Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

文学のことなど

2010-02-27 22:10:15 | 文学
きのうはロシア料理を食べに行きました。高田馬場。赤を基調としながらも落ち着いた雰囲気のお店で、料理もとってもおいしい。お値段もそこそこといったところで、また是非行きたいですね。

最近買った本について。
タルホの『天体嗜好症』とユアグローの『ケータイ・ストーリーズ』と西田幾多郎『善の研究』と雑誌『国文学』など。他にも100円で買ったのありますけどね、主だったものはこれらです。
タルホを買ったのは、タルホが好きだから。ユアグローは、やっぱり超短編の書き手だということで。西田哲学には最近少し関心があって、「私」の問題を扱っているらしい、ということで、とりあえず代表作を買ってみました。ところがこれ、岩波文庫なんですけど、旧字体で。読めなくはないと思いますけど、ちょっとなあ。今度新しいのに取り替えよう。『国文学』は、明治から昭和までの文学史上の出来事を編年体で記述してあって、1920年代30年代の日本の動きが分かりそうだな、と思ったから買いました。

文学上の「私」の消去というものに関心が向きつつあります。20世紀初頭、広くヨーロッパでは理性的な主体としての「私」の存在に疑問が突き付けられ、「私」は「大衆」へと分散してゆきます。「大衆」の出現はこの頃のことで、とりわけロシアでは、ゴーリキーは特定の個人ではない、集団を主人公とした物語を書くことになります。一人の主人公の消滅、ということは既にチェーホフが試みていたことではありましたが、労働者という大衆の出現はゴーリキーによって文学上に定着させられたと言えそうです(たぶん)。

その一方で、未来派やダダイストたちは理性的なものを破壊、したがって確固とした個性としての「私」を破壊してゆきます。シュルレアリストたちは自動記述の試みによって「私」を消去し、漠とした無意識の領域をクローズアップしてゆきます。何らかの独自性や心理を持った「私」はテクストの陰に隠れ、作者の個性は無化されてゆきます。

この意味で、ロシア未来派に見られる作者の超人的で宇宙的な考え方はむしろ個性の増大を思わせるものがあって興味深い。自己の能力の過信は、「私」意識とどのように結び付いているのでしょうか。また、スターリン時代における個人と集団との関わり方、など調べなければならないことは多そうです。それにしても、色々と調査してゆくと、ロシアにおいては、20世紀的なものの起点にはいつもチェーホフがいます。無意味、一人の主人公の消去、不条理、コミュニケーション不全・・・。いつかは真剣に取り組まねばならない相手なのかもしれません。

ところで、突然ですが、明日からちっとばかし旅行に出かけます。すぐ帰ります。

快調

2010-02-26 00:35:20 | Weblog
今日は快調至極でした。
こんなに快調だったのは、去年の夏以来です。
何もしていないのに、なんだか心が弾むような感じで、うきうきしてくる。
家にいるときはちょっと胸が重苦しい感じだったのが、外に出て電車に乗っていたら、急に気分が爽快になってきて、本当に何もしていないのにうれしくなってきたのでした。

今日は普段行かないところに行ったので、そういうことが作用していたのかもしれません。前に快調だった日というのが、やはり遠出した日、多摩へと出かけた日でした。いやあ、毎日こんな気分が続くんだったら、人生は楽しくなるだろうに。

ただ、こういう気分の日って、あんまり読書はしたくないんですよねえ。もったいない気がしてしまって。まあ今日は出かけたからどうせできなかったんですが、家にいたら、かえって苦悩していたかも。苦悩って。大袈裟か。

ああそうだ、明日は雨が降る前に本を図書館に返しに行かないとなあ。

国語の問題を読んで思った

2010-02-24 23:46:52 | Weblog
都立の国語の試験問題を読んでいて、う~む、と首を傾げてしまいました。
それはいわゆる「論説文」とか言われるやつで、いかにして難解な本を読むか、みたいなタイトルだったと思います。

早朝にざっと読んだだけなので記憶が曖昧ですけれど、読書ってのは受動的な行為じゃないんだ、未来に向かう行為、未来を生きる知恵を与えてくれるんだ~みたいな内容だったような気がします。細かいところは違ってたと思いますが、方向性としてはこんな感じです。

この文章の著者は、過去の人々の思索をもう一度追体験することでその知恵を我が物にすることができる、みたいなことを言っていて、読書によって、構造主義も資本主義も、再び考え出す必要はなくて、その思考の過程とその達成を知ることができる、と主張しているようでした。それはそうなんですが、書を読むことによって未来を生きるために過去の人々の思索を学ぶ必要があるということを、この著者はちょっと簡単に考えすぎてるんじゃないだろうか・・・。

構造主義も、脱構築も、ポストコロニアリズムも、ぼくだって一応は勉強しましたよ。しかし、加えて資本主義、共産主義、言語学、哲学、更には相対性理論、量子力学、地質学、宇宙工学などなど、勉強すべきことは山とあります。これらを全部学べ、と言うのでしょうか。なまじっか構造主義だの資本主義だのを持ち出しているので、おいおい、と思ってしまうのでした。

だいたい、生きる糧となる読書、という考え方を押し付けているような気がして、ぼくは抵抗を感じました。中学生は反発しないのだろうか。耽美を説く文章がテスト問題でも困りものかもしれませんが、これはこれでおかしい気がします。

都立の問題はどういう人が作成しているのか知りませんが、もっとこう、読書の楽しさを説く話とか、そういうのを選べなかったんでしょうかね。これでは、説教臭くって、それに主張にも土台無理があって、閉口。中学生にはもっとステキな話を読んでもらいたかったなあ。

そういえば、「リョケン」を漢字で書かせる問題がありましたが、これって、海外旅行が当たり前になった今の時代を反映しているのでしょうか。でも、そんなことのできない生徒にとっは、全く馴染みのない単語だと思うので、「旅券」と簡単な字ではありますが、意外と難問になったかも。あてずっぽうで解く、みたいなことに。

テッフィ『魔女物語』

2010-02-24 00:03:57 | 文学
咳がまだ出ます。

感想を書くのが随分と遅れてしまいました。いつもは読んだらすぐ書くんですけどね。もうこの本はこのまま書かないで図書館に返してしまうだろうか、と思ったりもしましたが、一応ちょっとだけ感想を残しておこうと思います。

テッフィは20世紀前半のロシアの女性作家。本名はロフヴィーツカヤと言うらしい。どうしてテッフィという奇妙な筆名にしたのか、その由来が知りたいところですが、解説には書かれていませんでした。まあそれはおいといて。

『魔女物語』は1930年代に亡命先のパリで書かれた連作短編集。ロシアの土俗的な妖怪を題材に、当時のロシアを舞台とした物語を紡いでいます。ルサールカとか、ドモヴォイとか、ロシア文学に親しんでいる人ならばきっと馴染みであろう妖怪がたくさん登場します。登場?いや、ここが実はこの短編集のミソでして、これらの妖怪たち(本書では妖怪として紹介されているので妖怪とみなしておきます)は、はっきりとした形では姿を見せません。どうやら、現実世界における怪しげな出来事をこれらの妖怪のせいにする物語、と言えそうなのです。とはいえ、その信憑性は作品ごとにかなり振れ幅があって、どう考えてもこれは妖しの魔的な力の仕業だ、という話から、どう考えてもこれには現実的な裏付けがあるよね、という話まで、様々なのです。

トドロフが幻想文学の定義として「ためらい」という概念を持ち出したことは、文学研究者や幻想文学ファンの間ではかなりよく知られた事実だと思いますが、その定義を適用するならば、「ザ・幻想文学」という作品が揃っています。非現実と現実との間のためらいの中に読者や登場人物たちは取り残されるので。

ほとんどの作品はおもしろいですが、中でも「妖犬」という小説がとても楽しく読めました。一番長い物語なのですが、というかその分、作品世界に入り込むことができて、よかった。またロシアのデカダンスといった状況も描写されていて、興味深かったです。

で、実は忘れてはならないのが、各作品の冒頭にある各妖怪の紹介文。もともと原書に付されていたのか、それとも翻訳オリジナルなのかは分かりませんが、「犬や猫は魔女を見抜くことができるといわれる」とかいう文を読んでいると、なんだか少年にかえったように興奮してくる。ゲーム攻略本の敵キャラのデータを読んでいるみたいな。

テッフィはまだまだ日本ではあまり知られていない作家だと思いますが、この短編集はお薦めです。ロシアの土俗的な精神も、ロシアの20世紀前半の状況も知ることができて、加えて物語の醍醐味も味わえる、とってもありがたい本です。

『ロシア異界幻想』でも読んでみたくなったなあ。

最近買った本

2010-02-21 00:25:08 | 文学
博士課程の試験にとりあえず合格しました。でも、大変なのはこれからです。色々と・・・。

さて、最近買った本を三冊。

川端香男里『薔薇と十字架』
川崎浹『ソ連の地下文学』
コワコフスキ『悪魔との対話』

最初の二冊がロシア文学関係、最後のはポーランド文学です。せっかく試験に合格したことだし、ロシア文学関係の本でも購入しておくか、ということで入手しました。近いうちに読みたいと思っています。専門とはあまり関係ないところのような気もしますが、全般的なロシア文学史の知識もだいぶ色褪せてきたのではないかと危惧しているものですから、今のうちに知識の土台を固めてしまおう、という作戦です。

なんか、パソコンがさっきから唸りを上げています。どうしたんだろう?

それはさておき、明日からはテフィの『魔女物語』と、塚原史の『言葉のアヴァンギャルド』という本を読んでいく心算です。並行してロシア語の本も読んでいるのですが、時間配分が悩ましい。ぼくは並行して本を読むことができないたちなので、日本語の本は、どちらかを先に読み始め、読み終えることになるでしょう。それから次はロシアのSFを、そして大石雅彦の本を読む計画です。

それにしても、パソコンが唸っている。怖いなあ。

ナウシカともののけ

2010-02-20 01:07:25 | アニメーション
風邪のことですが、咳が少し残っています。あとはだいたい回復しています。とりあえず休養に努めたいと思います。

さてナウシカですが、もののけが公開された当時、再び注目を集めたふしがあって、というのも、もののけはナウシカの焼き直しではないか、という評価が一部であったからです。でもぼくはそうは思っていません。

もののけとナウシカのOPは少し似ていて、まず文字で背景を説明するところや、タタリ神/王蟲が突然飛び出してくるところなど、類似点があります。しかしながら、とりわけ後者の類似点は別の視点から見るとたちまち対立点になりうる個所でもあります。

ナウシカでは、王蟲は平和裏に森に帰されますが、もののけではアシタカはタタリをもらいます。村を守るために戦ったせいで。自分に何ら落ち度がないのにもかかわらず、過酷な運命を背負わされたわけです。このようなアシタカの宿命を不条理だとする論調がありましたが、もののけは人間と自然との不条理な関係を描いた作品で、終わり方もすっきりしませんでした。闘争を繰り返しながらも、しかし共存を目指して生きてゆかねばならない、という両者の関係は、すっきりと解決するものではなく、人間も自然も不条理なことを受け入れなければ生きてゆけないのでした。

それに対してナウシカでは、王蟲はあっさりと森へ帰されます。ナウシカはユパを救い、そして映画の最後では谷を救い、王蟲の子を救います。人間と自然との対立は解消されたように見えてしまいます。ここにこの映画の完成度があったし、また逆に問題点があったわけです。解決されえない問題を強引に解決させてしまった。ナウシカの復活はその象徴的な出来事でしょう。漫画版ではそのようにすんなりと事は運びません。漫画を描き終えた宮崎駿にとって、もののけはナウシカの焼き直しにはなりえるはずがなかった。宮崎駿はナウシカから随分と歩を進めてきたのであって、もののけは確かにそれまでの集大成的な見方ができるにせよ、一つの到達点であり、また出発点でもありました。

それでも、もののけのテーマの萌芽が既にナウシカに見られるという指摘はその通りで、ただしそれは宮崎駿の終生のテーマと言えるのかもしれません。が、自然と人間との対立と調和という問題は、もののけ以降は表面化しませんから、もののけという作品で宮崎駿は一つの答えを提出していたのかもしれません。だとすれば、ナウシカではやはり答えを出せなかったわけです。映画の中では解決させてしまった問題は、宮崎駿の中では依然として燻ぶり続けていたことになります。

けれどもナウシカという映画のおもしろさ、美しさ、深さは否定することができません。ぼくにとっては「それでも好きな映画」なのです。

アニメorアニメーションの話

2010-02-18 02:35:54 | アニメーション
今日はなぜだかサマーウォーズの感想を何人かから聞かれた。
こういうビッグなものは別にぼくに聞く必要はないのにな、と最後の方は思いつつ、おもしろかったよと答えておいたけれど、本当は、ブロンジットとかパテルの話がしたかった。ビッグなものだったら宮崎駿でもいい。新海誠でもいいけれど(ビッグじゃない?)、彼らのことが話題にのぼったら、本当にどこまで話したらよいのか分からなくなるので、いつも入口のところでセーブする。要するに何も話さない。

宮崎駿はアニメーションを小説なんかよりも低くみなしているけれども、それはどういうアニメーションについて言っているのか、ノルシュテインなどもそれに入るのか、などという議論も興味深いけれども、たぶん前提となる知識を共有できる相手が少ないので、難しい。アニメーション鑑賞を特別な体験にしてほしい、という宮崎駿の主張は、あくまで子どもに向けられたもので(だと思う)、大人が見るものではないと今でも考えているのだろうか、とか・・・しかしこれは議論というよりは本人に直接聞いてみたいことではある。でももし議論するとしたら、宮崎駿の思想全般とか、実作品と理想との食い違いとか、『紅の豚』の位置づけとか、アニメーションのジャンルとか、そういう事柄の知識やそれへの関心が前提になってくるので、やはり話せる相手はかなり限られてくるのではないか。

いま関心のあるのは、目の見えない人間の心象風景を描くアニメーション。このあいだのメディア芸術祭で、このテーマは改めておもしろいと思った。あれはまだ未熟な出来だったけれども、可視メディアで不可視の世界を描くという試みはとても興味深い。世界をいかに見るのか、ということにもつながりうるテーマだと思う。
また、ケントリッジの魅力についても詳しい人に聞いてみたい。ゴーゴリやズヴェーヴォという不条理の系譜にどのように属しているのか。
いまふと思ったんだけれども、アニメーションは、一人でせっせと観ている時期はそろそろ終わったんじゃないだろうか。疑問もたまってきたし、早く師匠を見つけて、教えを乞いたい。ハルヒからジブリ、パテル、クエイまで、幅広く観ている人、いませんか。できれば年上で。・・・とりあえず評論や論文を読むか・・・買うのか?

バトゥーム

2010-02-16 00:11:20 | 文学
ブルガーコフ「バトゥーム」については色々と書くことができるでしょうが、思ったことを。

いきなり本題から外れますが、この本の解説にて、ブルガーコフが足を引きずっている人物を多く書いていることは、彼のフェティシズムと結び付けられていますが、これは面白い指摘であるものの、判断を下すのは難しいですね。『巨匠とマルガリータ』のヴォランドが足を引きずっているのは、彼が悪魔である証拠に他ならないからですし(悪魔は天から放逐されたときに足をくじいたと言われている)、「アレクサンドル・プーシキン」のドルゴルーコフの場合は、彼が反プーシキン派であったことからして、やはり悪魔になぞらえられていると捉えるのが正当のような気がします。一方「バトゥーム」のポルフィーリイはスターリンの子分でありますが、彼が悪魔的な人間として描かれていたかと言えば、そうでもないように思えるので、どうなのでしょうか。「バトゥーム」の主人公はスターリンですが、この戯曲ではスターリンは「悪い奴」としては描写されておらず、意志の強固な英雄的な存在として、少なくとも表面的には描かれているように思えます。ただ、シュルツのように足フェチからその文学性が浮かび上がる、ということがあるかもしれないので、ブルガーコフの場合もひょっとするとそういう嗜好があって、実はそれが文学の基底を流れている、なんてことがありえるかも・・・しれない?こんなことを言うと顰蹙ものかもしれませんが、フェティシズムの話はぼくの発案ではないので・・・と責任逃れ。

ブルガーコフとスターリンとの半ばねじれた関係は、亀山郁夫『磔のロシア』に詳しいですが、ブルガーコフは己の言論を封殺されながらも、しかしその張本人のスターリンからの擁護も受けていた、という奇妙な境遇にありました。したがって、スターリンを描いた「バトゥーム」は、この二人の関係を探るためのよい材料となるはずです。当時の作家たちはいわゆる「二枚舌」を用いており、つまり表面的には権力者や体制を賛美しながらも、その一方でその作品の深部にそれへの批判を潜り込ませておく、という強かな戦略を立てていました。それとも、やむを得ない戦略、と言い直すべきでしょうか。いずれにしろ、「バトゥーム」にこのような二枚舌の戦略を看取することが必要なのかもしれません。その意味で、スターリンが中立的に描写されていると見るよりは、表面的には英雄的に描写されている、と見た方がおもしろい。そうしてこそ、ブルガーコフの戦略も露わになってくる。牽強付会の気味がある理屈ですが、しかし実際のところ、ぼくはスターリンがかなり肯定的に描かれていると思いました。確かにいたずらにおもねったりはしていませんけれども、その人心掌握術やカリスマ性には照明が当てられています。

ですが、ブルガーコフのブルガーコフたる由縁は、そこにも笑いを潜ませている点でしょう。厳格なスターリン賛美の作品とは明らかに違っていて、滑稽な場面が幾つもあります。権力を称賛するふりをして権力を撃つ、という典型的な二枚舌の形式ではないですが、謹厳で厳粛なキッチュにはブルガーコフは耐えられず、とにかく笑いのめしてしまった、という作品なのかもしれません。

それにしても、ものが自由に書けない時代の文学というものは、自由な時代の文学に比べて、むしろ創造的で戦略的で機知に富んでいるものが生まれやすいとも言えるかもしれません。言論統制があった方がいいと主張しているわけではありません。ある種の文学者は苦境にも強い、ということです。

「バトゥーム」は二枚舌の戦略的な作品なのか、それともブルガーコフの本領が期せずして流露した作品なのか。スターリンとの関係が詳らかにされてゆく過程で、そのことも見えてくる予感がします。

空白の戯曲

2010-02-15 00:02:24 | 文学
ブルガーコフ『アレクサンドル・プーシキン/バトゥーム』(群像社、2009)を読みました。分かりにくいですが、「アレクサンドル・プーシキン」と「バトゥーム」という二つの戯曲が収められています。前者は題名通り、プーシキンを題材に取ったもの。後者はスターリンを。ブルガーコフは実在の人物を題材に選ぶことがありますが、これらもそうです。ただし、「プーシキン」の戯曲はちょっと不思議な作劇術が取られています。

「アレクサンドル・プーシキン」という作品には、プーシキンが登場しません。しかしながら、この戯曲は紛れもなくプーシキンの一生のとある一片を扱っているのですが。プーシキンとダンテスとの決闘と、それに至るまでの過程が描かれているのに、プーシキンは登場しないのです。主役が不在の戯曲なのです。解説を読むと、キリスト不在のキリスト劇と比較する研究があるそうで、そのへんの事情はぼくには分かりませんが、しかし作品の構造に大きな欠落を抱えている(それはもちろん欠点という意味ではなくて)、空虚を孕んだ特殊な作品だと言えます。ベケット『ゴドーを待ちながら』においてもゴドーはついに登場しませんが、現われるべき肝心な人物が出現しない作品は、それだけで大きな空虚を内部に包摂しながらも、しかし逆説的にその存在感をひしひしと感じさせます。

プーシキンがいかに巨大な存在だったのか、それは彼の死後集まった群衆の数々の言葉によく表わされているのですが、恐らく最も感動的にそれが伝わるのは、ビトコーフというスパイの言動を通してです。訳者の解説でもこの人物の変節が注目されていて(しかしそれは必ずしも一般的な解釈ではない?)、「やはり」と思ったのですけれども、ビトコーフはプーシキンをスパイするはずが、彼の詩に次第に感化されてゆき、その見事さに心を奪われてゆきます。長い詩句を暗唱し、プーシキンを救おうとするも、それは叶わない。このような人物形象はとても興味深く、戯曲を感動的なものにする原動力となっています。

ただ、それが焦点化されていないところが現代のエンターテインメントとは違うところで、悪く言えばつまらない、よく言えば焦点がぼかされていることでテーマが多義化されている、ということになるでしょう。しかしそれにしてもビトコーフを除いては印象的な人物は登場せず、プーシキン不在という空白をこの作品は埋め切れていません。もちろん空白によってその存在感が増してくるということはあるのですけれど、それは空白ではない部分が存在感を持っている限りにおいて、そうなのです。もしもビトコーフがいなければこの作品は失敗作となっていたでしょう。

本の中で、ある単語だけが空白となって表れている。しかしそれが空白と感じられるのは、その他の部分が文字で覆い尽くされているからなのは、自明なことです。それと同様に、プーシキンが空白であるとき、その他の登場人物が生き生きとしていなければ、プーシキンの空白が空白として感じられず、その結果としての存在感も失せてしまいます。これみよがしにプーシキンの姿を舞台上から隠そうとすることでその不在の白地の部分を画定するのではなく、周囲の人物をもっと濃く描くことがよいようにぼくは思うのですが、どうでしょう。

ビトコーフという存在が戯曲に陰影を与え、プーシキンの不在を浮き上がらせています。偉大な詩人がいま・ここにいないという空虚。没後百年に湧くロシアで、ブルガーコフは少し冷めた視点からその喪失感と濃密な存在感とを同時に描出しようとしていたのかもしれません。その試み自体は気宇壮大で、それは舌を巻くほどの豊かな発想力と冷静な現実の観察力の賜物でしょうね。

「バトゥーム」は一転してスターリンを主人公に据えてその言動を詳細に描くことで、人物の形象を明確にしています。これはこれで感想を書くべきことの多い戯曲ですが、もうけっこう長くなっているのでこのへんで。ちなみに言うと、個人的にはこちらの方がよく書けているように思えて、それになかなかおもしろかったです。

風邪でした

2010-02-13 23:18:08 | Weblog
けっこう前から体がぞくぞくしたりして、風邪気味だとは思っていたのですが、今週に入って喉が痛くなり、寒気などもするようになっていたのですが、それでも病院には行かず(というか行けず)、そのうち治るだろうと思っていたら、一昨日の夜から吐き気がしてきて、それで一晩中ほとんど一睡もできませんでした。翌日(つまり昨日)はバイトで6時半起床だったのですが、ようやく寝付いたのが5時半。それまでは気持ち悪くてとても寝られず、時間を持て余しました。

で、きのうは仕事がけっこうハードで、なんできのうに限って、と思わずにはいられませんが、とにかく大変でした。きのうから、寒気、咳、鼻水、吐き気、と風邪の症状が一気に押し寄せてきて、それで昨晩もほとんど寝られず。今朝はこれに頭痛も加わり、かなりきつかったです。

しかし、ようやく時間が取れたので病院に行くことができ、薬をもらいました。それを飲んだら眠くなったので少しうとうとし、目が覚めたら、すっかりよくなっていました!効果覿面ってやつです。

とにかく今のぼくの希望は、今晩ぐっすり眠ることです。

風邪と論文

2010-02-11 01:17:39 | Weblog
最近ちょっと風邪気味です。きのうから喉が痛くて。あと今日は大丈夫ですが、きのうはぞくぞく寒気がしました。どうも一週間くらい前から風邪をひきそうな気配があったのですが、これまでなんとか熱だけは出していません。朝から仕事をする日が増えたので、それで疲れがたまっているのではないかと思います。休日も早起きですし。やわな体だなあ、と思いつつも、これまでの生活がだらけきっていたのでその反動に過ぎないのかも、とも思います。

今日は論文審査の日で、先生からたくさん突っ込まれました。ときにはたじたじになってしまい、うまく反論することができなくて、やっちまったなあ、と思っていたのですが、うちに帰ってから改めて反省してみると、その先生の言ったことの方が妥当性があり、自分の考え方を変えました。そしてたぶんそっちの方がいい。

それと、思うに、ぼくはたくさんの物事を一つの原理や理論で説明できることを望んでいたようで、論文もそのようにして書いたふしがあるのですが、多種多様な物事を同一平面上で論じる必要は必ずしもないのではないか、と思い直しました。一つ一つの指摘や主張はおもしろいらしいのですが、もっと一つに絞り込んで深く研究した方がいいのではないか、というお話でした。確かにそうなんですよねえ。でもなんか自信がなくて、一つのことだけに集中して取り組む、というのが怖かったんですよねえ。

多様な事柄を単一の理論で説明することがばかげたことだっていうのは、冷静な頭で考えると自明のことのようにも思われるのですが、でもぼくは、理論を打ち出したかったのです。たぶん。一部の日本の研究者は、ヨーロッパで考え出された理論を自分の専門領域である文学作品に適用して、やれ脱構築だやれポスコロだと言っているらしいのですが(そんなふうに揶揄する人もいるのです)、その是非は措くとして、それではつまらないなあと思ってしまうわけです、ぼくは。借り物の理論を適用するのが重要なときもありますが、でもぼくは、理論は自分で考え出したかったし、その理論で多くの物事を説明したかったのです、たぶん。バフチンみたいになりたかったんですよ。いえ、無理だってことは分かり切ってるし、これがどれだけ不遜な物言いかってことは、ぼくの想像以上でしょう。それでも、それでもバフチンみたいな仕事が憧れなのです。

もっとも、理論を考え出したと言っても、ヨーロッパの哲学やら文学理論やらが応援に駆け付けてきてくれていたので、全くの独創ではないのですが、でもこれは当然ですよねえ。完全な独創なんてロマン主義的な幻想だっていうのは、ぼくは自分の論文でも言っていることですし。

もうちょっとテクストに即して考えないといけないなあ。理論先行になってしまっていたかも。あと、時代背景をあまりにも無視しすぎました。まあそういう内容の論文だったからですが、それにしても。う~む、反省すべき点が多すぎる・・・

うまく先生の質問に答えられなかったので、色々と不安です。

そういえば、けっこうがんばって書いた第三章までがほとんど考慮されないのは、やっぱりこれが先行研究的な意味合いが強いからなのだろうか。自分なりの考え方も書いたし、自分なりに整理したりしたつもりだったので、もっと評価されたかった・・・しかし第四章書いといてよかったなあ。結局ここが論文の核、ということになっていますが、一番短期間で書き上げたところなんですよね・・・

あ、なんかかなり内輪向けの話になってしまいました。読み飛ばしてください。

メディア芸術祭バブル?

2010-02-09 01:39:25 | Weblog
メディア芸術祭のことを書いてから、ブログへのアクセス数が爆発的に増えました。特に7日は本当に久しぶりに順位が1000番を切りました。細々と続けているこのブログでは稀なことです。にしても、777人というのはキリのいい数字だな。

でももしかしたら、ポニョで引っかかって来るのかもしれないぞ、という気もします。2008年の記事がヒットしてしまうのかも。

集客しているのはメディア芸術祭なのかポニョなのか?個人的には前者であってほしいと思っているのですが・・・。昔の記事ってあんまり読まれたくないので・・・

それにしても眠い。今日はネタもないし、すぐに寝ましょう。おやすみなさい。

つながり?

2010-02-07 00:45:26 | アニメーション
メディア芸術祭で世界の最新の短編アニメーションを観る機会を得ましたが、そこで気になったのは、現代の多くの作家たちは「人とのつながり」ということを真剣に考えているのではないか、ということ。「Love on the Line」や「Please Say Something」といった作品は、それを前景化しているように思えます。とりわけ前者ではそれが顕著で、電報という旧形式を用いた人々の交流をユーモアを交えて描いています。また、「Postalolio」は手紙そのものがテーマであり、インターネットが普及した世界にあっては古いと見られる交流の手段が脚光を浴びています。このことは、いつでもどこでも誰とでも意見を交換することができ、人との紐帯を結ぶことができる現代が忘れてしまいがちである、「つながりのかけがえのなさ」を異化し、照明を当てているのではないかと思います。

そのような文脈で見れば、「Chick」もまた男と女の交流を描いた作品であるとみなせるでしょう。より正確に言えば、交流の不可能性ないしは困難さを描いたものであると言えます。非常にスピーディなアニメーションで、見応えがありますが、テーマもまた古典的でありながらも実は現代性を持ちうる作品なのです。

「電信柱エレミの恋」もやはり心の交流を描いた作品です。人と人以外のものとの恋を扱っていて、題材が恋であるがゆえにやはり極めて古典的な物語であるように思えますが、しかし「思いを伝える」という一点が焦点化されており、「つながり」という観点から見るとき、非常に興味深い作品であると言えます。電信柱はその特性を利用して青年に電話をかけるのですが、昭和にあっては電信柱(電線)とは人とつながるための最良の手段であり、それが人間に恋をするという設定が秀抜で、「つながり」がまさしくここで主要なテーマとして浮かび上がっているのです。

興味深いのは、「つながり」を扱った多くの作品が現代を舞台にするのではなく、過去の出来事を扱っているということです。作家たちには、現代社会の「つながり」が希薄に見えるのでしょうか?過去における「つながり」を描くことで、現代のそれを逆照射する、という思惑は彼らに共通していることでしょう。

話はそれますが、たぶん新海誠の現代性はここにおいても生じるのだろうと思います。人と人とのつながりや、自分の思いを伝えること、といった事柄がテーマとして選ばれるのは、もちろん作家個人の事情によるものが大きいのでしょうが、しかしそれだけではなく、現代という時代の制約が関係しているようです。アヌシーやオタワに出品した作家たち、また日本の短編アニメーション作家の中からも同様のテーマが散見される現状は、やはり現代社会への警鐘と見るのが自然で、鑑賞者は「つながり」に対して熟慮を迫られているのかもしれません。

ただ、新海誠のおもしろいところは、その「つながり」が極めて現代的な手法で描かれている点でしょうね。携帯のメールというギミックを使っています。過去に題材をとるのではなく、現代あるいは未来の通信手段を題材に選ぶことは、勇気のいる行為ですが、しかし、それが新たなスタンダードになる日も近いのではないか、と個人的には思っています。

アヌシー・シーグラフ・短編

2010-02-06 00:29:42 | アニメーション
一日で60本以上のアニメーションを観たので、さすがに疲れました。へとへとです。で、感想を書きたいのですが、あんまり暇がないので、とりあえずメディア芸術祭への注文を書いておきます。

短編アニメーションは会場の一角で常時上映されているのですが、その環境が劣悪すぎるのです。アニメーション作家の方々は、声を上げられた方がいいですよ、絶対に。自分の作品があんな環境で上映されるなんて、ぼくだったら我慢できません。まず、会場の音が丸聞こえで、とにかくうるさい。ざわざわいう音だったら大目に見ますが、アート部門、エンターテインメント部門、アニメーション部門が同じ会場で展示されているため、それぞれの音がそのまま上映場所に入ってきてしまうのです。とりわけ今年のアート部門には巨大な音を奏でる「装置」が展示されており、すさまじい轟音を響かせます。それが、上映中に聞こえてしまうのですよ。

しかも、今日の上映では、なぜだか音量が絞られていて、ぜんっぜん台詞が聞こえない。途中から大きくなったのはどういうわけか知りませんが、作品によって音量にばらつきがあり、小さな作品では台詞がほとんど聞き取れませんでした。また、短編作品の上映場所はTVアニメのそれと踵を接していて、つまり隣り合わせなんですね。で、その音がばんばん響いてくるわけです。これも途中でなぜだか急に静かになりましたが、恐らく苦情が出たのではないかと。

とにかく猛烈にひどい環境です。全く作品に集中できません。3階の講堂でも短編含め様々な作品の上映が行われていて、そこは妨害がないという点で安心できる環境にあるものの、しかし短編アニメーションの上映は実に一日限りなのです。平日ですし、その日行けない人はどうしたって2階の会場で鑑賞しなければなりません。なりませんが、そこは今述べたような劣悪な環境下にあるのです。

このような形で作品に出会ってしまったことは大変に不幸なことで、ぼくは残念でなりません。

・・・さて、もう手短に書いてしまいますが、アヌシーのプログラムはなかなかおもしろかったです。笑いあり、シリアスありの充実のラインナップで、とりわけオタワでも上映された「マダガスカル」は特筆すべきもの。あの立体感と奥行き感は新鮮です。高畑勲の言う「縦の動き」にも富んでいて、興味深い。3D新時代と言われる現代、このような作品はどう位置づけられるのでしょうか。

「Please Say Something」は日本語字幕が付いていました。だからと言って理解が深まった、ということは特になかったんですけどね。正直言っていまだに内容がつかめません・・・。

シーグラフのプログラムは基本的にどれもおもしろかったです。CGアニメの祭典なので、全てCG作品なのですが、CGの作り手って、笑いやエンターテインメント性にこだわる人が多いんでしょうかね。なんか、ぼくは「Jump」が気に入りました。痛快で。男がジャンプすると、そばの物体が跳ね上がる、という趣向の作品。それだけなのですが、非常に痛快で、なんだか前向きな気持ちになれます。

「センコロール」は初見。楽しみにしていた割にはがっかりな出来でした。ただ、上記の理由で台詞がほとんど聞き取れなかったので、そこが問題という見方もあります。あとは「HAND SOAP」が強烈な印象を残しました。ただ、この作品についてはうまく言語化できない・・・

そうそう、3階の講堂の椅子をもっと柔らかな、座り心地のいいものに代えてほしいです。

シカフとオタワ

2010-02-04 23:51:13 | アニメーション
メディア芸術祭に行ってきました。
今日は、ぼくにとっての初日だったので、とりあえず会場の様子の視察を。そして最大の目的であった、シカフとオタワのプログラムを鑑賞しました。

まずシカフから。
水江未来さんは例の細胞分裂の作家ですよね?「ディボアー・ディナー」の。別種の作品を観るのは今回が初めてだったので、その意味では新鮮でした。その「Metropolis」ですが、この作家さんは反復強迫のようなものがあるのか、とにかく前作から一貫しているのは絶え間ない反復というモチーフ。もちろん反復といっても全く同じものをひたすら見せるのではなく、わずかにその前のものとずらしてゆく、つまり差異を生み出してゆきます。そこにたぶん意外性だったり滑稽だったりが生じるのでしょう。今作は抽象アニメーションに似たものでしたが、音楽とともに映像の密度が次第に増してゆくところに快感があるのかな、と思いました。

「I'll be normal Tomorrow」は、例のチャン・ヒュンユン監督作。例の、と言ってもどれだけの人がああ、あの人ね、と頷くのか知りませんが、「ウルフ・ダディ」の監督さんです。ぼくはこの作品が妙に好きで、この監督の作品はいつも楽しみにしているのです。で、今作についてですが、字幕が英語だったのであんまりよく理解できなかったものの、彼特有のユーモアはなかなかおもしろかったですよ。ただ、ちょっとのめり込めない部分もあったりして、「ウルフ・ダディ」には及ばない、という感想。

「The Bottle」は某サイトにお薦めですよ、と書いてありましたが、個人的にはあんまり。韓国版の虫愛ずる姫君、といった感じの作品とも取れて、眼鏡をかけた少女が虫の幼虫をbottleの中に入れて自宅で飼っています。その虫を介した年下の少年との交流・すれ違い・幻滅などを描いているようです。そのテーマ自体はいいですけども、いかんせん作画が気になりました。ところどころ、無様な動きをしていて、う~む。今年度のメディア芸術祭では、昨年亡くなった名アニメーター・金田伊功が顕彰されているのですけれど、彼の作画なんかと比べてしまうと、やっぱりまずい動きをしているんですよねえ。まあ、個人的な感想ですけども。

「Shall we Take a Walk」は学生の作品らしい(?)ですけれど、これが一番よかったです。盲目の少年の、触角に対する心的なイメージを映像化するという、ある意味での実験作で、ぼくはポヤールの「ナイトエンジェル」を想起しました。後者もやはり目の見えない青年の「見る」世界を映像化していて、これがすばらしい出来になっていました。シカフのこの作品では、少年が模型のようなものを作って、それに手を這わせてゆくことで、模型が象徴しているこの世界のありように対するイメージを湧き立たせています。ただ、その映像イメージが明らかに我々にとって既知のものを表象しており、どうして目の見えない少年がこうした現実に近い造形力を発揮できるのだろう、と疑問に思ったりもしました。もちろん、触れば草の形などは想像できるものですが、その他のものでも、造形が実際のものとほとんど変わりないのはどうしたことなのでしょうか。もっともっと目が見えないということを積極的なものへと転換して、奇抜な想像力を発揮させてもよかったのではないでしょうか(無論これは監督への注文ですよ)。ただ、見えないゆえの色彩の美しさ(想像力の美しさ)には目を瞠るものがあり、ラストも感動的でした。ぼくは「ナイトエンジェル」と並んでコロレンコの小説『盲音楽師』をも想起しました。この作品では、色彩というものを目の見ない人に言葉で伝えようとする場面があり、盲目であることと色彩との関係、というのは今回の作品のテーマとも絡んでくるように思います。

「Dust Kid」は、自宅に小さな女性を見つけた女性の話。その小さな女性というのは自分のミニチュアであり、何度も捨てようとしますが、捨てても捨てても彼女は部屋に戻ってきます。彼女は仕舞に諦めて、同居の道を選ぶ・・・。寓意があるのでしょうが、一つには、自己愛の問題があるのでしょう。ただ個人的には、まるで別の連想が働いて、掃除をして部屋をきれいにすることへの揶揄を勝手に読み取ってしまいました。きれいにしてもきれいにしてもゴミは出る。いい加減なところで我慢しようぜ、そのゴミも自分の一部なんだからさ、みたいな物語をどどどどどっと構築してしまいました。たぶんこんな感想を持つ人はあまりいないと思います、絶対に監督の想定外の感想でしょうね。

「Entering the Mind Through the Mouth」は、映像はきれいでしたが、いまいち内容がつかめず。サーカスに売られた猫がネズミに救出される物語、ということなのですが、それを擬人化することでちょっとした冒険活劇になっており、様々な紋切り型を応用した作品になっているようです。ただ、ぼくは細部の意味がいまいちよく分からなくて、あと英語字幕が早すぎて読み取れず・・・。作画をちょっと工夫しているようでしたが、よく見ると手抜きのような気も。概して作画はシカフのものよりもオタワのものの方がおもしろく、よくできていたと思います。

さて、そのオタワについてですが、もうかなりの分量を書いているので今日はこのくらいにしておきましょうかね。オタワのプログラムの方は既に観たものもちらほらあり、もういっか、という気がしなくもないです。いずれ機会があったらレビュー書きます。なお、「Please Say Something」はもう一度観ておきたい、と思ったら、明日のアヌシーでも上映されるのか。明日というのは早すぎます・・・。CGや映像関係のことを勉強されている方に観てもらい、感想を聞きたいところ。内容は、仮想空間上での出来事、ということなのでしょうか?何らかの超越者の力が関与している世界を想像しました。が、これは全く的外れな感想かも。