けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

「民意の正当性」は何処にある?

2015-02-25 00:50:57 | 政治
先日から現象としては異なるニュースだが、その本質は共通であるニュースを目にして考えさせられていた。それは、「民意の正当性」に関する話題である。

私が最初に気にした問題は、既に先月の話題であるが、ギリシャの総選挙で反緊縮財政派が勝利したニュースである。ギリシャ国民は、EUからの財政支援に対する条件であるプライマリーバランスの黒字化が緊縮財政に繋がり、それまでの湯水の様に税金を無駄遣いして赤字を垂れ流していた時代からのギャップに耐えきれず、緊縮財政政策の見直しを宣言する急進左派連合を選んだ。

これは明らかに定義上は「民意」による選択である。

しかし、やっていることはどういう意味を持つかと言えば、ある家庭で、無責任な親が膨大な浪費を繰り返して借金まみれになり、債権者が押しかけてきたところでその親が「これからは生活を切り詰めて少しづつでも返済するので、今暫くは借金の取り立ては許してくれ・・・」と懇願し、債権者が了承して追加の支援をしてもらいながら暫くは極貧生活を続けていたが、子供達がその生活に耐えきれなくなり、「家族会議で今後も極貧生活を続けるかどうするか決めよう!」と主張し、親の主張を振り切って子供達の多数決で「これからは贅沢もしよう!」と決定したことに等しい。その後債権者がやってきて子供達と交渉するのだが、物分かりが悪くて議論にならないという状況であろう。本来は自己責任の世界だが、この家庭が自己破産を宣言してしまうと、周りの貧困家庭も雪崩を打って自己破産競争に陥りかねず、借金を踏み倒されるのが怖い債権者が、騙し騙し子供をなだめて説得を試みているという状況である。この子供達の家族会議の多数決が「民意」と言えるものかと問われれば、定義の上では「民意」には違いないが、社会的には許されない民意という理解が正しいところだろう。

これとは全く趣を別にするが、沖縄知事選挙も辺野古市長選も、それぞれ辺野古移設反対派の人が当選をした。これも明らかに民意である。これまでの沖縄県民に対する基地負担を考えれば十分理解できる民意ではあるが、この様に民意がガラリと変わったのはルーピー鳩山氏の暴言がきっかけである。「(現実問題として)普天間飛行場の固定化を避け、確実且つ早期に危険性の排除を進めること」と「時期は未定だが、普天間飛行場を沖縄から追い出すこと」の2者択一を沖縄県民に迫ることになる。後者の「時期は未定」の意味は、本来は数十年のスパンで見通しが立たないことを意味するが、裏の意味のウルトラCとしては米軍機が普天間周辺で住宅街に突っ込んで多数の死者を出せば、流石に米軍は出て行かざるを得ない状況に追い込まれるだろうという意味を含んでいる。しかし、選挙ではその様な本音はひた隠し、ルーピー鳩山氏と同様の市民にウケの良い言葉を並べてお茶を濁して戦った。別に彼らは普天間飛行場が変換されなくても痛くも痒くもなく、政府に対して対決姿勢を示し、県民・市民感情を煽り立てれば今後も選挙では安泰でいられるというメリットがある。沖縄県民には負担を強いることを続けなければならないのは申し訳ないが、しかし、現在の国際状況を鑑みれば、沖縄の地政学的な意味は日増しに高まっており、例えば軍事的リスクと民意のバランスを取ってグアムに移転することなどが仮に選択肢になり得たとしても、それは中国などにハッキリとした(正しくない)メッセージを送ることになる。その結果、一番不利益を被るのは間違いなく多くの沖縄県民であり、第2次世界大戦時の沖縄への過酷な体験を再現することに繋がりかねない。(ルーピー鳩山が)明けてしまったパンドラの箱はもう元には戻らないということなのだろうが、その様な極限状態でどれだけ「民意」が正しい判断をすることができるかは疑わしい。

ただ、私は仮に間違った「民意」の判断であっても、選挙結果は素直に受け入れるのがルールだと思っている。分かり易く言えば、ギリシャの選挙結果が仮に間違った民意の表れであったとしても、だからと言って軍部がクーデターを起こしてひっくり返して良いとは思わない。あくまでも民主主義のルールの下で進められた手続きであれば、その手続きを最大限尊重するのは当たり前の話である。手続きの正当性は、民主主義では基本原則である。

ただ、ギリシャの問題で言えば、前政権が国際的な公約、約束として決めたことは、外構というものが国と国との信頼関係なしには成り立たないために、政権が変わったからと言って卓袱台返しをすることは許されない。勿論、例えばTPPの様に各国の合意案は水面下で進めるにしても、最終的な合意案が効力を発揮するのは各国の国会で批准された後であるとのルールがあるのであれば、それは国会の承認が得られるように最大限の努力をするのは政府の責任であるが、三権分立で行政と立法の独立性が担保されている前提で議論すれば、政府がまとめたTPPの合意案をその国の国会が否決するのは民主主義に許される正当なルールなので、その様なものであれば卓袱台返しも致し方ない。しかし、政権が変われば前政権の約束など反故にして良いということになれば何も信用できないことになるので、仮に条約という形で法制化されていないことであっても、政府間の合意事項はその後も拘束力を持つはずである。その様な手続き論に従って許されることと許されないことは明確に区別されなければならない。

この様な視点で見た時に、例えば問題を拗れさせて普天間飛行場が固定化され、その結果、普天間周辺で死亡事故が起きたとしても「その全責任を全て負う」という約束の元で、沖縄県知事がその知事に認められた法的権限で合法的に辺野古移転を阻止するというのであれば、それはある種の民主主義の手続きとして分からないでもない。それは最大限尊重したいと思う。ただし、その様な沖縄県の対応に対し、これまた政府の法的権限で合法的に対策を講じたとしても、それはそれで民主主義のルールに則った適切な手続きと言える。あくまでも、法律やルールに照らした上での、手続き上の正当性を競い合えば良いわけで、感情論で「許せん!」と言っていてはデッドロックに陥るだけである。そのデッドロックの責任を取れるなら良いが、その責任を取れる人間などそういないだろう。であれば、外野が感情論を騒ぎ立てるのは民主主義に反する行為である。

おりしも2月22日、日本最西端の沖縄県の与那国島への陸上自衛隊の配備に関する住民投票が行われた。投票率は85.74%、開票結果は賛成632票(57.77%)、反対445票(40.68%)となった。もともと市長選などでも自衛隊に関する考え方が拮抗する地域がらであったが、自衛隊配属に特化した投票では市長選よりも大きな大差で自衛隊配属の賛成多数となった。投票率も申し分ない。これも「民意」と言えば民意である。

ただ、私はこれにも異論がある。安全保障は政府の専権事項であり、地域の住民の民意で決めるべき話ではない。さらには、ここでの住民投票にはサヨク系の方々が暗躍して選挙権のない中学生や永住外国人にも投票資格を与えていた。民主主義は手続きの正当性が重要なだけに、その様に不当な恣意的な細工により投票結果を操作しようという試みは許せない。ましてや、住民投票前には「民意」の重要性を前面に出しながら、結果が意に反していたら、重要なのは「住民投票の民意」の尊重ではなく、対立を深めざるを得なくなった「複雑な民意」に対する配慮の方が重要だと論点をはぐらかす沖縄県のマスメディアに至っては、ルールもへったくれもない、単なる駄々っ子でしかない。その様な人々に論理的な議論や手続きの正当性をかき乱されるのは甚だ遺憾である。

同様の住民投票ネタでは、埼玉県所沢市で航空自衛隊入間基地周辺の小中学校にエアコンを設置するかどうかを問う住民投票が行われた。結果は賛成多数であったが、投票率は31.54%でしかなかった。条例の規定では、法的拘束力はいずれにしてもないのであるが、それでも賛成ないし反対が有権者の1/3を超えた場合には結果を重く受け止めるように求めているとされており、投票率時点で1/3に達していない場合には全くどの様な政治的な意味があるのかも不明である。単純に「民意」と言えば民意とも取れるし、投票率の低さから「民意の価値がない」と言えばそれもそう解釈できるかも知れない。先の衆議院選挙では、投票率は過半数を超えたが、それでも国政選挙らしからぬ低投票率故にマスコミは「こんなの民意とは言えない!」と暴論を吐いたが、であれば今回のケースでは条例で1/3という目安を明確に示しているので、それを根拠に「こんなの民意とは言えない!」というのが論理的一貫性というものである。さらに言えば、あれだけ集団的自衛権とか特定秘密保護法とかで騒ぎまくっていたのだから、民意による審判を仰ぐことを主張すべきマスメディアが、先の衆院選では「大義がない」として選挙すること自体に反対していた。そして、その選挙に費やされる膨大な費用が税金で賄われているとして批判を繰り広げたが、今回の埼玉のケースでは、「エアコン設置に要する税金がもったいない」と言いながら、結果的に無意味になるのが目に見えていた住民投票に「無駄な税金を投入している」のだから、これまた衆院選にかかった費用が無駄と指摘していたマスメディアは、同様に「その住民投票、税金の無駄遣いだ!」と指摘すべきだが、その様な論理的一貫性もない。何故この様な対応をマスメディアが取るかといえば、エアコン設置を求めて住民投票で投票数の過半数を占めた「民意」を否定して、それに住民から噛みつかれるのが怖いのである。しかし、衆院選で国民が示した民意に噛みついても、多数のマスメディアが援護してくれると思っているから、衆院選には無茶苦茶な民意の無視を決め込めるのである。

私は、住民投票の乱発は民主主義の否定につながると思っている。我々は歴史から、間接民主主義制を選んできた。(一応は)正規の手続きで定められた憲法に従い、選挙で選ばれた議員が法整備を行い、それらの法律・ルールに従って我々は暮らしてきた。様々な手続きのルールはこれらの法律で規定されており、その法律を変えるには国会等の議会での承認を必要としていた。それらの立法を縛るものとして最上位に憲法が存在するのであるが、その憲法という最大の法的根拠を変える場合には、流石に憲法に縛られる国会議員だけで良いのかとの判断から、住民投票との組み合わせの2段階方式を選択している。憲法の改憲において住民投票が必要なのは非常に妥当性があるが、それ以外の雑多なことに住民投票・国民投票を行うのは、法的にも国会(県会、市会も同様)議員の権限及び首長や総理大臣等の権限を否定するものであり、さらにはそこに負わされている責任の放棄にも繋がる。余りにも安易に住民投票に走るその傾向には非常に危機感を感じる。

そして、その様な「民意」なるものに統一的な論理的一貫性を意識せず、ポピュリズムに走るマスコミは無責任この上ない諸悪の根源とすら感じる。民主主義が求めるのは、大きな権力を握るマスメディアの横暴や野次ではない、彼らに権力があるということは、その責任が伴うということを意味する。しかし、彼らにはその責任感は無いようだ。

やはり、「誠意を持って話しても分からない悪意」には困ったものであるという教訓がまた一つ積み上げられた感じである。

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