けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

セウォル号事件は慰安婦問題の写し鏡だ!!

2014-09-22 23:21:16 | 政治
昨日のフジテレビの「Mr.サンデー」では、何故か今頃になって韓国セウォル号事件の特集を放送していた。今日はこの番組を見ていて思ったことであるが、セウォル号事件の構図が何とも慰安婦問題に酷似しているのではないかと感じたので、その辺のお話をさせて頂く。

まず、「Mr.サンデー」の解説では、韓国国内ではあまり詳しい事故の原因究明に関する報道は少なく、被害者家族は日本や諸外国での報道がきっかけに真相究明が進むことを期待しているかの様なことを言っていた。そして番組の最後の方では、下記の記事にもある通り、最近は国会が空転して法案が1本も通らないと紹介していた。

Yomiuri Online 2014年9月18日「韓国国会マヒ、法案1件も処理できず…沈没余波

これは前日のブログ、「民主主義のコストを嫌い『徳治主義』を目指す韓国」でも書いたが、「セウォル号特別法」の制定に関連し、政府与党側と野党&遺族グループの対立が酷く、一線を越える無謀な要求を遺族グループが求めるあまり、国会が空転しているという状況を指している。上記のブログではこの背景について、韓国では民主主義的な価値観が乏しく、絶対的に正しい君主が「徳」に基づいて正しい裁きを行うのが好ましいという発想から、朴大統領に直談判して事態の打開を図ろうとしている状況を紹介した。

この野党側のスタンスというのは、「遺族は可哀そうだ!」「だから、遺族の言うことは積極的に聞いてやるべきだ!」「そのためには、多少の法律や論理の矛盾なんて問題ではない!」「大切なのは、世界中の皆が亡くなった学生などの被害者のことを憐み、遺族に対して寄り添ってあげるべきだ!」「このことに異を唱えることなど、誰もいないだろ!」という論調で大抵説明出来る。勿論、細かいところで、様々なシステムが無責任に構築されていたことは否めないから、それらの責任者なるものが存在するならその人に与えられていた権限に照らして罪を問うのはその通りだが、罰則の適用は「怒り」に任せて行うべきではなく、法に照らして責任に応じた処罰が行われるべきである。例えば、日本で言えば「海猿」の様な海難救助のシステムは韓国では貧弱で、日本では10か所以上ある海難救助の基地が韓国には1か所にしかないという。しかも、この様な事故の救助を前提とした訓練なども行っておらず、実質は現場に駆けつけるにも時間がかかったし、現場についても無力であった。しかし、その背景には北朝鮮との軍事的な対立があり、海難救助的な専門家は韓国軍に集約されていて、当日、軍の出動の判断が出来なかったために何も出来なかったというのが現実の様である。つまり、民事的な海難事故に対応するシステムが出来ていなかったのが課題の一つであるが、それは日本と異なり軍事的な対立が現実的な国という特殊性からすれば、「救助隊が見殺しにした」と責めるのは短絡的で、船が沈む瞬間に出来る渦などに巻き込まれて2次災害をもたらす危険性を考えれば、彼らに出来たことは限定的であったと考えるべきかも知れない。

少しばかり話が横道に逸れてしまったが、「可哀想!」という論点で全てを押し切り、セウォル号事件の当事者である遺族に捜査と起訴権を与え、「被害者が加害者を裁く」という「人民裁判による復讐」を可能とすることは法律的には絶対に認めてはいけないことである。しかし、全てを「可哀想!」で突っ切ろうとするから、やがて遺族グループもいつの間にか「正義」を逸脱して悪の道に手を染めることになる。

下記の記事を見て頂きたい。

朝鮮日報2014年9月19日「【社説】セ号遺族に見る韓国の歪んだ自画像

これは、韓国の野党議員とセウォル号遺族が飲み屋で呑んだ帰りに「運転代行業者」を呼んだところ、代行業者が到着しても出発しようとしないことにしびれを切らした代行業者が「他の業者を呼んでください」と言うと、遺族らが「国会議員に対してその態度は何だ」と因縁をつけ、更には「俺たちを誰だと思っている!」と暴言を吐き、暴行を加えたという事件である。ちなみにそこに割って入った仲裁者も暴行を受けたが、駆け付けた警察は被害者だけを拘束し、加害者を無罪放免にして朝方まで被害者の尋問を行ったという。この有様をみれば、当初は可哀そうな立場の遺族たちはいつの間にか権力を掴み、世論の後押しを受けて無茶苦茶な好き放題をするようになる。勿論、この様なケシカラン輩は一部であろうが、その様な輩が産まれてくることになる。

これらの勢力が、「可哀想!」という非論理的な人情に訴える武器を頼りに、結局は韓国の国会を空転させることになった。軍事的にも北朝鮮との対立は予断を許さないし、経済状況などは悲観この上ない状況である。にも拘らず、国会は何もすることが出来ず、与党と野党は睨み合っているという状況だ。最近の韓国の報道は、遺族側の暴挙に厳しめで、与党側にエールを送る傾向が出てきたが、少し前であれば遺族側を諌める言動をすれば、ネット上のバッシングにさらされることになっていた。彼らは「正義」の名のもとに、遺族に厳しい者を「成敗してくれる」とばかりに胸を張っていたはずである。

しかしこれらの状況を冷静に見れば、慰安婦の問題にかなり近いものがある。慰安婦の女性たちが辛い生活を余儀なくされたのは事実であり、安倍総理もその点に関しては謝罪の意を示し、前向きに考えている。しかし、「慰安婦女性が可哀そうだ!」が真実なら、「日本国政府が法的責任を負うべき」と結論付けるのは余りにも論理の飛躍に過ぎる。法的には既に日韓基本条約で解決済みという立場を示している以上、慰安婦問題が解決していないというのであれば、その法的根拠を示して議論するのが筋である。何度も繰り返して言うが、ホロコーストと同列の「時効など存在しない、歴史上類を見ない人道上の罪」に相当する罪だから日本政府が責任を負うべきなのか、それとも全ての「虐殺」をも含めて清算したはずの日韓基本条約に含まれていない事象という論点で攻めるなら、アメリカの慰安婦像などは本末転倒である。つまり、法律議論すべきところを「法律議論では勝てない」から、飛び道具で戦おうという論調であり、それは「可哀想!」なら「何でもアリ」の理屈であり、セウォル号事件に酷似している。しかも、そこに本来は政治や法律の専門外の第三者(慰安婦問題では「挺対協」に相当)が国政に異常なほど影響力を与える立場になり、論理的な議論が出来ない状況に至り、国会(慰安婦問題では、日本と韓国の国際関係)が空転して修復不可能な状態に陥ってしまった。

「そもそも論」に戻るならば、遺族の悲しみややるせなさは大いに理解するところだが、その課題は政治や法律で解決すべき問題であった。それが、誰かが「政局」に利用しようと思い、「可哀想!」な側に寄り添えば人気が得られる(慰安婦問題では、日本を叩けば政権支持率が上がる)と悪用し、話がこじれた。つまり、「可哀想!」は国際問題や政治を正しい方向に導くには無用な概念であり、その「可哀想!」の背景にある「不法行為」こそが問われるべき問題である。感情と論理を切り分け、国家間や国家のあり方の議論においては、その優先すべきものが「論理」や「法律」であることを、今一度思い出さなければならない。

そのことを示す、良い事例だったかも知れない。韓国にもこの論調が届けばよいが・・・

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