けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

求められるのは「進歩的文化人」ではなく「誠実な人」である

2014-08-20 23:57:33 | 政治
先日、ネット上の様々な記事を漁っていて、ある記事で目が止まった。思わず膝を叩いてしまった。

アゴラ 松本徹三 2013年8月5日「『誠実な人』と『不誠実な人』

この記事は今から1年ほど前の記事で、実際には最近の下記の最近の記事の中で引用されていた。

アゴラ 松本徹三 2014年8月18日「サヨクの系譜

この後者の記事の中では「サヨク」という言葉を丁寧に使っていて、厳密には社会主義・共産主義を志向する勢力である「左翼」的な要素はほとんど皆無な人達でありながら、ただ一方で世の中的には反政府的という視点から「左翼」と認識されている人々をカタカナで「サヨク」と呼んでいる。今回の私のブログでは、この「サヨク」という言葉と「誠実な人」と「不誠実な人」という言葉を切り口に、記事の著者である松本徹三氏の考え方と私の考え方を整理してコメントを書いてみる。これらの記事の純粋な紹介は省略するが、特に前者の記事は私的には非常に面白いので一読をお勧めしたい。

まず、詳しいことは知らないが、これらの記事を書いた松本徹三氏は面白い経歴の持ち主で、商社の伊藤忠やクアルコムジャパンの社長、ソフトバンクモバイルの副社長などの経歴の持ち主で、最近ではソフトバンクを離れて少しフリーな立場で色々なコメントをしている。他の記事を含めて彼の記事を読む限り、かなりの部分が共感できるものである。

実は、今回のコメントを書く前に、私が半年ほど前に書いた記事を引用してみたい。

2014年1月27日「都合の良い似非『弱者』のレッテル張りはもう止めよう!

ここでは、消費税増税、TPP参加、特定機密保護法、アベノミクス推進、集団的自衛権容認、法人税減税、規制緩和(自由競争経済)、雇用における金銭解雇ルール導入、普天間飛行場への辺野古移転、安全が確保された原発の再稼動・・・etc.など、様々な論点をピックアップしながら、これらの相関が小さな論点でありながら、世の中の人は「all賛成」か「all反対」の何れかに分かれやすいという傾向を示し、その背景にはご都合主義的な弱者救済があることを説いた。このご都合主義的な「弱者」とは「似非弱者」であることが多く、それは論理的な思考や科学的データにより裏打ちされた「弱者」ではなく、ポピュリズム的に利用価値のある「弱者」であり、深い考察を伴わない一般市民が騙されて「真の弱者」と勘違いし易い存在である。この様な似非弱者を設定することで、半ば悪意のある偽善者は、論理的な思考・議論をすっ飛ばかし、一般市民の情緒に訴えることで多数派の地位を勝ち取ることを試みようとする。そこでは「似非弱者」の対極の「似非強者」が存在し、全てのしわ寄せを「似非強者」に押し付けることで「心地良い正義の実現」の錯覚に酔うことが出来る。

上述の松本氏の「誠実な人」と「不誠実な人」の議論とは、この様な論理的な議論や科学的データに裏打ちされた判断などをどの様に捉えるかで「誠実な人」と「不誠実な人」が分かれ、その意味では選挙に有利なように有権者を誘導しなければ生き残れない政治家が「不誠実な人」であることは同情を示しながらも、その様な必要性が本来ないはずの学者やジャーナリストが「不誠実な人」になることが許せないとしている。

私の考察では、この様な「不誠実な人」の不誠実であることのモチベーションは、自分の主義主張にそって一般市民や新聞や雑誌の読者、テレビの視聴者を誘導することで自分の地位を高めようとすることにあると思っていたのだが、もう少し奥が深いことが良く分かった。それは、上述のふたつの記事の後者にも関係があり、「左翼」と呼ばれる人々の歴史にも関係があるのかも知れない。

私なりの言葉で順番に説明するならば、戦前・戦中、朝日新聞を筆頭に全ての報道機関は軍国主義を賛美し、多くの国民が進んで戦地に赴くように仕向けていた。勇ましいことを書くと新聞が売れるので、単純に当時の政権の命令に従ってその様な報道に流れていた訳ではない。学校では天皇陛下の為に死ぬことを潔しとし、お国の為に死ぬことこそが男の生きる道と洗脳した。しかし戦争が終わるとこれらの教えは真逆となる。今まで正しいと思っていたことが全て悪となり、特に報道機関に関わる者や教職員達は、今までの自分たちのしてきたことの罪深さに狼狽することになる。多分、この時に彼らは戦時中を振り返り、戦時中の軍国主義の政府に敢然と立ち向かった人々のことを思いだしたに違いない。それは、共産主義、社会主義を志向していた「左翼」と呼ばれる人々で、一部の「富」「権力」を持てる人々と搾取される「労働者」「農民」という弱者の格差を忌み嫌い、これらの格差を払拭するための社会主義国家を夢見て「理想郷」となる国家の樹立を目指していた。当時の北朝鮮もその様な「理想郷」のひとつと位置付けられ、在日朝鮮人の帰還事業が大々的に行われ、それに騙されて地獄をみる人々を多く産むことになった。

松本氏の言葉を借りれば、戦時中に軍国主義に加担した人々が戦後に改宗し、この様な人々が「進歩的文化人」という不可思議な存在に昇華されていったとしている。彼らは論理的に「真実を求める」ことへのモチベーションはなく、殆ど戦時中に行っていた悪行(もちろん、当時は正義と信じていたのだが)への懺悔の気持ちで、戦時中の行動の真逆の行動を常に志向することになった。つまり、国家・政府が「右」と言えば「左」、「左」と言えば「右」ということに快感を覚えるようになった。したがって真実の追及など意に介さず、中国やソ連(現在のロシア)を礼賛し、帝国主義的な野心を持ち続けるアメリカや追従する日本を悪と断罪し、分かり易い「左翼」が出来上がってきたのである。しかし、現在の中国を見れば分かるように社会主義は完全に理想的に機能することは不可能で、「平等」とはかけ離れた「不公平」「格差」を生じさせる宿命を持つものであり、自由主義経済の様な効率の追求が伴わない故の非効率性や、権力の独占などにより「理想郷」には成り得ないという化けの皮が剥がされることになる。ソ連が崩壊し、中国が覇権主義に走る中で、多くの「進歩的文化人」は純粋な社会主義革命を目指す「左翼」から距離を置き、「左翼」というベクトルの中から「反政府」という成分を抽出し、新しい形での「サヨク」を形成することになる。

これらの「サヨク」の系譜から分かるように、彼らは「真実の追及」には興味がない。当初は富を独占する「富裕層」と彼らと対立する「労働者」の間の戦いから導かれる革命という社会主義的な思考を持っていたが、これよりももっと一般市民に受け入れやすい対立構造として、「似非弱者」と「似非強者」を対立させ、「似非弱者」が「似非強者」を打ちのめすことが「理想郷」への第一歩と訴える戦略に出た。ここでは既に社会主義的な思想は何処にもないから、既に狭義の「左翼」ではなくなっているので、その意味で「サヨク」とカタカナ読みにするのが適切なのだろう。

この「似非弱者」と「似非強者」の例を分かり易く説明してみよう。例えば漫画の「美味しんぼ」の中では、「福島では、放射線障害で鼻血を出す患者が急増している」という様な情報が提示されていた。放射線障害に苦しむ患者は「弱者」で、その弱者を救済しようとしない政府や東電は「強者」ということになる。「放射線障害で苦しむ患者が”仮に”多数存在するとして、その様な患者を政府が無下に扱っていたらどう思いますか?」とか、「放射線障害が”仮に”実在するとして、原子力ムラの人々がそれをもみ消そうとしていたとしていたらどう思いますか?」と問いかけると、この質問の前半部分が「仮定」であるにも関わらず、あたかもそれが真実かの様に勘違いした一般市民は「政府」「東電」「原子力ムラ」はケシカランという結論に辿り着いてしまう。しかし、実際には「鼻血」を出す人々は意外に多く、不正確な記憶であるが確か九州の福岡か何処かの都市、つまり原発事故から遠く離れた地域で「鼻血」を出す患者(これを「患者」と呼ぶべきかどうかは分からないが)が多く、福島県は相対的に原発事故後も鼻血を出す患者は少ないという。この事実をひとつ見ても、「鼻血」=「放射線障害」には無理があり、その様な主張をするなら科学的な裏付けとなるデータを示して欲しいものだが、先にも示した様にこれらの「進歩的文化人」は真実の追及に興味はないので、自分の信じる理想郷の実現のためには平気で嘘やミスリードを戦略的に用いるのである。そこには真実の「弱者」と真実の「強者」は必要なく、「似非弱者」と「似非強者」が都合が良い。

最近話題の朝日新聞は完全にこの「進歩的文化人」を志向しており、何か良く分からないが「理想郷」を信じて突き進んでいる。多分、産経新聞は戦前の悪行に懲りて「進歩的文化人」を気取る朝日新聞とは逆で、「進歩的文化人」に懲りて真逆に振り子を振りまくる存在なのだろう。それはそれで新たな危険性をはらむ余地があるが、今、現在の危機である「進歩的文化人」という病への処方箋として、それなりの存在意義があるのだろう。

結論としては、本来、我々が求めるのは「誠実な人」であるべきであり、科学的データや論理的な組み立てで議論を構築し、結論を導き出す人である。ただし、松本氏もご指摘の様に、世の中が複雑になり過ぎて、そう簡単にスパッと善悪を判定できるケースは皆無に近い。科学的にも明確に分かっている部分と分からない部分があり、ここまでは言えるがその先は断定的には語れないとか、確率論的には議論できるが、決定論的に断定はできないということになる。確率論として、例えば「発生確率が1万年に1回なら原発事故は許容しても良いか?」と問われると、これも良いとも悪いとも断定しにくく、その他の要因と絡んでくる。例えば、交通事故の死者が毎年5千人(24時間以内の死者なので、実際にはその倍くらいは交通事故に起因して死亡する者がいると思うが)だとして、2~30年すれば広島、長崎の原爆の死者の数に匹敵する。昔はもっと交通事故の死者が多かったが、安全のための設備が進歩して、死者数は大きく減少した。原発にしても、1万年の時間スケールを待たなくても、10年単位で安全性の向上技術は進歩しているはずである。勿論、人的要因として、どうしても人は不都合なことを隠そうとする傾向があるから、事故の小さな芽を適切に摘むことが出来るかどうかは不確実性が伴う。この様な、都合が良いか不都合かに関係なく真実を追求し、その様な事実を全て明らかにしてくれる「誠実な人」がいてくれると、その先の政治の決断において「不誠実」な人が介在しても、我々一般市民は監視をすることが可能になる。

だから、政治家はともかく、少なくとも学者やジャーナリストには「誠実な人」であってもらわないと困るのである。だから、「不誠実な人」には第一線から去って頂かないと困るのである。食材を扱う職業から「不誠実な人」を追放するのと同じロジックである。

朝日新聞が戦前の悪事の総括をせずに「進歩的文化人」に走ったのと同様、今回、慰安婦問題では自らの悪事の総括をせず、論理のすり替えで生き残りを図ろうとしている。そこには真実の追及のかけらもなく、そして誠実さのかけらもない。

現在、我々は新たな技能が求められる様になった。それは「進歩的文化人」と「誠実な人」を見分ける能力を身に着けることである。盲目的に信じる時代は終わりを告げようとしている。

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