けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」のタイトルの意味を探して・・・

2013-10-24 23:43:11 | 日記
今日は政治のお話はお休みで、昨日観た映画(レンタルDVDで借りたもの)について書いてみたい。既に周回遅れという感じだが、日本では昨年の2月に公開された「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い(原題:Extremely Loud & Incredibly Close)」である。私の癖ではあるが、映画のタイトルに対する執着が強く、このタイトルの意味を考えた末の自分なりの結論をここでは書いてみたい。多分、このブログの読者も観たことのない映画だろうからどうでも良い話だが、興味がある方は映画を観れば共感を感じてもらえると信じている。ネタバレになる部分は最後の方に明記するので、映画をいつか観る気のある人は観終えてからコメントを読んで欲しい。

さて、この映画はアメリカの9.11のテロ事件を題材にした映画で、監督はスティーブン・ダルドリー氏で、2012年のロンドンオリンピック、ロンドンパラリンピックでは、開会式・閉会式の総合プロデューサーを務めたという。主人公の子供は新人だが、トム・ハンクスとサンドラ・ブロックが父、母役を演じている。9.11で父を亡くした子供が、その父が残した謎の「鍵」が何の鍵かを捜し歩くというストーリーである。何かのテレビ番組で映画評論家が絶賛していたので非常に気になっていたが、結婚してからは映画館で映画を観る機会がすっかりなくなり、しかもレンタルDVDにしても子供向けの映画を借りてみる機会が多くなってしまったから、大分遅れての鑑賞だった。大人向けの映画を嫁さんと一緒に観たのは久しぶりでもある。

まあ、自称・映画評論家と言われる人は、視聴者が映画に興味を持ってくれてナンボの商売だから、過剰に高い評価をするのは良く分かるが、1度見ただけではその意味が分からなかった。

引き合いに出すのも如何なものかとも思うが、アメリカにおける9.11は、日本における3.11に相通じるものがある。日本においても3.11を扱う映画はあるが、日本人にとって3.11を描くというのはある種、特殊な意味がある。私にとっては、最近の「あまちゃん」が描いた3.11がとても印象的だった。朝ドラという特殊性故に、「あまちゃん」には出演者の中には津波で死亡した設定の者はいなかった。ただ、短絡的には「ドラマチックに描きたい」とお涙ちょうだい的に過剰な演出に走りたくなるところを、宮藤官九郎の本領発揮で、極めて抑えた演出で「あまちゃん」流の3.11が描かれた。多くの登場人物は、打ちのめされ途方に暮れながらも、同情を誘うような素振りを見せず、誰かに頼るのではなく現実を直視しながら何処かで「自分の力で乗り越えなければならないもの」と割り切っているようなところがあった。思ったようには物事は進まないが、ひたむきに頑張り続ければ、いつか乗り越えられる日が来るという描かれ方だった。朝ドラという与えられた場の中で、短絡的でドラマチックなハッピーエンドとは異なる一種独特の抑えたエンディングだった。

一方で「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」は映画という媒体の中で、思いっきり狙った通りの演出が許されるのだが、見終わった後の感想は「???」という、クエスチョンマークが連続するものだった。それなりに「良かったね」という終わり方ではあったが、「それだけかよ!」と文句を言いたくなるような終わり方だった。正直、最初の1時間ほどは恐ろしく退屈なシーンが続く。さっさと先に進んで欲しいのだが、それがどの様な意味があるのかと思うような逸話が多く出てきて、思わずうつらうつらしてしまう様な流れだった。そして何よりも私が消化不良だったのは、何とも独特なタイトルの意味が全く分からないのである。私は確信を持って言わせてもらうが、もし有能な映画監督であれば、そのタイトルを何にするかは滅茶苦茶時間をかけて考えるはずである。それほどタイトルというのは重要な存在である。過去のブログでも少し触れたが、私は「ソフィーの選択(原題:Sophie's Choice)」という映画を観てえらく感動した。ある時、テレビでこの映画を放映した後、映画評論家の水野晴郎氏が、「人の人生には色々な『選択』がある。この映画も、そんなソフィーが下した色々な『選択』を描いている」と解説したが、私は非常に不快になったのを覚えている。この映画のタイトルの「選択」は、決して複数の「選択」など指してはいない。たったひとつの「選択」が全てを決めてしまったのである。物知ったように解説しようとして、脚本家や映画監督の意図を捻じ曲げてしまったという感想を持った。その様なこだわりがあるのでだと思うが、(根拠はないのだが)観終った時に何かこの不思議なタイトル「Extremely Loud & Incredibly Close」の裏に、私が気が付かなかった何かが隠されている様な確信を得るに至った。そこで、映画を観終わった後でネットでタイトルの意味を探しまくった。しかし、何一つとして私を納得させる答えは見つからなかった。

以下はネタバレになるのだが、その様なもがき苦しみと、その後で見出した結論についてまとめておきたい。

まず、ネット上に流れていた答えで一番多いのは、「『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』存在=母親」というものだった。父親との繋がりが強い故に、母親とは上手くいかずもがき苦しんでいた子供が、最後の最後に母親と和解するに至ったので、だから「母親」が答えだと言いたいのだろうが、それは有り得ないと私は確信する。この問題を解く上で、私が気になった点を以下に整理しておきたい。

(1)「Extremely Loud & Incredibly Close」というタイトルは、子供が自分の「鍵探しの旅」の進捗を逐次まとめていた本の表紙に書かれたものであった。だから、この映画のタイトルを理解する上では、この子供が何故表紙のタイトルとして「Extremely Loud & Incredibly Close」を選んだかを理解する必要がある。子供が母親を意識してこの様なタイトルを付ける訳がない。また、本の表紙のタイトルは子供が最初に付けただろうから、母親との最後の最後の和解を予期できていた訳がない中で、母親を表題にする訳がない。

(2)映画の原題と邦題を比べると、「Incredibly」を「ありえない」と訳している。素直に訳せば「信じられないほど近い」となるはずだから、敢えて「信じられない」を「ありえない」と訳すことには何か意味があるに違いない。

(3)タイトルとは直接関係ないが、映画の宣伝では謎の「鍵」がこの物語の非常に重要な「鍵」という位置づけであったが、終わってみれば、「鍵」などどうでも良いものであった。鍵の持ち主が「貸金庫に一緒に行ってみるかい?」と聞かれ、私は当然の如く「行く」と答えると思ったが、少年はそれを拒んだ。家に帰ってからも、膨大な時間をかけた「鍵探しの旅」が無意味であったことに感情を抑えきれなくなり暴れるに至った。「鍵」は「鍵」じゃないじゃないか・・・という不満は私にも伝染して不快になった。

(4)映画のオープニングは父親がWTCビルから落下するシーンから始まる。それ以外にも様々な所で人の落下シーンが登場する。煙を上げるWTCビルは映し出されていたが、WTCビルの崩壊シーンなど、あまり刺激的なシーンを利用していなかったから、どうしてそこまで落下シーンに拘るかが分からなかった。この拘りはあまりに不自然である。

(5)映画監督は最後に母親との和解のシーンや、ブランコで遊ぶシーンを挿入している。少々、短絡的な挿入の仕方の様に思える一方で、前半部分の1時間ほどの間には退屈なシーンを多用している。映画をドラマチックに仕上げたければ色々なやり方があると思うのだが、この監督は一般受けのする映画という誘惑を断ち切って、前半をわざと退屈に演出するという選択をしたように感じた。能力の高い監督なのに、何故、その様な演出にしたのだろうか?

まあ、こんなところだろうか?1日ほど考えて、最後の最後に(1)の「何故、少年は本の表紙に『Extremely Loud & Incredibly Close』を選んだのだろう」という問題に立ち返り、「では、少年にとって『Extremely Loud & Incredibly Close』とは何なのか?」を考えるようになった。少年は目的をもって「鍵探しの旅」を続けていたはずである。だから、その目的を達成できずに家に帰ってから荒れてしまったのである。では、何を求めて「鍵探しの旅」をしていたのか?

私の答えは、この少年は自分の心の中に様々なトラウマがあり、それを乗り越えなければならないものと感じていたに違いない。その「乗り越えるべきもの」を探して「鍵探しの旅」を続けていたのである。その「乗り越えるべきもの」は極めて抽象的で、しっかりとその原因を「これだ!」と言い切れるものではなく、ぼんやりとしたものである。父親がWTCビルからかけてきた電話の向こうの騒々しさや、自分をところ構わず襲い続ける「電話に出なかった自分」を責める声など、タンバリンを叩いていなければ耐えられない「ものすごくうるさい」ものがそこにある。一方で、逃げようとしても逃げれない、自分の体にまとわりつくような「ありえない近さ」も感じていたに違いない。決して、この様に解説する様なものではなく、多分、少年の心の中では「何か良く分からないが、感覚的にしか捉えられない『乗り越えなければならないもの』を敢えて言葉にするならば、それは『Extremely Loud & Incredibly Close』って感じかな・・・」という程度のものだったに違いない。だから、それを「何か、もっと具体的な物」と信じて探そうとしていると「母親?」とか誤解してしまうのではないかと思った。

多分、少年は毎夜毎夜、父親がWTCビルから落下してくる夢を見ているのではないかと私は思った。その夢から逃れる、ないしは電話に出られなかった自分を受け止めるためには、何か父親が与えた試練を乗り越えなければならず、そのために「鍵探しの旅」を始めたのだろう。しかし、見つかった「鍵」の答えは、少年が期待する様な「父親が与えた試練」を感じさせるものではなく、その長い長い時間が全くの無駄になったことが耐えられなかったのだと思う。しかし、答えは意外な所にあったのである。少年が「乗り越えなければならないもの」を探している時、自分の母親も自分なりに「乗り越えなければならないもの」を持っていて、それを乗り越えるために自分と一緒にその何か(「鍵」のことではない)を探していてくれた。自分一人で乗り越えなければ許して貰えないと信じていたのに、自分が上手く関係を構築できないと感じていた母親が、母親なりの「乗り越えなければならないもの」を探している姿を目の当たりにして、永遠の孤独から解放されたような気持ちを感じたのだろう。だから少年は、ブランコという壁を「乗り越えられるかも知れない」と信じるに至り、偶然にもそのブランコの下に父親が残した手紙を見つけ、ブランコを乗り越えるに至った。

時系列的にはどちらが先かは分からないが、「Extremely Loud & Incredibly Close」と題した「鍵探しの旅」をまとめた本の最後に、赤い紐を引っ張ると、ブランコから投げ出された父が放物軌道を描きながら上手くWTCビルに着地するパラパラ漫画を描くことができた。今まで落下してきた父しか思い浮かべることが出来なかったのが、WTCビルにジャンプアップする父の姿に昇華することが出来るようになった。まさに、彼が「乗り越えなければならないもの」を乗り越えたことを象徴するシーンである。

蛇足ではあるが、少年の苦しみは長い長いトンネルであり、(監督にとっては)その感覚を我々が感じるためには前半の退屈な長い長いシーンが必要だったのだろう。決して9.11をドラマチックに描くのではなく、自分自身で乗り越えなければならないものとして描いているように感じた。誰かが手を差し伸べて乗り切るのではなく、あくまでも自分自身で乗り越えるしかないのである。その乗り越えるための「鍵」として、あくまでも小物としての「鍵」が登場する。それは決して「魔法の鍵」ではなく、もっと地味でつまらない「鍵」なのだろう。あくまでも小物でしかないが、それがなければ乗り越えるべきものを乗り越えることが出来なかった、そのきっかけとしての「鍵」は重要な意味を持つ。誰も、「魔法の鍵」に頼ることは出来ないという象徴なのだろう。

映画を観終わった後の不完全燃焼な感覚と、色々と考えて自分なりの答えを見つけて映画を思い出した時の評価は大分異なるものである。アメリカ人にとって9.11を描くということは、そう単純なものではないのだろう。それを理解するには、少々、生みの苦しみの様なものが必要なのかも知れない。だから、あの映画のそれぞれの退屈なシーンは、今となっては全て必然のようにも思えてくる。少年が謎解きの様な「鍵探しの旅」に出かけたように、監督も我々に「謎解き」を投げかけたのかも知れない。多くのユーザによる評価ではこの映画はあまり高い点数を得ていない。その「謎解き」の難しさがその評価の低さの原因であると今は感じている。それも9.11をテーマとする映画の宿命かも知れない。

色々と書きながら、上手く表現しきれていないが、それでも言いたいことの70%ぐらいは表現できたのではないかと思う。あの映画を観た人の多くはタイトルの意味を探しにネットを捜し歩くに違いない。その時の感情を共感してみたい。そんな気持ちで今日のブログを書かせて頂いた。

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