Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

TO 共生惑星

2010-05-31 23:10:33 | アニメーション
『TO』というアニメーション作品がありますが、それは「楕円軌道」と「共生惑星」の二本立て(?)。「共生惑星」の方が個人的には楽しめました。それにしても眠いな・・・。

「共生惑星」は、人間が植民地化しようとしているとある惑星を舞台にした話で、そこではバルーン状の生物と別の生物とが共生しています。その惑星では、地球で対立している国/地域が二つ同時に調査を進めており、彼らは内心憎み合っています。ところが、ロミオとジュリエットのように、敵対し合う双方のグループの男女がやがて愛し合うようになり、夜ごと宇宙服で逢引きを重ねます。しかし、ついに二人はその逢引きを禁止されてしまうのでした。その日、男が研究室の中に入ると、そこは未知の菌類で汚染されていた!感染してしまう彼。
                        ・・・
途中経過は飛ばします。敵対し合う双方がいかに共生してゆくか、ということをテーマに据えた作品となっています。ただ、それには未知の菌類の助けを借りねばならず、しかもその菌類はこの惑星でだけ繁殖できる性質を持っているとのことなので、人間独自の力では憎しみは克服できませんよ、地球では相も変わらずいがみ合わなければなりませんよ、ということを示唆しているようで、そこが悲しい。

脚本的にも、なぜ菌類が研究室に広がってしまったのか、といったことは説明されないし、ヒロインだけ妙に回復が早いのはなぜなのか分からないし、色々と疑問点があります。まあ傑作ではないですね。ただ、それなりにおもしろかったです。別に傑作がすべておもしろいわけではないし、傑作じゃなければ全てつまらないわけでもない。少なくとも「楕円軌道」よりは楽しめました。個人差はあると思いますが。「共生惑星」は、雰囲気で見せているようなところがあるので、そういうのが好きではない人には厳しいかもしれないですね。

それにしても、タイトルの「TO」というのは、英語のtoと同様の意味が込められているのでしょうか。遠くへ、先へ、未来へ、希望へ、とにかく「~へ」、という肯定的な意味合いを秘めているのかもしれません。もちろん、否定的な意味合いも備わっているのですが。でもとりあえず行動する、どこかへ向かう、それがどこかは分からないけれどもどこかへ向かう、ということを意味あることだと考えたのかも。そうだとしたらちょっとナイーブ過ぎる気がしますが。

ああ、眠いな。どうして、こん~なに眠いの。

チェーホフ短編集

2010-05-30 00:00:57 | テレビ
しまった、今日学校でやっていた論文審査、完全に失念していました。思い出したのが夕方の4時頃。遅すぎる・・・。自分の研究ともろにかぶる論文を書いたことのある人の審査だったので、これは行かないわけにはいかないなと思っていたのに。でもまあいいか、と思っていたら、やっぱりけっこう重要なことが話されたらしい。くそおおおおおおおおおおおおお。

さて、むしゃくしゃしているのですが、きのうの夜中にNHKで放送されていた演劇『チェーホフ短編集』について。チェーホフの一幕劇や短編をオムニバス形式で演出した意欲作。なかなかおもしろかったです。演出とか劇団とか、ちょっと記憶が微妙なのでそこらへんの記述は省くとして(大事なのに)、だいたいの印象や原作との違いなどを。

まず、最初の「ドラマ」。いましも出かけようとしている作家のもとに、自分の書いた戯曲を見せに女性がやってきます。いまは時間がないという作家の言葉に対し、その女性は1時間だけ、と言い放って勝手に自分の作品を読み始めます(舞台では「リーディングする」と言われていた)。台詞を完全に暗記して、一人芝居のように演じて見せる女。うっとうしくてたまらない作家は、いったいいつ終わるんだ、と問いかけますが、どうやら終幕まで超長時間かかるようだ・・・。そこで作家は彼女の台本を書き変えて、登場人物を殺してしまう。するとその通りに演じてしまう女。彼女は自分にナイフを突き刺す。といっても死んだわけではなく、気絶しているだけ。

原作では、前半は同じです。後半は本当に彼女を殺してしまいますが、ところが罪には問われなかった、というオチがつきます。今回の演出はややシュールな感じになっていますが、幕切れはチェーホフらしくもあり。同じ言葉を何度も繰り返して余韻を残すところがそうですね。

「タバコの害悪について」は、ある中年の紳士が「タバコの害悪について」という題で講演する様子をそのまま舞台化。最初はタバコについて話をしていますが、次第に脱線してゆき、自分の人生の悲哀を物語り始めます。この戯曲がぼくは大好きで、以前、柄本明が演じた際にもやはりテレビで視聴したのですが、今回は、ややトーンを抑え気味で、男の悲哀をしみじみと炙り出すことに注意が向けられているように思えました。柄本版では、より感情を爆発させ、より笑いに貪欲だったように記憶しています。で、原作はというと、何とも言えない可笑しみがあります。妻が会場の隅にいるときはタバコの話をして、妻がいなくなると妻の愚痴を言い、最後には、どうかよい講演だったと話しておいてください、と聴衆にお願いするさまは素直に笑えます。もちろん、そこでは笑いだけではなくて(笑いだけではいけないというのではないですが)人生の悲哀というものが語られています。主題が脱線してゆく、という手法も見事だし、実はかなりよくできた作品なのではないかとぼくは密かに思っているのですが、日本ではそんなに有名ではないですよね。

「プロポーズ」は一番笑えました。プロポーズしにきた男が、当の娘と下らないことで喧嘩してしまう、という軽い話。ありそうもないけどでも本当に起こりうるような気もしてしまう人生の一こまを切り取った、小気味いいボードビル。原作とそんなに変わっていない、のかな。原作をあまり覚えていないので、何とも言えません・・・

総じて、役者の演技は上手でした。が、はっきり言って、チェーホフの原作を読んだ方がおもしろい。脚本や演出の問題だけではないような気がします。役者の台詞や身振りの間合いとか、更に洗練させるとよいのは当然ですが、でもそれだけでもないかも。

チェーホフ劇はかなり脚色されて演じられるのが普通なので、まずは原作をすっかりそのまま忠実に再現しようとした舞台(少なくとも台詞の面において)が見てみたいです。その上で、原作に比べて何が足りないのかを見極めたい。

それにしても、NHKはもっと早い時間に放送してくれないかなあ。

進路!

2010-05-26 23:40:31 | Weblog
きのうのけいおんは「進路」のお話でしたが、思えばぼくは進路というものを決定したことがない・・・なんか流されて流されてここまで来てしまったような気がします。

唯もすごくぼんやりした少女で、人よりも歩くスピードが遅いですけど、それでも大丈夫、と言ってあげたいですね。いま進路で悩んでいる中学生や高校生に、「大丈夫だ」と言ってあげたいですね。ぼくもぼやぼやしているうちに進路を決定する機会を逸してしまいましたけれど、それでもそれなりの進路に落ち着いていますから。もっとも、この先は不透明ですけど・・・。

ぼんやりしていると、確かに進路を決める時期も他の人より随分ずれこみますけれど、でも大切なのは「何になるか」ということよりも「どういう人間になるか」ということだとぼくは小学生のころから思っているし、それに幸福の価値は職業でははかれませんから。

ぼくなんかは将来お金持ちにはなれないでしょうが、衣食住が足りていればそれでもう贅沢なんだと思っている人間なので(それに趣味の本やDVDを買えるお金があれば言うことなし)、それは別にいいんです。

進路にはぼくも散々悩まされましたけれども、特にこれと言って「○○になる!」という決断はせずにここまで来てしまいました。たぶんぼくは大学の准教授にはなれないし(実力どうこうでなく、冷静に考えて、なれないことは分かっているのです)、人から見るとそれなりに悲惨な人生を送るのかもしれません。またぼく自身も知人が出世するのを羨望するかもしれません。でも、残念ながらぼくの人生は今のようなものでしかありえなかったし、それは仕方のないことです。なるようになるしかないさ。進路が決められない中学生、高校生よ、なるようにしかならないから、とりあえず周囲に流されときましょう。あ、決められる人はどうぞ我が道を進んでください。

萩原朔太郎『青猫』

2010-05-25 23:56:12 | 文学
『青猫』の中の一篇「緑色の笛」はこんなふうにして終わる。

思慕のはるかな海の方から
ひとつの幻像がしだいにちかづいてくるやうだ。
それはくちびるのない猫のやうで 墓場の草影にふらふらする
いつそこんな悲しい暮景の中で 私は死んでしまひたいのです。お嬢さん!

一方、詩の前半のイメージはこんな感じ:黄昏の野原、耳のながい象たち、風にゆらぐ黄色い夕月、帽子のやうな草つば、澄んだ緑の音色、とうめいなる空。

前半にはこれでもかってくらいに幻想的なイメージをつぎ込んでいます。後半はしかし幻想的でありながらも少し恐ろしげ。

う~む、なんとなく引用してみましたが、これといって感想がない・・・むしろ別の詩の方がよかったかもしれない。「私は死んでしまひたいのです。お嬢さん!」についつい惹かれてしまったか。

また批評について一言

2010-05-24 23:15:39 | 文学
論文を土曜日に書き始めて、日曜日に書き終えました。全部で24000字ほど。ただこの論文には字数制限があって、だいたい2万字以内ということみたいなので、4000字は削除しないといけない。これが悩ましい。今までは何字以上ということはあっても何字以下ということはなかったので、書けるだけ書いていましたが、制限がかかると難しいです。
ちなみに、1日で1万字以上の計算になりますが、修士論文を切り貼り、という部分も多いので、実質はそんなに多くありません。いや、本当は、もっと新しいことを書こうと思ったのですが、そこにいくまでで字数が限界に来てしまって、せっかく調べたことを書けなかったんですよねえ。いま調査していることは、次の論文とかに回すことにします。

さて。批評についてですが、批評の文体にももっと気を配った方がいい、という発想はそもそもどこからきているのか、ということについて。逆に言うと、批評の文体(さらに言うならばアカデミックな論文の文体)には凝った文体は必要ない、いわゆる学者風の表現で十分だ、とする発想はどこからきているのか、ということについて。まず一つ目は、やはり制度の問題があるのでしょう。アカデミックな場にそぐわない表現・文体は好まれない、という慣習上の理由があるはずです。これはちょっと別問題なのでとりあえず置いておいて、二つ目。批評というものは、作品の内容ないしは形式を解き明かすものだという発想が、理由なのではないでしょうか。批評やらアカデミックな論文やらは、対象とする作品(ここでは文学を念頭に置いています)を解説するものだ、その深い意味を探るものだ、という発想には、ぼくは疑問の余地があると思っています。

たしかに、作品の解説であるならば、その文体が凝っている必要はないわけです。読者に内容を伝えることが先決ですから、なるべく透明な文体が目指されます。しかし、もし批評の役割(いや立場と言いたいのですが)が解説ではないとしたら、どうなのでしょう。前にも書いたことがあるような気がしますが、ぼくは文学というものはある種のコミュニケーションだと思っています。作家が発話者であり、読者が受信者です。発話者はメッセージを伝え(メッセージというのは作品の内包するメッセージということではなく、作品のありようそのもの、つまり小説だったらその小説そのもののこと)、受信者はそのメッセージを受け止めて、今度は自分からメッセージを返します。このメッセージが批評に当たります。感想文と言い換えてもいい。コミュニケーションというものは一方通行では成立しえていないのと同様、文学というコミュニケーション機構にあっては、小説という作品だけではその機構は成立しえていません。何らかの応答、すなわち批評がなくてはならない。

もしもこのようなものが批評であるとしたならば、それはその作品に対する(複数でもありうる)メッセージであり応答なのですから、何らかの形でもとの作品と関わるものでなければならないと考えるわけです。だから、仮にその作品が文体表現に趣向を凝らしたものであり、それが第一義的であるならば、それを解説するのはいいとしても、その応答そのものも文体的なつながりがなくてはならないのではないか、と思うのです。もちろん、それに対していわゆる透明な文体で対抗してもいいし、透明な文体を駆使する作品に対して凝った文体で応答するのもいい。その判断は自由ですが、とにかくダイナミックなやり取りがあってしかるべきだと思うのです。それなのに、批評はその作品を別の作品と比較したり、中身や文体を解説するばかりで、自身の文体をどうするのか、ということにはこだわりを見せない。小説的な仕掛けが満載の作品に対しては、やはりアカデミックな論文であれ何であれ、ただの上手い文章で応答するだけではなくて、その仕掛けに対して何らかの応答を見せてほしいのです。解説するのではなくて。

こんなわけで、ぼくは批評にも文体的な仕掛けを望んでいるのですが、ただ、困ったことがあります。もしも文学がコミュニケーションだとしたら、文学によってお金をもらっている人を、どう考えるべきなのでしょうか。上手なコミュニケーションを人々に見せるだけで、お金を得ることが許されるのでしょうか?これは倫理的な問題かもしれませんが、実はちょっと考えあぐねています。

それにしても、一言のはずが、長くなってしまった・・・

批評と言葉

2010-05-23 01:10:43 | 文学
死屍累々だよう。

という言葉で始まるエッセイ、佐々木中の「足ふみ留めて」は、奇妙な味の文章です。ペダンチックと言えば確かにそうですが、そのことへの言及もあって、本人も当然分かっている。

散策すること、歩くことと文学との関係が述べられているのですが、まあその関係性についてはいいや。おもしろいなと思ったのはその文章。彼の『夜戦と永遠』は一部でかなり話題になっているようですが、その内容もさることながら、文体が特異であることがまず目を引くようです。まあぼくはまだ読んでいないんですけどね。今回のエッセイは、それほど突飛な文章ではなく、とはいってもところどころでかなりくだけた表現なんかが紛れ込んでいるものの、全体としては生硬な表現が目につきます。冒頭の死屍累々もそうですが、逍遥、はまあいいとしても、気息奄々とか明眸皓歯とか忙中(閑)とか、漢語を多用する。また文藝と書いたり「踵高いショートブーツ」「散歩に割くが習い」とかいった表現、一つの文体を形作っており、単なるくだけた表現ではない。「痩せぎす太りすぎの文弱者ども」というのは一種の言葉遊びで、やはりこの人は文体にひどく凝るらしい。

批評と文体との関係、についてはどうでもいいということはないですね。文学作品において文体というものが極めて大きな位置を占めるのであれば、それを批評する文章の文体もまた大事なのではなかろうか、というのは実は至極当然であるはずで、しばしば内容の方に重きが置かれるのは意外の感があります。同じようなお堅い文章ばかりだから批評を読むのはつまらないんだ、という嘆きはもっともで、もっと文体に工夫を凝らしてもいいのではないだろうか、と思う次第です。まあぼくみたいのが実験的にやってみてもふふんと鼻で笑われるのがオチでしょうが、佐々木中のように独自の文体を確立できる人、才能のある人がどんどんこの道を切り開いていけばいい、と心から思います。

ぼくは修士論文ではできるだけ堅い表現は使わなかったつもりで、いわば普段着の文体を目指したのですが、いま振り返ればその試みはいかにも中途半端。佐々木中みたいにいくところまでいっちゃえばよかったのにな。まあしかし、きちんと制度化された場に提出する論文で佐々木中みたいな文章を書くのは実際問題ムツカシイ。お堅い文章がよしとされる風潮、つまり学者風の文章を書くべきだ、という風潮にはやはり疑問の余地があって、小説と同じように小説を批評する言葉も文体に気を配るべきだと思うのです(学者風の面白味のない文章は、語彙力さえあれば誰でも書ける)。そうでなければ批評なんて皆からそっぽ向かれますよ。

立体アニメーションのいま

2010-05-22 00:17:23 | アニメーション
一昨日は本当に鬱な記事を書いてしまってどうもすみませんでした。もうどうしようもないくらい追い詰められた気持ちがして・・・と始めたらまた同じようなことを書きそうなので、今日は一転して立体アニメーションの話。ラピュタのアニフェスのプログラムです。

ところで、このブログの読者にはどんな人がいるのか、ということは前々から気にはなっていたことなのですが、たまたま流れ着いた方の他に、どうやら幾人かの固定読者の方々がいるらしい。もちろん、ぼくが個人的に知っている人もその中に入りますが、未だ見ぬ相手もいるようです。ぼくにはそのような方々の嗜好は分からないので、文学のことを書くときも、アニメーションのことを書くときも、この記事の内容が気に入ってもらえたらいいなあと、期待と不安を綯交ぜにしています。個人的な内容を書くときもそうなのですが、先日のような記事ですら、読者に思いを馳せます。こんなことを書いてしまっていいのだろうか、と不安の方が強いのですが。

文学あるいはアニメーションが好きでこのブログを見ている、という方々にとっては、ひょっとするとぼくがどのようなことを考えて生きているのか、何に悩み、何に喜び、何を憎むのか、ということはどうでもいいことなのかもしれない。でもぼくとしては、実はその部分にも関心を持ってブログを読んでいただけたらうれしいなあ、と思っている次第なのです。別に自分の内面を披歴したい、知ってもらいたい、ということではなくて、そういう心構えでいないことには、ブログを読むのがつまらなくなってしまうのではないだろうか、と危惧するからです。まあ、余計なおせっかいですけどね。何が言いたかったかというと、先日のような鬱な記事にも驚かず、また(できれば)無視せず、このブログの特性のひとつとして受け入れてもらえるとありがたいです、ということなのでした。

前置きが随分長くなってしまいました。立体アニメーション作品について書きます。

細川晋「鬼」(2004年)

実は観たことがありませんでした。なぜか観る機会というものがなくて。というわけでこの度初めて観ましたが、なるほどね、やりたいことは分かるよ、という感じ。村に鬼が現われて、退治に向かった男が鬼と出会いますが、その鬼が言うには、私を殺してはいけない、お前も鬼になってしまうぞ。いかなる理由であれ、殺人を犯した者は、その罰を受け、鬼になるというのです。男はしかしその言葉に構わず鬼を殺害します。やがて鬼となった男は朝霧の中、村に残した女房にこう告げ、去っていくのでした。鬼が棒を捨てたときに短刀を捨てられなかった私の心は、そのときまさに鬼だったのだ。

とても壮大なテーマで、テーマそれ自体はおもしろいのですが、色々と稚拙なところが目についてしまって、惜しい、という感じ。声優が素人なのはご愛敬でいいのですが、台詞や演出がクサすぎる。ただ格闘シーンはスピーディでよかったと思います。

「賢者の贈り物」と「豹」は、それぞれオー・ヘンリー、内田百の作品が原作。「境目のある風景」も太宰の小説が原案らしいので、なかなか文芸色の濃いプログラムだったのですね。そういえば、このあいだ『百鬼園随筆集』をようやく購入しました。彼の作品は飄々としていて、この「豹」なんかもそうですが、いい雰囲気出してました。

「これでおあいこ」はスウェーデンの作品ですが、やはり日本のとは違う。詩的な挿入があります。涙の粒を「一個一個」拾ってゆく場面などはちょっとマジックリアリズム的で、こういう発想が日本の若手から出てくるとおもしろいのになあ。心当たりがなくもないですが。ただ今回のプログラムの多くは、ストーリーを作ることに専念しすぎで、逸脱を恐れているようなところがあるようなないような。「ホラーナイト」などはギャグなのかホラーなのかがよく分からなくて、恐怖が即物的で超自然的なものに変わってゆくところは、いまいちに感じられました。

「境目のある風景」は冒険してましたけど、これはこれでどうなんでしょうね。だから、一番バランスの取れていたのはそのスウェーデンの作品だったんじゃないでしょうかねえ。あ、「豹」もよかったですね。ちょっととぼけていてちょっと不気味な感じがよかったです。「鬼」もなんだかんだいって及第点。って何様なんだ、ぼくは?

不調不調不調

2010-05-20 00:09:30 | Weblog
陰気なタイトルですが、まずパソコンが不調。
起動しません。今日は3回試して2回駄目でした。買ったばかりなのに。なんだよこれ。これから、論文を書かないといけないのにこれでは、非常に困ります。困るなんてもんじゃないくらい困ります。自殺したいくらい困ります。
あと、gmailが不調。書いてると突然、止まるんですよね。なんだよこれ。メール書けないじゃん。1,2ヶ月前からこの状態が続いています。5秒くらいすると直るのですが、15秒くらいするとまた止まります。ふざーけんなよー。
あと、いちいち書きませんが、まだまだ困っていることが山積しています(かなり深刻な問題含む)。なんだよこれ。どうしたんだいったい。どうなってるんだ。なんでこんなに悪いことが重なるんだよ。もういい加減にしてくれよ。頼むよ。もういいだろう。もう許して呉れよ。なんで「呉れよ」が漢字なんだよ。いい加減にしてくれ。

ああ、やる気がうせた。夜は本を読むはずだったのに。

鬱病の夫とこのまま添い遂げるべきか、それとも別れるべきか、という投書に多くの反響があった、と前に朝日新聞に載っていましたが、こういう問題ってやっぱり深刻な問題ですよねえ。お互い病気ならともかく、自分だけ健康で相手が病気のときって、なんで私がこんな目に・・・って心境になりやすいと思う。相手を愛していないからだ、そんなの自己愛だろ、とかそういう言説は全くもって浅いものとなります。相手を愛しているからこそ、悩むんですから。ちなみに、投書への反響というのは、やはり添い遂げるべきだ、というものが多いようでした。別れたら後悔するみたいですよ。もちろん、一概には言えませんけどね。でも別れた相手が自殺してしまった、ということもあるみたいですし。難しいですよね。答えなんてないですよね。どうすればいいのかなんて誰にも分からないですよね。どうすればよかったなんて誰にも分からないですよね。それが人生なんですね。難しいですね。

病、嫉妬、コミュニケーション。ぼくの宿痾です。「病が宿痾」だっていうのはばかばかしい書き方ですけど、なんの病気かは書きませんよ。へっへっへ。いずれも非常に深刻なんですよ。答えなんて出ないんです。だから毎日苦しいんです。死にたいんですよ。もういい加減にしてくれ、と思ってるんです。私は拒絶する。何を?全てを。全てを?嘘。ああ、きれぎれの言葉たち。とりあえず明日は腫れろ(「晴れ」と書くつもりが「腫れ」。おぞましい)。でも雨らしい。こんなものか。でもいい日になればいい。

世界の未知なるアニメーション作家たち

2010-05-18 22:33:30 | アニメーション
「世界の未知なるアニメーション作家たち」というテーマで開催されているラピュタのアニフェスですが、ギル・アルカベッツというドイツ在住でイスラエル生まれの作家の作品も上映されています。

で、これがすごくおもしろかった!そんなに期待しないで観たのですが、いずれも(短編集なのです)おもしろいのです。

最初の「ビッツブッツ」という作品からしてもうぼくは引き込まれてしまって、アニメーションの素材が何なのかよく分からないのですが、墨だか砂だかそのような質感(跡を引く黒い物質)で描かれる化け物と小さなウサギのような動物との争い。どうということのない作品なのかもしれませんが、ぼくはこういうの好きですね。展開がどうこうではなく、アニメーションの質感が好きなのです。

それと、有名ななぞなぞをヒントにした「ルビコン」は笑えました。あの、「狼と羊とキャベツと人間とが、舟で向こう岸に渡るにはどのようにすればよいか、ただし狼は羊と、羊はキャベツと一緒にしてはいけない」とかなんとか、そんななぞなぞです。たぶんご存知の方が多いと思います。このなぞなぞに対して、「アルカベッツの答え」が提出されます(ちなみにこの部分が日本語字幕ついてませんでした、なぜ?)。この「答え」が全くもってナンセンス。狼、羊、キャベツ、人間、そしてオール、舟、川、といった具合に画面を構成するあらゆる要素が自由奔放に入り乱れて、スクリーンを飛び回ります。なぞなぞを構成する言葉の関節が外れて、部分部分がワルツを踏んでいるよう。これと少し似たアイデアの小説を知っていますが、アルカベッツの作品は見事にビジュアライズされていて、素敵に楽しかったです(この言い回し、誰のだっけ)。

しかし一番のお気に入りは、「愛のために死す」。設定は、ある男の部屋で籠に飼われている二羽のオウムが、眠っている男の頭上で、過去を思い出して歌を歌う、というもので、その内容というのが、いかにして自分たちが男に捉えられたか、そしてそれまでの間、自分たちが木の上から何を見下ろしていたか、というもの。男は連れの女性を車に残してどこかへ行ってしまいますが、その間に運転手の男が女性に近づき・・・。そしてそれをじっと見ていたオウムたち。キスの音とともにレコードから流れる音楽。いま、籠に入っているオウムたちは、その音や動作を真似て、再びあのレコードから流れていた歌を歌います。眠りから目を覚ます男。まもなく彼は事の真相に気付いて、「愛のために死す」。

このへたくそなあらすじでは何がそんなにおもしろいのか分からないと思いますが、自分でも何がそんなにおもしろかったのかよく分からないのです。ただ、全体の構成がすばらしくうまくまとめられていて、ユーモアと、悲劇と、情熱と、全てが混然一体となって盛り上がってゆく様は圧巻でした。絵柄もすごくかわいらしくて、けっこう日本人好みかもしれませんね。

さて、と。他にもネタはあるのですが、まあ次の機会に。最近は2、3日に一遍ほどの更新になっていますが、去年からは想像もつかないくらいに忙しいのでありました。今日も、これから本を読まないと・・・。それからけいおん観ます。二期の方がおもしろいかも、と個人的には思っています。

intertextualityと集団芸術

2010-05-16 01:47:53 | 文学
道が険しいよう。

さて、インターテクスチュアリティと集団芸術について、数言。
前者は、作者というものの否定につながるわけですが、それって集団芸術に接近しているのではないか、と今日思いました。テクストは他の様々なテクストから成る織物である、という前者においては、唯一の作者や作者の絶対的権威は骨抜きにされます。作者の独創性というものは消失するからです。作者というものは、先行するテクスト(ラディカルな論者によれば後続するテクストも)を無限に「引用」することによって、テクストを「創作」します。できあがったテクストは引用の織物であり、作者というものはテクストとテクストとをつなぐ接合点に過ぎません。その独創性は、いかにテクストを配置するか、ということに求められることになります。

そこでは、一般的な意味での作者の独創性や個性といったものは喪失します。作者は、過去と現在の他の作者によって創作されたテクストをただ配列し直すことに汲々とします。これは、集団芸術と呼ばれるものに実は近いのではないか、と思ったのです。そこでは、個人は集団の力の具現に過ぎません。確かに芸術を創作するのは個人ですが、彼は自分の中で、「集団が創作しているのを理解し、感じている」(ボグダーノフ)。もちろん、これは表面的な類似であって、集団芸術というものには共有された目的意識などが必要なようなので、互いに異なりますが、しかしこの類似はかなり興味深いですね。

インターテクスチュアリティというのは、作者崇拝を拒絶しますが、ひいては個人崇拝を拒絶し、なにか一元的なものを想起させます。文学という機構を覆うネットワーク。個人はその中に組み込まれ、全体で一つの文学を形成します。それは空間的にも時間的にも拡大し、個々の作品を吸収してゆきます。そういう概念。このような集団としての文学において、個々の文学(作品)の個性というものはしかしながら保たれていると考えます。なにも均質化せねばならないことにはならないでしょう。

この全体としてのダイナミックな調和、いわば動的平衡が、インターテクスチュアリティの行きつく文学観なのかもしれません。すると、作者というものも実はそのネットワークに組み込まれていて、個性は完全に消失しているわけではなく、それぞれの配列の妙技は個性として備わっているはずです。ここに読者はいかなる位置を占めるのか。やはり文学のネットワークの中の住人でしかありえないでしょう。そこでは個性もやはり相対的なものになります。

インターテクスチュアリティは、文学を個人にではなく集団に帰属させる、というラディカルな見方ができます。集団化と全体主義とがどのように結びつくのか、というのはよく分からないのですけれども、これを危うい思想とみなすかどうか。動的平衡が保たれているのならば、それは別に問題ないのではないか、と思うのですが、どうでしょう。均質化や平均化が危ない。

議論を投げだして、今日はおやすみなさい。
いま読み返してみたら、何を書いているのか自分でもよく分からない・・・ああ、眠い。疲れた。

短歌の中のアニメ

2010-05-13 23:54:50 | 文学
昨日か一昨日の朝日新聞の夕刊に、土岐というぼくと同世代の人の短歌が載っていて、そこには「平沢唯」という名前が。もちろん、「けいおん!」のヒロインの名前なわけですが、いま自分の歩いている道は唯が通った道だろうか、という内容の歌でした。

ぼくは短歌の世界には暗くて、まるで事情を知らないのですが、現代短歌においては、こういうふうにアニメーションから題材を持ってくる、というのは珍しくないのでしょうか。まあ主流ではないのだろうなあとは想像できますが、でも稀だというわけではない、といった程度なのでしょうか?ちょっとだけ短歌の世界が近くなった気がしました。

文学の世界では、哲学はもちろん絵画や音楽について多くのことが語られていますが、アニメーションについて語る「純文学」というのは比較的マイナーだと思います。ライトノベルとか、それ自体がアニメ的なノリのジャンルもありますが、月刊の文芸誌に掲載されるような作品では、自然な流れでアニメーションが語られる(そしてそれを読者が自然に受容する)、ということはそんなにないのではないか、と思います。語られること自体はあると思うのですが、変に意図したものだったり、読者におもねっていたりして、例えばニーチェを引用するようにして引用した、つまり俎上にのぼせねばならないからのぼせた、というような必然性を伴っていない場合が多いのではないでしょうか。

テレビゲームの世界をいわゆる純文学で描いた作家などもいますが、それは必然性はあるものの、必ずしも成功していない。サブカルチャーと言われるものの扱いは難しいですね。

最近では日本のアニメも評価されてきているから、積極的に文学に取り入れようとする人がたくさんいるはずですが、この土岐さんという歌人は、その作業をごく自然にやっていますね。書く人によっては「アニメのこと書いてるんだぞ」「オタクって言ってもいいぞ」と自意識過剰になりがちなのにもかかわらず、この人はさらりとやってのけていて、好感が持てました。聖地巡礼、しかもけいおん、とわりあい濃いテーマなのにもかかわらず、それがごくごく自然な感じに、まるで初恋の人の足跡を辿るみたいに書かれていて、邪魔っけな自意識が極力抑えられています。

アニメというのは文学では扱いにくい分野だと思うのですが、ようやくそれを自然に受容し自然に書くことができる世代が育ちつつあるようですね。うれしいことです。「芸術的」と呼ばれるもののみならず、けいおんだとか、ワンピースだとか、ドラゴンボールだとか、ラピュタだとか、そういうものへの熱中を、何のてらいもなく表現できるというのは、すばらしいことのように思えます。オタク?子供だまし?ぼくはこれらの作品の中には深い考察に値するテーマや技法が隠されていると思っているのですが、それを真面目に取り上げようとすると、「分かる人」を気取ってるとか、変な奴とか、そういうふうに考えられがちで(場合によっては端から相手にされないとか)、自然であることが難しいのです。

ぼくらの世代では、比喩的にも現実的にも「漫画と哲学書が同じ本棚にのっかっている」。
――それ、バイロンかい?
――いや、おれだよ。
(『紅の豚』)

ラピュタアニメーションフェスティバル2010

2010-05-10 17:07:42 | アニメーション
きのうから始まりました。

「日本の注目の若手作家たち」というプログラムを観ましたが、内容は、

植草航
和田淳
一瀬皓コ
水江未来

の諸作品でした。といっても、一人につき一作品か二作品ですが。
皆さんけっこう有名なので、もっとマイナーな人でおもしろい人を発掘してもよいのになあ、なんて思ったりもしましたが、実は植草航の作品はもしかすると初めてかもしれないです(覚えてないだけかもしれないですが)。というか、この人は今回上映された「向ヶ丘千里はただ見つめていたのだった」でデジスタのグランプリを獲得、話題になったんですよね。

で、その作品はと言うと、確かに惹かれるところがありました。「スピード感溢れる映像」と紹介文が付いていますが、本当にその通りで、動きはもちろん展開までスピーディ。突き抜けていく感じがあって、よかったのではないでしょうか。

水江未来の作品は、こういうフェスティバルなどで上映されたものはだいたい観ているはずなのですが、進化してますねえ。以前は細胞みたいなやつが相手を食べるだけの(という言い方では失礼ですが)、単調さを免れない作品だったのに対し、最近では作品全体の構成というものができてきたように感じられ、というのも、どちらかといえば抽象的なアニメーションでありながら、徐々に盛り上げてゆく展開が見られるからですが、メリハリが効いているので観客にとってはありがたいですね。とてもよかったですよ。

また、オライリーの作品集も観ました。ハーツフェルトが、映像的にはシンプルでも豊かな物語を語っているのに比べて、オライリーの作品は、やはり映像的には非常に古臭いCGを使いながら古臭い物語を語っている気がします。初期作品にはゲームの世界に接近しているものもあって、あるいはそもそも完全な物語を志向していないようにも見えますが、どうなのでしょうか。古臭い物語=永遠のテーマとも言えるとは思いますが、古臭い、というのはここでは手垢にまみれた子供向けの物語、というような意味であって、要するに、地球外生命体が出てきて地球の侵略を狙っている、だとか、そういうことですね。

「プリーズ・セイ・サムシング」は、幾つかの可能性を並行的に示しながら語ってゆく構成を取っていましたが、ここにもどういうわけか地球侵略を企んでいたらしい宇宙人が出てきます。世界が巻き戻されて、別の可能世界を再び生き始める、というような設定自体は宮崎駿の「On Your Mark」で見慣れていますが、宇宙人というのがよく分からないですね。

「黒の湖」は抒情的な作品。その世界に浸れて、よいのではないでしょうか。ただ、これは現在の技術で映像化した方がより抒情性を出せると思うのですが、この技術でやることに意義があると考えているのでしょうね、作者は。

観たいプログラムがたくさんあって迷います。とりあえずシュヴィツゲベルはいいか。

とりとめもなく

2010-05-10 01:03:37 | お仕事・勉強など
今日はアニメーションを観たのでそれについて書きたいとは思うのですが、早く寝たいので今度書きます。

喉の痛みはなかなかよくなりません。喉が痛くなると、喉のあたりが気持ち悪くなって、おえっとなるので、それが勘弁してもらいたいです。薬は一応は効いているみたいではあるんですが。もっと効いてほしい。

前、Amazonで買った洋書が届きました。思ったよりサイズが大きいです。同じ人が書いている別の論文も持っているのですが、それの改訂版、というものではなさそうです。もっとも、同様のテーマを扱っているのかもしれませんが。

ロシア語の論文は、ものによってレベルが違いすぎる気がします。通常のレベルだったらなんとかなるのですが、今日さっとだけ目を通した論文は、難しすぎて歯が立ちませんでした。まず、単語が難しすぎる(しかもなぜか誤植が多い)。それから内容が難しい。ただし文法は普通だったのでそれが救いでした。とはいえ、全部はとてもじゃないけど読めるようなレベルではなくて(時間と根気があればもちろん読めるはずですが)、部分的に「ここが大事なんじゃないか」ってところを読みました。こういう読み方は、けっこう不安が付きまとうのですが、でも日本で外国文学をやっている学生にとって宿命なのかもしれません。いや、できない学生のみならず、先生レベルだって、外国語の本をいちいち丸一冊読破してゆく、なんてことはしないようですから。

そうえいば、きのうAmazonで購入しようとした本、日本版にちゃんとありました。「すべてのカテゴリー」で検索したらなくて、「洋書」で検索したらヒットしました。なんででしょうか。

外国語の勉強は、ちょっと自信が出たり、落ち込んだり、の毎日です。落ち込むことの方が圧倒的に多いですけどね。次に読むやつは簡単だったらいいなあ。

そうそう、『表象と批評』という本が出ましたが、そこに所収の新海誠に関する論文は、『アニメーションの映画学』におけるそれと同一のものなのでしょうか。それが知りたい。

風邪をひいて、本は買えず・・・

2010-05-09 00:53:01 | Weblog
別に風邪をひいたから本を買えなかったわけではないのですが、とにかく風邪をひいてしまったようです。朝から喉が痛い。3月くらいにひどい風邪をひいてから、それほど日も経っていないというのに、またかよっ。前回は、まあよくなるだろ、と思って放置したらひどく悪化してしまったので、今回はその反省を生かしてすぐさま病院に行って薬をもらってきました。これでよくなってくれればいんだけど、全然痛みが引かないぞ。

さて。Amazonで本を買おうと思ったら、目を付けていたやつがもうない!売れてしまったようです。なんてことだ。英語の本で、ハードカヴァー9500円とペーパーバック3500円と2種類あったのですが、そのうち後者が売れてしまったようで、もうないのです。なんてことだ。仕方ないので英語版のAmazonで買うしかないか、と思ったのですが、英語版では購入するのが初めてで、住所を入力しないといけない。で、はたとぼくの動きが止まってしまいました。住所の書き方が分からん・・・。アメリカ流に書くのですか、それとも日本語で書いていいんですか。どうせ郵送先は日本だし、どうなんだろう。・・・とまあ、アホなことを考えてしまって、結局今日のところは買うのを諦めました。なんてことだ。

それにしても、ここは思案です。奮発して高いハードカヴァーを買うか、安いペーパーバックを英語版Amazonで買うか。う~む、どうしよう。数週間前、この本を見つけたときにその場で買っておけばよかった!なんで躊躇してしまったんだろう・・・
ペーパーバックよりもハードカヴァーの方が、英語は読みやすい(辞書が引きやすい)気がするので、そんなところも迷いどころ。

気分転換

2010-05-08 01:15:10 | Weblog
GWが終わって、ブログのテンプレート変更期間も過ぎ去って、元に戻して・・・というわけではなく、きのうからまた別のテンプレートで開始することにしました。何事もなければこのままでいくつもりです。

ああ、今日はとりあえず他にあまりネタもないので、このへんで。