けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

政策判断のプライオリティ設定を誤るな!

2013-12-06 23:58:12 | 政治
まさに特定秘密保護法案が成立しようとしているその瞬間であるが、最後にもう少しだけコメントさせて頂く。いろいろ書きたいことはあるのだが、ある程度ポイントを絞って書かせて頂く。

まず最初に、最重要なこれだけはどうしても国会議員の先生方には理解してほしいというポイントを書かせて頂く。政治家と官僚の違いは何か?それは単に「選挙によって選ばれた」などという表面的な差異ではなく、有権者が政治家に何を求めているかという点が重要である。有権者が求めているのは、様々な論点に対する適切なるプライオリティの設定である。例えば原発問題を例に取れば、「原発のリスク」以外にも「原発を稼働停止することによるリスク」も当然ながら政策判断には必要な論点である。デフレで長い間もがき苦しんだ日本の経済と、中国、韓国、北朝鮮といった周辺地域の不安定化などの状況を考慮した上で、ありとあらゆる論点を取り上げ、リスクとメリットを評価し、そこにプライオリティで評価指標に重み付けをするのである。官僚は問題を整理し、各論点にリスクとメリットにより得点付けするところまではプロフェッショナルとして完璧にこなすのだろうが、その細かな評価指標の各点数を単純加算するのではなく、重要な部分にはより多くのウエイトを付け、さほど重要でない部分には軽いウエイトを乗算し、それらを加算して総合評価を行う際に適切なウエイトを選択してくれる保証はない。しかし、政治家は選挙により民意を付託されており、それはその政治家のウエイトの設定が適切だと信じるからに他ならない。政党政治とは、そのプライオリティないしは評価に乗算するウエイトに関して共通の思想に基づく人が集団をなして政治を効率的に前に進めるためのシステムであり、ある政党に投票するということはそのプライオリティに共感を示していることを意味する。

だとすれば、政治家はプライオリティ設定のプロフェッショナルでなければならないが、今回の特定秘密保護法案に対する野党の行動は本当に、戦略としてそのプライオリティを適切に判断したのかが疑われる。様々なニュースや討論番組でも特定秘密保護法案の問題点は指摘されており、私もこの法案が現時点で完成度の高いものだとは思っていない。正直に言えば、完成度としては及第点以下ではないかとすら感じている。しかし、与党の自民党、公明党が法案に合意している以上、野党が何を言っても法案が成立する可能性は極めて高いことはずっと前から明らかだった。であれば、ここで大きなふたつの判断があり、その判断のどちらを選択するか、そのプライオリティの設定の適切さが政治家に問われている。そのふたつの判断とは、(1)ひたすら反対して法案の成立を可能な範囲で邪魔する、(2)どうせ成立してしまうなら少しでも完成度を高め問題点を可能な限りで潰すよう、適切な修正論議を建設的に行う、である。言うまでもなく、(1)は与党の足を引っ張り「反対したという実績」さえ残せれば、法案の完成度など問わない・・・という判断である。(2)は不本意ではあるが、国民にとって少しでも安心安全のために嫌々ながら法案の修正点を具体的な法文案も含めて具体的に提案するというものである。法案の成立に反対する立場でありながら、結果的には法案の完成度を高めるのに力を貸すのだから不本意この上ないのは確かだが、少なくともどうせ成立することを前提とすれば、これほど国民本位の考え方はない。だから、この様な行動を多くの政治家が実践すれば、それはその政治家が如何に国民の方を見ているかが分かるのだが、この「どうせ成立する」という部分が気に食わないから、このままでは危なっかしくて仕方がないというところに目を瞑って暴走するのである。これが、適切なプライオリティ設定だとは私には到底思えない。まさにアマチュアそのものな訳で、だったら官僚に任せた方がぶれなくていいんじゃないの・・・とすら感じてしまう。

特定秘密保護法案に限った話ではないが、これが最大の問題点である。言うまでもなく福島第一原発の事故は、その様な誤ったプライオリティ設定によって引き起こされた。原発反対派の人々が、もし仮に稼働している原発という現状をまずは認め、3.11以前の時代に「原発即廃止」よりも「まずは原発の安全性向上」の議論を優先していれば、あのようなリスクが放置されることはなかった。中京大学の武田邦彦教授が前に言っていたのは、原発の安全性に問題があったと気が付いてそれを改善しようにも、これまでの方針を変更したり誤りを認めたりすると、それを突破口に反原発派が騒ぎ立てるので、安全性の向上に積極的になれなかったし誤りを正せなかったということである。安全性を向上するということは、その前の状態の安全性が不十分であったことを認めることになると、そんなことに気を使っているのである。この判断をしたのは原発推進派であるが、彼らにその様な判断を強いるような戦略をたて続けていた代償だと見るのが正しいだろう。だから、「たられば」の話になってしまうが、原発反対派がそのプライオリティを「原発即廃止」よりも「安全性の確保」においていれば、少なくとも今の福島の問題はなかっただろう。原発推進派を責めたい気持ちは分かるが、安全性を向上するための取り組みに専念し、その中で「そこまでやっても確保できる安全性はこの程度」というものを定量的に示し、だから「このままで良いのですか?」と国民に問うていれば良かった。明らかに、真の意味で国民・一般市民のためのプライオリティ設定が出来ていなかったということである。与党の暴走を食い止めたければ、その様な地道な努力が本当は必要であり、そこに野党の存在意義があるはずである。

以上が現状の最大の問題であるが、次なる問題も重要である。プライオリティと相通じるところがあるが、新法案に反対するということの意味を良く理解しているのかが疑わしい。つまり、法案の提案は「まずは現状に問題があるとの認識の上で、この問題を解決するためには現状維持ではいけない」という前提のもとにある。法案を否定するならば、それは(1)現状維持が好ましい、(2)もっと良い法案を提案する、の何れかでなければならない。マスコミは徹底的にこの法案に反対するが、ならば現状維持を好ましいと考えているのかを明確にすべきである。多くのマスコミは、「議論が尽くされていない」から法案に反対というが、であれば(1)(2)のいずれの立場なのかを明示すべきである。現状維持は良くないという問題意識を共有するならば、(2)の様にならばどうすれば良いのかを提言するなり自社の方針を明言するなりすれば良い。民主党は法案の対案を示したが、であれば民主党の代案は(2)の「もっと良い法案」なのかを採点すれば良い。自民党の案と野党の案を採点し、自民党の案に問題があればその点を指摘すれば更なるブラッシュアップに繋がる。しかし、マスコミも野党も、具体的にどうすればより100点に近づけるのかを示したりはしない。仮に示せばそれを叩く新聞が出て来るからであり、わが身を安全な場所に置き続ける為には代案など出さない方が好都合である。しかしそれは(2)とは明らかに一線を画すから、つまりは現状維持派と同類である。

しかし、これは先週の朝まで生テレビの中でも議論になっていたが、現状がどれほど酷いかを聞けば、新法案が仮に不完全な物であっても、少なくとも一歩は踏み出したと感じるはずである。というのは、現在の問題点の一つに「秘密指定を恣意的に行われる可能性がある」「機密解除が原則60年上限といっても、それでも例外があるから実際には青天井では」という点があるが、現状はもっと酷く、官僚は勝手に様々な問題を秘密に指定しているばかりか、いつかは公開されるのではマズイ機密は官僚の判断でシュレッダーにかけて廃棄されてしまったり、官僚の自宅に持ち帰ってしまっていたりするのである。「シュレッダーにかけて廃棄する」のは明らかに「60年以上も機密を解除しない」よりも劣る管理方法である。これは、現状では何も彼らを縛る機密管理の法案がないからそれが問題なのであり、少なくともルールが設定されたことは評価されてしかるべきである。だから、秘密指定が適切であったのか否かの判断を「完全独立な第3者」が行うべきか「第3者的機関」で良いのか、それは議論が分かれるが、少なくとも官僚が見えないところでコソコソやるのに比べたら全くましな話である。この点も「現状維持」と「不完全ながら法案成立」のどちらがましか、そのプライオリティを適切に評価するべきなのである。

さて3つ目の問題であるが、仮に完全に独立な第3者機関を設定しそこで秘密指定の適切さを判断したとする。そうすれば適切に判断がなされるのか?答えは「否」である。下記の記事を見て頂きたい。

産経ニュース 013年12月5日「特定秘密 民主政権の秘匿をメディアはどう報じたか

ここでは権時代に起きた尖閣漁船衝突事件において、海上保安庁の一色正春氏がビデオをYouTubeに流した問題を、各メディアがどの様に報じてきたかが紹介されている。自民党は当時から、あの様な情報は「特定秘密はない」いう立場だったが、民主党政権は確実に「特定秘密に相当」として扱おうとしていた。秘密会的に限定された国会議員に閲覧を許した事実はあるが、一般国民の知る権利の対象とはなりえないというスタンスは明確だった。それは、まああれだけのタコな政権だから適切な判断が出来なくても仕方がないのだが、しかし、「我こそは正義なり」と大上段に振りかざす天下の大新聞がどの様なスタンスだったのかは知っておくべきであろう。

記事を引用する形で順番に見て行こう。参考までに、まず最初は仙谷元官房長官の発言も加えて、朝日新聞と毎日新聞の記事は以下の通りである。

=========================
仙谷氏:「大阪地検特捜部の(押収資料改竄(かいざん)・犯人隠避)事件に匹敵する由々しい事態だ」「逮捕された人が英雄になる。そんな風潮があっては絶対にいけない」
朝日新聞社説2010年11月6日:「仮に非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反することであり、許されない」
毎日新聞社説2010年11月6日:「国家公務員が政権の方針と国会の判断に公然と異を唱えた『倒閣運動』でもある」
=========================

どう考えても大阪地検特捜部の押収資料改竄・犯人隠避事件と同列に扱うべき話題ではなく、明らかに国民の知る権利の対象となり得る事案である。記事では一色氏は書類送検だけで不起訴だったから「逮捕」の事実はないともご指摘していて、仙谷元官房長官は明らかに誤った表現(誤報)で人権侵害に相当する。にもかかわらず、天下の朝日新聞、毎日新聞は完全に民主党政権にべったりである。もともと反自民・反権力色の強い左派系の新聞だから、民主党政権に対しては大アマの論調が多く、自ら知る権利を放棄していた証拠がここに示されている。つまり、朝日新聞や毎日新聞の社説を書くような人たちが秘密指定の管理の第三者に指定されたら、この様な誤った判断をしてしまってもおかしくはないということを意味している。にもかかわらず、今になって「知る権利!」「知る権利!」と騒ぎ立てるのだから、そのブレ幅は相当なものである。第三者的機関を内閣府内に設置し、首相も第三者的にチェックするという考え方は、確かに問題のある考え方だとは思うが、仮に朝日新聞や毎日新聞の社説を書くような人たちに任せていたらもっと酷いことになるであろうことが予想できるなら、そのブレ幅の少ない人たちに任せた方がましかも知れない。この辺は、法案を運用しながら最適化の補正を少しづつ行えば良い話である。

この様に、「我こそは正義」と偉そうに言う人たちは、その人たちが日本政府のことを信じることが出来ないと思うのと同様に、その思想・信条の偏りから私には彼らのことが信用できない。例えば、石破幹事長が絶叫系のデモを「テロと本質的には変わらない」と発言したことにマスコミは噛みつき、「表現の自由を侵害するものだ!」と批判しているが、であれば在日特権を振りかざして脱税をおおっぴらに繰り返す連中のデモ行進を「ヘイト・スピーチ」と呼び糾弾することと、「表現の自由の侵害」の折り合いをどうつけるべきなのだろうか?一方で、「ヘイト・スピーチ」と呼ばれるデモ隊と敵対して彼らと頻繁に暴力事件を繰り返す団体のデモ行進は、何故、糾弾しようとしないのか?さらには、韓国や中国国内の超超が幾つもつく「超ヘイト・スピーチ」「超ヘイト・クライム」の糾弾に、どうして及び腰なのかが理解できない。つまり、朝日新聞や毎日新聞にとっては「ご都合主義」が当たり前な訳で、その様な人が日本政府を「ご都合主義」で「法案の恣意的な運用」の恐れがあると言っても、目糞、鼻糞を笑うとしか見えないのである。つまり、真剣に反対しているようには見えないのである。

最後に、先週の朝まで生テレビでは面白いシーンがあった。番組最初に各新聞社の世論調査の紹介があり、アナウンサーの村上祐子アナが「(某新聞社では)法案に反対の方が多い結果が出ていた」「他の2社の調査では(両方とも賛成の方が多いのだが)賛成・反対が拮抗していた」と紹介していた。これを聞いた田原総一郎氏が激怒し、「違う!賛成の方が多いと言え!」と叫び、村上アナが「そうですね、賛成の方が多いですが拮抗しています。」と言い直そうとするのを更に激怒して「そんなんじゃダメだ!」と叱りつけていた(正確な表現は忘れたが・・・)。これらは、マスコミによる反特定秘密保護法案キャンペーンが繰り返し行われた結果の世論調査だから、相当、反対側にバイアスがかかっているはずだが、それでもこの程度に収まっていて、それが不愉快だから反対票が多い新聞社だけ「反対が多い」と断定的に取り上げ、賛成が多いと「拮抗している」として結果を黙殺するのである。この手の議論は、恣意的に事実を捻じ曲げようとする試みが宜しくないという話なのだから、その議論に加わるのであれば、両者の各論点ごとの意見のひとつひとつに是々非々で臨み、現状維持か良い法案を作り上げるべきなのかを明示して、真の意味で国民のため、国益のために最良な道を選択しなければならない。そのための真摯な対応を、せめて新聞社にはとって貰わないと、国民の間に真の意味の議論は広がらない。

結果として法案は成立し、その完成度はそれ程高まることなしに着地してしまった。私としては100点満点からは程遠いが、現状維持よりは大いにましな及第点の部類だと思っている。

決断できる政治というものを、国民はもう少し評価しても良いのだと思う。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます