Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

マイリンク『ゴーレム』

2012-03-30 00:21:28 | 文学
日付は変わりましたが、本日二度目の更新。なので手短に。
先日、マイリンクの『ゴーレム』を読了。すごいおもしろかった!まさに幻想小説。幻想小説の極みです。

実は、無知をいいことに、例の有名なゴーレム伝説をマイリンクが小説化しただけの作品だと思っていたんですが、全然違いました。いやもちろん、ゴーレム伝説をモチーフとして使用してはいるのですが、この小説ではゴーレムが暴走することはないし、「真理」という文字を消されて土くれに戻ることもないのです。そもそも、ゴーレムという確かな実体が存在しないと言ってよいでしょう。それは伝説の中の幽鬼であり、幻のように曖昧模糊としたものです。

暗示や象徴の非常に多い小説で、それがカバラや神秘思想と密接に繋がっているため、その全てを理解することは到底できません。よく分からないところが多いのです。けれども、改行が多いせいかとても読みやすく、また理解できないながらもイメージは明確に抱けるので、何も分からないままテキストから放擲されることはありません。めくるめく幻想を楽しみ、神秘的な雰囲気に浸かることができます。更に、プロットが読者を惹き付ける類のもので、探偵小説的な趣向も凝らされています。それでいて俗悪なものには全くなっていません。

確かに陰鬱な小説であるかもしれませんが、しかしこの霧の国へ迷い込む価値は大いにあると言っておきます。

返信のいらないメール

2012-03-29 17:22:40 | Weblog
メールを書くのもなんだか気が引けるので、ここにそれとなく書いてしまおうと思います。
自分のことではないのですが、しばらく続いていた問題がようやく「解決」したようです。
ですがぼくは、どうにも遣り切れない。

ある人が別の人の家に突然上がり込んできて、散々自分勝手な意見を述べ立てる。相手の意見は聞こうともしない。そして帰ってゆく。そんなことがほとんど毎日続いた。ぼくはそれを見かねて、その家の住人に尋ねてみました。迷惑ではないのですか、と。するとその人は言いました。確かに大変なときもあるけれども、でもその訪問者は実はとても純粋な人なのだ。暴走してしまうきらいがあるけれども、自分がその防波堤となりたい。ぼくは頷くしかありませんでした。そこはぼくの家ではない。その人がよければ、ぼくは口を出してはいけないのです。

それからしばらく同じような日々が続きました。でも、ついに破綻がやってきて、訪問者は追い返されました。ぼくもこれで安心できます。他人が人の家を荒らしてゆくのを見るのは気持ちのいいものではありません。しかし、その家の住人の気持ちが踏みにじられてしまったことは、無念でなりません。確かに、これから家が荒らされることはもうなくなるでしょう。でも、気持ちは既に荒らされてしまったのではないですか。その傍若無人な振る舞いによって、裏切りと幻滅とによって。

ぼくは何度も何度も、その家に押しかけてきている訪問者に文句を言おうとしました。ここはあなたの場所ではないのだ、と。しかし結局そうはしませんでした。でもぼくはいま、このことだけはそいつに言ってやりたいのです。あなたはどれほど人を苦しめたのか分かっているのか、と。あなたは、その家の住人の気持ちを蔑ろにしすぎたんだ、と。けれども、厚顔にも「人の気持ちなど知ったことではない」と嘯くその人物には、こんなことを言っても暖簾に腕押しでしょう。それもまた悔しい。

どうかあの家に再び平安が訪れ、住人も従来の客人ともども安らかに過ごされることをお祈りします。でも、もし今度また家に土足で上がり込むようなことがあったら、そのときは、そのときだけは、ぼくは言ってやるつもりでいるのです、もう人を傷つけるのはよしなさい、と。

今回のことで悪いのは、もちろんその闖入者ただ一人なのですが(このことは強調しておかねばなりません)、しかしあえてより厳密に言えば、その途方もない未熟さと愚かさが悪いのです。だから一層遣り切れない。

せめて、ささやかな幸福を

2012-03-27 23:24:04 | Weblog
「幸福」という概念が、最近になって急に見直されている。国民の幸福度や若者の幸福について、多くの人が意見を言っている。その議論に立ち入るつもりはないんだけれども、ぼくはぼくの考える幸福にまつわることについて、ここで少し書いておこうかな、と思った。

たしか高校生の頃までは、ぼくは「ささやかな幸福」なんていう文言を馬鹿にしていた。人生は波乱万丈の方がいいんだと、本気で信じていた。自らの「ささやかな人生」を許容してしまう生き方を、ぼくは到底容認することができなかった。何げない日常に喜びを見出すだって?現状に事足れりとするのは豚ばかりだぜ、とぼくは愚かにも考えていたのだった。愚かにも?そう、ぼくは今そういうふうに認識している。

高校生の頃のぼくの認識は、ある意味では矛盾に満ちていた。というのも、ぼくは自分の住む街を愛する心に理解を示していたから。自分のいる場所を、かけがえのない大切な場所だとする発想を、ぼくは既に知っていたから。つまり、「いま・ここ」こそが大事なのだと気が付いていたから。この認識から、日常に幸福を見出す認識まではほんの数歩だ。

ぼくの街を愛でる気持ちを育んだのは、映画『耳をすませば』だった。ぼくは井上ひさしが書いた映画への短評を読み、その気持ちをいよいよ強固なものにした。その評が掲載された雑誌の表紙に書かれた「この街が/わたしの/ふるさとです」という言葉は、ぼくの心に深く刻まれた。そうだ、東京で生まれ育ったぼくにとって、ふるさとは東京に他ならないんだ。どんなにそれが凶暴な都市に見えようとも、それが自分にとってのかけがえのないふるさとであり、そうであるならば、それを「曇りなき眼で」しかと見定めなければいけない。東京の醜も美もそっくり受け入れて、ここがふるさとだと認めねばならない。

二十歳頃にそういう気持ちで小説を書きました。原稿用紙で100枚を超えました。いま思えば、それは「いま・ここ」を愛するための苦闘の記録であるようにも思えます。それにぼくは、「六月の光」と題を付けました。

新海誠の作品を初めて観たのは、それから2,3年後のことです。いつの間にか、ぼくは「ささやかな幸福」をとてもいとおしく感じられるようになっていました。たんに歳を取っただけかもしれません。でも、ぼくは地に足のついた幸福を、燕尾服のしっぽをひらひらさせて、食パンの耳を歯を食いしばってちぎり、雨の後アスファルトから立ち上る匂いを嗅ぐ、そういう幸福を、人間の望みうる最高の幸福の形の一つとして、認識していたのです。その術をぼくは『耳をすませば』や『ほしのこえ』から学び、そして自ら身に付けたのでした。

自分の住む街が嫌いな人、ささやかな幸福などクズ同然に考えている人、そういう人は今でも大勢いると思います。ぼくも元来はそういうタイプの人間なのかもしれません。でもぼくは、たった一つの映画によって、その発想を根本から覆されました。時間をかけてゆっくりと。しかし時折り、昔の考えが頭をもたげることもあるのです。ささやかな幸福など、所詮は負け犬の遠吠えに過ぎないのではないか?ぼくは逡巡し、答えを出せない。ただ、最後に残るのは、『耳をすませば』が好きだという気持ち。ああ。

もうすぐ4年

2012-03-26 15:53:22 | Weblog
ブログを開設してから、来月で丸4年になります。早いですねえ。当時はまだ、就職活動中の大学院生でした。今は就職活動していない大学院生です。・・・進歩か退歩か・・・?

相変わらず将来は濃い霧に覆われていて何も見通せませんが、でも、というふうに逆接を使える状態にもなっていないんだな、まだ。

そうか、ほとんど何も変わっていないのか。いやでも、この4年間でぼくは英語やロシア語の論文を何本も読み通したし、論文を何本か書いたし、それなりに歩いてきたんだと思う。代わりに日本語の本を読む機会はめっきり減ってしまったけど、今はそういう時期なのかもしれないな。

今までの歩みが無駄になるのが怖くて歩いてきて、でもそんな歩みも無駄になったらどうしようって思っていて(amazarashiの歌詞を意識しながら書いてます)、でもいつの日かこの歩みが幸福への道程だったと気付くような日が来ることを願っていて、けど半ば諦めてもいて、自暴自棄になったりして、ドロップアウトしたくて堪らなくて、どこかへ駆け出したくて、いつの間にかぼくは今日を歩いている。

ブログを開設してから丸4年。進歩にしろ、退歩にしろ、どうやら歩いてはいたみたいだ。

小説でも

2012-03-25 23:24:49 | Weblog
久々に小説でも読もうかなと思ってるんですけど、焦燥感が凄いので、こんな状態で小説など読めるのだろうか、と感じつつ、もはや習慣となりつつあるプレイ動画を視聴。もうすぐダークキャッスルだ。聖剣が終わったらロマサガでも見ようかなあ。「3」は友達から借りてやったことしかないので、ほとんど覚えていません。でもおもしろかったことは覚えています。ラスボスの「破壊するもの」っていうネーミングにも当時は興奮したものです。当時はよく興奮してたのかな。

ネタがないまま書き出したらやはり詰まってしまった。
そういえば、ぼくには読みたい小説がたくさんあるんだったな。と、いつもだったらそのリストを拵えてみるところですが、何となく気が進まないのでそうはせず。

今日は何もしなかったけど、できなかったけど、明日はせめて小説を読み始めよう。こうやって明日のことを想像していられるうちは、まだまだ元気ってこと。だからぼくはたぶん、きっと、元気なんだ。

ソヴェート文学

2012-03-24 14:48:18 | 文学
外出した折に古書店に寄ったら、雑誌『ソヴェート文学』が幾冊も並んでいた。そのうちの一冊、ゴーゴリ特集号を買う。この号には、江川卓の画期的翻訳であるゴーゴリ「外套」が掲載されているのです。「落語訳のこころみ」と副題を付けられ、「演訳」と称されたその翻訳は、もうかなり前に既読で、コピーさえ持っているのですが、やはり原本を所有していたいよね、ということで購入したのです。ちなみに、本号には他にも横田瑞穂訳「鼻」や、キム・レーホによる論文「ゴーゴリの「笑い」と日本文学の伝統」も収録。いずれも既読ですが(後者はコピーあり)、やはり原本を所有していたいよね、ということで購入。

江川卓の「演訳」は、まことに画期的なもので、ゴーゴリの翻訳史は「江川卓以前」と「江川卓以後」に分かれるのではないかとさえ個人的には思っています。とりわけ「外套」に関しては、西本翠蔭、伊吹山次郎の翻訳から始まって平井肇訳がポピュラー化しますが、それらの翻訳と比べて、吉川宏人や舟木裕ら「江川卓以後」の訳文は、明らかに語りを意識したものになっています。もっとも、西本翠蔭訳は、前半は幾分か洒脱に訳してあり、透明に近い説明文というよりは語り口調が見られる。これには幾つかの理由が考えられますが、既に尾崎紅葉がモリエールを落語的に翻訳しており、落語家の円朝はモーパッサンの翻訳を目論んでいたと言われ、また二葉亭四迷の「狂人日記」も語り口調には特徴があることなどから、明治期の落語と文芸との関わり合いという観点から再考してみる価値があるでしょう。しかしながら、翠蔭は一貫且つ徹底して落語訳をしているわけではなく、ゴーゴリの語りの側面に着目して翻訳したのは、やはり江川卓が最初なのではないかと思います。もちろん、エイヘンバウムの有名な論考が江川卓をして落語訳せしめたのですけれども。

あまり詳しいことは書きませんが、江川卓によって日本のゴーゴリ解釈は刷新されたと言っても言い過ぎにはならないと思います。後藤明生の業績も巨大ですが、やはりこの翻訳は大きい。もちろん、語りにのみ特化されたゴーゴリ像というイメージもまた、哀話にのみ重きがおかれたそれと同様、ある意味で歪んでいると言えるかもしれません。それを次第に補正しながら、よりよい翻訳が生まれてくることを期待します(浦雅春訳がその緒となればいい)。ところで、江川卓訳は一般の人たちにはどれくらい読まれたのかな。ロシア文学の研究者やその愛好家にだけだったら、寂しい。

あいかわらず

2012-03-20 23:52:38 | Weblog
あいかわらずプレイ動画見ています。ああ懐かしい・・・そしてやりたい・・・

で、随分長い時間をかけて日本語の本をようやく読み終えました。でもあんまり役に立たなかったなあ。というか、読み方が悪いのかもしれないけど。読み終えようとする気持ちが先走ってしまって、内容が頭に入ってこない。もうずっとこんな読み方を続けてる。たぶんそれは既に「読書」ではないな。

これからぐだぐだ反省文を書くのもナンなので、今日はこの辺で。

実況がおもしろい

2012-03-19 01:56:16 | Weblog
昨日から、ゲームの(実況)プレイ動画にはまってしまった。おもしろい・・・。昨日は4時間くらいひたすら動画を見ていました。主に『聖剣伝説3』を。懐かしいな、おい!

聖剣といえば、やはりゲームボーイの「1」が名作だったと思いますが、「3」にもそれなりに思い入れがあるのです。ただ、当時の友人に貸したまま結局戻ってきませんでしたけどね!ゲームは貸すもんじゃないな、特にRPGは。

聖剣伝説は言わずと知れたアクションRPG(ARPG)シリーズで、昔ぼくもそれなりにプレイしました。いま懐かしがって色々と検索すると、知らなかったこととかあって、あるいは思い出したりすることがあって、いよいよ懐かしい。

ビル&ベン、獣人ルガーとの戦闘は苦戦したなあと思って調べると、彼らは意外とそれほど手強くないらしい。なぜだろう、と思ってもっと調べてみると、どうやら「3」には「カウンター攻撃」なる攻撃システムがあるらしく、味方が必殺技や魔法を使用すると、ボスはそれに反応して強力なカウンター攻撃を仕掛けてくるらしいんですよね。いやあ、当時のぼくは気付かなかったなあ。いま改めてプレイ動画を見てみると、確かにその反応は明らかなのですが、でも当時は分からなかったなあ。で、このカウンター攻撃の激しいのが、ビル&ベンと獣人ルガーなんですよね。前者は二人組の忍者で、後者はその名の通り獣人。ビル&ベンは、カウンター攻撃として「影潜り」っていう技を使ってくるんですけど、その破壊力が猛烈で、連発されると一気に瀕死になりかねないって代物。一方ルガーは、体術を得意とするボスで、こいつは肉体派の超強力技を仕掛けてくるんですよ。それが全体技なものだから、全滅も十分あり得る。だからぼくは大変苦戦した思い出がありますね。でも、どうやらこちらが必殺技や魔法を使わなければ相手もそういう強力技を使ってこないみたいです。それで簡単に倒せてしまうという。・・・う~む、しかしそんなシステム知らなかった方が案外楽しめたかもしれませんね。よしとしよう。

ブラックラビとの戦闘とか、結局一度しか対戦しなかったので、動画で見ると懐かしいですね。最強の敵(そして幻の敵)と評されるブラックラビですが、何が何やら分からないうちに倒してしまったとはいえ、確かにあいつは強かったなあ。解説してあるHPを見ると、6連続魔法とかあって、それはどうやら避けようがないみたいなので、怖いね。

聖剣3ってのは、ケヴィンが最強であることには異論はないと思います。ですから、初心者はケヴィンを仲間に入れておくと心強い。で、ラスボスは3種類いるんですけども(ダークリッチ、竜帝、黒の貴公子)、ケヴィンを主人公に選ぶとラスボスはダークリッチになります。でもぼくのお勧めのラスボスは、何と言っても黒の貴公子です。ビジュアルがカッコよすぎる。変身する唯一のラスボスであるところもミソ。そして変身後の音楽が最高なのです。まあ音楽は全てのラスボスに共通だったと思いますが。黒の貴公子をラスボスに迎えるためには、主人公はホークアイかリースでなければいけないので、どちらかがお勧めですね。したがって、メンバー編成は、ホークアイ、ケヴィン、そしてシャルロット、というのが比較的バランスが取れているかも。まあ例えばですけどね。

うわあ、プレイしたくなってきたなあ。昨日はついでに「ロマサガ3」のプレイ動画も見ましたけど、こっちもやりたいなあ。

ちなみに、ニコニコではいま女性が「聖剣3」を実況しながらプレイしてて、なんかいいな。

もう一つの「祈り」

2012-03-16 23:40:33 | 音楽
先日はamazarashiの「祈り」に少しだけ触れましたが、今日はFFの「祈り」、すなわちFinal Fantasy Vocal Collections I [Pray] について。このCDには、Ⅵの「ティナのテーマ」のヴォーカル版である「時の放浪者」が収録されているのですが、ぼくはそれが昔大好きでした。いやまあ、それだけなんですけどね。FFって、なんというか、青春だなあ。少年時代のいい思い出がたくさん詰まっている。あいつらは今どうしてるんだろうな。

ちなみにamazarashi、今年はライヴ・ツアーやるみたいです。大阪、名古屋、東京で。

沈黙

2012-03-16 00:14:20 | Weblog
例えば、カリオストロの城について書こうと思った。あるいはナウシカのワンシーンについて、それから雫のスカートの畳み方について。
でもぼくは、どんなふうにそれらを語ればよいのか分からなかった。

一方でぼくは、自分の不満や不安について書こうと思った。泥沼について、あるいは匿名性について、それから全てを投げ出したいということについて。
やはりぼくにはどんなふうにそれらを語ればよいのか分からなかった。

自分の感情を書く術が分からない。クラナドやAIRやカリオストロの断片的な映像を見て、音楽を聴いて、これなんだと思っても、これこそがぼくの好きなもので、創り出したいもので、伝えたいものなんだと思っても、でもその気持ちをどのように表出してよいのか分からない。百遍「好きだ!」と書いたところで、それではぼくの感情を正しく表現したことにはならない。

カリオストロの城で、最後におじいさんが「何と気持ちのいい連中だろう」と言ったときに感じた清々しさ、切なさ、そして歓喜。胸に突き上げてくる感情。これが胸一杯の感動と言うんだろうな。でもこう書いてみたところで、ぼくは全く満足できない。そうじゃない、全然違うんだよ。ぼくの感じたものは、「清々しさ、切なさ、そして歓喜。胸に突き上げてくる感情」という言葉では到底表わすことができないものなんだ。もっと優しくて、強烈で、温かくて、揺さぶられるような「何か」だったんだ。いやそれだけじゃない、いやそんなのは嘘だ。

結局のところ、沈黙。

昔のレポート

2012-03-15 00:20:22 | 文学
今日はあまりネタがないので、自分が書いた昔のレポートでも適当にコピペしてやろうかなと思って、いま読んでみましたが、それが余りにもよく書けているため、コピペをやめました。何かに使えるかもしれないからな。・・・と、自画自賛するのも変ですが、だって余りに秀抜だったものですからね!

ぼくはどうも、現在の自分を卑下するのに対して、昔の自分は持ち上げる傾向があるのですが、殊論文に関しては、そういう習慣や傾向は介在しておらず、他人の論文を読むような気持ちで読んでいるので、これは全くもって客観的な評価です、ぼくの昔のレポートはすばらしい!なんてよく書けているんだ!もちろん瑕疵もありますが、しかしそれは一種の無いものねだり。

ここにこうして告白しているのは、実はそれが日本文学のレポートだからなのです。ロシア文学じゃない・・・。う~む、ぼくは元来文献を駆使して、テキストを何度も読み込んでから論文を書くタイプなので、外国語文学って苦手なんだよなあ。確かに、ロシア語だって何度も読み返したり文献を大量に読んだりするのが理想ですけれど、でも外国語は文法的なレベルで読解できない箇所があるのが現状だし、日本語のテキストほど十全に読みこなすことができていないんですよね。

あと、レポートは文学における武蔵野、というテーマだったのですが、そもそもこのテーマがぼくには魅力的なんですよね。自然と文学という。やっぱりねえ、文学研究だって好きなことをやるべきですよ。

それから、それがいわゆる現代思想とも響き合っていた点も特徴的だった。このレポートにおいてはフーコーの権力論を参照しましたが、別のレポートではブルームとかドゥルーズとかを参照していて、今の論文にはない徴ですね。

もっと自由に幅広く、好きなテーマと関連させながら、そして自分自身の発想に基づいて論を展開させるのがぼくの論文の最良の部分である気がしますが、現在はそれがそっくり欠けてしまっています。それこそが研究だという人もいるかもしれませんが、ぼくはぼくの好きなようにやりたい。なんとかせねば。

ヌーヴォー的な

2012-03-13 23:03:47 | アニメーション
叶精二さんがツイッターでこんなことを言っていた。

「メビウス、ミュシャ、イヴァン・ビリビンやヌーヴォー派の諸作に触れると、線で括り、色面で塗り潰す、セル的様式の静止画には無限の可能性があると感じています。動画になると線の魅力が動きに溶解してしまうケースが多く残念です…」

更には『ニモ』についても触れられていたりして、興味深い。フォローしてる人も凄い人たちばかりだし。

で、ぼくは前から思っていたのですが、というか大勢が同様に思っていたのでしょうけれども、メビウスの絵は非常に素晴らしいのに、それがアニメーションになると、よくないんですよねえ。『ニモ』に関連して言えば、メビウスはそのイメージボードを描いていて、ぼくも数点だけ見ていますが、それは彼らしい緻密で繊細な描線であるにもかかわらず、実際の映画(近藤喜文さんのパイロット版ではありません)ではやはりそれがまるで活かされていません。これが、「動画になると線の魅力が動きに溶解してしまう」ということなのでしょうか。「溶解」というのはちょっと分からない表現なのですが、少なくとも言えるのは、アニメーションにすると極めて緻密な描画というのは再現されないということですね。今はCGで背景を動かしたりできますが、当時は描き込みたくても動かす場合は描き込めなかったわけですよね。動かしたい場合は、なるべく線を減らしたいですから、ポニョなんかは典型ですけれども、長編であれだけ動かしたければやはり絵は単純なのがいい。でも、メビウスの描く一枚絵の魅力というのもあるわけで。あの世界を文字通り背景にしてキャラクターが躍動してたら物凄いものができるのになあ。(ところで近藤さんのパイロット版は、『リトル・ニモ』のDVDに収録されていましたっけ?何度も観た記憶があるのですが・・・どこでだったかな)

アニメーションの魅力は動きにありますけれども、でもメビウスやミュシャ、そしてビリービンの絵なんかを見ていると、確かに絵そのものの魅力というものについて考えさせられてしまいますね。ちなみにビリービンはロシアの画家で、ロシア民話集のような絵本の挿絵を描いていることで有名ですね(大学でよく先生が見せてくれた)。

それにしても、ぼくも昔メビウスの絵を見て憧れたなあ。あんなのが描けたらいいな、なんて。皆もきっと憧れたんだろうなあ。ご冥福をお祈りいたします。

夢は夢のまんま

2012-03-12 23:33:28 | Weblog
メビウスが死去したり、amazarashiが新曲を発表したり、そしてもちろん震災から1年が過ぎたり、ブログを書かないでいるうちに色々ありました。

amazarashiの新曲「祈り」は、震災を受けて書かれた1年前の詩を新たに歌い上げたものですが、「祈りは祈りのまんま」というフレーズが耳に残りますね。後の歌詞から推察するに、中原中也の「汚れっちまった悲しみに」を念頭に置いていると見られ、つまり、祈りは汚れっちまわないで、まさしく祈りのまんまで機能している(こんな無機質な言葉しか出てこない!)様を歌っています(あるいは祈っている?)。

祈りは祈りのまんま。願いは願いのまんま。愛は愛のまんま。夢は夢のまんま。もしそうだったら、どんなにいいだろう?

ぼくらの裡から出るものは、全て汚れてしまうのでしょうか。宝石をちりばめたドレスを着飾り、金の輪をはめていても、いずれ襤褸をまとうのでしょうか。

ぼくの夢は何だ?ぼくの希望は?やはり泥にまみれてしまったか?いや、ぼくの場合は、そもそも夢を抱いたりはしなかった。だから汚れることさえないんだ。かじかむ手でそれを泥から掬いあげることも、穴のあいたそれを羽織ることも、穴から夜空を覗き見ることも、ないんだ。

それでもやはり、ぼくは幾許かの夢を抱いていたのでしょうか。他人に隠し、自分にさえ隠し、汚れてしまったことさえ気付かずにこれまで生きてきたのでしょうか。もうとっくにそれをどこかに落としてきてしまったでしょうか。もしもぼくがまだそれを身に付けているのなら、せめて足首にでも引っかかってくれているのなら、ぼくはそれを、まさしく初めて見るようにして、いや!親友に再会したようにして、がっしりと掴み取るだろう。例え汚れっちまっていたとしても、夢は夢のまんま。

ねえ、そんな夢はどこにあるの?

暴発

2012-03-10 23:51:18 | Weblog
だめだ、ぼくには書けないのか。
感情の爆発を、ぼくには表現する手立てがないのか。
なぜ、冷静を装うのか。なぜ、感情を露わにしないのか。なぜ、怒らないのか。泣かないのか。叫ばないのか。声を限りに絶叫したい。この感情を、胸の内を。

冷静に論理的に。くそっ。そんなのは嫌だ。相手の心と直に響き合いたい。何かから受け取った感動を、他の誰かに伝えたい。ぼくは、感情が揺さぶられるようなものを作り出したい。

なぜ届かないんだ。なぜ分かち合えないんだ。なぜ表現できないんだ。そもそも、なぜぼくの感情は暴発しないんだ。狂ったように暴れて、咆えろ。咆えてみせろよ。どうしたんだよ。どうしたんだよ。制御不能になれよ。ATフィールドをぶち破れよ。

おれはぼくという人間を踵で踏みにじってやる。そして。そして?そしてなんてどうだっていい。そこで終わりだから。

スラヴ症候群

2012-03-08 22:16:54 | Weblog
だだっ広い体育館のようなところで、鉄棒に跨って、中年の女医さんから診察を受ける。
「スラヴ症候群ですね」と言われた。え、と訊き返す間もなく、彼女は続ける。「体のバランスが左右で崩れてるのよ。そして背が丸まっている。アジアでは珍しいんだけどね。」
そうか、アジアでは珍しいのか。さすが「スラヴ症候群」と言われるだけはあるな。どうやら、幼少時にあまりの寒さで体が縮こまったりすると、そのまま背が丸まってしまうようだ。命に別条はないらしいが、見てくれの悪い病気だ。
ぼくの後ろに並んでいたチバちゃんが鉄棒に跨ろうとしたとき、時計の針は既に12時20分を回っていた。休憩時間だがどうするのだろう、と問いたげな目で女医さんを見ると、彼女は一端奥の部屋に入るそぶりを見せたものの、すぐさま踵を返して、「診ましょう」と言った。


おかしな夢を見たものだ。というよりも、こう言った方が正確な気がする。「どうしてこの夢はぼくなんかに見られてしまったんだろう」。こういう奇怪で滑稽な夢は、もっと才能豊かな表現者、例えば作家やアニメーション監督なんかに見られた方がよかったのではないか。ぼくが見てしまったことが申し訳ない。この夢に申し訳ない。

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所用で学校へ行ってきた。そうしたら、スラヴ文学の論文集の発行日がたまたま今日で、研究室に納入されるところに行き合わせた。ぼくの拙い論文も掲載されているので、ついでに頂いてきた。去年も抜き刷りを20部頂戴したのだが、ほとんど手つかずで放置されている。今年の20部もまた、そうなるのだろうな。

スラヴ症候群。