Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

よしなしごと

2010-08-29 15:24:52 | Weblog
よく考えたら、ロシア語の勉強をしていない。向こうではロシア語の勉強をするということになっているので、日本で予め勉強しておけばよかった。と、毎日思い続けてついに前日になってしまった。もう諦めてます。出来の悪いのが来たね!と思われること必至ですが、出来が悪いからこそわざわざロシアへまで行くのですよ。日本にいたら全く何も一切絶対にやりませんからね。

ロシアへは、ロシア語の論文集1冊と内田百の随筆を持っていくことにします。何を持参しようかなあと迷いましたが、やはり日本語の本がいいだろう、ということで。飛行機で読めればいいな。また、ステイ先で時間が余ったら、ロシア語の論文を読んでおきたいと思います。

おかしには、ラムネとヨーグレット(だっけ?)を持っていきます。ヨーグルッペみたいですね、秒速に出てきた。あれ飲んでみたいなあ。

ドストエフスキー、プーシキン、トルストイの記念館へ足を運んでみたいです。チェーホフは去年行ったのでね。文学マニアが来たね!と思われること必至ですが、文学が好きだからこそわざわざロシア語などを勉強しているのですよ。

嵐のように日々が過ぎ去っていったら上々でしょう。そして帰国したらまた嵐のような日々が始まります。慌ただしくも充実した毎日が遅れるといいなあ。

それでは、皆さま、ダ・スヴィダーニャ!

いよいよロシアへ

2010-08-28 22:37:58 | お出かけ
30日に渡航予定です。
いよいよです。
今回は一人旅です。
緊張します。
語学はできない、道には迷いやすい、お腹はすぐ痛くなる、とダメダメな自分ですが、なんとかやっていくしかありません。せめて健康でさえあってくれたらいいなあ。あと犯罪には巻き込まれないように・・・
でも、今朝から鼻の頭が痛くて、どうやら出来物のようです。こんなときになぜ・・・!タイミングが悪いなあ。

出立前に、携帯のこととか色々と色々あって、大変なのですが、明日も外出しなくてはいけません。なんでこんなに忙しいんだ?

ところで、21日に帰国予定ですが、それまで3週間の間、このブログへのコメントは受け付けないようにしておきます。当然トラックバックも反映されません。どうぞよろしくお願いします。

明日はブログ更新できるかな?

今度は川本喜八郎

2010-08-27 23:10:41 | アニメーション
今敏に続いて、今度は川本喜八郎です。人形アニメーション界の巨人が旅立ちました。

トルンカの弟子である川本さんの手腕は確かで、表情がないはずの人形に、しかし逆説的に人間以上の表情を現出させてみせました。『道成寺』や『鬼』における鬼気迫る表情に慄然としたことを覚えています。川本さんの作品の根底に流れるのは「執心」であると言われますが、そのテーマが結実したのが『死者の書』でした。折口信夫のあの妖しく難解な小説を原作とするこのアニメーションは、まさしく「執心」の物語であり、そして心の解放の物語でした。

川本監督は、現在『李白』という作品を制作中だと聞いていましたが、相変わらずの資金不足で、ついに完成しなかったようですね。そして、あるインタビューで監督は、更に『シルクロード』という作品を作ることを夢みていると語っています。まだ『李白』を制作中に、次の作品の構想まであるという・・・この意欲、まさに執心。

それにしても、川本監督ほどの巨匠であっても、制作における資金不足は深刻であったらしい。実際、『死者の書』は多数のファンからの支援があって初めて完成しています。お金をかけて作られた下らない大作がそれなりの興行収入を得て赤字をクリアするのと比較すると、川本監督の仕事は切ない。しかし、未来に残るのは川本監督の作品だと信じています。

資金不足で作品が作れない、なんていうむごい環境を才能ある作り手に与えるのはどう考えてもおかしい。大きな会社の大作にしかお金が集まらないような状況を変え、小集団で作る短編にもきちんと作品を制作できる環境を整えてあげたいですね。・・・とはいえ、何をどうしたらいいのか分からないのが悔しいですが・・・

そういえば、NHKの『三国志』がぼくは大好きでした。その人形制作者が川本監督だと知ったとき、何かがつながったような気がしたものです。

ご冥福をお祈りいたします。

大学1年生のときの読書

2010-08-26 23:38:10 | 文学
引き出しの中をごぞごそやっていたら、大学1年生のときに書いた、読書計画メモが見つかりました。せっかくですのでここにそのまま書き写しておきます。

文学の冒険(15巻)
ミッシェル・トゥルニエ(仏)メテオール(気象)
クルト・クーゼンベルク(独)壜の中の世界
スタニスワフ・レム(ポーランド)完全な真空
(イヴァン・ヴィスコチル(チェコスロバキア)そうはいっても飛ぶのはやさしい)
☆カリンティ

イサベル・アジェンデ(チリ)精霊たちの家
(ブラウリオ・アレナス(チリ)パースの城)
レイナルド・アレナス(キューバ)めくるめく世界
J・L・ボルヘス(アルゼンチン)永遠の薔薇・鉄の貨幣

フォークナー

百年


ロートレアモン
マルドロール

不在のキシ

カルヴィーノ
「まっぷたつの子爵」
「見えない都市」「宿命の交わる城」
「冬の夜ひとりの旅人が」

インド夜想曲

更に紙の裏側には、「柴田すいせん スチュワート・ダイベック「シカゴ育ち」」や、ブロツキー、ベケット、イヨネスコ、アンドレーエフ、シメリョフらの名前が。
ふふ~む、この頃はすごい読書熱だったんですねえ。まあ、このうち実際に読んでいるのは半分程度のような気もしますが、ていうかクルト・クーゼンベルクなんて人いましたっけ、という感じなんですが、まあ当時はこの作家の本を読んでやろうと本気で考えていたようですな。たぶん「壜の中の世界」という題名に惹かれたんでしょうね。

やれやれ。19歳の読書計画にしては随分と渋い本が並んでいるように思いますが、典型的な文学青年だったんですねえ。先輩から一挙に文学の知識を吸収して、これから自分もどんどん読んでいってやるぞ、という気概に満ち溢れていた頃。これらの読書と並行して、ロシア文学を読んでいたので、当時は読書以外何もしてなかったんでしょうねえ。ある意味幸せな時代だ。読書のし過ぎで頭の回転が極端にのろくなっていたのを思い出します。

翻って今、ぼくはこれほど何かに熱中できるだろうか。当時の情熱をもう一度取り戻したいものだ。

本当に悲しい

2010-08-26 00:14:41 | アニメーション
だめだ、さっき訃報について書きましたけど、まだ今 敏監督の死を受け入れられません。こんなにも監督の存在が自分にとって大事だったなんて、監督が死ぬまで気が付きませんでした。なんてぼくは愚かなんだろう。

監督の最後の日記を先ほど読ませていただきました。まじで涙が出てきました。ああ、監督・今敏としてだけではなく、人間・今敏としても、その死が悲しい。ご両親や奥さんの嘆きはいかばかりか。

遺作となった『夢みる機械』、必ず観ます。どうか完成されてほしい。

チーム新海のツイートをいま読みましたけど、最初は誤報かと疑っていた人ももう真実を知ってしまったのですね。新海誠は、今敏のアニメーションは一つのジャンルだった、と言いましたが、本当にそうかもしれない。

あああああ。慟哭の叫びをどこへ向けて放てばいいのか。お願いだから、誰か、これが虚構だと言ってくれ。今敏の世界のように。

哀悼――

2010-08-25 22:37:34 | アニメーション
驚くべきニュースが伝えられました。

今敏、死去。

享年46。膵臓癌だそうです。

さすがに衝撃を受けました。なんで、なんでこの人が死んじゃうの。ちょっとひどすぎる。いくらなんでもあんまりだと思う。残酷すぎる。46歳って、まだまだ若い。これからってときに、どうして。

ぼくは、今敏の最高傑作は『妄想代理人』か『千年女優』だと思っているんですが、いずれもとにかくおもしろい。とりわけ『妄想代理人』の前半は神がかってる。深読みしようと思えばかなりの深読みが可能な物語だし、テーマも興味深いし、筋もテンポも演出もいい。一方、『千年女優』はテーマ映画とも言えて、恋すること/愛することについて映画全体で表現した、日本の長編アニメーション史上稀有な傑作であると思う。

これほどの作品をものするのは並みの才能ではない。今敏には今のところ駄作と呼べる作品はないし、結局終生の3割バッターだったと思う。日本での一般人の間での知名度は、その作品の完成度に比せば確かにそれほど高くないのかもしれませんが、しかし確実にヒットを量産してきたし、また先に挙げた二作品は場外ホームランだったと思う。

いま、細田守や原恵一といった大衆受けする、それでいて実力もある長編アニメーション監督が育ってきているし、今敏監督には、そういう若手から中堅の代表格として頑張っていただきたかった。心の中で密かに応援していたのに・・・。とにかく残念でなりません。

短編アニメーションでは、まだ20代の若手が世界の短編アニメーション界で認められつつありますが、長編も短編もがんばってアニメーション界全体を盛り上げていこうってときに、良作を連発してきた監督が亡くなってしまった。

はっきり言って、日本のアニメーション界にとっての巨大な損失であることは間違いありません。あまりにも大きな穴が抜けました。ああ、悲しい。無念です。悔しいです。

衷心からご冥福をお祈りいたします。

神の子どもたちはみな踊る

2010-08-23 23:21:27 | 文学
村上春樹の有名な短編集をきのう読了。なかなかおもしろかったです。だいたいが1999年に書かれたものですが、この頃になるともう初期の短編の書き方ではなくなっていますね。まずはっきりと形に表れているのが、三人称ばかりだということ。最初の頃はほぼ全て一人称の「僕」でしたからね。

それにしても、村上春樹の小説の終わり方というのは非常に独特だと思う。物語が始まりかけたときに、突然糸が切れたみたいに終わってしまう。典型的なのは「アイロンのある風景」。焚き火に当たる二人がこのまま本当に死んでしまうのかどうか、何も語られないまま不意に終わる。余韻、というのとは違う気がします。「かえるくん、東京を救う」にしても、肝心要の格闘シーンを見せない。いわば物語の関節を外してしまう。重心を支える心棒をポキッと折ってしまう。この短編集の中には、一応の決着を描いているものもありますが、しかし多くの物語は重心を失って、どこかへ彷徨い出てしまう。まさしく、どこかへ。どこへとも知れないどこかへ。

神戸の地震に少しばかり関係する人物たちの様子を描いたこの短編集は、地震によって炙り出された、そこから遠くに住む人間たちの心の不安定さを見つめますが、それとこの奇妙なエンディングはパラレルな関係にあると言えるのでしょうか。イエスでありノーである、というのは一つの詭弁かもしれませんが、しかしこの短編集の不安げでゆらゆらした佇まいと地震で傷を負った人間の心の振動とは共振していること、また一方で春樹の他の小説でも同様のエンディングが見られることから、やはりそれはイエスでありノーである。

物語ることへの挑戦なのか、物語ることの諦めなのか、それとも物語の可能性を故意に孕ませているのか。よく分かりませんが、いずれにしろ、春樹は単なるストーリーテラーではないことは確かです。

それにしても、最後の短編「蜂蜜パイ」は決着を付けていて、しかも幸福へ向けて舵を切るところで終わっていて、掉尾を飾るに相応しい作品でした。まだ、やれる。そういう微かな光が射し込んできます。実はほとんど何も問題を解決していない作品なのですが、それにもかかわらず、幸福への強い意志が感じられる。甘ちゃん、と言われるかもしれないけれど、ぼくはこういう物語が好きです。

ロシア語の学習

2010-08-22 00:06:46 | お仕事・勉強など
近年、ロシア語の学習書がずいぶん多くなったように感じます。というか、このあいだ書店で久々に学習書コーナーを眺めてみて、そう思いました。ぼくが本格的に勉強しようと思った数年前には、そんなにロシア語の学習書ってありませんでした。

ロシア語の学習書には中級者以上向けがない、というのは昔から思っていたことで、初学者に対応する参考書はあるのですが(少ないですけどね)、ある程度知識を身につけた、という人向けの本は、なかなかなかったのです。リスニング教材も少なかったですし。

でも、今は中級者向けの参考書が何冊もありますね。趣向を凝らした単語帳や会話練習帳などもありました。もちろんCD付き。ああ、ちょっと遅かったなあ。さすがに今からこんな本で勉強している暇はないや。いや、暇は見つけるものだと言う人がいたら、こう答えましょう、そんな意欲はないや。

もっと昔は参考書の数はもっと少なかったし、ぼくと同じ頃に始めた人でもっとできる人はいくらでもいるし、自分の語学のできなさを参考書の不備のせいにすることはできないのは分かっていますが、しかしそれでも、やはり恨めしい。まだロシア語の勉強をする余裕がある頃に、こんな参考書に恵まれていたらなあ、と。いまではもう、そんな心の余裕はなく、とにかく時間に追われています。基礎を固めたいのは山々ですが、なかなか難しい。

全部言い訳にすぎないのですが、とにかく自分には意欲がない。やる気がない。はぁぁぁぁぁ。

短編アニメーションの上映情報

2010-08-21 00:15:21 | アニメーション
9月18日から2週間、吉祥寺のバウスシアターで短編アニメーションが上映されます。
http://www.animations-cc.net/festival10.html

そのプログラムが発表されたので、見てみたのですが、確かにすごいラインナップ。山村浩二とかヒュカーデとかハーツフェルトとか(全部Aプログラムですが)、見たことのあるのが多いですけど、必ずしもスクリーンで見ているわけではないし、それにこれだけの秀作をまとまった量見られるというのは貴重な体験であるような気がします。ビックフォードが入っているのも個人的にうれしい。もちろんハーツフェルトが掉尾を飾っているのは最高にうれしい。

AとBの二つのプログラムしかないし、両方見て損はないと思いますが、どちらか片方しか見られない、という人にはAがお薦め。まあ、本当に個人的で素朴な感想ですが、Aは分かりやすい作品が多くて、Bは分かりにくい作品が多いです。だからといってどちらが優れているというわけではないと思いますが、多くの人がより満足感を得られるのはAかなあ。ハーツフェルトが最後だし。Bは、何度も見て少しずつ自分なりに理解してゆく作品、というのが多いのかなあ。

というわけで、『○○の○○』のような作品よりもよっぽど繊細で奥深い作品が上映されるみたいなので、来月の下旬、夜は吉祥寺で決まりですね。

来年は・・・

2010-08-18 22:54:40 | アニメーション
きのうの『けいおん!!』、後半は涙の演出で、鳥肌が立ってしまった。コンテを注意して見たら、石原立也。さすがだなあ。あざといといえばあざといかもしれない演出で、泣かせにかかっているのは分かるんだけど、そこに持っていくまでがスムーズで、やられた。次はクリスマス、そしてお正月・・・まではよかったんだけど、でももうこのへんでちょっと「おいおい」と思って悲しくなっていて、次いで新歓と来て「おいおい」と思い、来年の学園祭と来て「おいおいおい」と思った。

君たちに来年の学園祭はもうないのだよ、とけいおんの第二期が始まる前から分かっていて、もう3年生になってしまったことに切なさがあったんだけど、それがここにこうして噴出するとは。

ああ、登場人物が成長してしまうアニメは見ていて辛いですね。こういう学園ものだと特に。せめて虚構の中だけでも時間がとまってくれたら、なんて思うんだけど、無情にも時間は流れてしまう。

思い出なんていらないよ、か。EDの歌詞がきのうはとりわけ心に響いた。

体育館に向かうときのカット(登場人物目線で階段を降りる)はよかったですね。緊張感と高揚感を視聴者にも共有させようという狙いでしょうね。完全に成功。

もちろんライブシーンはあったわけだし、きのうは充実した回でした。

夜の動物園

2010-08-18 00:13:21 | お出かけ
このあいだ、夜の上野動物園に行ってきました。本来は夕方に閉園になる上野動物園が、20時まで開いていたのです。

夜の動物園というのはもちろん初めてでしたが、夜でも暑かった・・・!蒸し暑いのです。その日は夜風が気持ちよかったはずなのですが、歩き回ったのでやはり暑かった。

休日に上野動物園に来たことはありましたが、そのときはものすごい混みようで、迷子もいたりしましたが、平日の夜はさすがにそれほどではなかったので、少しは落ち着いて見学できるかもしれませんね。あと、モノレールに乗れました。これも空いていたおかげ。普段だったら行列でとてもじゃないけど乗ろうという気にはなれないモノレール。でもこの日はほとんど並ばずに乗ることができました。・・・が、こんなに乗車時間が短いとは!てっきり動物園をぐるっと一周するのかと思っていたら、ちょびっとだけ移動して終わりなんですね。しかも夜だったから窓に映るのは自分の顔だけだったし。

それと、夜なので動物がよく見えないこともしばしば。目がとびきり良くないとそんなに楽しめない可能性もあるかも。夜の動物には寝ているものや起きているものがいましたが、夜行性のはずのやつまで隠れてしまっていたのは、周囲が明るかったからでしょうか。

そうえいば、カバは100メートルを8秒台で走るらしい。ホントかよ、と思った。あと犀は臭い。

だんだん断片的な記述になってきている・・・

ロシアで家族に乾杯

2010-08-16 22:19:25 | テレビ
NHKの「家族に乾杯」の舞台がウラジオストクだったので、最初から最後まで見てみました。

ウラジオストクには日本人がけっこういるんだなあ。
美人が多い、なんて話していたけれど、ロシアには若者だと確かに美人が多い気がするけれど、おばちゃんになるとでぶっと太ってくるのはなんでなんだろう?トルストイの小説でもそんな現象が的確に描写されていたようないなかったような。

鶴瓶とマリックがウラジオストクを旅して色々な家族と触れ合う、という番組なわけですが、なかなかおもしろかったです。マジックは万国共通ですね。

ロシア人というのは、少年少女はシャイな感じの子が多いみたいで、カメラの前では無表情だったりむすっとして見えたり、ともかく人懐こい感じには見えなかったのですが、でもスタジオで披露された彼らの後のエピソードなどを聞くと、実はけっこう興味津津だったことが分かりました。あとマリックらが去った後に撮影された映像では元気だったし。要するにテレビ慣れしていないんですね。それにしても、マリックがものすごい権力者に見えた、というのには笑った。なるほど、政府の要人に見えなくはないかも。それで少し緊張してたのか。

ロシアの家庭というのは大体あんな感じなのかなあ。日本人からするとちょっと階段などが汚れているようにも見えますが、でも家の中は暖かそうですね。あの家のおばあちゃんみたいにばーっと喋られたら、何言ってるのか聞き取れないので、一言一言区切って話してもらえたらなあ。

・・・というのも、今月末に、またロシアに行くことになったのです。今度は少しだけ長くて、9月の下旬に帰ってくる予定。ロシアの家庭が気になるのは、ホームステイすることになるからです。ホームステイ!ろくに言葉も通じない国の一般家庭に入っていけるのだろうか、と不安は尽きませんが、今から少しずつ準備を始めています。まあ、ロシア語の勉強しろよ!って話ですけどね。でもぼくはしそうもないです。こんだけ切羽詰まっても勉強しない自分。理由はめんどいしやる気が出ないから。う~む、ダメダメですね。

というわけで、今月末からしばらくブログはお休みすると思います。向こうの家庭で無線LANが使えるかどうか不明なので、今のところパソコンは持っていかないつもりでいます。(あ、来週末まではちゃんとブログ書きます。)

ところで、ウラジオストクには日本のアニメファンが集まるカフェがあるのだとか。ちょっと行ってみたい。モスクワにもあるのかなあ。あったらいいなあ。でもどこにあるのかなあ。

『レキシントンの幽霊』

2010-08-15 23:26:29 | 文学
村上春樹の短編集『レキシントンの幽霊』を読了。
収録作品は、

レキシントンの幽霊
緑色の獣
沈黙
氷男
トニー滝谷
七番目の男
めくらやなぎと、眠る女

この短編集はバラエティ豊かで、様々な傾向の作品が揃えられていました。「七番目の男」などは、ぼくがこれまでに読んだどんな春樹作品とも趣が違って、たぶんこれのみを読んでいたら、春樹への印象がまるで異なっていただろうし、そもそも春樹作品だと言われないと分からなかったと思う。村上春樹のあの澄ましたような、斜に構えたような文体、少し世間とはずれた考え方をしている「僕」の思考などが気に食わない人でも、この「七番目の男」は楽しめるのではないかと思います。

「七番目の男」は(「七番目の男」の話ばかりでナンだけど)、わりと珍しいことに、救いがある物語です。この本に収められたその他の小説は、人間が孤独になるまでを描いていたり、どうしようもない寂しさを描いていたり、人間の醜い部分を描いていたり、とにかく結末に光の見えない話が多かったのですが、「七番目の男」は、最後に柔らかな光が射し込んできて、とてもいい夢から目覚めたような気分になります。喩えがあまりよくないと思う人がいるかもしれませんが、でもいい夢を見た直後って、すごくいい気持なのです。

村上春樹のことをボロクソにけなす人がいるけれど(好き嫌いは別にして)、ぼくは彼はやはり一流の作家であると思う。『レキシントンの幽霊』は、確かにそれまでの春樹らしさが影をひそめてしまっているようにも見えますが、しかしその筆が鈍っているわけではありません。

「七番目の男」のような作品を連発していたら、春樹はこんなに人気は出ていなかっただろうけど、専門家からはもっと評価されたいたのかもしれないな、と思い、そうならなくてよかったな、と安堵します。たまにはこういう佳品も読みたいけど、でもそれは誰か他の作家が書いてくれる。やはりぼくは村上春樹のあのユーモアあるとびきり奇妙で滑稽な、そして哀しく切ない物語が読みたい。

村上春樹の初期短編

2010-08-15 00:34:15 | 文学
いま、村上春樹の昔の短編を読んでいます。

「蛍」については先日書きましたが、それから「納屋を焼く」「踊る小人」「めくらやなぎと眠る女」「三つのドイツ幻想」「パン屋再襲撃」「象の消滅」「ファミリー・アフェア」「双子と沈んだ大陸」「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界」「ねじまき鳥と火曜日の女たち」「TVピープル」「飛行機――あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか」などを読みました。

たしか、最後の短編だけが三人称の小説で、あとはみな一人称だったように思います。だから、この小説はなんとなく村上春樹の小説という感じがしなかった。

この一人称の人物は、基本的に同じような考え方を持っているように見えて、皆、物事を効率的に片付け、他人の生活には干渉しようとしない。そして不特定の女と寝る。それについて何とも思わないというわけではないのでしょうが、世間一般の考え方とは少し違う考え方をしている。そういうことをよく話題にも出す。小説に登場する女性陣もまたそういうことを口にする。さらりと。まるで「新聞はどこ?」とでも訊くように。

村上春樹の小説が嫌いだという人はとても多いらしい。ちょっとこじゃれた感じが理由の一つのようだけれども、なんというか、この「さらりとした感じ」も原因なのかもしれないな、とふと思う。僅かな例外を除いて文体や描写に粘着性がなくて、乾いている。あるいは、執着のない文体。春樹ふうに言うならば、何かがらんどうの部屋をぼくは思い浮かべる。ベッドも、タンスも、机も椅子も、テーブルも、家具と名のつくものは一切なくて、ただ部屋だけがある。板張りのフローリングで、窓は大きい。カーテンさえもない。真っ暗闇の空間に、ぽつんとその部屋だけが浮かんでいる。空虚。この部屋に今まで住んでいた人は、この部屋に再び帰ろうとは思わない、そういう執着心のない部屋。村上春樹の文体を、読んだ後になって思い返すとき、どういうわけかこの部屋の空虚や寂寥を思い浮かべてしまう。

失ってしまった悲しみ。それを忘れて平凡に生きようと無意識に努力している語り手。そういう物語が多いような気がします。平凡に生きようと無意識に努力している。すらっと出てきた言葉だけれど、これは案外的を射ている表現じゃないかと思った。このような語り手の姿勢を反映して、文体もさらさらと流れるように、障害物にぶち当たることなく、滞ることなく、淀むこともなく、とりあえずの小説の終りまで続いてゆく。でもときおり、じわりと感情の湧出する箇所がある。なかったはずのカーテンがふわりとふくらむ。それは白いカーテンであるはずだ。

感情を抑え、冷静に。冷静に語ろうとするところが妙に神経に触るという人がいるのは分かる気がします(可能性の問題として)。けれども、これらの春樹の短編の神髄はむしろ冷静さに隠された喪失感や悲哀、徒労感にあるのであって、この生活に倦んだ気怠さが読む者に同様の生活への倦怠感を抱かせているような気がします。

ぼくが村上春樹の小説に惹かれるのは、もちろんその幻想的でいささか滑稽な世界観も一因ではありますが、何よりも喪失感を共有しているからだと思います。今までに失ったものへの、あるいはこれから失うだろうものへの。

沖縄料理!

2010-08-13 22:49:17 | お出かけ
沖縄料理を食べてきました。

家でゴーヤチャンプルーらしきものを食べたことはありましたが、本格的な沖縄料理は初めて。

ミミガーのおろしポン酢あえ
ゴーヤチャンプルー
豚のしゃぶしゃぶ
しめの蕎麦

で、ボリュームもけっこうあって、お腹一杯。
ミミガーは生まれて初めて食べましたが、こりこりしてますね。おろしポン酢があっさりしていて、また小さく刻んであるので、ちびちび食べるのが好きなぼくにはとても合っている料理。ちびちびといつまでも食べていられる。なんとなく口が寂しくて、飲み物で喉を潤す以外に方法はないかな、というときに、このミミガーはいい。酒のつまみにもいいのかも。

ゴーヤはとにかく苦いですねえ。こんなに苦いゴーヤは初めてです。う~む、苦い。これがゴーヤか。でも、ハムみたいなのや、肉、卵と和えてあるので、それらと一緒に食べれば苦味が減殺されるので大丈夫です。ゴーヤだけだとさすがに厳しいですが。熱くてほくほくしながら食べました。この苦味が癖になるというのは今なら分かる。

夏ですが、しゃぶしゃぶ。豚なので、ちょっと心配症のぼくは念入りにしゃぶしゃぶしてしまいましたが、でもやわらかくておいしかった。これもポン酢でいただきます。まず牛蒡を入れて沸々と煮立ったら豚をしゃぶしゃぶ。たぶん牛蒡は臭みを消すため?それはともかく、豚をたいらげたら後に口直しとして野菜を投入。それもたいらげたら、最後に蕎麦。ちょっとうどんみたいな蕎麦でしたが、蕎麦と書いてあったから蕎麦なんでしょう。この蕎麦がけっこう量がありまして、しかも意外とこってり味付けされていて、満腹感がありました。

このお店は雰囲気も良くて、ぼくは気に入りました。また行きたいです。トイレもきれいだそうです。