Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

腕を擦り剥く

2011-01-31 00:47:57 | Weblog
別に大したことではないんですけど、暗闇の中を駆け足で突進したら、どこかに腕をぶつけてしまい、擦り剥いてしまいました。家の中でのことなのですが。

お風呂からあがったばかりだったので、皮膚がふやけていたのか、思いのほかひどく皮がむけてしまった。と言ってもあくまで「思いのほか」であって、大した怪我ではないんですが。それでもちょっと血が滲んで、且つ青痣になりつつあったので、早速パイロールを付けときました。

それだけです。

幸福はだれにくる

2011-01-30 00:31:34 | 文学
マルシャーク『幸福はだれにくる』を購入しました。
ぼくはマルシャーク『森は生きている』が大好きなのですが、しかし実を言うと、マルシャークの戯曲で読んでいるのはたったこれだけで、後の作品は未読なのです!しまった!やっちまった!

というわけで、近いうちに是非『幸福はだれにくる』を読んでみたいですね。暇があったらロシア語のテキストを座右に置いて読んでみたいですが、まあちょっとそんな余裕ないですね。気持ちの余裕が。

そういえば、マルシャークがどれくらい邦訳されているのかすら調べたことがありませんでした。小さい頃から『森は生きている』に心酔してきたので、広義の「研究対象」として見ることができないんですよね。

デ・ラ・メアの短編集も買いました。
難解で意味不明の作品よりも、メルヘンチックだったり、幻想的だったり、愉快なおとぎ話だったり、衒わずに希望を指し示すような作品の方が実はぼくは好きですね。一方で、苦悩し、煩悶し、不幸に襲われ、どうしようもない人生を送る登場人物がいる作品も好きですね。

レポートを書きたいのだが

2011-01-28 22:42:29 | お仕事・勉強など
今日、ある授業に出たら、期末レポートは来週に提出です、と言われた。突然に。諸々の事情で、その授業は今日が今年最初だったのですけれど、同時に今年最後でもあります。だから、レポートについて語るのは今日しかなかったのですが、それにしても、提出は来週かよ。う~む、ひどい。いや、怠惰で不勉強な学生だったら、なんとか1週間で2、3冊の本をぱらぱらっと読んでそれでレポートを書いてしまえるのでしょうけれど、あるいは既に書くテーマがほぼ決まっている学生だったら大した問題もなくこなせてしまえるのでしょうけれど、ぼくはこの授業のレポートには真面目に取り組みたいとずっと考えていて、だから、レポートのテーマが公表されたらすぐに取り掛かろうとしていて、1ヶ月くらいはかける心算だったのです。それが、なんだよ、これは。ひどすぎる。真面目な学生への背信行為ではないですか、ええ?

自分にとってはほとんど未知の作家、未知の哲学者について一から勉強して、それをレポートにまとめようと思っていたのに。一週間じゃできっこないじゃないか。そうとうお粗末なものになり下がるしかない。

まあいい、明日から手持ちの資料でなんとか頑張ります。くっそう。
本当は、授業期間中にもっと勉強していればよかったのですが、他の論文に追われっぱなしでそれどころではなかったしなあ。だいたいレポートのテーマが決まらなければ調べようもなかったわけですが。
ちっくしょうめえええ。

プリルーコ・プリリュツキー

2011-01-28 00:35:57 | 文学
N・G・プリルーコ・プリリュツキー『ドストエフスキー 人生と創造』という本があるそうです。いや、それだけなんですけどね。ロシア語の本。ちょっと気になるなあ。いやその、書いた人が。

シュペルヴィエルとかシュヴィツゲベルとか、あるいはシュペイブルとか、名前っておもしろいですよね。

ところで、N・G・プリルーコ・プリリュツキーの「N・G」にはどんな名前が入るのでしょうね。気になる。というか、これは名前なのか。

ペンネンネンネンネンネネムの伝記は最高におもしろいですよね、やっぱ宮沢賢治は天才。

そういえばベールイ『ペテルブルグ』の中にはペップ・ペッポヴィチ・ペップが登場する。

この文脈で言えば、スポポヴィッチもいい線いってるよね。ヨーヨーマもおもしろいよなあ。あとヨーカイとか。エルケーニュ・イシュトバーンはカッコイイ。イスカンデルはイスカンダルみたいだ。

漢字にもおもしろいのありますよね。漱石の小説とか・・・

もう花粉!?

2011-01-26 23:31:13 | Weblog
花粉、飛んでませんか?

今日、くしゃみと鼻水が何度か出ました。
まさか風邪じゃあないだろう、とすると、花粉・・・

早くないですか。いやだなあ。4月いっぱいまでは、気が重いですよ。
困るのは、映画も満足に見られないということですよね。

ぼくはけっこう症状がひどいので、つらいです。
近年はそう飛散していないようでしたが、今年はすごいらしいですからね。

はーれはれはれ、いやだなあ、あよいっと。

耳すまファンよ、

2011-01-25 17:44:02 | アニメーション
このような計画が密かに進行していたとは、寡聞にして知りませんでした。最近は聖蹟桜ヶ丘に行ってないからなあ。よってノア洋菓子店にも、ハートフルコンサートにも。この日は学会当日で、どうしようもなかったのです。残念。

で、何が進行しているかというと、これです。
http://www.asahi-net.or.jp/~hn7y-mur/mimisuma/monument.htm
聖蹟桜ヶ丘に耳をすませばのモニュメントを建造しよう、という企画なのです。
皆で色紙に耳すまへのメッセージを書いて、それを呼びかけ人のもーりさんに送付、更にそれをスタジオジブリに提出する、とのことです(詳細は上のリンク先に飛んでください)。

いよいよ動き出しましたね。企画もそうですが、もーりさんがね。うれしいです。

モニュメントの企画自体は前からあったと記憶していますが、なかなか実現への道のりは具体的に示されてきませんでした。それがここへきて、急に形になったような気がします。確かに、まだスタジオジブリが承認するか決まっていないですし(というか提出すらまだですが)、色々と「大人の事情」があるのでしょうけれども、実現したら一ファンとしては喜ばしいことですね。昔はファンと住民間との不和が囁かれたこともありましたが、今は双方が協力して町おこしを行うべきときですし、その友好の象徴としてもモニュメントは機能するように思います。でも何よりも、そこにあるのだ、という安心感と希望をモニュメントは与えてくれますよね。

――最近どうも何をやってもおもしろくないんだ。本にも映画にも集中できない。昔はこんなんじゃなかったはずなのに。どうしてだろう。どうしちゃったんだろう。あの頃のように、一生懸命がんばって、一生懸命笑って、一生懸命泣いて、輝きたいんだ。ぼくはどうすればいい?
――聖蹟に行ってきなよ。そこに、あるから。

あるから。何が?君の望んだものが。君のかつて望んだものが。君がこれから望むだろうものが。すなわち、君自身と等価のものが。

もう一度、青春の思い出に賭けてみないか。ダメでもいい。自分のためでもあるんだから。
耳すまファンよ、思い出そう。この映画に熱中した日々を。自分の感情を吐露した日々を。吐露した相手を。吐露した場所を。素直に、考えよう。この映画がなかったら、今の自分はこのような自分でありえたか、どうか。一人で観て泣いた人も、共に観て泣いた人も、笑った人も、感動した人も、そして失神した人も、どうか、どうか、この映画への気持ちを、あの頃に感じた気持ちをもう一度、蘇らせてみないか。

今は書く気が起こらない

2011-01-24 23:41:40 | Weblog
ごく短い短編を一つだけ読んだのですが、それについて感想を書く気が起こりません。いや、つまらなかったわけではなく、なかなか妖しい魅力のある興味深い一編だったのでありますが、どうもなあ。多くの難しい漢字に振り仮名がふってなかったので(緋縮緬とか長襦袢とか盂蘭盆とか・・・まあ読めますけどね一応)、読むのが疲れた、というのもありますが、どうやらこれは、小説の問題ではなく、気分の問題のようだぞ。なんか、時間の使い方がよく分からなくなって、混乱している・・・というか、何も手につかない・・・腰を据えて何かをやる気がしない・・・

というわけで、ちゃんとした感想は週末にでもなったら書けるようになるかな。

そうえいば、先日東大であったシンポジウム、行く気満々だったのに、当日になるとすっかり忘れてしまった!で、もちろん行きそびれました。なんでこんなことに・・・前にも同じようなことがありましたが、忘れっぽい性質なんですねえ。

駅伝を見る

2011-01-23 22:22:22 | テレビ
昼間やっていた男子駅伝を見ました。

1区でゼッケン4番の宮城が突然ロングスパートして、ぐいぐい前に出てきたのには驚きました。最後はかわされてしまったけど、おもしろかった。で、次の2区のランナーについてなのですが、タスキが来るのを待っているとき、ゼッケン28番の兵庫が、4番の宮城を手で押してるんですよね。28番→→4番。中学生なのですが、すごい力で4番を押しまくって、列に並ばせようとしないんですよ。4番は必死にこらえていただけで、押し返そうとはしていませんでした。明らかに4番が速いのに、28番はその4番に先にタスキを渡してなるものかと、受け渡し地点で邪魔しているんですよ。

これってどうなんでしょう。駅伝を見ていると、しょっちゅうこういう場面に出くわすのですが、今日はこの中学生たちだけでした。強豪の中学校では、生徒にこういう指導をしているのでしょうか。タスキの受け渡しも、バトンのそれと同じで重要なのかもしれませんが、相手選手を押しまくって邪魔することで勝利しようとする根性は、少々浅ましい。勝利が大事なのはよく分かりますが、あれは反則なんじゃないかと思うのです。もっと正々堂々やれよ、と素人は思ってしまう。卑怯だと視聴者に感じさせるようでは、スポーツとしてまずいのではないかなあ。これは「高度な駆け引き」なんてものじゃないですよ。

ところで宮城は途中1位にまで上がったのに、最終区で8位に落ちてしまいました。残念。でも勝った栃木は初優勝らしいので、それはおめでたいですね。28番じゃなくてよかった(坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というやつです)。

そろそろ2月の予定を決めないと

2011-01-23 01:19:39 | Weblog
どうでもいい話。

論文を読みました。それはとても立派な論文の気がしたんですが、でも意味がよく分からなかったです。論文を書くには二日三日、いやひと月もふた月も、あるいはもっとかかっているので、読む側だって、それ相応の覚悟と熱心さと根気で読まなければならない気がします。そうでなくては、よく分からない、ということになってしまいそう。往々にして。

プリンタのインクを買いに新宿まで。それだけのために電車に乗り、それだけの用事を済ませて帰ってきました。こんなことは珍しい。

さて、そろそろ2月の予定を決めないといけません。主にメディア芸術祭の予定なのですが。今年は見たいものが多いので、行く回数もちょっと多くなりそうな予感。3日と4日は必須。でもバイトの関係で、3日はできれば避けたかったのですが・・・しかし、この日を逃すとまずいのですよ。

2月は他にも幾つか予定があるので、休みの日の外出が増えそうです。去年まではあまり遊ぶ機会のなかった人たちと遊ぶことも増えそうで、楽しみ。誘ってみるものだな。ぼくは基本的にはシャイなのですが、豪胆なときもありまして、誘いたいときにはえいっと誘ったりするのです。誘いたいから誘うのだ、と。それを豪胆と言うかどうかは分からないのですが。

思春期か

2011-01-21 22:53:25 | アニメーション
なんてこった。

思春期は失望のどん底にも喜びの絶頂にも容易に達することができると、頭では理解していたのに、ぼくはその感覚を忘れていたんだと思う。『放浪息子』を見て、ああこの頃ってキュンキュンだなあと漠然と甘い感慨にふけっていたぼくですが、今日突然、学校からの帰り道にそのことに思い至り、愕然としました。

中学生って、苦しんでるんだよなあ。鬱々と過ごすことが多いんだろうなあ。そのもやもやした得体の知れない感情のはけ口も見つからず、暗く冷たい水底でじっと耐えているような、そんな気分なんだよな。そうかと思うと一転して有頂天になったりするんだよな。そうなんだよな。そうなんだよな。

ああ、この痛みも、孤独も、喜びも、ぼくは忘れていたのかもしれないなあ。だめだ、感受性が全然足りなかった。『放浪息子』を見て、あの頃の痛みを思い出そう。

書くことにまつわること

2011-01-19 23:43:13 | Weblog
パソコンのWordの左下隅に、「文字数」が表示されますよね。でもあれって実は「単語数」であって、「文字数」ではないんですよね。文字数は、ちゃんと文字カウントで数えないと分からないんですよね。・・・知っていたはずなのですが、なぜか昨日と一昨日はそのことをすっかり失念してしまっていて、なかなか増えない文字数を見て、どうやら自分は今不調らしいぞ、と感じていたのでした。ところが、今日になってふと、これは単語数だよ!と閃き(?)まして、正しい文字数をカウントしたところ、もう十分な分量になっていることが判明しました。いや十分すぎると言うべきか・・・

ぼくは書くのがわりと早い方で、多いときは1日に1万字ほど書いてしまえるのですが、先日はたっぷり半日かけても6000字ちょっと。しかも、実感としてはそこそこ書いた気になっていたのでした。だから、おかしい、どうも不調らしいぞ、と思ってしまったのです。珍しく苦戦を強いられて書くことの苦悩を味わいましたが、それもどうやら間違いだったようで。いやまあ、苦悩したというのは確かにそうなのです。何を書いたらよいものか、と考えてノートに素案を記して頭をひねったりしましたからね。2万字くらいだったら、特にメモを基にしたりせずに頭の中だけに構築した論理をただひたすら文章に乗せることができるのですが、今回はそれをせずに、ああでもないこうでもないとメモを作りました。でも実はこれが本来の姿なのか。

さて。書くことと言えば、例の芥川賞ですが、あの人は、ちょっとトントン拍子すぎますよね。去年そのことを書こうと思っていのですが、芥川賞まで受賞して、そのトントンぶりに益々拍車がかかりましたね。まずは読んでみて、それから何か言えよ、と心ある人なら助言するのでしょうが、経歴が凄すぎて読む気すらしない。デビューから最短で芥川賞を受賞したのでは。デビューの内幕にしても、文学一家に生まれた幸運にしても、読もうという気を起させるものが何もない。ええ、はっきり言いまして、これは妬みですよ。もちろん、幸運なだけの人生なんてないと思うので、陰では案外苦労、苦悩、懊悩しているのかもしれません。例えばその華々しい経歴ゆえに。庶民には庶民の、王様には王様の苦悩があるということです。どちらが本当に辛い、ということはないでしょう。人は皆それなりに悩んでいるのですから。でもね、ぼくは、やっぱり、読む気しないですね。

それと気になったのは、直木賞の選考過程で、ある小説がゲーム的だとして厳しい批判が出た、との情報。なんで文学がゲーム的だといけないんだ?だいたい、ゲーム的ってどういうことなんですか。まあ、断片的な情報に考えを巡らせるのは無駄なのかもしれませんが、でも実はそれってけっこう楽しい。

パラジクロロベンゼン

2011-01-17 01:52:48 | Weblog


ボカロの歌には、「虚構の人」が歌うという必然性がほしいとぼくは思っていて、というのも、多くの場合、同じ曲を歌うのならば、現実の人間の方がやはり情感豊かに聞こえるから。その点で、この鏡音レンの曲は、ボカロが歌うべき歌だという気がします。

存在の不可解さを「パラジクロロベンゼン」という言葉に仮託しているわけですが、そこから視聴者はこの詩の意味を自分に引き付けて考えるようです。妬みや悪意の止まないこの世界で、生きる意味はあるのか、と。ところがぼくは、ボカロという存在の哀しさをこの曲に見ました。歌う意味はあるのか、と問う彼は、無意味に抗しているようにも、それを肯っているようにも見えます。歌うことが存在理由である彼らは、しかし所詮人の真似事をしているに過ぎず、したがってその存在は人に依存しています。オリジナルとしての意味を確立できない哀しさ、空しさ、無意味さ。自分の存在は無意味なのではないか、という問いかけは、ボカロによってなされたとき、逆説的に力強い意味を獲得します。恐らく生身の人間の発する問いよりも、巨大な。もちろんこの問いは我々の心にも突き刺さるべきものであって、存在の不安は消えません。

ボカロの歌った曲の中で、そしてこれから歌う曲の中で、最高傑作であることを運命づけられているのが、「初音ミクの消失」です。たぶんこれ以上の歌が今後作られることはありません。ミクが自らの生に自ら幕を下ろしたこの歌が比較的初期に制作されてしまったということは、ボカロというのは、初めから、既に、終わることが宿命だったに違いありません。恐らく、人間の似姿として、つまり、人類の終焉の比喩として。

大袈裟、とは思いません。人間とそれを真似る機械との関係は、実はとても哲学的なのです。

ミクの最期の絶唱が感動的なものであるならば、人間の儚い生もまた、そのようなものである、無意味なものではないのだと、思われてくる。パラジクロロベンゼン?いや、そうではないのだ、と。

自殺機械

2011-01-17 00:12:07 | 文学
きのうは、本当にまったく意図せずに暗めの記事になってしまったので、今日はもうちょっと明るくいきますよ。意図的に!だいたい、ぼくは実際に書き始めるまで、あんなことはこれっぽっちも考えていなかったのです。ところが、書きながら、心の奥底で凝っていた心理がのそりと起きだして、ああいう内容になってしまったのです。それでも、ちょっと滑稽味を出そうと「である」を多用してみたのですが、効果薄だったかも・・・

さて、寺山修司『自殺学入門』を読みました!てへっ!そこに自殺機械なるものが出てくるのですが、要するに自動で自殺できる機械のことです。なるほど。人は色々な機械を作り出すものと見えて、有名な「独身者の機械」などがありますが、他にも珍妙な機械がたくさん考案されていますよね。そしてそういう機械について論じた本までありますよね。題名をど忘れしてしまっていま記しておくことができないのが残念ですが。ひゃっほーっ!

ところで、この『自殺学入門』は、自殺するための心得を書いているのですが、寺山修司によれば、多くの自殺(と考えられているもの)は実は自殺ではなくて、他殺なのだそうです。確かに、社会的、政治的自殺は他殺ですよね。借金苦で死ぬのも、いじめを苦にして死ぬのも、実はこれ他殺です。では自殺というのはどういうものかと言えば、「きわめて贅沢なものであり、ブルジョア的なものである」。また、生から自由になるために死ぬのは本来の自殺ではなく、自由を求めて死ぬのが正しい自殺みたいです。

と、ぼくは非常に不謹慎なことを書いているようですが、これはぼくの意見ではありませんよ、念のため。それにしても思い出されるのは、先日、池澤夏樹が書いていた、子どもには選挙権がないように、自殺権もまたないのだ、という文章。この言葉は、大変美しいと思った。一般的論理を跳躍して愈々高く昇る、文学者の論理、詩人の論理。いぇーい!

寺山修司は、自分を傷つけることが他人を傷つけることにも繋がってしまう時代を嘆いていますが、でもそれはいつの時代も同じだったのでは。藤村操も、やはり他人を傷つけているのでは。とすれば、寺山修司の夢想する本来的な自殺、いわば純粋自殺は、自殺機械と同様にまた実現しない、文学者の甘美な幻想に過ぎないのかも。

にっしっし。

テーマもなくて

2011-01-16 00:18:08 | Weblog
ぼくは外交的な人間じゃない。というか、行動的な人間じゃない。
だから、一人で飛行機に乗ったり、一人で空港をうろついたりするのが嫌なのである。海外で学会があると、一人で海外に行く羽目に陥ることが往々にしてあると思うけれども、ぼくのような人間はどうすればいいのだろうと、とても不安。はっきり言って、一人で海外に行くのは怖いのである。大体にして、研究者という人種が皆行動的であるとは思えないのだが、彼らはこれまでこういう試練をどうやって乗り越えてきたのだろうかと甚だ疑問である。

内向き志向と言われるけれども、留学だって、はっきり言って怖いのである。嫌なのである。こんなことを書くと、あれやこれや言われそうだけれども、本当なのだから仕方ない。

突然、(ぼくにとっては)未知の国に行かないかと誘われても、ぼくなどは恐れをなして逃げてしまうのである。そして、自分の勇気のなさを恥じ、勇気のある人の行動力を羨望してしまうのである。自分と他人との懸隔の大きさを思い、ひどく落ち込んでしまうのである。誰か一緒に行ってくれる人があれば別だけれども、なかなか大枚をはたいてくれる人はいない。

海外でも通用する語学力があれば、もしかすると心情も変化するかもしれないが、当分はそれも望めない。ぼくはただ日本でのんびりと本を読んだり文章を書いたり散歩したりして穏やかに暮らしたいだけなのである。なんでこんなことになっているのだろう、と自分の運命が馬鹿らしく思えてくる。そうだ、これは悪い悪戯だ。よりによって、どうしてぼくなのだ。こんな引きこもり体質の自分が、なぜ。自分で選んだんじゃないか、と言われれば、なるほど返す言葉もないけれども、しかし、「知らなかったんだ、本当に」。

それにしても、研究者ほど劣等感を抱き続けなければならない職業もないかもしれない。もっと自由になれないものか。どうかどうかどうか。

それにしても、こんなことを書くつもりはさらさらなくて、センター試験のことにでも触れようかと考えていたんだけれども、これはどうしたことか。気分が悪くなってしまった。もうやめよう。しまった。本当に胸糞悪い。

それにしても、と閑話休題したいところだけれど、今日は本当にこれでおしまい。

そいつは突然やってきたのだった

2011-01-14 22:23:22 | アニメーション
木曜のアニメ、感想。

きましたねえ、ようやくこのレベルのものが。最近はつまらないのでテレビアニメからも遠ざかっていたのですが、来週が楽しみなアニメがやって出てきました。

まずは、『フラクタル』。まだどういう展開になるかよく分からないし、ご都合主義と言うか、ちょっといい加減にも見える脚本の流れもあったのですが(服が脱ぎ捨ててあるのをギャグ要因として用いるだけで、なぜか彼女が隠れているという証拠品にはならなかったこととか)、でもそういう部分も含めて許容できる。とにかく、王道中の王道といった趣きで、『ナウシカ』のメーヴェっぽい乗り物や『ナディア』っぽいキャラクターなんかが登場します。未来の世界が舞台で、どうやらフラクタル理論が確立し、人々は「遍在」できるらしい。理屈はまだよく分かりませんが。これからの展開に期待ですね。久々の、懐かしの王道アニメ。いいね。

で、次。『放浪息子』。きましたね。ええ、きましたよ。きたんですよ。『フラクタル』の「ついで」に見始めたのですが、これが、なんといいますか、いいんですよ。すげえおもしろいじゃん、なにこれ、やばいよね、と。中学に上がったばかりの少年の女装がモチーフでして、少年が少女になり、少女が少年になる、という作品のわけですが、こんな設定を聞いたらかえってよくないのかな、なにそれ変態アニメじゃんとか思う人もいるのかな、でもね、そうじゃないんですよ、胸キュンですよ。ぼくはもうきのうの夜にこれを見てから、一日中キュンキュンですよ。夢でもキュンキュンでしたよ。キュンキュンしたい人は必見ですよ。とにかくキュンキュンなんですよ。たまらん。ちなみに、絵のタッチも独特で、非常にいいです。新鮮な感じ。すばらしい。