Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

口内炎が治ったら

2014-03-27 01:02:45 | Weblog
また花粉症の症状があんまり出なくなりました。ふしぎー。

月曜日は二つ大きな出来事とニュースがありました。
火曜日は思い出せるような出来事はありませんでした。
今日は大きな出来事はなかったけど、大きくない出来事はありました。
明日はたぶんパソコンに向かって一日作業するので、大きな出来事はないはずです。
明後日もたぶんパソコンに向かって一日作業するので、大きな出来事はないはずです。

まだまだだと思っていたゴールデンウィークが、近づいてきました。今年はちょっと楽しみなイベントがあるので、心待ちにしています。いや心待ちって言うと言い過ぎだなあ。

論文が研究の過程を披露するのものではなく、結果を披露するものだとしたら、ぼくは3年間は論文が書けないということが分かりました。逆に言えば、3年経てばたくさん書けます。

口内炎が治って柑橘類を食べられるのがうれしくて、たくさん食べてます。

未来の文献学

2014-03-25 01:13:38 | Weblog
ニーチェは「未来の文献学」ということを言っているらしい。未来の誰かのために、この一行、この一文字を書くのだ、という意味のよう。

僭越ながら、とてもよく分かる。分かってしまう。書く理由というのを突き詰めて考えると、どうしてもそこに至らざるを得ない。至らざるを得ないのだけど、それでもやはり迷うし、うろたえてしまう。決然と書くことができない。

「未来の文献学」というのは、外付けの動機なのかもしれない。ただ内心を吐露したいという「発作」を隠すための。明確な理由が欲しくて、他者のためと言っているだけではないか? そういう疑いが頭をもたげてしまう。

表白欲求というのは承認欲求と背中合わせ。ただし承認欲求とは評価されたいという欲求ではなく、ただ分かってもらいたいという欲求に違いない。つまり共感の欲求。しかし共感欲求というのは、誰かに自分の成功を見せつけたいという欲求ではありえず、自分の傷を傷として認めてほしいという欲求のことだろう。けれどそれは必ずしも傷を癒してほしいという欲求ではない。そうではなく、この傷が誰かの光となることで、自分が傷ついた事実を贖おうとする欲求ではないか。自分の傷が誰かに報いることを望んでいるのではないか。そうだとすれば、やはり「未来の文献学」ということになる。ここに行き着いてしまう。

それにもかかわらず、ぼくは迷う。うろたえる。怯える。この堂々巡り。

答えは出ているのではないか? しかしこの論法に瑕疵があるのではないかと、それを探し回る。

チェーホフは、「誰のために書くべきか」ということに悩んだらしい。昔その悩みにひどく共感したものだけれど、今改めて、たぶん当時よりも高次元でその悩みに共感する。というより、その悩みの凄まじさに戦慄する。チェーホフの問いは、ぼくのよりも激しい。

すばらしいものを読むと

2014-03-23 00:41:17 | Weblog
今まで自分が書いてきたもの、書いたばかりのものが、とてもみすぼらしく思えてくるというのは、たぶん誰にでも経験があることだろうけれども、ぼくもその例に漏れない。これまでに書いてきたものを全部消去して、今後は一切書くまいとすら言いたくなる衝動に駆られてしまう。

今まで自分が読んできた体験は何だったんだろうと思えてくることもある。幸いここ何年か碌な読書をしていないぼくだから、昔のようには苦しく感じることはないんだけれども、この先の読書を考えると、暗澹たる気持ちになってくる。

夜更かしした翌日は、体調が優れないようだ。今日は一日中なんだか気だるかった。

そろそろ読書しなければならない。多く読むのではなく、少なく読むことを心がけなければならない。焦ってはならない。くれぐれも焦ってはならない。分かることを急いてはならない。知識を殖やすために読むのではない。殖やそうとするスピードに、ページを繰る手は追い付かれてしまう。違うレベルの読み方をしなくてはいけない。

そうでなければ、読書は苦痛でしかないじゃないか。

口内炎と花粉症

2014-03-18 00:19:54 | Weblog
1週間くらい前に口内炎ができて、放置してたら段々痛みが増してきて、いよいよ辛くなってから数日間が過ぎて、それでも一向に治る気配がないから、昨日ついに口内炎の薬を買ってきて塗布してみました。すると、寝る前に一度しかつけていないのに、起きたらかなり快方に向かっていて、今朝もう一度つけてみました。これですぐによくなるだろうと。

今日の午後から、花粉症の症状が出始めています。ぼくはこれまでひどい花粉症で、春はかなり苦しめられてきたのですが、なぜか今年は症状がほとんど出なくて、「こいつはきっと、去年の春ずっとロシアにいて日本の花粉を浴びなかったから、理由はよく分からないけどそれが奏功したに違いないぞ」と思いなしていました。

口内炎の薬を塗布したこと。花粉症の症状が出始めたこと。二つが生じた日にちが一致しています。もちろん、ここに因果関係があると主張したいわけでは全くないのですが、ただ、「ロシアにいたから花粉症の症状が出なかった」というのと同じくらいの関係性を、ぼくは認めたいと思っています。

去年ロシアにいたから今年は花粉症にならなかったけど、口内炎の薬を塗ったら花粉症になっちゃったよ。

日々を素材に不条理文学は生まれる。

助けられて

2014-03-10 01:46:14 | Weblog
どうしてこういうことになったのか自分でもよく分からないんですけど、それぞれ異なる5種類(いや6種類?)の文章を書いたり書き改めたりすることになって、いま色んな方たちに助けられながらパソコンに向かってます。

たぶん、大学院に閉じこもってロシアのことばかりやっていたら、こんなことにはならなかったはずなので、まずは外に飛び出してみることが必要なんだなと思いました。

といっても、別に文章で生計を立てられるわけではなく、趣味の延長なのですが(というか趣味そのもの)、ぼくの書くものをおもしろいと言って下さる方がいらっしゃるのは、大変ありがたいことです。

他にも、文章を書くこと以外で進んでいる計画もあり、そのために色んな人たちと連絡を取り合ったりしてて、気持ち的には意外と忙しいです。こちらはどうなるかまだ分かりませんが、やはり多く人に協力していただいています。

去年までは気が付きませんでしたが、ぼくは一人だったんだな。助けられてると思っていましたけど、今のぼくはもっと助けられてる。彼・彼女らには、いつか恩返しをしないと。ぼくが書くことで恩返しができるとは思いません。彼・彼女らの望みを叶えてやることが唯一の恩返しのはずです。

さあて。とりあえず昼まで寝る癖を直したいなあ。

うおい

2014-03-09 00:48:47 | Weblog
うおいって感じでやるべきことが目の前に山積していて、珍しいなあって思う。ぼくはあんまり忙しくならない環境にずっといたので、こんなふうにやらないといけないことが次々に出てくると、割とうれしい。でも体は疲弊している。

だから、今日は早めに寝ようかな。体というか、特に目が疲れた。

あれ、もっと書けるはずだったんだけど、意外と字数が少ないな。まあいいや。

忘れたい論文

2014-03-08 02:05:38 | お仕事・勉強など
大学からぼくの論文が掲載された雑誌が送られてきたのですが、正直言ってこれは見たくはない論文と言うか、記憶から払拭したい論文です。

ただ、ロシア文学関係者の方々(特に若手)には、ぜひ一度お読みいただきたい論文でもあります。というのは別に内容が優れているからとかそういう理由ではないのですが。

もともとこれは学会誌に応募してリジェクトされた論文でして、それを少し改稿したものです。つまり、はっきり言うと、学会誌に掲載されるレベルではないと判断された論文です。ですから、ロシア文学を勉強されている方々、とりわけ学会誌に論文を投稿されている若手の方々には、ぜひお読みいただいて、参考にしてもらいたいと思うのです。

もしお読みいただければ、「こんなのだから落とされるのだ」とお感じになられる人もいらっしゃるでしょうし、あるいは「このレベルでも落とされるのか」と驚かれる人もひょっとしたらいらっしゃるかもしれません。

初稿を書き上げてからもう一年以上経っているので、ぼくは自分の論文を割と客観視できているつもりです。その上で言うと、この論文が学会誌に落とされた一番の原因と(ぼくに)思われるのは、「独自性のなさ」です。

しかしその点については、ぼくはかなり確信的でした。というのも、この論文で心がけたのは、とにかくデータを提供することで、自分の意見を押し出すことは控えていたからです。もうこれまでにこのブログで何度も書いていますが、ぼくのやっている分野(作家)の日本での研究というのはそんなに進んでいないので(研究者の数が少ないので)、この分野に取り組もうとすれば、ほとんど一から勉強を始めなくてはなりません。それはけっこうきついし、また世界的にはとっくに知られていることを自分で一から掘り起こさないといけないのは、時間の無駄でもあります。だからこそ、先行研究を網羅的に紹介し、それをまとめ上げることに、非常に大きな意味があると考えました。

ところが、論文というのは自分独自の切り口でシャープにまとめ上げたものが好まれるようなんですよね。ぼくのようなタイプの「論文」は、「研究ノート」として扱われるようなのです。そういうものだと言われればそれまでですが、しかしこれからの研究者に役立つものを提供しようとしたぼくとしては、遣り切れないわけです。だって、ぼくのこの「論文」は、たとえ学術的な「論文」という範疇に収まらないとしても、読まれる価値があるからです。仮にぼくが自分の意見をすぱっと言い切った論文を書いて、それが学会誌に掲載されたとしても、それを読んで喜ぶのって誰なんでしょう。少なくともぼくが実際に書いた「論文」は、これからこの分野を研究しようとする人たちにとってはとても喜ばれるものだと思うのです。ぼくはそういうものを書いたのですから。ところが、そういうものは掲載を拒否されてしまうわけです。

査読されたとき、非常に高い評価をくれた人がいましたが、一方で最低の評価を下した人もいました。中間くらいの評価の人もいました。つまり、完全に評価が分かれたわけです。高い評価を過半数から得なければ掲載されない仕組みなのかもしれませんが、そういう点も納得できかねる部分ではありました。

で、これが掲載されないっていうのは、今後この分野を研究する人たちにとってはマイナスだろうとぼくは考えたわけです。それでまあ色々あって(先生に相談させていただいたりして)、大学の紀要(なのかな?)に投稿することになったのです。最初は思い切って「研究ノート」のつもりで書き直し始めたのですが、それはそれで書き方がよく分からなかったので(徹底できなかったので)、結局またしても「論文」という形になりました。しかしその過程で、初稿にあった重要事項を削除したりもしました。それがなければこの原稿の価値も少なくなるなあと思いつつ、かろうじて「論文」という形式にまとめるため、泣く泣く削除したのです。だから、ぼくにとって今回の決定稿は、初稿ほどの価値はない中途半端なものです。それで今はあんまり思い出したくないのです。

改めて読み返してみると、いまいち言っていることが判然としない部分もあり、確かに優れた論文ではないと思いますが、でもリジェクトされるようなものでもないと思うわけです。実際、ぼくの論文を読んでいただいたある方からは、このレベルだったら前回の学会誌に掲載されてもおかしくなかったと仰っていただけました。慰撫するお気持ちがあったのかもしれませんが、でも執筆から一年以上経って客観的な見方ができるようになったぼくが自分で読んでも、やはり腑に落ちないのです。

自分の意見を打ち出すとか、おもしろい切り口で対象を切り取るとか、そういう作業に別に苦手意識はないので、それが論文なんですよと言われたときには驚いたわけですが、でもぼくの考える「論文」と、学会誌で要求される「論文」とには、はっきりとした齟齬があるのです。後者にすり寄って自分の考えを歪めることは容易いですが、本当にそうする価値はあるのだろうか、と立ち止まって考えざるを得ません。というのも、そうしてしまうことで、この分野の研究は遅れてしまうし、ぼく自身の研究目標も遠ざかってしまうからです。

そういう意味で、学会に対してかなり冷めた目を持ち始めたってのは事実です。だから、どうでもいいやって思い始めてます。ロシア文学の発展に貢献するとか、次世代の研究者のためにとか、やっても評価されないどころか、(リジェクトすることで)やること自体を押し潰されてしまうので、もう知らないよ。

これだけが理由ではないけれど、こんなこともあって、ぼくはロシア文学から距離を置くことにしました。まあ気が向いたらまたどこかの雑誌に投稿することがあるかもしれませんが、それはもう趣味のレベルだと思います。どんなに体裁が整っていようとも、何か大きな目標や志の失われた、ぼく個人にとっては趣味のレベルのものだと思います。それが仮に「論文」と人から呼ばれたとしても、ぼくはそれを論文とはみなさないでしょう。志の低い雑文に過ぎません。

さて、そんなわけで、今回のぼくの(ひょっとしたら最後の)「論文」は、多くの若手研究者に読んでいただきたいと思っています。僭越ながら、「論文」はいかにあるべきか、ということを考えるための一助になるのではないかと思っています。ま、反面教師にしてください。

読みようによってはかなり不遜なことを書いてきましたが、この文章が的を射ているかどうかは、ぼくの「論文」をお読みいただいてから判断なさって下さい。

数学と国語の勉強

2014-03-07 00:07:59 | お仕事・勉強など
よく「非ユークリッド幾何学」というけど、そもそも「ユークリッド幾何学」が何なのか知らなかったので(ここでさらりと無知を告白)、勉強してみました。その過程でタンジェントとかログが出てきたのでそこは読み飛ばしましたが、「ユークリッド」と「非ユークリッド」の関係のあらましは掴めた気がします。

高校の頃、成績は芳しくなかったのですが、割と数学が好きで、とりわけ複素数平面はお気に入りでした。虚数という概念がおもしろかったです。中学の頃も、それが何だったのかは忘れてしまいましたが、数学の概念的な部分に興味を惹かれて、塾の先生に数学書を薦めてもらったことがありました(読まなかったけど)。

非ユークリッド幾何学というのは、虚数という概念に似た感触があります。仮に目に見える世界を「実数的世界」と言うとすれば、目に見えない世界は「虚数的世界」と言える気がして、実数的世界とは全く異なった論理で成り立っている。それはこの世界とはまるで別の世界なんだけど、でもある意味でこの世界の一部でもある。虚数的世界が「この世界」とは違う「あの世界」であると同時に、「この世界」にも属しているとしたら、それはまるでトドロフの「幻想」の定義にも似通っていて、色々と想像力を刺激されます。

もっとも、あくまでぼくは(非)ユークリッド幾何学について勉強したのであって、虚数については何にも知らないので、上に書いたことは(高校を10年以上前に卒業した文系人間の)ただの印象です。

・・・・・・・・・・

さて、さっきテレビで俳句の勉強をやっていたので、ぼくも一首作ってみました。
誰もいない教室。窓の外では満開の桜が輝いている。その光景を詠んで、

学び舎や
まだ見ぬ子らを
待つ桜

卒業式が過ぎ、入学式はまだ。教室の中は誰もおらず、寂しげ。その寂しさを、窓外で咲き誇る桜と対比してみました。どうですかねー。けっこう瞬間的に思い付いた句なんで、完成度は低いと思いますが、総合的にはそんなに悪くないと思ってます(自己満足)。でも、テレビに出てたあの先生に添削してもらいたいなあ。

講師の仕事

2014-03-05 23:59:35 | お仕事・勉強など
ある方からロシア語の講師の仕事を紹介していただいたのですが、自分に自信がなさ過ぎて、遠まわしにお断りしてしまいました。

せっかくのチャンスなのにとか、教えながら学べばいいのにとか、自分でも思うところはあるのですが、やはり自信がなさすぎるし、いや自信っていうか実際に能力が低すぎるし、やっぱり無理だなあと。

こんなチャンスが今後あるかどうかは分かりませんが、でもいつチャンスが来てもいいように、勉強だけはしておこうかなと思った次第。

幸い(?)ロシア文学からはもう離れているので、逆説的ではありますが、純粋にロシア語を勉強できる環境にあると言えます。上級者用の文法書とか買って、日常的に勉強しようかなー。あとやっぱり会話だよな。

どんなに必要に迫られても勉強しないぼくですが、しかし今月からはちょっと事態が変わることになっていて、ひょっとしたら勉強を続けられるのではないかと淡い期待を抱いています。それに、性格的に言って、限られた期間内に結果を残そうとすると焦燥に駆られて駄目になるタイプなので、悠揚に構えて気長に暢気に進めた方が自分に合っています。

というわけなので、紀伊国屋に行って参考書を探してこよう。肝心なのは自分のペースでやることですよ。

よかった

2014-03-04 01:20:05 | Weblog
なんかさ、色々とおもしろいことになってきた。
去年の今頃ぼくはロシアで死亡寸前だったわけだけど、帰国してから一つ一つおもしろいことが増えた。
それもこれも、ロシア文学から手を引いたおかげかも。ロシア文学から足を洗おうと思って、それ以外のことに首を突っ込んでたら、新しい人たちにも出会えたし、自分の視野も広がった。

窮屈な世界でがんじがらめにされて窒息しそうだったけど、ようやく自由な空気を吸うことができた気分。

自分に何ができるのか、何をすべきなのか、それは依然はっきりしないままだけど、でも少なくともぼくはもう足枷をはめられていないし、牢屋に籠っているわけでもない。

6年近くやっているこのブログでこんなにポジティブなことを書いたことがあっただろうか?こんなにポジティブなことを書いていいんだろうか?なんか申し訳ない気持ち。

きっとすぐにまた落ち込むことがあるんだろうけど、そんなのは誰だってあることだ。ぼくはこの6年の間落ち込み続けていたのだ。たまに落ち込むことなんて、何でもない。

やばい、ポジティブすぎる。このポジティブさが不安だ。ネガティブに慣れているから、自分のポジティブさが怖い。

そういえば今日、花粉の症状が出ませんでした。ポジティブ!

花粉症の季節

2014-03-03 00:27:17 | Weblog
今年になってから、花粉症の症状がまだ出てません。ぼくはかなりひどい花粉症で、春は本当に苦手だったのですが、どうしたことだろう・・・。

去年の春はずっとモスクワにいたので、当然症状は出なかったのですが、ひょっとしてこのことと関係があるかも・・・。

一年間日本の花粉を浴びなかったことが奏功して、症状が緩和されたのでしょうか。アレルギーのメカニズムってよく知らないのですが、そんなことありえるのかなあ。

まだものすごい量の花粉は飛散していないようなので、これからどうなるか分かりませんが(たくさん飛べば症状が出るかも)、できればこのまま、せめて今年は何ともないまま終わってほしいです。

明日はやや多い量の花粉が飛ぶそうなので、どきどきです。

もし本当に症状が収まっていたとしたら、これは医学的にとても興味深い事例ではないでしょうか・・・!?いやそんなことはないのかな。まあどうでもいいや。いやどうでもよくはないけど、とにかくもう金輪際、症状が出ないでほしいです。