Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

諸々の負の感情について

2012-01-31 00:02:26 | お仕事・勉強など
そろそろぼくと同世代の人たちの書いたものが活字になることが増えてきていて、まあそれはある程度前から続いていた状況だったわけですが、で、ぼくは思うわけですが、他の人たちは、自分と同年代の人の書いたものを、年配者の書いたものを読むのと同じような精神状態で読むことができるのでしょうか。しかも、それが優れた内容・文章である場合には。

嫉妬や羨望や劣等感、そういった諸々の負の感情は湧いてこないのでしょうか。当然湧いてくるものだとぼくは思っています。そしてそれを力に変えてゆくのだと。でも、負の感情を正の力に変換できないぼくのような人間は、どうすればよいのでしょうか。それが分からない。

別に文章でなくてもいいのです。例えば、隣の同級生はロシア語の講義を正しく聞き取れている。でも自分はさっぱり分からないとする。このときの失望や劣等感を、どのようにエネルギーに変えてゆけばよいのか。ぼくにはそれが分からない。

プライドなんてもうとっくにずたずたに切り刻まれているはずなのに、それでもまだ、ぼくはその切れ端を大事にしているというのか。それともこの切れ端こそが劣等感なのか。だったらそいつを捨ててしまいたい。遠くへ、目の届かないところへ。

頭のいいことを書いているのを見たりすると、ぼくはすっかり気落ちしてしまう。なぜだ?自分には理解できないことだったから、というのが一つ。もう一つは・・・駄目だ、分からない。いやつまり、こういうことだ。もともと自分よりも「上」にいると考えていた人だったら、どんなにすばらしいことを書いても、ぼくは嫉妬したりしない。例えば先生とかね。しかし、自分よりも「下」だと考えていた人がすばらしいことを書いたなら、恐らくぼくは嫉妬するだろう。例えば下級生とかね。もちろんこれは話を単純化しすぎかもしれないけれど、こういう図式であるのは確かだと思う。

ということは、ぼくは無意識に人のことを「上」や「下」で区別しているということなのか。忌まわしいな。であるならば、ぼくが諸々の負の感情に苛まれるのも、当然の報いなのかもしれない。正のエネルギーに転換できない理由がこれだ。つまり、罰。・・・ああ、内罰感情ってやつの一種ですかね。自分は罰せられた方がいいんだ、という気持ちは最近は薄れてきているんですが、ややもすると顔を覗かせるな。まあしかし、そんなことはどうでもいいのです。

問題は、負の感情にどのようにして対処するか、ということ。その発生の抑制法と発生時の解消法について。

それにしても、幾つかの意味で読み返すに値しない文章だな(だから読み返さない)。

音楽は終わらない

2012-01-29 01:59:06 | 音楽
音楽は終わらない。そう言い切って始まったamazarashiのライブ『千年幸福論』。
今年最大級のビックイベント、行ってきました。場所は渋谷公会堂。

午後5時開場のはずが、リハーサルが長引いているとかでかなり待たされましたが、結局開演時間は6時15分くらいでしたっけ、それほど遅れずに始まりました。突然に。

急にホール内が暗転し、ステージからボーカルの秋田ひろむ氏の朗誦が響く。爆音過ぎて明確に声を聞き取ることができなかったのが残念でしたが、彼は最後に「音楽は終わらない」と力強い声をぼくらに届けてくれました。そして続けざまに圧巻の「デスゲーム」。

amazarashiのライブは映像と演奏とが一体化していて、映像もド派手。ステージには半透明のスクリーンが張られ、その後ろに演者がいる、という配置。スクリーンには曲が変わる毎に当然別の映像が映し出され、その絵だけで見る者を圧倒する。したがって、スクリーンの向こうにいるボーカルを始めとした演者の姿ははっきりとは見えない。演出上、映像が途切れた瞬間にその姿を垣間見ることができますが、しかし顔や表情までは分からない。

ぼくは本格的なライブに赴いたのは今回が初めてなのですが、しかしこれはどうやらかなり異質なようです。amazarashiは、そのPVからして映像面にも力を入れていることが伝わってきますが、彼らのライブは、音楽だけを聴かせるというよりも、映像と一体となった新たなパフォーマンスを体験させることに主眼が置かれているのではないかと思いました。

けれども、やはりamazarashiの最大の魅力は歌なのだ。ライブで聴くと、ボーカルの声の表情が手に取るように分かって、その点では、CDで聴くよりも興奮度は高い。確かにCDの方が音程はしっかりしているし、安定しているのだけれども、ライブはむしろその不安定さがいい味を出しており、感情の強弱が直に伝わって来る。ときに絶叫するように歌う秋田氏の持ち味は、ライブでこそ最大限に発揮されると言ってよいと思う。

その意味で、圧巻だったのは「カルマ」と「ワンルーム叙事詩」だった。とりわけ「ワンルーム叙事詩」から「奇蹟」への繋ぎは神がかっており、すばらしかった。「ワンルーム叙事詩」に少しアレンジを加えて朗誦部分を付け足すことで、「奇蹟」への自然な流れを作ったのみならず、よりメッセージ性が強くなり、心に響いた。心に響いたと言えば、最初の「デスゲーム」でいきなり鳥肌が立って、それからの息もつかせぬ展開に圧倒されっ放しだったのだけど、「カルマ」直後のごくごく短いMC(このライブで最初で最後のMC)には、心を揺さぶるものがあった。

無気力な生きた死体。秋田氏はそう言いました。そんな自分がここ渋谷公会堂のステージに立っている、と。ぼくはたぶん、秋田氏を自分と重ねて見ている。ぼくのような人間が、果たして社会人として生活していけるのか、不安で堪らなくなるときもあるけれども、秋田氏の活躍を見ることで、それを望むことで、ぼくは今日を生きる勇気をもらっている。かなり陳腐な言い方になってしまってごめんなさい。でも、真理なんてものは案外にして陳腐だったりするのかもしれないよ。秋田氏が歌い続けることで、ぼくは可能性の光が皆無ではないことを知る。だからどうか歌ってください。ぼくもナイフじゃない武器を探します。

MCの後の「未来づくり」は、歌詞が一部飛んでしまったようでしたが、感動的な映像と相俟って、人間賛歌のように感じました。それは続くラストの「千年幸福論」でも同じで、人間は生きるに値するということを、熱烈に歌い上げているようにさえ感じました。

最後に新曲も聴けたし、満足。2時間足らずの短めのパフォーマンスでしたが、その分ぎゅっと内容が凝縮されていて、音楽的・映像的に中身の濃い時間を過ごせました。すげえなあ。

本を読みながら

2012-01-28 00:34:18 | お仕事・勉強など
先日から読み始めたロシア語の本、ちょっとずつ読み進めています。でも案外難しい。
バイト先でも、別の本を読み始めました。こちらもロシア語ですが、比較的易しい。

易しい方の本は、ロシア文学史の教科書で、基本的な知識を押さえておこうかなと、まあバイト先での暇つぶしも兼ねて、一部の項目だけ読むことにしました。

難しい方の本は、専門書で、今のところまだ核心に入っておりません。前史といったところでしょうか。

ちなみに、難しいとか易しいとかいうのは、内容についてではなく、ロシア語のレベルについてです。単語の難易度やシンタクスの複雑さ等が基準。どうせなら、専門書の方をもっと易しく書いてほしかったぜ。

今日は専門書を12ページほど読みましたが、集中力が続かなくて、短時間しか椅子に座っていられませんでした。もっと熱意が保てれば、もっと読めたのになあ。もっとも、本当は毎日5ページ程度ずつ読めればいい計算ですので、今日は合格点なのですけどね。・・・と、読んだ分量にばかり気が逸れていってはいけないのだと自分を戒めなければいけない。やはり量より質が大事なのですから。

とまれ、ゆるゆる読み進められればいいなあ。

生まれ出る悩み

2012-01-27 01:32:42 | Weblog
中学生、高校生、大学生となるにしたがって、どんどん可能性が広がっている気がする。ずっと昔そう言った人がいた。ぼくはそれは違うと思った。というのは、人間は成長するにしたがって次第に可能性を失ってゆくものだからだ、と考えていたから。これは、実は宮崎駿の思想を下敷きにしている。彼は次のようなことを言った、人間は生まれ落ちた瞬間に、可能性を失ってしまったのだ、別の時代に生まれてくる可能性を。

これを敷衍すれば、別の時代のみならず、別の国、別の人種、ひいては別の生物にだって、ぼくらはなれたかもしれない、そういうふうに考えることができる。更に、生まれ落ちたときぼくらは総理大臣や、生物学者や、建築士や、栄養士や、弁護士や、SF作家や、高校教師や、外科医になれる可能性を秘めていた。ひょっとしたらテロリストになる可能性だってあった。でも、ぼくらはそういった「可能性の皮」を一枚一枚脱ぎ捨てていった。最初は「何にでもなれる」はずだったのに、いつの間にかぼくらには選択の余地がほとんど残されていなかった。ぼくらは様々な可能性の中から自分の人生を選択してきたように思っているけれど、でも本当は、ただ何となく歩いてきたのに過ぎなかったのかもしれない、目の前の道を。

いや、これは「ぼくら」の物語ではないかもしれない。あくまで「ぼく」の物語であり、人生だ。例えばぼくは、受験する大学を自分で選んだように見えるかもしれない。うん、確かに自分で選んだ。でも、実は選択の余地はほとんどなかったようにも思う。それまでのぼくの境遇、そしてそれによって狭められた視野と思考、大学の選択はそういったものの賜物であり、ぼくが自分の意志で為したように見えることは、結局のところ自分の意志などでは全くなかったような気がする。そもそも意志というのは、確固たる自我から発生したものではなく、曖昧模糊としたものだ。ぼくはそのときそうせざるを得なかったからそうしたまでで、何かを選び取ったわけではないのだと思う。

「どんな大人になりたいですか?」と尋ねられた子供の頃のぼくは、具体的な職業を想像することはせず、ただ「どんな人間になっていたいか」ということに思いを巡らした。少年の時分、ぼくはクールな人間にも憧れたし、陽気な人間にも、豪胆な人間にも、自由気儘な人間にもなりたいと欲した。どれか一つに絞り込むことはできなかった。ぼくは大人になるための選択をしてこなかった。でも例え絞り込んでいたとしても、それはやはりぼく自身の意志ではなかったのだと思う。そのときに読んだ漫画や小説、付き合っていた友人たちの影響で、ぼくはきっと選択するふりをしただけだったと思う。

次々と、刻一刻と可能性を奪われてゆくこの世界で、ぼくはほとんど何も選択をしてこなかった。もし選択しているように見えたのだとしたら、それはぼくが「ふりをする」ことが上手かったか、あるいは単にその人がこの失われてゆく可能性について知らないか、どちらかだと思う。可能性の皮が次から次へと剥がされてゆく中で、ぼくには益々選択の余地がなくなっている。大人になるということは、為すべきことを為すだけの存在になってゆくことではないか。

この世に生まれ落ちる前、ぼくには無限の可能性があった。でも生を享けたその瞬間、ぼくの可能性は制限されてしまった。そして数年も経てば、それはほとんど数え上げることができるほどにまで減ってしまった。でも、ぼくはそれを別に残念だとは感じない。ただ目の前に伸びている道を歩かされているだけだとしても、ぼくはそれを悔いたりはしない。失われた可能性は、想像力によって贖われるのだ、という意味のことを宮崎駿は言っているけれど、ぼくには想像力がなくたっていい。ぼくは選択しない。掴み取らない。自ら進んで歩まない。「君は選択しない道を選択しているんだよ」という詭弁にも耳を貸さない。というのは、選択といってもそうせざるを得ないからそうしているだけだから。

なぜ、選択したいと望むのか。それを手に入れたいと希求するのか。ぼくらは皆、この世に生まれ落ちたときに既に膨大な可能性を失っている。失ってしまっている。いずれ死に収斂するこの生において、ぼくはただ何となく生きる。失われた可能性を嘆くことすらせずに。選択できるものなんて初めからほとんどありはしない、そう感じながら。もちろん、選択することが可能な強力な人間も存在するのかもしれない。でもぼくは、ただ時間の進行に背中を押されて歩くだけみたいだ。

ノンセンス大全

2012-01-24 23:56:06 | 文学
高橋康也『ノンセンス大全』を古書店で購入。近所の図書館にあるのですが、800円は「買い」だと判断。いまAmazonで調べてみたら、最低でも1700円くらいだったので、やはりこの判断は正しかった。キャロル、ベケット、イヨネスコらの「ノンセンス」に著者がどのように肉薄しているのか、いつか読んでみようと思います。

同じ古書店に、ロシア・フォルマリズム論集のロシア語とドイツ語との対訳バージョンが売られていたのですが、ちょっと迷った挙句、買うのを断念。わざわざドイツ語との対訳を買う必要はないかな、と。こちらの判断は正しいかどうか分かりません。

明日くらいから、ロシア語の本を読み始めようかなあとぼんやり考えています。とりあえず150ページほど。大体一か月かけるペースでいけば無理なく読み進められるでしょう。そうして読み終わるはずなのですが、ひと月も集中力が持つかなあ。ちょっと中味を覗いてみましたが、ロシア語のレベルは標準程度か? 難しすぎず易しすぎず。短期決戦を挑むのも作戦の一つではあるのですけれども、淡々と少しずつ読み進めてゆく方が結局うまく行きそうな気がするのです。

そんなわけで、『ノンセンス大全』を読むのはそれより更に後のことになりそうです。

つい先日、研究対象にしている作家に関する先行研究は精査しているようですので、周辺領域についてもっと調査したらいかがでしょうか、と言われたのですが、ぼくは普通の人よりも遅れて専門的な勉強を開始しているので、「精査」しているという自覚は全くなく、むしろその逆であるような気がしている一方で、確かに周辺領域についてより詳しい知識を仕入れる必要があるなと認めているのです。ですから、どちらを優先させるべきか悩んでしまうのですが、とりあえず明日からひと月ほどは作家について更に知見を深め、それからちょっと周辺領域を探査し、その後はまた作家の元へ戻ろうかと考えています。あるいは、ちょっと寄り道をしながら(専門の)ロシア語の本を読み進める、という方策もありえますね。・・・と、ほとんど独り言のようなことを書き留めておきます。

さて明日(ないしは明後日)、本当に読書を始められるかなあ。ここに書いたことは全てノン-センス(無-意味)にならないようにしないとな(と、オチをつけておく)。

憂悶

2012-01-22 23:27:43 | Weblog
ここ2週間ばかり、とっても調子がよかったのですが、あることをきっかけに急にがっくりきてしまい、気分もなんとなく重たくなってしまいました。そうすると、前からちょっと気になっていたことが突然、災厄のように思われ出して、するとますます気分が悪くなってきました。

気になっていたことというのは、湿気。ぼくの部屋の今日の湿度は80%越えでした。うちは、ものすごく湿度が高いのです。それでも他の部屋に比べればぼくの部屋はこれでもまだマシな方なのですけれども、ただこの部屋には本がたくさん置いてあって、それに影響が出始めたんです。本棚からあぶれた洋書が床に並べられているのですが、その本のページがぐにゃぐにゃと蛇みたいに波打つようになってしまったのです。つい最近までここには日本語の本が並べられてあって、それは大丈夫だったのに、ロシア語の本と交換した直後、すっかりやられてしまいました。ロシア語の本っていうのは作りがちゃちなんですかねえ。とにかく湿気に弱い。

でも、日本語の本で、棚に配置されているものにも湿気の魔手は伸びていました。よもや、と思って適当な一冊を抜き取って本を開いてみると、嗚呼、じっとりしている!腐るのも時間の問題かと思われるほど、ページが湿っているのです。濡れそぼつ樹を指でなぞったような湿り気。なんなんだこの家は。

乾燥注意報が出ていた日々も、この部屋は常に湿度60%を維持していました。水の家。

ロシアで買った本

2012-01-20 23:42:07 | 文学
夏にロシアで購入した本について今更あれやこれや言うのは変かもしれませんが、あまりネタがないので、大目に見てください。

ロシアで、こんな本を買いました。『ゴーゴリ生誕200周年記念国際学会 綱領集』(2009年)。これを古書店で見つけたとき、へえ、ゴーゴリ生誕200周年記念の論文集かあ、と早とちりしてしまったのでした。論文集ではなくて綱領集でした。つまり、学会報告の要旨を集めて編纂したものだったのですね。う~む・・・。まあヒントは詰まっているのかもしれないけどさ。というか、そもそもなぜゴーゴリを買ってしまったのか、ということも今となっては謎。う~む。

それから、こんな本も買いました。『中世ロシアの笑い』。そうです、邦訳があります。ぼくはこの邦訳が結構お気に入りなので、原書を持っていると何かと便利なのではないか、という友だちのアドバイスもあり、購入することにしました。でも・・・。いや、実は邦訳の『中世ロシアの笑い』は使う機会があったのです。でも・・・、せっかく買った原書の方は使わず仕舞い。なぜというに、面倒だったから。ぐはあ。

ところで今日は雪でしたね。昨晩は雨だったのにな。

論文!

2012-01-19 23:07:34 | お仕事・勉強など
今年の3月くらいに、去年の夏頃に書いた論文が二本、立て続けに学術誌等に掲載されることになったのですが、でも学術誌と言っても色々ありまして、そのうちで一番権威があるだろう(とぼくは思っているのですが)学術誌には、結局投稿すらできませんでした。ペース配分とか、どの専門誌にどういう論文を投稿するとか、そこらへんの計画性がぼくにはない、というか非常に甘い見通ししかなくて、そういうことになっちゃったんですよね。いやあ、学会が終わった後にもっと勉強するかと自分に期待していたのですが、全然しなかったなあ。まあでもあれかな、よく言えば、目の前の課題に全力投球ってことかな。そして9回を待たずして燃え尽きたという。

一年かけて研究したものを年に一本だけ投稿する、という態勢が作れればいいのですけれども、それが掲載される保証なんてどこにもないわけで、だから2本3本と乱造し、そして次第に中味も薄くなってゆく、という悪いパターンになることを恐れています。

それにしても審査が厳しいなあ。例の作家みたいに、掲載されて当たり前だみたいな顔ができればいいんですけどね。

明日、授業で発表です。専門とは関係ない作家について報告します。でも色々と調べてゆく過程で、けっこう勉強になりました。ので、いい経験をさせていただきました。このような機会を与えてくださった先生には感謝、と月並みなお礼の言葉を述べておきます。もっとも、明日はあまりまとまった話はできなさそうですが。

ところでいま雨が降っています。今夜は雪って話だったんだけどなあ。

書くことがない

2012-01-18 23:49:50 | お仕事・勉強など
英語、なぜかバイト先で読み終わってしまった。

書くことがなくても、書くことがないということを書けばいいのだと、ある作家が言ったとか言わないとか。

ブルガーコフの『犬の心臓』が復刊されるらしい。群像社からも新刊が出たばかりだし、近年はブルガーコフがよく出版されている。なぜだか知らないけど。たしか10年近く前、何かのランキングで、ブルガーコフが20世紀の大作家ベスト3に入っていた。当時はすごいなーと溜息をついたものだけど、今ではあっそって感じなのはどうしてだろう。まあ、ランキング結果に一喜一憂するなんてバカらしいからかな(大体どこのランキングだったんだ?)。もし20世紀のロシア作家ベスト3を決めるっていう投票があったら、フレーブニコフ、ナボコフ、ソルジェニーツィンあたりが順当なんだろうか(この感覚は正しい?)。フレーブニコフの代わりにブルガーコフかな?どっちでもいいや。アホらしい。

おお、書くことがないながらも、なんだか文学っぽい記事になったぞ。っぽい。

停電だったのか?

2012-01-17 23:28:01 | Weblog
今日の4時ごろ、東京は東のはずれにいたのですが、軽くおやつを食べているとき、一瞬だけ店内の電灯がパチッと消えた気がしました。が、それは本当にごく僅かな間だったので、周りの人は誰も気が付いていないように見えました。まばたきする間にも満たないような瞬間だったので、気のせいかな、と思ってぼくもそのことはつい忘れてしまいましたが、帰宅してニュースを見ると、どうやら今日の4時ごろ大規模な瞬間的な停電が関東地方であったらしい。まさか、あれがそうだったのか・・・?単なる気のせいという可能性もいまだ捨てきれませんが、停電だったと思うことにしよう。

今日は英語がすごく捗った。簡単な文章だったので、辞書なしでもすらすら読めるのがうれしい。木曜に一気読みしようと考えていたのですが、このペースなら明日で読み終わりそうだ。っていうか、明日がバイトじゃなかったら今夜中に読み終えられただろうと思う。

そんな感じでおやすみなさい。

英語

2012-01-15 23:25:01 | お仕事・勉強など
センター試験の問題が公表されていたので、英語の最後の長文問題だけ解いてみた。まあ当然全問正解だった訳だけど(いくらなんでも海外文学をやっている人間がセンターの英語に躓くようではいけないだろうと思う)、長文の中に意味を思い出せない単語があって焦った。いや、文章自体は非常に簡単だと感じたんですけどね・・・(言い訳)。

英語の文章が全てこんなに読み易かったらいいのになあ、と夢想してしまうけど、もちろん本当にそうだったらつまらない。だから、要するに、英語の文章が全てセンターの英語を読むように読めたらいいのになあ、と夢想すべきなんだな。

高校生のとき、センターの英語ってどれくらい難しく感じていたのか、すっかり忘れてしまった。それなりに点数は取っていたわけだから、さっぱり分からんというレベルではなかったはずだけど、だからと言って日本語同然にすらすら読めちゃいます、というレベルでもなかったはず。実は今とあまり変わらなかったりして・・・でも、ちょっとは読解力UPしていてほしいなあ。

ところで、文章は簡単だったんだけど、設問がいまいちピンとこなかった。

受験生は、センターに失敗しても、気持ちを切り替えて(難しいけどね)頑張ってほしいですね。受験で人生決まっちゃうわけじゃないんでね(ぼくがその証明)、色々あっても、なるようになるって信じてほしいですね(ぼくもそう信じたい)。

それにしてもぼくの場合センターの英語ができたからって安心してちゃいけないのだよ。英語やロシア語の論文を読みこなしていかなければならないのだから。読みこなせていなければならないのだから。

震動する家

2012-01-14 00:22:21 | Weblog
ソログープの小説に「震動する家」という一見「らしくない」作品がありますが、今日の記事は別にそれとは関係なく、そうではなく、我が家が震動している、という話。

いま家の直近にある豪邸が解体されていまして、その取り壊しが凄まじいのでうちが揺れるのですよ。常に震度3くらいの揺れを感じている状態。しかも、朝の8時からブルドーザーが稼働しているので、たまらん。皆が皆、7時までに起きて8時までに学校や仕事に出かけるわけではないのですよ。ぼくは最近夜遅くまで起きていて、したがって朝も遅かったので、8時からの地響きはこたえる。震度3レベルですからね。とてもじゃあないけど寝ていられません。

それにしても、うちは地盤が弱いなあ。いくらすぐ傍で巨大な家が解体されていると言っても、普通こんなには揺れないでしょうに。実際、去年の震災でもうちはやたら揺れましたからね。ぼくの部屋は滅茶苦茶になってましたから。でも色んな人の話を聞いてみると、必ずしもそこまで大きな被害を受けているわけではないんですよねえ。やはり地盤が・・・。

というわけで、朝早く起こされるので(土曜日も工事をする非道!)、あまり夜更かしはしないようにするつもり。だから今日もこのへんで。

コピー泣かせ

2012-01-10 23:29:06 | 本一般
ある雑誌の論文をコピーしに、今日学校へ行ってきて、そして授業はさぼってきたのですが、その論文というのがコピー泣かせだった。

その雑誌は幾つかの号が合わさって製本されているのですが・・・ところで「製本」って「図書館用語」ですよね、ふつう製本と言えば、バラバラの紙の束が本の形に結び付けられることだと思われていますけれども、そしてそれは実際に正しいのですけれども、狭義の意味では、製本とは複数の巻号の雑誌を束ねるため、あるいはボロボロの本がばらけないように、新たに硬い紙で装丁し直したものを指すみたいなんですよね・・・で、その「製本」された本をコピーしようとしたわけですが、あろうことか、ぱーっと開いてくれない。あまつさえ、頁の端っこの方にまで文字が印刷されている。つまり、本をコピー機に置いても、極端に言うと「л」みたいな形になってしまって、見開きの中心部分が潰れてしまうんですよね。

で、仕方ないので、この野郎と思いつつ、一応コピーした紙と原文とを照らし合わせて、潰れた文字を修正していったのでした。あーめんどくせー。

で、その論文、読むのにやたら時間がかかっています。一頁あたりの分量が多いのは確かですが・・・二日かければ楽勝かと思っていたのにな。

20世紀ロシアの短編

2012-01-09 00:17:34 | 文学
The Russian Twentieth-Century Short Story: A Critical Companion.
という本を昨日買ってしまった。20世紀ロシアの短編に関する論文集らしい。日本のAmazonで買ったんだけど、今は円高だからアメリカのAmazonで買った方がお得だった。

チェーホフやら、オレーシャやら、ハルムスやらの短編が俎上にのぼせられているようだ。オレーシャ論を書いているのはバラットという研究者なのだけど、この論文は既にModern Language Reviewという雑誌(1980年刊)に掲載されている。1980年の論文を、2009年の本に再掲するのは反則じゃないのか、と思いつつ、まあでも改良がくわえられているのかもしれないな、なんて想像したりしている。手元に届いたら比べてみよう。

久々に学術的な記事になって満足。