いま、パソコンが立ち上がらなかった。やばい。修論書いてるときに故障かよ。でもそろそろ寿命なのかなあ…。確かに新しいパソコンに買い換えたくはあるんだけど、買った後のことを考えると色々めんどくさい。あと、ブルーレイ対応のパソコンがいいんだけど、それはまだ高いらしい。それが安くなるまで、どうかもってくれ…今のパソコン!
さて、シュウォッブの『少年十字軍』を読みました。短編集です。これは、『黄金仮面の王』と『二重の心』という短編集からそれぞれ訳者の多田智満子さんが選んだもの。それに加えて「少年十字軍」というやや長めの短編が収録されています。
まず、訳者の荘重な訳文がすばらしい。この人は他にユルスナールの『東方綺譚』などを訳しているが、それも格調が高く、堂々たる出来だった。名訳と言っていい。
さて、シュウォッブのこの短編集には、ペストやらい病(ハンセン病)、阿片などが多く登場する。暗黒的なイメージを惜しげもなくテクストの前面に出している。世界滅亡の終末的なイメージのみを描いたプロットのない小品「大地炎上」などを読むと、この作家がこうした幻想だけを売りにして小説を書いているのかとも錯覚させられるが、しかし「黄金仮面の王」や「ペスト」などには見事な短編的なトリックを用いており、技術も持ち合わせていたことが見て取れる。
特にぼくの印象に残ったのは、「黄金仮面の王」と「ペスト」と「〇八一号列車」だ。いずれも病に関わる作品だが、「ペスト」だけは趣が随分異なり、喜劇調に仕立てられている。残りの二つは重苦しくさえあり、「列車」はホラー風だ。この両者には他にも共通点がある。それは、明らかに別のテクストを参照項として持っていることだ。「黄金仮面」はオイディプス王を下敷きにしているとみなせるし、「列車」はポーの「赤死病の仮面」を髣髴とさせる。また、「列車」にはモノのドッペルゲンガーとでも言うべきものが出現する。それが人間ではないという点で珍しい。それはある種の鏡であり、現実界の奇妙な反映としての「無気味なもの」(フロイト)である。ドッペルゲンガーとの行動の「主従関係」が逆転するところは、エーベルスの怪奇小説「蜘蛛」とも類似している。
更に、この小説では色が印象的な働きをしている。例えば、次のような箇所――
「その男には白い毛織の布がかぶせてある。一人の女と幼い少女が、黄と赤の花を刺繍した絹の服につつまれて、クッションの上にぐったりと横たわっている。(…)男の胸は露わだった。皮膚には青っぽい斑が点々とちらばり、ひきつった指は皺がよって、爪は鉛色、眼は青い隈でかこまれている。」
男は死んでいるのだが、彼が「白」と「青」で彩られているのに対し、女と少女には「黄」と「赤」がきらめいている。この寒色と暖色との対比。しかし、「赤」という色はもっと別の箇所でも用いられていて、そこでは無気味な、恐怖を刻印するような明りを放っている。
「少年十字軍」では、解説でも指摘されるように、「白」が「暗示的に用いられている」。
幻想を描くにあたり、「色」というのはイメージを読者に根付けやすい、格好の手段だったのかもしれない。
ところで、少年十字軍は歴史的な事実だが、これを扱った小説は他にも存在する。例えばアンジェイェフスキの『天国の門』だ。この小説は極端に句点(。)を省いた実験的な手法で書かれており、そういう意味ではシュウォッブの小説とは異なるが、しかし語りを多用しているという意味では一致する。「少年十字軍」はまさにその語りで構成され、何人もの人物の口から物語が語られるのである。
好き嫌いが分かれそうな作家ではあるが、こういう、黒いイメージを持った鮮烈な幻想も悪くない。
さて、シュウォッブの『少年十字軍』を読みました。短編集です。これは、『黄金仮面の王』と『二重の心』という短編集からそれぞれ訳者の多田智満子さんが選んだもの。それに加えて「少年十字軍」というやや長めの短編が収録されています。
まず、訳者の荘重な訳文がすばらしい。この人は他にユルスナールの『東方綺譚』などを訳しているが、それも格調が高く、堂々たる出来だった。名訳と言っていい。
さて、シュウォッブのこの短編集には、ペストやらい病(ハンセン病)、阿片などが多く登場する。暗黒的なイメージを惜しげもなくテクストの前面に出している。世界滅亡の終末的なイメージのみを描いたプロットのない小品「大地炎上」などを読むと、この作家がこうした幻想だけを売りにして小説を書いているのかとも錯覚させられるが、しかし「黄金仮面の王」や「ペスト」などには見事な短編的なトリックを用いており、技術も持ち合わせていたことが見て取れる。
特にぼくの印象に残ったのは、「黄金仮面の王」と「ペスト」と「〇八一号列車」だ。いずれも病に関わる作品だが、「ペスト」だけは趣が随分異なり、喜劇調に仕立てられている。残りの二つは重苦しくさえあり、「列車」はホラー風だ。この両者には他にも共通点がある。それは、明らかに別のテクストを参照項として持っていることだ。「黄金仮面」はオイディプス王を下敷きにしているとみなせるし、「列車」はポーの「赤死病の仮面」を髣髴とさせる。また、「列車」にはモノのドッペルゲンガーとでも言うべきものが出現する。それが人間ではないという点で珍しい。それはある種の鏡であり、現実界の奇妙な反映としての「無気味なもの」(フロイト)である。ドッペルゲンガーとの行動の「主従関係」が逆転するところは、エーベルスの怪奇小説「蜘蛛」とも類似している。
更に、この小説では色が印象的な働きをしている。例えば、次のような箇所――
「その男には白い毛織の布がかぶせてある。一人の女と幼い少女が、黄と赤の花を刺繍した絹の服につつまれて、クッションの上にぐったりと横たわっている。(…)男の胸は露わだった。皮膚には青っぽい斑が点々とちらばり、ひきつった指は皺がよって、爪は鉛色、眼は青い隈でかこまれている。」
男は死んでいるのだが、彼が「白」と「青」で彩られているのに対し、女と少女には「黄」と「赤」がきらめいている。この寒色と暖色との対比。しかし、「赤」という色はもっと別の箇所でも用いられていて、そこでは無気味な、恐怖を刻印するような明りを放っている。
「少年十字軍」では、解説でも指摘されるように、「白」が「暗示的に用いられている」。
幻想を描くにあたり、「色」というのはイメージを読者に根付けやすい、格好の手段だったのかもしれない。
ところで、少年十字軍は歴史的な事実だが、これを扱った小説は他にも存在する。例えばアンジェイェフスキの『天国の門』だ。この小説は極端に句点(。)を省いた実験的な手法で書かれており、そういう意味ではシュウォッブの小説とは異なるが、しかし語りを多用しているという意味では一致する。「少年十字軍」はまさにその語りで構成され、何人もの人物の口から物語が語られるのである。
好き嫌いが分かれそうな作家ではあるが、こういう、黒いイメージを持った鮮烈な幻想も悪くない。