けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

朝鮮半島が永久に統一できない理由

2015-10-02 00:45:45 | 政治
実は長いことブログをお休みしていた際に、一番書きたかったが時間がなくて書けなかったことを書いてみようと思う。それは、下記の記事に関する話である。

長谷川良 ウィーン発コンフィデンシャル2015年10月1日「朴大統領『南北統一近し』発言の背景

これは今年の7月、朴槿恵大統領が何の脈略もなく突然「来年にも南北は統一されるかもしれないから、準備するように」と言い出したというニュースを受けての続報記事である。ここでは、その根拠が最近になって明らかになったということで、その理由は

「北朝鮮労働党幹部の一人が脱北し、韓国当局に北国内のホットな情報をもたらした。その内容を聞いた韓国当局者は、『南北統一は案外早いかもしれない』という印象を受けたというのだ。その報告を受けた朴大統領からは『南北再統一が来年にも』といった発言が飛び出したわけだ。」
「それでは、脱北の北幹部は何をもたらしたのか。簡単にいえば、『金正恩政権は崩壊寸前だ』というのだ。北指導部は統治能力を失い、いつ崩壊しても不思議ではないというのだ。」

と説明している。

つまり手短に言えば、金正恩政権の崩壊が避けられなくなったときに、金正恩が素直に失脚する訳がないので、絶対に暴発するはずだから事前に備えをしておきなさいと言うメッセージだったということである。

まあ、分からないでもない話だが、少々笑いを抑えられない内容だ。素人の私でも、自分の次に位置するNo.2、No.3の人材を残虐な殺し方で抹殺しているのを見れば、その政権が長くないのは容易に予想できる。過去に北朝鮮では、黄長(ファン・ジャンヨプ)という朝鮮労働党書記であるNo.2の人材が敵国の韓国に亡命した事件を知っている。No.2程の人材が多くの情報を持って亡命すればいざ知らず、少なくとも名前も役職も分からない、中堅クラスの幹部が亡命したところで、それで事態が変わるとは思えない。少なくともその程度の諜報能力は韓国も持っているだろうから、ドラスティックに何かが変わるほどの決定的な事態の変化が知らされたとは考えにくい。だとすれば、私の様な素人ですら周知の事実を改めて知らされて、それで指揮権を持つ最高権力者が「南北再統一が来年にも」などと言うのであれば、何ともお粗末な国である。

しかし、である。今日はそこには目を瞑ろう。そういう話ではないのである。朝鮮半島には、絶対に統一できない理由があるのである。

それは、中国が韓国主導による朝鮮半島統一を認めないからである。もう少し厳密に言えば、中国主導による金正恩政権からの権力移譲以外に選択肢がないからである。例えて言えば、北朝鮮のクリミア化である。

順番に説明してみたい。まず、韓国が期待する韓国主導による朝鮮半島の統一シナリオを考えてみたい。統一後に何が残るかと言えば、そこには核兵器製造技術が残る。その技術者は金正恩ファミリーではないから、統一後は核兵器開発技術者は追放されたり処刑されたりすることはない。一時的にある程度の核兵器は叩き潰されるかも知れないが、何処かに隠し持っていたり、ないしはその技術を生かして短期間に核兵器が製造できる状況ではあるから、統一後の韓国が核兵器保持を目指すことは容易に予想がつく。その時、アメリカは韓国に制裁を課そうとするが、あれだけアメリカがプレッシャーをかけても中国にひた走った韓国を止めることは出来ない。韓国からすれば、いつまで経ってもアメリカにも中国にも大きな態度が取れない背景には核武装していないからという気持ちがあるから、「ここは踏ん張りどころ」とばかりに、歯を食いしばってその制裁に耐えるだろう。韓国の国民感情も極めて感情的だから、アメリカ嫌いで且つ中国嫌いの国民性から、「ここで妥協したら、孫子の代まで禍根を残す」と思って耐えるに違いない。
では中国はどうか?中国は、韓国人が本心では中国嫌いであることを熟知している。事大主義の韓国が中国に長い長い歴史の中で逆らわなかったのは、中国の力が絶大で、全く逆らう余地がなかったからである。しかし、核兵器を持ちさえすれば、中国とやっと対等の関係になれる・・・と思うであろうから、3000年の歴史の中の積年の恨みをここで晴らそうと韓国が考えるのは痛いほど良く分かっているはずである。しかし、その韓国が核兵器を持ち、そして現在の中朝国境にて韓国の核が中国に向けられる時、今までの北朝鮮という緩衝地帯が無くなり、直接的な脅威がそこにあることを実感することになる。
この様な事を中国が黙って見ている訳がない。もっとも考えられるシナリオは、金正恩ファミリー全員の亡命を中国が受け入れ、その際に臨時で樹立されるクーデター政権にクリミアの様に中国併合を申し出させるのである。ロシア軍がそうであったように、電光石火の如く平壌を中国軍が制圧し、中国軍を背景とした臨時政府が早々に宣言してしまえば、もはや韓国は手が出せない。北朝鮮の核がそのまま中国の核に置き換えられ、一方で、世間知らずの若造の暴発の恐怖は払拭される。しかし、韓国が幾ら異論を唱えても、もはや覆水盆に返らずである。平壌を制圧した中国を追い払う力は、韓国にもアメリカにもない。

この様に書くと、金正恩が亡命提案を呑む訳がないと言われるかも知れないが、軍国主義教育を徹底された者であればどうか知らないが、彼はスイスで多感な時期を過ごし、平和的な生活をすっかり享受してきた経験者である。名誉の為に、一族郎党を全て死に追いやるような選択よりも、金正恩ファミリー全員の命の保証と経済的な保証を優先するはずである。これまで、No.2、No.3の人材を残虐な殺し方で抹殺してきた中で、これが単なるバカヤローであればもっと短期に政権は崩壊しているはずである。にも拘らず、未だに政権を掌握している背景には、優秀なブレーンがいると共に、ギリギリのところで感情を抑えて暴発を踏みとどまる能力位はあるのである。であれば、政権の崩壊が確実視された時点で、中国に亡命を打診するのは目に見えている。中国は中国で、その様なサインがいつ出ても大丈夫なように、非常に注意深く見守っているはずである。

その様な関係が中国と北朝鮮の間にあることに朴槿恵大統領は目をそむけ、先日の中国での抗日70周年の軍事パレードに参加し、世界に「習近平国家主席への忠誠」を示してしまった。仮に金正恩政権の崩壊が真近に迫っているとして、現在の韓国の経済状況は風前の灯である。この経済状況で中国が北朝鮮を併合した際に、韓国が中国と絶縁関係を取ることは経済的な自殺となる。既に、「何処までも、中国様について行きます」と宣誓してしまっているのだから、もう、逃げることは出来ない。クリミアを取り返すことができないアメリカを見ても分かるように、アメリカも北朝鮮を取り返すことは出来ない。韓国は、中国のしたことを追認するしか道が残されていないのである。

少し考えれば明らかなことで、多分、中国もアメリカも、この程度のシミュレーションはしているだろう。しかし、韓国は楽天的な考えしかできない国だから、この様なシナリオは思いもしないかも知れない。しかし、現実は思っているより厳しいのである。

結論として、朝鮮半島は永遠の分断が間もなく確定することになるだろう。

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「解釈改憲」と「憲法解釈の変更」の違い

2015-10-01 01:07:41 | 政治
最近、先週末の朝まで生テレビを少しづつ見ているのだが、まだ最後まで見終わっていない。全て見終わったところでまた何か書こうかと思うのだが、途中経過の中で些細な話ではあるがちょっと気になった点を整理してみたい。それは「解釈改憲」と「憲法解釈の変更」の違いについてである。

まず確認しておきたいのだが、安倍政権は明確に「解釈改憲」ではないことを宣言している。私の当初の理解では、「憲法解釈の変更を行ったのではなく、集団的自衛権の解釈を変更した」のだと思い込んでいたが、これはどうやら間違いで、「憲法解釈の変更」は行われていたということらしい。この辺の理解は以下に説明を加えておく。

まず、昨年5月15日に行った安保法制懇談会の報告書提出を受けての「平成26年5月15日 安倍内閣総理大臣記者会見」の中で安倍総理が以下の様に語っていた。

「今後、政府与党において具体的な事例に即してさらなる検討を深め、国民の命と暮らしを守るために切れ目のない対応を可能とする国内法制を整備します。これまでの憲法解釈のもとでも可能な立法措置を検討します。」
「切れ目のない対応を可能とする国内法整備の作業を進めるに当たり、従来の憲法解釈のままで必要な立法が可能なのか、それとも一部の立法に当たって憲法解釈を変更せざるを得ないとすれば、いかなる憲法解釈が適切なのか。今後、内閣法制局の意見も踏まえつつ、政府としての検討を進めるとともに、与党協議に入りたいと思います。与党協議の結果に基づき、憲法解釈の変更が必要と判断されれば、この点を含めて改正すべき法制の基本的方向を、国民の命と暮らしを守るため、閣議決定してまいります。」

つまり、基本的には現行の憲法解釈を逸脱しない範囲で国内法制を目指す一方、どうしても憲法解釈の変更が必要となる法案に関しては、新たな憲法解釈としてどうあるべきかも含めて議論するというものであった。横道にそれるが、ここでは憲法9条の基で自衛隊が合憲である根拠を説明していたが、私がこれまで理解していた芦田修正の立場には歴代内閣は沿っておらず、憲法13条を自衛隊の合憲性に関する法的根拠にしているとのことだ。

この後、7月1日に新しい安全保障法制の整備のための基本方針を閣議決定した後の記者会見で、「現行の憲法解釈の基本的考え方は、今回の閣議決定においても何ら変わることはありません。」と語っている。この後の様々な場での発言でも、今回の安保法制では従来の憲法解釈の基本方針からいささかも逸脱していないとの発言をしている。一方で、今年に入っての参議院での論戦では、「国際情勢にも目をつぶって、その責任を放棄して従来の(憲法)解釈に固執をするのは、まさに政治家としての責任の放棄だ」とも語っている。

この様に考えると、安倍総理は「憲法解釈の変更」を意識しているものの、明確に「憲法解釈の変更」を行ったとは宣言していない。安倍総理の発言を検索する限りでは、少しの検索では引っかからないのだ。

そこで、「解釈改憲」と「憲法解釈の変更」の違いについての解説が何処かにないかと探してみたら、どんぴしゃのものがあった。ただ、これは弁護士ドットコムで読者からの質問に(サイト運営側の?)弁護士の個人的な見解を示したもので、それ程、権威のあるものではない。それを承知で引用してみよう。

弁護士ドットコム「『解釈改憲』と『憲法解釈の変更』の違いとは?

(質問)「解釈改憲」と「憲法解釈の変更」の違いとはどのようなものなのでしょうか?
(回答)解釈改憲というのは、本来は、憲法改正手続を経ない限りできない国家行為を、憲法解釈の枠内で、合憲であると主張して、その国家行為を、政府や国会が行うことを言うのだと思われます。憲法解釈の変更というのは、たとえば、裁判所が、これまで合憲と判断してきた国家行為を、違憲だと判断する場合をいうのだと思われます。

この説明は分かり易い。噛み砕けば、「解釈改憲」とは実質的に「改憲」に相当する行為を一方的な主張で行うことであることに対し、「憲法解釈の変更」とは憲法を維持したまま、時代の変化に伴い「法的安定性」を一部犠牲にしながら、その「法的妥当性」を優先して憲法の枠内で解釈を変更することに相当する。つまり、前者は憲法の枠を逸脱し、後者は憲法の枠内での行動に相当する。この様な理解をした上でかどうか知らないが、朝生に出演した片山さつき氏は「憲法解釈の変更」を行ったと明言している。産経新聞ですら、「憲法解釈の変更」は明言している。

一方で、公明党のホームページ内には下記のニュース記事があった。

公明党「『解釈改憲』の批判は誤り

これは、参院予算委員会で公明党の西田実仁参院幹事長が横畠裕介内閣法制局長官に対して行った質問の紹介である。その一部を以下に抜粋する。

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西田氏は、今回の閣議決定について一部の報道で「9条崩す解釈改憲」などとの不安をあおる論調が見られる点に言及し、内閣法制局の見解を求めた。
横畠内閣法制局長官は「今般の閣議決定は(自衛権に関する政府の憲法解釈の基礎となっている)1972年の政府見解の基本論理を維持しており、これまでの憲法第9条をめぐる議論と整合する合理的解釈の範囲内のものであると考えている」と指摘。
その上で、「今般の閣議決定は、憲法改正によらなければできないことを解釈の変更で行うという意味での、いわゆる解釈改憲には当たらない」と明言した。
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これは公明党の公式見解に相当し、やはり明確に「解釈改憲」ではないとしている。ちなみに、昨年6月の段階で公明党の山口代表は「憲法の規範性、論理的整合性を保つ中で憲法解釈は形成されてきた」、「憲法解釈を基本的な規範の枠内で整理、補充、明確にする機能を政府は持っている」と述べ、実質的に憲法解釈の変更を容認している。

なお、さらに調べると、自民党は昨年7月の閣議決定後に「安全保障法制整備に関するQ&A」を発表している。少々長いが以下にポイントを抜粋する。

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Q2 憲法解釈の見直しは立憲主義に反するのではないですか?
A2 立憲主義に則って政治を行っていく、当然のことです。憲法解釈については、最高裁判所に解釈を最終的に確定する権能がありますが、行政府が憲法第65条(「行政権は、内閣に属する」)の下、行政権を執行するために憲法を適正に解釈します。
今回の閣議決定は、憲法の規範性を何ら変更するものではなく、これまでの政府見解の「基本的な論理」の枠内における合理的な当てはめの結果です。立憲主義に反するものではありません。
なお、読売新聞社説(7月2日掲載)でも、「今回の解釈変更は、内閣が持つ公権的解釈権に基づく。国会は今後、関連法案審議や、自衛権発動時の承認という形で関与する。司法も違憲立法審査権を有する。いずれも憲法の三権分立に沿った対応であり、『立憲主義に反する』との批判は理解し難い」――と指摘されています。
Q3 今回の「解釈改憲」で憲法の規範性が損なわれる、との批判がありますが。
A3 今回のいわゆる自衛の措置としての「武力の行使」の「新三要件」は、わが国を取り巻く安全保障環境の大きな変化を踏まえ、昭和47年の政府見解の基本的な論理の枠内で合理的に導いた、当てはめの帰結です。
解釈の再整理という意味で一部変更ではありますが、憲法解釈としての論理的整合性、法的安定性を維持しています。憲法の規範性を何ら変更するものではなく、合理的な解釈の限界を超える、いわゆる「解釈改憲」ではありません。
集団的自衛権の行使容認の検討にあたり、現行憲法の下で認められる自衛権の行使は、必要最小限度の範囲内にとどまるという従来の基本的立場を変えるものではありません。また、今回の閣議決定により、直ちに自衛隊が活動を実施できるわけではありません。今後、法律の改正が必要となります。政府において必要な法案の準備ができ次第、国会で審議を行うことになります
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つまり、「解釈改憲」と「憲法解釈の変更」は似て非なるものであり、意味するところは180度異なっている。憲法第65条で合憲的に認められた行政府の権能を行使するのが「憲法解釈の変更」であり、合理的な解釈の限界を超えた「解釈改憲」とは全く別物である。
私はその差を理解できなかったが、多分、多くの人はその差を理解せず、自民党や公明党ですら「憲法解釈の変更」を認めているのだから、「解釈改憲」であることが確定!とばかりに勝ち誇った報道が多いが、明らかにミスリードの意図がそこにある。

なお、ついでにコメントしておくと、安保法制反対派が砂川判決が集団的自衛権の合憲性を認めていないという主張は多分正しい。しかし、「この主張が正しいこと」と、「自民党の主張が間違っていること」はイコールではない。少々ややこしいが解説する。以下に高村副総裁講演記事を紹介する。

産経ニュース2015年2月21日
【高村副総裁講演詳報】
『民主・岡田氏の批判は政争のためといえるでしょう』集団的自衛権行使めぐり

この記事の中で、高村副総裁は次のように語っている。

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憲法の番人である最高裁が自衛権に触れたのは後にも先にも(昭和34年の)「砂川判決」だけです。自衛隊の合憲性を判断する判決ではありませんが、「国の存立を全うするために必要な自衛措置は講じ得る。主権国家として当然である」と言っている。
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ここで「自衛隊の合憲性を判断する判決ではありません」としており、当然ながら集団的自衛権の合憲性もここでは議論していない。しかし、砂川判決は統治行為論を認めた判決である。統治行為論とは、「国家統治の基本に関する高度な政治性”を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論」であり、砂川判決の中でも「一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」としている。つまり、高村副総裁は集団的自衛権の合憲性を主張しているのではなく、集団的自衛権が「一見してきわめて明白に違憲無効と認められない」のであれば、「違憲ではない」と主張しているのである。「違憲立法」は禁止されているが、「違憲ではない」立法は禁止されていないから、立法府及び政府の裁量の範囲内と説明しているに過ぎない。しかし、野党の主張や報道を見る限りでは安保法制が「一見してきわめて明白に違憲無効と認められる」根拠は聞いたことがない。あくまでも、これまでの政府答弁との不整合性を突くだけで、解釈の変更に関する裁量権が憲法で認められる以上、「一見してきわめて明白に違憲無効と認められる」とは言えないはずである。

以上、色々書いてきたが、結構、紙一重のところで論点はズレていて、野党やマスコミはそのズレを都合良く利用しているに過ぎない。ミスリードばかりしていると、そのうち、お尻に火がつくことになると思うのだが・・・。

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真の意味で日本を戦争に導く行動

2015-09-24 23:47:18 | 政治
久しぶりのブログから、また日数がたってしまったが、是非とも多くの人に共有して頂きたい事実を一点だけコメントさせて頂く。

結論としては、民主党や共産党、SEALDsなどの人々の行動は、一見、平和を訴えているので平和に貢献しているように見えながら、その裏には中国軍が日本にミサイル攻撃を仕掛ける国際法的正当性、及びアメリカがそれを阻止することを禁止する国際法的制約を与えることになるという、「真の意味で日本を戦争に導く行動」を取っていることになっており、これほど日本国民を危険に陥れるリスクをはらんでいることを広く知らしめるべきである。

以下、具体的に説明する。

このブログでは何度も書かせて頂いたが、国連憲章の53条、107条に規定されている「敵国条項」では、例えば

月刊WiLL:2013年2月号(2012年12月26日発売)「中国の奥の手は『敵国条項』

などに詳しく説明されているが、早い話が

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(「中国の奥の手は『敵国条項』」より一部抜粋)
この2国が「再び侵略戦争の動きを見せた時」、あるいは「第2次世界大戦で出来上がった国際秩序に対して、それを棄損する行為に出た時」には、国連加盟国は安保理の決議や承認がなくても、自国の独自の判断によって日本やドイツに対しては軍事的制裁を行うことができる、とされているのである。
そして安保理やアメリカを含むいかなる加盟国も、それに対抗したり阻止したりすることはできない、とわざわざ念が押されているのである。
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ということである。

ここでの「第2次世界大戦で出来上がった国際秩序に対して、それを棄損する行為」とは、「ファシズムを排し、民主主義及び立憲主義を尊重し、それぞれの国家の領土を尊重して平和的に行動する」という新たな国際秩序に対し、「ファシズムを台頭」させ、「民主主義を崩壊」させ、「立憲主義に背く野蛮な行動」をとり、その一連の流れの中で戦後確立した「戦勝国の領土を侵略する行為」に出るのであれば、それは明らかに「それを棄損する行為」に該当するから、その様な現象が起きた暁には、中国は「安保理の決議や承認がなくても、自国の独自の判断」で日本に軍事的制裁を与えることが許されており、即ち「日本にミサイルをぶち込んでも、アメリカは文句を言ってはならないし、中国の邪魔をしてはならない」ということである。

ここで、最後の「戦勝国の領土を侵略する行為」というのは、尖閣諸島に関連して中国が常日頃から言っている話であり、既に中国はこの部分に関しては条件を満たしていると勝手に理解している。ただ、日本が民主国家として紳士的に行動し続ける限りは、国際世論において単独行動を起こすことを認めないだろうが、「ファシズムを台頭」させ、「民主主義を崩壊」させ、「立憲主義に背く野蛮な行動」をとっていることが証明されてしまえば、話はこの限りではない。ここでの「証明」とは、裁判での認定などは必要なく、日本国民が認めればそれで十分である。この「日本国民が認める」というのは日本人全員が認める必要はなく、国際社会がその様な印象を持つ程度の根拠があれば良いのである。日本の国会議員があれだけ「安倍は戦争をしたがっている!」「ファシストだ!」「ヒトラーと同じだ!」「立憲主義は死んだ!」「憲法違反の法律を強行している!」「民主主義は死んだ!」と囃子立て、テレビや新聞でもそれに追従し、更に火に油を注ぐ行動をしていれば、何も知らない国際社会には十分にアピールしたことになる。中国からすれば、十分過ぎるぐらいにお膳立てが整ったことになる。

つまり、尖閣で小競り合いが起こった時、日本国内の米軍基地がない場所に限定的に中国軍がミサイルをぶち込んだとしても、国連憲章上はそれが認められるべきなのである。現時点でこれに歯止めをかけれるのは、中国側の経済的な損得勘定でしかない。戦争が起きれば国際社会から中国への投資が引き上げられ、各国の自発的経済制裁により国内経済に破壊的ダメージが生じると思うから、それにより国内での暴動、クーデターが起きることを避けるたえには、戦争を控えざるを得ない。しかし、中国国内が行き詰まり、中国共産党への国民の不平不満が爆発しそうになった時、戦争により国論をひとつにまとめあげ、その結果、共産党を延命させるという無茶な選択肢を取ろうとする指導者が出ていてもおかしくはない。ないしは、指導層による指導力の低下により、短絡的な軍部が暴発し、勝手にミサイルを発射する、ないしは尖閣を占領するというシナリオも十分に考えられる。

いずれにしろ、全面戦争にまでは発展しなくても、日本に対して壊滅的な被害をもたらす結果につながるのは目に見えている。この様なリスクが高まる理由は、彼らが嘘で嘘を塗り固め、「安倍は戦争をしたがっている!」「ファシストだ!」「ヒトラーと同じだ!」「立憲主義は死んだ!」「憲法違反の法律を強行している!」「民主主義は死んだ!」と言いまくっているからである。

実際には「戦争は起きてしまったら終わりだから、起きないように抑止力を高める」、「閣議決定後に、集団的自衛権や集団安全保障を明記した政権公約を掲げて、それでも民主的な選挙で選ばれた国会議員の力により、民主的な手続きで法案成立を果たした」、「憲法の解釈改憲はしておらず、集団的自衛権の定義に関する解釈のみを変更し、従来の憲法解釈は維持し続けている」、「国会議決は民主主義の基本の多数決で行われた」のである。

この様に整理すれば、民主党や共産党、SEALDsなどの人々が、「真の意味で日本を戦争に導く行動」を取っていることは明らかである。マスコミも、この点を積極的に議論してほしい。

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久しぶりのブログ(安保法案の成立について)

2015-09-20 23:00:10 | 政治
最近忙しさが増して、全くブログを書ける状況になかった。ブログを書く(推敲する)時間がないこともさることながら、忙しいと様々な情報をネットで閲覧する時間もなく、書きたくてもそれなりに掘り下げた書くネタすら中々得られない状況であった。今後もこの状況は暫くは続くと思うが、安保法案の成立の機会に思うことを少しだけ書いておきたい。

まず、少々関係ないお話になるが、過去のブログ「イスラム国への非対称な戦略」の中で「非対称な戦略」というもについて書かせて頂いた。例えば、中国が空母を投入し、東シナ海、南シナ海の制覇に乗り出してきたとき、日本の自衛隊も空母を持って対抗すべきという話になるかと言えばそうではない。静穏性に優れた日本の潜水艦をそこに投入することで、潜水艦からの突然の魚雷攻撃を嫌う空母に対しては、有事の際に空母の日本近海への接近阻止を図ることが可能である。正面からガブリ四つで臨むよりも、相手とわざと噛みあわない非対称な戦力を投入することが、圧倒的な軍事費の中国に効率的に対応するには効果的であるということである。

民主党を始めとする野党が今回の安保法案で取った戦略は、まさにこの非対称な戦略なのである。論理的な国会論戦を期待した自民党に対し、極めて感情論的な戦略でわざと論点をはぐらかした。また、与党が「今現在の政治に問われる課題」を前面に出したのに対し、野党は1年先の「参議院選挙の選挙活動」に専念した。選挙活動では目立った者勝ちの側面があるので、とにかく国会内でのパフォーマンスに終始する。アメリカの大統領選などでは顕著だが、ネガティブキャンペーンの有効性は確認済みなので、「自民党って感じ悪いね!」攻撃をなりふり構わず仕掛けてくる。

しかし、これらの攻撃が右翼でも左翼(ないしはサヨク)でもない人々に訴求できている形跡は少ない。世論調査のやり方次第だが、多分、「今国会中の採決は見送り、もっと長い時間をかけるという前提は必要だが、最終的には法案は必要なのではないか」という選択肢があれば、多分、これを選択するという人が多数派になるのではないか?しかし、これを「今国会中の採決は見送るべき」という選択肢に置き換えると、結果的に「今国会中での成立」という意見は少数派になり、見かけ上は安保法案に反対の民意がそこにある様に演出することができる。しかし、典型的な報道ステーションの9月12日、13日の世論調査結果を見ても、内閣支持率こそ下げてはいるが、自民党の支持率はナント、46%で現在上昇中である。一方の民主党は12.4%で支持率を下げている。今回の採決の最新の状況を反映したものではないが、中道のサイレント・マジョリティは自民党を評価し、かなり左に寄ったノイジー・マイノリティの人々が法案反対に大きな声を挙げたが、このお祭りに踊らされる人々を共産党や民主党などで相互に食い合いになり、その結果、あれだけテレビで大騒ぎをして歴史的な流れが出来ている様に見えながら、全体の支持率を伸ばす結果に繋がらないということになっているのだろう。

ちなみに、今回の安保法案の騒動の中で面白い傾向に気が付いた。安保法案に賛成の人と反対の人と、様々な有識者に意見を聞いた際の回答が、揃って一定の傾向を示していた点である。まず、安保法案に賛成な人々の中で、手放しでこの法案を評価している人は皆無である。例えば維新の会の対案などの中にも評価できる部分はあるから、それらを取り込める部分は取り込むべきという考え方とか、この部分は稚拙な規定で最低限のハードルをクリアできていないとか、結構、賛成でありながら批判的に厳しい指摘が多い。しかし、法案に反対する人々の中では、「安倍はヒトラーだ!」とか「戦争法案だ!」とか、刺激的な言い方からして明らかなように、自らの支持する方針に対する客観的な反省を述べる人は皆無に等しい。欠点や課題を認めれば、そこが蟻の一穴となって水が漏れだすことを恐れているかの様で、自分に厳しい姿勢で臨む姿が皆無である。テレビを見ていると、何を議論をしているのか理解できていないような、如何にも騙されやすそうなタレントが訳の分からないことを言うのは理解できるが、しかし、理系の論理的な思考を得意とするような方々(必ずしも専門分野ではない)が短絡的な罵詈雑言を浴びせているのを見ていると、一体、何が起きているのかと不安になってしまう。これらの方々は、実は、その程度の思考能力しかなかった人だったのかと思うと、それまでの尊敬の念は吹っ飛んでしまう。

以下に、興味深いブログを紹介したい。

森口朗公式ブログ「2015-09-19 太鼓を叩いていた子達に『民主主義』と『民主主義の敵』を教えよう

ここでは、非常に丁寧に「民主主義とは何か?」を説明し、その様な民主主義に対する「敵とは誰なのか?」を説明している。この説明に異論を挟める人はいないと思うが、反論をする人がいたら聞いてみたい。以下、一部抜粋して紹介してみる。

=======================
1 「民主主義」とは、意見の違う相手の立場を尊重することです。
ですから「平和安全法案」を勝手に「戦争法案」と呼ぶような人達は民主主義の敵です。
(・・・中略・・・)
2 「民主主義」とは、いきなり自分の考えを押し付けるのではなく、相手との妥協点を探ることです。
 ですから、国会で多数派を占める与党を基盤にする政府法案を、気に入らないかといって妥協点を見いだす努力もせず「廃案!廃案!」と叫ぶ人達は民主主義の敵です。
(・・・中略・・・)
3 「民主主義」とは、妥協点を見いだせなかった時には多数決で全体の意見を決めることです。
 人間ですから、いくら話し合っても妥協点を見いだせないこともあるでしょう。そういう時には、人の値打ちは皆平等ですから、全員が平等に同じ1票を持って多数決で意見を決める。それが民主主義です。
(・・・中略・・・)
4 「民主主義」とは、多数決で決まった意見に皆が従うことです。
(・・・中略・・・)
 皆さんと一緒にデモをしたおじさんおばさんが、もし「こんな国会議決に従えない」と叫んだとしたら、その人達が民主主義の敵です。
(・・・後略・・・)
=======================

上述の私のコメントで、賛成派が自己批判的で、反対派が自己絶対肯定的というスタンスでいることを、別の言葉で丁寧に諌めている。反対派は、「民主主義とは少数意見に耳を傾けることだ!」と言いながら、「多数意見に耳を傾けなくても民主主義は成立する」というスタンスを崩さない。意味が分からないが、その様な話をしても分かり合えない人はいるのである。

今回の安保法案で与党側の最大の弱点は「違憲の可能性」である。朝日新聞は、憲法学者の98%が安保法案を「違憲」または「違憲の可能性あり」と指摘したというが、その憲法学者の7割は自衛隊を「違憲」または「違憲の可能性あり」としている。そのくせ、ほぼ100%が「憲法の改正は必要ない」としているから、これまた意味不明である。客観的に予想すれば、「違憲状態は許されない」はずだから、この状態を解消するために「自衛隊を解散すべき」ということなのだろうが、朝日新聞のアンケートではその点までは踏み込んでいない。しかし、「自衛隊を解散すべき」という主張を受け入れられる日本人はせいぜい2~3%程度であろうから、残りの97%の日本国民はその様なガラス細工の法論理構成の上で、かろうじて自衛隊が日本の防衛に当たることができていることを思い知らなければならない。

ここで、砂川判決を代表とする最高裁判決の中で、最高裁が「日本が固有の自衛権を有することを認める」との立場を明確にしたこと、少なくとも「自衛隊は違憲である」との立場を示したことがないこと、の2点は安保法案に反対する憲法学者であっても認めるところだから、「『自衛隊の存在を容認する』との立場に最高裁があること」は間違いない。しかし、1度でも憲法9条を読んだことがある常識的日本人の言語感覚から解釈される憲法9条と、上述の憲法解釈の最終権限を有する最高裁の解釈の内容に乖離があることは明らかで、最高裁は上述のガラス細工を支持する選択肢を選んだことに疑いはない。

昨年7月の閣議決定の際には、安倍総理の説明では、憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認するのではなく、集団的自衛権の定義をより細分化し、従来の集団的自衛権を「フルスペックの集団的自衛権」と再定義し、従来の憲法解釈で認められないのは「フルスペック」の方であり、3要件による限定化された集団的自衛権というものは当時は全く想定していなかったのだから、「限定化された集団的自衛権の行使を容認することは、従来の憲法解釈を何ら逸脱するものではない(憲法解釈は変えていない)」とのことであった。これまたガラス細工の最高傑作とも言うべきものだが、統治行為論を認める最高裁が「これまでのガラス細工は良くて、この先のガラス細工がNGである」との考えに立つ理由は見つけにくい。多くの「憲法違反だから反対!」の意図するものは、多分、「ガラス細工はNGである」というニュアンスだろうから、「では、どうしてこれまでのガラス細工は良かったのか?」と問われると、例えばSEALDsなどの学生などは答えに窮してしまうのだと思う。

思い起こせば、自衛隊を違憲だと主張していた日本社会党の村山富一元首相は、瓢箪から駒で首相の座を得た途端に「自衛隊は合憲」と認めてしまった。沖縄の普天間飛行場の移設先を「最低でも県外」と言っていた鳩山元総理は、総理になって1年で辺野古移設を容認してしまった。「責任ある立場」は「人を作る」のである。(一応は筋の通った)ガラス細工はガラス細工であっても、国民の平和と安全を守るためには、背に腹は代えられぬからそれを認めるようになるのである。

結局、合憲か違憲かの議論も非対称の戦略の道具にされてしまっているのであまり意味はないが、これがもう少し真面目に議論され、何処までのガラス細工を許容すべきかの議論になっていくと、最終的に国民は改憲の道を選ぶのだと思う。そう考えれば、一概に悪い話ではないのかも知れない。

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AIIB問題をマスコミは何処まで掘り下げているのか?

2015-04-04 00:44:27 | 政治
今日はAIIB不参加問題についてコメントしたい。ただ、今日のブログの趣旨は「参加すべき」か「参加しないべき」かについての答えを出すことではない。この参加/不参加の議論の仕方、マスコミの解説の仕方について振り返ってみたいと思う。

まず、今さらではあるが巷では色々な論点について紹介されている。その点を幾つか整理してみる。

=================
【積極賛成派】
・いつまでもアメリカ追従外交は卒業すべき
・ASEAN諸国に加えて欧米も雪崩を打って参加しており、どうせ入らなければならないなら、そのバスに乗り遅れるな
・AIIB創設メンバーになるとならないので、その後のインフラ受注に差がでるので、日本国内の経済界の損得を考えれば参加すべき
・アジアの開発途上国のインフラ需要は桁違いで、世界銀行やアジア開発銀行などでは賄いきれないので、AIIBは真に必要な存在であるはず
・AIIBに問題があるならば、その中に入って発言力を確保して改革を進めるべき
【参加慎重派】
・全てのルールが中国主導になる流れを断ち切るためには不参加は当然
・融資に関する審査、融資決定の手続きの透明性が担保されていない
・AIIBを許したらアジア開発銀行がじり貧になる
・融資に際して環境影響評価などの基準があいまいで、世界規模の環境破壊につながりかねない
・AIIBにより現在の基軸通貨ドルの相対的な価値が下がり、中国人民元が基軸通貨に躍り出る契機になりかねない
=================

まあ、こんなところだろう。テレビを始め、多くの記事を見る限りでは、自らの主張をアピールするためには、上述の論点の中の自分に都合の良い項目だけをつまみ食いし、一方で他の問題を黙殺してあたかも自分の主張が正しいことをアピールするものが多い。しかし、言うまでもなくその様な偏ったコメントは殆ど価値はなく、全体の利点と欠点、メリットとリスクを整然と整理しながら、その中の判断基準とすべきポイントに対する優先度を解説するのが本来の筋であろう。

例えば、積極派の「アメリカ追従ばかりでどうする!!」との主張に対しては、「では、あなた方リベラル系の方は中国追従ばかりだが、中国追従が良くてアメリカ追従がNGな理由は何処にある?」と切り返せばそれで終わりである。慎重派の「融資に関する審査、融資決定の手続きの透明性が担保されていない」に対しては、「ならば、最初から参加して内側から改革を求めた方が良いというイギリスの主張」にはどう反論するのか?とか、さらに言えば、「日本やアメリカが参加すれば、出資金における中国の比率が相対的に下がり、結果的に中国の出資比率を下げて発言力を低下させることができるはず」と言った議論ができるはずである。

実は、TBSラジオの荻上チキSession22の3/31の放送でこの辺の解説が丁寧になされており、ポッドキャストで聞くことができている。

荻上チキSession22 2015年04月01日(ポッドキャスティングで聴く)「アジアインフラ投資銀行、日本の対応は?

ここでは元アジア開発銀行研究所所長で東京大学公共政策大学院・特任教授の河合正弘氏や、元在中国日本大使館経済部参事官で現代中国研究家・経済評論家の津上俊哉氏などをゲストに解説をしていた。その中で分かったことや、それでも新たに疑問に感じることがあったのでそれを整理してみる。

まず、世の中的に「世界銀行」があるのに何故「アジア開発銀行」があるのかと思うのだが、これはアジア開発銀行だけにとどまらず、「世界」全体を相手にするのではなく、アジアやアフリカなど地域に根差した地域版の「世界銀行」は4つほどあるらしい。それではそれぞれがカブってしまうのではないかと言えば、確かにカブりはしているのだが、それなりに上手く行ってはいる様ではある。ただし、最初がどうだったかと言えば色々紆余曲折はあったようだ。最初に世界銀行がある中で、日本がアジアでのイニシアチブをとってアジア開発銀行を設立しようとしたとき、アメリカは反対したそうである。その結果、出資比率は日本とアメリカで綺麗に15.65%ずつを出資しており、日本が好き勝手には出来ない様に発言権を分け合った形である。総裁こそは毎回日本から選出するが、副総裁職にはアメリカが席を確保し、しかも本部は日本ではなくフィリピンのマニラに置いている。日本とアメリカが突出するのを避けるだけでなく、その他の国に対してもそれなりに配慮していることが感じられる。また、普通の町中の銀行の様な「設けるビジネスのための銀行」とは一線を画したもので、その設立の理念なるものが重要視されているらしい。世界銀行にしてもアジア開発銀行にしても、例えばその設立の目的は「貧困の撲滅」といった崇高なもので、「儲かれば良い」という様なものではないらしい。だから、融資の申請をしても環境審査や住民の合意などの厳しい審査などを時間をかけて行うため、融資実行までは5年近くかかるのは普通だという。そのスピード感のなさが、アジアの発展を妨げているというのが中国の主張で、だからこそAIIBが必要なのだという。世界銀行やアジア開発銀行が扱う融資額に比べてアジアの需要は圧倒的に大きいから、もっと融資のハードルの低い銀行がジャブジャブの融資を行うことこそが、アジアの発展に繋がると中国は暗黙に主張している。ただ、中国もAIIBを失敗させたくはないので、そんな無茶なやり方は考えておらず、人材としてその道のスペシャリストを雇い入れて、少なくとも設立当初から傍若無人なやんちゃ坊主を演じることはなさそうである。

さて、この様な背景を知った上で、素朴な疑問が湧いてくる。まず、AIIB云々以前の話として、アジア開発銀行ですら本当に必要であるのか?という問題である。世界銀行という公の組織があるのであれば、その組織の規模を拡大し、統一的な基準でより多くの国々に広く融資を行えるようにすれば良かったのではないかと・・・。例えば、国際連合という世界的機関が存在するのに、それとバッティングするポジションで第2国際連合の様な国際組織が出来上がったら混乱するはずである。しかし、一方でヨーロッパのEUの様な地域限定の組織が出来るのであれば、その地域内に根差した課題を扱う上で、その必要性は国際連合とはバッティングしない。それは東南アジアではASEANとか、アフリカやアラブ諸国にはそれなりの組織であったり、やはり地域や民族、文化特有の地域性というのは考慮されて、国際規模の組織の地域版があるのはそれなりに妥当なことは理解できる。更に地域を絞った連合体などがあるなら、それはそれでまた許容できる。しかし、類似の既存の組織がある中に追加の組織を立ち上げるとなると、それは常識的に背景に政治的な要素が付きまとう。言わば、第2国際連合の様な完全に既存組織とバッティングする存在として、AIIBが急に浮上したのである。もし仮に、第2国際連合の様な組織を立ち上げようとする国がいたとしたら、それは既存の世界秩序をリセットすることが目的であることは明らかである。AIIBは国際秩序ではなく、金融秩序であるからもう少し穏やかかも知れないが、経済力と政治力(外交力)は表裏一体だから、金融秩序のリセット狙いは即ち国際秩序のリセットをスコープに入れていると見るのが自然である。下記の記事で長谷川幸洋氏が主張しているのは、即ち安全保障の秩序のリセットという視点でAIIB問題を捉えるならば、多くのリベラルなマスメディアの論調とは全く異なる議論が本来はなされるべきということになる。

現代ビジネス ニュースの深層2015年4月3日「AIIB不参加を批判するリベラル派マスコミは、大勢順応、軍国主義時代と同根

つまり、純粋な経済問題としての参加・不参加の議論と、安全保障の観点からの参加・不参加の議論は全く別である。当然、結論は真逆となることは容易に想像できる訳で、その時に「経済問題」として捉えるべきか、「安全保障問題」として捉えるべきかは2者択一ではなく、双方を俯瞰的に眺めて総合的な結論を出さなければならない。当然、それぞれの視点には優先度があり、その様な優先度や対処療法の有無などを議論しなければならない。その議論の深さは、その何処までを丁寧に考慮に入れているかで評価されるべきである。

例えば、上述の議論でイギリスが主張したような「AIIBに問題があるならば、その中に入って発言力を確保して改革を進めるべき」という論点を例に取ってみよう。上述の荻上チキSession22での解説では、現時点での中国の出資比率は1/3程度だそうである。ここに日本が加わると、その出資比率を1/4程度まで低減できるそうだ。そうなれば、少なくとも現状よりは中国の発言権は弱まるから、十分に参加の意義は大きいということになる。しかし、それはそう単純ではなさそうだ。アジア開発銀行の設立においては、アメリカに相当、嫌な顔をされたそうだが、それでも日本の出資比率は15.65%という低いレベルである。しかも、総裁は確保するが本部はマニラであるから、相当、日本の権限は制限を受けてバランスが保たれている。しかし、仮に日本が加わったとしても中国が25%強の出資比率を抑え、総裁と共に本部を北京に設置することになれば、アジア開発銀行における日本のポジションなどと比較にならない強大な権力を中国が握ることになる。この様な状況で、AIIBの内部からの改革がどれだけ実現できるかは相当怪しい。一方で、日本とアメリカが不参加を決めたことで、AIIBの格付けは世界銀行やアジア開発銀行と比べて格段の低さになることは容易に予想が出来る。ちなみに、AIIBはインフラ投資の銀行であるが、ここで「銀行」とあるように、別に参加国の出資金を貸し出してビジネスをする訳ではない。出資金を担保に信用を確保し、大雑把に言えばそこで債券を発行して国際マーケットからお金を調達し、それを発展途上国に融資してビジネスが成り立つのである。ここでの格付けは、債権の金利に直結するから、信用が低ければ高い利率でなければ債権の買い手はいない。当然、高い金利を発展途上国は払わなければならないから、信頼の高いアジア開発銀行の低い利率とは競争関係になる。金利が高いAIIBからお金を借りる発展途上国というのは、真っ当な審査基準では融資が受けられない国々の案件だろうから、それは環境問題を引き起こしたり、貸し倒れとなるリスクが高い訳である。しかし、その様な無理筋でのビジネスを強行すると、イギリスやドイツなどが離脱する可能性もあるから、更に雪崩を打って格付けを下げる危険がある。だから、その様な中で中国はAIIBの格付けを高めたいだろうから、そのためにはアメリカや日本に対して何らかの譲歩を提示して見たり、アジア開発銀行との協調関係を意識するようになるかも知れない。こうなると、日本やアメリカのAIIB参加は安直なAIIBの格付けアップにつながり、中国側が譲歩の必要性を感じない事態を生じさせかねない。全くの裏目である。その様な解説も、殆ど聞いたことがない。

多くのメディアの解説は、これらの視点のほんの上辺だけをなぞった程度のモノが本当に多く、中々、本当の意味での正しい判断がいづれかを理解するのが難しい。これらは全て、最初に「結論ありき」の様な感じで、取ってつけたような解説だらけである。しかし、エイヤで決めることが許されるほど、今回の問題は軽い話ではなさそうである。長谷川氏の記事でも解説がある通り、政府の判断の説明の中で「安全保障」の話を口にするのは中国に喧嘩を売るようなもので決して口には出来ないが、その様に陽には言えないことも含めて、何処まで深く掘り下げたかが全く見えないマスコミの不真面目さは相変わらず困ったものである。

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ブロガー・かさこ氏の秀逸なブログに思う(古賀暴走事件の続き)

2015-04-02 00:59:00 | 政治
昨日のブログで「報道ステーション古賀暴走事件」について記事を書いたが、その関係でブログを読み漁っていた中で非常に面白い記事に辿り着いた。正直、久しぶりに心が洗われる思いでブログを読んだ。それは「かさこ」という名前(男性)方のブログであり、例えば下記の2件が報道ステーションネタと関連のある興味深い記事である。

ブロガーかさこの「好きを仕事に」2015年3月31日「報ステ古賀騒動&映画『A2-B-C』に思う。履き違えた言論の自由は弾圧を招く
ブロガーかさこの「好きを仕事に」2015年3月26日「反原発カルト教団映画『A2-B-C』の上映中止は当然

この記事の著者は、カメラマンであり物書き(ライター)であり、「シロウオ~原発立地を断念させた町~」というドキュメンタリー映画の監督でもある方だそうで、最後の映画のタイトルを見ても分かる通り、バリバリの反原発派の方だそうである。この映画も見たことがないし、この方の作品も読んだことはないが、このブログの記事は幾つか読ませて頂いた。ある種の感動と言うか、清々しい気分になる。上記の2件の記事の1件目のタイトルにもある通り、外国人監督が福島の現状をドキュメンタリーと位置付けて製作した「A2-B-C」という映画作品と、古賀騒動を関連付けてコメントしている。この1件目の記事を見る前に、2件目の記事を先に読むとこの著者の主張が見えて来る。

実は、この「A2-B-C」という映画の公式サイトを見ると、例えばピーター・バラカン氏などの批評コメントなども記載されていて、グアム国際映画祭では賞を受賞したと書かれている。結構な称賛なのだが、福島に関する誤った報道を繰り返し目にしている我々からすると、何ともステレオタイプな盲目的な人々の思い込みに、どれだけ福島の人が迷惑を受けているかを訴えたくなる。まさに反原発の映画なのだが、その反原発派の急先鋒と自負する著者自身が、この映画のことを「反原発カルト教団映画」と切って捨てている。まず、書き出しの部分の一部を引用させて頂く。

=========================
私は反原発の急先鋒といっても過言ではないが、
福島原発事故による福島の放射能汚染被害を描いた、
自称ドキュメンタリーと称している映画「A2-B-C」の上映委員会が、
突如、解散することになり、
やれ検閲だの、甲状腺問題はタブーなのか、といった声が出ているが、
私から見ればこのクソ映画はドキュメンタリーでも何でもなく、
反原発派の私でさえ、目を覆いたくなるような恥ずかしい映画で、
むしろこんなクソみたいな映画を作っちゃうから、
原発推進派や原発容認派に反原発がバカにされ、
どんどん原発再稼働が推進される結果になっていると思う。
・・・中略・・・
福島県の人は生命保険に入れない「らしい」。
福島県の若い人に中絶が増えている「らしい」。
福島県の子どもに発疹が出ている人が多い「らしい」。
らしいをいくら集めても何の説得力もない。
「らしい」が事実なのか確かめるのがドキュメンタリー映画じゃないのか。
らしいを集めて不安を煽ってセンセーショナルに反原発と叫ぶなんて、
安全でも何でもないのに安全だと豪語して、
無理やり原発再稼働をする原発推進派のクソと何ら変わりない。
=========================

以下の記述のどれを取っても瀬得力のある内容である。しかも、これだけケチョンケチョンに非難しているのに、ホンの数分の評価できる映像には称賛を送っている。それは小さな子どもが放射線バッジを付けて遊ぶ姿のシーンなのだが、「こっちは線量が高いからダメなの!」と分かっていながら、遊び始めたら理性などなく線量の高い自分の遊びたい場所で遊んでしまう子供の本能を表すストレートなシーンがあるらしい。駄目なものは駄目だが、それでも僅かながら残る称賛すべき点を称賛するその潔さが何とも清々しい。

この様な流れの中で古賀氏の暴走を振り替えると、古賀氏は言論の自由や表現の自由を盾に、自分が狂信的に信じるデマや事実無根の話を拡散していた訳で、それにより政府が言論統制に走る口実を与えかねないと説いている。こちらも少し引用してみたい。

=========================
事実かどうかもわからない「デマ」を垂れ流せば、
社会に実害が出るわけで、実害が出れば、
政府にとって言論の自由や表現の自由を弾圧する、絶好の口実になる。
自由には責任が伴うわけで、
責任のない作り方をしていれば、
自由が取り上げられることになりかねない。
自由っていうのはなんでもいいってことじゃない。
そこを履き違えている人がいるから、
国民はバカにされ、政府からあらゆることを管理されるようになる。
=========================

ここでのキーワードは「自由」と「責任」であり、これは「権利」と「義務」と置き換えても良い。私の知る多くの「権利」を主張する輩は、「義務を放棄する権利」を主張しがちである。言い換えれば、「責任を放棄する自由」があると彼らは言いたいのだろうが、そんな訳はない。

ただ、全てのこの著者の意見に賛同するかと言えば、少し意見の異なる部分もある。私の昨日のブログでも引用した長谷川豊氏のブログについて、この著者は「古賀氏は妄言を吐いているから降板は当然」というのはおかしな話で、「事実」と「意見」は別物で、古賀氏はコメンテータであり「意見」を求められたのだから、古賀氏の勝手な思い込みを意見として番組内で主張するのはアリだとしている。これは、「事実」と「意見」が明確に区別されていれば私は大いに賛成する。例えば、コメンテータがキャピキャピのアイドルで、全くもって専門性がない人が好き勝手な短絡的なことを言っていれば、誰もがそれは「個人的な意見」であると了解する。しかし、まかりなりにも日本と言う国家を切り盛りしてきた優秀な官僚OBとなれば、それが例えば(宇佐美典也氏が指摘するように)中東問題や原発問題に関しては古賀氏がど素人であったとしても、見ている人は「コメンテーターって専門家だよね?」と誤解してしまうのである。だから、そこで語られる「意見」が「事実」であるかの様な誤解を与えてしまう訳で、そこが問題なのである。昨日のブログでも引用した古館&古賀バトル全文を読んでも、安倍総理が戦争をしたがっているとかいう妄言が、単なる個人的な解釈(思い込み)であるとは言っておらず、それが事実化の様な断定形で発言している。それなりのリテラシーがあればすぐわかる話だが、リテラシーに欠ける視聴者にはこれが分からない。別に予定調和のみが良いとは言わないが、視聴者のミスリードを誘う様なアプローチは卑怯であり、放送法の縛りを受ける公共の電波での発言には適さないと言っている。

少し話が逸れるが、著者のかしこ氏の主張である、極端な無茶で無責任な発言は、逆に相手に付け入る隙を与えるから逆効果というのは大いに賛成できる点である。例えば、最近の産経新聞では慰安婦問題に続き、南京大虐殺の特集を行っていた。ここでの産経新聞のスタンスが最も明確に表れているのは下記の記事である。

産経ニュース2014年12月28日「【歴史戦 第8部 南京『30万人』の虚妄(4)前半】騒動に巻き込まれた英国人
産経ニュース2014年12月28日「【歴史戦 第8部 南京「30万人」の虚妄(4)後半】『責任は敵前逃亡した蒋介石に』NYタイムズ元東京支局長に聞く

ここでは日本への滞在歴が50年に及ぶNYタイムズ元東京支局長の英国人記者、ヘンリー・ストークス氏の主張を引用しているのだが、ここではあくまでもナチス・ドイツのホロコーストの様な「人道に対する罪」として糾弾されるようなことがあった訳ではないと否定しているだけで、中国兵が軍服を脱ぎ、民間人に偽装したゲリラとして活動するのを見つけ出して(数?)千人規模で殺害したかも知れないことまでは否定していない。これは軍服を着た捕虜とゲリラは国際法上での扱いが異なり、ゲリラに関しては捕虜として裁判を受ける権利も認められておらず、その場で銃殺されても当然というルールであった。それがケシカランと言うのであれば、その点について議論すれば良い。しかし、産経新聞の残念なことは、リテラシーの不足する読者に対して、短絡的な「南京大虐殺はなかった!」と言う印象を与える様な記事内容になっていて、これが「歴史修正主義者!」とのレッテルを張る人々に対して付け入る隙を与えてしまっている。

原発にしても古館&古賀バトルにしても南京大虐殺にしても慰安婦問題にしても、相手の付け入る隙を与えない丁寧な議論が本来は求められるのだが、その様な点を過剰と言われるまでに注意深く扱わないと、逆にそれが裏目になるリスクを伴うのだ。古賀氏の様なアプローチを取る人は、その様なリスクなど屁とも思っていないのでそれで平気なのだろうが、産経新聞などは絶対にそれは彼らの主張を世界的に認知させるためにはマイナスに働くために、より一層の慎重さが求められる。それが彼らに課せられた「責任」であり「義務」なのである。

今回は色々と論点の多い出来事であった。他人の振りを見て、我が振りを直す良い機会なのかも知れないと感じた。最後に、かしこ氏の様な方と丁寧な原発再稼働容認派の方の議論を聞いてみたい。それはきっと、驚くほどに有益な議論になるだろう。その結論がどうなろうとも・・・。

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「報道ステーション古賀暴走事件」から学ぶ

2015-03-31 23:58:50 | 政治
ここ最近、忙しくてブログを書いている暇がなかったが、最近の報道の中で色々不満に感じていることが、ここ数日の様々なブログや報道を読みながら、何となく整理できたのコメントをしてみる。

最初に結論を言えば、「話せば分かる」と言いながら実際には分かり合えないことが多いのは、一方が「私こそ絶対の正義」と宗教的に思い込み、その思い込みが(宗教的なだけに)論理的な正当性を説明する責任を放棄するからである。この様なケースでは多くの場合、感情論にのみに訴えて、あくまでもその思い込みに対して感情的な共感をしてくれる人を募ることになる。極めて幼稚なやり方だが、第2次世界大戦に突入した当時の煽情的な新聞報道はその様なやり方で多くの読者の共感を生んだ。国全体が好戦的になり、国内では2.26事件などのクーデター騒ぎがあり、当時の政治家の中に仮に戦争回避を求める者がいたとしても、とてもその流れを止められる様な状況ではなかった。その様な政治家の気概のなさは問題かも知れないが、今現在に話を戻せば、根拠もなく「私こそ絶対の正義」と叫ぶ輩は客観的に見れば極めて危うい存在である。勿論、戦時中の反戦論者も危険分子と見なされていたから、それが危険であっても言論の自由は認められるべきである。しかし、その様な人のあからさまに偏った発言に対しては、多くの一般市民の報道に対するリテラシーを高めないと対抗することができない。だから、根拠のない「正義」に対しては、根拠などないのだから盲目的に信じてはいけないという啓蒙が必要なのである。

さて、では順番に説明をしてみる。

まず事の発端は、先週金曜日の報道ステーションでの古賀茂明氏の行動である。殆どの方は熟知しているので今更ながらだが、書き起こしがあるようなので引用してみる。

Livedoor News 2015年3月28日「古舘伊知郎氏と古賀茂明氏の『報道ステーション』バトル全文書き起こし

早い話が、この日で報道ステーションの定期的ゲストコメンテータを終了することとなった古賀茂明氏が、古館キャスターから中東情勢に対するコメントを求められながら、それに全く関係ない自身の降板に対する不満を固有名詞を多数あげつらいながら、一方的に相手を非難して古館氏と言葉上での喧嘩を繰り広げたという放送事故(確信犯なので事件?)の話である。終いには、社交辞令的に楽屋話として古館氏が古賀氏に「自分は何もできなかった。本当に申し訳ない」と発言していた話を切り出し、「私は全部録音させていただきましたので、もし、そういうふうに言われるんだったら、全部出させていただきますけれども」と恫喝までしている。更には、「一方で、菅官房長官をはじめですね、官邸の皆さんにはものすごいバッシングを受けてきましたけれども。」と菅官房長官が古賀氏やテレ朝にに対して圧力をかけたことを繰り返していた。また、最後の方では古賀氏お墨付きの放送プロデューサがこの春で更迭になるとの主張もしていた。ちなみにこれらを古館キャスターは否定している。
この辺の古賀氏の意図は、番組終了後に待ち構えていた古賀氏の支援者が、別途、記事にしているので、こちらの方と比べるとより意図が明確になる。

IWJ Independent Web Journal 2015年3月27日「2015/03/27 【速報】『報道ステーション』終了直後の古賀茂明氏に岩上安身が緊急直撃インタビュー!降板の内幕を衝撃暴露
田中龍作ジャーナル2015年3月30日「古賀茂明氏、単独インタビュー ~官邸編~

この中で古賀氏は「何もなくプラカードを出せばただの馬鹿ですが、官邸が個人攻撃をしてきているんです。菅官房長官が、名前を出さず、私を批判してきています。『とんでもない放送法違反だ』と裏で言っていると聞いています。それは大変なこと。免許取消もあるという脅しですから。」として、菅官房長官が古賀氏に対する悪質な個人攻撃をしていると主張している。その根拠が後者の記事に記載されている。例えば、菅官房長官が側近と報道ステーションの話題に触れたとか、選挙前にテレ朝の篠塚報道局長が「選挙があるのに古賀なんか出していいのかな?」と言ったとか、官房長官の秘書官がテレ朝の報道局幹部に「ひどい話だね」とメールをしたとか、菅官房長官がぶら下がりのオフレコ会見で「俺は本当に頭に来た。俺だったら放送法違反って言ってやったのにな」とか、その様な話らしい。

ただ、これらの根拠はどれも希薄なものばかりである。古賀氏に情報をリークする者は全て古賀信者なので、そこに大分バイアスがかかったものになるのは言うまでもない。もし真っ当なジャーナリストを自負したいなら、そのバイアスをキャンセルする作業を自分の頭の中で構築できなければならない。バイアスをキャンセルした上で、異なる立場の方々を均等に取材し、それぞれの言い分をかみ砕いて裏取りをするのはジャーナリズムの最低限の掟である。たかだかその程度のことができない人には、公平・公正で論理的議論に耐えうる発言は期待できない。非常に政治的に偏った者の発言を一方的に垂れ流すのはテレビ放送が縛られる放送法という立派な法律で禁止されており、特に選挙期間中などにその様な者を出演させれば、放送局からすれば免許取り消しの危険すら避けられない。必然的に、選挙期間という危険な時期に危険な人物を出演させることは放送事業者にとっては死活問題なので、放送局の自己判断としてその様なコメンテータの出演を避ける権利は認められている。当然、ペーペーの社員なんかではなく、経営責任が問われる報道局長であれば、政府からの圧力などあろうとなかろうと、自らの会社が法律違反を起こして放送免許を取り上げられる危険を冒さない責任が問われる。逆に、明らかに放送法違反となるような事態に「とんでもない放送法違反だ」と発言する権限が閣僚には存在しないというのも変な話で、表現の自由、思想信条の自由の視点からすれば、明らかに筋違いで悪質な恫喝行為でない限り、思ったことを発言する権利は時の官房長官や総理大臣にもあるはずである。しかし、その様な権利を認めず、放送法も完全に無視をして、それで自分の権利を一方的に押し通すところが凄い。この辺を、宇佐美典也氏がブログで綴っていた。

宇佐美典也のブログ2015年3月29日「I am not KOGA
宇佐美典也のブログ2015年3月5日「古賀茂明氏がテレビから追放されたのは当たり前の話

ここでは放送法も引用しながら解説を行い、特に古賀氏が自分の専門外のことに関して、個人的な意見やデマをさも真実であるかのように断定的に語る罪深さを糾弾している。一般に、報道ステーションでは同時に複数のコメンテータを呼ぶことはない。古賀氏の場合にも、一人で番組に出演していることが殆どであろう。であれば、彼が個人的な意見やデマを一方的に発言しても、それに異を唱えるバランスを取るコメンテータはいない。古館氏は時折、フォローをするのだが、そのフォローにも限界があり、仮に最後に一言「その様な見方をする方と、また別の味方をする方と、様々な方がいます」と言ったとしても、それが報道番組である以上、多くの人は古賀氏のデマが「嘘」である可能性を読み取れる人は圧倒的に少ない。あれだけ古館氏が烈火の如く怒らなければ、そこに「何かある?」と感じることはまずないだろう。

さて、この宇佐美氏の指摘する放送法だが、多分、この放送法の意図するところが分からない人もいるだろう。少し噛み砕いてみたい。この宇佐美氏のご指摘の様に、放送法では政治的な偏りのない公正な報道が求められている。一方で、例えばアメリカなどではメジャーな新聞紙が政治的な偏りを持って報道を行っていることは有名である。社説などでは堂々と、支持政党の側を評価し、対立陣営に厳しい指摘をしてもそれが事実に基づくものであれば何ら問題はない。しかし、放送法は明らかにこれとは異なり、異なる対立する意見があれば両論を併記することを求められる。これは何故か?イマイチピンとこない人がいるかもしれないが、放送の電波というものは「資源」なのである。例えば携帯の電波などは携帯事業者は喉から手が出るほど欲しい訳で、先行したドコモやauなどが比較的遠くまで届く低い周波数帯を独占的に利用していた中で、ソフトバンクはようやく低い周波数帯を手に入れ、これを「プラチナバンド」と言って大々的にCMを打っていた(今では誰も言わなくなったが・・・)。この様に、無線の周波数には限りがあるので、それをどの様に皆で使い分けるかが課題となる。日本では総務省が電波行政を握っていて、ある周波数帯を開放する場合には公募にかけて希望者を募り、免許の付与に適当であるかを審査し、その周波数の使用許可を与えている。しかし、例えばアメリカなどでは電波の使用権をオークションにかけたりする。高いお金を払う事業者にその周波数帯の使用権を認めるのである。一時期流行ったこのオークション制度も、最近は金額が過剰に高騰して問題になりつつあるほどだが、では何故、そこまで高いお金を払ってまでその周波数帯を勝ち取りたいかといえば、そこで「商売ができるから」である。つまり、商売をするのに利用できる資源としてその周波数があり、オークション制度か公募制度かは別にして、公平・公正に電波の使用権を管理するのが総務省なりの仕事になっているのである。

ここでテレビの放送電波というのは携帯のプラチナバンドよりも更に周波数が低く、それ故に非常に遠くまで行き届く。プラチナよりも価値があるから「ダイヤモンドバンド」とでも呼ぶべきであろうか・・・(誰も呼びはしないが)。テレビ放送を流せばそこにスポンサーが付き、CMやら何やらで大きなビジネスができる。主要放送局の社員の給料が非常に高額であることは周知の事実であり、それだけの給料が払えるということは、そのテレビ放送用の電波の使用権がどれほどそのテレビ局に恩恵を与えているかが分かる。しかし、有限の周波数資源だから誰もがテレビ放送に参入できる訳ではなく、その特別待遇故に、放送法ではその利益の一般国民への還元として、国民にとって有益な情報提供として、公平・公正で政治的な偏りのない情報伝達を義務化しているのである。インターネットの様に誰もが自由に情報発信できるサイバー空間では別に特別扱いなどされていないから、別に政治的な公平性は求められない。出版会社についても、そんな免許制度がある訳ではないので、余程の社会への損失を与えるような出版社でない限り、出版の自由も補償される。しかし、濡れ手に粟で放送電波の使用権を認められた放送事業者は全く別なのである。その辺の事情を元官僚のくせに分からないというのは、何とも古賀氏はアマチュアな電波芸人なのだろうと頭をかしげてしまう。

また若干補足すれば、古賀氏が絶賛していた前述のテレビ朝日の放送プロデューサーとは松原文枝氏という方らしいのだが、このプロデューサは先日もBPOから明らかに視聴者に誤った印象を与える不適切な編集が行われたと指摘された報道の責任者である。私のブログでも「驚くべきテレビ朝日『報道ステーション』のホットな捏造報道」と題して紹介させて頂いた。私の感覚では、相当、サヨク側の人々であっても、あの内容を見れば「責任を問われて更迭されてもおかしくはない」と感じるだろうと思うのだが、古賀氏はそのプロデューサを絶賛している。ついでに言えば、後藤健二氏の誘拐・殺害で中東での日本人への危害が予想される中で、現地に駐在する日本人やその家族は、そこに日本人がいるという事実をなるべく敵に知られないように気を使っている。しかし、報道ステーションでは中東の国ごとに邦人数をご丁寧にリスト化して紹介している。それどころか身の安全を考えて取材拒否をする日本人学校に対し、名前を出さない代わりにそれが何処であるかが分かる様な映像を垂れ流し、邦人の身に危険が及ぶお膳立てをしながら「日本人は怯えながら生活している」的な報道をしていた。これも同じプロデューサーのもとでの報道である。常識的に考えれば、明確な更迭でなくても、人事異動が発令されてもおかしくない状況であろう。古賀氏は「更迭はおかしい」と言うが、自分が経営責任を有しない会社の人事に横から口を挟み、しかもそれを公共の電波で一方的に垂れ流す権利が何処にあるのかが不明である。真っ当な判断力を持ち合わせているとは思えない。

その後の続編として、月曜日の報道ステーションでは番組途中で古館キャスターが謝罪を行った。

BLOGOS 2015年03月30日「『ニュースと全く関係のないコメント』古舘氏、古賀茂明氏の発言について報道ステーション視聴者にお詫び

これは妥当な行動だろう。私も番組の最初からこの様な謝罪があることは予想していたので、どの場面でどの様に謝罪するのかと見入ってしまった。あれを見ると、大多数の視聴者は古賀氏の発言に疑問を感じる様になってくれるかも知れない。というか、そう期待したい。

さて、ここまで書いてきて、ここからが本題である。まず、何故、彼はこの様な掟破りをしたのか、そして彼の様なサヨクの論陣に共通する特徴についてまとめておきたい。

まず、下記の2件が彼の行動の解説をしているようなので、それを引用してみたい。

ニュースの深層 高橋洋一2015年3月30日「脱藩官僚いろいろ。古賀茂明さんの「『報ステ』内幕暴露」で考えたこと
長谷川豊公式ブログ本気論本音論2015年3月29日「まぁ…古賀さんの勝ちかなぁ…。

最初の高橋洋一氏の記事は、非常に抑えた記事となっている。古賀氏を断定的に否定するのではなく、「私のやり方とは違う」と解説している。この中で高橋氏はまずコメンテータの役割というものを解説している。古賀氏はガンジー氏の言葉を引用して「言いたいことを黙ってちゃいけないんだよー!!」と自らを正当化しているが、それはインターネットや活字メディアで好きなだけ実現できるので、公共の放送電波を使って一方的な自己主張をぶちまけるのは(放送法違反に加えて)契約違反と言える。そして、高橋氏が論理的な証拠に基づく議論を尊重するのに対し、古賀氏は倫理観を視聴者に訴えて、その(宗教的といっても良い)倫理観に賛同する者を増やす布教活動を尊重している。おのずとアプローチが異なるので、実際の行動も異なるのである。後者の長谷川氏の記事のタイトルにもある「古賀さんの勝ち」というのは、ある種の逆説的なタイトルである。古賀氏の発言を全否定し、「コメント」する仕事のはずなのに「コメント」せずに暴論をぶちまけて、150人位の番組制作チームの作品(番組)を台無しにして、それでも「日本人はリテラシーの能力が絶望的に足りないのであんな古賀さんの言うことを真に受けて信じ込む人が少なくないんです」という悲しい現実を振り返れば、一般市民のリテラシーの向上は急務である。なお、この辺の古賀氏の(ビジネス)戦略を解説している記事もあった。

アゴラ2015年3月29日「古賀茂明さんはABEではなくAPE!(渡辺 龍太)

報道ステーションの視聴率の高さを考えると、例えば1千万人以上の人があの番組を見ていて、その中の仮に1%の人が古賀氏の行動に共感したとすれば、それだけで10万人ということになる。これらの人が彼の執筆した書籍や講演会に参加すれば、それだけでも彼は食っていけるので、その意味では電波芸人が文筆(ないし講演会)芸人に成り下がっても、十分に彼は自らの商品価値を高められるのである。決して過半数の視聴者の共感などいらないのである。この共感を得るのにうってつけなのが「殉教者」イメージの演出であり、今回の報道ステーションからの追放?演出で、それに半ば成功したことになる。この辺が長谷川氏が「古賀さんの勝ち」という結論とした所以である。ノイジー・マイノリティの声の大きさが一般人の100倍であるならば、全体の1%を抑えればそれで社会的には拮抗した印象を与えることができるのである。これが彼のやり方である。

そして最後に、彼の様なサヨクの論陣に共通する特徴について、同じく長谷川氏が下記の記事で指摘している。

長谷川豊公式ブログ本気論本音論2015年3月30日「『言論の弾圧』? 笑わせる

長谷川氏曰く、彼らの様に「言論の弾圧」や「圧力」を声高に叫ぶ人々は、「決まって、先に暴言を吐いている(もしくは間違った解釈による事実と違う話を拡散している)んですよね。」ということである。つまり、最初に「反論」や「抗議」を受けて然るべき暴言を吐きながら、正当な言論活動の中で反撃を受けると、それが「弾圧」や「圧力」に化けてしまうのである。これは先の高橋氏のご指摘の様に、「倫理観」とは一種の価値観であり、言論が多様な価値観を尊重するのと同様に、(本来は「倫理観」とは「共通認識」や「常識」的なニュアンスが伴うはずであるが)彼らの主張する特殊な「倫理観」は単なるひとつの価値観でしかなく、1%の共感者が現れれば、声を100倍に増幅して発言し続ける限りにおいて負けはしないので十分なのである。論理的に「反論」や「抗議」に反駁するよりも、それが「弾圧」や「圧力」であった方が好都合なので、何処まで行っても論理的な議論を避ける傾向がある。上述の宇佐美氏のブログにも書かれていたが、古賀氏は完全に自らの規定する「”正義”」に酔っており、その根拠の提示や公平公正な議論と言った民主主義の根幹をすっとばかし、民主主義を軽視する行動を取っていると言わざるを得ない。

そして、この様な「正義」に酔った行動は、思い出してみると何処かで聞いた様な記憶がある。それは何か?

ニュースの深層 長谷川幸洋2015年3月30日「集団的自衛権巡る左派勢力の主張とかつての軍国主義の思考様式がそっくりである

これは古賀氏と直接関係ある話ではないが、長谷川幸弘氏が自分の所属する東京新聞の社説に噛みついた記事である。ここでは長谷川氏は、日本の軍国主義の時代には、当時の軍部がその時の情勢分析を何度も間違えて、結果的に戦争にまっしぐらになったと指摘している。少し論点がずれているかも知れないが、「自分だけは絶対的に正しい」と思いこんだ人の暴走が、結果的に日本を戦争に導いたということである。実際、朝日新聞も毎日新聞も、別に当時の軍部から戦争を称賛する記事を書けなどと圧力を受けた訳でもなく、それでも「勇ましいことを書くと新聞が売れる」という価値観で、国民を戦争に駆り立てるような戦争賛美の記事を書きまくった。彼らは当時、それが「絶対正義」だと信じて疑わなかった。それが戦争に負けると、自らの行ってきたことの総括をせず(というか、総括をするということは会社をたたむことに繋がる)、当時の右翼の真逆の左翼を志向することで、免罪符を得ようとしてきた。その流れが現在まで脈々と受け継がれてきている。彼らの、自分たちの思想が「絶対正義」だと信じて疑わないその様が、論理的な議論を阻害し、一般国民に対して印象操作をすることに徹する「戦争当時の軍国主義」に限りなく近いのである。価値観を戦わせるならまだ良いが、一般国民を洗脳することに全エネルギーを注がれてはたまらない。

色々書いてきたが、今回の報道ステーション古賀暴走事件に関する一連の流れの中で、現在の社会の典型例を見たような気がする。やはり、報道に対する一般の方のリテラシーの向上が急がれる。

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核兵器の準備しましたけど、何か・・・?

2015-03-18 00:34:27 | 政治
昨日話題になったニュースの中に、ロシアが約1年前にウクライナからクリミアを併合した際、プーチン大統領が核兵器の使用を準備していたとの報道があった。多くのメディアは「ケシカラン!」とお怒りの様であるが、個人的な感想としては、(マスコミは)あまり事態を呑みこめていないのではないかと感じている。

以前からブログでは書かせて頂いるが、佐藤優氏のご指摘の様に、ロシアとウクライナの争いは毒ヘビと毒サソリの争いの様なもので、短絡的にロシアのみが悪だと決めつけられる様な短絡的な物ではない。「力による現状変更は認めない!」のスローガンは分かるのだが、この言葉の意味するところは実はかなり抽象的である。我々のイメージでは、この「力による現状変更」とは「軍事力を背景とした、侵略・侵攻による現状変更」を想像するのだが、この様な外向きのベクトルを意味する「侵略・侵攻」とは趣が異なり、外から国内のクーデターを仕向ける内向きのベクトルとしての「力」であったとしても、それは何処かの国を不安定化させてドサクサに紛れて現状変更を行うものであるから、この場合の「クーデターを誘発させる策略に伴う現状変更」も、同様に「力による現状変更」の部分集合と見なされるのはそれ程理解に難くない。

ロシアの主張の根底にあるのは、少なくともウクライナは昔はソビエト連邦の一部であり、東西冷戦後もロシアと西側諸国との間の緩衝剤的な役割を維持することが求められる地域であり、その様な地政学的に重要な地域に土足で入り込む行為がどうして「力による現状変更」ではないのか?という不満である。以前のキューバ危機の時は、アメリカの庭先であるキューバにソ連が土足で踏み込んで、核ミサイルを配備しようとした。アメリカは当然の如く怒りまくり、世界は核戦争勃発の危機に直面した。最近の西側諸国の行動は、この時よりはオブラートに包んだやり方ではあるが、とどのつまりは全く同じ状況を再現しようとしているのに近い。であれば、プーチン大統領の行動は、ロシアサイドの視点で考えれば、極めて理に適った行動であると言える。

少し視点を変えて考えてみれば、中国のチベットやウイグルで独立運動が本格化し、それを抑え込もうと中国が人権弾圧を熾烈化させようとしていたとする。この場合、過去の歴史的経緯を考えればチベットやウイグルの人々の民族自決の権利は当然認められて然るべきだが、彼らが仮に住民投票などを行って独立の是非を決めようとしたら、中国が軍事的に国民投票を妨害しない様に国連軍(実際には中国が拒否権を行使するので多国籍軍となるが)が進駐し、国民投票を平和裏に行おうとすれば、これは極めてクリミアで起きていた事態に近いことになる。そもそもクリミアは以前はロシアの一部であったのが、フルシチョフ第一書記の決断でウクライナに編入された経緯もある。ロシア語の使用を禁止する様な現ウクライナ政府の弾圧に対抗したという理解はそれ程無理筋ではない。だから、私の感覚ではクリミア問題はそもそも論的には若干ロシア側に有利な事態で、一方で現在のウクライナ東部でのゴタゴタは、若干、ロシアに不利な状況ではないかと感じている。一方的にどちらかが正しくて他方が間違っていると見なせない事態であるならば、現ウクライナ政府が「ドサクサに紛れて一気に制圧したい」と考えるのと同じように、ロシアサイドが「ドサクサに紛れて一気に独立させたい」と考えるのも理解できる。問題は国連が全く機能しない中で、常任理事国が正面切って対立する環境での落としどころをどの様に模索するかである。

その様な中でのプーチン大統領の「核準備」発言をどう捉えるべきか?

私の中では、プーチン大統領は極めて「自制的」に行動したのではないかと評価している。例えば、プーチン大統領が今、「我々はNATO軍の軍事拠点に核ミサイルの照準を合わせている。ウクライナ東部へのウクライナ政府軍の侵略行為はNATO軍によるロシアへの侵略と見なし、核兵器を使用する準備ができている!」と発言したのであれば、それは欧米諸国もロシアへの核報復を前提とした攻撃態勢を取らなければならなくなる。双方が引き金に手をかけた状態が続くことは、何らかのヒューマンエラーで核戦争が勃発するリスクに繋がる。だから、「今」を語るのではなく、「過去」を語ることで直接的に核の引き金に手を掛け合うことを避けながら、それでいて自らの主張を効果的に相手に伝えることに成功している様に見える。それはそれで卑怯なやり方なので褒められたものではないが、勢いで拳を振り上げてその降ろし方に困ってしまう様な状態ではなく、拳を握りながらも低い位置で相手と一緒に拳を見つめ合う状況であるから、外交手法としては中々理に適った手法と言える。核兵器と言うのは使ってしまったら「終わり」なので、使わずに行かに活用するかが勝負である武器なのである。フルシチョフ第一書記やケネディ元大統領の様に、核兵器を使わざるを得ない直前の状況にまで持っていく政治家より、その様な極限状態を回避しながら十分なブラフをかけるのが、核兵器の正しい使用法と言える。性悪説に立って考えれば、極めて理に適っている話である。

一方で、アメリカを中心とする経済制裁はどうかと言えば、これはアメリカの思惑とはかけ離れた現実があるようだ。以下の記事にその辺の事情が書いてある。

地政学を英国で学んだ(奥山真司)2015年3月15日「ロシアに経済制裁が効かない5つの理由

これはNY Times紙に掲載されたサミュエル・シャラップ&バーナード・スーシャーの記事「なぜロシアへの経済制裁は失敗するのか」に関する紹介記事なのであるが、ここではアメリカは「ロシアへの経済制裁は軍事的コストを伴わない、極めて低コストの合理的な政策である」と考えている様であるが、実際にはその裏に潜むコストを考えれば「最悪の選択肢」であるということらしい。特に顕著なのは、プーチン大統領やその側近を狙い撃ちにした様な制裁であるはずが、実際にはプーチン大統領一派へのダメージよりもロシア国民の蒙るダメージの方が起きく、結果的にロシア国民の愛国心を高めてプーチン大統領の支持率を高めてしまった。支持率が低迷してレイムダック気味のオバマ大統領とは対照的だと言える。元々、完全に民主主義国家とは言い難いお国柄だから、この様な制裁は効果が効きにくい面もある。更には、アメリカが目指すグローバルな世界経済の半ば「否定」の様な効果もあり、今後はこの様な側面がボディブローの様に効いてくる恐れが強い。ドイツを始めとするヨーロッパ諸国も、自らの国への経済的影響、エネルギー安全保障的な視点では完全にアメリカと一枚岩の関係とは言えず、色々な意味で、アメリカは落としどころに困っている感がある。

多くのマスコミは、性善説に基づいた外交を期待している様であるが、そんなことで国際紛争が解決するはずはない。それは歴史が証明している。だから、「話せば分かる!」などという前提を取っ払い、最悪のシナリオを想定しながら、少なくともその最悪のシナリオを完全に回避できるベターなシナリオに着地させるように考えなければならない。自らの国の指導者が、薄っぺらな正義を振りかざして暴走しようとしたら、それを諌める役目もマスコミにはあるのだろう。

ルーピー鳩山氏がクリミアに行ったのも、あの何も考えていないオヤジが何も考えずに行動した話だから少なくとも褒められた話ではないが、短絡的にロシア悪玉論の中でルーピー鳩山氏を叩いても何も得るものはない。単に「黙殺」するのが結果的には良いのだろう。それよりも、例えば上述の様にチベットやウイグルとも絡めて議論を行い、この様な紛争の最低限のルール的な考え方をロシアとの間で合意を図るなどして、ウクライナ問題は早々と損切りした方が結果的には筋が良い。ロシアを完全な欧米の民主主義体制に取り込み、ロシアの民主化を加速させる試みを勧めた方が、ロシアの脅威を排除するためには100倍効果的なのだと思う。その為には、一時的な損切りの返り血を覚悟する勇気も指導者には必要なのである。その勇気を後押しするのもマスコミの仕事かも知れない。

幸か不幸か、ロシアはプーチン大統領の訪日に現時点でも前向きらしい。日本に出来ることは色々あるはずである。少なくともロシアを中国サイドのグループに走らせないような政策を、世界のコンセンサスにまとめ上げてもらうことを安倍総理には期待したい。

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全ては繋がっている

2015-03-15 01:06:16 | 政治
過去のブログでも引用した新聞記事だが、1年ほど前にロイターで下記の記事が掲載されていた。

ロイター 2014年2月25日「アングル:中国が『反日宣伝』を強化、習主席訪独で第2次大戦に焦点か

早い話が習近平国家主席がドイツを訪問するに当たり、ホロコースト記念館訪問を打診したがドイツがこれを拒否し、仕方なしに別の施設への訪問を模索し、日本に対する歴史戦争を仕掛けているという話題である。記事によれば、ドイツの高官は要人のドイツ公式訪問中に戦争の負の遺産に注目が集まることを望んでいないとして「ホロコースト(記念館)は絶対にダメだ」と述べたという。その時には私も記事を読みながら、「まあ、当然そうなるな・・・」と思っていた。
それから1年以上が経過しているが、下記の事態が最近話題になっている。

時事ドットコム2015年3月10日「独首相『慰安婦問題解決を』=民主代表との会談で
産経ニュース2015年3月13日「メルケル『和解』発言 独政府報道官も『正しくない』
産経ニュース2015年3月13日「メルケル『和解』発言 民主・岡田氏は『紛れもない事実』と反論

民主党の岡田代表と訪日中のメルケル首相が会談した際に、岡田代表がその後の記者会見で、「メルケル首相から、慰安婦問題の解決を促す発言があった」との内容の発言をし、これに対し日本政府からの問い合わせもないのにドイツ政府側から「その様な事実はない」と真っ向から否定された。それを受けて岡田代表も、「いいや、確かに言った!」と反論しながらも「私もかなり丸めて行っているが・・・」と逃げの言葉も合わせて聞かれたとのことである。上述の習国家主席との話の流れからすれば、確かにあまりこの様なことで注目が集まるのはドイツとしても好ましい事態ではなく、だからこそ本心として「自分から、慰安婦問題を持ち出すはずがない」とドイツサイドが思っているのは事実だろう。実際にどの様なカスッた微妙な表現をしたのかは知らないし、通訳が勝手に補足を加えた可能性も否定できないが、実際には言っているのに「言っていない」と言い張って、後で証拠を暴露されたりしたら格好も悪いので、実際に言っていたらドイツとしては「無視を決め込む」のが正攻法なはずである。それをあそこまで言っているので、岡田代表の方が分が悪いのは事実である。

さて、そんな話の暫く前の話であるが、ギリシャ問題についてドイツなどが主導して緊縮財政政策の継続と、ギリシャのユーロ圏からの離脱を思いとどまらせる様な話し合いがずっと続けられてきた。そんな中で、先月ではあるが下記の様なニュースが裏で流れていた。

毎日新聞2015年2月11日「ギリシャ:戦争賠償22兆円請求 独は『解決済み』と拒否

これは、混迷が続くギリシャにおいて、反緊縮財政を掲げた急進左派陣営が選挙で勝利し、チプラス新政権が緊縮政策の継続を求めるドイツに対して第2次世界大戦時の戦後補償として22兆円を求める要求を行い、ドイツがこれを拒否したというものである。このニュースを最初に聞いた時には、私も単に「おいおい、そう来るか・・・」とあっけにとられて読み流してしまっていた。その時の私の感想は、緊縮政策の継続を求めるドイツに対する対抗措置として、この様な無謀な要求をしているのではないかと感じていたので、「やり方が汚い」とすら感じていた。しかし、昨日の読売新聞によれば「パラスケボプロス法相は11日、国内の独政府の資産を差し押さえる『用意がある』と発言した。」とのことで、ギリシャの本気度も伝わってくる。一体何が起きているのだろうか・・・。

そこで、よくよく調べてみると「ギリシャが、ドイツの緊縮政策強要に対抗して飛び道具を使った」的な理解は、かなり作られた誤解の様であることが分かった。

まず、下記の記事を見て頂きたい。日付は2012年9月5日である。

Bloomberg.co.jp 2012年9月5日「ギリシャ:ドイツへの戦後賠償の請求額算定へ、権利を留保

ギリシャの財政破たん問題は2011年頃から深刻化してきたが、Wikipediaの「ギリシャの経済」で確認すれば分かる通り、2012年6月に行われたギリシャ議会総選挙で財政緊縮支持派の第1党が票を伸ばし連立政権の樹立に成功し、事態は沈静化へと向かっていた最中である。つまり、2012年9月当時にはドイツとの対決姿勢をここまで示して「ブラフをかける」必要などなかったのに、にもかかわらずドイツへの戦後賠償の請求額算定を会計検査院が進めるとしているのだから、緊縮財政か否か、ユーロ残留か否かの議論とは別のところで脈々と流れる議論に見えて来る。
そこで、さらに調べてみた。

Wikipedia 「ドイツによるナチス・ドイツを原因とする賠償

色々書いてあるのだが、まず、「西ドイツによる賠償」の項の先頭には下記の様に記されている。

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ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とアメリカ・イギリス・フランスは1952年のボン協定と1954年のパリ協定の6章で平和条約が締結されるまでの間賠償問題を一時棚上げすることに合意した。また1953年のドイツ債務協定で、第一次世界大戦の賠償のために発行したドーズ外債とヤング外債の利払い継承を宣言するとともに、ドイツ統一まで被占領国・国民の賠償権を延期することが定められたが、ソ連・チェコスロバキア・ポーランドは署名しなかった。
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つまり、東西分裂に伴い、ドイツ統一後にまとめて戦後補償を行うことが一部の連合国間では合意ができていたということで、結果的に賠償問題は棚上げにされてきた歴史がある。東ドイツに至っては、自らはナチス・ドイツの継承国ではないとして賠償責任そのものがないとのスタンスである。ちなみにメルケル首相は東ドイツのバックグラウンドを持つ首相である。ここで、彼らのスタンスは東西統一時の落としどころであり、下記の様になっている。

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1990年9月12日のドイツ最終規定条約により、ドイツの戦争状態は正式に終了した。しかしこの条約には賠償について言及された点は存在していない。このため統一後のドイツ連邦共和国はドイツの戦後問題が最終的に解決されたとしており、法的な立場からの賠償を認めていない。
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つまり、正式な国家賠償を行っていないにもかかわらず、連合国のアメリカ、イギリス、フランスの主導のもとで「もういいよ・・・」と勝手に賠償については有耶無耶にしたまま決着させてしまったのである。つまり、その他のナチス・ドイツの被害を受けた国々を無視して、勝手に「法的には解決済み」としてしまったのである。その後、色々と問題が起きるので道義的な責任を認め、2000年に財団「記憶・責任・未来」を創設してこの基金を基に限定的な賠償責任に応えている。これは、慰安婦問題のアジア女性基金的な発想に近く、「国家の法的責任は認めないが、民間ベースの道義的な補償では対応する」というものである。既に膨大な額の国家賠償も行い、更には朝鮮半島や中国大陸に残された政府及び民間の膨大な(こちらの方が金額は全然多い)財産は強制的に没収され、更には周辺諸国の経済発展の為に様々な援助を続けてきた日本に比べれば、既に何週もの周回遅れ的な対応なのである。

更に、歴史認識についても調べてみた。

Wikipedia 「ドイツの歴史認識

こちらは中々衝撃的である。当初は占領軍の手でナチスの責任追及を行ってきたが、やがてドイツ人の手に責任追及が委ねられ、「ドイツ連邦政府発足後、わずか1年あまりの1950年にはアデナウアー政権の元で『非ナチ化終了宣言』が行われ、占領軍の手で公職追放されていた元ナチ関係者15万人のうち99%以上が復帰している。1951年に発足した西ドイツ外務省では公務員の3分の2が元ナチス党員で占められていた。」との結果になった。日本でもA級戦犯が後に総理大臣を務めるに至ったが、これはサンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11か国の同意を得たうえで減刑されたためになし得たものである。つまり日本では戦犯の対象が、実際に戦争による殺戮行為を行った軍人と、戦争を指揮した政治家であったが為に、大多数の民間人は戦犯の対象とは成り得ず、一部の公職追放を受けた人を除けば、極めて上位の役職の首を挿げ替えて、それまでと同様の生活を行うことができたのだが、ナチス・ドイツでは軍人のみならず多くの公務員までがナチス党員であり、ユダヤ人の迫害における密告などの当事者であったために、それらを全員追放してしまうと国家というシステム自体が崩壊してしまうという理由で、ナチス党員という明らかな戦犯を追放することが不可能であった訳である。さらに東西冷戦の最前線におかれた西ドイツでは、再軍備化の必要に迫られたこともあり、ナチスと戦後ドイツを切り分けることで、ギリギリの線での綱渡りを乗り切ってきたのである。この様な後ろめたさがあるからこそ、あれほど表現の自由を声高に叫びながら、ナチスの称賛をする者は問答無用で牢屋にぶち込める法律を作ってバランスを取ったのである。

ちなみに、この「ドイツの歴史認識」の項の中にも「戦争犯罪の補償」の項があり、こちらが中々読みごたえがある。興味がある方は一読をお勧めする。

まず、ドイツ政府が考えたのは、ナチスによる迫害の被害者への補償である。

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ドイツでは1956年に、ナチスの迫害の犠牲者のための補償についての連邦法として「連邦補償法」が制定された。これは国家賠償とは異なり、ナチスの犯罪被害者に対するいわば個人補償である戦後補償として位置づけられている。ただし対象の大部分はドイツ国民か、当時ドイツ国民で後にドイツ国籍を離れた人間である。また補償を受ける犠牲者には社会保障額が減額されるなど、実際にはナチス関係者よりも犠牲者の方が低い扱いをされていた。
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この様に、国家賠償ではなく個人補償の形で賠償責任に向き合ったが、これの対象は主としてドイツ国民であり、積極的に外国の国民の補償を行った訳ではない。さらに言えば、これらの補償はあくまでも「ナチスの不法行為」に対する補償であり、都市の破壊など「戦争犯罪」による被害についての補償ではなく、これがドイツ政府の認識である。その結果、「実際にはドイツの行ってきた戦争被害への賠償はほとんどがドイツ国民向けであり、また『戦争被害に関する個人の請求権』を認めているのはドイツ国民に対してだけで、ドイツ人以外の戦争被害に関する個人請求権は一切認めていない。実際、ドイツ最高裁は何度もドイツ人以外の賠償請求を棄却している。

ドイツ政府がこの様に考える理由は、戦後に周辺諸国にいたドイツ人が各国において追放され、そのドイツ人の財産を接収したことで周辺諸国はそれなりの利益を得ているはずだから、他国の戦争被害に関する請求権について原則的に「戦後、相手国が接収したドイツの財産と相殺されたことで、請求権は相互に放棄され解決済み」の立場を取っているからである。日本政府が例えば(戦争をした当事国でもない)韓国に対して行ってきた国家賠償と日本人の財産没収を同時に呑んだことと比較すれば、相当な乖離がここにある。

さらに、「旧枢軸国の戦争犯罪観」の記述は壮絶である。まず書き出しが「ドイツ連邦政府は一貫して連合国による戦犯裁判を『法の遡及(事後法)適用』としてその法的正当性を否定しており、1952年9月17日連邦議会にて激しく戦犯裁判が非難され、その後も講和条約が結ばれることがなかったため、ドイツ政府は戦犯裁判を受け入れなかった。」となっており、日本政府が東京裁判の少なくとも「判決?」を受け入る宣言をしているのに対し、その様なものすらないのである。特にヴァイツゼッカー大統領に至っては、父親がA級戦犯で裁かれたために、戦犯裁判の不当性を訴えるまでに至っている。軍隊に関しても、後に自衛隊として一部が復活するにしても、一旦は完璧に日本軍が解体されたのとは異なり、冷戦による再軍備の必要性があったドイツでは、軍隊の継続性の観点からその軍人自体を直接糾弾することが不可能であり、軍隊及び軍人の責任を有耶無耶に扱う以外にはなかったのである。

そして、さらに続く「『ドイツに見習え』論について」の項は、実際に多くの引用をさせて頂きながら紹介したい。まず全体的な傾向としては、日本の主要メディアの多くも当初は「ドイツに見習え論」を主張していたが、色々調べると現実は真逆であることに気が付いて、2000年代後半からは主要なメディアは取り上げない様に変わって来たという。しかし、それから遅れて韓国や中国がこの朝日新聞などを代表とする「ドイツに見習え論」を主張するに至ったのである。しかし、この「ドイツに見習え論」にどの様な問題があるのかについては下記の様に整理されている。それを、そのまま引用させて頂く。

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Wikipedia 「ドイツの歴史認識」の「『ドイツに見習え』論について」より抜粋
「ドイツに見習え論」には、
●実の歪曲・誤認
・ドイツにおける「計画的殺人に対する時効撤廃」を「ナチス犯罪への時効撤廃」、「ホロコーストの否定が罪に問われる」を「戦争責任や戦争犯罪の否定が罪に問われる」と歪曲して唱える
●都合の悪い部分に言及しない
・ナチス時代の軍人が英雄扱いされている
・戦犯裁判への批判
・イツ人財産返還請求がいまだに周辺国と摩擦を引き起こしている
・ドイツが周辺国から表だって糾弾されないのはヴェルサイユ条約でのドイツへの苛酷な仕打ちがナチスの台頭や第二次世界大戦の遠因となったことへの反省からであり、また冷戦下の欧州において東西対立の最前線であった東西ドイツの安定は両陣営にとって重要であったため、欧米諸国が東西ドイツへの賠償請求より経済復興を優先させたという事実。
●事実のつまみ食い
・イツの戦後補償のほとんどが自国民向けであるのに「戦後補償の額が日本より多い」と論じる。
・イツ人以外の戦争被害について個人の請求権を一切認めていないにもかかわらず「ドイツのように個人請求権を認めて外国に補償しろ」と主張する。
ブラントのひざまずきを取り上げ賞賛しつつ、ドイツが「ポーランドのドイツ人追放」を不正行為と批判している面は論じない。
●ダブルスタンダード
・本の政治家が大戦時の行為を「進駐」などと表現することは批判しつつ、「ヒトラーのポーランド進駐」と表現したヴァイツゼッカー大統領の演説を高く評価する
・倍晋三の祖父岸信介が戦犯として逮捕された(ただし不起訴処分)こと、また、麻生太郎の父親が捕虜及び徴用労働者に対する虐待に責任があることなどを批判しながら、ヴァイツゼッカー大統領が戦犯として有罪となった父親の罪状を否定していることは取り上げない
といった問題点を抱えるものもあった。
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一般に言われるのは、ドイツのヴィリー・ブラント首相がワルシャワのゲットー記念碑の前でひざまずいたことが象徴的に取り上げられるが、このヴィリー・ブラント首相についてのWikipediaでの脚注2には下記の様に記されている。

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Wikipedia 「ヴィリー・ブラント」脚注2を抜粋
ブラントはあくまでもホロコーストについて謝罪の意を示したのであって、戦争やポーランドへの侵略について謝罪したわけではなく、帰国後にはポーランドが戦後行った旧東部ドイツ領からのドイツ人追放を「戦後のドイツ人の旧東部ドイツ領からの追放という不正はいかなる理由があろうと正当化されることはありません(白水社「過去の克服 ヒトラー後のドイツ」より引用)」」と非難している。また跪いて献花するブラントの姿は共産党政権下のポーランド国内で公表されなかったため、ポーランドの一般人にはほとんど知られていなかった(中公新書「〈戦争責任〉とは何か」より「一般には知られていないが、ひざまずきの写真はポーランド国内では公表されなかった」)。日本ではしばしば「ブラントの跪きがポーランドの対独世論を変えた」という趣旨で論じられることがあるが、そのような事実はない。
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これは上述の説明と整合性が取れており、ホロコーストへの人道的な謝罪の意は十分にあるのだが、戦争犯罪についての謝罪をしている訳ではない。あくまでも象徴的な行動を取っただけで、戦争犯罪への謝罪もなければ法的国家賠償責任も決して認めている訳ではない。

だから、少なくともその様な背景を知っているメルケル首相は、日本に対して「日本政府は慰安婦問題を解決せよ!」などと発言しようものなら何が起きるのかを全て分っており、その様な流れから岡田代表にその様に言える訳はないのである。日本や韓国のマスコミが、事実誤認に基づく「ドイツに見習え論」に踊らされてメルケル首相の僅かな言葉尻を捉えて誇張するから話はややこしくなるのだが、実際の意図を考えれば、もしメルケル首相が「日本政府は慰安婦問題を解決せよ!」などと発言すれば、ギリシャ国民は躍り上がって喜ぶのは間違いない。

この様に全てが分かってくると、最初に引用させて頂いた一連の新聞記事は全て繋がっており、韓国、中国や未だに一部の日本のマスコミが期待する様な話はそこにはないのである。私も今まで知らなかったのだが、調べれば調べる程、我々日本人は胸を張って良いのではないかと思えるようになってきた。

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東京大空襲から70年を迎えての「思考実験」

2015-03-11 00:30:08 | 政治
東京大空襲から70年が経過した。今日はこの件についてコメントしようと思う。

最近の産経新聞では、戦後70年の節目を機に東京大空襲などの特集を組んでいる。そこには筆舌に尽くしがたい悲惨な当時の姿が何人もの証言で綴られている。産経新聞の意図は完全には把握できないが、少なくともこのブログの最初に確認したいのは、この件でアメリカを非難しようという思いはないということだ。さらに言えば、東京大空襲などの犠牲者を追悼する法要に出席して「度重なる国難を乗り越えてきた先人たちにならい、私たちも明日を生きる世代のために手をたずさえ前を向いて歩むことを誓う」と述べた安倍総理を筆頭に、圧倒的大多数の日本人はアメリカに対して、広島・長崎の原爆や多くの都市への無差別爆撃等への補償などを求めようなどとは微塵にも思っていない。心配しているアメリカ人などいないと思うが、仮にその様な危惧をかけらでも抱く人がいれば、その様な心配は未来永劫、無用な話だと言ってやりたい。

それと言うのも、その様な考え方が妥当か否かは別として、我々は被害者であると共に加害者でもあり、さらには敗戦国としてその屈辱を噛みしめる覚悟はできている。過去に囚われるよりも、未来に向かってより良き世界を築くためにエネルギーを使う方が、よっぽど生産的であると考えているのである。

ただし、この様な話をすることと、無差別爆撃の被害者のことを「なかったこと」として口にしないというのは全く別の話である。我々が未来に向けて平和を誓うのと同様に、アメリカに対しても世界平和のための誓いを求める権利は我々にもある。だから、その為に過去を振り返るのは決してタブーではないはずである。そこで私は、今現在の多くのアメリカ人に問うてみたい。もう少し踏み込んで言えば、先日のブログで書いたような思考実験をアメリカに対しても求めてみたいと思うのである。

最初の質問は、ありきたりな質問であるが「広島・長崎の原爆で、推計で13万から24万人の罪もない民間人が虐殺されたが、この行為を肯定的に捉えることができるか?」である。多分、アメリカの公式見解は「戦争の早期終結の為に止むを得なかった」ということだろう。アメリカ国民の多くも多分同意するに違いない。我々は高校時代に国語の教科書で井伏鱒二の「黒い雨」という小説を学んだ。映画にもなったのでご存知の方もおいと思うが、その小説で思い知るのは、一瞬のうちうに何万人もの命が失われる原爆の悲惨さではない。原爆を受けてなお生き残った生存者が、その後の長い時間の間苦しみながら生き続け、そして真の地獄を体験して死んでいくその壮絶な姿である。誤解を恐れずに言わせて頂けば、一瞬で即死だった方々はまだ救われようがあるが、その後、何か月も苦しんで死んでいった方々の恐怖や苦しみは、その何倍も悲惨な出来事であった。ただ、多くのアメリカ人は原爆の特殊性から思考停止の様になっている様に見えるので、では次の質問をしてみては如何かと思う。

2番目の質問は、「東京大空襲を筆頭に、日本では200以上の都市が無差別爆撃で被災し、毎日のように女性や子供を含む罪もない一般市民を生きたまま焼き殺し、半年近くの間に合計で100万人もの一般市民を虐殺したが、この行為を肯定的に捉えることができるか?」である。産経新聞の特殊の中でも語られていたが、アメリカ人の発想は「多くのアメリカ兵の命を救う上で仕方がなかった」と言うことらしい。確かに、イラク戦争やISILとの戦いの中で良く使われる”Boots on the ground”という言葉の通り、採取的に地上戦を行えば多くの米兵の命が失われるリスクがある。しかし、戦争末期には日本軍は防戦一方であったから、本土への地上戦を行わずに軍事施設だけでなく様々な工場のみをターゲットにした空爆を行っていても、米兵が死傷する確率は限りなく低かったはずである。であれば、何も女子供を含む一般の民間人まで虐殺する必然性はなく、軍事施設や工場のみに限定して攻撃しておけば、もはや飛行機も戦艦も、更には鉄砲の弾までもが生産不能の状態に陥り、石油や鉄鉱石などのエネルギー資源の補給路を断てば、兵糧攻めで日本が降伏するのは時間の問題であったはずである。これは改めて言うまでもない話で、誰もが知っている話である。しかしそれでも多くのアメリカ人は「でも、仕方がなかった!」と言うはずである。

では、それならば更に聞いてみたい。ISILの脅威が高まっている中、”Boots on the ground”のリスクが高いというのであれば、同様のロジックでISILの支配地域に東京大空襲と同様の無差別爆撃(軍事施設を狙うのではなく、そこにいる人々を虐殺しまくるという意味)をすればISILは壊滅的な被害を受けるはずである。では、アメリカ人に「ISILに、軍事施設や戦闘員に限定せず、民間人も含めた無差別爆撃をして徹底的に叩き潰してはどうか?」と聞いてみたい。こちらの答えは言うまでもなく、「有り得ない!」「馬鹿なことを言うな!」という答えが即答で返ってくるだろう。私もその意見には賛成である。大体、中東地域の不安定性以上にアメリカ本土内でのテロ行為の方が怖いから、その様なテロを誘発する様な非人道的な行為を望む人はいない。世界的にも、圧倒的な非難の声が高まるのは見えているので、国際社会での追及にも耐えられないだろう。当たり前の話である。

しかし、では次の質問はどうだろうか?「日本への膨大な数の罪もない民間人を含む無差別爆撃は許されて、ISILには同様のことが許されない理由は何なのか?」という問いである。例えば、「ISILへの無差別爆撃は、更なるテロを誘発するからNG」と言うなら、「では、従順な日本人は刃向わないから無差別殺戮をしても許されるのか?」と言う話になる(言うまでもなく、答えはNo!)。では、「ISILに無差別殺戮をすると、国際社会から非難の声が高まるからNG」と言うのであれば、「国際社会が文句を言わなければ無差別殺戮しても許されるのか?」ということになる。結局、100万人もの罪のない一般市民を生きたまま焼き殺す蛮行を肯定する様な説明はなかなか見つからない。そして最後に辿り着く答えは、「あの時は仕方がなかった!」「そういう時代だった!」ということで落ち着くことになる。

では続けて次の質問はどうだろう。大阪市の橋下市長や安倍総理(韓国人が極右とか歴史修正主義者と罵声を浴びせる様な人達)を筆頭とする人たちも、多くの場で「慰安婦の女性方が筆舌に尽くしがたい辛い経験をされたことは、その当時の価値観で『あの時は仕方がなかった・・・』などという弁解ができる様なものではなく、現在の人権に対する価値観に照らし合わせて、道義的責任を痛感する」という気持ちは表明している。つまり、これらの人々も、過去の歴史を裁くに際して、非人道的な行為に対しては「当時の価値観」ではなく「現在の価値観」で裁くべきであることを受け入れているのである。

しかるに、多くのアメリカ国民はどうであろうか?

当時の100万人もの罪もない一般市民が犠牲になったということであれば、少なく見積もってもその1/10の10万人以上は幼い子供達であろう。であれば、10万人もの幼い子供たちを生きたまま焼き殺す蛮行を、今現在の価値観で顧みた時に、どう説明すれば肯定などできるのだろうか?まさに戦意を喪失したボクサーがサンドバック状態になっているのと同様の状態で、10万人以上の幼い子供達を生きたまま焼き殺さなければならない程、米兵の命が危険な状態に晒されていたと言うのであろうか?これだけは全ての人が納得するだろうが、その様なことは有り得ないのである。

最初に申しあげたように、我々日本人は決してアメリカ政府に対して原爆投下や無差別爆撃に対する補償問題を持ち出したりはしない。しかし、それでも自らの過ちを認めようとしないアメリカに対し、我々日本人は慰安婦問題に関連し、歴代総理や官房長官が謝罪し続けている。例えば、アジア女性基金を通して歴代総理から慰安婦女性に贈られた手紙の中には次のような一文がある。

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いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。
===============

この様な立場は、安倍総理も橋下市長も全く同じである。少なくとも、彼らの直接的発言の何処をどうひっくり返しても、この様な立場を否定する発言などしていないのである。にも拘らず、どうしてアメリカは日本のことを「日本は歴史に学んでいない」とか「歴史を捻じ曲げようとしている」と非難することができて、どうしてアメリカは胸を張って正義を主張することができるの・・・。

これがアメリカ人に対する私の最後の質問である。

そして一言言葉を添えたい。多くの人は思い込みで物事を考えようとする。その考え方が正しいか否かは、この様にひとつづつ、事実を積み上げて顧みることで明らかになる。我々が慰安婦問題や南京大虐殺で世界に対して求めるのは、アメリカ人が「10万人以上の幼い子供達を生きたまま焼き殺したこと」に対して長い間それが正当な行為であったと誤った理解をしていたのと同様に、我々日本人が多くの過ちを犯してきたことは認めながらも、その実際とはかけ離れた桁違いの蛮行があったかのような誤った理解がなされているかも知れないという可能性に関して、もう少し事実を積み上げながら再評価して欲しいということである。

我々はアメリカの蛮行に対して補償を求めないが、我々は国際法的に有効な条約で法的責任が消滅したはずの案件で膨大な補償を求められている。道義的責任に応えようと、様々な知恵を絞って行った補償に対し、国家賠償でなければ無意味だと罵声を浴びせられている。アメリカの様々な都市には、最近、多くの歴史的事実が疑わしい反日のモニュメントが多数設立されている。上述の日本とアメリカの歴史に照らし合わせた時、これらの事実が何を意味するかをもう一度考えて欲しいのである。

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「激論!原発再稼働と日本のエネルギー」を見てのコメント~その3~

2015-03-10 00:40:10 | 政治
二日分のブログで「激論!原発再稼働と日本のエネルギー」へのコメントを書かせて頂いたが、最後に本筋と違うところでのコメントを二つほど追加させて頂く。

まず一つ目は、山本一太参院議員とNPOハッピーロードネット理事長の西本由美子氏の指摘されていた問題についてのコメントである。まず、西本氏の発言の中でナルホドと思った部分がある。この方は、ウクライナまでチェルノブイリに関する調査に行ったそうで、その先で見てきたことの中に、「コンパクト・シティ」の活用が重要とのことであった。コンパクト・シティと言う言葉が有名になったきっかけには、夕張市長の鈴木直道氏の活動であろうか?報道でも良く特集されていたが、財政破たんした夕張市としては行政サービスのコスト低減が必要な訳で、今までの様に広いエリアに低い密度で散在する住民に対し、効率の悪い行政サービスを継続することは出来ず、そこで単純サービス打ち切りとするには忍びないので、住み慣れた住居を離れて市の中心部に住民を集約し、そこに質の高いサービスを集中させることで行政サービスとのコストを低減し、一方でサービスの質は寧ろ向上させるという考え方である。当然、住み慣れた場所を離れてもらう必要があるので、住民の多くは当初は反対して聞いてもらえなかった。そこで市長は小さな町の集まりに頻繁に出向いて、そのコンパクト・シティの必要性を繰り返し繰り返し説くのである。その誠意ある対応に、やがて住民は移住を決意し、徐々に行政サービスの効率化が進みつつあるのだという。都会の東京から田舎の夕張市に移り住んでまで、その町に人生をかける若者市長の熱意が如何に熱いかが伝わってくる。この様なコンパクト・シティの発想が福島でも有効ではないかと言う提案であった。

この様な流れの中で山本氏からあった発言が興味深い。福島の町で除染が終了しても、そこに戻りたいという帰還希望者は2割ぐらいだという。これは町に戻っても仕事がなければ経済的に成り立たず、しかも買い物をしたくても買い物をするお店がなければ生活できない。医者やその他のサービスも寂れてしまっては戻りたくても戻れない訳で、これらをひっくるめた復興計画がなければ帰還は現実的ではないという。

であるならば、福島第一原発の周辺の例えば避難指示解除準備区域などの様にある種象徴的エリアで、且つ除染などで生活可能なレベルに放射線量をコントロール可能な地域をスポット的に3~5カ所程度を選定し、そこを特区としてそこに法人税を優遇して企業を誘致し、その周辺に格安の居住設備(アパート等)を作ると共に、医療機関を始めとする各種インフラを集中的に国策的に投入するのである。その一つには、原理力関連の研究施設も造り、将来必要となる廃炉ビジネスのスペシャリストを育成するのである。仕事があり、住処があり、各種インフラもあり集中的な除染などで安全性が確保できれば、そのコンパクト・シティは賑わいを取り戻すであろう。本当に自分が生まれた家の周りに帰還することができなくても、そのすぐ近所の町まで戻り生活することができたなら、セカンド・ベスト的に福島の再生を象徴する存在になり得る。福島第一原発の周辺の多くの地域を広範囲で復興したくても、職もなければお店もない状態で復興計画は成り立たない。ここではコンパクト・シティ化が重要で、基点となる街を作り上げてから徐々にその周辺に復興を拡張するのが効果的なのだと思う。

さて、次なる気になる点は次のニュースに対する対応である。多分、ジャーナリストの藍原寛子氏の発言だったと思うが、福島在住の個人の放射線被ばく量の測定結果を、GPSを活用しながら自動収取するという計画に「ケシカラン!」と噛みついていた。多分、下記の記事のことを意味していると思われる。

福島民報 2015年1月13日「個人被ばく線量 政府がGPSで自動収集検討

全く笑ってしまう記事で、米軍が軍事用に開発したGPS(Global Positioning System:全地球測位網)にデータを送信という、とても新聞記者とは思えない記事を書いている。多分、このシステムは下記の資料のシステムと思われる。

国際廃炉研究開発機構 2014年6月9日「国際研究産業都市における帰還住民の健康支援

元々、路線バスなどの移動体に装着されて空間線量を定常的に広範囲で測定していたシステムを個人用に改良したシステムの様で、データの収集はGPSなんかで行われるはずはなく地上の(無線)ネットワークで行われ、細かな狙いなども以下の様に説明されている。

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また、個人線量被曝の追跡についても、個人が超小型の線量計を携帯し、被曝線量が、位置情報(GPS)や時刻とともに自動的にネットワークで集約されるシステムを開発中である。これにより、個人の行動に伴う被曝線量の経緯が全自動で確認できる。既存の他の手法では、線量計を読み出した上で、データを観ながらカウンセラーが被曝のあった時の状況を問診で確認する方法がとられているが、データの信頼性や手間がかかるという問題がある。提案する方法は、特に、どこで何をしていたかを十分覚えていないような子供にも適用でき、データ読み取り等の手間がかからない。開発中の装置は、個人被曝線量をその行動と共に、全自動で測定できる超小型のシステムである。線量測定センサーと回路の設計はすでに完成し、実証試験までを終了している。
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つまり、時刻と場所情報と共に被ばく量が記録され、それを自動的にネットワークに集約されて、さまざまな活用が出来るという。この場所情報が重要な訳で、例えば子供が裏山でカクレンボをしていた際に被ばく量が増大していたとすれば、子供たちにその裏山に近づかないような指示を早急にするとともに、その裏山の除染を速やかに手配する必要がある。しかし従来のやり方ではこの様な速やかな対応は不可能である。何故か特定の子供だけが被ばく量が多くても、その子供の被爆を防ぐ手だてがない。バスなどの移動体で収集したデータに基づく線量マップは、あくまでも車が通れる場所しか測定されないが、特に被ばくに対する耐力の弱い子供ほど、想定外の場所で被爆する確率が高いから、この様な子供が被ばくすることを効率的、且つ速やかなフィードバックが可能なシステムは、福島の復興の上でも生命線になり得る重要な課題である。しかし、これらの反原発の人にはこの様な活動が受け入れにくいらしい。

変な話であるが、沖縄の普天間基地問題で大騒ぎする人たちは、普天間飛行場が危険だから基地の返還を求めている。その様なラディカルな多くの活動家は、普天間飛行場の近くで米軍機が飛来すると、それに合わせて大型のバルーンを打ち上げて、米軍機の飛行を邪魔するのである。「基地に反対だから、飛行の邪魔をする!」と言うのだが、このバルーンのせいで事故確率は格段に高まっている。「危険だから基地反対!」と言う人が、更に危険な状況を意図的に生み出すという不思議な状況がある。彼らは、これで米軍機が民間人の住宅街に墜落すれば、米軍基地を追い出せるだろうと考えているのだろうが、到底、民主主義の国で許される行為とは思えない。しかし、これを取り締まる法律の不備があり、野放しにされている。しかし、その様な現状を報道するマスコミはいない。

先程の福島の話に戻れば、「子供の安全が第一」と「どうしても故郷に戻りたい」という願いの両立を図る中で、どうしても避けては通れない細部まで気の利いた線量管理を実現しようとすると、それに反対するというのが非常に類似していると感じる。当然、この装置の携帯は義務ではなく、希望者を対象にしている。であれば、それに対して「福島県民はモルモットじゃない!」とこれまた感情論に訴えて、結果的に福島の子供達を危険に晒す様な行動は、論理的に考えれば全く理解不能である。しかし、反原発系の方々にとっては自然に受け入れられる主張らしい。しかし、司会の田原総一郎氏も「安全の為に良い話じゃないのか?」と食って掛かっていた。

この様な話を色々聞くにつけ、少しづつ事態は快方には進んでいるのは確かなようだが、しかし、満足できるような歩みではないことは確かである。論理的な議論を主流派に繋げることが、この様な福島の復興への近道ではないかと感じた放送であった。
(完)

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「激論!原発再稼働と日本のエネルギー」を見てのコメント~その2~

2015-03-09 00:07:54 | 政治
昨日のブログで「激論!原発再稼働と日本のエネルギー」へのコメントを書かせて頂いたが、今日はその続きである。

昨日のポイントは、マスコミも含め反原発派の人々は、「情報の意味する、その本質」の理解のための努力を怠り、一方では読者に刺激的な切り口の情報にはすぐ飛びつくという問題点を紹介した。意外なことに、原発再稼働容認派の口からは、反原発派の人々が騒ぎ立てる問題よりも数桁深刻な課題の問題提起もされていて、昔の「原子力ムラ」とか「安全神話」に象徴されるような隠蔽体質ではなく、非常にまじめに論理的な議論をしようと呼びかける傾向がある。しかしマスコミの方は、その様な論理的な議論をしても一般の視聴者や読者に対する訴求力は期待できない(自分たちが理解できないので、視聴者や読者も理解できないはずと確信しているため)と考え、全く無駄な行為と切って捨てている様だ。つまり言い換えれば、論理的に安全のための議論をするのは無意味で、感情論的に国民が原発に拒絶反応を示すネタを探すことのみが正義だと考えているという話である。

さて、番組ではこれに加えてふたつのポイントが問題提起された。ふたつは問題の表と裏の面を意味していて、相互に関係がある話である。まあ、以前から私を含めて多くの方々が唱えていた問題点の再掲となるが、以下に整理したい。

そのひとつ目は、「ゼロリスクをどう考えるか?」と言う点である。「ゼロリスク」とは「全く安全で、何も心配がいらない」ということを意味する。今現在の世の中の風潮は、「原発にはゼロリスクを求めても良い」という歪んだ主張がまかり通っている。明治大学の飯田泰之准教授はこの点を問題視し、いかなる問題も「ゼロリスク」は有り得ない訳で、何処までのリスクを許容すべきかを定量的に議論すべきだと主張している。

番組中ではこの意味することを流石に省略していたが、ここでは折角なので私なりに分かり易く説明を加えてみようと思う。例えば最近話題になっている話として、日本では医薬品や医療機器の承認に要する時間が海外に比べて長くなり、その承認の遅れが時として助かるはずの命を救えない結果に繋がっているという。これに対する対策は、この分野にもっと大量の税金を投じて時間を短縮すべきという議論と、ある程度のリスクを許容して承認の手続きを簡素化すべきという話がある。前者に関しては、税金の投入量を2倍にし、人員を2倍にすれば期間が半分になる訳ではなく、踏むべき手続きが同じままであれば、100倍の税金を投入しても期間の半減がまあ良い所であろう。だから重要なのは後者なのだが、ここでの承認のハードルを下げると、今度は「実際は危険性を秘めた医薬品・医療器具」を誤って承認してしまう可能性があり、こちらでも死なずに済むはずの命を危険に晒す可能性が生じてくる。子宮頸がんの予防ワクチンの話などはより複雑で、結果的に子宮頸がんにならずに寿命を全うできたかもしれない方が、予防接種の副作用で重度の麻痺で苦しむことになったりしている。ただ、では短絡的に予防接種を廃止すれば良いかと言えば、実は表には出てこないのだが、予防接種の為に子宮頸がんにならずに済んでいた人もいるかも知れない訳で、予防接種が無かったらこの人は子宮頸がんで死ぬべき運命だったかも知れない。死ぬべき運命の人を事前に救っても、それは決して表に見える形では分からないので、あくまでも統計上の数字で確認するしかないのだが、その統計上の数字を見れば子宮頸がんのワクチンは有意な効果が認められているようなので、実際には死ぬべき運命の人を事前に救っている可能性は極めて高いのである。ただ問題は、この様に死ぬべき運命であったはずの人と、副作用に悩まされる人は全く別人であるために、そこに変な不公平感が生まれてしまうのである。したがって、上述の承認のハードルを下げるということは、この様な問題が将来生じた際の責任を誰が負うべきかという問題に帰着される。副作用で苦しむ人のリスク、ないしは将来裁判で国が誤った承認をした責任を問われるリスクと、新技術で救えたかも知れない人の命が失われるリスクをどの様にバランスさせるかが議論の対象なのである。マスコミは都合の良いもので、医療問題に関しては初めのうちは後者のリスクを過大評価し、患者さんをつかまえて「国家の不手際のせいで、この人の命は失われるかも知れない・・・」と訴えながらも、暫くして副作用などの問題が生じると立場を反転させて「国家のせいで、これ程副作用に苦しんでいる人がいる・・・」と慎重な承認手続きをしない奴が悪いと糾弾する。リスクに関する考え方のバランスが問題なのに、マスコミは最初からバランスを崩すことに必死なので、全くもって論理的な議論が出来ない。原発の問題も同様で、再稼働のリスクと再稼働しないリスクを如何にバランスさせるのかが重要なのに、先ほどの医療問題の様に自分は変わり身の早さで常に都合の良い側に立ちたいので、リスクのバランス問題に関与することを嫌うのである。早い話が、責任を取りたくないので無責任を貫く!という主義が一貫している。

さて、ふたつ目のポイントはこのリスクのバランスをどの様に考えるべきかという問題に近い話題である。リスクのバランスを議論するためには、選択肢の双方のリスクをそれぞれ定量化する必要がある。例えば、自分の子どもが重い難病にかかっていて、医師から新薬の使用や新しい術式の手術の打診を受けたとする。その場合、サイコロを転がして手術するか否かを判断しようとする親はいない。医師からなるべく多くの情報を定量的に引き出そうとするはずである。例えば、新しい技術を使用した症例が過去にどのぐらいあり、それで成功した人、失敗した人がどの様な割合かを聞くはずである。同様に、この新技術を見送った場合、その他の既存の技術で子どもがどの程度危険な状態になるのか、さらには新たな安全な技術が子供が死ぬ前に利用できる確率についても聞くだろう。具体的には、その様な技術の研究を行っている医療機関が実際にはあるのかないのか、それが人体での臨床段階なのか動物実験段階なのか、さらには筋の良さそうな技術なのか等々。そして、それらのリスクやメリット・デメリットを総合し、その上でどのリスクを覚悟し、どのリスクを回避すべきかを判断するはずである。その判断に必要な情報は、可能な限り定量化して収集して議論をすべきなのである。おせっかいな人が横から割り込んできて、「何か、新しい技術って怪しいよね。患者をモルモットにしか考えていないんじゃない・・・」などと感情論のみでかき回す様なことを言っていたら、本気で真面目に考えている人は「うるさい、黙っててくれ!」と言うはずである。しかし、直接の当事者じゃないと結構、井戸端会議的に「そうだよね、モルモットみたいだよね・・・」と相槌を打ってしまうかも知れない。マスコミの狙いはこちらなのである。全員が当事者意識で本気で考えたら、今の様には行かないはずである。

つまり原発再稼働に関して言えば、原発再稼働による原発事故のリスクも定量的に行うべきだが、同様に再稼働しない場合のリスクも定量的に議論がなされるべきである。原発再稼働のリスクに関しては、例えば活断層や火山、竜巻、テロなどの影響について実際に評価が行われている。この中で、実質的には廃炉宣告を受けた原発も存在している。にも拘らず、それでもリスクが十分に小さいと判断されたところは、限定的に再稼働をすることができるようにと議論を進めている。つまり、再稼働のリスクを定量的に議論しようとする試みは比較的良心的に行われているのである。

しかるに、再稼働をしないリスクはどうかと言えば、これは全く十分ではない。再稼働容認派はこの問題を主張するが、この問題に真摯に取り組もうとしているメディアは非常に限られている。慰安婦問題や安全保障問題で反政府的、ないしは反日的と言われるメディアの多くは、限りなくこの「再稼働をしないリスク」を黙殺すべきと主張している様に見える。しかし実際には、ドイツなどでも再生可能エネルギー活用による電気代の暴騰で、多くの国民がこの問題への見直しを訴えていたりする。例えば、実際にドイツなどでは一般家庭の電気代は2倍以上に高騰しているという。分かり易く言えば、毎月5千円の電気代だった家庭では、電気代が1万円を超えることを意味する。毎月の負担は5千円以上増えたことになる。ここで、これを消費税に換算してみる。昨年の消費税増税は3%であったが、それにより消費が大幅に落ち込んで、日本共産党や社民党などは「弱い者いじめの悪政」と糾弾している。実際、それまで上向きだった経済指標は急激に下向きになり、思い切り日本の経済成長にブレーキを掛けた結果だ。とすると、先ほどの5千円を3%で割ると、約16万6千円の消費において生じる消費税の増額分に相当する。これは、あくまでも消費税がかかる部分についての話だから、額面の給料から天引きされる税金などは当然関係なく、手取りの給料の中でも貯金だとか直接的な消費に関係ない部分は除外した値である。その様な消費の総額が16万6千円の家庭における消費税増税分に相当する支出の増加であり、当然、経済活動にも影響を与える。さらに、企業からすれば一般家庭以上に電気料金の増額はインパクトが大きく、そこで減った収益は社員の給料にも直結する。この様な家計への負担増は、更に消費意欲を冷却させ、景気の減退によるリストラや失業者の増加など、負のスパイラル的に影響は様々な方向に波及する。その様な係数的に乗算されて効いてくる効果も含めれば、見かけ上の毎月5千円以上の負担増以上のインパクトとなって帰ってくるのは明らかである。

さらに、その様になる前の前段として、アベノミクスで景気が回復しつつある中で、消費が増大するとそこで工場の稼働は現在よりも大幅に増加し、そこで使用される電気量も増加する。しかし、あるところまで来ると「不景気故に原発が無くても足りていた総発電量」を実際の電力需要が追い越す日が来ることになる。その瞬間、予測できない大規模停電が発生し、信号なしによる交通事故であったり、極寒の北海道で暖を取れずに死に至る事故などが発生したりする。その死者は確実に原発を再稼働していれば死なずに済んだ命であり、それを防ごうとすると経済成長にブレーキを掛ける政策を取らなければならなくなる。当然、その様な国内での生産に企業は耐えられないから、一斉に工場を国外に移すところが出だすだろう。折角、民主党政権時代に空洞化した国内産業を復活させ、海外から国内に企業の工場が回帰しつつある中で、それにもブレーキをかけて、雇用の確保を妨げることになる。考えれば考える程、リスクのバランスの重要性は増してくるはずである。

しかし、その様なリスクのバランスの議論をしようとすると、番組に出演していた民主党の阿部知子氏などは「感情論」に訴えて、その議論を断ち切ろうとする。しかし、池田信夫氏などは執拗に食い下がり、全国民にこの様なリスクのバランスの議論を徹底させ、その議論の末に得られたコンセンサスとして法律を改正して再稼働にストップをさせるのは法治主義的で同意できるが、原発を再稼働するリスクを完全に目くらまし状態で黙殺し、何もリスクを知らない状態で「危険な原発を選んで良いのか!」と国民に迫るのは卑怯だと訴えていた。しかし、全くもって反原発の人の耳には届かない。それは最初の話題と同様で、論理的な議論をしても彼らにとって何のメリットもないからである。国民にとってはその様な議論をしないデメリットは膨大なのだが、あくまでも彼らの評価基準では国民に情報を提供して議論をするメリットが皆無なのである。

これは例えて言えば、群馬大学医学部付属病院の腹腔教手術の事故と同じ状況と言える。この医師は手術のリスクを患者に十分に説明せず、「今、私の薦める手術をしないと命がないよ!」と言って腹腔教手術に誘導し、それで手術が失敗すると今度は「私は悪くない。私に責任はない。」と逃げまくっている。まさに、反原発派の主張そのものである。

この様に色々書いてきたが、この手の政治課題においては論理的な議論は必要不可欠なはずである。しかるに、ラディカルな一派は論理的な議論を極端に嫌い、全てを感情論で押し切ろうとする。国民は感情論に訴えれば騙せると確信し、それにマスメディアが乗っかっている。勿論、再稼働容認派の中にも旧態依然たる安全神話に乗っかった人もいるのは確かで、その様な人も論理的な議論を好まない。しかし、朝まで生テレビを見て分かるように、最近の傾向は再稼働容認派の大勢は論理的な議論を主張する人が多く、逆の反原発派の人には論理的な議論を嫌う人が多い。

だから、原発の問題を突き詰めていけば、原発に関する技術的議論を如何に建設的に行うかについても重要だが、それ以上に声高に感情論のみにしか訴えない輩の言論の自由は守りながら、如何にすれば正しい情報を国民の耳に届けることができるかの問題と言い換えても良い。ここで、重要なのは、国民と東電との信頼関係以外にも、国民と政府の信頼関係も非常に重要である。東電が情報公開をするのは当然だが、政府に求められるのはシビアアクシデント発生時に国家が何をしてくれるのかを情報発信することだろう。これまでは過去の話として補償の話が中心であったかも知れないが、これから重要なのは原発事故時の避難体制など、「如何にして、国家が我々の命を本気で守る気があるか」を示すことである。バbb組中の議論にもあったが、災害発生時に例えば半径30km圏内の人々の避難のためのバスの派遣は民間バス会社の運転手に危険地帯に救助に行けとは言えないから、自衛隊とか国が積極的にこの様なものに関与していく必要はあるだろう。その様な地方自治体で出来ないことを国が如何に行うかを示すことは価値が大きい。そして、その様な議論はこれからもっと盛んになるだろう。
感情論的な人に感情論で勝負を仕掛けても無駄である。やはり、やり方の工夫に大分エネルギーを割かなければいけなさそうである。

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「激論!原発再稼働と日本のエネルギー」を見てのコメント~その1~

2015-03-08 00:21:59 | 政治
遅ればせながら、先週の朝まで生テレビをやっと見終えることができた。テーマは「激論!原発再稼働と日本のエネルギー」であった。この議論はあまり有益な議論ではなかったと思うのだが、幾つかの点は整理できたと思うので、思い出しながらコメントを書いてみたい。

最初に言及しておくが、実はこの討論に参加している方の中には、東京電力を擁護する側の人間が殆ど皆無であった。かろうじて、世間的には御用学者と揶揄される東京工業大学原子炉工学研究所助教の澤田哲生氏ぐらいがいるくらいで、再稼働容認派の池田信夫氏や自民党の山本一太参院議員もいたが、明らかに間違ったことが話された時に方向修正を試みるぐらいで、ある程度、東電とは距離を置いたポジションを貫いていた。だから、再稼働の議論ではなく東電の糾弾に関しては、欠席裁判的な感は否めない。ただ、私も東電など擁護するつもりはないので、東電が可哀想であるという話をするのではなく、反論の余地を与えてもう少し論理的な議論をしたいという要望である。

さて本題である。何点か論点はあるのだが、長くなりそうなのでまず今日は下記の1点に絞りコメントしておく。

それは先日話題になった、福島第1原発構内の雨水などを海に流す排水路から高線量の放射性物質の汚染水が港湾外の海に流出していたという報道に関してである。実は、この問題にはふたつの側面があるのだが、これが世の中的には綺麗に整理できていないということが明らかになった。私なりに事実関係を整理すると以下の様である。

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【第1の側面】
(1)雨が降ると、福島第1原発構内の建屋に降った雨水を流す排水路上で、放射線量の高い汚染水が流れ出す現象が観測されていた。
(2)この汚染水は、シートで隔離された港湾内ではなく、港湾外に流れ出ていた。
(3)この事実を東電は以前から1年ほど前から知っていたが、これまで公表してこなかった。
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まず、ここまでが報道や朝まで生テレビの反原発系の方の追及で、特に(2)と(3)に関する非難が熾烈である。(3)に関しては、「信頼関係が崩れた!」と涙ながらに語るし、(2)についても「港湾内ならまだしも、港湾外というのがケシカラン」という話であった。この点については後述するが、多分、合理的な考え方が出来る方であれば少々疑問に感じるはずである。ただ、これよりも実は問題が大きいのはこの後で、こちらの重要な問題を原発再稼働容認派の人の方から話が出てくるのが面白いところである。

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【第2の側面】
(4)この手の情報を東電は隠蔽しようとしていたのではなく、オフィシャルな報告書の形式は取っていなかったのかも知れないが、原子力規制委員会の面々も東電社員から話を聞いて知っていたし、そこから周りのその他の関係者にも話はあった(公式な報告書として報告が上がっていたか否かは不明)。
(5)ただし、多くの福島原発に詳しい専門家の間では、(原子炉建屋の屋上に降った雨水の問題など小さい話だが)建屋以外の敷地に降った大量の雨水が地下に染み込んだり、地面伝いで海に流れ出たりなどする問題の方が圧倒的に重大で、そのインパクトは以前から問題の地下水の問題よりも遥かに大きい。
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多分、上述の(1)~(3)のインパクトと(5)のインパクトの差を理解している人は、この出演者の中の反原発派の人の中には一人もいないのではないかと思う。さらに言えば、何故、原子力規制委員会の人々が(1)~(3)を問題視してこなかったかについても、それは(5)のインパクトを知っているからであろうと予想できる。以下に私なりの解説を行いたい。

私の記憶を辿れば、正確か否かは分からないが以下の様なことが起きているのだと思う。

原発事故発生当時、大量の放射性物質が原発建屋の周りに降り注いだ。その中には、数十分もいれば死に至るぐらいの超高線量の放射性物質も局所的に存在し、これらがあると作業性が低下するので、まずはこれらの除去を東電は試みた。やがてこれらの放射性物質を除去できたが、そこまでではないが高濃度の汚染土壌は空気中に風で舞い上がると飛散しやすいので、これらに対して緑色の樹枝状の物質を噴霧して、地面をコーティングする様なことを行った。こちらは面積が非常に広いため、簡易な対策として行った感が強い。本来の対策は、ここで雨水を地面に染み込ませないような対策をして、その雨水を排水する経路を確保し、その汚染水処理を筋である。しかし、例えば福島第一原発の敷地だけを考慮したとしても、その面積は320万平方メートルになる。仮に1時間に10mm(つまり1cm)の雨が1時間降り続いたとする。これは1cm四方のエリアに1時間に1ccの量だから、1平方メートルではその1万倍の10リットルになる。320万平方メートルでは3200万リットルで、これはトン換算で3万2千トンの水量である。地下水ですら問題になっていたが、これは1日に400トンの水である。全くもって桁違いの水量で、これをタンクに貯めようものなら、あっという間にパンクしてしまう。原子力規制委員会の面々も、原子力の専門家も、池田信夫氏の様な論理的な議論の出来る方も、こちらの方は対処不可能であることを熟知している。だから、出来る範囲の対策として線量が高い箇所に関しては地面を掘り起こし、除染をして別の場所に防水処理をして保管しているのだと思う。残りの場所は土ぼこりが舞い上がらない様にする対策だけを施し、雨対策は見送ったのだろう。しかし、その雨水に含まれる放射性物質の総量は膨大な値であることは間違いない。これに対し、今回問題になったのはある原子炉建屋の屋上に降った雨水の排水である。この雨水の量は上述の量とは比較にならないほど小さく、当てずっぽうで言わせて頂ければ少なくとも4桁ほどは小さい量であろう。報道ではあくまでもKg当たりのベクレル数で放射線量を説明するが、実際にはそれに流れ出た水の増量を掛けることで、実際の総放射線量を知ることができる。分かり易く噛み砕けば、飲料水の基準は1リットル当たり10ベクレルであるが、仮に100ベクレルの水が1リットル入りのペットボトルで手元にあったとする。これを「基準の10倍の危険な汚染水がここにある!」と騒ぐ人がいるかも知れないが、例えば1リットル当たり10ベクレルの基準値内のお水をお風呂に100L汲むと、そこから放射される放射線の総量は先の1リットルのペットボトルの10倍の量になる。しかし、その様なお風呂に入ることを「危険だ!危険だ!」と騒ぐ人はいない。その水を体に吸収する場合には、その汚染の濃度的なものが意味を持つが、自然界に存在する放射性物質の危険度は、結局はその総量に依存する。だから、報道では1Kg当たりのベクレル数ばかりを報道するが、その数値を聞いても総量が分からないとその意味することは理解できない。そして常識的には、上述の(5)の方がインパクトは格段に大きく、それに比較すると(1)~(3)は取るに足らないのだが、その辺が反原発派の論理的思考が出来ない方々には理解できないらしい。原子力規制委員会の人々や専門家は、強盗に合って100万円を盗まれているのに、その直前に財布から落とした10円玉の損失を議論しても意味はないと感じるので、それを問題としないのである。ただ、結論から言えば「信頼関係」維持の為に、この程度のことも全て情報公開していれば良かったのは事実なので、本人達からすれば「ケアレスミス」でしかないのだが、「それでもちゃんと情報公開をしておくべきだったね!」と池田氏たちは諭しているのである。

この議論から分かるのは、原発反対派の人々の議論は全く論理的ではないということである。

上述の(2)に関しても、どうせ港湾内に流れ出たものも、完全な柵を作って港湾外と港湾内の水の流れをシャットアウトしている訳ではないので、所詮は港湾外にも汚染水は漏れ出すことになる。しかし、例えば工場の排水なども海に流されていて、それはとても人が飲めるものではないが、自然界の中で拡散し、長期的に持続可能な状態を保っていればそれで良いのである。例えば、ウラン鉱石などは世界中の何処でも採掘できるのではなく、局所的に集中的に埋蔵している。海に流れ出た放射性物質が海底に沈殿し、更にその上に様々な物質が沈殿し、1億年後ぐらい経過した地球上でその海底が隆起していたとすると、そこでそこそこの濃度の放射性物質が採掘できるようになるかも知れない。ウラン鉱石の産出国が、その自然界のウランのせい(採掘工場の従業員と言う意味ではなく、普通の生活の中でと言う意味)で膨大な健康被害を受けて問題になっているかと言えばそうではないので、自然界の自浄能力を借りて許容できる範囲であれば、それはそれで認めざるを得ないということである。しかし、その様な低レベルでも問題だと言われると、全くもって議論が出来ない。(5)の話などを出せば、福島県全体に汚染水タンクを作りまくり、そこに雨水を貯めようという話になってしまうから、平身低頭謝って、隠しはしないのだが(5)の議論を持ち出したりしないのである。しかしそれは、ラディカルな急進派の原発反対派の存在が、建設的な安全促進のための議論を実効上不可能にしてしまったのと同様に、現在でも論理的な議論を遮っている様に感じる。

まずは、論理的な議論の土俵に彼らが戻ってくるのを期待する。(続く)

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思考実験のススメ

2015-03-07 00:57:48 | 政治
今日は少しばかり、思考実験をやってみたいと思う。

まず背景にあるのは、以前、フランスでシャルリエブド襲撃事件が起きた時、欧州の多くの政治指導者が一斉に集まって、「私はシャルリ」とのビラをもって行進していた一件である。「何故、安倍総理はあそこに参加しないのか!」などと安倍総理を批判する輩もいて、シャルリエブドの無条件擁護が絶対正義であるとの雰囲気があった。確かに表現の自由、思想信条の自由は「絶対的」に正しいのは認めるのだが、この「絶対的」が「無条件」を指す言葉なのか、例えば「公共の福祉に反しない」といった「ほんの僅かであるが、制限がないわけではない」ものなのかははっきりしない。それを問うても中々ストレートな回答も得られそうもないので、ここでは思考実験をしてみることにする。

まず、現時点で分かっているのは、イスラム教徒を馬鹿にするようなことへの表現の自由を行使した際に、一部の過激なイスラム教徒が彼らにとって許し難い奴を暗殺した場合、欧州の大多数の政治指導者を含む圧倒的多数が大声で「イスラム教徒を馬鹿にする表現の自由を認めよう!」と認めている点である。「暗殺は許すまじ!」のニュアンスであれば、「私はシャルリ」という表現にはならないはずである。「テロ行為は認めない」と「下品な誹謗中傷は認めない」は全く別次元の区別して議論すべき対象だから、「私はシャルリ」という言葉の意味は、単に「テロ行為は認めない」という意味だけではなく、仮に下品な誹謗中傷にほぼ全員のイスラム教徒が感じることでも、表現の自由は絶対的に認められる訳で、あの様な下品な誹謗中傷であっても「表現の自由は絶対的に認めるべき」という意思表明が込められている。この事実の是非は、ここでは取りあえず置いておく。

では次のようなケースだったらどうだろうか?例えば、オウム真理教から派生する教団「ひかりの輪」代表の上祐氏は、オウム事件の反省を受けてか、以前の「ああいえば、上祐」と言われた面影もなく、テレビなどのメディアに表立って現れることが少ない(先日、オウム裁判で少しだけテレビに出演していた)。彼は、本音はどうか知らないが、建前上は「オウム真理教事件を反省し、麻原彰晃の影響を排除する」と明言し、結果的に教団アーレフ代表の座を追われ、現在の教団「ひかりの輪」代表となっている。私の感想は、仮に彼が何と言おうと信じられないので、その様な宗教の勧誘活動などは許せないと感じるが、しかし、憲法に保証された思想・信条・宗教の自由を考えれば、その宗教活動を法的に縛ることは許されないと感じる。
さて、そこで思考実験なのだが、その様な彼が仮に再びテレビなどのメディアに顔をだし、勧誘活動を活発化させたら快く思わない人が彼の暗殺を画策してもおかしくはない。仮に過激組織に彼が暗殺されたとしたら、「私は上祐」というビラを持って行進してくれる人は一体何人いるのだろうか?シャルリエブドに関して言えば、少なくとも政府関係者などはお下劣な風刺画を快く思っていなかったはずだから、「私はシャルリ」のビラを持って行進するのはシャルリエブドが超称賛に値する存在として認めているからではなく、あくまでも表現の自由を守るためである。であれば、宗教の自由を守るべきだと考える人は、一斉に「私は上祐」というビラを持って行進しても良いはずだが、実際にはそうはならない。これは断言しても良い。

次に、例えば原発事故以降、マスコミから「御用学者」のレッテルを張られている人がいたとして、その様な人が「停止中の原発を直ちに再稼働すべきだ!」とテレビや雑誌で吠えまくっていたとする。その様な行動に耐えかねた、福島の原発事故被害で故郷を追われた人が、その御用学者を暗殺したとする。滅茶苦茶な空想話でしかないが、この様な事件の後で、「私はxxx(御用学者と言われている人の名前)」とビラを持って行進する人は何人いるだろうか?安全と判断された原発の再稼働は政府も容認している訳で、原発再稼働を声高に主張してはいけないなどという理由は何処にもなく、全く疑いもなく言論の自由、思想・信条の自由の範囲内である。表現の自由や思想・信条の自由を認めるということは、その人の思想信条に共感することを意味しないから、全く意見は反対だが、その様な発言をする自由は絶対的に認めてあげるという意味である。だから、シャルリエブドと全く同じ状況の訳で、是非とも言論空間でリベラルと目されている人には「私はxxx(御用学者と言われている人の名前)」とのビラを持って行進して欲しいのである。しかし、彼らは絶対にそんなことはしないだろう。上っ面の「テロ行為はいけない!」と発言した上で、「ただ一方で、この様な発言によって多くの福島の人々の心が傷つけられていることを忘れてはいけない!」などと言うのは目に見えている。しかし、それは「私はooo(殺人犯)」というビラを持って行進するようなものである。

私なりの考えはシャルリエブドの事件を例に取れば、テロ事件が起きた際には「いかなる理由があるにせよ、テロ行為を正当化することなどできない!」とテロリストを糾弾することに重点を置き、「私はシャルリ」などの様な余計な感情論のニュースは流すべきではないと思う。それは、「無条件」でのシャルリエブドへの支持ではないからである。しかし、一方でこのタイミングで「イスラム教徒がシャルリエブドを襲撃したい気持ちは分かる」などと言ったらテロ行為を部分容認したようにもとられかねないから、シャルリエブドの問題点などは目をつぶるべきであろう。しかし、その翌週に発行された雑誌の中で再度イスラム教徒を茶化す様な風刺画をシャルリエブドが掲載した際には状況は異なる。1週間と言う冷却期間を置いたうえで、「表現の自由は認めるが、一般の善良なイスラム教徒の心をここまで踏みにじる行為は『下品』と言わざるを得ない。とてもではないが『私はシャルリ』と言うには値しない行動だ!」とたしなめて然るべきだったと思う。そうでなければ、上述の例において「私はシャルリ」なら喜んで飛びつくが、「私は上祐」「私はxxx」などとは死んでも言えない・・・という人の論理的整合性が説明できない。

以上長々と書いたが、言論空間で著名なコメンテータと言われる人々の発言には、論理的な一貫性よりも、感情論的に人からの支持を受けやすい短絡的なポピュリズム的な発言が多い。感情論的に何となく納得してしまうのだが、しかし思考実験をしてみると、なんかちょっとおかしい・・・ということは多々ある。正義だと思われていることが、必ずしも無条件で正義となり得るかは怪しい。物事は、多角的な視点で見ると「世の中、そう単純ではない」ということが殆どなのだが、中々それを理解して頂くのは難しいようだ。思考実験はその様な矛盾に気づくきっかけとなるかも知れない。

感情論よりも論理的な議論を尊重させるということは、思っている以上に大変なようだ。

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実名報道の是非は、議論の本丸ではない!!

2015-03-06 00:48:24 | 政治
昨日、週刊新潮が川崎市の中学一年生惨殺事件の主犯の少年の実名と顔写真を掲載し、この件についての様々な方面からのコメントが相次いでいる。今日はこの件についてコメントしてみる。

実はこの事件は、事件の翌日頃から私もネットの書き込みを知っていて、主犯の18歳の少年のフルネームから顔写真、両親のバックグラウンド、家族構成から家族の写真に至るまで、全てが暴露されて「見つけたら通報!」といったニュアンスが乱れ飛んでいた。ただ、この主犯に次ぐ従犯の氏名は異なる名前が挙がっていて、逮捕時の名前を見て「アレッ?」と思った記憶がある。その後、その当時に名前が挙がっていた人物とは違う人物の名前が「関与しているのでは?」と流れてきたり、臨場感とでもいう様な不思議な感覚がネットの中に存在した。ただ、それ以上にショッキングだったのは、事件の前日に起きた横浜市の野毛山公園トイレで起きた男子中学生暴行事件(意識不明の重体との説あり)にも今回の主犯は関与しており、この少年を意識不明の重体にしておきながら、その日の夜に別の上村君を惨殺したというニュースに接した時だ。ちなみに、しかも上村君殺害事件で誤ってネットに名前が掲載されていた他の人々はこちらの事件の関係者ではないかということである。真偽のほどは分からないが、これらの情報を流したのがどの様な人々であるかは容易に予想がつく。読んでいるとやりきれなくなるが、現実は更にずっとその先を行っている訳である。

これらの事件の残忍さから、週刊新潮などは実名報道は当然であるという立場であるが、私の感覚では「議論はそこではないだろう!?」という感覚である。ここでの議論は「罰則がなくても法律には従うべきである」とか、「厳罰化すれば犯罪が減少する訳ではない」とか、少年法の精神は「まず第一に少年の更生」を志向しているので、その精神に照らし合わせたらどうか・・・ということだが、そろそろ発想の転換が必要なのだと思う。

この少年法というものは、戦後間もなくに出来た法律で、その後に少年少女による凶悪犯罪が起きるたびに改正の議論が高まり、実際、最近でも2000年、2007年、2014年に改正がなされている。この改正では基本的に対象年齢の引き下げ、18歳以上の重大犯罪には死刑も含めた成人の罰則と同一の径を課すことが可能になった。17歳以下でも16歳以上であれば成人よりは1段階低い刑罰を適用するなどの優遇?は残るが、成人と同様に裁判にかけることができる。15歳以下は刑事裁判の適用外だそうだが、昔よりは全体的にペナルティは重い方にシフトしており、11歳でも「おおむね12歳以上」と判断され少年院送致の可能性がある。

これらの改正で、ある程度は少年法のあるべき姿に近づいてきたと思うが、基本的な物の考え方が整理できているのかが疑問である。私が気にしているのは、少年法でも成人の法律でも同様なのだが、事件を起こした後の加害者の「更正」よりも重要なのは、事件を起こす前(すなわち加害者になる前)に「引き返す」ことへのアシストとなるような法律の考え方である。例えば、酒鬼薔薇聖斗を名乗る神戸連続児童殺傷事件の犯人や、先日の名古屋大学による老女殺害事件の犯人などは、厳罰化で防げるような犯罪などではない。もはや病気とも言える犯罪に関しては、何処かもう少し早い段階で事件を防ぐことができたかといえば、それは不可能に近い。酒鬼薔薇聖斗などは、色々と奇行を繰り返していたが、犯罪として牢屋や少年院に送れるような犯罪ではなく、仮に補導して指導していたとしても余り結果は変わりそうにない。

私が気にしているのは、例えば暴力団を撲滅させようとするのであれば、暴力団への資金供給をカットすることに加えて、暴力団員の脱会を支援する様な法的アシストを考えるべきだと思う。例えば、脱会を模索する組員に対する脅迫などは、通常の恐喝罪などへの刑よりも重くするのである。重いというのは、例えば「執行猶予付き」を「実刑」にしたり、刑期を50%増しにするなどの意味である。更には、逮捕されたことへの報復などの措置へは、更に刑を重くし、刑期を2倍にするとか傾斜させるのである。つまり、重大犯罪に達した後で「無期」を「死刑」に厳罰化しても、あまり喜ばしい話ではない。多分、無期刑になるような人を更生させるには相当な年月が必要で、例えば20年ほどの刑期を終えて更生して出所した人が20年後の世界で社会復帰できるかといえば、私の大好きな映画である「ショーシャンクの空に」の様に、あまり期待できるものではない。更生が更生として意味を持つのは、加害者側も更生すれば社会復帰できるレベルの場合で且つ、被害者側も加害者の更生を受け入れることができる場合である。

だから、例えば上村君の事件のケースでは、彼が目に大きなアザを作った段階で上村君からの申告がなくても、その周りからの通報で警察が加害者と目される人物に対して警告を発し、その警告がなされている状況において、報復と思しき行為が行われた場合に対する罰則を厳罰化するのである。今回、上村君がグループを抜けようとしたとき、主犯たちは「これ以上、俺に逆らえば殺しちゃうかも知れないぞ!」というブラフをかけたはずであるが、今回の様な殺人事件があると、このブラフが益々現実味を帯びてしまうことになる。グループから抜けたいと思っている上村君の様な少年を救うためには、早い段階からこのブラフを無力化する必要があり、明確な警告という形で逆ブラフをかけるのである。犯罪を実行に移さずに思いとどまればそれまでであるが、実行に移した場合には厳罰を本人も覚悟せざるを得ない。

イメージ的にはストーカー規制法的に、実際の犯罪行為に至らなくても、その前段の迷惑行為の段階で警察が積極的に関与して警告を発し、「ここで引き返せば大目に見るが、それでも一線を越えれば厳罰で臨む」として重大犯罪化を未然に防ぐのである。その時、被害者からの告発が条件となると、相手は確実に告発した人間を逆恨みするが、例えば上村君の両親や友人が警察に通報しても対応してもらえるのであれば、相手も通報者を特定しにくいので加害者と被害者の和解の余地が残される。

勿論、思い付きの話で細かいところを詰めていないのはその通りだが、その考え方のポイントは、「取り返しのつかない最後までやったものに厳罰」としても嬉しい人は殆どおらず、それよりも「取り返しのつかないところに辿り着く前に、クールダウンさせるための厳罰化・対策」の方がよっぽど救われる人がいるということである。やり方の工夫は必要だが、ストーカー対策のアプローチは参考になるのではないかと思った。

ここまで書いてきて、「これじゃあ、老女殺害の名大生や酒鬼薔薇聖斗は救えないよ!」と言われるような気がするが、最初に行ったように彼らの様な病的な人は全くアプローチが別であるべきである。これらには、精神科の専門家などの意見を踏まえて別の対策が必要だと思う。

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