Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ロシア・アニメ

2008-04-30 22:33:05 | アニメーション
『ロシア・アニメーション傑作選集1』を見る。
この巻にはナザーロフとフルジャノーフスキーの短編アニメーションが収録されている。ナザーロフのアニメは映画祭などでこれまで見てきたものも多かったが、内容をほとんど忘れているので改めて最初から見た。

ナザーロフの「アリの冒険」という作品は、かの宮崎駿が長いこと構想を温めていて、『もののけ姫』とどちらを制作するか迷ったという『毛虫のボロ』に内容が少し似ている。一匹のアリが、強い風によって遠くに飛ばされてしまう。そこから様々な虫の助けを借りて巣まで戻る話。それだけの話で10分くらい。この話で特徴的なのは、全編が虫の視点で作られているところ。日が沈もうとするシーンが何度も途中に挟まれるんだけど、太陽はいつも草の陰に隠れている。あと、色々な虫が登場しておもしろい。ちょっと体が痒くなるような気もするけど…いや、別に虫嫌いじゃないんだけどね。中でもドタドタッと土の上を疾走する虫がなんとなくユーモアがあった。

宮崎駿が虫の視点でアニメーションを作ったらどんなのができるのかなあと楽しみだけど、そういえば実際ジブリ美術館用に「水グモもんもん」を作ってるな。以前、雨が降るにしても、人間と虫とではその見え方が違う、というようなことを言っていて、この人が虫の視点で作ったらすごいものができるんじゃないか、と大いに期待したものだ。「もんもん」はというと、叶精二は「傑作」と絶賛しているけど、おれの期待は下回ってたかな。たあ一度しか見てないからなんとも言えないなあ。

あと、フルジャノーフスキーの作品について。この巻に入っていたのは大体のところ諷刺作品だった。作画技術というより演出と諷刺の切れ味で勝負する作品。別につまらなくはないんだけど、途中でうとうとしてきてしまって、3秒くらい完全に寝てしまった。寝不足かな?それとも春眠暁を覚えずってやつか?
フルジャノーフスキーの作品はソ連社会を諷刺するものだったため、長いことお蔵入りになっていたらしい。迫害されていたのは文学だけじゃないんだね。

漫画雑感

2008-04-30 21:47:29 | 漫画
ジャンプを読むのを止めてからもう3年が経った。その間、それまで読んでいた漫画はほとんど読まなくなってしまった。当然だけど。わずかな漫画だけ単行本で読んでいる。その一つがHUNTER×HUNTER。といっても途中で長期休載していたから、最近になって少し読むことができた程度だけどね。で、先日第25巻を読んだんだけど、むちゃくちゃおもしろかった。先週、ジャンプでキルアの父親が登場しているのをちらっと見てしまってから、ものすごく気になっていたんだけど、25巻で既に祖父が登場しているんだね。頂上決戦って感じでものすごく興奮した。あの登場シーンはド派手でいいよ。まさか龍と共に天から襲来するとは。しかも会長と二人で。う~ん、たまらん。

ハルヒの漫画を今日ちょっとだけ読んだ。やっぱりアニメの方がおもしろいな。漫画はどうも下手な気がするんだけど…特にアクションシーンが。キョンが古泉と神人を初めて見た後、空が割れる「スペクタクル」は、かなり地味だった。それから現実世界に戻るところもいけない。コマを小さくしてあっさり描いているけど、単にうまく描けなかったからそうしたんじゃないかと邪推してしまうんだけど…

アラン・ロブ=グリエ『反復』 ※ねたばれしまくりです

2008-04-30 00:37:48 | 文学
小説は途中で手放すべきではない。
ロブ=グリエの『反復』を読み終えて、そう思った。108ページあたりから俄然興味を惹かれだした。それまでは、つまらん、と思って読んでいたのに。なぜここで興味を抱いたか、そしてなぜそれまでつまらないと思っていたか、その解答は繋がっている。この小説は、まず一人の話者(読者が読んでいるテクストの書き手とされている人物)がいて、その話者が自分の身に起きたことを語ってゆくのだが、そこに、「誰か」が「原注」という形で註釈を入れてくる。この「誰か」がまさしく誰か、ということがここで問題になってくる。おれは、それが初め「作者」であるロブ=グリエのことだと思った。だから、この小説はメタフィクション的な体裁をとっているのだと考えた。そう考えたものだから、なんだわざとらしいことしやがって、と否定的に見ていた。

ところが、108ページに設けられる「原注」によって、その「誰か」が作中人物であることが示唆される。それまで作中で話題にされていた人物が、突然「私」という一人称を借りて饒舌にしゃべり出すのだ。その猛烈な能弁は止まるところを知らず、「註」のレベルを超えて、えんえん20ページ以上しゃべり倒す。そして彼の物語った内容が、またとてつもないものだったのだ!

この小説には幾つかの側面がある。一つが分身小説。ほかに、サド趣味的(サディスティック)小説。コスプレ小説。推理小説。。ある種の私小説。そしてインターテクスチュアリティ小説。「原注」の語り手は、まさにこの内のサド趣味的小説、それも重度のサド趣味的な小説の作者だった。彼は幼い娼婦を手かせ足かせはめて陵辱する、その様子を長々と描写する。ところで、この幼い娼婦というのが、年齢14歳くらいなのだが、学校の制服を着ている。それは彼女が働いているお店の衣装なのだそうだ。また、ルーズソックスのようなソックスをはいている。要するに、一昔前の日本の女子高生のファッションだ(ロブ=グリエの小説は2001年刊行)。これは多分に日本的なロリコン趣味のコスプレ小説ともなりえているのである。

そのような劣情を刺激する要素がある一方で、これはハードな推理小説である。小説の前半で、第一の殺人事件が起こり、中盤以降で第二の殺人事件が起こる。しかも、殺害された男は同一人物なのだ。と言うと分かりにくいが、要するに単純な話で、最初の犯行の際には被害者は絶命していなかったに過ぎない。しかし、殺人事件は反復されている。ここで、この小説の題名であり主要テーマでもある「反復」に話を移すことができるわけだが、この要素は小説のほとんど冒頭で出現していた。「分身」という形で。語り手の「そっくりさん」が、列車の中の乗客として現れるのである。小説における「分身」のテーマは、ドイツの「ドッペルゲンガー」として世界でも古くから知られており(日本の場合、ドッペルゲンガーという言葉の流入する前は同じ現象を「離魂病」と言った)、ドイツ・ロマン派以降、文学の主要テーマの一つである。フロイトは、その論文「無気味なもの」の中で、ドッペルゲンガーを反復と結びつけて捉えている。この「そっくりさん」は、小説が進むにつれていつの間にか姿をくらましてしまうのだが、次第に読者は意外な事実に気付くことになる。実は、この「そっくりさん」こそ、「原注」の著者なのだ!しかも、「そっくり」なのも当たり前、語り手とは双子同士だという。彼のファーストネームの頭文字はWで表され、語り手の方はMで表される、つまり鏡の関係にある、という念の入れようである。名前に関して言えば、この小説では同一の人物が様々な名前で呼ばれる。いちいち例を挙げないが、語り手の名前が色々に変更されるので、初めは馬鹿馬鹿しくなるほどである。

しかし、この名前の多様性こそが、この小説を一種の私小説たらしめている。西洋の近代文学の歴史が『ハムレット』の冒頭の台詞「誰だ?」で始まったとすれば、近代文学は「私」(アイデンティティ)というものに呪縛された歴史でもあり、それが「私小説」なるものを生み出したとも考えることができる。つまり、私小説は「私とは誰か」を問い続ける歴史だったのである。その点で、ヌーヴォー・ロマンの担い手だったロブ=グリエは近代小説の伝統的な問いに回帰したものとも考えられる。だが、一筋縄ではいかないのが、この小説では「私」の自己同一性を完全に放棄してしまっている点である。語り手の文章はときどき双子の手になる「原注」によって中断させられ、ときにはあたかも乗っ取られる。一方の文章で他方を呼称するための名称が自分自身に対して用いられたりする。別人であるはずの二人がごちゃまぜになってしまうのだ。それは、小説の最後で如実に表現される。一方の特徴が他方の特徴として語られる場面である。それは、二人がいつのまにか入れ替わってしまったことを暗示しているかのようだ。

このような双子の物語は、どうしてもアゴタ・クリストフの『悪童日記』三部作を想起させる。この三部作で特筆すべきは「信頼できない語り手」だが、その手法が『反復』でも用いられているのだ。この手法によって、双子たちのアイデンティティが曖昧になってくる。だが、『反復』が想起させる物語は『悪童日記』三部作だけではない。それが、この小説をインターテクスチュアリティ小説とおれが呼ぶ所以である。例えば、チェーホフ唯一の長編『狩場の悲劇』に構成が近似している。これは恐らく『反復』を読んだロシア人くらいからしか指摘されないだろうが(というのもこのチェーホフの長編は世界的にマイナーなので)、『狩場の悲劇』もまた、小説中小説(大枠に囲われた小枠の小説)の語り手に対し、その小説の読み手(つまり大枠の小説の「私」)が註釈を付けていくのだ。しかも、この小説も推理小説の体裁をとっていた。この「註釈」が小説の中で重要な役割を果すことも共通している。更に、『反復』はオイディプス神話を反復している。これは父殺しの物語でもあるのだ。登場人物の名前が『オイディプス王』に出てくる名前と巧妙にリンクさせられている。また、これは訳者による「訳註」で教えられたことだが、『反復』はロブ=グリエのそれ以前の多くの作品の人物・事物を反復している。筒井康隆は、神話以外のインターテクスチュアルな反復(相互テクスト的な反復)は、小説の反復としては意味がないと言っているが、それは彼が小説を純粋なエンターテインメントとして、読者を楽しませる一種の娯楽道具として見ているからで、ロブ=グリエのこのような徹底した相互テクスト的な反復操作を加えられた小説は十分に成立している。

訳者の指摘を待つまでもなく、このようなインターテクスチュアリティは、ジュネットの考え方――あらゆる文学は先行作品のパロディである――を裏づけするものだが、しかし『反復』がキルケゴールの『反復』を参照していることを考え合わせると、やはり訳者の言うように、この小説は過去の語り直しであると共に未来を反復するものでもあり、旧であり新である。キルケゴールの主張はキリスト教的な人間の再生に根差しているが、ロブ=グリエはそれを文学的に解釈し、文学の再生を『反復』で試みた、と言えるかもしれない。

Tシャツを買う

2008-04-27 22:52:27 | Weblog
何年も着ていた青いTシャツがもうさすがにぼろぼろなので(首まわりが)、前々から新しいのが欲しいなあと思ってたところ、今日ようやく買うことができた。LLと表記してあった割には小さく見えたので、本当はLがいいんだけど、まあこれでいいかということでレジへ。

ところが、うちへ帰ってよくよく見てみたところびっくり。Mと表記してあるではないか!値札にはLLと書いてあるのに、シャツの襟元のひらひらにはMと書いてある。改めてシャツを見ると、どうみても小さい。で、今着ているシャツの上からこの購入したてのシャツを着てみたら、やっぱり小さい。失敗した!と思って、どうしようかなあ、と考えてしまったが、結局、返品しに行くことにした。お店まで自転車で10分弱と、まあ近いんだけど、面倒くさいなあと思いながら再び自転車をこぐ。

レジで無事に返品できて、新しいシャツを購入。やっぱり青いやつだ。デザインはMの青いシャツの方が気に入ってたんだけど、それでLがないので仕方ない。緑のシャツとも迷ったんだけど、そのシャツには外国のお札がプリントされていて、なんとなくはしたないからやめた。

さて、この話、オチがない。

ブログと世界

2008-04-27 00:58:57 | Weblog
ロシア文学研究者の岩本和久先生が、このブログを読んでくれたことをさっき知った。
http://kazuhisaiwamoto.blog.ocn.ne.jp/kamchatka/
ちょうど、岩本先生の本『トラウマの果ての声』の感想を書いた部分だ。はっきり言って、ものすごく驚いた。と同時に、ものすごく不安になった。驚いたというのは、おれのような一介の大学生の文章に、本を出しているような有名な先生(しかもロシア文学研究者)が反応してくれたから。不安になったというのは、岩本先生のブログを読んでいる知り合いに、おれの正体がばれるのではないか、と思ったから。まあ別にばれたっていいといえばいいんだけど、やはり恥ずかしい。

それで、思った。世界はなんて狭くなってしまったのだろう!東京と北海道ですぜ。インターネットが発達してなかったら、まず起こりえなかった接近だ。

大学生活の鬱屈した思いを書いたり、作家をけなしたり、就職活動の愚痴を書いたりして、なんておれは間抜けなことをしていたんだろう、と愕然とした。大学の知人に読まれることを全く考慮していなかったからだ。そもそもブログは匿名性がその大きな特性となっていると思うんだけど、案外その仮面は剥れやすいのかもしれないな。

しかし、これであまり萎縮しすぎることなく、かといって奔放過ぎるのも慎みながら、ブログを書いていこうと決めた。でもつまらない作家は、これからもけなしていくだろう…上品に。

新海誠の画集『空の記憶』発売

2008-04-26 00:44:51 | アニメーション
ついに新海誠美術作品集『空の記憶』が発売された。早速、書店で購入。すごい。これほどの美術が一挙に掲載されるとは。半分以上が秒速の美術だけど、コスモナウトの夢シーンの美術も当然載っていて、SF好きの人も楽しめそう。

新海誠がどのように背景を描いているのかが段階を追って解説されているページがあって、とても参考になった(自分では描けないけどね)。実際の写真を基にして描いているのは知ってたけど、こんな風にアニメーションの背景にしていくんだ、という過程がよく分かった。たまに、写真を基にしているから、あんなの誰でも描けるよ、なんてうそぶく人がいるけど、なんでもない風景を、あんなにも美しく懐かしい絵にしてしまうのは、やはりすごいと思う。

それと、新海誠と言えば、彼の新作がいまYou Tubeなどで見られますね。ef―the latter taleのOP。ちなみに新海誠はこのtheをaと書いていて、間違えている…自分で作ったのに。それはいいとして、映像の出来だけど、個人的には、前作のefの方が好き。というのも、新作は、動画部分の尺が短い気がするから物足りないんだよなあ。実際に時間を計ってみたわけじゃないので直感なんだけど、なんだか前置きの静止画がやたら長くて、動いているシーンは少なくてあっという間に終わってしまったように感じた。それと、主題歌が、前作の方が気に入っている。「ふたつの手 重なる」の部分が、あのカシャッカシャッというカット割と共に大好き。つづく「舞い上がれ 空高く」からラストまでもいい。でも、新作は、始まり(動画の)のシーンが最高。ピアノの音と同時に雨粒が水溜りに波紋を描いてゆくシーン。実はこういう演出の仕方は以前におれも考えたことがあって、やっぱりいいなあと再認識。けっこう感受性が似てるのかも…(なんて言うのはおこがましいか)。

このあいだ書いた、ルネ・ラルーの「ワン・フォはいかに救われたか」を見てから(ユルスナールの短編を読んでから)考えていたことなんだけど、新海誠の映像っていうのは、あの話とは逆の効果なんだよね。ユルスナールの短編では、老絵師の絵のあまりの美しさゆえに世界が色褪せて見えるから、老絵師は殺されそうになったけど、新海誠の絵っていうのは、世界はこんなにも美しいんだ、ということに気付かせてくれる。ただ、それだけだと、たとえば「紅の豚」のフィオが言う「きれい…世界って本当にきれい」と同じような意味になってしまうかもしれない。確かにそういう意味はある。あるんだけど、でもそれだけじゃなくて、新海誠が「紅の豚」と違うのは、「でも私は世界から独りきり取り残されている」という孤絶感だと思う。こんなにも世界は美しいのに、私は世界から切り離されている、という孤独な感覚。これが新海誠の真骨頂であり、そしてその感覚が、あの背景の郷愁を掻き立てられるような感覚にも通じているんじゃないか。

「耳をすませば」で、宮崎駿は「イバラード目」ということを言っていて、世界をいつもと違った視点から見れば、別の世界が見えてくるという。たぶん「耳をすませば」の主題の一つはまさにそれだと思うんだけど、新海誠の美術っていうのは、それを実践している。ただそれだけじゃない。そこに孤独感というものを介入させている。その分、新海誠の映画は屈折しているんだけど、そこがまたいいんだよね。だから、新海誠の映画を見ると、世界の美しさを学ぶと同時に、でも自分はそこに属していないかもしれないという不安な孤絶感をも学ぶんだと思う。学ぶ、なんて言うと勉強臭いけど、自然と身につける、ということだね。

また長くなってしまった。でも『空の記憶』発売記念ということで。

エヴァンゲリオン芸人

2008-04-25 23:54:04 | アニメーション
24日のTV番組「アメトーーク」は、エヴァンゲリオン特集だった。
見てみたのだが、すごくおもしろかった。エヴァが好きな芸人が集まって、それぞれにどこが好きなのかを聞いていって、そのシーンを流したりする。集まったのは、くりぃむしちゅーの有田、オリエンタルラジオの「あっちゃん」こと中田、アンガールズの山根、世界のナベアツ、芸人ではないけど加藤夏希、そして知らない人二名。

「エヴァで性的に興奮するシーン」特集というのがあって(さすが夜11時過ぎの番組だ)、あっちゃんの話がかなりおもしろかった。どんびきした視聴者もいたのではないか?というのは、彼はこんな話をしたのだ。弐拾参話の「涙」の回で、第16使徒アルミサエル(円環状のやつです)と綾波レイが戦う。使徒は綾波の体を浸食してゆく。そのとき、彼女は頬を赤く染めて、喘ぎ声を発するのだが、なんと、あっちゃんはこのときの綾波の声をMDに録音して、それを中学校の通学の途中でいつも聞いていたというのだ!客席はざわめいたよ。おれも中学のときエヴァには衝撃を受けたけど、さすがにそこまではしなかった。というか、中学のときにあのシーンで興奮しなかったし。きのう観て初めて、ああそうか、あれは触手による少女陵辱シーンか、と得心がいった次第(もちろん肉体的な陵辱であるとは分かっていたけど、触手による例のアレとは分かっていなかった)。外国では、日本のアニメというと、そういう触手で少女が犯されるアニメがすぐにイメージされるそうだけど(ちなみにロシアの作家ペレーヴィンもこのことについて言及)、エヴァにもあったか。あれは明らかにそうだな。気付かなかった。

で、あっちゃんだけど、ここで高らかに宣言しよう、「彼は変態である」と。

最近の読書から

2008-04-24 14:26:50 | 文学
●フィツジェラルド『グレート・ギャツビー』
村上春樹訳ではありません。
春樹が好きだと言うので前から読んでみたかったんだけど、春休みにやっと読むことができました。
思ったよりも密度が濃いな、という印象。前半は物語がなかなか進展しないけど、後半は一気に話が進む。あと、語り口、つまりプロットに工夫が見られる作品ですね。この小説の核である男の執念に、というよりは、そのいじくられたプロットに面白味を感じた。また、東部と西部の対照にも関心を引かされた。この視点でもっとじっくりこの小説を読んだら、別の感想が生まれるんだろうな。ただ、一番印象に残ったのは、密度の濃いその文体だった。

●シャラーモフ『極北 コルィマ物語』
スターリン時代に強制収容所に送られた作家の、主に収容所を舞台にした短編集です。この小説も文体の密度が濃い。また、人生の観照が多く、じっくりと読むことを要請されている気がする。言葉も物語も簡潔なので、稀に話が良く理解できないときもあったけど、短編としての「意想外のおもしろさ」とでも言うべきものに気が配られていて、それなりに楽しめた。小説で描かれているのは人間の堕落と監獄との関係、いかに重労働をやり過ごすかという強かさ、など。苛酷な現実にひたすら翻弄される人々を言葉少なに語り、迫力がある。こういう内容だから、当然、ソルジェニーツィンと比較したくなるが、翻訳者によれば、シャラーモフとソルジェニーツィンとは著しく対照的らしい。後者が人間を肯定的に捉えているのに対して、前者つまりシャラーモフは人間をともすれば堕落するものとして捉えているそうだ。艱難辛苦に耐えた人の一つの結論だろう。
この小説はヨーロッパでの評価が非常に高く、『理想の図書館』でロシア小説の10冊の内のひとつに選ばれている。

ウラー!アクーニン!

2008-04-22 00:02:38 | 文学
春休みの読書の感想です。

●アクーニン『アキレス将軍暗殺事件』

「アクーニン」というのは本名チハルチシヴィリという名前のロシア人のペンネームで、日本の「悪人」がその由来です。というのも、この人は日本文学研究者で、三島由紀夫のロシア語への優れた翻訳者でもあるから。

さて、『アキレス将軍暗殺事件』。一言で言えば、めちゃくちゃおもしろい。これは「ファンドーリン・シリーズ」のひとつで、ファンドーリンという知力・体力共にスーパーマン的な男が様々な事件を解決してゆく推理小説です。この小説では、アキレス将軍という人物の死をきっかけに、大いなる陰謀にファンドーリンが立ち向かっていきます。作者が日本通なだけに、日本人にとって非常に興味深い要素が作品内に散見されます。たとえば、この小説でファンドーリンは日本から帰国したばかりで、マサという名の日本人を子分に従えています。このマサは元やくざという設定。他にも、手裏剣なんかが出てきます。あと、ファンドーリンは忍者の技を会得していることになっていて、なんと壁を走ることができます(!)日本人が読むとちょっと笑ってしまうのですが、そこが調度いいユーモアになっていて、とても楽しめます。

この小説は二部構成で、第一部がファンドーリンの視点から、第二部は暗殺者の視点から語られます。ストーリーはファンドーリンの物語(第一部)でほぼ全て語り尽くされてしまうのですが、暗殺者の物語は物語で非常に興味深いです。幾つかのエピソードが紹介されるのですが、中でも「裁判」の話がすごくよかったです。それだけで一編の短編小説になっています。

アクーニンの小説に共通するのはストーリーテリングの巧みさですが、他にもう一つ、切なさ、というのがあります。「アキレス将軍」の場合、それは暗殺者アキマスの人生に秘められています。ずっと忘れられなかった少女の面影。これです。もっとも、その切なさが分かりやすい形で表現されているので、あざとい、という評価もあるでしょう。実際、狙ってるな、と思わないではなかったし、別の小説『リヴァイアサン号殺人事件』でもそう思いました。ただ、そこは推理小説、ということで割り切って考えることもできます。もともとこのシリーズは、大衆文学と純文学の読者の隙間を埋めるために書かれたそうです。だから、二つの要素が交じり合ってるんですね。おれはけっこう好きですね。

読書目録

2008-04-20 23:03:46 | 文学
春休みから最近の間に読んだ本の幾つかの感想を、忘れないうちに書き留めておこう。

1、中原昌也の短編集
2冊読んだんだけど、題名を忘れてしまった。一冊は、フィフィの虐殺ソングブックとかなんとかいう名前だった。いずれもこの作者の初期のものです。読んだきっかけは、学校の先生が、この人はソローキンに作風が似ているが、才能はソローキンに及ばない、と言っていたから。それで興味を持った。実際読んでみると、確かにソローキンに似て露悪的なところがあるものの、ソローキンの見事な文体(といっても翻訳ですが)と比べるとちょっと…という感じですね。あと、ソローキンは、世界を解体しようとしてその解体の様子を記述しているのに対して、中原昌也は、既に解体してしまった世界を記述しているように感じられた。抽象的な印象ですが。はっきりいってそんなにおもしろくなかった。

2、岩本和久『トラウマの果ての声』
これは現代ロシア文学の概説書で、翻訳では読めないロシア文学の紹介書となっています。だから当然おれも読んだことのない作品が幾つもあって、こんなのがあるんだあ、と素直に興味がもてた。その点で、もっと読書しなきゃな、と刺激になった。ノスタルジーというものをキーワードにしていて、一見ばらばらな評論集のようでいて、一貫して筋が通っている書物だ。

3、筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』
専門的関心から読んだ本だけど、とてもおもしろかった。これは「反復小説」とも言うべきもので、小説の中味も形式もことごとく反復している。ここまで徹底的に反復をやった小説っていうのは世界文学でもほとんど例を見ないのではないか。東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』にも影響を受けているそうで、筒井康隆の次回作はライトノベルになるとか。ちなみに、大学の先生曰く、「この本は一種のゲームだ」。ウリポのようなものらしい。ウリポってのは、フランス文学の一派で、文学に様々な制約を設けて執筆した連中です。

4、ペレーヴィン『恐怖の兜』
ペレーヴィンの比較的新しい小説。ミノタウロスの神話をモチーフにしている。この神話では、ミノタウロスを倒すべく迷宮に入っていった英雄が、アリアドネの糸のおかげで生還できた。この糸の名前が「スレッド」であることから、インターネットの掲示板の「スレッド」とかけて、チャットのおしゃべりを小説化した。もちろんアリアドネも登場。知らぬ間に見知らぬ部屋に閉じ込められていた男女が、その部屋に置かれているパソコンを通じてチャットをする。その部屋の外には、どうやら迷宮が広がっていて、得体の知れない兜を被ったミノタウロスのような生き物が徘徊しているらしいのだが…
で、感想ですが、意味分からん。ペレーヴィンは『虫の生活』は傑作だと思うけど、他のはどうも、おれはついていけないな…。ある口の悪い先生が、「あいつ(ペレーヴィンのこと)は薬物中毒だよ」と言っていた。

長くなったのでこのへんで。次回はアクーニンとフィツジェラルドについて書こうかな。

宮崎駿が水の描写に挑む

2008-04-19 03:38:45 | アニメーション
『崖の上のポニョ』は7月19日に公開されるそうですが、映画の上映時間の8割が海のシーンだそうで、そして、驚くべきことに、背景となる海の水や波の描写を、宮崎駿が一人で担当しているという(18日付朝日新聞夕刊)!もちろん動画は別の人が担当してるんだろうけど、原画は宮崎駿一人ってことなんでしょう。水の描写というのはアニメーションにおいて重要で、非常に難しいとされる。描き手の力量が見えてしまう。それに老齢の宮崎駿が挑む。もちろん宮崎駿なら水を作画することはできるだろうけど、どれほどの波を見せてくれるのか、それを考えると、今からわくわくする。水は、千と千尋でもそうだったように、最近ではCG処理されてしまうことが多いけれど、手描きでどれほどのものができるのか。

たぶん、今のジブリには水を上手に描くことができるアニメーターはごくわずかしかおらず、そういう台所事情もあって親分が自らお出まし、となったのかもしれないけど、これはファンにとっては楽しみだ。この映画、ひょっとするとひょっとするかもしれない。アニメーション史上に残る大傑作となる可能性がある。昨日までは大して期待してなかったんだけど、まさか宮崎駿が水の作画を手掛けるとは!それもほぼ全編海のシーンがある映画で!これはすごいことだぞ。

ワン・フォーはいかにして救われたか

2008-04-19 03:20:23 | アニメーション
ルネ・ラルーのアニメーション作品に、『ワン・フォーはいかにして救われたか』という短編があります(ひょっとしたら題名が微妙に違うかも)。絵柄は余り気に食わなかったんだけど、だんだん話に引き込まれた。おもしろいのだ!

ワン・フォーという画家が弟子と一緒に様々なところを経巡ったすえ、ある土地で帝の指図で捕まってしまう(ちなみにここまではこの映画がいまいち好きになれず、ぼんやり見ていました)。帝の前に引き立てられた画家とその弟子は、なぜこのような仕打ちを受けるのか、帝に問う。帝が答えて言うには――(ここからがおもしろいんです)自分は幼少の頃より父親によって地下の部屋に閉じ込められて育った。その部屋にはワン・フォーの描いた絵ばかりが飾られていた。私はその絵ばかりを眺め過ごした。世界とはこのように美しいものだと想像をめぐらせた。長じて、初めて外界を目にしたとき、私は絶望した。ワン・フォーの絵に比べ、本物の世界が余りにも色褪せて見えたからだ。だから私はそなたの目を焼き腕を切ろう。二度と絵が描けぬように。

こんなことを言うんですね。けれど、最後の一枚として画家に絵を描かせようとするんです。そしてその海の絵を描いている間に、次第に水が絵から染み出てきて、部屋いっぱいに水が満ち、画家と弟子は小舟に乗って絵の中、遠くの海へと消えてしまう。

ここで話が終わるんですが、こんな話どっかで聞いたことあるよなあと思っていたら、最後の場面は小泉八雲の『果心居士』と共通してますね。

さて、この話は、実はユルスナールの『東方綺譚』の中の一作を原作にしています。「東方」だから、小泉八雲の話とも元ネタが一致するわけですね。で、このユルスナールの小説ですが、これがなんともすばらしい。訳文もすごい。上品で格調高く、且つ流麗。アニメーションとは若干異なる描写もあるものの、基本的には同じで、なぜワン・フォーを捕えたかを語る場面はラストと並んでクライマックスを成しているでしょう。ただ、個人的には、画家が絵の中に消えるラストシーンよりも、帝がなぜ画家を憎むようになったか、それを語るところがものすごく気に入った。理由がいい。「その絵によって世界が色褪せて見えるから」。痺れますね。

ちなみにユルスナールのこの短編集は、どれも非常におもしろいです。訳文もすばらしい。

東大図書館

2008-04-18 00:41:29 | Weblog
怨念の塊のような文章を書いてしまった。今後は気をつけよう。
それに、長い文章の記事がふたつつづいてしまった。これも気をつけよう。

さて、東大の図書館は、蔵書が酷い。
『ホレーニア短編集』もないとは。「バッゲ男爵」が読めないということだ。
本郷には翻訳がほとんどない。翻訳は駒場にある。学部生はしかし、駒場から本郷へ本を取り寄せることができない。駒場にある本を読みたいときは、わざわざ駒場まで出向かなくてはならないのだ!大学院生はそうではないけど、そもそも本郷に翻訳がほとんどないのがおかしい。なんとかしてくれ。

グループ面接という愚

2008-04-18 00:24:53 | お仕事・勉強など
就職活動中の某書店に落ちてしまった。
グループ面接の結果だ。
その面接が終わったときに、ああ落ちたな、とは分かっていたんだけど、ちょっとがっくしきた。それはグループ面接というよりはグループワークで、決められた時間内にある質問についてグループで話し合い、まとめ、まとめたものを発表するというものだ。質問というのは、「どのような人が働いている会社にあなたは魅力を感じますか」ということだ。

この課題で馬鹿らしいのは、こんなのは個々人によって異なるはずのもので、こういうことをまとめようというのはそもそも無理がある。まあたぶん会社はそれを承知でこの課題を出しているんだろうけど、不毛な努力を強いられてるようで、それがまず気に障った。で、もう一つ馬鹿らしいのは、学生が話し合っているのを、試験官が歩き回って観察していることだ。1グループ8人程度のグループが4つあって、それを90分くらいの間観察するんだけど、観察するのはたったの2人。しかもそのうちの一人はおれと同じ年齢(前に自己紹介したので覚えている)。なんでこんな奴に試験されねばならんのだ、という憤懣もあったが、自分たちの会話が試験されている、と感じることは、気持ちのいいものではない。馬鹿らしくなってくる。

それと、同じグループにいた人で、意味の分からないことを言い出す人がいて、困った。「どのような人に魅力を感じるか」ということだけど、その質問を、「どのような人がいる会社に入りたいか」と「どのような人と一緒に働きたいか」に分けようというのだ。この区別にどれだけの意味があるのかおれにはさっぱり分からなかったんだが、「そりゃどんな人と働きたいかじゃないの」ってことを言ったら、別の人(!)に真っ先に反論されて、「いや、我々は就職活動中の身だから、どんな人がいる会社に入りたいか、という質問に対しての方がリアリティがある」と言うんだよね。なんじゃそりゃ?どんな人がいる会社に入りたいかってのは、つまりどんな人と一緒に仕事したいかってことで、二つは同じことだけど、強いて言えば、どんな人と働きたいか、ってことになるはずでは?と今なら言えるけど、そのときはもう訳分からなくて、はあ、そうですか、ってことで引き下がってしまったんだけど、あほか。確かにおれは相手をやり込めることはできなかったわけで、そこに反省の余地はあるとはいえ、そもそもこんな馬鹿げた議論は時間の無駄だ。その会話以降は、「さっさとディスカッション終われ」と願い始めた。

それにしても、恨めしいのはこんな下らないディスカッションをさせた某書店である。こんなことで何が分かるというのか。それとも下らない会議というものへの適性を判断しようというのか?それなら、なるほどおれにはそんなものはないということが明らかになったけど…

そんなわけで、絶対落ちたな、と思った次第。たとえ受かっても誰がこんなとこ入るか、と。だけど、おれのグループから一人は合格しているんだろうなあ。意味の分からんことを言った奴や、意味のわからん反論をした奴は落ちてるといいなあ…


と、愚痴をつらつら書いてきたわけですが、あのグループでおれは完全に浮いていた気がする。会社の「どのような人…」の質問に対して、おれだけが、怠けてる人がいる会社で働きたい、とか到底意見の通りそうにないことをしゃあしゃあと言ってしまったからだ。初めから意見をまとめる気なんてないだろお前、と言われても反論できません…。最初に学校名を言う規則になっていたんだけど、どうせ「東大ってやっぱ変わってるよ」とか思われたに相違ないんだ。もっとも、これは自意識過剰か。

書くこと、読むこと、そして送別会

2008-04-15 23:48:45 | Weblog
ブログを始めてみて、思ったのは、書きたいことが沢山あるということだ。「ただ生活しているだけで、悲しみはそこここに積もる」と『秒速5センチメートル』の主人公タカキは独白しているけれど、ただ生活しているだけで、言いたいことはどんどん溜まってくる。こんなにもおれは何かを発言したいんだ、と今更ながらそのことに気付き、恥ずかしくなる。「ブログを始めるっていうのは自己顕示欲の強い人のすることじゃないのか?」と思ってしまうあたり、ブログ流行りの今の時代からは取り残されているのかなあと不安になるけど、でも不安と言うより、ブログをやっているというのはやっぱり少し恥ずかしい。けど、誰にでも「書きたい」という欲求はあったって不思議じゃないし、恥ずかしがることではないのかもしれないな。

ところで、読むことが最近苦痛だ。神経症のようなものを患っているせいで、しばしば調子が悪くなる。そうなると、とても読書などできない。でも、こうなる前から、既に読書は単純に楽しいだけのものではなくなっていた。あれも読まなきゃ、これも、と思う気持ちはひょっとしたら愉快なものなのかもしれないけど、おれの場合、追い立てられているような気分にさせられて――焦燥感、と言うのだろうか?――読むのが辛くなる。もはや自己満足のために読んでいて、楽しみのためではない。これは娯楽ではない。一種の拷問だ。読んでいてつまらないと感じても、全て読まなくては、と義務感に急き立てられ、我慢して最後まで読み通す。ああ、やだなあ、と思う。一方で、語学の勉強もせねばならず、そのせいで読書の時間が削られてしまうのが耐えられない。両立は難しいのだ。読むのが嫌だと言っているのに、読書の時間がなくなるのは嫌だと言っているのだから、訳がわからないだろうけど、でもそうなのだ。

ときどき調子のいいときなどは、昔の読書欲が甦ってきて、あれを読みたいな、などと自分の研究とは全く関係のない本を読んだりする。その一つがカポーティの『草の竪琴』だ。これは、『秒速5センチメートル』のアカリがホームで手に取っていた小説で、ただそれだけの理由で、読んでみたいと思った。実際に読んでみて、樹の上に住む、という発想など、先のカルヴィーノの『木のぼり男爵』と似ている。内面的な少年の目線を通して外界を眺める、といった小説だけど、内容がつまらなかったせいか、それともおれの集中力が切れていたせいか、前半はあまりのめりこめなかった。後半ものめりこむほどには楽しめなかったけど、それでも幾つかの美しい細部に出会うことができた。読書はやはり集中力のあるときにするものだと思う。

話はがらりと変わるけど、この間、自国へ帰る英語の先生を送る送別会が大学の研究室であった。おれは出席しなかった。というのも、その先生の授業には出ていなかったためほとんど接点がなかったからだ。もちろん、こういうのは一人でも人数が増えた方が賑やかでいいのだろうけど、おれが行くのは場違いな気がした。それに、研究室には親しい人がおらず、行っても孤独を味わうだけなのは火を見るよりも明らかだったからだ。わざわざ孤独を得るために学校まで行くのは馬鹿げている。そう思って、行かなかった。かわりに、図書館へ行って、『見えない都市』と『草の竪琴』とエリオットの詩集を借りてきた。そのときはまだブログを作っていなかったけど、こういう経緯でこういうものを読んでいるうちに、なにかしら書きたいことが出てくるのだと、そう思った。