けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

橋下大阪市長とFCバルセロナ

2012-01-15 23:51:33 | 政治
今日の報道ステーションSundayに橋下大阪市長が出演していた。

北大の山口二郎教授との激論ということであったが、多分、番組を見た方はその議論が橋下市長の圧勝に終わったことを実感したのだと思う。殆ど、先日のFIFAクラブW杯のバルセロナとサントスの試合を見た時のようで、あれだけチヤホヤされていたネイマールがバルセロナの前に何もできなかったかのような印象であった。

山口教授と言えば民主党のブレーンであり、Wikipediaによれば小沢元代表の掲げた「生活第一」のスローガンの発案者の一人とされているようだ。橋下市長をこき下ろす「橋下主義(ハシズム)を許すな!」という本を書かれているそうで、私は読んだことはないが、平松前市長とも親交が深いそうなので、平松市長が橋下現市長を選挙前に叩いていたのと同様の論調なのだろう(違っていたらスミマセン)。

今回、この議論の中で明らかになったことが幾つかあるが、私が着目したポイントを整理してみる。

第1に、この二人の根底からの考え方の違いは、責任の所在を明らかにすることの重要性の認識の違いである。悲しいかな山口教授は、「(ここでは大阪市にフォーカスされていたが、一般的な政治の問題といっても良い)現状に問題があったときに、その明らかになっている問題点をより良い状態に変革することができなかった場合に、誰かかが責任を取らなければならない」・・・ということに対して全くもって無関心である。彼が関心があるのは、「誰かが現状を変えようとしたときに、(それにより現状がよくなるか否かは別として)現状よりも悪くなるリスクが少しでもあるならば、(評論家として)そのリスクを指摘しなければならない」という点である。

その差が明確にあぶりだされたのは、例えば山口教授が「あなたは選挙で選ばれたからといって、やることが全て正しいわけではないでしょう!」と非難したのに対し、橋本市長が「私は不完全な人間だから間違いもする。しかし、ふたつの対立した意見がぶつかって、ニッチモサッチモいかなくなったとき、(それをそのまま放置するのではなく)誰かが責任をもって決断をしなければならない。選挙とは、制度としてその決断の権限を誰に与えるかを決めるものであり、私はそれに選ばれたのであるから私が決断をしなければならない。そしてその責任は自分が負う。」という様なやりとりがあった。

まさに、これなのである。結局、現在の政治が上手く回らないのは責任の所在を不明確にして物事を曖昧に決めていくからなのである。現状に問題があるのであれば、その問題を解決できない不作為行為に対して当然責任者の責任が問われるはずなのに、山口教授はその点には触れないのである。橋下市長が「じゃあ、どうすればいいんですか?」と聞くと、その辺の街行く人に聞いた程度の答えしか返ってこず、いかにも上っ面な議論である。攻めることに対してはそれなりに語れるが、守りに回ると滅法弱い。いかにも無責任さを絵に書いた様であった。

第2の違いは、情報量の違いである。現場でどれだけ多くの意見の異なる人と議論したかによるものと思われる、情報量の違いなのである。

変な例で恐縮であるが、以前、子供が冬に高熱を出し、しかし翌日には熱が下がり、夜になるとまた高熱が出る・・・という繰り返しになった。インフルエンザであれば他の兄弟にもうつる可能性もあり、早速近所の小児科を受診した。近所では比較的評判のその医者は「絶対、インフルエンザではない」と断言し、検査すらしようとしなかった。ただ、親としては疑心暗鬼の状態であった。今では何故そうなったのか思い出せないが、その後、かかりつけの耳鼻科の先生のところを受診することになった。多分、鼻づまりや咳きなどで子供が苦しんでいたのかも知れない。実は、その耳鼻科は家から20km以上離れた隣の市にあるのだが、引越しをする前にお世話になり、非常に信頼できるので今でも時折子供のために通っている。その耳鼻科は、夫婦で開業しているのであるが、大体、少なくても毎日200人以上、多いと日に400人もの患者を相手にしていて、耳鼻科なのにインフルエンザなどのかなり重症の患者も多く、そこら中で横になって点滴を打っている人がいるのである。しかし、先生は非常に丁寧に診察してくれるので、中々、診察が終わらない。午前中の診察なのに、午後3時半までかかるのはざらである。午後の診察も、8時半頃までやっている。その先生が子供をちょっと見ただけで、「これはインフルエンザだね!絶対自信あるよ!」と言われた。実際、検査してみるとビンゴだった。やはり、情報量(経験)が物を言うことを痛感されられた瞬間だった。

橋本市長は、(最初に答えありきで本気の議論をしようとはしない)ディベート的な戦いを挑む人は相手にしないが、本気の議論を仕掛けてくる人とは本気で議論しあい、またその議論に備えた準備も十分にしているようだ。特に、その様な議論の相手は現場の人々であり、その生の声を聞くことは非常に重要なのである。教育の問題が議論されていたが、橋下市長はその中で「生徒や親が先生を評価する」ことも含みうる制度の改革を訴えていた。山口教授は「モンスターペアレントがいるのにそんな事して良いのか!」と言っていたが、ちょっと前までなら私もそう思ったかもしれないが、しかし、今はそうは思わない。

実は、私は昨年、子供の小学校の授業を授業参観日でもない日にたった一人で見学したことがある。家内が学校の准校長先生(校長に次ぐNo2)と話す機会があって、その先生が「是非とも授業を見て欲しい。何時でもいい。たった一人でも問題ない。学校は、何時でもその様な父兄を待っている。大歓迎だ。」と仰っていたので、実際、見学させてもらった。別に私はPTAの役員でもなんでもない。自分の子供のことでちょっと心配なことがあったので、見学させてもらった。普通の授業参観も見たことがあるが、その時に見たお行儀の良いよそ行きの姿とは別世界であった。たった一人の見学者の場合、子供たちは最初の5分は私に興味を持って行儀良くしようとするが、5分もするといつも通りの姿にもどるのである。それほど無茶苦茶な状況ではなかったが、この状況を放置せずに、早めに対策を打つことが望まれる状況であると実感できた。准校長先生とは見学の後にもお話をさせていただき、繰り返し、変なプレッシャーを学校に与えるために来た訳ではなく、現状を見てみたかったと伝え、学校を後にした。詳細は省略するが、その後、子供のクラスは少し変わったそうである。ちょっとした小石程度のインパクトだが、その小石が池に投げ込まれた波紋が、少しづつ状況を変えていく様である。

橋本市長の話では、大阪市の教育委員会の委員の先生方は1年間で4校を視察しただけで、全てを把握したと思い込み、自らの仕事を全うしていると自負しているようだ。しかし、その様なお偉いさんが訪ねてくれば、学校側は優等生校であったり優等生クラスをピックアップして視察を済ませようとするだろう。お行儀よくした生徒たちを見て、彼らは何を見たことになるのであろう。7人もの子供を持ち、教育現場をも熟知している橋下市長の切り込みは鋭く、教育委員会の委員との議論のシーンでは、私の目には委員の先生も「この人(市長)との議論は有益かも知れない」と感じているかのように見えた。

感じたことはいろいろあるが、クラブW杯の決勝を見た後のような爽快感が気持ちよかった。

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