けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

過激でもいいから少子化対策の話をしようじゃないか!

2012-04-15 23:32:06 | 政治
最近は北朝鮮や原発再可動の話題の影響で、消費税増税論議は少しばかり影を潜めた感がある。短中期的な展望として、日本経済の再生と財政再建は非常に重要だし、原油価格登が高騰する中で火力発電に頼ることの経済に対するマイナス効果をどう考えるか、更には未だに不気味な振る舞いをする地震のリスクなどをどの様に捉えるかは、立場によって選択される手段が異なる問題として悩ましい状況にある。年金問題は、どうせ後わずかで民主党政権が崩壊するのが分かっている中で、最低保証年金を前提とした議論など意味がないから、もしやるとすれば自公政権時代の制度の取り繕いをしておきながら、安定政権が生まれることを待つしか他にない。

この様な状況で、もう少し長期的な視点で見た時に、日本の抱えるリスクを抑えるための取り組みに本腰を入れることは、一見、無関係な様に見える部分はあるが、しかし実際には将来に対する一筋の希望として役に立つ可能性があるのではないかと考えた。言うまでもなく、それは少子化対策である。後で触れるが、結論としては相当思いきたことをやるしか道はないのは明らかだから、発散モードでどの様な選択肢が有りうるかのアイデア出しを各党、ないしは議員レベルで競い合えば良いと思っている。

例えば年金問題にしても、人口全体に対する労働人口の比率の低下は、単純に国力を下げることになるし財政再建的な意味合いでも、納税額と国のサービスの恩恵という視点で見たときに赤字とならざるを得ない高齢者世代の比率が増大し、黒字となる労働世代の比率が減少したら、同レベルのサービスを維持する限りにおいては年々財政赤字が深刻になるのは火を見るより明らかである。だから、長期的な視点で国家を維持しようと思うなら、短期的な増税や経済政策以上に根本的な少子化対策の方が価値が大きい。ただ、その効果が見て取れるのはまだ20年以上先だろうし、それまでの間は子育て支援のための支出も増えざるを得ないだろうから、政治家が本気度を示して取り組むテーマとしては中々扱いにくいものかも知れない。しかし、時限爆弾の針の進みを確実に遅らせる効果があることは容易に想像できる。

そこで、大した提案は出来ないが、ここでも何か考えてみようと思った。短絡的には、子育て手当などのバラマキ系の対策が頭に浮かぶのだが、しかし民主党の子育て手当で出生率が劇的に改善をしたという話は聞こえてこない。やり方が間違っているのだろう。多分、考え方としてはふたつの考え方からスタートするべきだろう。ひとつは、子供を生むことによるデメリットをなくすこと、もう一つは子供を産むメリットを増やすこと、である。

子供を産むデメリットは、例えば子供が生まれると保育所やベビーシッターを見つけなければ仕事が継続できない点、正社員でなければ妊娠と同時に仕事を失うリスクがあること、病気に掛かりやすい幼い子供は保育園などに預けても急に呼び出されて仕事にならないかもしれないこと、細々としたものの出費がかさむこと・・・等々、上げればきりがない。これらを力業で解決するのである。

例えば、保育所に代わる準保育所の様なものを創設し、そこには仮に保育士等の資格をもたない人であっても、子育て経験がある人であれば1〜3ヵ月程度の講習を受けることを条件に、仮保育士の様な短期的な資格を与え、これらの人を使って一気に小さな子供を預かれる環境を作るのである。そして、これらの利用には一旦お金を払っても良いが、年収などの一定条件(例えば、勤務先での勤務確認などを含むかも知れない)を満たせば全額が還付される様な制度を導入すればよい。場合によっては、1年間で所定の時間以内であれば、プライベートな時間での利用も許せばよい。幼稚園や保育園は若い先生が多いが、子育てを終えた50代、60代の人々の力を活用すれば、人材不足の心配もないだろう。もちろん、事故が起こるリスクは無視できないが、そんなのは全額、国が補償することにすればよい。ただし、その様な事故が起きないように定期的に育児環境をチェックする体制も必要になるだろう。

また、子供がちょっと熱を出すと幼稚園や保育園は子供を引き取りに来るように求められるが、ネット環境でテレビ電話が使えれば、親と子が時々、直接顔を見て会話をしながらその深刻さを把握して、いざとなったら救急車を呼ぶことも覚悟した上で、保健室の様な場所で数時間ぐらいは引き取りの猶予を与えても良い。さらには、病院ではないが、病気の子供を1日預けられる療養保育園の様な施設があればもっと良いだろう。考えれば色々アイデアは出ると思う。
これらのサービスは、少なくとも収入が少ない人は、全額、国の補助で利用できるというのがポイントである。当然支出は増えるが、個人への現金支給ではなく、必要な人へのピンポイントでのサービス提供が可能であり、しかも新たな雇用も同時に生むのである。この点が効率の良さであり、結果的に投資対効果の比率を高めることになる。

もう一つのアプローチは、子供を産むメリットを増やすことである。子育て手当はその辺を狙った施策だが、何とも額が中途半端である。例えば、月額26000円というのは年間で312000円である。これを15年間もらい続けると、一人あたり総額で468万円になる。しかし、そんな制度はいつまで続くかわからないから、そのお金を信じて子供を産もうと考える人などいない。だったら、月額10万円にして満3才の誕生日まで支給するとすればよい。総額で360万円と少なくなるが、場合によっては「早いとこ出産し、その子育て支援のお金で遣り繰り知りながら資格をとり、自らのスキルアップにつなげて将来設計を見直そう!」という非常にポジティブな人を引き出す起爆剤になるかも知れない。もちろん、小学校などの給食無料化(その他の費用も公立は原則無料)や、民主党の高校無償化も継続する。大学も、給付型の奨学金制度を充実させれば、産んだ後で教育費に困るような事態にもなるまい。もちろん、月額10万円は大金なので、経過措置を上手く行わないと不公平感を募ることになりかねないが、その辺は考え方・やり方次第だろう。

最後は結婚制度自体にもメスを入れる必要もあるかも知れない。どうせデキ婚がそれなりの比率になっている現在だから、ちゃんと結婚していなくても、それなりの手続き・条件を踏めば、結婚したのと同様な税制上の優遇を行なっても良いかも知れない。保守的な人が反対するだろうから、建前上は結婚という制度を維持することにしても、頭の良い官僚が考えれば如何ようにでも骨抜きにできるルールを考えるかも知れない。だから、結婚の前に同棲レベルでそれなりの優遇を受けることができれば、その後の出産・結婚の流れは十分に期待できるだろう。

この様に説明すると、やはり保守的な人は「そこまで産めよ増やせよ・・・と、人間は子供を産む道具ではない!」と言われるかも知れないが、あくまでも産むか産まないかかは本人の自由であり、そこにあるハードルを取り除き、ちょっとばかし助走しやすいような緩やかな下り坂を用意してあげるだけである。お上品なやり方では効果が出ないことは既に分かっている。少々、ショック療法的なやり方も必要なのである。

この様なことを、超党派的に議論できる場所があったら良いのにと強く願う次第である。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

「日の丸」「君が代」と「国益」との関係について

2012-04-14 18:49:34 | 政治
最近は色々な話題が多くててんてこ舞い状態だが、そんな中で取り残された話題の中でも気になっている話題があったのを思い出したので忘れないうちに書いておこうと思う。それは、卒業式や入学式での君が代斉唱などの件で大阪で揉めていた話題である。

多分、君が代斉唱の強制は、思想信条の自由を脅かすとか、戦前の教育を思い出すという論調で、所謂インテリと呼ばれている有識者の中では、程度の差こそあれ余り良い評価にはならないと思う。私の感想としても、ちょっと前までは「このような人達が教師であるのは如何かとは思うが、法的にはそれを処罰するのも危険かな・・・」と思っていた。だから、橋下市長が強硬にこの点にこだわるのには違和感すら感じていた。しかし、最近、ちょっと考え方が変わってきた。

以前から、喉に刺さった魚の小骨の様に気になっていたことがある。例えば、南京事件や慰安婦問題などにおいて、明らかに自分の行動が日本の国益を著しく損ねるような案件に対して、事の真偽を何度も何度も自問自答しながら、(国益を損ねるかも知れないことが)本当にそれが疑いようのない真実なのか否かを確認することもなしに、平気で公言出来てしまうことが信じられなかった。もちろん、国益のためにそれが真実であるという確信もなしに、ないしは半分はデマだと覚悟しながら大声で叫びまくることも褒められたものではない。何故なら、信憑性のないことを平気で言いまくることで、日本の主張の信憑性を貶めることにもなり、それは国益を損ねるからである。

特に民主党政権になってから、「国益」という言葉が軽くなったような気がする。「国益」よりも次の選挙で自分が生き残ることの方が大事という政治家が、民主党には特に多いように思われる。政治家ですらこうだから、一般人の間には「国益」という概念が乏しくなるのは仕方がないのかも知れない。誰でも若い頃には、青臭い正義感が強いもので、政権与党がどの党かにかかわらず、政権に批判的であることが正義と思い込む傾向がある。一部の人は、大人になっても変わらないだろう。マスメディアというものは、体制に対して常に懐疑的であり、そこで行われる不正を常に見過ごさないという厳しい姿勢で望むべきである。しかし、それはそれが「国益」に叶うから正当化されるのである。国家の足を引っ張るのがマスコミの仕事などではない。だから、時として正しいことをすれば、それを評価しても恥ずかしいことではない。

この様に考えたとき、何故、平気で国益を損ねることが出来る人がいるのか、その理由を考える必要があると思った。例えば、慰安婦問題では、某朝日新聞の記者が自分の身内の主張を鵜呑みにして、天下の大新聞で政府を追求するようなことをするに至った。身内から頼まれて仕方なくなのか、自分から率先してなのかは知らないが、それを紙面に乗せる決断をしたデスクも一緒になって、十分な検証もなく国益を損なう大きなリスクを背負ってしまった。日本の大新聞が認めたとなれば、相手からしてみればそれが真実か否かに関係なく、「日本政府は悪い奴」というお墨付きを得たようなものである。そんなことは誰の目にも明らかだから、朝日新聞のデスクはそれを覚悟でOKを出したのだろう。

多分、この心の背景には、「敵の敵は味方」という発想があるのだろう。政府を攻めるのがマスコミの仕事で、政府を攻めている他の勢力があればそれは「味方」であるという考え方である。しかし、敵である政府の敵の中には、国益に照らし合わせて問題ない立場の者もいれば、明らかに国益に反する者もいるだろう。例えば、対立している人がいるとして、その人と暴力団が対立しているとする。そんな時に、暴力団と手を組んで戦いますか?ということになる。だから、青臭い反体制的な考え方はどうぞそのまま大切にしてもらえれば良いのだが、頼むから国益を犠牲にしてまで好き勝手なことをしないで欲しいと言いたいのである。

この様な「国益」を損ねる行動に対するブレーキは、自分が「日本」を愛しているかというところにあるのだと思う。別に、「お国のために死んでくれ!」という極端な話を求めているのではない。そんなことは求めないが、せめて大切な「祖国」という気持ちを忘れないで欲しい。しかし、その様な気持ちを子供たちの心に植え付ける上で、「日の丸」や「君が代」をないがしろにしてカッコつけている教師は明らかにマイナスなのである。個人の政治信条を保証するのは構わない。しかし、それをまだ幼い子供たちに対して教育の現場で「日の丸」や「君が代」をないがしろにするように影響を与える権利も有しているかと問われれば、せめて公務員である公立学校の教師には無いと答えたい。免職に至るまでの条件・手順などのルールは大いに議論してもらえば良いし、「それはやりすぎ!」ということのないように目を光らせてもらうのも構わない。しかし、「基本的なルールはこうだ!」と覚悟を決めて宣言した橋本市長にはエールを贈りたい。

私は、ロサンゼルスオリンピックにて、表彰台の真ん中で金メダルを胸に掲げ、涙をこらえながら君が代を聞いていた柔道の山下泰裕さんの姿を見て、「私は日本人なんだなぁ」と目に涙を潤ましたことを覚えている。最近ではなでしこジャパンのワールドカップ優勝の時だろうか?ちょっと前ではWBCでイチローが最後に活躍して2連覇を決めたときにも泣けてきた。殆どの日本人は「日本」が好きなのである。それは決して恥ずかしいことではない。しかし、青臭い考え方だった幼い私は、同じ「日の丸」「君が代」なのに、オリンピックなどの時とその他の時では別の扱いをしなければならないような誤解があった。それでは「国益」を意識した行動を取れる訳がない。

最後に(言うまでもないことだが)誤解されないようにちょっとだけ「国益」についての注意点もふれておく。当然ながら、すべての人に共通の「国益」という概念はない。昔は「国益」のためにアジア諸国を侵略したつもりだが、時代遅れの考え方をやりすぎたので、結局、国益を損ねて戦争に負けてしまった。アメリカに媚を売るのが国益なのか国益でないのか、同様に中国に媚を売るのが国益なのか国益でないのか・・・。これが正しいと信じたことが、時として国益を損ねることもあるだろう。「要らん(イラン)外交」と揶揄された鳩山元総理も、自分は国益のために行動していると信じているのだろうが、いつの時代でも「政府」のスタンスに反する2元外交は相手の思うつぼであり、それは国益を損ねるのである。通常は国家というものは自国の国益を第1に優先するものだから、相手は自分を利用しようとするのが前提である。余程の友好国でない限り、相手のことを逆に利用してやるぐらいの気持ちでないと一方的に利用されて終わりである。それは(どこかの元総理の様に)明らかに国益に反する。

あまり「国益」「国益」と言うと単なるナショナリズムの様に思われそうで嫌だが、平和ボケの日本は余りにそれに無頓着である。たまにはこれぐらいの事を言っておこうと思った次第である。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

我々は様々な『覚悟』の中からどれを選ぶべきか?

2012-04-13 21:50:31 | 政治
今朝から北朝鮮のミサイル打ち上げ失敗の話題で持ちきりである。天気の良い昨日の打ち上げを先延ばしし、せっかく大々的に呼び寄せた海外のマスメディアに打ち上げ映像も見せずに打ち上げをするのだから、それなりに失敗の確率を覚悟していたのであろう。また、昼の時点で既に衛星軌道への投入失敗を認めているのも、この様なシナリオを想定して対応を考えていたのかも知れない。もし、頭の固い年寄り連中に任せていたら、もう少し有耶無耶にして、衛星の「打ち上げ」自体は大成功だが、部分的には上手く行かなかった部分もなくもない・・・的な発言に終始していたのだろう。

昨日のブログの中でも、相手がポカをしないと勝ち目がないという話をしたが、まさにそのポカをやってくれたのだから付け入るスキはある。個人的な意見としては、これでアメリカは以前のような金融制裁を再開する口実も出来たと理解している。今、金正恩に求められるのは実績であり、以前のデノミでも失敗して、建国の父であるはずの金日成生誕100年を祝うことにも失敗し、国際的には赤っ恥を書いてしまった。この状況で重鎮をつなぎ止めるには、外貨をばら蒔くぐらいしか手はないのであるが、そこで金融制裁をすればその効果は実に大きい。核実験をしようものなら、その金融制裁解除の道は大幅に閉ざされるのであるから、金正恩にとってこれほど嫌な対応はない。アメリカがその様な制裁をすれば、例えば日本に拉致問題に対する譲歩をしてでも仲介を求めてくる可能性もあるから、日本からアメリカに金融制裁を強く求めても良いのではないかと思う。この結果、きっと現在の北朝鮮の様々なシナリオを書いて裏で糸を引いている人々は、重鎮からの信頼を失い失脚する可能性もあるから、その意味でも長期的なボディブローとして効果が出続ける可能性がある。金正恩の立場が弱まることは、彼が逆に強がって暴走するための権威も失わせるだろうから、戦争のリスクを高めることにはならないと読んでいる。

とまあ、色々話は尽きないが、あんな国のことでいつまでも踊らされるのは嫌なので、今日は別の話題を取り上げることにする。

今日の話題は、昨日の報道ステーションの中で、登山家の野口健氏が「原発再稼働私はこう思う」のコーナーの中で述べていた意見についてのコメントである。最初に断っておくが、報道ステーションの扱いはフェアだったと思う。というのは、彼は「UNMO(原子力発電環境整備機構)」の広報ビデオに出演したりもしているらしいので、これを最初にインプットされると彼の言い分を素直に聞くことはできなくなってしまうかも知れない。しかし、発言内容は非常に理にかなっていたのでその理屈だけでも聞いて欲しい。

まず、登山家の立場からすれば、地球温暖化をこれほど体感している人はいないだろうから、CO2排出削減の視点からは彼は当然ながら現状の火力発電への軸足の移動は耐え難く思っている。

反原発派の人の多くは環境問題にも関心がある人が多いだろうから、以前であれば(原発はとりあえず横に置いておいて)CO2が地球を滅ぼす・・・というようなことを言っていた。その時、統計データとしてCO2の排出量と地球温暖化の相関について異を唱える人がいたが、3.11前であればその様な人に「(CO2削減のコストを嫌う)産業界の回し者!」というレッテルを貼っていた。しかし、最近になって火力発電所を多用することでCO2排出量が増えると、昔は攻撃対象だった人の説を思い出して「必ずしも相関があるとは言えないらしい!」と開き直る者がいる。如何にもご都合主義である。

私は、純粋学術的に統計的な処理として何が言えるかは議論すべきだと思うので、CO2排出量の削減は進めながらも、本当に相関があるのか否かの議論は継続すべきと思っていた。原発関係の報道でよくテレビに登場する中部大学の武田邦彦教授なども、温暖化とCO2の排出に関しては直接的な相関がないかも知れないというスタンスでテレビにも出ており、元々は原発推進派でありながら立ち位置がご都合主義的でなく面白い。

話が逸れたが、現時点では温暖化とCO2排出量の相関は強いというのが主流派だから、この立場に立てば火力発電によるCO2の大量排出は禁じ手であるので、少なくともこの先10年程度は天候などに左右されない安定的な自然エネルギーに急激にはシフトできないことを考慮すれば、現実的なところでは原発が有力な選択肢となるという結論になる。

さて、ここまでの議論は別に新しい視点などは全くない普通の話しである。しかし、この先が私には新鮮に写った。話はこうである(記憶だけを頼りに書いているので、実際は多分、表現は違うと思うがご容赦を・・・)。

「鳩山元総理がCO2を25%削減と言った時、(産業界はともかくとして)多くの国民が『良くぞ言った』と飛び付いた。しかし、CO2を25%削減ということは、当然ながら原発依存度を高めることを意味していた。それでも誰も異論を唱えない。さらに鳩山さんが辞めたら、殆どその話題に触れる人がいなくなった。そして3.11が起きて、現在は脱原発に多くの国民が飛び付いている。火力発電の多用でCO2排出量は爆発的に増えたが誰も何も言わない。一方、原発の再稼動を認めなければ、産業界に少なからぬ打撃を与えるのは間違いない。工場の電気代が上がり、やりくりできずに工場が閉鎖されたとき、失業することになっても、それでもあなたは『脱原発』と言い続けられますか?今、日本人に足りないのは『覚悟(テレビでは腹をくくると表現してました)』である。本当に3年後に、まだ『脱原発』と皆が言い続けられるだけの覚悟が(国民には)あるのだろうか?その様に考えると、逆に原発再稼動という『覚悟』もあり得るかも知れない・・・。」

概ねこの様な議論だったと思う(間違っていたらゴメンナサイ)。もちろん、再稼動するなら安全確保は必要である。先日のブログにも書いたが、免振重要棟の設置や多くの人が納得できる安全基準の確立、さらにはごまかしのないチェック体制など、最低限の安全の確保は必要であろう。それなしでの再稼動の『覚悟』と、その対処期間の電力不足の我慢の『覚悟』と、どちらの覚悟を選択するかは議論しても良い。この、『覚悟』という問題提起が私には新鮮に写ったのである。

それからもうひとつ、彼は『地熱発電』に目を向けていた。実は、私は地熱発電の活用には大賛成である。と言っても、私は少々過激な考え方を持っているのだが・・・。その過激さとはこうである。日本には山が多く、地熱発電を比較的経済的に利用可能な活火山も多くある。それらの地域では、その火山を観光資源として利用し、多くの温泉街が栄えてきた。また、国立/国定公園という形で、その地域の開発を禁止することも行なってきた。既に既得権益と言っても良いだろう。だから、大分前から地熱発電が話題になりながらも、日本では殆ど利用されることがなかった。しかし、ある程度長期的な視野に立てば、これほどランニングコストが安価で、国際情勢にもコストが左右されず、天候の影響も受けずにCO2を含めて環境にも易しい発電方法は他にない。メタンハイドレートにも注目しているが、それは地熱発電では対応できない地域ないしは不足分を補う(ピークカットの)ための予備的な位置づけが適当であると思う。

しかし、地熱発電を大々的に行なうと、場合によっては温泉として湧き出す湯量に影響を与えるかも知れない。これまでは、このリスクを既得権益者が許さなかったから、地熱発電は普及しなかったのである。しかし、原発で汚染された福島の多くの地域に国が立ち入り禁止を強いることが許される現在であれば、国は強権を発動して「もし、温泉に悪影響が出たら100%補償する。だから、地熱発電の開発を強行する!」と主張しても良いのではないだろうか?

確か池上彰さんの番組で、アイスランドの地熱発電で潤う町の紹介があった。地熱発電で利用する熱を、近隣の住民の家に無料で配り、真冬には極寒の世界なのに家の中は暖か・・・という暮らしぶりが紹介されていた。多分、地熱発電所の設置を逆手に取り、それを観光の第2の目玉に据えれば、更なる地域復興の切り札にもなるかも知れない。これは考え方の転換である。その転換の『覚悟』の方が、今後も原発に依存し続ける覚悟や、世界情勢で高騰する石油の不安定さに悩まされ、且つCO2の大量排出で世界中から後ろ指を差されながら生きていく覚悟よりは、よっぽどスジの良い覚悟の様に私は思える。

テレビの中ではここまでは野口さんは言わなかったが、多分、同様なことを考えていたのではないかと推察する。どんなに逃げまくっても、何処かで何らかの『覚悟』は迫られるのである。温泉街の一部の人々に無理を強いることは申し訳なく思うが、やり方次第では温泉と地熱発電の共存もありえるかも知れない。また、この地熱発電が大々的に立ち上がるまでにはやはり5年以上(野口さんは10年から15年と言っていた)はかかるだろう。短期的に脱原発依存につなげるためにも、短期的な原発再開は視野に入ってくるだろう。是非はともかくとしても、面白い問題提起だとつくづく感心した。議論はここから始まるのだと思う。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

智将が喜び馳せ参じる体制を作らねば我々は勝てない!

2012-04-12 23:01:58 | 政治
北朝鮮のミサイル発射の話題が新聞・テレビを賑わせている。多くの報道陣を受け入れると発表したために、現在は世界中からミサイル発射の現場にマスコミが駆けつけ、それを大々的に報じることで意図せずして北のミサイルを「認知」した格好になってしまった。

つくづく、最近の北朝鮮はしたたかだと認めざるを得ない。そのしたたかさは、単に国際社会の中での政治力だけに留まらず、若くて如何にもヤンチャな将軍様をも手のひらの上で転がしながら、変な行動をとらせずにあたかも自由意志で選択したかの様に本人に思わせながら、実は裏で糸を引く戦略家に操られているところにまで見られる。その糸を引く中心が金正日の妹の旦那である張成沢(チャン・ ソンテク)なのか、それ以外の人なのかは知らないが、素人目には表に目立たない多くのブレーンがいて、その人達が立案した戦略を役職的に上位の人達が追認する形なのかも知れない。ちょっと失礼な言い方をすると、如何にも軍事馬鹿の様に見える(即ち、山本五十六ではなく東条英機的な)重鎮に囲まれながら、それでもあれだけ機能しているのだから、それは流石だと認めても良いだろう。

現在の様子は、詰め将棋で言えば9手も11手も先を読める北朝鮮に対して、アメリカですら5手先までを読むのが限界で、日本に至っては1手先を必至で考えているようなところだ。1手先しか読めないということは、即ち相手がポカをしでかさない限り、絶対に勝つことが出来ないことを意味する。

あまり知識がないながらも、私が好きな豊臣秀吉に関する逸話の中に、小牧・長久手の戦いでの戦略の話がある。小牧・長久手の戦いとは、本能寺の変で織田信長が死んだ後、明智光秀を討った秀吉が織田家の家臣の筆頭に躍り出たが、それを快く思わなかった織田信長の次男の信雄を徳川家康が後押しする形で秀吉に戦いを挑んだものである。秀吉の凄いところは、実際の戦(いくさ)での戦略アイデアが優れているだけでなく、政治力にも秀でているところである。小牧・長久手の戦いは、戦としては明らかに徳川軍が優勢であり、あのまま戦い続けていれば、かなりの確率で秀吉は家康に敗れていたかも知れない。しかし、様々な手を尽くして織田信雄にプレッシャーを与え、家康抜きで講和を結んでしまったのである。当然、家康は大義名分を失い、戦いはそこで幕を閉じるのである。そして、秀吉も家康を完全に牛耳ることは出来ないながらも、最終的には秀吉の家臣として仕えることになるのである。

軍事力で勝てなければ政治力で勝てばよい。政治力で勝るためには、相手の弱点を見抜き、そこを一点突破すれば良い。その際、綺麗な手など使う必要はない。今の北朝鮮には、悔しいから認めたくはないが、その様な振る舞いを感じざるを得ない。

日本はあまりに平和ボケしすぎた。アメリカは、あまりにも強くなりすぎて、少々無理を言っても世界が言うことを聞いてくれると勘違いし過ぎた。いつしか正論でものを考えられなくなり、ご都合主義的な振る舞いが宗教的な対立を煽り、気が付くと世界の人気者であると同時に嫌われ者でもある存在になってしまった。おのずと弱点が生まれ、北朝鮮はそこを突いてくる。何とも歯がゆい思いの毎日である。

当然ながら私に答えなどないが、少なくとも小泉政権の時はそんな北朝鮮から拉致被害者を何人か取り返すことができた。政権が強固になり、そこに有能なブレーンが集まってくれば、少なくとも一矢は報いることが出来るようになるだろう。しかし今の様な、どうせ馳せ参じても半年も持たずに討ち死にすることが目に見えてれば、有能な人は集まらない。出来ることから始めるとすれば、(それが困難なことは分かった上で敢えて言わせてもらえれば)まずは強固な長期政権を作り、有能な人材にとって馳せ参じることに魅力を感じる体制を築くことが重要なのだと思う。

早く、消費税問題には蹴りをつけなければならない。誰もがそこに明智光秀がいることに気がついている。それが誰かは言うまでもない。今は本能寺に立ち寄る余裕などないということを、北朝鮮を見ながら思い知るべきである。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

議論のたたき台としては「支離滅裂」ではない!

2012-04-11 21:57:50 | 政治
昨日、大阪市の橋本市長が原発再稼動に向けた8つの条件を提示した。

この条件には色々と意見があると思う。私個人の意見としては、提示の仕方と内容の一部に不満はあるが、背景にある考え方として賛同できる部分も多い。つまり、議論のたたき台として考えれば、十分にその土俵に上がる権利を有する内容だと認める。

詳細に中味を見てみよう。まず第1項から第4項までは、極めて妥当な当然の内容である。これに異論を唱える人は、殆ど議論をする気のない人々であろう。第5項には、原発から100キロ圏内の自治体と安全協定を結ぶことが記載されており、これは読みようによっては同意が得られなければ再稼動を認めないとも読める。所謂「拒否権」である。しかし、メリットがなければ迷惑施設である原発を喜ぶ人はいないので、(遠慮がちに見積もっても20キロ圏外の)経済効果や補助金などの財政支援がない地域では、同意など得られようはずはない。だとすれば、この条件がもし必須条件と位置づけられるのであれば、それは自動的に「再稼動反対」という位置づけになる。第6項に関しては、核廃棄物の最終処理体制の確立など、これまで長年かけてできなかったものが、数年で出来る訳がないので、これも必須条件であれば自動的に「再稼動反対」という位置づけになる。第7項の電力供給の徹底的な検証は、言うまでもない当然のことであり、これに異を唱え、情報開示を頑なに拒否する関電の態度は当然、糾弾されるべきである。関電は、何様のつもりか知らないが、電力不足の根拠をひた隠し、「大停電が起きるぞ!」とのブラフを仕掛け、チキンゲームでの勝利を狙っている。政府が相手であればそれで勝ち目はあるのだろう。私も個人的な予想として、やはり関西電力の供給量は、夏の需要を賄えずに(計画的?)停電することが実際に何回かは避けられないと予想している。更には、昨年の様な台風被害で水力発電が使用不能になったり、各企業の自家発電設備も当初想定していたテンポラリーな設備の利用と異なり継続的な高負荷を強いるので、所々で発電できなくなる設備が見られるようになるかも知れない。だから、正直ベースで全てのデータを出し切った方が関電としても都合が良いのだと思われる。しかし、それでも何故か情報開示を拒むのである。下衆の勘ぐりではあるが、どうしても公にはしたくない不都合な真実(例えば隠し資産や、関連企業の非効率経営による天下りOBへの利益の還元など)がゴマンとあり、なりふり構わずパンドラの箱を必至で押さえつけている姿の様に見える。本来は、政府もそのパンドラの箱のふたを開けるための努力をするべきなのであるが、すんなりとチキンゲームに負けて、一緒になってパンドラの箱のふたを押さえている状況である。このパンドラの箱は、国民の信頼を勝ち得るためにはどうしても開けてもらわねばならない。

最後の第8項については、説明を聞いていないので少し解り辛い。「事故収束と損害賠償など原発事故で生ずる倒産リスクを最小化すること」の意味であるが、ここでの事故収束は野田総理の言う「(都合の良い、便宜上の)収束」ではなく「本当の意味での収束」であろうから、除染作業などこの先何年もかかる作業などが全て終わることを条件としているように読める。しかし、それに続く「倒産リスクの最小化」とは、不確定な近い将来に対する準備を意味しているようなので、半年程度の期間を想定して倒産リスクの最小化の法案を成立させることができれば、それで条件をクリアできそうな気もする。時間軸のスケールが異なる話が混在していることから、「収束とその後の人災を防ぐための継続的な努力を惜しまない」という様に理解すべきなのかも知れない。

この様に考えると、ここでの8条件は少し整理して考えるべきではないかと思う。具体的には、「必須条件」として(1)~(4)及び(7)、短中期的な「努力目標」としての(8)、長期的な取り組みとしての(6)と位置づけ、必須条件をクリアすると共に、努力目標への誠意ある取り組みと長期的な取り組みへの確約及び体制明示が再稼動容認の条件とみては如何かと思う。ただ、残る(5)の扱いは議論の分かれるところである。

私の理解では、橋下市長は一方的に関電に「問答無用、原発は認めん!」と言っているようには見えない。だから、事故のリスクと有権者からの突き上げというデメリットしかない100kmも離れた自治体の首長達(もちろん複数)に対し、全ての首長が例外なく揃って同意するなどという有り得ない条件を突きつけているとは思えない。だとすると、私はこの条件を第7項の譲歩を引き出すための駆け引き材料ではないかと読んでいる。だから、この条項は例えば「半径100km県内の自治体より専門家を推薦してもらい、これらの専門家による検査・検証を行うことにより安全性を高める」と読み替え、その取り組みにより自治体の理解(同意)を得るとすれば、落としどころとして妥当な着地点を見いだせるのではないだろうか。

これに対し、藤村官房長官は橋下市長の言動を「支離滅裂」と批判した。もちろん、橋下市長も「関電も国も無視すればいい」と喧嘩口調で言ったそうだから、売り言葉に買い言葉なのかも知れない。また、「国がやっているのとは違う手順を(8条件案で)示した。有権者にどっちの手順を踏むべきか、選択してもらう材料として出す」とも橋下市長は語っており、批判的な論調としては「原発問題は国民投票的な考え方は適さない」として一蹴する評論家もいた。しかし、よく聞けば橋本市長は国民投票的な考え方を示唆してはいない。最終的には政治家が手続きを踏んで責任をもって判断するが、その手続きの方法、判断の基準としてはどうあるべきかについては国民が意見を言う余地(すなわち選挙)は残されるべき・・・と言っているのだと思う。

ひとつひとつ丁寧に見ていけば、一見、支離滅裂に見えるようでも、あくまでも議論の土俵にはなり得る提案なのだと思う。上っ面だけ見て入口のところで議論を拒否するのはフェアではない。少々乱暴な言い方をしないと何も変わらないだろうから、もう少し、政府も関電も謙虚な姿勢で臨むべきではなかろうか?

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

なんとかしてくれ、野田総理!

2012-04-10 23:38:00 | 政治
新聞を読んでいて、笑ってはいけないが笑ってしまった記事があった。鳩山元総理のイラン訪問で、予想通りにイランは鳩山元総理とアフマディネジャド大統領との会談で交わした内容を都合の良いように発表し、それを鳩山元総理が「捏造記事」と噛み付いているというものである。イランの大統領府ではホームページから発言の記載を削除したそうだが、それでも「(日本との関係を意識して削除には応じるが)発言だけは事実だ」と伝えているらしい。

別に敢えてブログに書くようなことではないくだらない内容だが、それでもここに思わず書いてしまった。何処かの新聞記事で1週間ほど前に読んだものの中に、米国の政府高官やマスコミの記者の間では、いまだに「ルーピー鳩山」神話が語り継がれているという。つまり、日本国内では無能な総理大臣の筆頭として菅前総理が位置づけられているが、国際的には鳩山元総理の無能ぶりにはかなわないということらしい。

自民党の安倍元首相によれば、永田町を駆け巡った噂として、メールマガジンで以下のような話を紹介している。それは、イラン首脳が「我々の核開発は平和利用が目的だ。トラスト・ミー!」と鳩山元首相に迫ったという。如何にもウケ狙いのデマであろうが、「ルーピー鳩山」ここにあり!とばかりの的を得たジョークだろう。政府サイドからは、様々な形でイラン訪問を思いとどまるように要請したそうだが、(自民党の山本一太議員の要請にあったような)羽交い締めしてでも阻止することまではしなかった。

鳩山元総理は帰国後の記者会見で「(イラン首脳とは)言葉は通じた!」と自らの行動に自画自賛だったが、イラン政府は鳩山元総理が「IAEAはイランなど特定国を不公平に扱っている」と批判したと情報発信し、やっぱりイランに利用されただけだったと思い知らされた。少なくとも、国際社会では性善説は通じないことをこの人は自覚していない。「友愛精神が足りない」と何処までも性善説を前提とした外交を主張している。ならば私は聞きたい。もし性善説が通じるならば、どうして北朝鮮が米朝合意の直後にミサイル発射により米朝合意を反故にするのか?もし性善説が通じるなら、どうして尖閣問題で船長を釈放した後も中国はフジタ社員を拘束し続け、船長の拘束期間の19日と同等の期間もの間邦人を開放しなかったのか?外交とは、狐と狸との化かし合いのようなものである。あくまでも、同一の価値観を共有する者同士が相手の善意を期待しうるが、しかし、それでも相手は国益最優先なのは当然であるから、何処までも気の抜けない細心の注意が必要なのである。

普天間の対応を見れば、鳩山元首相に外交担当能力がないことは誰の目にも明らかである。つい先日も、中国の次期国家主席とみられる習金平氏を訪ねて輿石幹事長が訪中した際に、時同じくして鳩山元首相も横槍の訪中をし、たったの20分間隔で個別に会談を行なっていた。自分のやっていることが、日本の国益に照らし合わせたときにどれだけ不利益なのかを理解していない。この様な人に、民主党は党の外交担当の最高顧問という役職を与えているのだ。総理を辞めたら引退すると豪語していた人が、引退を撤回するどころか延々と国益を損ねることに民主党は手を貸しているのである。どんなに言い訳しても、国際的にはその言い訳は認められない。このままでは日本そのものが「ルーピー」と言われかねない。

この事態を打開できるのは一人しかいない。それは野田総理である。民主党を除名するぐらいのことをしなければ、多分、国際社会は誤ったメッセージをそのまま受け取るだろう。いくら消費税増税法案で頭が一杯だと言えど、総理大臣の役割は国家の国益を守ることにある。こんな状態を許してはいけない。なんとかしてくれ、野田総理!

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

人はそれを「ダブルスタンダード」と呼ぶ

2012-04-09 22:12:55 | 政治
最近注目の話題として、原発の再稼働と北朝鮮のミサイル発射の問題がある。関係ない話題ではあるが、変なところでつながっていると感じることがある。

急に変なことを言い出したとお思いかも知れないが、憲法9条の改憲と原発の扱いには共通性がある。例えば共産党や社民党的な考え方の人は、揃って同様の考え方をする傾向がある。それは3.11前であればより顕著であったが、「憲法9条の堅持」と「反原発」は結構、セットで主張する人が多かった。あまり深く考えたことがなかったが、これは自己に都合の良い考え方の典型であり、明らかなダブルスタンダードである。

北朝鮮のミサイルの問題は、非常に危険な国が現実的に身近な隣国に存在することを思い知らされた。多分、北朝鮮そのものはそれほどでもないのかも知れないが、中国の軍備力増強の様子は、現在はともかく10年後の軍事バランスの崩れがアジア近隣に致命的な緊張をもたらすことを予感させる。どちらかと言えば同盟国に属する韓国ですら、竹島問題では日本との戦争を覚悟するかのような強気の発言も聞かれるぐらいだから、それ以上に過激な中国が、尖閣問題で強硬な態度に出るのは時間の問題だろう。そんな時に、集団的自衛権すらも行使できない日本の憲法9条の縛りは、ボディブローのように少しずつ日本を窮地に追いやることになりそうで怖い。もちろん、10年前であればここまで危機感を現実のものと感じることもなかった。軍隊などいらないと言うほどケツの青いガキではないが、もっと平和的な道を模索しても何とかなると感じていただろう。しかし、気が付けば日本を除くほとんどの国でナショナリズムに火が着きつつあり、平和的な外交の背景に、それなりの軍事的な裏打ちが必要な状況になりつつある。

そんな時、共産党や社民党的な考え方の人は口を揃えて、「戦争にならないような外交努力が必要である!」という。大いに賛成である。だれも戦争などしたくはないし、多分、アメリカとの同盟関係を維持する範囲では戦争にはならないだろう。しかし、戦争などは理性を伴った状態では所詮起こるはずもなく、どちらか一方が「キレた」状態で戦争に突入する。だから、保険としてその様な極限状態になったときにどうすべきか、そしてその最後の一線を思いとどまらせるためにはどうすれば良いかを考える必要がある。しかし、彼らに「もし、その様な状態になったらどうするのか?」と問えば、確実に彼らはこう答えるのである。「我々は、その様な戦争状態に至るかも知れないという立場には立たない。そうなる前に、外交努力で戦争を回避すれば良いのだ・・・」と。

これは何処かで聞いたことがあるフレーズである。原発推進派の人達が、「原発は安全である。我々は原発が危険であるという立場には立たない。様々な安全性をデータが示している。だから原発が爆発するなどということは有り得ないのだ。」と言い続けていたのに似ている。

そう、何処までのシビア・アクシデントを想定するのかというのは非常に重要なリスクマネージメントである。当然ながら、十分に対処できるか否かは別として、ありとあらゆるリスクが絶対に起きないとは断定できないという基準に立って物事への対応を準備しなければならない。この点までは、反原発を唱える共産党や社民党的な考え方の人達に一定の評価をしても良い。しかし、原発問題ではその時点で思考停止し、そのシビア・アクシデントに対する備えをどの様に確実なものにしていくかという議論のテーブルに付くことを拒否している。ちょっとでもシビア・アクシデントの存在を認めるなら、そっから先は議論するまでもなく「許せない!」というスタンスに立っている。しかしながら、憲法9条では外交努力だけでは解決できない極限的な事態というシビア・アクシデントの存在自体をも否定して、その事態への対応に備えることを拒否している。

明らかに矛盾した考え方であり、誰もこの様な考え方の人の言うことを真面目に聞く気にはなれない。だから、原発にしても憲法問題にしても、建設的な議論を進める上では、それが辛い現実であったとしても、シビア・アクシデントの存在を前提とした議論が必要なのである。

日本は既に、ダブルスタンダードでお遊びの議論をしていられる状態ではない。増税問題も同様であり、あらゆる課題に対して極限的なシビア・アクシデントとは何かを考え、それに対処する必要がある。脱原発も良いが、脱ダブルスタンダードにも心がけて欲しい。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

免震重要棟だけは絶対に譲れない!

2012-04-08 23:23:47 | 政治
先日もブログでふれたが、関西電力の大飯原発の再稼働の議論が佳境に入っている。テレビの番組でも議論されているが、全てを見ている訳ではないから分からないが、あまり建設的な議論がなされているような気はしない。

結論から言うと、私は現時点での再稼働は反対である。多分、関西に限れば、計画停電が1回や2回行われることを覚悟しなければならないだろう。日本経済への影響は深刻で、このために海外に逃げる企業が幾つか出てくることも本格的に覚悟しなければいけないかも知れない。それは、私が脱原発派だからではない。私は、寧ろ10〜20年程度かけた緩やかな脱原発依存派で、絶対にソフトランディングを目指すべきだと確信している。さらには、少々過激なことをいえば、各兵器は持たずとも、何時でも各兵器を持てる状況を維持するために、安全を完全に確保できる限られた少数の施設で、細々と原発の火を灯しながら、廃炉や最終貯蔵施設などのための研究を少なくとも50年程度は続けざるを得ないとも考えている。だから、10年程度したら再度、原発の限定的な新設もひょっとしたらアリかもしれないとすら考えている。

しかし、それでも大飯原発の再稼働には現時点では賛成できない。その理由はただ一つ、免震重要棟がないからである。私はてっきり、免震重要棟などは全ての原発に揃っているものなのだと確信していた。しかし、実は福島第1原発ですら免震重要棟が出来たのは東日本大震災の半年ちょっと前だったのだという。話によれば、2007年の中越沖地震の際に柏崎刈羽原発では様々な施設が壊れ、駐車場に臨時の対策本部を設置せざるを得なくなった教訓だという。それから3年でやと運用にこぎ着け、ギリギリ東日本大震災に間に合ったという。

現時点で、重要免震棟を持っているのは東京電力と浜岡原発の中部電力だけだという。しかし、その他の原発では免震重要棟を作ろうとはしなかった。島根原発などでは、今回の事故を受けてやっと平成26年度内の運用開始を目指して設置を判断したという。大飯原発では、中央制御室の中の会議室で対応するとしているそうだが、原子炉建屋の隣に位置して近すぎるのである。さらに、放射性物質の侵入を阻止する構造ではないだろうし、免震構造ではないから地震で建物に被害があれば、駐車場よりはましだが実際に対応できる体制を組むことなど出来る訳がない。

原発の安全を考えるとき、シビア・アクシデントを想定することが必須であるが、当然ながらその中にはヒューマン・ファクターの不確実性により、設計されたものが予定通りに機能できなくなり、思いもしなかった危険な状況に陥ることは想定しておかなければならない。如何なる危険でも起こりうるという前提に立てば、その様な危機的な状況でも対応できる体制だけは確保しておかなければならない。そのためには免震重要等は不可欠であり、これがない状況での原発運用は無保険車での車の運転に等しい。福島原発がチェルノブイリに至らずに、現状を保っているのはひとえに免震重要棟があったからに他ならない。この事実に異論を唱える人は一人もいないだろう。多分、免震重要棟がなければFukushima50の伝説など有り得なかったのだろう。放射線量を管理した作業をするためには、放射線から隔離された基地の存在は不可欠である。5キロ以上も離れたオフサイトセンターですら、たった5日で撤退を余儀なくされた。福島には第1、第2の両原発に多数の原子炉が存在するが、若狭湾はその比ではなく更に多くの原発が集中している。ひとつの原発が事故に合えば、その周辺の原発も同様に放射線被害に合うことになる。場合によっては、全ての原発から作業員が避難しなければならない事態も考えられる。余震のたびに女川原発でも部分的な電源喪失が繰り返されたが、短時間で復帰することが出来たのは、福島の放射線に汚染されずに作業員が原発に残ることが出来たからである。作業員が避難していたら、連鎖反応的に各原発で不具合が発生するかも知れない。若狭湾の原発が全て爆発したら、その時は日本の崩壊の時である。

その様な事態を回避するためには、免震重要棟はなくてはならない最後の切り札なのである。それなのに、予算が倍かかっても良いから速攻で免震重要棟を建設しようとしない電力会社は信用できないし、それを許す保安院などさらに信用できない。

せめて、「おいおい!」という合いの手ぐらいを打てる人でなければ、とても信用などできないのである。これで安全などと絶対に言えない。ましてや安心などほど遠い。判断をする人たちは、こんなことすら本当に気にならないのだろうか?だとしたら、それは相当常識を失った人なのだろう。まずは常識を身に付けてから、議論を初めて欲しい。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

失敗を恥じることと失敗から学ぶこと

2012-04-07 23:53:09 | 政治
先週号になるが、4/2号のAERAの記事に「SPEEDIは 欠陥品だったそもそも避難には役立たなかった」というものがあった。私はこれを読んで、つくづく考えさせられた。私の論点はこの記事にあるものとは全く違うところにあるので説明させていただく。

雑誌が手元にないので、まずは記憶を頼りに記事の内容を整理させてもらう。ただ、その前にこの記事の前に知り得た情報から順番に説明するので、少々、我慢して読んでいただきたい。

昨年の福島第一原発の事故の後、放射性物質の放出がどの方向・どの場所において深刻かを把握する手段として、文科省が管理しているSPEEDIというシステムがあることが話題になった。しかし、SPEEDIの存在は明らかなのに、計算結果の情報(つまり、危険な方向はどちらか・・・ということ)がなかなか出てくることがなく、やっと公開されたときには既に人々は誤った方向に逃げていた。この誤った避難の結果、逆に放射線をより多く浴びることになった人までいたかも知れない。その後、何故、文科省ないしは経産省はこの情報を隠したのかという話題がマスコミに取り上げられた。報道では、「シミュレーションに必要となるパラメータが十分でないために、正確な評価を行うことができなかった。計算は行なったが、その計算はあくまで適当なパラメータを仮定したものであり、その仮定が誤っていればその数字だけがひとり歩きした議論になることがあり、それを恐れて公表を差し控えていた・・・」という内容が当事者の弁解として取り上げられた。だったら、放射性物質の汚染状況を直接調べて、その結果との整合性がとれる初期パラメータを逆算すればよいだろ!と思ったら、それは既に3/15の段階で枝野経産相が関係者に指示を出していて、その結果が3/23頃に発表されたという経緯がある。しかし、その頃ドイツ気象庁からはSPEEDI同様のシステムで行なった評価結果が公開されており、文科省の手際の悪さが「情報隠滅」を疑わせるものであると批判された。

今回のAERAの記事は、そのある部分で何が起きていたかを解説する記事である。まず、SPEEDIの計算に必要な初期パラメータは、福島第1原発にて自動で収集され、それがSPEEDIのもとに送られてそのパラメータを用いて演算をする構成になっていたのだという。しかし、地震などでそのデータを収集・転送する機能が壊れてしまい、手も足も出ない状況に陥ってしまった。AERAではこれを「SPEEDIシステムの根本的な欠陥」としてダメ出しをしてる。そんな役に立たないものに大金を投入して、全くの無駄だったと・・・。

しかし、この話を聞いて私は納得ができた。地震の影響で、初期パラメータである放出源データを収集・転送する機能が壊れ、SPEEDIの担当者は多分、焦ったのだと思う。なぜならば、(私も気象情報を気にしてテレビを見ていたから覚えているが)当時はそれなりに時間とともに風向きがくるくる変わっていたので、風向きがどの向きの時に放射性物質が大量に放出されたのかが分からないと、計算結果は思い切り違ったものとなる可能性が高い。重要なのは、総量としてどれだけの量が放出されたのかではなく、最も大量に放出されたのはどの時刻かである。多分、最も大量に放出されたのは水素爆発時、3/12のベント時でもなく、一般には3/15であると言われている。2号機のサプレッションプールに異常が見つかった日である。この日のどの時刻に大量の放射性物質が放出されたかを見切らないと、実際の周辺地域の測定データと計算結果に乖離が出て、SPEEDIがダメダメ・システムと烙印を押されかねない。絶対に正しい、公表しても大丈夫と判断できるまでにはそれなりの時間がかかったのは理解できる。

そしてもう一つ、政府が設定した同心円状の避難地域の是非についても、少なくとも初期段階においては妥当だったのかも知れないということも分かった。我々がニュースで知り得た気象情報は大雑把なものだったが、実際の気象条件は結構激しく風向きが変わっていたという。だから、初期パラメータ収集のための装置類が壊れた時点で、「測定データが揃うまでは、SPEEDIデータは当てにならないから、まずは同心円で避難しなさい!」という決断は、結果的に正しかったことになる。もちろん、正しいのは「同心円」という部分のみで、あの時の避難区域の設定が余りにも狭く、しかも後手後手に回っていたことは致命的な問題である。ベントのリスクがある時点で、3/11の内に避難指示と目標、半径50km以上という程度の情報は伝えるべきであっただろう。多少のパニックは覚悟するが、福島程度の人口密度であれば、何とか乗り切れる範囲だと思う。また、遅くともSPEEDIデータが公表された時点、ないしは本来であればSPEEDIで逆算を行う際に用いる周辺地域の汚染データが入手できた時点で、速やかに同心円の避難からいびつな形状の避難地域に切り替えるべきだったが、これも大分遅れて設定されることになった。またベント実施時には、一時的に屋内退避を指示することも必要だったかもしれない。

この様な対応が後手に回る理由はどこにあるのか?多分、100億円以上を投じたSPEEDIというシステムが有益なものか無益なものかの議論が沸き起こるのを恐れたために、自らの計算結果に自信が持てない人たちが、公表することを躊躇していたのが第1の原因だろう。また、調べてみると、3/15日頃を境に、SPEEDIを用いた評価の管轄が文科省から原子力安全委員会に移ったとも言われている。本来であればきっちりとした引継ぎを行い、継続的に評価を行なっていれば、SPEEDIデータの公表は速やかに出来ていたのかも知れないが、あまり積極的な公開を希望していなかった担当者が、積極的に引継ぎを行おうとしなかったのも容易に予想できる。このため、原子力安全委員会が積極的にSPEEDIを活用しようとしだしたのはしばらく経ってからだったという。このタイムロスが公表の遅れをさらに招く原因となった。結果として、何も失うももなければ引継ぎの必要もないドイツ気象庁の方が、お膝下の日本よりも早く公開をすることが出来たのかも知れない。

なお、以下の情報は裏が取れていないので真偽は分からないが、せっかくだから触れておく。地震の影響で、初期パラメータである放出源データを収集する機能が壊れたことはAERAの記事からも明らかであるが、噂では壊れたのは「測定されたデータを自動転送する機能」であって、「情報を測定・収集する機能」は生きていたとも言われている。この情報を、自動転送する装置に代わり、メールであれば転送することが可能であり、実際、それらのデータは関係機関にメールで送付されていたが、その様な情報をメールで受け取ることを想定していなかった故に、そのデータを生かすことが出来なかったとも言われている。この情報が本当はSPEEDIの担当者に届いていたのか・いなかったのかで、様々な評価は変わってくる。本当のところはどうだったのだろうか・・・。

以上、長々と書いてきたが、最後が私の結論である。私も技術者の端くれであるから、SPEEDIの様な大規模なシステムの開発に携わっていた人達は、イザ事が起きたときに自分達が想定していなかった事態に直面し、「失敗」に気づくことになる。しかし、技術者として言わせてもらえば、その様な失敗はいつでもつきものである。だから、その様な失敗を恥じるのではなく、その失敗から学ぶことに心がけなければならない。そしてマスコミも、その様な失敗をつるし上げるのではなく、その失敗から学んだ教訓も合わせて報道すべきである。その教訓の積み上げが、次の世代の安全に役立つのである。その点でAERAの結論には私は不満がある。

現在は技術者とマスコミがピリピリした過剰な緊張関係にあるような気がする。政治の世界では当たり前であるが、多くのマスコミは政府のやることを決して評価しようとはしない。評価できる心のゆとりが生まれるまでには10年はかかるだろう。仮に政治の世界ではそうであっても、技術の進歩にその様な時間は待てないのである。失敗を自ら公表できるような環境整備も合わせて求められているのかも知れない。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

小田嶋隆さんの記事「レッテルとしてのフクシマ」に思うこと

2012-04-06 23:06:01 | 政治
ブログを書き出してから、以前にまして色々なエッセイ的な記事を読み漁るようになったのだが、その中には思わず膝を叩いてしまうようなことも多い。既に2週間ほど前の記事なのだが、いつかコメントを書こうと思っていた記事のひとつに小田嶋隆さんの「ア・ピース・オブ・警句」の3/23の記事「レッテルとしてのフクシマ」がある。これまたユーザ登録をしないと読めない記事だと思うので、上澄みだけの抜粋をもとにコメントしたい。

この記事では、福島原発事故に関する過激なメディアの扱いと、南京事件に関する中国のエスカレートした対応を比較し、その類似性を語っている。

福島原発事故に関する過激なメディアの扱いとは、私のブログでも何度か話題にさせて頂いた自由報道協会代表の上杉隆氏の以下の記事に対することである(補足であるが、私は上杉隆氏の活動の半分以上を高く評価している。しかし、時折、頭を傾げざるを得ないことがあるのも事実である。だから、目の敵にしている訳ではないが、たまたま私の心を打った「レッテルとしてのフクシマ」の記事に実名で取り上げられていたので名前を伏せずに書かせていただいた)。

Zakzak記事
【原発崩壊】“放射能汚染”の真実…福島、郡山市に人は住めない

まず、小田嶋隆さんは自分の記事の中でも言っているが、自分は脱原発派で、脱原発のために有利なデータはむしろ歓迎したいというスタンスを取っているが、その彼にとっても脱原発のために「フクシマ」を利用し、過激な「とてもではないが、人が生活できるような数値ではない」「福島、郡山市に人は住めない」という表現を使って先鋭化することを危惧している。ちなみに上のZakzak記事を読めば、福島市役所前の空間線量は上杉氏の測った(多分、彼らにとって都合の良い)数値で1.8マイクロシーベルト、上杉氏から見れば大本営発表と見なしている福島の地方紙2紙に掲載された数値で0.6マイクロシーベルトである。この手の議論においては、双方が大本営発表的なお互いにとって都合の良いデータである可能性が高いから、郡山で生活していれば常に1.8マイクロシーベルトを24時間浴び続ける訳ではなく、場所によってはそれ以上の場所もあるが、24時間、365日で平均化した場合にはその大本営発表よりも大分低い値になることが予測される。しかし、その1.8マイクロシーベルトを単純年換算した値ですら15.8ミリシーベルトであるから、IAEAの基準値1~20ミリシーベルト/年に対して極端に「人が住めない場所」には当たらない。

もちろん、子供のことを考えれば安全側の判断をするのは妥当だと思う。もし仮に私がそこに住んでいたら、きっと子供を避難させただろう。しかし、リスクというのは世の中にたった一つではない。例えば、交通事故死者が毎年数千人に上る状況であっても、そのリスクよりその利益の大きさを評価して、現在は車社会であることを誰もが疑問に思わないのである。だから、「仲間を残して一人だけ避難した罪悪感から鬱病になるリスク」、「仕事のために夫だけ残り、子供と奥さんを避難させることがきっかけで、気持ちのすれ違いがもたらす家庭崩壊のリスク」、「高齢者だけを残して避難することで孤立死を招くリスク」など、様々なリスクがある。精神的なストレスが癌の発症確率を高めることは知られているから、その放射線量次第(例えば年間5ミリシーベルト以下が期待できれば)では「敢えてそこに残る選択」と「避難する選択」の両方が検討対象となってしかるべきである。

以前のブログ「『冷温停止状態』宣言と心の通う政治」でも書いたが、野田総理の終息宣言には問題はありまくりだが、一定の条件を満たす範囲で「そこに住むか避難するかを選択する権利」を認めらる環境作りを狙った点は評価できる。宣言の内容は見直すべきだが、ある種の宣言が故郷に帰れる道筋を切り開き、住民の立場に立って選択肢を増やしたという意味で喜ばしい。それでも避難し続けたい人に「故郷に帰りなさい」と言っている訳ではないのだから・・・。

この様な意味で、「人が住めない場所」との一方的なレッテル張りは、フリーランスの記者が取りがちな、生存戦略としての過激記事と見られても仕方ないだろう。対立する二つの立場が歩み寄って議論することが出来ない時、往々にして「相手がアンフェアだから、こちらもアンフェアで対抗する」というエスカレートが発生し、かくして事実やデータを恣意的に捻じ曲げることに罪の意識がなくなる。気が付けば、ふたつの立場は精鋭化して、その他の人々がもはや関与できないほど醜い争いとなり、事実とは程遠い「原発事故など本当は大したことがなかった」とか「原発事故で実は何十万人も死んだ」とか、思わず笑ってしまいそうな議論が10年後にはまことしやかに語られるのかも知れない。実際、チェルノブイリではそれに準じるぐらいの言い分の差があるとも聞いている。小田嶋隆さんは、それが「南京事件」に似ていると語っているのである。思わずうなずいてしまった。南京事件で無茶なことを言う中国人には呆れるばかりだが、しかし、あながち倫理観の乏しい中国だから・・・と納得することはできないのかも知れない。日本にも同じような事態を導く危険性が十分にあるのである。

この南京事件とは全く関係ないが、実は昨日の産経新聞に次のような記事があった。

産経新聞2012年4月5日
青森の雪で遊ぶ行事中止 那覇で反原発団体が主導 がれき受け入れ反対運動も

福島から遠く離れた青森の雪を沖縄に届けて、雪を知らない沖縄の子供達に楽しんでもらう予定が、東日本大震災後に首都圏から避難した人らの反対で中止になったという事件が2月にあった。この事件を主導したのが、首都圏から避難した反原発団体のメンバーだったという。報道によれば、多分、過去に多くの核実験を行なった中国に近い沖縄の方が、現在の青森よりも空間線量は低いという。しかも、雪自体も測ったが異常がなかったという。この事実は彼らにとって都合が悪いから、「子供に万一のことがあったら責任を取ってくれるのか」と精鋭化したアンフェアな主張で攻撃を行い、雪に含まれる放射性物質のリスクと雪に親しむ子供の楽しみを天秤にかけ選択する権利を、強引に奪い去るのである。当然ながら、彼らには自分達の子供をその雪で遊ばせない権利も保証されているし、空間線量の高い沖縄を避けて、原発事故を考慮してももっと空間線量の低い場所に避難する権利も保証されている。

南京事件や慰安婦問題についても、何故か日本人の中に、多くの日本人にとって耐え難い方向に事実を捻じ曲げて誇張し、精鋭化する人がいたのは事実である。もちろん、逆側に日本は何も悪くないと開き直る方向で精鋭化する人もいる。今回の原発事故を過剰に過激に危機感を煽る人達は、多分、気が付くと近隣諸国の「日本製品(農産物から工業製品まで)を陥れてやろう」「日本に行く旅行者を自国に誘致しよう」という下心を持った人達が、「日本は相当ヤバイらしい!」「死にたくなかったら日本と縁を切れ!」というこれまた精鋭化することに手を貸すことになるのかも知れない。その時、彼らはほくそ笑むのだろうか?

事実を隠蔽しようとする人がいることは大いに認めよう。ただ、それをもって自らのアンフェアな発言も許されると勘違いすることは、少なくともジャーナリストという自負を持っている方にはやめて頂きたい。そして、反原発団体の人には、原発事故で苦しんでいる人を見て、ほくそ笑んで隠れてガッツポーズをとるような行為も謹んで頂きたい。

まあ、言われて止めるなら最初からやらないのだろうけれど・・・。まさか、本当に「フクシマ」が「南京事件」と肩を並べて比較される日が来ないことを祈るのみである。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

「安心」のコスト、「安全」のコスト

2012-04-05 23:49:02 | 政治
ここ数日、福井県の大飯原発の再稼働の動きが話題となっている。枝野経産相の発言の中でも「現時点では反対」とか、「準備ができていないから賛成ではないと言っただけ」とか、あまり本質的ではないところでマスコミも踊らされている。今日になって、主要4閣僚が集まり暫定安定基準を大筋合意との報道もあり、やはりこの人達も本質を見失っていることを思い知らされた。

では本質とは何か?私は多摩大学大学院教授で元内閣官房参与の田坂広志氏が常に言い続けている、極めてシンプルな要点に全面的に賛成する次第である。例えば、Diamond onlineに掲載されている『政府は、福島の人々の「心理的被害」を直視せよ―「被曝された方々は、生涯、重荷を背負うのです」』という記事などで読むことができる。こちらが登録が必要な記事なので、極めて上澄みのポイントだけをかいつまんで説明する。

それは、福島原発事故の捉え方として、『「健康的被害」や「健康的リスク」』と『「心理的被害」や「心理的リスク」』に分けて考える必要があるということである。言い換えれば、「安全」と「安心」とは分けて考える必要があると言うことである。

少し噛み砕いて説明すると以下のような意味である。例えば徐染ひとつとってみたとき、専門家の中でもどのレベルが安全と言えるレベルであるかは意見が分かれるところである。数学的に有意な統計データとしては、累積被爆量100ミリシーベルトで癌の発生確率が0.5%程度増加するというところであり、生命の免疫機能による染色体などの被害の補修効果などを考えると、大人であれば年間5ミリシーベルト程度であれば安全であると言う意見はそれなりに妥当な落としどころであるかもしれない。何といっても、余りにも汚染された面積が広いから、徐染のコストパフォーマンスで考えれば、ある程度以下の放射線量レベルであれば、目を瞑りましょうというのは、理系人間としてはついついうなずいてしまう。しかし、今、何をやっても政府のやることは信用してもらえないのである。信用がなければ安心は生まれない。

リスクというものは、単純に学術的ないしは技術的に規定できるものではなく、あくまでも技術的な「安全」と精神的な「安心」の双方に関連して規定されるものである。例えば、体調不良で「自分は癌ではないか?」と心配して病院に入院した患者にとって、医者が白々しく「検査したが悪いところは見つからなかった」と言っても、それを信用できなければ精神的にめいった状態で、体調は良くなるどころかどんどん悪くなることも十分に有りうる話である。医者が本気で患者を快方に向かわせようと思えば、まずは患者との信頼関係を築き上げ、そのもとで「大丈夫だ!」と伝えて精神的な安心を導く必要がある。信頼というのは、一旦失うとどんどん雪崩を打って信頼が崩れていく。一方、一旦信頼を勝ち取れば、後は何をやっても上手くいくことが多い。であれば、早い段階で信頼を勝ち取るために「コスト」をかけた方が、信頼が失われ切ってからかけなければならない「コスト」よりも安くつく。そして、その「信頼のコスト」「安心のコスト」は予想以上に高いのである。だから、既に信頼が地に落ちた状況であるかも知れないが、「菅前総理と海江田元経産相は信頼できなかったが、野田総理と枝野経産相なら信頼できるかも知れない」という淡い期待が少しは残る中で、再度、信頼を地に落としてはいけないのである。その方が、よっぽど高いコストを払う必要に迫られるのである。

数日前の報道ステーションの中で、元福島原発勤務の東電社員OBが原発の是非を語っていた。今から20年ほど前、福島原発では海水が漏水し、地下のタービン室が水に浸かり原発が停止したことがあったそうだ。番組内では正確な日付まで語っていた。相当、ショックを受けたのだと思う。しかし、東電はその事実を黙殺し、「津波に襲われたらその時と同様、ないしはそれ以上の事態になる」ことは把握していた故に、シビアアクシデントとして津波を想定から外し検討対象外に追いやっていたのだという。多分、これは真実だろうし、その様な人には言えない事態はそれ以外にも多数存在するのであろう。そして、その様なことを国民の多くも薄々感づいて、信頼を失ったのだと思う。

だからこそ、如何にも現場の何たるかを知らない、あくまでも机上の検討をコネ回したような結果としての「暫定安全基準」などに安心はできないのである。そして、この様な「安心」を全く無視して政府は好き勝手にやっていると思われたら、「取り敢えず、世論調査を受けたら『反原発』と言っておこうか・・・」ということになってしまう。「安心」を伴わない「安全」は実効的には意味がないのである。まず議論できる状態にするために、政府は最大のコストをかけなければならない。そのコストとは、急がば回れという、一見、遠回りのように思えることを厭わない努力である。電力会社が嘘をついていたらどうする?とか、シミュレーションに都合の良い条件を想定していたらどうする?とか、脱原発論者が心配している論点を一つ一つ潰すためにはどうすればよい?とか、そのようなことに前向きに取り組むのである。浜岡原発では18mの防波堤を計画していたが、最近の研究では3連動地震が起きれば21mの津波が押し寄せると推定された。もし仮に最初から24m位の津波に耐えられる設計をしていたら、多分、少しは信頼に近づけたのだと思う。それにはコストがかかるのだが、21mと言われて慌てて21mに設計を変えても、かけたコストに見合う安心など得られないのである。

原油価格が高騰している現在では、試算によっては原発を停止すると年間3兆円のコストが燃料代としてかかるという。多分大げさな試算だが、それだけ毎年かかるなら、想定の1.5倍の高さの防波堤でもペイできるはずである。それは既に「安全」のコストではなく、「安心」のコストなのだろう。しかし、それが今、求められているのである。

枝野経産省の「現時点では反対」という発言を聞いた時、私は最大限に安心を重視する国民の立場に立った議論をするという宣言をしたものと勘違いした。もちろん、コストとはお金をかける事を単純には意味しない。時間もかけるし、人手もかける。多分、泊原発が停止する前に安心を勝ち取ることはできないだろう。しかし、この先何年も計画停電を続けるわけにはいかないのであるから、早めに急げば回れの精神で取り組まなければならない。

政府は、机上検討を重ねる専門家の語る「安全」ではなく、「安心」にもっと気を配るべきである。そして、その「安心」のコストがこれ以上高騰する前に、先に行動を起こすべきである。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

正社員化とワークシェアリングのための方策

2012-04-04 22:18:48 | 政治
4月に入り数日が過ぎた。一昨日、テレビで新入社員の入社式の話題が取り上げられる中、(もう既に報道されてから大分時間が経つが)国家公務員の新規採用を56%減に抑えた問題に対する政府への非難が再度話題にされるようになった。言うまでもなく、民間企業であれば人材は企業が生き残るための財産であり、特定の年度の年齢構成がいびつになる事は、危機管理的な観点からも「最後の最後の奥の手」と位置づけられている。大企業ほど、その様な対応を取らないのが常識であり、ましてや日本国の命運を大きく左右する官僚の人材問題は、国家として死活問題であるべきである。既に官僚である既得権益だけに目をむけ、これから職に就くことになる若者から職を奪う、あまりに短絡的な、非常に愚かな判断と言わざるを得ない。

この問題は、非常に単純なのでここまでで話を終えるが、これを発端として議論したい問題がある。それは、非正規労働者の正社員化とワークシェアリングの問題である。

日本経済の停滞の背景には、非正規労働者の増大も少なからず関係している。原因と結果のどちらが先かという話はあるのであるが、バブルの崩壊以降、各企業は景気や需要の波のリスクを回避し、且つ、経費削減の意味を込めて多くの業務をアウトソーシングすると共に、派遣の非正規労働者を多く登用するようになった。これらの非正規労働者の賃金は正社員と比べれば大幅に低いから、所謂ワーキングプアと呼ばれる人達が増え、結果的に財布の紐が硬くなることで景気が減速する。

統計によれば、現時点では1/3が非正規労働者であるらしい。1700万人とも言われるこれらの人材は、企業にとっては極めて都合の良い存在であった。例えば、同じ仕事をさせても非正規というだけで、時間単価を大幅に引き下げることが出来る。景気が悪くなり、需要が減った時には正社員の首を切るのは大変だが、派遣であれば契約を解除(ないしは継続しない)するだけで、雇用調整が図れてしまう。逆に景気が良くなっても、正社員を多く雇うと後が危険なので、どんどん非正規労働者の人数は増えることになる。

この非正規労働者の多くは、厚生年金に加入していないことが多く、厚生労働省では国民年金のみの第1号被保険者を厚生年金に加入する第2号被保険者に切り替えるための対策を練っている。私の理解では、ここでのアプローチは、ある種の条件を満たすと労働者が希望する限りにおいて、実効的に正社員(無期限労働者?)として扱うというものである。正社員であれば、単に首を切りにくくなるだけではなく、厚生年金を企業側が払わなければならなくなるので、企業にとっては正社員と派遣による非正規労働者のギャップは大きい。これが企業に対して義務化されるわけであるから、企業としては嫌々ながら対応することになる。しかし、もし正社員にしたくなければ、その所定の条件を満たさないように運用すれば幾らでも逃げ道を作ることが出来る。そう、例えば契約を4年半までにして継続しなければ良いのである。しかし、この様に5年に満たないところで契約を更新されない社員からすれば、新しい制度が導入されなければ働き続けられたのかも知れない。つまり、その制度の導入により首を切られる労働者が生まれる訳である。

専門家ではないので細かいところまでは考えてはいないが、やはりこの様な制度の考え方として、アプローチの考え方を見直すべきではないかと思う。例えて言えば、勉強嫌いな子供に勉強させるために、勉強しなかった場合のペナルティを用意し、ムチを持って監視し続ければ勉強するかといえば、そうは上手くは行かないのである。何とか隙を見て、怠けようとするのが人の常である。抜け道を探す能力は、誰にでも備わっているのである。しかし、その勉強を子供が興味を引くような教材を用いて行なったらどうだろうか?例えば、理科嫌いの子供に米村でんじろうさんの様な先生が面白い実験を見せながら、「この面白い現象の背景には、この様な原理があるんだよ!」と教えたならば、我先にと勉強に取り組むようになるかも知れない。つまり、罰則の様なもので縛るのではなく、何らかのメリットを感じるような仕組みを作ることで、向かわせたい方向に向かわせるように仕向ける工夫が賢いやり方である。

例えば、節電しない者にペナルティを与えるルールを作っても、中々節電をしようとは思ってくれないが、電気料金が値上がりすれば誰でもこぞって節電をするのである。同じことが、非正規労働者問題に対して適用できないだろうか?

そこで提案である。何でもかんでも税金を持ち出すのは宜しくないかも知れないが、非正規労働者税というものを導入してみては如何だろうか?具体的には、ある労働者を正社員として雇った場合の厚生年金の企業負担分の20%程度(例)の税金を雇う側(派遣社員の受け入れ側)の企業に課すのである。今現在でさえ、様々な企業にてやる気のある有能な社員の正社員化の検討をしているところが多いが、その様な動きを加速化させる効果が期待できる。また、ここで集めた税金は、契約期間が不安定な派遣労働者の雇用のない期間の補償や、年金の上乗せ分として利用しても良い。

さて、どんどん話を進めてみよう。同じような考え方は、他にも応用がきく。ワークシェアリングを推進するのにも使えるかも知れない。例えば、勤務時間が1日に7.5時間を超える分には、実際に超過勤務分に賃金が払われるか払われないかに係わらず、その人の時間単価の20%程度(例)を超過勤務税として徴収するのである。この税率を上手く調整すれば、少ない人間で超過勤務しながら仕事を回すより、社員を増やしてワークシェアリングした方が割安となる。社員を雇えば研修などを行なう必要があるが、徴収した税金を元手に社員研修によるスキルアップに補助金を出す制度にすれば、社員のスキルを底上げして大人数で仕事を分散化することが可能になるかも知れない。もちろん、特別な能力を持った少数精鋭の企業などは、課金されても平気で長時間勤務をさせるだろうから、それはそれで構わない。あくまでも強制するのではなく、自由裁量の中で狙った方向に全体を導く方法を模索するのである。

相当な空論を語っている自覚はあるが、議論のたたき台ぐらいにはならないかと思い、提案を行なってみた。如何だろうか?

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

自民党が示す「政治のあり方」とはどんなものか?

2012-04-03 23:55:04 | 政治
昨日のブログにて、「対案出さざるもの、議論に参加する資格なし!」の原則について提案した。さて、現在のボールは自民党側にあると思う。民主党側はもめながらも法案を取りまとめ、閣議決定までこぎつけた。では自民党はどうするのか?

ネットで調べる範囲では、消費税増税法案の具体的な文案は出ていないので、何か修正協議をするとしても何処に論点があるのかは解り難い。巷で言われている景気弾力条項と追加増税条項や、それ以外にも税を何に使うのかという使途を書くか書かないか程度のみが議論の対象というのであれば、それらはあまり本質的ではない。だから、自民党が対案を出すとしても、それほど大きな違いにはならないのだろう。景気弾力条項をどのような形で着地させるかは微妙なところであるが、どうしても数値の記述にこだわるなら、民主党が法案本文に数値を入れろというのに対し、付則の中に数値を移動してしまえば、数値目標記述が与える影響を最小化できるだろうから、落としどころとしては最初から見えているような気がする。

だから、自民党には議論に応じないという選択肢もないし、対案や修正案にもそれほど選択肢がない。多分、税と社会保障の一体改革と豪語していた民主党だから、ここで議論すべき内容は消費税増税議論ではなく、むしろ社会保障に対する考え方の方なのだろう。4月1日の産経新聞の中で、自民党の石破茂氏が学生居酒屋で記者と交わした会話が記事になっていたが、この中でも彼は『社会保障をどうするか』『景気をどう回復するか』などの議論が足りないと語っていた。どう考えても、年金の国庫負担増加分や社会保障費増などへの財源がないことは明らかだから、消費税増税自体は早々に決めてしまい、その先に待つ年金や社会保障に対する考え方に対する対案を積極的に出し、それを議論することで民主党との違いを見せつけるべきなのだと思う。つまり、民主党内では実効的な対案すら出さずに長時間にわたり議論を浪費し、一方の自民党は求められてもいないのに社会保障に関する対案までも出すという違いをみせるのである。

自民党の茂木敏充政調会長がテレビで前原政調会長に、「追加増税条項を削除するなら、最低保証年金などの税と社会保障の一体改革の財源の前提が崩れるから、最低保証年金などを取り下げるべきだ」と迫ったが、自民党が掲げる現行制度の見直しであれば政策的には「追加増税条項」は必要条件ではない。だから、別にこの時点で最低保証年金の取り下げの同意を民主党に求める必要などはない。矛盾している点を指摘するだけで十分であり、無理に対立をあおり民主党の足を引っ張っている印象など与える必要などないのである。

谷垣総裁などは、法案に賛成する前提条件として「解散の約束」「小沢切り」「輿石氏が党内をまとめる」の3条件をあげているが、ここまで強行な姿勢を見せる小沢陣営だから、法案の採決時には反対ないしは棄権をせざるを得ない。首相が政治生命をかけるとまで明言した法案に造反したのであるから、結果的に除名処分は免れないから「小沢切り」とはそもそも約束を求めるべきものではない。「輿石氏が党内をまとめる」についても、言わなくても最大限の努力をするのは明らかで、それでもまとまらなければ民主党の支持率が落ちるだけだから、これまた約束をするものではない。最後の「解散」権は首相の特権であるから、これを縛ることはまず不可能だろう。仮に約束するとしても、私が首相なら「解散を宣言する前に絶対に身内にも情報を漏らさない」という約束を党首間の1対1で交わせない限り、絶対に約束などできない。逆に言えば、相手の党首だけには約束をしても良い。既に約束済みかの様な報道もあり、これまたあまり騒ぎすぎると裏目に出る。だから、自民党はこんなことで揉めれば揉めるほど、自らの首を占めることになる。自民党の中で森元首相の主張が最も筋が通っているというのは不思議な現象である。

民主党のマニュフェスト違反など、今更言わなくても誰でも分かっているのであるから、相手に対するネガティブキャンペーンを行うのではなく、ポジティブな対案と政策本位の議論で勝負しなければ、自民党の支持率など上がる訳がない。先の産経新聞の石破氏の記事にはうなずけるところが多い。大阪維新の会は「政治とはこうあるべきもの!」というものを示している。別に維新の会ほどラディカルな事を言う必要はない。自民党の唱える「政治とはこうあるべきもの!」を是非とも示して欲しい。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

「対案を出さざる者、議論に参加する資格なし!」の原則の提案

2012-04-02 21:49:12 | 政治
先週、老人ホームに入居中の足腰の弱った父を旅行に連れ出していて、ニュースも見ずに旅行から帰ってきたら、政治の方の動きが激しくて浦島太郎状態になっていて驚いた。

確かに、野田総理は年度内の閣議決定を宣言していたこともあり予想できた事態であるが、国民新党の分裂と小沢一派の政務三役の辞任などは、本来の天王山は衆院本会議での採決時だと思っていたので、予想外に早い動きだと感じている。間違いなく、衆院での採決時には民主党内に大量の離党者が出て解散に追い込まれるのは必然の流れだろうし、その結果の選挙では民主も自民も過半数には至らず、大きな政界再編となる事は誰の眼にも明らかだろう。

しかし、その時に私が恐れるのは(新連立与党は)「本当に政策で一致することが出来るのか?」ということである。

と言うのも、たった8人の国民新党ですら一つにまとまれないというのは、政治家の質の劣化を思い知らされた感じだからである。これからの政治の世界では、有権者に辛い政策を訴えて勝ち残れる政治家が求められるのである。だから、増税、年金、社会保障制度、原発問題、少子化対策、TPP、議員定数削減、公務員の給与削減などなど、ただでさえ自分の支持者層次第で意見の割れる政策が目白押しなわけで、そのような中で党としてどうやってまとまって行くかというのが重要な鍵を握る。連立政権を組むにしても、連立与党内の全てでANDが取れる政策に対してのみ合意すると言うのであれば、殆どの痛みを伴う政策は進めようがない。しかし課題は山積し待ったなし状態である。

ことの複雑さは以下の例からも理解できる。例えば、A、B、C(例えば民主、自民、公明)という3つの政党が連立を組み、AとBはCに対して圧倒的な多数を誇るとする。そして、ある政策に着目した際に、多数派のA党、B党の中ではそれぞれ僅差で政策推進派が多数派となるが、C党では大半が政策慎重派だったとする。A、B、C党の合計で見れば政策慎重派が多数派となり、連立政権としては慎重な判断をすべきかも知れないが、主流派のA党もB党も政策推進で党としての判断を行っている。この様な時に、何が大儀かはどの様に判断すべきだろうか?

この様な不確定要素が強い場合であっても、以前であれば正式な手続きを経た政党の判断には従うという大人の対応をするのが常識であった。小泉政権では、大人の対応を拒否した議員は党を追われ、多くの議員が辛酸をなめるに至った。しかし、いつのまにか世間の常識は変化し、「言った者勝ち」が浸透するに至った。国民新党の例は良い例である。こう考えると、総選挙後に民主党の現主流派勢力と自民党内の改革派勢力とを中心とした集団が連立を組んだとしても、これまでの経緯を無視して政策をひとつにまとめ上げることが出来るのであろうか?それが心配なのである。

国民新党にしても民主党にしても、安易に分裂に走る理由は簡単である。そう、意思決定のシステムが確立していないのである。自民党は長い歴史を持つが故に、明確な手続きが規定されており、何かを決めようと思えば決めれる体制がそれなりにある。しかし、寄り合い所帯の民主党は、本質的に党内での少数派に配慮した緩い結合を志向するため、厳しい決断には不向きな政治集団である。だから、政界再編後であっても現在の悪しき文化を長々と引きそうな気がして怖い。

では、そんな状況を回避するにはどうすべきであろうか?そう、答えは簡単で「対案を出さざる者、議論に参加する資格なし!」の原則を徹底することである。

例えば、消費税増税に関しては、一見、増税賛成派に対する対案は「景気弾力条項の追加」の様に見える。また、「無駄遣いの削減」や「行政改革先行」などを対案と主張するかも知れない。しかし、これは明らかな間違いである。まず、最初に現状に対する課題があり、その課題を解決するための案として増税案が提示されている。課題は財政破綻の回避であり、この課題を解決できる法案か否かが判断材料である。であれば、実効的に「増税をしないことを宣言する法案」では課題を解決することが出来ないのであるから、数値目標を必須条件とする景気弾力条項は明らかに対案とはなっていない。「無駄遣いの削減」や「行政改革先行」などは、課題を解決する手段として「増税」とは対立・競合する関係にはないので、それらの政策は同時並行的に議論することが可能であり、そちらの議論を進めながら最終的に進捗度を見ながらどちらを先に実施するかを議論するのは構わないが、一方が出来ていないから他方の足を引っ張るというのは筋違いであり、やはり対案にはなっていない。この様な視点で見たときに、マスコミや専門家が十分に「対案」と評価できるだけの提案をしたものだけが、発言権を得る仕組みにすれば良いのである。そして主要な新聞社を中心とするマスコミには、それぞれの立場で「対案」認定を公表し、それらの評価結果を参考にして各政党の中枢の役員は議論の交通整理を行えば良い。多くの足を引っ張る慎重派・反対派議員は、選挙目当てで反対していることが大半であり、対案を具体的に出すと新たな敵を作りかねない。それは選挙にとって不利だから、外野から野次を飛ばすのに専念するのである。したがって、原則に照らし合わせれば、議論に参加する資格がないので野次は黙殺されるだけで終わりである。当の本人も、野次を言ったことで満足するのであろう。

変な言い方であるが、一般的には政策として「最良」の条件を見極めることは困難である。それは、政策の良し悪しを決める複数の条件が入り組んでいるからである。例えば、政策の良し悪しの点数をつける関数形(評価モデル)が数学的に分かっていたと仮定しよう。その関数が多数の変数をもつ非線形の関数y=f(x1,x2,x3,…)であれば、各パラメータを幾つにすれば点数yが最大となるかは簡単には解らない。例えば関数形が簡単で、変数がxだけの関数y=x^3であれば、マイナス領域からxをゼロに近づけるとx=0で関数は一時的に平らな踊り場(微分値がゼロ)にたどり着く。ここが最大値かと思いきや、少しxをプラスに振るとさらに得点yが上昇するため、議論により更なる改善が図れそうである。しかし、変数の数が多ければ、ここが最大値かと思いきや、それは単なるローカルな極大点であり、ちょっと離れたところにより得点が高いところがあるかも知れない。しかし、ローカルな極大点から別の極大点に移るためには、一旦、点数の低いところを通らなければならない。しかし、ふたつの極大点の間で綱引きをすると、極大点の中間にあるより点数の低いところに落ち込んで、二度と這い上がれない可能性がある。対案を出すということは、ある極大点の周りで微小にパラメータを悪戯にいじることを意味するのではなく、別の極大点に移るために大きな変数の揺さぶりをかけ、中途半端な点に落ち込むことを回避するための積極的な行動を意味する。現在の政治家の行動は、政策の良し悪しの点数をつける関数形を無視して、あるパラメータを変えると大局的にはどの様な傾向があるかを一般化し、その一般化された特性だけで複雑な関数の極大点を言い当てようとしている姿に等しい。増税をすれば景気を冷やすという一般論は正しいが、それがこの財政破綻を目前に控えた特異な状態で本当に最適条件と言えるかといえば、それは必ずしも正しくない。

つまり、対案を提示することでその対案の総合評価点を求め、どちらの政策が高得点かを議論すれば、少なくとも思いつく範囲では最良の解を求めることができる。もちろん、政策の良し悪しを定量的な点数に換算する関数形は通常は存在しないから、実際にはもう少しは複雑であるが、具体的な対案の良し悪しを比較することは、いきなり最良の解を求めるよりは易しい問題である。

現在は、議論する権利は国会議員の誰にでも与えられているという幻想に立っているが、現実は足を引っ張るだけの議員がいるのであるから、権利を行使するためには義務(つまり対案の提示)を果たすことが必要という、いかにも一般国民にとって常識的な原則を制度化してみることはひとつの方法だと思う。

国会議員の質の向上のために、各政党にはこの様なことを考えてみて欲しい。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます