Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

自転車を買う

2011-12-29 22:46:28 | Weblog
15年以上、自分の年齢の半分以上、実に小学生の頃から乗っていた自転車をついに手放し、新しい自転車を購入しました。さすがにオンボロになってしまっていたのでね。

新しい自転車は、前のよりもやや軽い。そしてペダルにかけた力がスムーズにタイヤの回転に直結する感覚があって、やはりこの15年で自転車も進歩したのだなあと、しみじみする。まあ、本当にこれが自転車の進歩なのかどうかは分かりませんが。

駐輪場に留めておくと、壊されてしまうことがあるのでそれが心配だ。前の自転車も、駐輪場でかなり手酷い仕打ちを受けたのです。

そういえば最近、ブログへのアクセス数が落ちてきています。今年の初め辺りがピークだったのかなあ。とうとう見限られてしまったか。確かにこのところ小説のレビューなどは書けていないしなあ。

そんなわけですから、いつも読んでくださっている方には格別の親愛の情を込めまして、よいお歳を~。

仕事納め

2011-12-27 23:29:07 | お仕事・勉強など
仕事納めであった。明日からは暇、かと思いきや、読まなければならない本があるのであった。もっとも、今ぼくにとって重要なのは、読まなければならない本を選定することなのだけど。つまり、読まなければならない本があるのは事実なのだけど、でもどれが一番重要なのかを見極める作業が残っている、ということ。最近はフォルマリズムの論文を読んでいる。昔なんとなく読んだことのあるものも多いのだけど、いま読み返してみると、とても貴重な文言が光彩を放っていて、かつてぼくはこの輝きに対して盲いていたのではないかと怪しんでいる。明日からトゥイニャーノフの何かを読もうかしらと考量中。でも、何を?いや、しかしそれと並行して、コメントの返ってきた論文を直したり、新年の授業の準備をしたり、色々とやることがあるのであった。まあ、いつもやる気がしないんだけどね。

今年があと数日であるということに慄然とする。

職場で、年明けに皆で食べに行きませんか、と誘われたのだけど、いや女子会で盛り上がってくださいと言って断った。女性が多い職場。男が一人で行ってもねえ。そんな感じで歳が暮れてゆく。

映像の力

2011-12-25 23:43:21 | テレビ
TBSで一日中放送していた番組、14時25分からの報道特集だけ見ました。これは、震災の記録を現在の時間と同時進行で流す、という興味深い企画で、実際、今日の14時46分に震災記録映像がスタート、それからキーとなる時間を設けつつ、様々な場所の「そのとき」を映像で追って行きました。

昨日か一昨日くらいに、日本テレビでやはり震災のドラマを放映していましたが、こちらが「1000年後に残したい」と銘打っていたにもかかわらず、安っぽい三文芝居を垂れ流していたのに対して、今日のTBSは多方面で起きている「事実」を実直に報道していたように思います(それにしても日本テレビは、震災記録と震災ドラマの合間にネット詐欺事件をねじ込んでいて、意図が分からなかった、なんであんなしょうもない事件を震災と同列に置いたのか)。

放映は5時間に亘っていたので、全てを視聴できたわけではありませんが、改めて今度の震災の凄まじさを思い知らされました。この度はぼくも帰宅困難者となり、早稲田大学の大隈講堂で不安のまま夕飯(近くのコンビニで僅かながら辛うじて調達できた)を食べました。

大隈講堂では、前方のスクリーンにNHKのニュースが流され、そこに被災地の惨禍が大写しにされていました。今どのようなことが起きているのかを初めて知って、ぼくは息を飲みました。そして・・・これは既にブログに書いたことかどうか記憶が定かではありませんが、枝野官房長官の記者会見も映し出されました。彼は次のような意味のことを言ったはずです。我が日本国の力を結集させて、事に当たります、と。ぼくはそのとき一人きりで、携帯の電池も切れてしまい、とても心細い状況でした。そういうときに、官房長官のこの言葉を聞いて、ぼくは素直にうれしかった。ほっとした。力が湧いた。そうだ、日本の底力を見せようじゃないか、と馬鹿みたいに思った。政治のことなんか普段はこれっぽっちも関心がないのに、官房長官の言葉で、ぼくは確かに勇気づけられたのです。

官房長官含めその後の政府の対応がどうだとかを言うつもりはありません。でもぼくは、極めて私的な理由から、枝野氏に感謝しているのです。この感情は、本当のものです。

9000!

2011-12-23 22:50:27 | Weblog
ひどいズボンしか持っていないので、ズボンを買いに高円寺まで行ってきました。

ぼくは自転車によく乗るのですが、そうすると脚が寒い。とにかく寒い。だから、暖かいズボンを可及的速やかに入手する必要があったのです。最初はユニクロに行って、一本入手。これは随分前の話です。それから西友に行って、あれこれ物色。ですが、結局のところコーデュロイが一番あったかいズボンみたいで、でもぼくが望んでいるのはコーデュロイ以上!つまりユニクロ以上!の製品なのです。

というわけで、まだ見ぬ暖かなズボンを求めて、高円寺まで行ってきたのです。コーデュロイ以上に暖かいズボンを探し当てたかったのです。

高円寺に来たらいつも寄るお店に最初は入ってみましたが、ここには激安商品が置いてあるものの、コーデュロイ以上のものは見つかりませんでした。そこで、近くのお店に入ってみたら、ここには割合暖かそうな製品が置いてありました。しかし、如何せん値が張る。といっても4000円とか5000円とかなのですが、まあぼくには少々高い。それに、これが本当にコーデュロイ以上なのかどうか、ぼくには確信が持てませんでした。だから手ぶらでそのお店を後にし、次の店へ。

そこはアウトレット商品を主に扱っているようでした。アウトレットと言っても、元がバカ高ければ、売値もそれなりにするわけですから、大して期待せずに店内に入り、ズボンはどこかなあ、と見回していると、目に飛び込んできたものは、「コーデュロイ以上」の品でした。それは、どこから見ても、また誰が見ても、そしていつ見ても、明らかに「コーデュロイ以上」のズボンであり、いわば「絶対的な暖かさ」を体現した、完璧な冬用ズボンでした。「欲しい!」と思ってうっとりしながら手で触れてみると、その肌触りもまた心地よい。ほわほわしていて、厚みがあって、頬ずりしたくなるとはこのことですよ。そしてぼくは、まるで自分の受験番号を掲示板に確認するようにして恐る恐る値札を見てみると・・・9000という数字が目に飛び込んできて、息を飲みました。でも次の瞬間、ああそうだよな、これだけのズボンだ、9000円するのも仕方ないさ、なに、天晴だよ、ぼくには買うことはできないけどさ、でもぼくは満足だよ、だってこんなズボンが存在しているということが分かったんだから・・・と心の中で呟いて、別の商品を手に取りました。するとそのズボンも同じ値段。ところが、そのすぐ上に、2700円と書かれているのです。どうやらそれはセール品で、かなり値引きされているようでした。もしや、と思ったぼくは最初のズボンの値札をもう一度見てみました。そうしたら、やった!こっちも2700円に値下げされている!

そんなわけで、ぼくはそのズボンを入手しました。ついでにもう一着、暖かそうなのを買っておきました。そちらも元の値は9000円。つまり、18000円分の商品を購入したわけですね(そうですよね?)。いやあ、高いものが安く手に入るってのは気持ちいいですね。という、貧乏くさい記事でした。

これが世界の約束、あるいはぼくの約束

2011-12-19 00:57:51 | お仕事・勉強など
研究者(ここでは文学研究者を指す)と素人とを分つ「専門性」は、実のところ非常に曖昧なものである、というのは恐らく多くの(若手)研究者に共有されている認識だと思います。そのような専門性はほとんど実質的なものとして存在していないのではないか、と以前ぼくは疑義を呈してみたわけですが、しかしながら依然としてその専門性の意義は研究者によって破棄されていない。専門性という概念が極めて曖昧で絶対性に乏し過ぎるとしても、彼らはそれを手放そうとはしない。そればかりか、なんとかしてそれを確立し、再び自明の存在として受け入れようと画策する。それというのも、それが曖昧で信用の置けないものだからです。専門性がないということは、いわば自分の存在理由がないということですから、どうにかしてそれに輪郭を与えないといけない。

でもぼくとしては、研究者と素人とを分つ境界線がぼやけているのならば、その線を画定する方向にではなく、むしろいっそのこと取り払ってしまう方向に事態を進めることができたら、と思う。選別するのではなく、平板化する。つまりは知のヒエラルキーを瓦解させ、横の関係にシフトさせる。そういう新たな構造化を可能にするのが恐らくウェブの力なのだと思う。知のウィキペディア化ということです。

誰もが自分の意見を世界中に発信できる時代にあって、研究者の意見の重要性はいかほどのものなのでしょう。それが真実らしいという点のみが、その重要性を支える根拠であるとしたら、インターネット空間における情報の淘汰は、その真実らしさの素晴らしい代役として機能するでしょう。一人の天才の知と、70億の集約された知と、どちらがより真実らしいか。

現代において、同時代性はかつての時代性と同義になりつつある、という認識がありえます。つまり、かつて一人の天才の仕事を何百年もかけて解釈し直し、あるいは発展させ、あるいは厳密化させてきたのに対して、今ではその作業を同時代的に行うことが可能になったのです。長期の時代は一瞬に凝縮され、時間は益々濃密になりつつあります。

ぼくの描いている未来像は、ユートピアないしはディストピアです。それは現在の研究の在り方、その制度を抜本から覆す。でもそれは、文学の批評というものが結局のところ文学作品あるいはその執筆者とのコミュニケーションであるとみなすぼくの考えの当然の帰結であり、必然の着地点です。そのように跳んだのであれば、このように着地しなくてはいけない。

冬休み

2011-12-17 00:05:50 | Weblog
一足先に学校は冬休みに入りました。今週の火曜日に正規の授業が終了し、あとは補講期間のようです。ぼくの取っている授業からは補講の連絡が来なかったので、ぼくにとってはもう学校は冬休み、ということです。

電子ジブリがコンテンツの無料公開を開始したり、新海誠のCMが放映されたり、メディア芸術祭が受賞作品を発表したり、冬休みに華を添えることが多々。

もっとも、今週は水曜・木曜とバイトがあったし、明日も学校へ行く用事があるので、授業がないとはいえまだゆっくりとは休めません。今年のバイトの仕事納めは27日なので、それ以降になるかな。けれども、来年が来てほしくはないのですよ。来年はもっと悪くなるんじゃないかと恐れているから。

メディア芸術祭・受賞作品発表

2011-12-15 23:05:35 | アニメーション
発表されました。
エンターテインメント部門では、YKBX氏のクリスマスが審査委員推薦作品に選ばれていた。優秀作品ではなかったけれど、ひとまずホッとする。

で、アニメーション。大賞は『まどか☆マギカ』。ふむ。で、次の優秀賞を見たときに、目がテンになった。『鬼神伝』。は?
以下、授賞理由。

力作である。存分に動画枚数を使った群衆シーンやエフェクトア
ニメーションは圧巻で、久しぶりに劇場用アニメの醍醐味が充溢
した作品だった。デジタル全盛の時代に、あえて真正面から作画
枚数に挑んだ制作者の態度は評価されるべきであろう。物語はや
や類型的で、キャラクターの造形も手堅く、新鮮味はないが、む
しろ定番として小中学校や公立図書館に収蔵しておきたい作品。
作品全体を覆う日本的意匠も丁寧に描かれており、海外での公開
を含む作品展開が望まれる。

小中学校や公立図書館に所蔵しておきたいらしい。あ、そう。物語は超類型的で、新鮮味は全くない作品だからこそ、定番中の定番だからこそ、子供に必要なんだと言いたいのかな。もっとも、定番と言ってもよい定番と悪い定番があり、この作品は後者だと思っています。物語としてかなりおかしな展開をするので、定番にもなり切れていない。確かに迫力のあるシーンもあったものの、脚本がお粗末でご都合主義的、また人間のキャラクターデザインが「ナルト」そのままなので、作品としてひどくアンバランスな印象を受けました。ぼくは、この作品は完全な駄作だと思っている。どうしてこれと『マイブリッジの糸』が同じ優秀賞として表彰されるのか、さっぱり分からない。審査委員は本当に作品の質を見ているんだろうか。『鬼神伝』を評価する人たちが、『マイブリッジの糸』を評価できるとはとても思えないのですが。

審査委員は今年から変わり、まあまあメンバーのバランスはいいと思っていたのになあ・・・

と、愚痴っておく。去年も審査結果に文句を言ったような言わなかったような。

世界のアニメーションシアター

2011-12-12 22:30:09 | アニメーション
現在、下北沢のトリウッドで『世界のアニメーションシアター』と題して3つのプログラム(いずれも1時間弱)で短編アニメーションが公開中です。

プログラムAは、フランスのパペットアニメーション「冬のレオン」と「春のメリー」。NHK BSでも放映されたことがあるみたいで、好評だったそうです。

プログラムBは、様々な国の短編集。「サムシングレフト サムシングテイクン」「キャプテン・オウサム」「早いの、遅いの(どっちにするの)」「テレグラフィックス」「視線を逸らして」「ライオンになりたかった少年」「ノルウェー最後のトロール」の7本。

プログラムCは、CGアニカップ日本代表作品集で、「スターマイン」「おにしめおたべ」「Tube」「百鬼」「セカイ系セカイ論」「Memory」「ひとりだけの部屋」「the TV show」「セピア色のとけい」の9本。

全て鑑賞しましたが、おもしろかった!ほとんど外れなし。あえて言えば、プログラムCが他のプログラムに比べてやや弱い気がしますが。

さて、プログラムAのアニメーションはシリーズもので、「冬のレオン」「春のメリー」「夏のボニファシオ」「秋のハリネズミ」(制作中)の4部作となる予定だとか。今回は最初の二本のみの上映ですが、一話完結なので続きが気になるという心配はありません。

で、非常におもしろかった。キャラクターや背景に温もりがあり、ストーリーも簡潔でひねくれていない、直球勝負。そして特筆すべきは声優。日本語吹き替えですけれども、ボニファシオの声が最高だった。このシリーズは、ボニファシオというキャラクターを生み出した点で長く記憶されるべきでしょう。表向きの主人公はレオンであったりメリーであったりするのですが、しかし物語の語り部たるボニファシオは、悪役でありながら、主人公たちよりも十分に魅力があります。オチの付け方も心地よく、ボニファシオの魅力が十分に引き立てられています。

プログラムBは、はじめ愉快な作品が続くのですが、「テレグラフィックス」や「視線を逸らして」あたりから次第に単純な笑い話では済まない物語に推移してゆき、最後の二本は完全に笑えない話になっています。中でも哀愁漂う「ノルウェー最後のトロール」は、幻想的で不思議な余韻を残します。非常に壮大な神話が物語られているのに、監督の姿勢は恬淡とし、あくまで静的で、荘厳でさえあります。強い主張を画面にかぶせることなく、粛々と物語を進めてゆくさまは、謹厳な「時間」という老人が重い足取りで映画の中を通り過ぎてゆくような錯覚さえ抱かせます。とても優れた作品だと思いました。

プログラムCでは、「セカイ系セカイ論」を観られたことがよかった。しかしこれ、本当に新海節だなあ。「ひとりだけの部屋」は、花蟲さんの作品ですが、好悪の分かれそうな作風は相変わらずで、まあ個人的にはこういう濃密な絵もたまにはいいかな。このプログラムの中で一番好きだったのは「百鬼」で、ほんわかできるのはやっぱり「おにしめおたべ」ですかね。

とりわけAとBのプログラムは非常におもしろいので、どなたにもお勧めです。上映はクリスマスまでですので、興味のある方は是非!

CMとアニメーション

2011-12-11 00:02:02 | アニメーション
ノルシュテインはかつて、もし自分の作品がテレビで放映されるとしたら、合間にCMを流してほしくない、という趣旨の発言をしました。展覧会で絵画に企業広告が貼ってある風景を想像できるかい、と。まあ確かに、映像作品にCMを挟み込むのは絵画に広告を貼る行為と同等だという主張は理解できます。近年の日本では、映像が流れているさなかに文字宣伝を出すことが常套化してきていますが、これを見たらノルシュテインは何と言うのかな。何考えてんだよ、とぼくはいつも心の中で呟いていますが。

とまあ、こんなことを、きのうラピュタを見ながら考えました。正確に言うならば、ラピュタの合間に流れるCMを見ながら。ラピュタにはCMはいらない。

りんごの季節

2011-12-06 23:09:18 | Weblog
学校帰りに飯田橋の『あおもり北彩館』に寄ってきました。お目当ては「りんご餅」。前に青森でお土産として買ってきてからというもの、ぼくはこの和菓子の存在を忘れた日はありません!それだけおいしい。でも、そう幾度も買うと有難味が薄れるので、年に1,2度という感じで購入しています。早年末になったということで(りんごの季節だ)、今日行ってきたわけです。

で、店内を見回っていたら、りんごを丸ごと使ったバームクーヘンやパイが置かれている。特に前者は東京ではなかなか手に入らないと聞いていたので、びっくりするやらうれしいやら。これ、すごくおいしいのです。でも今日はリンゴ餅(20個入り)で1000円使ってしまうので、泣く泣く諦めました。近いうちにまた来よう。

青森の特産品がたくさん並べられているので、りんごやにんにくのお好きな方で、東京にお住まいの方は、是非一度足を運ばれてみるとよいと思います。他にも漬物やジュース、お酒など、たくさんあります。まあぼくの一番のお勧めはりんご餅ですけどね。

失ったものと得たもの

2011-12-06 00:37:49 | Weblog
先日購入した『魔女ランダ考』を読み始めました。日本語の研究書を一から読むのはこれがたぶん半年ぶりだから、驚くべき怠慢ですね。

しかしぼくもちょっと前まではもっと読書家でした。2006年頃を境にぼくは本が読めなくなりました。

それまでと同じように、あれからも多くの本を読むことができていたら、ひょっとしたら今の生活も少し違ったものになっていたんじゃないだろうか、と考えることがよくあります。何時間もぶっ続けで机に向かう根気が未だにあれば、と。けれどもそれは昨夜夢で見た人生に憧れるのに似て、なんと無益な願望でしょう。なるほどぼくの読書量は明らかに落ち、知識は衰えた。意欲や集中力は枯れかけている。これはぼくが失ったもの。あのままの生活を続けられていれば当然のように我が物であったもの、でもそうはならなかったもの。

代わりにぼくは思いがけないものを得ました。あえて月並みな言い方をすれば、それは家族や友人に対する愛であり、人間の弱さに対する感受性でした。学部生の頃、ぼくはたぶん遅れてきた反抗期の中にあったと思っています。中学や高校の頃に訪れるはずのそれは、ぼくの人生の中では明確な徴となることはなく、大学で初めて、祖母の病気やその介護に当たる母との葛藤を通して顕在化しました。ぼくの反抗期は波のように浮沈を繰り返しながら、何年も続きました。ときにはひと月も家族の誰とも会話することなく過ごしました。

そのようなぼくの反抗期に幕を引いたのは、人間関係のもつれと、突然の病気と、その治療薬による激烈な副作用でした。ぼくは何も手につかなくなりました。ぼくは呻き、足を踏み鳴らし、壁を蹴りつけました。そのとき優しく見守ってくれたのが母でした。

それまでのぼくは、人間的な弱さというものについて、盲目的だったと思います。大きな失敗をしたことは既に何度かありましたし、苦節を経験していましたが、しかしその経験がかえってぼくを傲慢にしていたように今では思われます。自分では苦しい思いをしたつもりでいたので、つまり端的に言えば不幸であったと感じていたので、他人の苦悩をどこかで軽視していた部分がありました。

やる気がしないとか、そういう些細な「怠慢」に対して、自分は全く理解を示しませんでした。やろうと思えばできるのだと考えていました。やろうとしてもできないことがある、そういう精神状態が存在するのだ、ということを知らなかったぼくは、いかにも子供であり、ある意味では幸福であったと言えるでしょう。しかしぼくは一連の経験を通して、人間の弱さに深い同情を感じることができるようになりました。自分の弱さとそれに対する周囲の優しさを知るにつけて、今までの自分がいかに厳しく傲慢な人間であったか思い知らされました。

小さなことですが、メールの返事が遅いとか、遅刻するとか、そういう事柄に対してさえ、その背後には何らかの事情が潜んでおり、やむを得ないのではないか、と忖度をするようになりました。これまでも寛容ではありましたが、一層その傾向が強まりました。

失ったものと得たものとは、もとより天秤にかけられる類のものではありません。でもあえて抽象化すれば、力を失い、心を得た、ということにでもなるでしょうか。ぼくは社会的成功を収められないかもしれない。けれども、人間関係が良好で、精神が安寧でさえあればいいなと思うこともあるのです。これは負け犬の遠吠えでしょうか。ぼくにはまだ分かりません。

阿佐ヶ谷

2011-12-04 23:08:16 | アニメーション
そういうわけで(きのうのつづき)、リトアニアとエストニアのアニメーションを観てきました。リトアニアはけっこうよかったけど、エストニアの方は、セレクトが偏っているのか、正直好みではなかった。既に観たことのある作品も2,3本ありましたが、その内の「ドレス」という作品は、初見の際はなかなか優れていると思ったのに、この監督のもう一つの作品を観た後では、関心が湧いてこなかった。そのもう一つの作品というのは、かなりおぞましかった。あと、マッティ・キュットの『空の歌』。う~む、ぼくには分からなかった。何かしらの注釈とか、そういう導きがあれば「入れる」のかもしれませんが、ほとんど門前払いに近かった。でもこういう作品ってどういうふうに観たらいいんだろう。感性が違う、で片付けていいのか。シュルレアリスムですね、で終わっていいのか。

さて。今日は別の古書店を物色。空き時間にぶらぶらしてたら近くに4軒あることが判明した。一つは、明らかに最近できたらしい古書店。で、ここでカヴェーリン『師匠たちと弟子たち』をゲット。図書館になかったはずなのでうれしい。あとチャペック関連の雑誌を購入しました(これは別の古書店にて)。イヴァン・クリーマのチャペック伝も魅力的だったのですが、たぶん図書館にあるよね・・・あるはず・・・いやどうだろう?

あと、図書の図像学(だっけ?)とかいう本がおもしろそうだったのですが、今回は見送り。趣味のレベルでたくさん本が読めればいいんだけどなあ。よく考えたら、自由に好きなだけ本が読めるのって、普通は小学校から大学までの十数年なんですよね。もっとたくさん読んでおけばよかったなあ。

ラトビア

2011-12-04 00:18:13 | アニメーション
阿佐ヶ谷でラトビアのアニメーションを観てきました。
明日は、エストニアとリトアニアの作品を観に行く心算です。ちなみに渋谷のイメージフォーラムではポーランドのアニメーションも上映されています。けっこうやってますねえ。本当だったらたくさん観たいのですが、そんな時間もお金もないので、とりあえずバルト三国のアニメーションだけ観とこうかな、と。

今日は暖かでしたね。19時ごろの渋谷は16.8度でした(テレビの天気予報)。ところが、今日の東京の最高気温は14度と発表されています。たぶん午後○○時以降の気温は最高気温とはみなさない、という規定があるんでしょうけれども、これじゃあ実感にそぐわない。あと、午前0時過ぎに出た気温は最高気温にしないでほしい。日中は7度ですが最高気温は15度です、みたいなことが度々あるので。

久々の阿佐ヶ谷も暖かでした(当然だけど)。で、少し時間を持て余したので近くの古書店で中村雄二郎『魔女ランダ考』を買いました。なかなかおもしろそうな本だ。魔女についての本ではないです。

さて、肝心のラトビアの作品集ですが、ウラジーミル・レスチョフという監督の作品が中心で、まあ標準以上の出来なのかな。個人的には「いいね!」という程ではないのですが。あまり印象には残らなかったなあ。いわゆるシュールな作風で、静かな佇まい。でもユーモアのセンスはちょっと好きかな。
レスチョフ作品以外は同一スタジオで作られたらしい人形アニメが三作。こちらは純粋に楽しく観ることができました。蛍の話と、三人(三兄弟?)のレスキュー隊の話が二本。とりわけ後の二本は漫画っぽい展開と演出が顕著で、うれしい。人物造形がリアリズムを追求すると、こういうお遊びの要素が見られなくなる、というか観客が(人物の造形のみならず)あらゆることを現実世界に対応させないと気が済まなくなるものですけれど、デフォルメの利いた人形アニメはそうした制約から解放されていて、楽しく観られる。