Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

xxxHOLiC◆継

2008-06-29 00:18:27 | アニメーション
『図書館戦争』のついでに見始めたアニメで、なんという興味もなしに見てみたのだが、これが実におもしろい。CLAMP原作で絵に特徴があるが、さして気にならない。怪奇を扱った作品は他にも色々あるが、このアニメはとにかくテンポがいい。そしてキャラクターがいい。特に四月一日(ワタヌキ)。自分は男だが、彼には惚れた。ドウメキにはいつも食って掛かり、ひまわりちゃんにはでれでれで、とにかく二人に対してはハイテンションなのだが、ときどきシリアスになるときがあり、そのギャップが非常にいい。そして彼はとても優しい。なんていい奴なんだーーー!

また、声優も気に入った。外れがない、どころか、ばっちしハマっている。アニメーションというものは制作にとても時間がかかり、原画や動画をこつこつ書いていく作業から作品が生まれるのに対して、声優は最後に少しばかり作品に関わるだけなので、アニメーションにとって声優の果たす役割は大きくない、という意見もあるのだが、やっぱり大きいとおれは思う。声優が悪いと作品のイメージもがらりと変わってしまう。例えばもののけのモロの声が美輪さんじゃなかったら、と仮定すれば誰にでも納得できるだろう。美輪さんは見事だった。HOLiCも見事だった。

最終回は宴会で締め括られたが、最後声を入れないという勇気ある演出にも拍手を送りたい。これだけ声優が揃ってる中で、声を出さない。気分が高まったし、とてもいい気持ちで幕が降りるのを見ることができた。

個人的には小羽ちゃんが好きになった。彼女、いいよね。姿を消した次の回に唐突にまた現れたのは残念だったが、彼女の台詞はマジで怖かった。「その小指、誰と指切りしたの?」鳥肌が立った。たぶんこの台詞を言わせたいがために彼女を登場させたんだろうが、出すか出さないか確かに判断に迷うところだ。

ということで、『図書館戦争』より数倍おもしろかった。『図書館戦争』の感想はきのう書いたが、残念な出来だったので。

図書館戦争 総括

2008-06-28 01:08:38 | アニメーション
『図書館戦争』が終了した。けっこう期待して見たアニメだった。原作を読んだことはないが、図書館が舞台の話というので、本好きの人間としてはどうしても期待してしまうではないか。それも制作がプロダクションI.Gとくれば、尚更だ。だが、実際見てみると、正直それほどおもしろくなかった。

他の人のブログなどを見ると、設定がよく分からない、と言っている人をちらほら見かけた。その人たちは、武器使用の制限や殺傷力(防衛力)などを問題にしているようだった。しかし、おれとしては、そういうことよりも、話に軸がないように感じられた。本来なら、図書隊と図書を検閲しようとする団体との抗争を縦軸に、ヒロイン笠原と教官である堂上との恋愛を横軸に描いていくのが正当だと思うのだが、とにかくその横軸、つまり恋愛の要素が薄い。最後の方になって二人が接近するようになるが、あまりにもその転換が急すぎた。お互い似たもの同士ということはさんざん言及されていて、実は互いに惹かれ合っているのでは、というような雰囲気も醸し出されてはいたのだが、特に笠原の場合、到底恋愛には結びつきそうではなく、憧れの王子様が堂上だと知ってから急に恋愛感情を抱くようになるのは不自然だった。それよりは、王子様のことを好きでいる一方で、しかし堂上のことも気になりだしていて、二人のことで葛藤する、みたいな描写があった方がよかったのではないか。それなら、王子様が堂上だと知って悩みが解消するわけだ。それにしても、高校のときに出会った恩人(王子様)が堂上だとは分からないものだろうか?身長に特徴があるのだし。

最後の方の話で、明らかに他の回と作画が違っていた回があった。TVアニメでは全ての回の絵柄を完全に統一することは難しいと思うが、なぜ一回の放映のみ違いが際立っていたのだろう。もちろん、些細なことではあるが。

最終話、かなり唐突な印象がした。前回のラストがかなり気を持たせる終わり方だっただけに、次の話の冒頭で既に戦闘が終了しているシーンから流すのはいかがなものだろう。エヴァみたいにそれから回想で戦闘シーンに戻ればいいのだが、そういうこともない。堂上が一時的な記憶喪失のような症状になっているのも唐突すぎる。最終話は全体的に、なんだか打ち切りの決まった漫画みたいに、むりやり決着をつけさせているような印象が残った。

それに、不満ばかりでナンだが、各話の盛り上げ方、というか、展開の仕方がいまいちだった気がする。次はどうなるんだ、というような気持ちをそそられる感覚を持てなかった。急に事件が起こって、たいした対立もなく解決する。それのくり返し。話の中で事件が起きる、というよりは、話が始まる前に、既に起きてしまっている。それはそれで一つの描き方だからいいのだが、その場合には解決の仕方に工夫をこらすべきで、しかし本作にはそれがない。ありきたりの解決方法で終わっている。戦闘シーンにも迫力がない。

『図書館戦争』で興味を持ったのは、人物の輪郭線の太さ、それに、エンディングで笠原が空を飛ぶシーン。それだけ。しかし、空を飛ぶシーンは、なかなか臨場感があって、よかった。最終回では見られなかったのが残念。

総合的に、五段階評価で☆☆(星ふたつ)くらいか。

比較として『×××HOLiC 継』についも書こうと思ったが、やや長くなってしまったので別の機会にしよう。

今日のお笑い番組

2008-06-27 00:20:11 | テレビ
26日、日本テレビで19時からやっていたお笑い番組は、完全にレッドカーペットのぱくりだ。制限時間の設定を少し工夫しただけで、後は何も変わっていない。特に1分ネタで出てくる芸人はレッドカーペット芸人と同じ。オードリーに至っては今週のレッドカーペットと同じネタをやっていた。放送日を確認しなかったのか?5分ネタになると、ベテランの芸人が出てきたので、その点がレッドカーペットと違っているところだ。それにしても、こうも同じような番組が続くのは、いいことなのだろうか。プロデューサーは何を考えているのだろう。視聴率が取れれば何でもいいのか。こうなるともう、作る馬鹿に視る馬鹿、という感じ。かく言うおれも見なきゃいいんだが、他におもしろい番組がやっているわけじゃあないし、家族がチャンネルを回すから見てしまう。う~む。

今は、クイズかお笑いか、という感じで、同じような番組が本当に多い。中にはおもしろいものもあるが、つまらないものもある。つまらないものはいずれ淘汰されていくんだろうが、それまでが長い。

で、そのお笑い番組のネタだが、芋洗坂係長とバナナマンがおもしろかった。前者はよくそんなに口が回るなあと関心、後者はそういうことよくあるよくある、と見ていたら、だんだん行動がエスカレートしてきておもしろかった。さすがに朝礼でふざけて手錠ははめないよね。

A・グリーン『黄金の鎖』

2008-06-26 02:17:52 | 文学
ロシアの作家アレクサンドル・グリーン(本名グリネフスキー)の『黄金の鎖』(早川文庫、1980)を読了。グレアム・グリーンではないのでお間違えなく。

グリーンはいまやロシア文学ファンの間では日本でもよく知られるようになったが、この翻訳が出た当時はようやく名前が知られるようになってきた頃だったようだ。そういうときに出版してくれてありがたい。もっとも、もう絶版だが。

『黄金の鎖』が書かれたのは1925年だが、1920年代のロシアはアヴァンギャルドの時代であり、革命の時代であり、そして長編小説の形式に疑問がもたれるようになった時代であった。そのような時代に、本書はロマン派的な雰囲気を伴い、政治性を帯びることなく、いかにも小説然とした様子でロシア人の前に現れた。本書の主人公は船長を夢見る16歳の少年で、彼はかつて海賊が隠したという黄金の鎖を巡る陰謀に巻き込まれていく。

しかし、だ。そのような時代的な奇抜性、反時代的に己の信念を曲げなかった意思と空想力の強さを認めたとしても、この本がおもしろかったことにはならない。いや、つまらないというほどではない。けれども、グリーンであれば、もっと血湧き肉踊る冒険活劇を描けたのではないか、と思ってしまう。せっかくの「黄金の鎖」という道具立てを活かしきれていないように感じてしまった。様々な思惑と陰謀の交錯するまさに中心点となるそれは、水夫見習だった主人公を冒険の海へ投げ出すことは残念ながらない。彼の冒険は陸に限定されており、しかもその直接のきっかけは黄金の鎖とは別のところにある。もちろん、婉曲的にそれとも関係はしているのだが。

また、少々事物の描写が分かりづらい。一部を切り取っただけの会話も内容がさっぱりつかめないし、言い回しが回りくどいことがある。冒険譚であればもっとすいすい読み進めたいものだが、これら、特に事物の描写がブレーキをかけてしまう。翻訳者は訳者として優れた業績を残した人だから、恐らく原文が悪いのだろうと推測する。同じ単語の積み重ねなどは、翻訳としてはどうしても避けたいところだろうが、これはあえてそうしているのか。全体的に少しばかり疑問の残る文体ではある。

だが、最後の締め括り方(物語の終え方)は、非常にグリーンらしいと思えた。最終章も余韻が残る、いい出来だった。小説にこれといった山場がない分、最後の雰囲気が印象に残る。

アレクサンドル・アレクセイエフ

2008-06-24 23:03:05 | アニメーション
アニメーション界の巨人、アレクサンドル・アレクセイエフ。ロシア出身のアニメーション監督だ。この人はピンスクリーンというアニメーション技法を開発したことで知られ、それを応用した作品を後に妻となるクレアと共に制作してきた。その映像はモノクロなのだが、神秘的で、不可思議。ピンスクリーンはメタモルフォーゼに適した技法と見た。

さて、そのピンスクリーンなのだが、縦横60cmくらいのボードに極小のピンを約25万本取り付ける。そのピンを出したり引っ込めたりすることで、ボードに光を当てたときピンの影が模様を形作る。それを一コマ一コマ撮影するわけだ。…と書いて、果たして何人の方がこの複雑な技法の仕組みを理解できるだろうか?実際に見てみないと分からない部分が多いのだ。大方のアニメーションの解説書には上のような説明が載っていると思うが、見るのと聞くのとでは違う。

上の説明では指で一本一本ピンを動かすように思われても仕方ないが、ピンの小ささは想像を絶する。これを動かすには道具を用い、また、ふつう複数を同時に動かす。ボードのピンはあらかじめ全て突き出ており、それをローラーなどの道具を使って裏側へ押し込む。すると、ピンの影で黒く覆われていたボードが、ローラーで引かれた部分だけ白くなる。そこだけピンが押されて影が消えたためだ。黒のボードに白い模様が浮かぶことになる。ローラー以外の様々な道具を用いることによって、絵を描いていくことができるのだ。したがって、筆を使わないからといって、絵心がなくてはピンスクリーンは使いこなせない。

この技法を使って制作された世界初のアニメーションが『禿山の一夜』だ。これは、映像が悪いのかどうか、ほとんど真っ黒で何が何だかよく分からないのだが、しかし、モノのメタモルフォーゼは滑らかで見事。これだけのメタモルフォーゼはそうそうできるものではない。画面が暗くて見にくいかもしれないが、一見の価値はある。

ピンスクリーンで制作された最高傑作は、個人的には『鼻』だ。ロシアの文豪ゴーゴリの同名の小説を原作にしている。小説を読まずにアニメーションを見ただけでは話がよく分からないと思うが、この作品はとにかくその映像表現がすばらしい。オープニングが印象的。朝の光で家々が刻々と明るくなってゆくところをこれほど丹念に描いているアニメーションを他に知らない。また、画面設計が独特で、家の内部と外部とを同時に見せてしまう。その見せ方はピンスクリーンならでは。場面展開の仕方も緩やかでおもしろい。最後、このアニメーションで唯一の音声が入るのだが、それも効果的。

ちなみに、ピンスクリーンの技法はジャック・ドゥルーアンが継承した。

ポニョの声優

2008-06-22 23:57:17 | アニメーション
少し前に宮崎駿の新作『崖の上のポニョ』の声優陣が発表されたが、今回は前回ほどの目玉となる人がいない。キムタクほどの。今までジブリは著名な俳優・タレントを使ってきたが、今回は主役が子役ということもあり、配役が控えめな印象。強いて目玉をあげるならばポニョの父親役の所ジョージか。でも大物を使わないんだったら、どうせならちゃんとした声優を使ってほしかった。

それにしても、男の子の父親役に長嶋一茂を使っているのは解せない。彼は役者としてはとんだ大根役者だと思うのだが。台本が棒読みになっていなければ良いのだが。

テレビで予告を流さないのでいまいち盛り上がりがないのだが、どんな風な映像なのだろう。映画館では予告編が流れているようだが。行かないし。ハウルのときは公開直前に一挙に放映していたが。深夜に。それでググッと興奮してきたのだが、今回はどうも気分が乗ってこない。今のところは。しかし、写真を見る限りではどうやらかなり単純化された絵のようだが。物足りなさを感じてしまわないか心配だ。特にCGを見慣れた若い観客に。期待というより不安。ファンなだけに尚更。

藤原竜也主演・かもめ

2008-06-21 01:13:55 | お出かけ
20日、藤原竜也主演のチェーホフ劇『かもめ』を観に行った。
座席は特等席で、かなりよい。満席で、かなりの賑わい。特筆すべきは女性客の多さ。これってやっぱり藤原竜也のファンなんだろうな。分かる。おれも藤原竜也好きだから。

さて、幕が開く(と書いてみるものの、実は既に幕は開いている)。しばらくしてトレープレフ役の藤原竜也が登場。異様にテンションが高い。トレープレフってもう少し神経質そうな人じゃなかったっけ?と思いながら、でもそういう演出意図なんだから、何か理由があるんだろうと当たりをつけて見る。ニーナが登場してからはほとんどコメディで(もっとも、この戯曲はチェーホフに「コメディ」と名付けられているが)、トレープレフがニーナにのぼせ上がっているのがありありと分かりすぎるほど分かる。ちょっと過剰じゃないかな、と思いつつ見る。

劇中劇が始まり、アルカージナが茶々を入れてトレープレフが激昂。そのとき、藤原竜也は舞台から降りていて、おれの座っているすぐそばまでやってきて、台詞を言う。かなり怒っていて、お腹の底から声を出している。こういう演技うまいよな、と思う。

さて、第二幕ではトレープレフがかなり神経質になっているのが分かる。第一幕の後半もそうだったが。ここで、ああ、最初に異様にテンションが高かったのも、神経症の一種だからか、と納得。

トリゴーリンの言う強迫観念はおれにもよく分かる。何かあるたび毎に、これは何か小説で使えるんじゃないかと思ってしまう、というのは。別に小説書いてるわけじゃないけど。

第三幕は、喜劇色がかなり濃い。特にアルカージナ(母)とトレープレフ(子)の掛け合いが。トレープレフってマザコンかあ、と思わされる。それと、アルカージナとトリゴーリンの掛け合いでは、アルカージナの発言が、戯曲を読む限りでは当り障りのないごく普通の台詞なのに、ある一定の演技を加えることによって、笑いを誘うということを実感させられた。チェーホフは「喜劇」と書いているのだから、こういう演出があってもいいはずだ。もっとも、チェーホフの言う「喜劇」ってのは、人生っていうのは悲劇的なことも含めて色々ありますけど遠くから見れば喜劇なんですよ、って意味だとおれは理解してる。が、劇の中にも笑いが含まれることがあるのも確か。以前、『ワーニャ伯父さん』で爆笑が起きたことがあった。

第四幕。の前に20分の休憩。外に出てみたら、女子トイレの前が長蛇の列。もはや先頭が見えない。

さて、最終幕だが、一転して舞台が暗い。途中、ニーナがやってくるが、これまでとは打って変わって黒い服を着ている。マーシャのように。『三人姉妹』で明らかだが、チェーホフは色というものにかなり気を配っていたようだ。戯曲にニーナの着ている服の色の指定はないようだが、演出としては間違ってないだろう。

ところで、ニーナ役の美波だが、台詞にややたどたどしいところがあるように感じられた。初日だから?また、この第四幕で、トレープレフと誰かとの対話がちょっと止まってしまったところがあった。もともとの「間」だったのかもしれないが、おれには俳優が台詞を忘れ、そこへ藤原竜也が助け舟を出していたように思われた。もっとも、本当のところはちょっと分からないが。

最後のピストルの音にドキリとさせられた。瞬間的に照明が明るくなる。普通、「トレープレフ君がピストル自殺したんです」という台詞で暗転するのだが、今回はそれからしばらく間があり、トリゴーリンがアルカージナの席まで歩いていくところまで舞台は明るい。どういう意図があったか?すぐに暗くなるイメージがあったので、ここは違和感があった。

藤原竜也は、初めは颯爽と歩いているのだが、次第に腰を引きつらせたように歩くようになり、神経質な感じがよく現れていたように感じた。他の出演者も皆、芝居達者な人ばかりで、なかなかおもしろかった。

さて、その藤原竜也だが、来週のとんねるずの「食わず嫌い」に出るそうだ。彼がバラエティに出ているのは見たことがないので、やっぱり珍しいんだろう。テレビにも滅多に出ないからな。それにしても、藤原竜也がバラエティか。見てみたい気もするけど、彼にはこういうのに出て欲しくない、という気もする。複雑。

へんてこ小説

2008-06-20 00:18:33 | 文学
『ハルムスの小さな船』(井桁貞義訳、長崎出版)をようやく通読した。去年刊行された、ロシアの作家ハルムスのまとまった作品集。ハルムスについてはこのブログでも何度か触れているが、かなり奇妙なテクストを書く作家だ。たとえば、「出会い」と題された、こんな「小説」がある。

 あるとき、一人の男が勤めに出かけ、途中で別の男と出会った。
こちらはポーランド棒パンを買って、家へ帰るところだった。
 これで話はおしまい。

本当にこれでこの話はおしまい。次の作品が続く。真面目な小説しか読んでこなかった人は、「これは何なの!?」と怒り出したり不満に思ったりするかもしれないが、ハルムスというのはこういう作家なのだ。筋の通った話をいわば脱臼させ、へんちくりんなものにしてしまう。

『ハルムスの小さな船』には、この「出会い」のような妙な味わいの小説が詰まっており、ちょっとした気晴らしには丁度いいかもしれない。小説を読むのが面倒、だとか、長い話は苦手、だとかいう人にもぴったりだ。最後の「老婆」を除けばこの本は30分もあれば全て読み終えることができるから。

また、この本は挿絵とも切り離せない。もともとハルムスのテクストには挿絵は付いていないのだが(全集には付いているものの)、『ハルムスの小さな船』には西岡千晶というイラストレーターが絵を付けている。ただし、尋常な付け方ではない。普通はテクストが主であるはずだが、この本ではテクストと絵とが完全にタッグを組んでいる。テクストの分量に対して挿絵も同等くらいで(ほぼ全てのページに大きな挿絵が付いている)、また質的にも奇妙さの点で引けを取らない。

ハルムスをこういう風に扱っていいものかどうか、賛否両論があるだろうが、ハルムスの特異さというものは強調されている。ただ、個人的には、ジョージ・ギビアンの編んだハルムス選集のような本が日本でも出ることを期待している。これはロシア語だが、もちろん日本語に訳して。問題は、需要があるかどうかだが…

トップをねらえ!

2008-06-19 01:09:33 | アニメーション
庵野秀明監督、GAINAX作品。

美少女とロボットが合わさった、いかにもおたく的な要素が詰まった作品。
でも見てみると…なんだこのスポコンアニメは!と驚くことに。特に1話と2話はものすごい。いかにも、な展開にいかにも、な登場人物。しかし…
敵である「宇宙怪獣」(このネーミングセンスはなんだ。狙っているのか?)が姿を現すあたりから、雰囲気が徐々に徐々に変わってくる。それに伴ってオープニングとエンディングがなくなる。5話と6話(最終話)の予告がとんでもない手抜き、というか間に合わなかったようで、エヴァ最終話を思わせる。しかし、話自体はエヴァとは異なりしっかり作られている。その5話と6話だが、前半のスポコン的な調子とは打って変わり、いわゆる「ウラシマ効果」が主題になって出てくる。「ウラシマ効果」とは、簡単に言うと、宇宙での1日が地球では10年になる、というような時間差の問題のことで、SFなんかではよく知られている。

この「ウラシマ効果」を使ったアニメとして有名なのが『ほしのこえ』だ。それにしても『ほしのこえ』は本当に『トップをねらえ!』によく似ている。少女がロボットに乗り組む、という設定、ウラシマ効果を重要なギミックにしているところ、ワープの仕方、異生物との宇宙間戦争。ここまでそっくりだと、モチーフを完全に拝借したな、と考えてまず間違いないなと思われてくる。もっとも、『ほしのこえ』が様々なアニメの影響下に作られていることはもうさんざん指摘されているので、ここで繰り返すまでもないだろう。『ほしのこえ』の価値はそんなこととは全く関係ない。

さて、『トップをねらえ!』では宇宙怪獣の造形がおもしろい。このアニメで一番興味深かったのはこれだ。色が綺麗、とも言われているが、おれの見るところまがまがしい。ガンバスターなんかよりも、こっちの方がいい出来だと思った。気持ち悪いのは確かだが。

後半ウラシマ効果を前面に押し出すことによって、切なさを演出している。前半にも一度ウラシマ効果が用いられているが、これは後半のための布石ではないかとさえ思えてくる。ラストは1万年以上隔たってしまう。やりすぎ、とも言えるかもしれないが、悲しさが残る。

ところで、気になったのは、ヒロインたちが胸を露出させるシーンが比較的多いところ。入浴シーンなど、普通は胸を見せないように作るものなんだが。後半には無理矢理見せているところもあった。どういう意図があったのだろうか。少し気になる。

ちなみにナウシカとトトロのポスターがヒロイン(タカヤノリコ)の部屋に張られていたのはご愛嬌。

アヌシー国際アニメーションフェスティバル(2)

2008-06-18 01:15:23 | アニメーション
前回に引き続いてアヌシーのことを。

加藤久仁生がアヌシーで賞を取ったことは16日の朝日新聞朝刊で知ったのだが、その記事というのが、ものすごく小さい。翌日にもっと詳しい記事が出るのかと期待していたが、17日になってもまだ出ない。

何かと言うと「日本のアニメは誇るべき日本の文化だ」、などという言説があちこちで(新聞紙上でも)飛び交うが、アヌシーで賞を取ったという記事がこれだ。おいおい。結局、日本の文化に従事している、と思い込んでいるような人たちの多くは、日本のアニメなんて大して興味がないのだろう。重要だと思っていないのだろう。無論、読者の興味関心に応えることは新聞の役目だが、多くの読者があまり知らないと思われることでも、それが重要だとみなせば積極的に記事にするのがあるべき新聞の姿ではないのか。

でも、村上隆のおたく系オブジェに海外で高額の買取り値が付いた、というような記事は大きいから、おたくだけは現代日本を語る上での重要なタームだとみなされているのかもしれない。しかし日本のアニメ=おたく、ではないし、おたくだけが重要なわけでもない。もちろん宮崎駿や押井守だけが語る価値があるわけでもない。そうではなくて、もっと広い視野からアニメーションというものを捉えられるような記者はいないのか、と問いたい。ひょっとしたら上司に潰されているのかもしれないが、説得できないものか。

カンヌやベルリンで日本の映画が賞を取るのに劣らず、アヌシーやザグレブで日本のアニメーションが賞を取るのはすばらしいことのはずなのだ。しかし、前者は記事になるのに後者はならない。アニメーションの社会的評価が低い証拠だろう。腹に据えかねるのは、普段は日本のアニメを持ち上げておいて、いざとなると取り合おうとしないその姿勢だ。朝日新聞の記者の方にはもっとアニメーションを勉強していただいて、今後こういうことがあったときにはより充実した記事が紙面に載るように努力してもらいたい。

アヌシー国際アニメーションフェスティバル

2008-06-17 00:41:44 | アニメーション
世界三大アニメーション映画祭というものがある。アヌシー、ザグレブ、広島だ。特にアヌシーは最も歴史が古い。そのアヌシーのアニメーションフェスティバルで、日本人が最高賞を受賞した。加藤久仁生の『つみきのいえ』だ。

以前、加藤久仁生についてはこのブログでも紹介したことがある。彼の『或る旅人の日記』はカルヴィーノの小説『見えない都市』に雰囲気が似ている、という趣旨のものだった。その際、おれは、『或る旅人の日記』はそれほど評価していないということを付け加えておいた。仲間内でやっているあるHPの掲示板にも、おれはこんな書き込みをした。

加藤久仁生。『或る旅人の日記』が代表作です。この人は、雰囲気で魅せる作家だと思われます。ただ、感性は大人、知性は子供、と言ったら厳しすぎるでしょうか?やりたいことはものすごく分かるのです。巨大な豚のような生き物(脚がとてつもなく長い)に乗って旅をする、マフラーをはためかせたすらりとした男性。月に向かう列車、コーヒーの中を泳ぐ魚…。しかし、時折り挿入される日記が、なんとも幼稚な気がするのは私だけでしょうか?要するに、演出が非常に拙いのです。その点、『或る旅人の日記』の続編である「赤い実」は、日記が挟まれることはなく、ユーモアもあって心地よく見ることが出来ました。77年生まれと、まだ非常に若い作家ですから、これから「化ける」かもしれません。そのような才能の片鱗は感じさせます。雰囲気はどこかたむらしげるに似ているところがありますが、自分の方向性を確立していって欲しいと思います。あ、それはもう大丈夫かな?

このようなものだ。『或る旅人の日記』に対するおれの評価は今でも変わらないが、今回、アヌシーで賞を取ったということで、頭をよぎったのは、「化けた」かもしれない、ということだ。確かに才能の片鱗は感じていた。それでも、当時は表現が稚拙であり、まだまだだと思っていた。だが、『或る旅人の日記』以降の作品もいくつか観てゆく過程で、稚拙さは薄れてきたように感じていた。それでも、いずれも殻を破るにはもう一歩、とも感じていた。

アヌシーで、殻は破れたのだろうか?受賞作はまだ観ていないが、機会があれば是非観てみたい。この人の作風は基本的に好きだから、これで表現が伴えば、お気に入りの作家になるはずなのだ。『つみきのいえ』が素晴らしい作品であることを、心底願っている。

ロシア文学再ブームって本当?

2008-06-15 23:06:41 | 文学
今日、6月15日(日)付けの朝日新聞朝刊に、ロシア文学が今ブームである、というような記事が載った。いちおうロシア文学を勉強している者として、この記事は見過ごせない。

それで、読んでみたのだが、ブームかそうでないかはとりあえずおいといて、取材する相手が間違ってるんじゃないだろうか。ロシア文学の研究者は一人だけで、あとは佐藤優とか、斎藤孝とか、そんなのばかりだ。前者はまだロシアに関係あるが、後者は全く関係ないじゃないか!確かにドストエフスキー関連の本を出してはいるものの、専門家じゃないし、よりにもよってなぜこの人なんだろうか。しかも、彼の発言は素人丸出し。ゴーゴリの新訳について語っているのだが、軽い落語調で訳してしまうなんて、すごすぎる、ということを言っている。ちょっと待ってくれ。ゴーゴリを落語風に訳すのはそれなりに歴史があって、なにも今回だけが突飛だったわけじゃない。ゴーゴリの語りの問題の研究はそれこそ長い歴史がある。それを踏まえてのことなのだ。今回の記事には、専門家に当たっていないから当然なのだが、そういう掘り下げがなかった。

さて、ブームかどうか、という点に話を戻すが、ロシア文学を勉強する空間に身をおいていると、あまり実感がない。確かにカラマーゾフは50万部以上売れたそうだし、他の翻訳も評判がいいらしい。でも、研究室には新入生がほとんど入ってこないし、授業も人数が少ないままだ。これは、今までロシア文学など読んだこともなかった人たちが、たまたま評判になったからという理由で本を買っている、というだけの現象じゃあないだろうか?そこから専門的な関心には結びついていない。それとも、先生の立場からは、学生とは違うものが見えているんだろうか?

もっとも、ロシア文学研究に活気が出てもあまりうれしくないような気もする。今まで通り、マイナー街道を少人数で歩いていくのが気持ちよかったりもするのだ…

雨ニモマケズ

2008-06-15 02:38:58 | 文学
ブックオフで100円で売っていたので、『雨ニモマケズ 宮沢賢治の世界』という小冊子を買った。賢治の研究書というような堅い本ではなく、賢治にまつわる様々なことを紹介してある本だ。だけども、少々記述が簡略すぎるし、突っ込んだ考究もない。満足できる本ではなかった。

ところで、賢治の書いたものでは「永訣の朝」が一番好きだ。実は高校の授業で習ってはじめてこの詩のことを知ったのだが、普段の読書の中で知っていたら、ここまで好きにはなっていなかったかもしれない。やはり、授業という精読を求められる環境の中で、じっくりとこの詩に向き合えたのがよかったのだと思う。

賢治の書いたものはそれなりに読んでいるが、題名でおもしろいのは「ペンネンネンネンネンネネムの伝記」だ。ちょっと声に出して言ってみよう。笑ってしまうから。この題名からも察せられるように、賢治は言葉への感性が人並みはずれたところがあったようだ。下手な人がやれば単調になってしまう自然描写も独特で味わい深い。何より擬態語がうまい。有名なのは「どっどどどどうどどどうどどどう」だろう。

賢治の「銀河鉄道の夜」はアニメ化されていて、そこではカムパネルラやジョバンニが猫の姿をしている。抒情的演出、と言われていて、なかなかよくできている。また、「セロ弾きのゴーシュ」は高畑勲の手によってアニメ化されている。賢治童話というのは、アニメ化したい欲望に人を駆り立てるものなのかもしれない。

ちなみに、賢治のふるさと花巻(岩手県)へ行ったことがあるが、当然、宮沢賢治記念館へも行った。イーハトーブセンターなどもあり、見て回るのにたいそう時間がかかった。バスに乗る都合で、全て見ることができなかったのが残念だ。

『「宮崎アニメ」秘められたメッセージ』

2008-06-14 00:26:41 | アニメーション
しまった。やっちまった。この間、ブックオフで『「宮崎アニメ」秘められたメッセージ』という本を買ったんだけど、この本、既に持っていた!

でも、表紙がまるで違うのは何で!?発行された日にちは同じなのに。一方は紫で、一方は白。どういうわけなんだ。ハウル論があるから重宝するぞ、と思って買ったとはいえ、2冊も要らないなあ。誰かに売ろうかな…

さて、本の感想ですが、間違えて買ってしまうくらいですから、もちろん読んでいません…。でもいつか読んだら、感想を書こうと思います。『ジブリの森へ 増補版』の感想はきのう書きましたがね。

『ジブリの森へ 増補版』

2008-06-13 01:00:43 | アニメーション
『ジブリの森へ 増補版』をこの前読んだ。増補版でないやつは既にもう読んでしまっていたので、今回は付け加わった論文だけを読んだ。つまり、跡上史郎の「『となりのトトロ』は、ちょっとだけ怖い」と、米村みゆきの「アニメーションの〈免疫〉 『ハウルの動く城』と戦争」。

トトロ論は、ネットで噂されているトトロの「裏設定」を出発点にして、トトロの自然観に迫っている。「裏設定」とは、メイが実は死んでいる、とかトトロは実は死神である、といった噂のことだ。この噂の根っこは、映画の後半でサツキとメイに影がない、という事実から来ているもののようなんだが、この論文では、影がない理由を宮崎駿の演出に結び付けている。というのは、映画の後半、宮崎駿は背景で時間経過を表現しようとしたのであり、最初は光と影のコントラストを目立たせているが、日が沈めば影の描写をなくしているのだ。また、ジブリも公式にこの噂の真実性を否定しており、これが単なる都市伝説的な噂に過ぎないことは明白だ。しかし、「トトロ」には「怖いイメージ」が付随している、とも筆者は言う。そしてその「怖いイメージ」を日本の自然の怖さに接続しようとする。結論を先に言えば、「トトロ」という映画は、自然と人の境(「こちら側」と「あちら側」の境)に位置する稀有な作品である、ということのようだ。

この論の進め方は間違っていないが、もしおれが同じテーマで書くとしたら、このことに加えて里山にも言及する。自然と人の境目というのはまさに里山のことで、「トトロ」は里山が舞台になっているからだ。宮崎駿と里山というテーマは奥深いので詳説はできないだろうが、少しは触れられたはずだ。それがなかったのが残念。

また、この論は「トトロ」は少しだけ怖い、という直感を出発点にしている。直感は個人の自由なので何と思おうと構わないが、おれとしては、「本当にそうかな?」という疑問が残った。トトロって怖いですか?…

ハウル論は、「ハウル」の破綻について主に述べられている。要するに、この映画が「よくわからない」と多くの人に言われてきた原因を指摘している。破綻の一つ目は老人の恋の問題。荒地の魔女の若い男への恋を戯画化している一方で、老婆ソフィーのハウルへの恋は肯定している。これが矛盾である。もう一つは、原作をよく知っていないと映画の理解が困難な点である、と筆者は言う。ソフィーの家族構成や家族間の感情が原作を読まないと分からないのだという。他にもハウルの性格やレティー(ソフィーの妹)の位置付けが理解できないという。しかし破綻の最大の原因は、原作にはない戦争の描写である。戦争の行われた理由、ハウルが戦争に参加する理由、また戦争が唐突に終わるところなどが、説明不足なのだ。戦争の描写を入れたことを、宮崎駿自身が戦争を経験し、そして当時イラク戦争が勃発していたことと筆者は関係付ける。最後に、破綻した映画と損傷した現実とを結びつけるアドルノを紹介して、論を閉じる。

「ハウル」が破綻している、という見方には概ね賛同する。ただ、おれは、この米村みゆきの論文とは全く別のことを考えている。映画と現実とを接続しようとする彼女の基本的な考え方とも相容れない。「ハウル」は確かに破綻しているように見えるが、そこには破綻なりの論理がある、と思ってる。いわば、脱論理の論理。原作を参照しないと家族関係がよくつかめない→破綻という単純な結びつきもおかしいし、ハウルの「ようやく守らなければならないものができたんだ…君だ」という台詞をそのまま受け取っているのも、「おまえは女子高生か」と言いたくなる。これは、一般にそう思われているようにハウルをヒーローにするものではなく、むしろアンチヒーローに仕立てるものだ。ソフィーの「非戦」こそが正しいのだということを、後に映画自身が証明する(ハウルの無表情な顔によって)。というように、言いたいことは山ほどあるが、もう時間がないのでこのへんで。でも最後にこれだけは言っておこう。「ハウル」にはとてつもなく美しいシーンがあり、そのことに言及のないハウル論は、まったく「ハウル」という映画を理解していないのだ、と。おれはそう思ってる。