Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

白と黒

2011-08-31 23:53:58 | 文学
本棚を見上げる。

・・・『マダム・エドワルダ』『黒い本』『黒い迷宮』『悪魔のいる文学史』『神の裁きと訣別するため』『詩人のナプキン』『サキ傑作集』『サキ短篇集』『黒猫・モルグ街の殺人事件』『黒猫』『阿Q正伝・狂人日記』・・・

固まっている。意図したつもりはなかった。でも、固まっている。これらの本がこの順番でなぜか一列に並んでいる。でもぼくは言っておきたい。今では明るいものの方に惹かれるんだよ、と。

黒いものに惹かれた時期は確かにありました。暗黒、怪異、幻想、奇矯などなど。でもぼくは元来怖いものは苦手だし、そういう趣向は持ち合わせていないのです、たぶん。だから、暗黒と言っても暗黒のメルヘンが、怪異と言っても奇跡的な怪異が、幻想と言っても魅惑的な幻想が、奇矯と言っても突飛で素敵な奇矯が、ぼくの欲していたものであり、探し求めていたものだったのかもしれません。

それは、それで、いい、として。それはそれで、いいとして。それはそれでいいとして。それは、それで、いいとして。ぼくは言葉を反芻する。反芻する。反芻、する。

フォースターは『小説とは何か』を書きました。イーグルトンは『文学とは何か』を書きました。でもそのタイトルの提起する問題にはちっとも答えていない。いや確かに、どちらもいい本ですよ。とりわけ後者は文学部の学生必携の書でしょう。でも、「ぼくら」の要求しているのはそういうことじゃあないんですよ。

星を、見上げる。ぼくはぼく自身を追い越すことはできない。他の何を追い越すことができたとしても、ぼく自身は絶対に無理だ。ぼくは先を進む。届かない何かを追って、先に進む。進み続けたいんですよ。きっとね。小説とは何か。文学とは何か?求め続けても出ない答え。でも、これは永遠の問いだから、答えのない問いだから、と言って問題を自ら狭めたくない。たぶん、考え続けたいんですよ。

ぼくの欲するもの。ぼくの、欲する、もの、ぼくの、欲するもの。文学を欲しているのか?アニメーションを欲しているのか?それとも単に寝転がることを欲しているのかい?考える。どうやら寝ることみたいだぞ。いやしかし・・・考える。やはり文学?違う、アニメーションか?アニメ?かんがえる。かんが、える。か、んがえる。かん、がえる。かんが、えるかんがえ、るかん、がえ、る。得る考え罹患蛙。

どうだい、意味不明のエントリになったじゃないか。意識の流れじゃなあないけども、思いついたことをそのまま文字に起こしていったらこうなりましたよ。自動記述よりは意識的で作為的。

なんだか薄っぺらい内容になってしまった。ぼくは、もっと本質的なことを書きたかったのです。ぼくの感情をぶつけたかったのです。何に喜び、何を憎み、何に感謝し、何を望んでいるのか。優しさについて、優柔不断について、臆病について、恋について、出会いについて、別れについて、偶然について、奇跡について、そしてその価値について、ぼくは語りたかったのです。ぼくはそれらについて語ろうとして、必死に語ろうとして、思考錯誤して、悩んで、迷って、苦しんで、結果上のような記述になったのです。思考は言葉になった瞬間に、崩壊する。霧消する。木端微塵になる。腐る。溶ける。そうだ、腐る。思考は腐る。言葉にしたそのとき、たちどころに腐ってしまう。ぼくは偶然の神秘について語りたかった。でもその神秘は格下げされ、泥の中で腐ってしまう、言葉にしてしまうと!だからぼくは語らない。偶然について、奇跡について。いや違う。ぼくは語る。それでも語る。いつか語る。恋について、出会いについて、別れについて。優しさと優柔不断と臆病の関係について。いつかきっと!

これが文学だ。このことについて語ってほしい。それでも語る行為について。そんなのは言い古されてますよ!そうだ、確かに。語りえないものを語る行為については、語られていたと思う。ぼくは、輪郭を与えたいんじゃないんです。輪郭のないものを、輪郭のないままに言葉で表現したいんです。言葉は枠ですか。箍(たが)ですか。縛り紐ですか。輪郭のないものは、余韻で表現するしかないのでしょうか。語らないことによって語る、という手法でしかそれは表現されえないのでしょうか。漠としたイメージ。象徴。ベールイ。ブローク。音楽的手法。けれどもそれは、違うんですよ。

言葉によって思考を腐らせたくない。言葉の自律?自生する言葉?言葉は生成するだって?確かにそうです。言葉が思考を生むことだってある。でも、ぼくが言っているのはそういうことではないんです。なぜそうやって理屈に逃げるのだ?知性に逃避するのだ?言葉を、思考を模倣するだけの存在に貶めている、とは?だめだ、プラトンに逆戻りですよ。プラトニズムの転倒?ドゥルーズへの逃避!

伝達の道具としての言葉。言葉そのものとしての言葉。そう、問題は実に単純なのだ。ぼくはぼくの考える優しさについて言葉を用いて伝達しよう。でも、だからね、それは不可能なんだよ。だとしたら、伝達道具としては欠陥品ではないですか、言葉というやつは。欠陥品だからこそ。こそ?だからこそ文学が生まれ、言葉は自律し、いまぼくは文章を書くことができている。なぜ?ぼくはぼく自身を追い越せない。でも、歩き続ける。求め続ける。不可能だからこそ、求め続ける。そういうものとして、永遠に微分されていく対象のように、永遠に接線に迫る曲線のように、限りなく不可能な対象に近づく行為を、文学の前提にしてしまえたら、と思う。

いやはや、言葉の廃棄物。まさしく自生する言葉。自生する言葉。言葉。言葉。

本についての雑記

2011-08-29 00:10:41 | 文学
『ヌイピルシテェート』について。
ぼくも段々と上の世代になってゆき、ブログで思うままに放言してもよい時期を過ぎてしまったような気が最近していて、それで何となく書くネタも狭まっているように感じていたのですが、そういう縛りが苦しい。だから言ってしまいます。この本の翻訳はまずいです。未知谷から出ている同じ訳者の本は全て、日本語としておかしい。

実は、ハルムスは読み書き能力があまりなかったのではないか、と言う研究者がいるのですが、というのも彼は多くの書き間違いをしているからなのですが、そういう点を考えると、この未知谷からの翻訳は、日本語として不出来ですので、かえってハルムスの原作の持つある種のニュアンスを正しく伝えている、とみなすことができるのかもしれません。まあ皮肉な見方ですが。

文法的な逸脱、古語と日常語の奇妙な混交、難読漢字の多用。更には単純な誤字・誤訳。訳者の責任であると同時に、校正者の責任でもあるように思うのですが、どうなのでしょう。「同志」と「同士」などは、パソコンでは間違えやすいのですが、それをきちんと指摘する編集者はいないのでしょうか。

実際のところ、前二作の方が日本語としては問題があったように感じているのですが、今作をとりわけ俎上に載せようというのは(この本で「俎上に上げる」という誤字/誤用が見られたことを付記)、日本語の問題というよりは、翻訳者の心構えというかルールがおざなりにされているのが気になったからです。訳者が底本を記載していないことは前にも書きましたが、それ自体はまあぼくだって大目に見ます。でも、だからと言って、まるで全訳のように見せかけて勝手に抄訳してしまっているのでは、現代の翻訳水準からしても極めてずさんであると言わねばならないように思います。「水色の帳面」という小品集がありますが、なぜか重要な作品が脱落しているんですよね。重要な、というのはぼくの個人的な感情なのかもしれませんが、しかし作品が二つも脱落しているのは問題ではないでしょうか。しかもそれに対する注釈もない。

こういうことをされると、他にも恣意的な脱訳、もっと言えば改竄があるのではないか、と疑心暗鬼になります。

確かにこれだけの量の作品を訳したことは大きな功績ですが、それと同時にかなり大きな問題も孕んでいると思います。この翻訳を叩き台にして、いずれ誰かがより高水準な翻訳を出さねばならないでしょう。

ラテンアメリカ及びロシア文学

2011-08-26 00:40:54 | 文学
ロシアにいる間、喉から手が出るほど欲しかった本2冊を本日購入。

『ラテンアメリカ五人集』
ハルムス『ヌイピルシテェート』

書店で後者の目次をぱらぱらとめくってみて、驚きました。「エリザヴェータ・バム」が訳されている!それからあの作品やこの作品も、という感じで、驚きっぱなしでした。この衝撃的な目次に圧倒されながらも、ぼくは2200円を支払ったというわけです。

ところでハルムスにはタイトルのない作品が多いですが、しかし目次でそれを全て「×××」で処理してしまっては区別が付かないので、冒頭の文句を( )付きでタイトルに付すとか、そういう工夫がほしいものだ。

いつかちゃんとした解説付きでこういう翻訳が出てくれるとうれしいですね。増本浩子・グレチュコ訳は解説が充実していてうれしかったので、彼らには別の作品も訳していただいて、そしてもちろん解説付きで出版してもらいたいです。

さて感想ですが、実はまだ半分しか読んでいないのです。「エリザヴェータ・バム」の感想くらいなら書けますが、ロシア語でもう何度か読んでいるしなあ。・・・ちょっと気になるのは、翻訳の底本に何を使用したのか、という点。たとえ一般向けの翻訳でも、これまで文学作品の翻訳の場合、巻末の解説で底本についてはきちんと紹介がなされるのが通例でした。一般向けとは言っても、学術的な価値を持ってもらいたいものです。確かに多くの人にとっては翻訳本が学術的な価値を有する必要性はないのかもしれませんが、これから勉強を始めようとしている、あるいは始めるかもしれない若い人たちにとっては必要な情報になりえます。よい翻訳本というのは、日本語の文学として通用するものであることはもちろん、学術的な価値を有しているものです。

しかし「エリザヴェータ・バム」を日本語で読める、というのはやはりある種の感動でした。いい時代になったものだ。この作品は様々な解釈が可能ですが、一つ有名な解釈を老婆心ながら紹介しておきますと(なにせ本に解説がないもんで)、この戯曲はスターリン時代の不当逮捕を予示したものである、というのがあります。スターリン時代の民衆がそうであったように、エリザヴェータは罪状がはっきりしないままに逮捕されるというわけです。また、誰が読んでも分かるように、原因→結果という連鎖がねじれてしまっていますが、これはハルムスによく見られる詩学だとも言われています。とまあ、当たり障りのないことを書いておきましたが、このへんを念頭に置いて読み直してみると、新しい発見があるかも・・・?

さて『ラテンアメリカ五人集』ですが、やはり「シリーズ全四巻完結」らしいです。なんでだよー!と叫んでおく。まだまだあるじゃないか。「第二期」がやってくることを切に願います。で、この本を読む日は遠からずやってくるのかな。

身辺雑記

2011-08-24 00:33:19 | Weblog
昨日は0時前に寝て、今日は13時過ぎに起きました。一度トイレに立っただけで、熟睡。そして日中も寝たり起きたり。いやあ、疲れてたんですねえ。でも夕方くらいからやっと元気になってきて、明日か明後日から活動を開始したいと思っています。

今日は本棚にロシアの本を移しました。が、もちろん全て収まりきるはずもなく、半分以上は床に並べました。それにしてもザボロツキー関連の本がなぜか10冊以上ある(忘れてたけど今読んでる本もそれだ)。確かに、集めようかな、と思った時期もあったけれども。まあしかし、あるに越したことはないでしょう。場所取るけど。

あれ、身辺雑記と称しておいて、特に身辺に変わった出来事がないぞ。

代わりにごく近い将来の予定(というか、やるつもりのこと)を書いておこう。

本を買う。
論文を読む。
論文を書く。
報告書を書く。
人と会う。
短編映画祭に行く。

1か月の間にこれらをこなして、それが終わったらまたほぼ同じ作業。同じことの繰り返し。でも少しずつずれている。そのずれを段々と上方に持ってゆきたいものです。ちょっとずつ発展。ぼくは何年経っても同じところをぐるぐる回っているばかりだけど、それがせめて螺旋状に上に伸びて行ってくれていればいいなと思うのでした。

こんな感じで今日は終了。

帰国

2011-08-22 23:24:16 | Weblog
月曜日。朝。
ようやく帰国しました。帰り際はかなりドタバタしましたけれども、なんとか無事に日本に戻ってきました。

去年と違って今回は周りに日本人が多かったので、成田に着いたとき、ようやく帰ってきたぞ、という感慨はほとんどありませんでした。帰宅しても、なんとなく昨日まで普通にここで暮らしていたような気がします。なんなんだろうなあ。

明日からちょっと忙しそうです。とりあえずロシアにいたせいで買えなかった本を購入したい。amazonで買うか、新宿まで出るか、迷う。それにしてもロシアから持ってきた本を置く場所が思ったよりないですね、うちには・・・どうしようかな。

飛行機の中ではほとんど眠れなかったので、帰宅してからは寝たり起きたりです。そしてまた寝ます。明日は早起きしそうな予感。それではおやすみなさい。

そろそろ帰国

2011-08-19 21:42:27 | Weblog
今日で授業も終了して、日曜日にロシアを発つ予定です。帰国は月曜日の朝になります。
帰ったらとりあえず本を買わないといけません。それから人と会ったり、論文を書いたり、本を読んだり、色々とすることが待っています。

ロシアでは結局あまり読書できませんでした。別に遊び呆けていたわけではないんですが・・・。で、肝心の勉強の方ですが、ぜんっぜん上達していないような気がびんびんします。最後の授業では、なぜか真ん中の席に座らされて、レッスンを受けさせられました。

学校からの帰り道、ぼくは一人でバスに乗っていたのですが、そのときどうしてだか、魔女の宅急便の曲が頭の中を流れていました。キキが飛べなくなって、ウルスラとバスで移動しているときに流れる曲です。授業がすべて終わった安堵感と、一抹の寂しさとがぼくの心中に同居していたのでしょう、ゆったりとしたテンポの平穏な、しかしそこはかとない哀しみをも湛えたこの曲は、このときのぼくの心情にぴったりだったのかもしれません。

白樺の土地を離れ、海を越えて再び東京へ行きます。

フィローノフの衝撃

2011-08-14 23:22:11 | お出かけ
土曜日はトレチャコフ美術館の新館に行ってきました。この美術館には本館と新館があり、後者には20世紀の作品が収蔵されています。目玉はやはりアヴァンギャルド芸術でしょう。

有名なマレーヴィチの『黒い正方形』の実物をこの目でしかと見てきました。ちょっとした驚きでしたよ。というのも、眼前のキャンバスに塗られていたのは黒ばかりではなく、その黒の下に幾つもの色彩が隠れていたので。絵には多くのひび割れができており、そのひびの下から緑色が覗いているのです。あと赤や黄もあったような気がします。聞いた話では、マレーヴィチはこの絵画を描くのにあらゆる色を用いたうえで、一切を黒で塗りつぶしたらしい。従来の絵画を否定する身振りを取ったマレーヴィチ像として出来すぎた話ですので、ホントかいな、と思っていましたが、実物を目にすると、それもあながち作り話とは言えなさそうです。

でもこの日最大の衝撃は別の所にありました。フィローノフ。噂には聞いていましたが、凄まじい絵を描く作家です。キュビスムを突き詰めたらここまで到達しました、という風でもあるし、あるいは一方で、独自の変態的嗜好を突き詰めたらこうなっちゃいました、というような毒々しさといかがわしさを充満させてもいる。幾何学的な無対象ではなく、人間を対象としながらも、その腕は幾重にも分かたれ、指も分裂し、身体は無数に分断されている。地獄絵図のようでもあり、しかし奇妙な祝祭感をも感じさせる。とにかく圧倒的なスケールで描かれた、圧倒的な印象を与える傑作だと思います。自分に絵画を批評する能力がないのが残念でなりません。う~ん、すごかった。

トレチャコフ美術館は、本館があまりにも有名なので、観光客もそちらにばかり押し寄せるようですが、新館に行かないのはもったいないような気がします。20世紀芸術は万人受けしませんが、でもフィローノフみたいな発見もあるので、アヴァンギャルド芸術はちょっとなあ、と思っている方にもお勧めです。

ちなみに本館・新館共にかなり広いので、全ての作品をつぶさに見ようとするのは大変です。

ただ生活しているだけで・・・

2011-08-11 17:41:17 | Weblog
ただ生活しているだけで、悲しみはそこここに積もる。・・・と言うけれども、ぼくの場合、単に疲れます。いや、ここでの生活はかなりハードです。

毎日朝から授業があって、寮に帰ってくるのはだいたい3時半から4時半頃。になるのが普通なのですが、ぼくはいつも寮にはまっすぐ帰らないで、街の書店や図書館に寄っていくので、帰りはいつも夜になります。外を歩き回って帰ってきて、そして翌朝はまた6時過ぎに目覚めるのです。そんなに早起きする必要はないはずなのですが、朝に自分の勉強をしないといけないのと、あと体調管理の面から、そんなに早く起床しなければならない訳です。

ですが、そういう生活もここに来て破綻しかけています。今週の月曜、そして今日、ぼくは学校を休んでしまった。朝、体がだるくて出掛ける気力が失せているのです。特に今朝は雨が降っていて、それだけでぼくは気持ちが落ち込み、悄然としてしまった。ああ、ぼくには人並みの生活もできないのか・・・いやしかし、やっぱり最近は少しハードすぎたのではないだろうか。碌に休みもなしに、知らない土地を出歩いていたのだから。身体はもちろん精神が参ってしまってもおかしくないかもしれません。

本は既に20冊近く購入してしまって、どうやって日本に持ち帰るか今から思案しています。仮に首尾よく持ち帰れたところで、家に置き場所がないのも問題。ああ、悩みの種は尽きない。

再会

2011-08-06 04:07:05 | Weblog
今日はロシアのお宅にお客に行きました。「お客に行く」というのはロシアではよく使われる表現で、ロシア語の初心者はかなり早い時期にこの表現を覚えさせられます。さて、それで、ぼくは今日ロシア人のお宅へお客に行って、もてなされてきたのでした。

去年の夏にホームステイさせてもらったおばさんの家を、訪ねて行ったのです。こっちで知り合いになった日本人の学生さんと話していたら、どうやらぼくらは同じ家にホームステイしていたらしいということが分かり、では一緒に訪問しようじゃないか、という話になったのです。

なんとかアパートに潜り込むことに成功したぼくらは、そのおばさんの部屋のベルを押しました。そして感動の再会と相成ったわけです。・・・ところが、去年一緒に暮らしていたのというのに、どうもぼくのことはうろ覚えなんですよね。どうやら一年に何人か日本人がホームステイしているようで、個人の顔はいちいち覚えていないみたいです。

でも、おばさんはぼくらを色々な料理でもてなしてくれて、おなじみの「ビリー、ビリー」も連発して(「食べなさい」というような意味です)、懐かしかったです。おばさんは早口で相変わらず何言っているのか聞き取れなかったけれど、つまりこの一年でぼくはまるで成長していなかったけれど、でもこうして「再会」できるということは、去年の経験も無駄ではなかったのかな、と思えてきます。去年ホームステイしなければ今日こうしてぼくらが彼女の家を訪ねることは当然ありえなかったですから。

今日はとても楽しかったです。別れ際には抱き合ってキス、おばさんは涙を手で拭い・・・いやホントの話です。こういうのもいいですね。

ちなみに帰り際に蜂蜜売りのお兄さんとも再会。当然全く覚えていなかったけれど、それでもいい。うむ、すばらしい一日でした。

寒い

2011-08-02 23:36:31 | Weblog
日曜日は比較的過ごしやすくて、昨日などはだいぶ朝晩涼しくなってきたと思っていたら、今日は恐ろしく寒いです。午後4時頃の時点で気温12度とかって、まじかよ、と目を疑いました。12度って、日本では12月頃の気温ですよね。3日前までは35度くらいあったのに、この国はどうなっているんだ?天気予報によれば来週からはまた暑くなるそうですが、本当かなあ。だいたいネットの天気予報ってサイトによってばらばらで、しかもどれも当たらないんですよね。ちなみにいまお腹を壊していて、苦しい・・・過ごしやすい気温で落ち着いてくれればありがたいのですが。

きのうも本屋に行って、本を購入してきました。が、ほとんどは専門に関係ないやつ。それどころか、ぼくの勘違いで買った本も。う~む。まあしかし捨てるのももったいないし、持って帰るか。