けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

普通の国民が強いられるゲームのルールとは?

2012-04-25 22:00:21 | 政治
先日のブログ「ゲームのルールはゲームを始める前に決めよう!」で、小沢民主党元代表の判決の前に、この様な事象に対する立場の表明を求める書き込みをした。はっきり言って、私はその内容が国民の常識に照らし合わせて到底受け入れられないような内容であってもそれはそれで構わないと思っている。あくまでも、今後、類似の事案があったとき、その人が同一の基準でモノを語るのであれば、その議員がその様な属性だと記録すると共にそれを認めようと思う。

最初の頃のブログ「4つの人種(政治の信頼を取り戻すには…)」でも書いたが、自分に甘い人がいても、他人にも同様に甘い基準で接するならば、それは別にそれで構わないだろう。しかし、自分に甘くて人に厳しいというのは、人として信頼できないということだ。

ちなみに国民の常識に照らし合わせて多くの人が納得する基準とは何だろうか?わかりやすい例として、大企業に務めている会社員が通勤電車で痴漢容疑で逮捕されたとする。さらにわかりやすく、それが仮に冤罪であったとしよう。本人は無実を訴えるだろうから、警察は簡単に釈放してくれない。最終的には起訴されて、裁判に至るのである。この時、大企業の多くはこの社員をクビにするか、無給の休職扱いにするか、少なくとも現状維持を認めはしないだろう。裁判は3審制だから、下手をすれば最高裁まで争うことになる。判決のたびにその社員の扱いをコロコロ変えるのは対応に一貫性がないので、最高裁の判決で無罪が確定するまでは、多分その社員は辛い思いを強いられることになる。その人が誠実な人であれば、友人たちはその扱いを理不尽だと感じるだろうが、誰かに例外を認めるとその後も多くの社員に同様の扱いが求められるだろうから、ひとつの基準を曲げることなく、共通の基準で全てが対応されることになる。そして、無罪が確定して、はじめてその人の名誉が回復されるのである。これが良くも悪くも、世の中の国民に強いられる常識なのである。

もちろん、小沢裁判は検察審査会の強制起訴という特殊な状況だからと言うかも知れない。であれば、JR福知山線の遺族に向かい、「検察審査会の強制起訴は、制度そのものが間違っているから、JR西日本のお偉いさんを糾弾しようなどと言うのは間違っている!」と言えるのだろうか?この制度は、裁判員裁判制度と同様に、国民の感覚と司法制度に乖離が見られることを契機に導入されたのであるから、その制度自体が見直されるまでは、法としてその制度を認めるのが国民の義務である。この様な基準で強制起訴と向き合わなければならない。

ちなみに、政治家というのは逮捕や起訴のハードルは一般人に比べて極めて高い。特に、政権与党の代表経験者ともあれば、もし自宅の家宅捜査を行い何も出なかったら、検察の上層部の誰かの首が飛んでもおかしくはない。だから、その覚悟ができないと決定的な証拠を押えられる可能性が高く、裁判所が捜査の許可を下せる状況であっても、精神的なプレッシャーで最後の一線を超えることに躊躇してしまう。これだけのハンディキャップのもとで有力政治家は戦うことが許されるのである。もちろん、小沢事件では様々な違法捜査が行われていたのも事実である。しかし、民間人(国民)も同じ条件で違法捜査のリスクのもとで戦っているのである。金の力に物を言わせ、大量の有力弁護士を連ねる大弁護団を形成できることも合わせて考えれば、政治家だけは大目に見てくれというのは筋が通らない。

だからゲームのルールをゲーム開始前に宣言して欲しかったのだが、どうやら全員で揃って後出しジャンケンを決め込んでしまったようだ。こんな小さな声が届く訳がないのだが、やはりそれは悲しい現実である。

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