくは素朴に望みます。そして、ぼくのような外の人間を受け入れてくれればいいなと願っています。

さて、ちい散歩ではいろは坂を上ったところの金毘羅宮が終点でしたが、耳すま散歩では当然まだまだ先があります。とりあえずは「地球屋のロータリー」くらいまでは行ってほしかったな。

かつて昔、かつて昔、
ぼくは隣駅の百草園から、いろは坂を越え、ロータリーを抜け、遠くの団地まで歩き通したことがありました。かなりの道のりだったはずです。あれは秋の深まる紅葉の頃でした。あれからぼくは、更に歩き続けていたんだろうか。ときに立ち止まり、回り道をし、あえぎながら、それでもぼくは歩き続けていたんだろうか。後悔は山ほどあります。この聖蹟にまつわる後悔もあります。それでも、ぼくは聖蹟桜ヶ丘から、遠いところに来てしまったんだろうか。それとも、この場所の周りをただぐるぐる回っていたのだろうか。君は、どうなんだい?

呼びかけは空しくキーボードで文字に変換されるだけ。呼びかけが0と1に還元されるのだとしても、ぼくの記憶や思い出や感情は、そうではない。・・・どうやらぼくは、ただぐるぐるしていただけみたいだ。
時は流れ、状況は変わる。それでもぼくには、聖蹟桜ヶ丘が原点だったし、その事実は忘れたくありません。中学2年の秋、初めて耳をすませばを見た感動を、それにまつわる思い出を、ぼくは原動力にしたい、今を生きる発条にしたい。過去にしがみつくのではない形で。

聖蹟桜ヶ丘か。あまりにも大きな意味を持っている名前なんですよね。最近は、誰かと連れだって行くこともめっきり減ってしまいましたけれど。また、歩きたいなあ。あの頃のように、すがすがしい気持ちで、満ち足りた思いで、目の前の光景に心奪われながら、でも、それは、できないのかなあ。

池上彰とリョサを巡る人々

2010-10-29 23:32:53 | 文学
10月29日、朝日新聞朝刊のコラムで、池上彰はバルガス=リョサを取り上げていました。リョサはこのあいだノーベル文学賞を受賞した、ラテンアメリカ文学を代表する、というより世界文学を代表する作家。

池上彰はこの朝日新聞のコラムではいつも各紙の記事をバッタバッタと切り伏せているのですが、今回は、リョサのノーベル文学賞受賞のニュースを伝えた各紙の記事を批判しています。各紙の執筆者はバルガス=リョサの小説の魅力を伝えていないし、その努力もしていないのではないのか、というのが池上氏の主張だと思われます。もっと一般読者にも分かるような解説を書いてほしい、ということのようです。

池上氏はコラムで執筆者の名前は出していませんでしたが、大学名を出していれば大体分かってしまうので、こんな権威に楯ついているぜ、ひやひやだね、とぼくは思ってしまいましたが、まあそんなことも「一般読者」にとってはどうでもいいことなのでしょう。

さて、池上氏の批判の是非を云々する前に、彼が前置きとして書いていた、バルガス=リョサは日本人にはあまり知られていない、という前提はどうなんだろう、という話から。リョサの小説はかなり翻訳されていますし、かつて日本でもラテンアメリカ文学ブームがあったことですし、日本人の間でもかなり知られている、と言っていいのではないでしょうか?これだけ翻訳のある作家を知らない、と言うのは、自分の無知を曝け出しているようなものです。池上氏は恥ずかしながら自分は知らなかった、と告白していますが、自分や周囲の人たちが知らないからと言っても、日本人に知られていない、と書くのはやはり少し乱暴かもしれません。もちろん、知らないこと自体は別にいい。人は全てを知りうる生き物ではないし、池上氏は他の分野で豊富な知識をお持ちなのだから、自身の言うように恥じることではありません。

でも、日本人によく知られている現存の外国人の作家、というのは、池上氏の基準からするとたぶんほとんどいないのではないか、と思ってしまうわけです。翻訳が何冊も出ていれば、日本でも比較的よく知られている、と考えてよいのではないだろうか、と思います。

で、最初の池上氏の批判に戻りますが、正直なところ、池上氏による引用が限られていたので、その文章がどれだけ難解なものなのか、ということはぼくにはよく分かりませんでした。やはり前後の文脈が気になります。また、読者が是非手に取ってみたくなるような紹介文が書けていない、という池上氏の不満も、少し的を外れているような気がします。というのも、小説というものは必ずしもおもしろおかしく紹介するのがベストではないからです。第一、解説記事は書評欄ではありません。

そういったことを踏まえて、あえて言いますが、それにもかかわらず、池上氏の指摘にも一理ある。確かに、分かる人向けに書かれた記事では、あまり意味がありません。分かる人には当然のことだし(あるいは専門書を読めばいい)、分からない人にはちんぷんかんぷんだから。一般読者を相手にするのならば、もっとかみ砕いた説明が必要だったのかもしれません。これはしかし、解説者が悪いというよりは、新聞記者が一般人の感覚を忘れてしまっていた、ないしは専門家に強く主張できなかったところに根があるように思います。例えば、物語を小説の中で新たに蘇らせた、という意味の解説が引用されていましたが、これはぼくなどにはすんなりと理解できるところです。書いた本人もまさかここが意味不明の箇所と言われるとは予想していなかったのではないでしょうか。ところが、よくよく考えてみると、20世紀の文学潮流を知らない人から見れば、なるほどここはよく分からない。物語が小説の中で復活するとはいかなることなのか。20世紀小説の行き詰まり、実験に次ぐ実験、ラテンアメリカ文学という彗星のごとき突然の出現、マルケスの語りに特に表れている深い物語性など、そういった知識が前提とされている文で、文学に詳しくない人からすると実は極めて難解な箇所であると言えそうです。

知ったかぶりをして流してしまう人よりは、池上彰はよく解説文を読んでいたと言えるでしょう。まあしかし、ぼくはラテンアメリカ文学の専門家ではないですが、あの解説はとても示唆に富んだ、興味深いものでした。たぶん文学通の人の多くはそう感じたのではないでしょうか。でもそうすると、詳しい人にもそうでない人にもためになる記事を書く、というのはやっぱり難しいことなのですねえ。いやいや、勉強になりました。

回顧・川本喜八郎

2010-10-29 00:15:35 | アニメーション
一日のブログの閲覧数が1000件を急に越えてしまったんですが、最近何かありましたっけ・・・ぼくのブログ内容と関係するような社会的事件が。いや、訪問者の数は大して変わらないので、どういうことなのだろう・・・

それはおいといて、川本喜八郎の全作品の上映がまもなくラピュタ阿佐ヶ谷で始まります。
http://www.laputa-jp.com/laputa/program/kawamotokihachiro/

川本喜八郎はこの夏に亡くなってしまったので、その回顧上映となります。彼の作品はDVDで見られますが、この機会にスクリーンで再見するのもよいのではないでしょうか。ぼくも、時間とお金が許せば行くつもりです。とりわけ、『蓮如とその母』は唯一未見ですので、せめてこれだけには行きたい。また、懐かしい『冬の日』ももう一度スクリーンで見ておきたいなあと思っています。あと密着ドキュメンタリーみたいなのもやるみたいですね。これもできれば見たい。

ちなみに、11月は他にもアニメーションのイベントがあって、11月20日~26日まで、『和田淳と世界のアニメーション』が渋谷のイメージフォーラムで催されます。「鼻の日」や「わからないブタ」で知られる若手アニメーション監督の代表格・和田淳の全作品と、世界中からセレクトしたというアニメーションが上映される予定。

また、11月13日~12月10日まで、『世界のアニメーションシアター』が下北沢のトリウッドで催されます。これは毎年行われているCAF(カナダ・アニメーション・フェスティバル)の11回目を兼ねています。

ぼくはこの時期もけっこう忙しいのですが、なんとかその合間を縫って映画館へ行きたいですね。最近はアニメーションをあんまり見ていないからなあ。

気持ちがゆらゆら

2010-10-26 23:39:53 | Weblog
ああ、なんとなく今、不安定だ、気持ちが。
イライラしてくる前兆のような、ぷつっぷつっと心の中で気泡が泡立ってくるような、感覚。
そして少し眠たい。やる気も出ない。明日全てが終わっていればいいのに、とぼんやり夢想する。将来のことが急に不安になる。確かに今に始まったことではないけれども、なんだか目の前を黒い壁で塞がれたような気持ちがする。
疑心暗鬼が首をもたげる。人から軽んじられているような心持ちがする。もう、終わりにしたくなる。

外国語の本を読むよりも、日本語の本を読む方が精神的に疲れるということを改めて発見した。15ページで完全にダウンした。15ページ。15ページ。

北海道では初雪が降ったらしい。頭の中で、雪の街をぼくは歩く。蜃気楼のようにかすれがちな映像の中で、ぼくはいずこへとも知れずただ前を行く。前が、本当に前なのか、ひょっとしたら後ろかもしれない、そもそも前へ行くことが正しいのか分からない。半紙を透かしたような街を、ぼくは迷っているのかもしれない。

どうか、コップの底に沈澱してゆく塵のようにこの気持ちが鎮まって、その塵が勃然と雪に変じて大雪原の中を歩むぼくが誕生したらいい。どうかどうか、明日はせめて塵を踏みしめて行けますように。

リペッリーノ?

2010-10-24 23:12:13 | 文学
『マヤコフスキーとロシヤ・アヴァンギャルド演劇』という大変おもしろい研究書がありますが、それを書いたリペッリーノは、しばしばリッペリーノと間違われる・・・

と、思って試しにネットで検索をかけてみたら、確かにリッペリーノと書いている人がいるいる・・・あれ、中にはすごい人までいるぞ・・・で、手元にある某本の参考文献一覧を見てみたら、そこでもリッペリーノと書かれている・・・

最初に挙げた本の作者は確かにリペッリーノとありますが、それが間違い・・・?なんてことはないよね・・・

というか、リペッリーノでもリッペリーノでも大して違わないじゃんか、とも思うのですが、イタリア語的にはどうなんでしょうね・・・
例えば昔はレーガンがリーガンだったとか、ペテルブルグでもペテルブルクでもどっちでもいいとか(後者で発音されますが)、固有名詞ってのは案外難しい・・・

リペッリーノというのは日本人にはちょっと発音が難しく、リッペリーノと言った方が発音しやすいのですが、イタリア人が発音するとどうなんだろう・・・

それにしてもこのリペッリーノの書いた本はすばらしくて、しょっぱなの文章からしてぼくはやられました。何年か前に一度通読しているのですが、今回改めて読み直してみて、その文体の見事さに特に惹かれます。

「批評の仕事を善行の証明書にひきさげることに汲々として、近代芸術の本質にまで踏みこむことのできない、これら風紀取締官どもは、衒学的な気の抜けたマヤコフスキー像をわれわれに提供し、その世間を騒がせた言行、青年時代の奇行については口をつぐんでいる。」

この饒舌な調子でマヤコフスキーの人となりやその時代を活写してゆきます。中でも、次の比喩は悶絶もの。「つるつるの禿頭のように荒涼とした、クルチョーヌイッフの詩全体に通ずることではあったが」。つるつるの禿頭のように荒涼とした!う~む、すごい。小平武の訳も見事ってことですよね。こんな文章が書けたらいいなあ。

雲のむこう

2010-10-24 01:21:14 | アニメーション
このあいだ、新海誠の『雲のむこう』を見返してみたのですが(ちなみに最近はこの映画の曲をずっと聞いている)、ちょっと不思議な感慨がありました。

この作品は、物語とか深刻なテーマとかどうでもいいんじゃないか、と思ったのです。何よりも、ラストのサユリの喪失感。あそこを描くために全ての物語や設定が用意されていて、その意味ではこの作品は壮大な序曲であり、ほとんどが助走だった、と言えます。長い長い助走を経て、サユリの目覚めの瞬間(喪失の瞬間)、一気に翔ぶ!

いや、こうしたことはもうずっと前から思っていたのですが、このあいだ改めて、そして強く感じたのです。

もちろん、テーマについては色々と考察が可能です。世界へ歩み出す決意の物語だ、と捉えるのが正当なところでしょうか。でもそうではなくて、これは一種の感傷的作品であって、物語のリアルではなく、感情のリアルを描いたような気がするのです。抽象的な感情というものを、サユリやヒロキ、あるいはあの白い塔に託して、それが激しく湧出してくる瞬間を描き切った。

              好きだと言いたい。

ただそれだけの感情、とてもありふれた、子供じみた、大人からは笑われそうな、けれど切ない、真実の、心からの、強烈で、深刻で、どうしていいか分からなくて、苦しく、泣きそうな、そしていつか忘れてしまいそうな、感情。
この気持ちを伝えたくて、でも伝えられなかった、という挫折感。いや、好きだという気持ち、どれだけあなたのことが好きだったのか、という気持ちを忘れてしまったという喪失感。この「強烈な空白」がブラックホールのようにあらゆるものを吸い込んでしまいそうです。この喪失感から、テーマを読み取ることはできます。でも、今はあえてそうしたくない。この感情そのものを大切にしたい。あなたのことが好きなんだ、それを伝えたいだけなんだ、という身を切るような切実な思いは『ほしのこえ』と共通していますが、このとてつもなく鋭い感情の一撃に、ぼくは卒倒しそうになりました。いっぺんに新海誠が好きになりました。

よくできた物語とか、今はあんまり興味ありません。突き抜けたものがほしい。物語を壊すような、そういう力が。

厳しい世界だなあ

2010-10-22 01:20:59 | お仕事・勉強など
投稿していた論文の講評が返ってきたのですが、「ここは直した方がいいよ」とあんなに指摘されるとは、思ってもみませんでした。まあ、愛の鞭だと思いますが、けっこう厳しい世界なのね。てっきり、論文というものは投稿したら大して直されずにそのまま掲載されると思っていたのですが、意外と手直しを迫られるのですね。というか、これはぼくだけなのか!?ぼくの論文がそんなにひどかったのか!?

ちょっとへこむと同時に、まあやりがいもあるのかな。もちろん直しますよ。自分でも、今はこの論文にあまり納得できていないし。ただ、目下学会の準備中で、別のことを調べている、という状態・・・。同時に2本の論文を執筆、というのは難しいのです。とりあえずは学会、それから論文の手直しですかね。

むむむ、しばらく忙しさが続きそうですな。去年まで暇だったので、その反動が・・・

ギュンター

2010-10-19 23:44:01 | 文学
専門的なことを書くと専門的な人が訪れてきそうで怖いのであまり書かないようにと思っていたのですが、なんか今日はまあいいやという気持ちが優勢ですので、ちょっとだけ書きます。といっても、ハンス・ギュンターという人についてだけですが。この人は名前からしてドイツ人だと思われるのでドイツ語ができるのは当然ですが、驚くべきことに、英語とロシア語でも完璧な論文をものしている!そんな奴他にもいるじゃん、と思われる方もいらっしゃるでしょうが、ぼくにしてみればやっぱりすごいことなのです、これは。

そもそも、外国人がロシア文学を研究しても、ロシア文学研究の進展に貢献することが可能なのか、という疑問があるわけです。アメリカ人だったらいいですよ、英語で論文を書けば、皆が読んでくれますからね。でも、日本人はもちろんとして、ドイツ人だって、そうそう皆が読める言語で書いているわけではないのです。だから、日本人がいくら優れた論文を書いたからと言って、それが日本語である限り、ロシア人の目には留まらないのです。ドイツ語だって、そういう傾向はあるでしょう。ところが、このハンス・ギュンターって人は、ドイツ語でもロシア語でも英語でも論文を書いちゃっているのですよ。おい、すごいじゃないか!

でもね、ぼくは思うのです。マイナーな国の言語(ドイツ語はマイナーではないですけど、ロシア文学をやっている人が皆使える言語ではないという意味でマイナー)を使用している研究者が、こぞって外国語で論文を書く必要はないのだと。ギュンターみたいな傑出した人は、せいぜい一国に数人いればいいと思います。彼らが外国への窓となって、自国の研究を発信してくれればいい。もちろん、皆が外国語で論文を書く能力があればそれが一番ですよ、でもやっぱり難しい。ああけれども、このエリート・システムには欠陥があるなあ。彼らエリートたちの目に留まるような論文しか外国には発信されないじゃないか。また、専門は細かく枝分かれしているのに、それを発信するのが数人しかいないのでは、とても足りないな。困ったな。

困ったままにしておいて、あともう一人最近気づいたすごい人のこと。亀山郁夫先生です。え、今頃かよってツッコミが方々から聞こえてきそうですが、今頃なのです。この先生の論文は昔から読んではいたのですが、ぼくにはかなり難解で、とりあえずカタカナをなくしてくれ、と思っていたのですが、今日になって、ギュンターについて亀山先生が言及しているのを再発見して(1999年の論文)、それで興味を持ってその論文をぱらぱらめくってみたら、うおい、なんだよすごいじゃないか、と思ったわけです。知識量も読解力も理解力もハンパねえな、と。うううううううむ、なんだよ敵いっこないじゃんか。「相手の強さが分かるようになったってのは、それだけ自分が成長したってことだ、桑原」という意味のことを幽助がかつて言っていましたが、じゃあ喜んでいいのか?まあぼくなんかは、こういう傑人にちょこっと引用されれば万々歳なのであります。

錯覚

2010-10-18 21:42:28 | お仕事・勉強など
ロシア語や英語の本を立て続けに購入したり図書館で借りたりしていると、ふと、「自分は自由に外国語を読み書きできるのではないか」という錯覚に陥ることがあります。でも、家に帰っていざ読み始めると、それが本当に錯覚だったことが分かり、現実に引き戻されてしまうのですが。

いやあ、今日読んだ論文は、わりあい簡単な英語で書かれていたにもかかわらず、内容がいまいちよく分かりませんでした。「自己が他者にまで拡張する」とか言われても、意味不明だし。他者への働きかけの過剰さを論じていると思うのですが(コミュニケーションが乗じて暴力となり、他者を排撃する、という文脈)、この「ワンセンテンス」ではさっぱり。論文全体の趣旨にもあまり賛同できなかったし、というかよく把握できなかっただけかもしれないけど、期待してた論文だったからちょびっとがっかり。

ところで、初めの「錯覚」ですが、あまり現実に目覚めないで、この勘違いの世界の中に意識的に浸っていたいと思います。妙に目覚めてしまうと自信を失くすばかりなので、勘違い野郎のままでいたい。勘違いしたまま読書を続けて、そしてそうしているうちに夢が現実になるといい。

と、前向きなんだか後ろ向きなんだか判然としないことを書きましたが、たぶん前向きな発言なんだと思います。

そういえば、宿、取れました。

百鬼園随筆

2010-10-17 23:08:49 | 文学
百のこの随筆は、ロシアの思い出とも重なっています。ぼくはロシアで、この本を読みました。

ロシアでは、外出するでもないしレッスンを受けるわけでもない、という暇な時間が思ったよりもたくさんありまして、生活に慣れてくると次第に退屈するようになりました。ある日、ぼくはちょっとお腹の調子が悪くて家で一日中横になっていたのですが、そのときあんまり退屈で退屈でしようがなかったので、日本から持参した百の本を読むことにしました。

実におもしろい。日本にいるときは、これほどまでじっくりと読書するということがなくなっていたので、そのせいもあって本当に楽しめました。百のこの随筆は、ぼくに読書の楽しさを教えてくれました。

家にいるときは、読むスピードのことだとか自分には時間があまりないことだとか日本語の本を読んでいる暇などないことだとか、そんな様々なことが気になって、碌に読書に集中することができないでいました。読み始めたらとにかく早く読み終えることを目標として、内容なんて頭に入っていなくてもどんどん先に進んでいました。でも、これでは読書の楽しさなんて味わえるはずがなかった。実際、ぼくにとって読書は既に苦痛以外の何物でもなくなっていました。

ところが、早く読むことがむしろ損になるような状況、暇を持て余していてなるべくゆっくりと本を読み進めたいような状況においては、ぼくの読書スタイルは一変しました。一言一句を見逃さないように、何度も言葉を反芻して、味読する。そしてそのような要求に見事にこたえてくれたのが、百の随筆でした。いやあ、ちょっと昔の日本語の表現っていうのは、なんとすばらしいのでしょうか。読んだとしても無味乾燥な論文だったり、最近の翻訳だったり、としばらくの間は現代日本語にしか接していなかった人間にとっては、久しぶりに読んだこの昭和初期に刊行された随筆ないし小説は、本当に新鮮で、瑞々しく、滋味深く、雄渾であり且つ飄々とし、けれども風格があり、語彙が豊富で、絢爛たる言葉の大伽藍でありました。絶賛ですよ、そうです、絶賛です。しかも、内容がめちゃくちゃおもしろい!借金話のくだりや森田草平とのやりとりなど、声を出して笑いたいくらい。

後半はちょっとユーモアが薄まった感があり、ぼくは前半(ちょうど真ん中くらいまで)の方が好きです。昔から彼の短編に惹かれていましたが、もはやぼくは格別な思いで百を見ることになるでしょう。読書の楽しさを文字通り思い出させてくれた作家として。そしてそれが百でよかったとぼくは思うのです。

それにしても、日本でも同じように読書を楽しめるかなあ。

最近買った本

2010-10-17 00:35:51 | 本一般
最近買った本です。洋書は除いて。

タルモ・クンナス『笑うニーチェ』
土田知則『間テクスト性の戦略』
ヘッセ『世界文学をどう読むか』
E・H・カー『ロシア革命』
ベルジャーエフ『新しい時代の転機に立ちて』
エレンブルグ『チェーホフ 作品を読みなおして』
ミシェル・エレル『ホモ・ソビエティクス 機械と歯車』

最初の本は、ニーチェの笑いに注目したもの。って、そのまんまですが。
2番目のは、もう2回読み直している本で、今までは図書館で借りていたのですが、ようやく入手することができました。入門としても応用としても役に立つ、よい本だと思います。
ヘッセの本は、前々から知っていましたが、今日は気が向いたので買ってみることにしました。いつか読もうかしら。
『ロシア革命』は、通読することはないような気もしますが、ちょっと調べたいときにでも使えるかな、と軽い気持ちで買いました。まあ使えなくてもいいや。

ベルジャーエフの論文はたぶん初めて読みました。この本は第二次世界大戦の後に書かれたもので、英語からの重訳。幾つかある章の中から一つを早速読んでみましたが、なかなか興味深いことが書かれてはいる。でも、ちょっと強引にロシア賛美に傾いていて、やはり首を傾げざるを得ないところも。例えば、ロシアの急速な工業化は人間の人格を否定するものであったが(機械文明をベルジャーエフは否定している)、資本主義による工業化を達成したイギリスにおいてもそうだったはずであるし、またそれはヒトラーの侵略からヨーロッパを守ったのである、と自己弁護。う~む。ホミャコフ由来のソボールノスチの理念を説明するところはおもしろかったですが、でも難しい問題ですね。それにしても、勉強しなければいけないことが山のようにあるということを改めて教えられました。

エレンブルグの本は前から目を付けていたのですが、500円だったし購入することに。どうも自分はチェーホフに絡めとられている気がする・・・

最後の本は、どうやらソビエト社会における人間の様相を描き出した著作であるようです。もとは3200円のそこそこ厚い本ですが、840円で売られていたので、たいして評判にならなかったやつかな、なんて危惧していたのですが(崩壊前に書かれている)、うちに帰ってからもう一度中を点検してみると、とてもおもしろいことが書かれていて、なかなかどうしてよく調べられているではないですか。ただ、訳者がスラヴ系の専門家ではないためか、ミウォシュをミロシュと表記していたりして、他にも同様のミスが心配ですが、でもさっと目を通したところでは翻訳文自体はけっこう読みやすそう。近いうちに丸ごと読みたいですね。

あ、小説が一冊もなかったな。

九州へ・・・

2010-10-15 00:11:02 | お出かけ
11月に九州へ行かなければいけないのですが、この時期の九州って、すごく宿泊代金が高いんですよ。阿蘇山の紅葉でも見に行く人が多いのでしょうか?それにしても、宿泊代金が高いということはつまり、どういうことかというと、それだけ旅行者が多いってことなんです。

で、困った。明日にでも宿を予約しようと思って、念のために目当ての宿の宿泊状況をチェックしてみたのですが、空室なし!え、マジですか。どうすんですか。ちょっとやばいですよね。っていうか、ほんとどうしよう・・・。幾つか宿の候補はあるとはいえ、どこもいっぱいらしい。交通の便の悪いとこならまだあるかもしれないけど、そこは困るしなあ。

本の置き場所

2010-10-13 01:28:32 | Weblog
何年も前に一度、洋書をたくさん買おうという機運の高まった時期があって、そのときちょこっと買ったのですが、それから月日が流れ、今年になってまたそういう機運が高まりつつあります。今年はもう洋書に2~3万円くらい使いました。

で、問題なのは置き場所です。日本語の本だけで部屋はいっぱいなので、もうこれ以上洋書を置くスペースが確保できなさそうなんですよね。しかも、洋書ってどれも大きい!ペンギンとかだったらまだいいですけど、専門書となると巨大なものがほとんどです。

いま、巨大な本(物理的に)を読んでいるのですが、図書館から借りているからいいものの、こんなのをもしも購入したら、困ったことになりそうです。

一つの本棚には文庫を積み重ねて置けるスペースがまだあるので、そこにできるだけ文庫を重ねて、それで空いたスペースに洋書を入れればいいんじゃないかな、と考えています。あ、意味の通りにくい文ですみません・・・。

コピーしたものの置き場所は確保してあるのですが、それもそろそろぎゅうぎゅうになってきたぞ。いま、コピーしたい雑誌が一冊あるのですが、それがどのくらいの分量になるか・・・今度学校に行ったときに見てこようっと。ああ、コピーするものがたくさんあるなあ。何だか知らないけど忙しいなあ。

漫然とつぶやく

2010-10-11 23:36:36 | Weblog
どうもしょーもない記事が続いてしまってナンですが、今あんまり時間がないというのに、というか研究発表まであまり間がないというのに、いまいち構想が固まりません。ついこの間、なんとなくできたかな、と思ったのですが、すぐにまたよく分からなくなってしまいました。・・・まずい。

外国語の論文を読むのは、そういうことをあまりしてこなかった人にもだいたい想像がつくと思うのですが、けっこう大変なわけです。まず疲れる。そしてなんだかよく分からない箇所が幾つも出てくる(内容的にも文法的にも)。全然はかどらない。とまあ、こんな感じです。だから、ちょっと調べたいなと思っても、それが10日くらいかかってしまうことがざらにあるんです。10日で調べられればいいですけど、場合によっては1カ月、半年、1年、2年、とかかることもあります。日本に資料がないことはよくあるので、そういうときは本当に1年はかかってしまいますよね(外国に行って買うなりコピーするなりして)。でも1年後に調べられればまだいい方で、結局分からずじまい、なんてことになる可能性も大いにあります。

自分の関心領域について端的にまとめてくれている論文はないかなあ、と思って色んな本を見てみるのですが、よく考えてみたら、そんな論文があったらぼくが研究する意味ってないんですよね、そういえば。じゃあ、なくていいのか。ということで、今日もまたちょびっとだけ関心領域をかすっただけの論文を丹念に読んでいくのであった。・・・うう、でもこれじゃあ全体像が自分の中でまるっきり見えてこないから、頭の中がぐじゃぐじゃだあ。

それにしても、北大にはロシア文学関係の文献が揃ってるなあ。あそこはいいですね。北大と一橋と外語大と東大を合体させたような蔵書を誇る図書館が東京にあればいいのになあ、と随分身勝手なことを夢想してしまうのであった。

どんなロシア語の論文でも2時間で10ページくらい読めるだけの語学力があれば楽になるんだけどなあ(もちろん内容も深く理解して)。けど、そうっとう簡単な文章じゃなきゃ不可能ですね。やれやれ。

そもそも、自分の研究領域がなんなのか、もはや分からなくなってきたぞ・・・泥沼だ。

論文!

2010-10-09 23:48:42 | お仕事・勉強など
久しぶりに頭を使ったので疲れました。で、何も書く気力がないいい。
昔自分が書いた論文を読み返してみたら、意味がよく分からない・・・なんでこんなに複雑なことを書いているんだ?それと、どう考えてもおざなりな点を発見してしまって、でもどのように改善してよいか思い浮かばず、頭を悩ませていました。
はあ、論文を書くってのも大変だよなあ。もうこの論文で取り上げた問題には深入りしないようにしようかなあ。もっと単純なことを書いていきたいですよ、うん。読む人にとってもそっちの方がうれしいはずだし。

そういえば、きのうまで読んでいた論文はやたら単語が難しくて閉口していましたが、今日から読み始めた論文は、そんなじゃない。ありがたや。

それと、ひと月ほど前にブログでちょっとつぶやいた、シクロフスキーの論文ですが、今日読み返してみたら、そんなに意味不明じゃなかった。前に読んだときはまるで意味がつかめなかったんですよね。なんでだろう・・・。たぶん、昨日か一昨日ゴーリキーの論文を読んで、それにけっこう関係する内容だったので、理解が深まったんだと思う。

あれ、なんか、論文、論文、論文ですね。でも実は1週間で10ページくらいしかロシア語は読んでないんですけどね、たぶん・・・少ない・・・これでいいんだろうか・・・
明日、7ページくらい読むぞ、と決意した翌日は、大抵読めないのですが・・・