Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』

2008-09-30 23:23:47 | 文学
最近めっきり冷えてきました。長袖を着、みそしるをすすり、風呂につかるようになりました。つい先日まではタオルケット一枚で寝てたのになあ…

さて、ジュンパ・ラヒリは10年前までほとんど完全に無名の存在だった。それが、最初の短編集『停電の夜に』であれよあれよという間にO・ヘンリー賞を受賞、ピュリツァー賞を受賞して、邦訳が新潮クレストブックスから出され、日本でも広く名前が知られるようになった。しかしそれでも、いまだにメジャーな存在だとは言えないし、ぼく自身、本の存在は知っていてもそれを意識することはなかったし、またジュンパ・ラヒリという一風変わった名前の持ち主のことなど、全く知らなかった(ぼくは彼女を男性作家だと思っていた)。

ところが最近、新潮クレストブックスに載った作品で短編集が出るという話を聞いて、その中にこのジュンパ・ラヒリの作品が含まれているようで、そのとき初めて彼女の名前を意識し出した。それからまもなく古書店で新潮文庫版の『停電の夜に』を目にし、思わず買ってしまったのだった。

ブックカバーの折り返し部分に載っている彼女の写真を見ると、恐ろしく美人である。両親がインド人で本人はアメリカ育ち、英語で小説を書いている。今年で41歳になるはずだが、この写真よりはいくぶん老けたことだろう。それでも、この整った顔立ちを見ると、本当に美しい女優が歳をとってもずっときれいなように、彼女もその容貌は衰えていないのではないか、と想像してしまう。

短編小説には、最後にどんでん返しのあるもの、世界の一瞬を切り取ったものなどがあるが、彼女の小説はどちらかといえば、前者に近いと言えるかもしれない。『停電の夜に』にはそういう類の小説ではないものの方がむしろ多いのだが、しかし「停電の夜に」と「病気の通訳」の印象が強くて、そういうふうに感じてしまう。

表題作「停電の夜に」は、互いにすれちがいを感じている若い夫婦が停電の夜々に秘密を打ち明けあい、再び距離を縮めてゆくという内容なのだが、最後に男が言ってはならないことを言ってしまう、という話。
「病気の通訳」は、インドのタクシードライバーが若い夫婦とその子供たちを乗せ、インドを案内するのだが、妻が一人タクシーに残って、思いがけない秘密をドライバーに告白する、という話。

いずれも後半にはっとするような展開が待っていて、小説の醍醐味を味わえる。しかも両方とも読み終わった後に色々と考えさせられる。

著者がインド系ということもあり、小説にはインド人が多く登場する。パキスタンとの国際問題を背景に置いている作品もあるが、人種の軋轢や言葉の壁、といった問題は表面化されない。 それよりも、夫婦関係の機微を扱った作品が圧倒的に多い。ジュンパ・ラヒリは特にその亀裂を描き出すが、短編集の最後に収録されている「三度目で最後の大陸」は、逆にその関係の幸せな成就を描き出していて、締め括りに相応しい内容になっている。
他には、「本物の門番」が印象的だった。

日常描写がきめ細かい作家だが、それなりに読ませる構成力も持っている。短編の魅力を堪能できる一冊である。

新海誠とコミュニケーション(番外編)

2008-09-29 21:47:52 | アニメーション
『新海誠を考える
~届かなかったメッセージ~(番外編)』

このあいだまで、「新海誠とコミュニケーション」と題して4回に渡り記事を書いてきましたが、改めて読み返してみると、考えがまとまっていなかったせいもあり、支離滅裂な箇所が見られたので、最後に整理しておきたいと思います。

「相手にメッセージを届ける」という切り口で新海作品を振り返ってみたわけですが、相手に伝えるものを、「言葉」と「気持ち」に分けて考えたのでした。こうすることで、言葉では伝えられなかったけれど、気持ちは伝わっている、というような複雑な場合に対処できるからです。すると、次のようになります。

『ほしのこえ』のノボルとミカコの場合
言葉:だんだん伝わらなくなる
気持ち:伝わっているか分からない

『雲のむこう、約束の場所』のヒロキとサユリの場合
言葉:伝わっていない
気持ち:伝わっているか分からない

『秒速5センチメートル』のタカキとアカリの場合(中学生)
言葉:伝わっていない
気持ち:伝わっている

『秒速』のタカキとカナエの場合
言葉:伝わっていない
気持ち:伝わっていると推測される(しかし拒絶)

『秒速』のタカキとアカリの場合(高校3年生以後)
言葉:伝わっていない
気持ち:伝わっていない

信濃毎日新聞のCMの娘と父親の場合
言葉:伝わっていない
気持ち:伝わっているか分からない

『猫の集会』
言葉:伝わっていない
気持ち:伝わっているときと伝わっていないときがある

こうして図式化すると明らかですが、言葉ではいずれの場合も確実には伝え切れていないことが分かります。しかもほとんどの場合、伝えようと努めているのですが、叶いません。しかし、伝えようと努力している姿、あるいはそれが叶わなかった瞬間を、新海作品ではクライマックスとして描いているように感じられます。つまり、相手にメッセージを届けるという行為を大切に描いているということです。新海作品が人の心を打つ理由の一つは、こういうところにもあるのかもしれません。

星の切符

2008-09-28 18:42:30 | 文学
アクショーノフ『星の切符』読了。
たぶん、アクショーノフと言ってもピンとこない人が多いのではないでしょうか。彼は1932年生まれのロシアの作家で、活躍した年代から、「60年代人」「第四の世代」などと呼ばれています。革命や戦争などを自分の体験としては知らない彼らの世代は「新しい人間」と希望とを描いています。

1961年に発表された『星の切符』は、これまでのソヴィエト文学に比して新しい文学として受け入れられたようです。それは形式・内容双方から言えることだろうと思います。この小説は、毀誉褒貶を激しく浴びたようで、そのことがこの小説の当時の新しさを物語っています。

いま、ぼくは意識して「新しい」という言葉を何度か用いましたが、しかし現代の日本人が読んでも、それほど新しいとは感じられないだろうと思われます。むしろ、古臭い小説だとさえ感じる人がいるでしょう。

たとえば、当時は新鮮に映ったという一人称と三人称との併用も、現代ではもう使い古されていますし、視点の移動は現代小説の要素の一つ、とさえ言えるかもしれません。

また、17歳の少年ディームカの精神的成長と彼の労働を描いたところなどは、非常にソ連らしい労働の賛美すら嗅ぎ取れます。仲間と放浪に出て恋愛や幾つかの労働を経験する筋立ては古典的だと言えるでしょう。

物語の中心は、ディームカとガールカとの恋の行方、そして漁業に従事するようになるディームカの姿を描くことです。ディームカとガールカは恋に芽生え、お互いへの愛を自覚しますが、突然現れた俳優にガールカは心を奪われてしまいます。やがてディームカたちは彼女と別れ、船の乗組員として働くことになります。ところが、案の定と言うべきか、ガールカは恋に破れてしまい…

このような主な筋立てと並行して、ディームカの兄であり、科学者の卵ヴィクトルの物語も展開されます。もともとはこのヴィクトルの視点で、小説は語り出されたのでした。

小説はディームカの将来を明確に示さないまま閉じられます。彼は「切符」を手にしますが、それがどこ行きなのかは知りません。青春の彷徨を印象付けられる最後です。

このような小説がスキャンダラスだと見られたことに、当時のロシア社会の旧弊さを思わずにはいられません。この時代の文学は、ソルジェニーツィンなどの反体制派のものや、「雪どけ」によって再発見されたものなど(ブルガーコフ)が注目を集めますが、若者の精神的自立を主として描いたこの小説が驚きをもって迎えられたことには、逆に驚いてしまいます。

アクショーノフは日本ではもはや忘れられつつある作家ですが、時代の証言として、その文学は残ってゆくのでしょう。

オールスター感謝祭

2008-09-28 01:54:26 | テレビ
また今年もこの季節になりました。
5時間の生放送。全部見る人はどれくらいいるのでしょう。暇な人は見るのかな。ぼくは見ました。

ぬるぬる相撲は今回はなくなり、ぬるぬるハンマー投げに。たぶん、前回、河本の肋骨にひびが入って、そのせいだろうと思われます。でもあれは、ぬるぬる相撲が悪いというよりは、素人と格闘家とを戦わせるのが無謀だった気もします。

そして恒例の赤坂ミニマラソン。今回はワンジルが優勝。ぼくはこの番組でこのマラソンが一番好きです。それにしても猫ひろしってなんであんなに速いんだ?

今日のブログはここまで。いままでで最短かも。
実は、さっきまで別の記事を書いていて、タイトルは「犯罪と文学」。別に道徳的に問題な内容を書いていたわけではないのですが、一般に公開しているブログですし、怪しげなものはよすことにしました。たぶん正解。で、それを書いていて、消去したので、もう時間も遅いし、新しい記事は少なめに。ああ、でももうすぐ2時かあ。今日は1時前に寝ようと思ったのにぃぃぃ。

自主制作アニメを見て思うこと

2008-09-27 00:41:34 | アニメーション
YouTubeなどに投稿されている自主制作アニメを見ると、やっぱりCGで作成されたものがほとんどだと思うのですが、手描きに比べて劣るな、というのが正直な感想。もっとも、素人の手描きを見れば、CGに劣るな、と思ってしまうかもしれませんが。要するに、プロではない人が作ったものは、やはりそれなりの出来にしかなっていないことが多い、ということです。「多い」と言ったのは、そうではない作品もあるからです。

例えば、今年の初めに話題になった犬尾さんの『さかなのうた』などは、自主制作、というレベルを超える出来だったと思います。動き、背景にある物語性、絵そのもの、そして歌は、プロのものと比肩しうる出来だったと思います。

色々な自主制作アニメを見ると、動きはすごくスピーディなんだけど絵が粗い、とか、絵は上手いんだけど動きが変(CGまるだしの動き)、とか、全体的に雰囲気はあるんだけどでもそれだけ、とか、そういう一長一短の作品がほとんどのような気がします。その点で、『さかなのうた』は作者が歌まで自らカバーする多才振りを見せていて、やはり頭一つも二つも抜けている、と見て間違いないでしょう。この作品も、見る限りではそんなに複雑な技術を使ったり登場人物が目を瞠るような動きをするものではないのですが、総合力が上ですね。

自主制作アニメといえば、毎年開かれているDoGAのCGアニメコンテストに出品されている作品は、やはりまあまあの出来のものが多いようです。ずば抜けたものは少ないかもしれませんが、しかしぼくらがYouTubeなどで普段目にできるような作品よりは、総合的に優れているものが多いです。でも、中には『さかなのうた』のようなアニメーションもあるわけで、もっと優れたものがこの広大なネットの海に潜在しているのかもしれません(押井守ふうに言ってみる)。

プロによるアニメーションにも、ひどいものがあります。
現在NHK「みんなのうた」でアンジェラ・アキの『手紙』がオンエアされていますが、今のバージョンではなく、以前のバージョンのアニメーションは、ひどかったです。二つのバージョンがあるということは、最近YouTubeで知ったのですが、両方とも原画(もとの絵)は高屋奈月、アニメーションは白組が担当しています。高屋奈月はあの『フルーツバスケット』の作者ですね。

で、最初のバージョンは、まず登場人物が少年か少女かよく分からないのですが、何より、中学生が描いたような稚拙さが残る平べったい絵に「まじで?」となります。まあでもへたうまというのがあるし、これはこれで雰囲気がなくもない、といい方向に考えようとしているところに、絵が動き出して、愕然とします。「これって素人が作ったのか?」(YouTubeで見ていたので、NHKの映像ではない可能性を考えた)。それでも、リアルな背景との合成や構図に素人らしからぬ技術や上手さも感じたので(と言ってもその合成は全然マッチしていない)、「どういうことだ?」と混乱しながら見ていると、その彼だか彼女だか分からない人物が走り出したところで、完全に度肝を抜かれた。「素人以下だ!」こんなお粗末な走りは、見たことがなかった。頭だけが映されているのですが、その頭を上下に動かすだけで、走っていることを表現しようとしている。そこには息遣いも躍動感も、体温すら感じられず、ただ絵が上下に動いている、という印象しか与えられませんでした。

新しいバージョンができたのは、この以前のバージョンがあまりにもひどいので、一部から指摘があったためではないか、などと邪推してしまいます。

で、新しいバージョンの方は、うってかわって、同じ人が元の絵を描いているとは思えない、しっかりとした絵で(少女漫画っぽい絵ですが)、アニメーションに関しては、ほとんど人物を動かしません。紙芝居だと思ってもあながち間違いではないでしょう。前回の欠点を完全に補正してしまった感があります。

どうしてアニメーションが入れ替わったのか、本当に気になりますね。

プロが作ってもこんな出来のものがあるし、一方で素人が作ってもすばらしいものがあるし、その境界は曖昧かもしれません。

聖なるものと〈永遠回帰〉

2008-09-25 16:42:49 | 文学
湯浅博雄『聖なるものと〈永遠回帰〉』(ちくま学芸文庫、2004)を読了。

この本で言われていることは、要するに以下のようなことだ。

例えば聖なるものの経験、宗教的なものの経験、強い愛の経験、そして文学・芸術の経験の深奥などにおいては、客観的に物事や出来事を捉え、認識することのできない、非知の部分がある。そういう異質な現実・真実性を、ヘーゲル以来の〈知の体系〉は異質なまま捕捉することができない。そういった異質な現実・真実性は、言葉で表現したり、思い出そうと思って想起しても、もとの生き生きとした状態で表象されることはない。それはひとえに反復的、永遠回帰的にのみ生きられる。そういった出来事は「私」の意識に真実に思い描かれることがない、「知」で捉えることができない部分を含むので、対象=客体として定まらず、起源の項にはなりえない。したがって、反復と言っても、その出来事という起源が現在に反復するのではない。そういう出来事は失われたものとしてしか発見されず、再び見出されたものとしてしか存在しない。そういう出来事は不意の想起によって再来するのだが、そういうふうに反復されて初めて「そういう出来事」として成り立つ。反復されるときは必ず変容しており(差異を伴っており)、そのつど新たに生きられる。

この500字程度の内容が、手を変え品を変え文庫で300ページ弱の中で語られる。繰り返しが非常に多いので、たぶん凝縮すれば150ページほどで語り直すことができるだろう。

この本は湯浅博雄の別の本、『反復論序説』とほとんど言っていることは同じなのだが、その内容を膨らませていることは確かだ。『反復論序説』ではネルヴァルの『シルヴィ』という小説をほとんど唯一の起点にして上記の内容を語るのだが、いま問題にしている本では、反復的にしか生きられないという出来事を宗教的な経験や強い愛の経験にまで拡大している。

要は、知では捉え切れない強い経験というものは、言葉で再現できるようなものではなく、それはある特殊な反復によってのみ生きられるのだ、ということだけが本書で言われていると見てもよい。その主張は一本筋が通っているのだが、しかしこの主張を苦もなく理解することは困難だろう。世間で通用している概念を打ち破らなければ、その主張は了解されないからだ。予期せぬまま不意に思い出されることでしかその出来事が生きられない、というのは、経験上、不思議な感触があるのは否めない。

ただし、ぼくたちはたぶんこんな経験をしたことがあるはずだ。なにかすばらしい本を読んだり、映画を観たりして、強烈な印象を受けたのだが、それを言葉にしようとして、その経験を必死に他者に伝えようとしても、そのときの生々しい衝撃を再現することができない。伝えようとすればするほどその出来事は遠ざかってゆく。そういう経験は誰しも持っているだろう。湯浅博雄は、そのことを、不意の想起という反復で説明したのだと思う。

ところで、このように、自分が強く経験した出来事を、懸命に言葉にしようとして腐心し、しかし言葉にしようとすればするほどその出来事から遠ざかる、という現象は、文学に特有の現象である、と湯浅氏は述べる。文学においては、作者の経験や思想などを忠実に言葉にするのが「よい文学」なのではない。そもそも、〈もの〉というもの(現実界)は、言葉の機能や作動範囲からはみだしてしまう。書き手は、言葉で出来事そのものを現前させようとして近づいてゆくが、離れ、また近づいてゆく、というこの接近運動の反復を行うしかない。その意味で、文学というもの(書くという行為)はそれ自体で常に既に反復である。読むという行為もまた、書くというプロセスを反復するのであるから、やはり反復である。しかも、新たな読み方を常に行い続けるならば、それは新たに生きることであり、二次的ではない、一次的な反復である。



というわけで、今回はかなり高度かつ難解な内容でしたが、湯浅博雄の本自体はけっこう分かりやすいので(外来語を親切に説明してくれたりする)、こういった内容に興味のある人は、図書館で借りるなりして読んでみてはいかがでしょうか。ちなみにこの人はフランス文学が専門です。

ハモネプと山崎まさよし

2008-09-24 00:54:32 | テレビ
ハモネプがやってましたね。
優勝したのは一橋の学生グループ「どんぐり」。
彼/彼女らはジブリソングだけを歌うという、ちょっと変わったグループ。
予選は「崖の上のポニョ」を見事にアレンジした歌で突破し、決勝は「もののけ姫」で勝負。「ポニョ」を歌った女性はかなり可愛い声をしていて、決勝も彼女が当然ボーカルを務めるのだろうと思っていたら、なんと別の女性が担当。その人はどちらかと言えば硬質な、非常に綺麗な声をしていました。個人的には「君をのせて」を期待していたんですが、やはり知名度で優るこの二曲を持ってきたか、とまあ納得。でも「もののけ姫」は上手い人が歌えばかなり聞き応えがあるということが分かりました。下手な人が歌えばもうギャグですが。
それにしても、「ポニョ」のアレンジは斬新で、こんなことができるのかと感心。

ただ、予選で惜しくも敗れた、あのヤンキーの歌が一番印象に残ったのでした。前回もよかったけどね。たしか前回はしーちゃんがものすごくて、彼のグループが優勝したことには文句はないのですが、今回はそういうずば抜けた人(グループ)がいないこともあり、あのヤンキーに勝たせてあげたかった。

さて、いま山崎まさよしのライブCDを聴いています。彼の声はとてもなめらかで、喉から噴水のように次々と溢れ出てくるようで、その一方でまるでダンスをしているかのようなリズム感が心地よいです。素早いステップを踏むかのような歌あり、ゆったりとしたリズムを刻む歌あり。ハモネプの出場者にはさすがに彼ほどの歌唱力の持ち主はいないようでしたね。

山崎まさよしの代表曲は「One more time,One more chance」ですが、この歌は映画『秒速5センチメートル』の主題歌として使われています。歌詞の内容は、好きだったけれど好きだとは言えなかった「君」のことを想い、その人の姿やその痕跡を捜してしまうどうしようもない気持ちを歌っています。その内容が見事に『秒速』にリンクしていて、まるでこの映画のために作られた歌ではないか、と錯覚してしまうほど。また、別の歌「振り向かない」では、別れた女性ともしすれちがっても「振り向かない」ことを決意する気持ちを歌っています。これもやはり『秒速』のラストとかぶります。

以前、NHKの「Songs」に山崎まさよしが出演したとき、南海キャンディーズのしずちゃんがコメントを寄せていて、「One more time,One more chance」で歌われている気持ちはすごくよく分かる、私も理想の人の姿をいつも捜してしまう、というようなことを言っていましたが、それはちょっと違うんじゃないか、と思ってしまいました。まあ、人がその曲に入れ込む理由を非難する権利は誰にもありませんが。

歌って、本当にいいものですね。

木曜のアニメ感想

2008-09-22 01:44:45 | アニメーション
木曜深夜のアニメの感想

1、西洋骨董洋菓子店

この日で最終回。なんか、BL的な雰囲気漂う作品でしたね。男のぼくが見てもいまいち惹かれないというか…。以前にドラマ化されたようですが、そのときの評判はどうだったんだろう。ゲイが前面に出ていたので、最初はちょっと怪しいアニメなんじゃないかと思って引いてたんですが、まあそれほどどぎつい描写もなく終わり、よかった。まずいよっていうシーンがないことはなかったんですが。

子供のときの誘拐とそのトラウマというシリアスな面と、アンティークでの楽しい日々とギャグ、魔性のゲイという登場人物の設定など、色々な要素が組み合わされていましたが、なんだかそれらがうまく合成されていないように感じられました。誘拐事件だけが浮いているような。最終回に向けてのクライマックスは、当初の予想通りその誘拐事件を中心に話が展開しましたが、全体の物語を浮わついたものにしないためだけの装置にしか見えませんでした。少し余韻が残る(?)結末でしたが、あれはどうなんでしょうね。

ま、総じて言えることは、女性向きかな。

2、To Loveる

矢吹健太郎は、「ブラックキャット」の頃から思っていたんだけど、ロリコンだよな。百歩譲ってロリコンじゃないとしても、可愛い女の子に色んな服を着せたり、あるいは彼女たちをただ描くことが大好きなんだと思う。別にロリコンが悪いと言っているのではなくて、客観的に見て、彼にはそういう傾向がある、ということです。それだけ。アニメとは関係ありませんが。

3、ひだまりスケッチ×365

今日挙げた3つのアニメの中で、抜群の出来、そしておもしろさ。特に今回の話はこれまでと比べても出色でした。まず作画が、え、どうしたの?ってくらいよく動かされていて、驚きました。教室の一番後ろの席(ゆのっちと宮ちゃん)から黒板の前の吉野家先生のところまでカメラがどどどどどっと迫っていくあたりの描写で、度肝を抜かれました。他にも、ほとんど無駄にヒロさんの髪の毛がゆらゆら動いていたり。まあ、CGでやったのかもしれないけど。

「ひだまり」は絵というものが一種の「記号」であることに大変自覚的で、例えばゆのっちが歩くところを描きたいとき、彼女の歩行をそのまま描写するのではなくて、彼女がいつも身に着けているバッテンの髪留めだけを動かします。真っ白い背景に、バッテンをテクテク動かすことで、ゆのっちが移動していることを表現するわけです。これは、日本のアニメが省力化システムを磨いてきたその延長線上の描写でもあって、非常に日本的だと言えるのですが、それ以上に、それを極めた演出だとさえ言えるでしょう。もっとも、単なる手抜きと思われないか、その境界線は微妙なんですが。

さて、絵が記号だという意識は他の場面にも反映されていて、星をまさに「星」という単語で表現してしまうのがすごいところです。ただ、その「星」を見つめる目がだんだん離れていくにしたがって、「星」という字は小さくなってゆき、最後には普通ぼくらが目にする星と同じになります。制作者はあまり深い意味をこめていないのかもしれませんが、こういう描写を見ると、絵と記号、または言語と記号、といったテーマに思いを巡らしてしまいますね。

絵を単に記号として描くことは、たぶん批判があるだろうと思います。例えば自動販売機が自動販売機だと分かればいい、という態度で絵が描かれていれば、その自動販売機は魅力のない絵になっている可能性が高いでしょう。動作にしたって、歩いているのが分かればいい、という態度で歩行を描写しても、そこに魅力は生まれないだろうと思います。そういう安易な漫画やアニメは見たくありませんが、そういう演出が徹底されていると、逆説的にその問題の根本にも目が行くようになって、考えさせられます。

「ひだまり」からかなり話が逸れてしまいました。話自体もおもしろかったです。七夕の日の話だったんですが、ヒロとサエが喧嘩しているところから始まります。仲直りするところがまたよくて、ヒロが目をうるうるさせているシーンは見ていてなんだか泣けてきました。それにしても夏目も正直な反応するなあ。

七夕のお願いは、ひだまり荘のみんなが元気でいられますようにってことで一致して、どこか最終回みたいな雰囲気。でも来週があるんですよね。来週は一月の話。楽しみだ。

ところで、自動販売機を情感豊かに描かせたら、新海誠の右に出る者はいない、と思ってます。コンビニにしてもぼくは同じことを言ってるんですが。

新海誠とコミュニケーション(4)

2008-09-21 00:27:44 | アニメーション
『新海誠を考える
~届かなかったメッセージ~(4)』

いよいよ最終回。今回は短編作品を扱います。

これまで「届かなかったメッセージ」を切り口に新海誠の作品を一つ一つ見てきましたが、相手に気持ちは通じている(可能性がある)ときも、言葉ではその気持ちを表現できていないという現象が浮かび上がってきました。したがって、メッセージが届いているのかいないのか、一概には言えそうもありません。言葉で伝えることを重視するのなら、それは不完全に終わっています。言葉を超えたコミュニケーションを重視するのなら、(まがりなりにも)成立している場合が見られます。新海誠が制作した信濃毎日新聞のテレビCM映像もまた、メッセージが届いているのかいないのか、不透明な例です。

このCFでは、女子高生が自転車をこぎながら、電車に乗ってどこかへ旅立つ父親を見送るシーンが流れます。コピーは「大切なことを、伝える。」となっていて、まさに新海誠の今までの作品のコピーと呼んでも差し支えありません。新海誠はこの映像に対し、「豊かな自然を舞台に、大切な相手に想いを伝えようとする人物の姿をアニメーション映像で組み立てました」と語っています。
女子高生は、言葉では想いを伝えることはできなかったかもしれませんが、その必死に自転車をこぎ何かを叫ぶ姿から、全身で父親にメッセージを送っていることが伝わってきます。父親はその姿を見て、何かしら感じ取ったに違いありません。

思うに、新海誠の作品では一貫して、このように懸命に想いを伝えようとする人物が描かれてきました。ノボルとミカコ、サユリ、タカキ、アカリ、カナエ…。しかしながら、彼彼女らの想いが相手に伝わったかどうかは、分からない場合が多いのです。『ほしのこえ』ではメッセージが相手に届くかどうかは絶望的でありながら希望も残していました。『雲のむこう~』でサユリは愛の言葉を失い、その気持ちが相手に届いたかどうか分かりません(届かなかったのではないか、と推測されます)。『秒速5センチメートル』だけは例外的に、言葉にせずともアカリとタカキの想いは成就されます。が、結局二人の恋は将来的に実らず、二人の間は引き裂かれてしまいます。カナエは必死になって自分の想いを相手に伝えようとしますが、叶いません。恐らくタカキは察してはいますが、その想いに応えることはありません。

このように見てゆくと、想いが伝わったか否か分からないか、あるいは伝わっても成就しなかった場合が多いように思われます。コミュニケーションが不首尾に終わったと考えてよいでしょう。

新海誠がNHKの「アニクリ15」用に制作した『猫の集会』はどうでしょうか。これについて、「「猫と人のディスコミュニケーション」、そして「それでも世界は回って行く」ということをテーマにした」という意味のことを新海誠は述べているようです(http://d.hatena.ne.jp/nami0101/20071209/p1)。猫と人との関係は、処女作『彼女と彼女の猫』でも描かれていて、新海誠にとってはおなじみのテーマです。

『猫の集会』では、まさに「猫と人のディスコミュニケーション」が主題になっていて、ある一家で飼われている猫とその一家とのディスコミュニケーションがコミカルなタッチで描かれます。しかし、その一方で猫は家族から愛されていて、たとえコミュニケーションが上手くいかなくても、仲良く暮らすことができています。ここでは、相手に懸命に想いを伝えようとする姿は描かれませんが、人間と上手くコミュニケーションを取れない(邪険に扱われているように感じる)はけ口に街を破壊しようとする猫の集団の姿が描かれていて、想いを伝えようとすることのマイナスの力が噴出していると考えてよいでしょう。想いを伝えられないから破壊する、という子供じみた短絡的な行動がコミカルに描写されているわけです。したがって、『猫の集会』でもやはり「相手にメッセージを伝える」ことが隠れたテーマになっていると考えられます。

新海作品では、相手に想いを伝えようとする姿が描かれている、と述べました。しかし、その結果が明らかにされない、もしくは不成功に終わることで、観客にはその行為が鮮烈に印象付けられ、涙を誘うことになります。そのような行為が新海誠作品の鍵となるのです。したがって、そのシーンはクライマックスとなることが多くなります。その点で、『秒速5センチメートル』は異色だと言えるでしょう。既に第一話「桜花抄」で、お互いの想いが伝わり、恋が成就するのですから。また、懸命に想いを伝えようとする姿も、映画の一点に集中するような形では描かれません。電車に閉じこめられている時間を長くすることで、持続的に想いを伝えようとする行為を描いています。ですから、『秒速』の映画的クライマックスは「コスモナウト」のカナエがタカキに想いを伝えようとする場面にある、と見るのが正しいかもしれません。

『秒速』では、高校以後のタカキのメッセージはアカリに届きませんが、それが『雲のむこう~』ほどの鋭い感動を呼ばないのは、彼のメッセージを届けようとする想いが、集中的に描かれていないせいだと思われます。「桜花抄」と「コスモナウト」で持続的・断片的にその想いは描かれますが、他の新海作品に比べ、描写が弱いのです。そのため全体的にまとまった作品になっていますが、飛び抜けた要素のない、しみじみとした出来になっているように見受けられます。

話が少し脇道にそれたようです。
「届かなかったメッセージ」と副題をつけて連載してきましたが、何も新海誠を真っ向から論じる、というのではなく、「届かなかったメッセージ」という切り口で新海誠の作品を振り返ってみよう、という程度の趣旨で始めたのでした。思いがけず話が膨らみ、ここまでで全体で8000字を超える分量になってしまいました。ああ、ぼくは新海誠の作品が本当に好きなんだな、と思った次第です。

                            完

新海誠とコミュニケーション(3)

2008-09-20 02:01:01 | アニメーション
『新海誠を考える
~届かなかったメッセージ~(3)』

思いがけず連載となってしまった新海誠論。今日は『秒速5センチメートル』。いくぜ!

「届かなかったメッセージ」というモチーフは、『秒速5センチメートル』で如実に現れます。その結果、「相手にメッセージを伝える」ことの意味も、強まっていると考えていいでしょう。

第一話「桜花抄」で、タカキはアカリに会いに栃木まで一人電車に乗って出かけていきます。その日、午後から雪が降り出し、タカキの乗る電車は大幅に遅延してしまいます。タカキはアカリに宛てた手紙をポケットに入れていましたが、それは風に飛ばされて紛失。アカリもまたタカキに宛てた手紙を持っていましたが、結局渡せず仕舞い。手紙はお互いの手には渡りません。彼らはその日まで文通をして過ごし、今日会うこともその手紙で確認し合っていたのですから、この約束の日までは、メッセージは問題なく相手の元に届いていました。では、この日初めてメッセージは届かなかったのでしょうか?恐らくそうではなく、この日もメッセージは届いていたと見るべきでしょう。確かに手紙は相手の手に渡りませんでしたが、お互いの気持ちはしっかりと相手の心に届いていたと考えられるからです。その気持ちの成就は、あの桜の木の下での初々しい接吻で瑞々しく表現されています。
新海作品では珍しく、少年と少女の恋が実る話でした。ただ、そのすぐ後に別離が待ち受けているのですが…

第二話「コスモナウト」に入る前に、高校3年生のタカキとアカリとの間には、それまで続いていた文通は途絶えてしまっていたことを確認しておきます。先取りになってしまいますが、第三話の映像で、次第に二人の間の手紙の行き来が間遠になっていく様子が分かります。

そのことを頭に入れた上で、「コスモナウト」。舞台はタカキの引越し先の種子島に移り、高校3年生になったタカキに恋するカナエの視点で物語は進みます。「相手にメッセージを伝える」ことをテーマに考えたとき、一番に思いつくのはやはりカナエのタカキへの想いでしょう。彼女は、サーフィンで波の上に立てたらタカキに告白すると決めていました。

とうとう波の上に立てた日、カナエはタカキと共に夕暮れの道を帰ります。コンビニに入り、タカキと同じコーヒー(牛乳?)を買うことで、今日こそは、という彼女の気持ちが見ている者に伝わってきます。カナエは先を歩くタカキに向かって、口を開きかけます。タカキは振り向きざまに冷たい目で、「どうしたの?」。彼女は何も言えなくなってしまいます。「あなたが好き」だと伝える言葉というメッセージはタカキには届きません。しかし、彼はカナエの気持ちを察していたと見るべきでしょう。そうすると、一見コミュニケーションは成立していないように見えても、「意思の表示とその拒絶」というマイナスのコミュニケーションは成立しているのです。言葉というメッセージのやり取りはなくても、目と目で理解してしまった、と言えると思います。ただ、カナエの言葉は結局相手には伝わらなかったわけで、「言葉」を重視するならば、ここにメッセージの座礁を読み取ってもいいでしょう。

その直後に打ち上げられたロケットを見るタカキの目付きから、カナエは彼が自分とは別のものを見ているのだということに気が付きます。想いが通じ合うことがないことを知った彼女はその夜、「遠野くんのことだけを想いながら、泣きながら」眠りにつきます。

第三話に入りたいところですが、その前に。「コスモナウト」にはもう一つ、今挙げた出来事よりももっと「届かなかったメッセージ」が如実に表現されている箇所があります。それは、タカキの打つメールです。彼は、自分の見た夢をひたすら携帯に打ち込みます。その夢は高校生になったアカリと並んでどこか遠い惑星に佇んでいる自分の姿を映しています。彼は携帯にその夢の様子を打ち込むと、誰に送信するでもなく、そのメールを消去します。しかし本当は、アカリに送りたかったはずなのです。夢を伝えるメールを、というのではなく、とにかく何かをアカリに伝え、また伝えられたかったはずなのです。いつの間にか音信が不通になってしまったアカリ。タカキの想いが依然としてアカリに向けられていることが分かります。カナエの想いを寄せ付けないタカキ、タカキはアカリに想いを伝えられません。
「コスモナウト」は、カナエとタカキとの関係だけを描いているように見せながら、その実アカリを含めた錯綜した3人の関係を描いています。そこでテーマになるのは、今まで見てきた「届かなかったメッセージ」です。

では、第三話「秒速5センチメートル」に話を移します。
会社員になったタカキは水野理紗という女性と交際していましたが、彼らは別れてしまいます。お互いの距離が縮まらないように彼女には感じられたのでした。
タカキが会社を辞めたある日、踏み切りで、一人の女性とすれちがいます。それはアカリだったのか?二人は結局一瞬すれちがっただけで、別々の方向へ歩いてゆきます。

ここには、「届かなかったメッセージ」というモチーフはないように見えます。しかし、この映画全体でタカキとアカリとの関係を描いていたのだとしたら、そのコミュニケーション不全の極まりがこの第三話で屹立しているのだとみなせます。アカリは別の男性と結婚するのです。恐らく最初のコミュニケーションの不成立は「桜花抄」で相手に手紙を渡せなったことに遡ります。それが映画全体の象徴として機能していると見てよいでしょう。最初に触れたように、確かにお互いの気持ちはしっかりと相手に届いていました。しかし、言葉にはできなかったのです。もし言葉にしていたら、何かが変わったのではないか?そう思わされます。このことは、『雲のむこう~』でも同様に言えることで、サユリの胸のうちにはヒロキへの想いが渦巻いているのだけれども、それを言葉にすることができなかったのです。たった一言、「あなたのことが好きです」と。

タカキとアカリの文通はいつの間にか途絶えてしまい、第三話で完全な決裂が明らかになります。「相手にメッセージを伝える」ことは不本意のうちに終わります。

さて、小説版『秒速5センチメートル』も覗いておくことにします。
大人になったアカリは過去を回想して、あの約束の日、立ち往生した電車に一人閉じ込められたタカキを想い、彼にメッセージを伝えたいと願います。

「大丈夫、あなたの恋人はずっと待っているから。
あなたがちゃんと会いに来てくれることを、その女の子はちゃんと知っているから。だからこわばった体から力を抜いて。どうか恋人との楽しい時間を想像してあげて。あなたたちはその後もう二度と会うことはないのだけれど、あの奇跡みたいな時間を、どうか大切なものとしていつまでも心の奥にとどめてあげて。」

もちろん、このメッセージがタカキの元に届くことはありません。しかも一方通行のメッセージです。その意味で、「コスモナウト」におけるタカキの誰にも送信されないメールと対応していると考えられます。ただ、アカリのこのメッセージは、タカキのものと比べ、過去を過去として大切にしまう、現在が影響されない閉じたものです。美しいものとして振り返ることのできる、完結した過去へのメッセージです。タカキのメッセージが「想像の現在」を反映したものだとしたら(夢の描写をメールにする)、それは現在に影響を与えているわけで、二人のメッセージが交叉することは永遠にないと言えるでしょう。

新海誠の課題が、ディスコミュニケーションの中にあっても肯定的なものを見出すことにあるのだとすれば、その指針は『秒速5センチメートル』の中でこそ示されていると言えると思います。映画の最後、タカキが顔を上げて前に歩を進めようとするところにそれは表れています。

ここまで読んで下さった方、どうもありがとうございます。今回はかなり長い文章でした(ここまでで3300字以上)。ここで連載は終わりとしてもいいのですが、最後にもう一回だけ、続けたいと思います。ちょこっとだけ短編作品を見ていく予定です。
ということで、また次回~

新海誠とコミュニケーション(2)

2008-09-18 23:23:31 | アニメーション
『新海誠を考える
~届かなかったメッセージ~(2)』

『ほしのこえ』に引き続き、『雲のむこう、約束の場所』における「メッセージを相手に伝えること」を考えてみたいと思います。

『雲』で相手に届けられようとしていたメッセージは、大きく二つあると考えられます(細かく言えば他にもあります)。
一つ目が、サユリが藤沢ヒロキと白川タクヤに宛てて書いた手紙です。中学3年生の夏を最後に、ヒロキとタクヤはサユリと離れ離れになってしまいます。サユリは東京の病院に入院させられて、やがて昏睡してしまいますが、そうなる前に、蝦夷製作所の岡部さんの元へ、ヒロキとタクヤに宛てた手紙を書いています。その中で、二人の前から突然姿を消してしまったことを謝っています。そしてその手紙は、高校3年生になったヒロキの読むところとなります。彼はいま東京にいて、「まるで深く冷たい水の中で、息を止めつづけているような、そんな毎日」を送っていました。

サユリの手紙はヒロキの元へ届きました。
彼はその手紙を読んで、サユリに会いに病院へ向かいます。そこでサユリとの時空を超えた再会を果たし、サユリの眠りを覚ますべく、故郷・青森へと急ぎます。

では、『雲』におけるもう一つの大きなメッセージとはなんでしょうか。
それも、やはりサユリからのメッセージです。
ヴェラシーラにヒロキと共に乗ったサユリは、夢の中で一人、こう願います。すばらしい台詞なので、以下、全文引用。

「あぁ、そうか……わたしがこれから何をなくすのか、わかった」
「ヒロキくんに伝えなきゃ。わたしたちの夢での心のつながりが、どんなに特別なものだったか。誰もいない世界で、わたしがどんなにヒロキくんを求めていて、ヒロキくんがどんなにわたしを求めていたか…」
「お願い……!わたしが今までどんなにヒロキくんのことを好きだったか。それだけを伝えることができれば、わたしは他には何もいりません」
「どうか一瞬だけでも、この気持ちを……!」

ヴェラシーラは白い塔の上を旋回し、朝の光が横から差し込みます。そのとき、サユリはついに目覚めます。

「藤沢くん……」
「わたし……何かあなたに言わなくちゃ。とても大切な……消えちゃった……」

ヴェラシーラはゆっくりと塔から遠ざかり、シーカーミサイルを発射。塔は消滅します。

サユリの想いのたけを込めた言葉は、藤沢ヒロキに届きませんでした。夢から覚めるのと同時に、それは忘れられてしまったからです。「何かをなくす予感があると、彼女はそう言った」。このフレーズから物語は始まりますが、サユリはヒロキに伝えるべき言葉をなくしてしまったのです。「どんなにヒロキくんのことを好きだったか」、それを伝えることは叶いません。メッセージは届かないのです。

映画冒頭、大人になったヒロキが一人で過去を懐かしむ場面があることから、ヒロキとサユリは別々の道を歩んだらしいことが想像されます(もちろん真相は分かりません)。ヒロキはサユリのことが好きで、サユリもヒロキのことが好きだったのなら、よい関係を結べたのではないか、と思ってしまいますが、サユリはその「ヒロキのことが好き」だという感情を忘れてしまったので、ヒロキに対して何かもやもやとした惹かれるものは感じながらも、それが何なのか分からないまま時間が過ぎてしまったと見るのが妥当ではないでしょうか。

とにかく大事なのは、サユリのメッセージは相手に伝わらなかった、ということです。それでも二人の前には新しい世界が開けていて、もうそれまでのような、縛られ閉じられた世界からは解放されます。新しい一歩を踏み出せるわけです。しかし、メッセージは伝わらなかった。恐らく伝わらなかったからこそ、二人には新鮮な未来が開けたのでしょう。伝わっていたら、再び二人だけの閉じた世界に閉じこもってしまいかねません。だから、ここではメッセージが伝わらなかったことは、必ずしもマイナスとして捉えられてはいないと思われます。新海誠は、「お互いがすれ違って行く中にも教訓を見出したいし、ディスコミュニケーションの中からでもポジティブな心象を具現化したい」という意味のことをデジタルハリウッド大学での特別授業で述べたそうですが(http://d.hatena.ne.jp/nami0101/20071209/p1)、『雲』におけるこのサユリとヒロキの描写は、それの裏づけと言えるかもしれません。
でも、観客としては、やっぱり切ないですね。

「届かないメッセージ」は、次回作『秒速5センチメートル』で更に顕著になります。
ということで、また次回~

新海誠とコミュニケーション(1)

2008-09-18 01:26:13 | アニメーション
『新海誠を考える
~届かなかったメッセージ~(1)』

このあいだNHK「みんなのうた」の「手紙」を見ていて(聞いていて)、ふと小説版『秒速5センチメートル』の一節を思い出しましたが、そういえば、そもそも「メッセージを誰かに伝える」という行為を新海誠は大切に扱ってきたなあと思うに至りました。過去の作品をちょっと振り返ってみます。

『ほしのこえ』は地球と宇宙に引き裂かれた少年少女の「恋」を描いた映画です。「恋」と括弧を付けたのは、彼らの間に芽生えた感情は、最初はまだ恋以前のものだったと考えられるからです。一緒にいるときはお互いへの気持ちに気付かなかったけれど、離れ離れになってみて始めて、相手がいかに自分にとって大事な存在だったか分かるようになり、そしてその思いは思慕へと変わってゆくのです。

地上と宇宙に引き裂かれたノボルとミカコは携帯でメールのやり取りをしていましたが、ミカコが遠くへ行くにつれて次第にメールの届く時間が遅くなってゆきます。ミカコからの1年ぶりのメールを開いたノボルは、お互いのメールが届くまでに次からは8年以上かかることを知らされます。「光の速さで8年かかる距離なんて、永遠っていうのと何も変わらない」。ノボルは一人で大人になることを決意します。

8年後、ミカコからのメールがノボルに届きます。「25歳になったノボルくん、こんにちは。わたしは16歳のミカコだよ」。
けれども、そのメールはノイズだらけであとは読めません。8年かかってメールはノボルに届きましたが、彼女の思いはノボルには伝えられません。
ミカコは宇宙で戦いながら、声を絞り出します、「私はただ、ノボル君に会いたいだけなのに。好きって、言いたいだけなのに…!」
しかしノボルとミカコは思います。「でも想いが、時間や距離を超えることだってあるかもしれない」。

「ぼくは(私は)ここにいるよ」という想いは、果たして二人に届いたのでしょうか?

『ほしのこえ』は、携帯のメールというツールを使い、「メッセージを相手に伝える」ということを中心に話が展開します。そこでは、はじめ頻繁にやり取りされていたメールが段々役に立たなくなります。しかし、いちおう形だけはメールは相手の元に届きます。そして、彼らの思いはシンクロして、同じことを相手に伝えることを望むようになります。メッセージが誰にでも分かる形で相手に伝わることはありませんが、けれどもどうにかして伝わる可能性を残しながら物語は閉じられます。相手に届けと必死に願うそのメッセージは本当に相手に届くのか。それははっきりとは分かりません。しかし、二人の間のコミュニケーション(双方向の会話)は、かろうじて生きていると見てよいでしょう。

では、『雲のむこう、約束の場所』になると、「メッセージを相手に伝える」ことは、どのように描かれるのでしょうか。思いは相手に届くのか、届かないのか、考えてみたいと思います。

ということで、また次回~

カサブランカ

2008-09-16 00:16:41 | 映画
ハンフリー・ボガート主演の『カサブランカ』。
余りにも有名な作品ですが、恥ずかしながらこれまで見たことがなく、今回が初見でした。で、感想ですが、おもしろい。

初めはカサブランカの情勢がいまいちよくつかめず、登場人物の政治的な立場とか、あいまいなまま見ていたのですが、次第に分かるようになってきて、それにつれて物語の行方にも興味がもてるようになってきました。

あらすじ

ドイツの通行許可証が盗まれ、その持ち主が殺害されたところから映画は始まります。ひょんなことから町のバーの支配人リックの元にその通行許可証が舞い込みます。彼は店にその許可証を隠しますが、そこへ許可証を購入してアメリカへ逃れようとする人物が現れます。それは地下組織のリーダー・ラズロとその妻で、もともと通行許可証は彼らの手の元に届く手はずになっていました。しかし、その売人は警察に逮捕され、その直前に許可証はリックの手に渡ったのでした。バーでリックはラズロ夫妻と出会いますが、どうやらラズロの妻とリックは顔見知りのよう。かつてパリで二人は逢瀬を楽しんでいたのでした…

ここまでが導入部です。果たして通行許可証は誰の手に渡るのか、ラズロは警察から逃げ切れるのか、そしてリックとかつての恋人との愛の行方やいかに…

このような物語が、フランス領のカサブランカで、次第に台頭してくるドイツとフランスとの対立の中、展開されます。

二人の男の間で揺れ動く美女、愛する女性のためを第一に考えようとする二人の男、過去と現在の恋…複雑な大人の恋がかっこよく描かれます。

この映画には名台詞が多いですが、中でもお気に入りは、これ。
「おれたちには思い出のパリがある」
ここでぐぐぐっときてしまいました。この台詞に酔わない人はいないんじゃないかってくらい、胸に響きました。

ラストもかっこよくて、ステキ。とにかく、かっこいい映画なんです。銃撃戦でハラハラしたり、冒険にドキドキする映画もいいけど、物腰の柔らかな大人がスマートに愛や友情に身を捧げるのもいい。

最後に、この名台詞を付け加えておきましょう。
「忘れられないキスをして」
だっはーーー!降参です。

チェコの魔術的芸術

2008-09-15 00:53:38 | アニメーション
きのう古本屋で『夜想35 チェコの魔術的芸術』という本を購入しました(1050円也)。もうお金がなくて、本当は何も買わないつもりだったのですが、どうしても欲しくて、えいっと買ってしまいました。古本屋に入ったのが運のつきでしょうか…

この本は、チェコの芸術を紹介した本です。アニメーションや人形劇、音楽、子どもの本、更にはシュルレアリスムについて、幅広く記事が書かれています。中でも赤塚若樹さんが大活躍で、ジャンルの異なる芸術について、多くの文章を書いています。チェコの芸術を詳しく紹介できるほどの人が日本にはまだ少ないことの表れでしょう。

ぼくはアニメーションの記事目当てにこの本を買いました。
イジー・バルタやポヤール『ナイトエンジェル』について言及があるようだったので、うちに帰ってページを繰ってみたのですが、それについてはわずかな分量しかありませんでした。イジー・バルタの包括的な紹介が読めると思って期待していたのですが…残念です。また、『ナイトエンジェル』はさらっと触れられている程度で、もっと突っ込んだ表現が見られるのではないかとこれまたやはり期待していたので、それがなかったことは残念でした。ただ、ポヤールについて何ページも割かれて書かれていたので、それはうれしかったです。他に思いがけない喜びとして、「カレル・ゼマンとトリック・フィルムの前衛たち」という項目があったのはうれしかったです。

各記事には、トルンカやイラーネクなどの名前も散見されて、こうして彼らをもっと知ることができるのは、ありがたいことです。

また、チェコのシュルレアリスムを中心に、チェコの絵画芸術や言語芸術が紹介されていたのは、得した気分になりました。シュルレアリストであるネズヴァルに関しては名前のみ知っていましたが、ここに彼の詩が翻訳されていたので、ようやくその作品に触れることができ、やっとか、という気持ちと共に達成感に似たものがありました。また、イジー・コラーシュという世界的に有名な詩人・コラージュ作家のことも紹介されており、僕はこの人のことを知らなかったので、チェコ芸術の奥深さにしみじみと感じ入りました(単にぼくが無知なだけですが)。

チェコの芸術をぼくはほとんど何も知りませんが、この本をきっかけに、もうちょっと勉強しようかなと思った次第です。

ジブリ・レイアウト展

2008-09-14 00:14:13 | お出かけ
きのうのつづき。

高畑勲の講演が終わってから展示を見たので、会場に入ったときにはもう16時を回っていた。あと二時間しかないから急ぎたいのだが、客が大勢いて(たぶん講演会に出席していた人たち)、なかなか前に進めない。
次第に人の数が少なくなっていったが、「もののけ」のコーナーに着いた頃には17時15分頃になっていた。このとき係員から警告が入る。「まだ展示は続いています。地下にも展示はあります。18時閉館なので、時間を計算してご覧下さい」。こんな感じの。
それで、慌てて「もののけ」の展示コーナーを後にする。もう時間がないことは分かっていたけど、まだだいぶ展示が残っているらしい。

ところで、レイアウトというのは、このようにさっさと見て分かるのだろうか。もともとレイアウトというのはアニメーション制作の工程で描かれる設計図で、絵のほかにもレイアウトマンによって色々な指示が書き込まれている。レイアウトについてはこのところ多くの専門家がそれがどんなものかを分かりやすく語っており、いま改めてぼくが解説するまでもないのだが(その資格もない)、要するに、レイアウトとはキャラクターと背景が描かれたものだ。それらが、実際に映画で映される構図で描かれているところがポイント。これを基に、ちゃんとした原画と背景が描かれる。また、カメラワークやキャラクターの動きが指示されている場合がある。代表的なのは雲の動きで、ひとコマ何ミリ、と細かな指示がある。ちなみに、このミリ数がしばしば0,25とかいう半端な数なのは、アナログ撮影台の目盛りの関係から。それと、レイアウトにはオブジェをセルにするか背景画にするかの指示も書き込まれている。つまり、レイアウト通りに作業をしていれば、作品が間違った方向に進むことはないというわけ。もちろん、レイアウトの指示が間違っていたら話は別だけど。

で、話は戻る。そのような詳細な設計図を、ぱっぱと見て、ちゃんと把握できるのだろうか。むろん否、だ。ぼんやりと「ああこの絵上手いなあ」とか「ちょっと雑だなあ」とかしか感じ取れない。あるいは、「鉛筆描きって雰囲気があるよね」とか、そんな程度だ。じゃあ、じっくりレイアウトを見れば、その作品の魅力が分かるかといえば、それも心もとない。結局のところ、素人にはレイアウトというのは、「鉛筆でさささっと描かれた雰囲気のある絵」、くらいにしか思えないのだ。でも、たぶんそれでいいと思う。レイアウト(に書き込まれた指示)から、実際の映像をばっちりイメージして、その動きは0,75ミリの方が迫力出るな、とか思うことは、たぶん想定されてない。ここのパースは狂ってるけど、人間の目にはこういう風に映るし、そっちの方が迫力が出る、なんてことが分かることも、たぶん想定されてない。だから、ジブリの舞台裏を見る、程度の気持ちで見るのがイイんじゃないだろうか。

もっとも、レイアウトを見て色々なことが分かれば、それに越したことはない。でも、限られた時間で人の波に押されながら自分の好きにならない時間でレイアウトを見ても、多くのことは考えられないだろう。鉛筆描きのタッチを楽しめばそれでいいのだ。

展示の尽きるところに、ジブリコーナーが設けられていて、ジブリグッズが置いてあった。そこで目に飛び込んできたトトロのぬいぐるみ。か、かわいい!お値段も1050円と、お手頃。普段はこういうのは絶対に買わないんだが、あまりのかわいさに購入。いま、頭上の棚に座っています。
レイアウト展の図録も購入。2900円。このボリュームにしては安い。

レイアウトで展示会を開けてしまえるのは、たぶんジブリとディズニーくらいのものだろう。来年は、何をやるのかな。