Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

逃走?

2013-08-30 04:25:50 | Weblog
この間もちょっと書きましたが、ドロップアウトします。
ぼくは「この場所」に留まっていることはできないし、「この道」をこのまま進んでいくこともできない。他の地点に向かって歩いていきたい。と言っても、「逃げ道」は一応残しておくのが情けないところですが。

なぜ「この道」を進んでいきたくないのか。それには理由があり過ぎて一々列挙するのも憚られる。でも重要な理由が一つあって、それだけは書いておこうかな。つまり、「共に歩んでいきたい人がいない」ということ。いや、実はこれ、いま気が付いた理由なんです。でもたぶん重要な理由。自分が孤独で寂しいとか、周りを皆ライバル視しているとか、そういうことではないです。誤解されそうな表現ですが、あえて詳しい説明はしません。たぶんする必要もないでしょうね。ただ、十数年前のことを思い返していたら、ふと気が付いたのでした。

何度か書いているような気がしますが、ぼくは元々研究者になりたいと思ったことはなくて、実を言えばこの道を行くことすらぼくにとっては逃避行なのでした。自分の夢とか希望とかから逃げて、逃げ続けて、たまたまこの道を歩いていた。そしていまその逃避からさえ逃げ出そうとしている。逃走に逃走を重ねて、いわゆる「ここではないどこか」を探し求めてる。

いや、そうではなくて、他人から見ればこれは単なる逃走に過ぎないのかもしれないけれど、でも本当はこれは原点回帰ということなのかもしれない。

もはやこれが逃走なのか夢への疾走なのか判然としません。確かにある意味でこれは「逃走」であり、ある意味で「試し」でもあります。でもぼくにとっては、どっちだって同じことなんですよね。恐らく多くの人たちにとっては正反対のことなんでしょうけれども。

逃げるにしろ、立ち向かうにしろ、ぼくにとって重要なのは方向の問題じゃあない。再び誤解されそうな表現を用いるなら、「雫や聖司と共にいられるか」ということ。

逃亡者と呼ばれて後ろ指を指されようが、馬鹿な奴だと蔑まれようが、ぼくの進む道の名前は、ぼくが名付ける。

批評するとは向き合うことだ

2013-08-29 00:57:03 | Weblog
 批評するとは向き合うことだ。だから、批評を忘れてしまうとは、向き合うことを忘れてしまうということでもある。ここで選んだ対象を論じながら、私は、その対象へと自らを導いてくれた人の記憶を重ねていた。その思いは作中に響いているかもしれない。
 その人たちに向き合うことが、彼らの背後にあるものに向き合うことになり、そして、それさえ超えて行った。私の批評文は、よく、狂っているとか、もはや対象とは別物だと言われるのだが、きっとそれが私にとって、真剣に向き合うということなのだろう。

                      ――大澤信亮「あとがき」『神的批評』238頁

先程この文章を読みながら、昨夜自分が書いたメールの文面を思い出していました。そこでぼくは、自分の好きなもの・大事なものに「向き合う」ことを大切にしたいと記しました。そして今日、『神的批評』を読み終える際にこの文章に出会い、自分の直感は正しかったのだと認識しました。

自分の直感。大澤氏の新著を書店で立ち読みしながら、ぼくはそこに自分の精神との親近性を感じました。「批評」というものに対する考え方が近いと思った。そして彼はその「批評」を実践してみせている。彼の著作を読むことは、ぼくに何らかの啓示を授けてくれるのではあるまいか。二週間前に彼の初の単著『神的批評』を図書館で借りてきました。

一冊の本を読了するのに実に二週間もかかってしまいましたが、しかし直感は正しかった。ぼくは彼と近い。その彼は、批評行為を自己を問う行為と同一視していた。彼は、徹底的に考えていた。書きながら考え、考えながら書き、その実践が批評になっていた。ああそうか、これでいいのだ。

ぼくは彼が批評文の中で出した結論に必ずしも同意するわけではないのだけど、でも彼の実践には完全に共感する。思うに、彼は批評の中を生きている。書くという行為の中を生きている。それは、まず存在している「考え」を後で「文章」にすることを推奨したショーペンハウエルの文章術とは根本的に異なっている。明晰な論旨で鮮やかな結論を導出する学術論文とも違う。大澤氏は、「自己」を表出しながら、悩みながら、苦しみながら、そして喜びながら書いている。このような批評は対象に関して書くという行為ではなく、対象と対話する行為、つまり対象と向き合う行為だ。

そうなんだ。そうなんだ。彼の著書によって、ぼくの進むべき道は照り映える。

色んな場所に行っていたのだが

2013-08-27 00:30:25 | Weblog
例えば高円寺の阿波踊りとか、たてもの園とか、他にも色んなところに出かけていたのですが、なんとなく面倒臭くてブログに書いてませんでした。

高円寺のお祭りには初めて行ったのですが、よかった。すごい人混みだったけどね。でも、高揚感のある踊りは鳥肌が立ってくるほどで、久々の感覚でした。

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心が根元から折れてしまって何年も経つけれど、やはり自分は駄目らしい(頑張ろうという意欲が湧いてこない、諦めてしまっているというのは、やはり折れてしまっているということだと思う)。「頑張れ」は禁句だなんてよく言うけどさ、ぼくなどは、それを聞いても「やれやれ」って思うだけ。「既に頑張っているのに」と落ち込むこともなければ、怒ることもない。もちろん、「よしやってやろう」と鼓舞されることもない。「あっそ」って他人事みたいに独りごちるだけ。昔はこんなんじゃなかったんだけどなあ・・・って、またしても思い出。

やるべきことをやりたいことに変えようかなって思ってる。1年くらいは、そっちの方に労力を費やす。その途中でやんないといけないことも少しあるんだけど、最低限の労力で乗り切るしかないかな。こういう場所でこういうことを言うべきじゃないのかもしれないけど、やはりぼくはこの道をこのまま歩いてゆくつもりはない。うん、やめたよ。これからやめるよ。2週間くらいこのことについてぼんやり考えていたんだ。自分にとって切実なものってなんなのか、何が切実ではなくなってしまったのか、いやそもそも切実ではなかったものってなんなのか。元はと言えばこれはぼくの道じゃない。随分回り道をしてしまったけど、何年かぶりにぼくはぼくの道に戻る。

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NHKアーカイブスで里山が取り上げられていたので、見入る。ぼくは元々原生林に憧れがあって、大樹を前にすれば圧倒されてしまうんだけど、里山の風景も美しいと思う。人は自然の恵みをもらって生きていくわけだけどさ、自然は人間の手が入らなくても、放っておけば極相林になるわけで、自足しているんだよな。人間も光合成ができたらいいのに。

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どうも煩わしいことが多くて嫌だ。ときどき心臓が締め付けられるように痛くなるのは、ひょっとして危険な病気の兆候?それとも心配する必要なし?激痛の部類に入るので、病院に行った方がいいんだろうけど、意欲が湧かない。面倒臭い。発作が起きたら起きたでいいやって思ってる。あああ、下らない。

持続への不安

2013-08-24 00:45:27 | Weblog
ブログへのアクセス数がやけに多いと思ったら、『宮崎駿ワールド大研究』という本を取り上げた記事へのアクセス数が多いみたい。この本の著者の一人・山川賢一さんがツイッターでブログを紹介してくれたからだと思います。すごい威力だな。後でもっとちゃんとしたレビュー書きたい。

さて、本が読めないということは何度も書いていますが、実はマンガも読めません。それどころかアニメも見れないし、ドラマも見れません。バラエティだって2時間もあったらずっと腰を落ち着けて見ていることはできません。それは単に「そわそわしている」とか「落ち着きがない」とか「だるい」とかいう問題ではなく、そうではなく、実際に読む/見る前から読む/見ることを断念してしまう精神状態の問題なのです。ぼくはこれを「持続への不安」と名付けました。

持続して何かをすることへの、強い不安。恐怖。もちろんそこには億劫さや倦怠も紛れています。

場当たり的に続けることは可能かもしれませんが、計画を立てようものなら、たちまち不安に襲われてしまう。「30分読もう」とか「1時間見よう」とか思ったが最後、途端にその行為が怖くなってしまう。「これを読み終わるまで2時間かかるな」とか、NG思考です。でも考えることをやめることはできません。

どうすりゃいいのか分かりません。ただ、書くことと寝ることはできますけどね。

いわば倫理的な違和感

2013-08-22 00:42:31 | Weblog
「生物多様性オフセット」、「生物多様性バンキング」といった用語には馴染みがありませんでしたが、その概念自体はけっこう前から知っていました。

詳しくは↓
http://www.bdcchiba.jp/cooperation/kigyou/100618seminar04.html

今朝の朝日新聞に、里山を守る新しい実験的な取り組みとして紹介されていました。

10年くらい前、里山とか生物多様性とかに関心があって、少しはそれ関連の本も読んだりしていたのですが、近年はそういった分野から遠ざかっていました。でも、興味は完全に失われてしまったわけではありません。

このブログに書いたことがあったかどうか忘れてしまいましたが(たぶん一度は書いていると思うのですが)、10年ほど前にぼくはNPOの森林保全セミナーに参加したり、実際に泊まりがけで林業を体験したり、そして大学を休学するか中退するかして田舎へ移り住む決意を固めていたりしていたのでした。もちろん、この決意は親や大学関係者の説得にあって打ち砕かれ、今に至るわけですが。

しかし、それほど熱心に環境保全活動に情熱を注いでいたのですから、今でもこの手の話題が新聞に載っていたりすると、気になってしまいます。

で、本題。この「生物多様性オフセット」という概念には、ぼくはどうしても違和感を抱いてしまう。要するに、「里山A」を破壊した代償に、「里山B」を復元・保全するという考え方で、これを更に推し進めて、金銭で対価を支払う(その金銭で別の里山を復元・保全してもらう)ことを「生物多様性バンキング」と言うわけですが(不正確な言い方かもしれませんので、詳しくはネットを検索して下さい)、これは本当に法制化すべきなのか。二酸化炭素排出量取引も同様の仕組みなのかもしれませんが、これに対しても反対意見がありましたね。

取材した記者も、「この制度を導入するのは現状からやむを得ない」といった歯切れの悪さを見せていました。もろ手を挙げて賛成というわけではないのです。やはり、何か引っかかる。確かに、「緑の総量」は変わらないかもしれないし、むしろ増えるかもしれない。でも、倫理的な違和感とでも言うべきものに捉われてしまう。

常緑広葉樹を伐採して代わりに針葉樹を植える、といったトンチンカンなことはしないと思いますが、それでも、生態系というのは余りに複雑ですから、別の土地で完全に同じ生態系を再現することが可能なのでしょうか。また、里山というのは「人と自然」とが一体化した様式をそう言うわけで、里山Aが破壊されてしまったら、仮にその生物多様性を里山Bに完全に再現することが可能だったとしても、Aを構成していた一人ひとりの人間たちはどのように「代償」されるのでしょうか。自然に関わってきた人たちの暮らしはいかにして守られるのでしょう。Aの文化がなくなって、Bの土地にAの文化が新しくできるのでしょうか。かつてぼくがある里山を訪れたとき、農家のおじさんに、正月にまた来なさいと言われたことがありました。お餅を御馳走してあげよう、と。そのときぼくはおじさんの田んぼに水をやるのを手伝ったのですが、その稲から米を取り、そしてお餅にするのでしょう。こういった人々の営みは、AからBへと移設されるべきものではありません。絶対に何物にも換えることができない、唯一無二のものです。

しかしぼくの倫理的な違和感の根っこにあるのは、自然そのものの代償不可能性です。人間に代償が効かないように、実は木々や草々も代償が効かないのではないか。仮に生命の目的が種の保存であったとしても、個体というものへの軽視に、違和感を抱いてしまう。木を伐る。代わりに木を植える。なるほど合理的だ。-1+1=0. でも、その伐られた木はもうこの世に存在しないのです。なるほどこれは感傷かもしれません。しかしこの感傷を蹂躙する権利は誰も持っていないはずです。

生物多様性を考える際には、神社やお寺の敷地内にある緑を軽視することはできません。例えば神社をAからBへと移したとしても、意味ないと思うのです。Aで祀られていた神様をBで祀る。ちょっと都合よすぎやしませんか。

大木がある。伐採する。その代わりに別の土地に別の木を植える。ちょっと都合よすぎやしませんか。ぼくはアニミズムを信奉しているわけではないし、木の一本一本、葉の一枚一枚に神が宿っていると真剣に考えたことはありませんが、しかし、「-1+1=0」から零れ落ちてしまうものが余りに多すぎる気がするし、そしてそれこそが大事な気がするのです。

こういう感覚、いや感傷と言ってもいいのかもしれませんが、それは多くの日本人が共有しているのか、それとも少数派のものなのか、ぼくには分かりません。でも「生物多様性オフセット」を法制化してはならないとぼくは思う。里山を守るとは、単に生物多様性を守ることを指すのではありません。そこで生きている人間の暮らし、文化、精神を守ることです。「オフセット」がそれらを守ることができるのか。そもそも、ある地点で生命を殺した代償に別の地点で生命を育めばいいという発想が、ぼくは嫌だ。センチメンタルな嫌悪?いや、倫理的な嫌悪なのです。

失敗と案内

2013-08-21 00:09:00 | Weblog
私信にて署名を「ペーチャ」と書いて送信してしまいました。これは恥ずかしい・・・。相手はロシア人の友達で、ぼくの署名を見て「?」という感じだったみたいだけど、日本人じゃなくて(しかも目上の人じゃなくて)不幸中の幸いでしょうかね。

今日そのロシア人に会ってきたのですが、いきなり「名前変えたの?」と聞かれてしまった。いやいや・・・。もう忘れて下さい。

で、新宿と中野を案内してきました。と言っても、前者はアニメイト、後者は中野ブロードウェイだけなんですが。アニメや漫画が好きな人なのです。

後日また別の場所を案内するつもりです。皇居とか博物館とか、オーソドックスなところを。

足が棒になる、コミティア

2013-08-19 00:53:37 | お出かけ
初心者なんだけどコミティアに行ってきました。コミティアに行ってみようかなと思ったのが16日、コミティアの開催日を知ったのが17日、そして開催日が18日(今日)だったという、なんかギリギリ感いっぱいの強行。

ぼくのような初心者のためにちょっと説明しておくと、コミティアというのは同人誌即売会の一つでして、コミケと同じ東京ビッグサイトで年4回開催されています。ただコミケと違うのは、二次創作が禁止されていること、そしてその結果(?)規模が比較的小さいことです。だから、コミケほど過酷ではなく、程良い人混みと程良い熱気の中、目当てのアイテムを探すことができます。と言っても、コミケと比べればという話でして、やはりそれなりの人出はありますけどね。

とりあえず短編アニメーション作家の沼田友さんのところに行ってみました。ご本人がいらっしゃったので、「ファンなんですよ」と話しかけて、次いで「去年の秋頃にモスクワからメールを送らせていただいたのですが・・・」と続けてみました。そうしたらぼくのメールを覚えていて下さったので、うれしかったですね。ぼくはコミュ障っぷりをもろに発揮してしまって、なぜか自分でも分からずにうろたえながら会話を交わしてしまったのですが、沼田さんはとっても誠実なお人柄で、好印象でした。最新作のDVDを購入して、ちょっと名残惜しくもありましたが、その場を立ち去ります。

で、その後はやはりアニメーション系のサークルを訪ねて、それから文学系、評論系のサークルを覗き、そしてマンガ、イラスト、グッズ等々の様々なジャンルのサークルを文字通り片っ端から見て行きました。3000余のサークルが参加していたとのことですが、アッチ系(ドッチ系かはご想像にお任せします)を除いて全てのスペースを二周しました。疲れた。本当に疲れて、足が棒になるとはこのことかっていう体験をしましたね。登山よりも疲れましたよ。でもその甲斐あって、幾つか戦利品もゲット。

ここでその一つ一つについて紹介することはしませんが、宮澤賢治の作品をモチーフにしたマンガ作品集は、その本自体がなかなかの力作で、購入してよかったと思えてくる一冊。まだ全部読んでいませんが、『永訣の朝』や『銀河鉄道の夜』は余韻が素敵、『注文の多い料理店』は(冒涜か!?)と思いつつ、吹き出すほどおもしろい。

あと、鋼野タケシさんという方の書かれた小説が3篇掲載されたフリーペーパーをいただいたのですが(同人誌は購入しませんでした、すみません)、「本当の私は」っていう最後の作品だけ読んだところ、ちょっと感心。いわゆる分身物で、ネタ自体は目新しくないし、文体が幼い感じもしますが(偉そうですみません)、でもおもしろいね、これ。プロを目指しているそうなので、どんどん書いて頑張ってほしいものです。

色々と見て回りましたけど、けっこうレベル高いですよね(なぜに上から目線なんだ)。そして皆さん好きなことに没入している。プロを目指している人も、既にプロの人も、趣味だけって人も、熱意を持って取り組んでいる。いいですね。ぼくも彼・彼女らにあやかりたいものです。疲れましたけど、元気をいただきました。皆さま今日は一日お疲れ様でした。どうもありがとうございました。

また行きたいですね。今回は色々と様子見の要素が強かったので、次回からは本格的に目当てのアイテムを入手するつもりで。

暗中模索

2013-08-16 01:30:45 | Weblog
ぼくはぼくから離れられない。ぼくという人間は、余りに自己中心的すぎる。自分のことしか頭にない。自分が何を為すのか、為せないのか、そういうことしか興味がない。でもそれではいけないのだと思う。

世の中には、自分の仕事がどうとか、業績がどうとか、そんなことばかり考えて生きている人たちがいる。ぼくも同じようなものだ。要するに、自分(とその周辺)の幸福だけを求めている。

ぼくは自分の社会的成功を願っている。でも、それはとても浅ましいことだ。誰かの成功を横目で見、自分の才能のなさに失望する。それもやはり浅ましいことだ。というのも、世の中には社会的な成功に恵まれなかった人たちがごまんといて、その中の一部は哀しみを抱きつつ生きているのだから。もはや願うことも失望することもなく、名誉に無縁な毎日を淡々と生きているのだから。いや、名誉とか成功とか、そんなことに価値を見出していない人たちだって大勢いる。でもぼくがここで言っているのは、かつてそういうものに憧れたものの、挫折して諦めてしまった人たちのことだ。そういう夢破れた人のことに思いを馳せるとき、ぼくには「その人の分までがんばろう」とはとても思えない。むしろその人たちの哀しみや苦しみに寄り添いたくなる。

はっきり書いておこう。ぼくは現状に満足できない。
自分のやっている勉強とその成果である論文は、ぼくにとって重要な問題には一切関わりがない。たとえロシア文学の発展に運よく貢献できたとしても、それは対岸の火事みたいなものなのだ。ぼくにとって大事なのは、例えば共苦であり、共有された美しい感覚であるのだ。「勉強したくてもできない憤懣」や「新海誠を観たときの感銘」を言葉にして、それらの感覚を多くの人たちと共有することなのだ。そして、いわゆる成功者の傲慢を、無自覚さを、徹底的に暴き出すことなのだ。

一定の地位にいる人間は、ただ存在しているだけで他者を絶望させる。もちろん、本人にしてみればそんなのは言いがかり以外の何物でもないだろう。自分は努力したからこそ今の地位を獲得できたのだ、という自負もあるだろう。でも、見てくれ。あなたたちの足元には、あなたたちが排除してきた人間が呻吟しながらのたうちまわっているのだ。

もちろん、こんなのは単なる怨恨感情に過ぎないだろう。そしてこういった思想の行き着く先は自死しかありえないだろう。というのも人間は必ず誰かを押しのけて生きているのだから、押しのけることを否定してしまえば、人間は生きることができなくなる、したがって死を選ばざるを得ない。

しかし、極端に言えば、死を意識しながら仕事してほしいのだ。常に意識しろとは言わない。でもせめて、新しい仕事に取り掛かるとき、あるいは終わったとき、自分がいかに罪深い生き物であるかを痛感してほしいのだ。

ぼくがこんな突拍子もないことを要求するのは、無反省な人間が多すぎると実感するから。また自分への戒めのためでもある。ぼくは常に「こちら」側に立っていたい。「あちら」へは行きたくない。そして「こちら」側から「こちら」のことを書いていたい。

ああしかし、これだって「自分のこと」に過ぎない。またしても「ぼく」のことだ。
ぼくはぼくから離れられない。

gmail

2013-08-15 01:21:59 | Weblog
gmailがまた新しくなったのですが、これが絶望的に使いづらい。以前変更があったときは、前のバージョンを選択することも可能で、実際ぼくはそうしていたのですが、今回の変更では、そのような選択の余地は残されておらず、全員が強制的に新しい画面でメールを作成しなければならないようです。

メールに返信するときの画面がいかにも小さく、ぼくのようにしばしば長文のメールを書く人間にとっては、致命的な様式の変更と言えます。これほど使いづらい画面を考案するとは、いったいどういうことなのか。

また、バグってるというか、カーソルを動かしたり文字を入力したりすると、メール作成画面が上に移動してしまうことがあり、文字入力が極めて困難になります。なんなのこれ。明らかに不具合だと思うのですが、これが直らなければ長文を書くことは絶対にできそうにありません(短文でさえ至難)。

どうして以前のバージョンを使う選択肢が与えられないのか。
長文のメールを書く人間がいるということを、googleは理解していないし、理解しようともしていない。もしもこの様式が定着するようならば、別のメールサービスに切り替えなければなりませんが、しかしメールアドレスというのはいわば住所なので、そう簡単に切り替える訳にもいかない・・・。かと言ってこの様式のままメールを書くことは拷問みたいなものです。

うんざりだ。

100万

2013-08-14 00:48:27 | Weblog
ついにこのブログの閲覧数(PV)が100万を突破(IPは30万を突破)。
毎週だいたい5000回くらい見られています。ありがたいことです。

100万と言うと多いようですが、しかし定期的に訪れて下さる方の数はそれほど多くないはずなので、細々と続けているという表現が適していると思っています。

定期的に訪れて下さる方々の中には、ぼくのことを直接知っている人たちもたぶん含まれているのだと思いますが、でもぼくの知る限りではそういう人たちはごくごく少数で(5人前後?)、圧倒的多数はぼくのことを直接知らない人たちだと思います。これまでにも何度か書いたことがありますが、どういう人たちが見て下さっているのかなあと、けっこう気になったりします。ブログに書かれた内容に共感して下さっている、あるいは少なくとも嫌な気持ちになったりはしない人たちが定期的に来て下さっていると思うので(もしそうでなければ来る義務なんてないのですから)、精神的に近い人たちなのだと勝手に思いなしています。

もし東京にお住まいであれば、一声かけていただければお会いできるんですけどねー。新海誠でもジブリでもamazarashiでも勉強でも人生でも、共通の関心事について語り合いたいものです(このリストに「文学」がないことに今気付く)。20代でもアラサーでもアラフォーでも、10代だって構わないのですがね。

逃亡者の倫理

2013-08-12 23:34:11 | Weblog
真面目な話。

2011年3月、ある批評家が東京を脱出。彼はそこで海外の新聞に日本の希望について書き、最近はダークツーリズム運動を先導している。チェルノブイリや福島を風化させないためのラディカルな手段だ。

あのとき、何人かの知識人が東京から逃亡したという。ぼくはそれを非難しようとは思わない。むしろ、生きることに必死でいる姿は、当時のぼくの目に尊くさえ映った。

しかしながら、どうしても東京から西日本へ移動することができない人たち(例えば病人や障害者、金銭的余裕のない人)に寄り添ってあえて東京に残った人もまた存在していた。

これはその人の価値観の問題であり、生き方の問題だ。だからその是非は問わない。ただ、東京から脱出した人間が、その後ダークツーリズム運動に関与しているのを知るとき、ぼくは違和感を拭うことができない。いや嫌悪感と言ってもいい。もちろん、彼の行為に論理的な破綻はないだろう。このことについて何とも思わない人間も多いだろう。しかし、ぼくは違う。

彼の倫理観、道徳観について思う。いや、ここでぼくは彼を人だとか言って謗るつもりは当然ない。そうではなく、何かを書くとき、彼は内省することがあるのだろうかと、ただ疑問に感じてしまうのだ。あるいはこう言ってもいい。自らの倫理観を文章に反映させているのかと。

そもそも自分の道徳観や倫理観を文章に反映させる必要は全くない。実際、ぼくの論文にはそうした要素は一切ない。ただ論文と批評との違いはその点にこそあるとも感じる。研究論文というのが対象について語るものだとしたら、批評というのは対象を通して自分を語ることではないかと。ぼくの最近の論文は余りに客観的に過ぎ、ぼくという人間の主体性が全く見えてこないらしい。そしてそれは論文として評価されないらしい。このことについてしばらく考えていたけれど、たぶんそのような論文だけがぼくにとっての論文なのだ。ぼくは自ら進んでそのような主体性のない論文を書くことを選んだのだ。なぜかと言えば、ぼくは自分について語り過ぎてしまうから。そしてそれはきっと論文としてまとめることはできないから。

ぼくは自分について語りたい。つまり、自分の倫理観を文章に反映させたい。自分の経験、それを踏まえた認識、思想。そういったものを書き出さなければ、ぼくはある作品について本当に論じることはできない。そうではない批評は、どこか虚しく感じられてしまう。

あくまでこれは「ぼく」の話だ。先の批評家の行為に嫌悪感を抱いてしまうのは、ぼくが「批評」と「倫理」との間に密接な関係を見出しているからだろう。もちろんそんなものは初めから前提されているようなものでは決してない。でもぼくは、批評には「人間性」が必要だと思ってしまう。

ここまで書いてきても、たぶん誤解している人がたくさんいると思う。それは当然ぼくの責任だ。倫理とか道徳とか人間性とか、安易な言葉を使い過ぎたかもしれない。あるいは単にぼく自身の頭の中が整理しきれていないせいでもあるだろう。今はこんなふうにしかこの問題について言及できない。けれどもこれは切実な問題なのだ。

いよいよぼくは選択しなければならない。

こんな授業

2013-08-12 00:16:22 | お仕事・勉強など
暑いな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

備忘録的に。
国語の授業とはいかにあるべきか、という定見は持ち合わせていないぼくではあるけれど、こんな授業もありではないか、という提案を書いてみる。

国語(とりわけ現代文)というのは、もしかしたら細かい受験テクニックのようなものもあるのかもしれないけれど、でも結局のところ生徒がどれほど本を読んでいるか(読んできたか)という経験が成績に反映されるものだと思っています。つまり、日々の授業のみで生徒の国語の学力を上げることは極めて難しい。

本をよく読んでいる生徒には教師が指導する必要はほとんどないのではないかと思われる一方で、本を全く読んだことのないような生徒には指導する術がほとんどないように感じられます。では現代文の教師の目的とは何かと言えば、生徒が自ら本を読むように仕向けることにあると思います。いわゆる自学自習の勧め。

そこで、こんな授業はどうかという提案。
とにかく生徒に日本語の文章を読ませたい。そのためには、まず題材がおもしろくなければいけないでしょう。興味の対象は十人十色でしょうが、でも多くの生徒が食い付きそうなテーマとして、ちょっと安易ですがマンガやアニメを用いたい。どういうふうに用いるかと言えば、最初にマンガを生徒に読ませます。あるいはアニメを上映します。次に、そのマンガないしアニメについて書かれた評論を生徒に読ませます。その評論は長かったり難しかったりしてはいけません。場合によったら映画祭か何かの審査員の短評でもよいと思います。その上で、この評論と自分の意見とを比較するように促してみてはどうでしょうか。「いま自分が読んだ/観た作品に対して、人はどういうことを言っているのだろう」という興味をうまく引き出せたら、文章を読んでくれそうな気がするんですが、いかがなもんでしょうね。ある映画を観たとき、それに対する皆の感想が知りたいっていう気持ちと同じだと思うのです。人によっては他者の感想をむさぼり読むわけです。そういう好奇心を国語の勉強に結び付けられたらなあ、と。

で、どういうマンガやアニメがよいか、という話。ちなみにこの授業は先生自身がそういったものに対して愛着を覚えていた方がやりやすいと思います。
鉄板なのはやはりジブリ作品。作品は奥深いものが多いし、評論の類も非常に多いので。次に映画祭で上映される作品。映画祭の講評目当てです。メディア芸術祭なんかがいいんじゃないかと思います。短編作品はパッケージ化されていないものが多いのが難点ですが。あとメジャーな監督の作品だったら大抵その評論が存在するので、そういうところを攻めるといいと思います。マンガはぼくはよく分からないです。ただ呉智英の『現代マンガの全体像』(及びそこで扱われているマンガ)なんかは使いやすいテキストだと思います。
もちろん、マンガやアニメだけでなく、実写映画でもいいし、音楽でもいい。テレビドラマだっていい。とにかくいきなり文章を読ませるのではなくて、まずはそれ以外のメディアに接触させて、それからそれについて書かれた文章を読ませる。そうすれば、文章を読む際の意欲・モチベーションが違うと思うのです。こうして知的好奇心を刺激して、いわゆる知る楽しさみたいなものを育んでいけたらいいんじゃないかと思うのです。


上記の授業とは別に、もう一つ提案(ってほどのものじゃないけどさ)。
本を読まない生徒っていうのは、この世にはどういう本があるのか、というのを知らないと思います。そこで、やや珍奇な文学作品を読ませてみる、というのはどうでしょう。例えば、ユアグローやハルムスといった作家の超短編。もちろん日本にも超短編を書いている作家はいるし、星新一のショートショートでもいいと思います。殊外国語文学に関しては、日本語で読める評論の少ないのが難点ですが、この点に関しては専門家に協力を求めてもいいと思うのです。中学高校の教師が大学の教師と連絡取り合ったっていいじゃないか。それから、視覚的に訴えてくる詩。ダダイズムの詩などがいいでしょうね。あと、シュルレアリスムの奇怪な絵画を見せて注意を引きつけ、次いでそのメンバーたちの書いた不可解な詩を読ませてみる。「なんじゃこりゃ」で終わってしまう可能性もありますが、絵画と文学の相同性について書かれた評論を読ませてみればおもしろいかもな、なんて。

まあ、教育実習以外では一度も教壇に立ったことのないド素人の妄想に過ぎないのですが、生徒の知的好奇心をいかに引き出すかが重要で、そして知的好奇心は日本語を通して満たされる、という点は正しいんじゃないかと思います。たぶんね。

自分拾い

2013-08-09 00:13:03 | Weblog
今日ちょっと人と話をしたんですが、自分の方向性を考え直そうかなと思い始めました。それは研究の方向性でもあり、生き方の方向性でもある。

前にも書いたはずですが、自分は好きなことを勉強していない。わざわざ大学院に行って好きでもないことを勉強している。それってやっぱりおかしいよね。やるんだったら好きなことをやらないと。もちろん、その好きなことをやるためには好きでもないことをやらなけりゃいけないかもしれない。でも、いま自分がやっている好きでもないことっていうのは、好きなことのためじゃあないんだよな。そして好きでもないことばかり勉強している内に、自分が何を好きなのかぼくは見失ってしまった。

この辺でぼくは自分の内部を見つめ直す必要がある。自分の好きなことは何なのか。どういうものに感銘を受けるのか。

よく「自分のやりたいことを見つける」とか「自分探し」とか言うけれど、ぼくの場合、それは「自分の落としてきたものを拾う」行為に他ならない。ぼくは自分のやりたいこと、好きなことをあえて自分の奥底に落としてきた。それらを拾いに行かなければいけない。そしてそれらを拾い集めたら、それに名前を与えなければいけない。もし適切な名前を与えることに成功したら、ぼくはようやく進むことができる。

熱中する方法

2013-08-06 01:12:50 | Weblog
いきなり関係ない話ですが、「熱中症」という言葉は変だ、という人がいます。「熱中時代」を思い出すんだとか。ともかく「○○に熱中する」というときの「熱中」を真っ先に連想してしまうらしい。でも「熱中症」の「中」というのは、「食中毒」の「中」であって、「あたる」という意味ですよね。日本語としては全然変じゃない。と思うのですが、でも「熱射病」くらいが妥当だったんじゃないかな、とも感じます。誰が「熱中症」という言葉を考案したのか知りませんが、世間一般の日本語感覚からはかけ離れているんじゃないかと。ちなみにブーニンの小説に「日射病」というタイトルのものがあったはずですが、20年後くらいには「熱中症」と改訳されるんでしょうかね。いやそれはないかな。

さて、熱中できないという話。勉強したり読書したりしたいという欲求は一応あるのです。でも、それができない。どうしてもできない。長い間じっと腰を落ち着けていることができない。もちろん、だるいってのも原因の一つなのですが、そういう体の不調とは別に、勉強や読書の対象に、あるいはその行為自体に魅力を見出せていないのも理由である気がします。いや、違うかな。必死さが足りないんだよな。切実さとか。どうしてもこれをやらなければいけないという気概。なんで面倒くさいと思ってしまうんだろうな。ちっ。明日こそはやってやるぞと思っても、明日になると気持ちが萎えてしまう。

仮に心身ともに健康で、意欲が漲っていたら、ドストエフスキーにもショーペンハウエルにもなれたかもしれないのに・・・!っていうのはきっと滑稽な台詞なのだ。

そういえば、振り込め詐欺は母さん助けて詐欺という名称に変わったらしい。つまりマンマユート詐欺ってことだ。

・・・分かる人にしか分からない文章だな。すみません。

図書館カード更新

2013-08-05 00:25:53 | Weblog
ロシアの書店に注文していた本が、先日届きました。しかし想像以上にコンパクトなサイズだな。しかしそのコンパクトなサイズをも収納する場所がもはやないという我が部屋。なんとかしなけりゃ。

ところで今月、大阪でロシア関係の国際シンポジウムがあって、月末にはモスクワでロシア・フォルマリズム関連の大規模な国際大会があります。前者は当然ですが、後者でも日本人が発表するようです。すごいなあ。しかもその内のお一人は、この間一緒にご飯食べたばっかだよ。二人を隔てていたものはテーブルだけじゃあなかったってことだ。この国際大会、ちょっと様子を窺いに行きたいなと思うけれども、さすがに再びモスクワに舞い戻るってのはね・・・。でもきっと、向学心のある人は飛行機に飛び乗ってしまうんだろうなあ。

地元の図書館の貸し出しカードの期限が今年の3月までだったので、更新しないといけなかったのですが、先月帰国してから手続きを怠っていました。というのも、4カ月も経ってから更新するのは、ほとんど図書館を利用しない人のようで、なんとなーく恥ずかしかったんですよね。もちろん、そうやって恥ずかしがって手続きを怠ればますます恥ずかしさは募ってしまうわけですから、なるべく早く更新する必要があったのです。で、ようやく今日、図書館に行ってきました。ただ、更新は済ませましたが、何にも借りてきませんでした。小説を読む気がしない。

アメリカに関して何か書けることあるかな、と自問しているんだけど、何にも見つからない。アメリカのチェーホフ、ハーツフェルト・・・どっちも駄目だな。