けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

思考実験のススメ

2015-03-07 00:57:48 | 政治
今日は少しばかり、思考実験をやってみたいと思う。

まず背景にあるのは、以前、フランスでシャルリエブド襲撃事件が起きた時、欧州の多くの政治指導者が一斉に集まって、「私はシャルリ」とのビラをもって行進していた一件である。「何故、安倍総理はあそこに参加しないのか!」などと安倍総理を批判する輩もいて、シャルリエブドの無条件擁護が絶対正義であるとの雰囲気があった。確かに表現の自由、思想信条の自由は「絶対的」に正しいのは認めるのだが、この「絶対的」が「無条件」を指す言葉なのか、例えば「公共の福祉に反しない」といった「ほんの僅かであるが、制限がないわけではない」ものなのかははっきりしない。それを問うても中々ストレートな回答も得られそうもないので、ここでは思考実験をしてみることにする。

まず、現時点で分かっているのは、イスラム教徒を馬鹿にするようなことへの表現の自由を行使した際に、一部の過激なイスラム教徒が彼らにとって許し難い奴を暗殺した場合、欧州の大多数の政治指導者を含む圧倒的多数が大声で「イスラム教徒を馬鹿にする表現の自由を認めよう!」と認めている点である。「暗殺は許すまじ!」のニュアンスであれば、「私はシャルリ」という表現にはならないはずである。「テロ行為は認めない」と「下品な誹謗中傷は認めない」は全く別次元の区別して議論すべき対象だから、「私はシャルリ」という言葉の意味は、単に「テロ行為は認めない」という意味だけではなく、仮に下品な誹謗中傷にほぼ全員のイスラム教徒が感じることでも、表現の自由は絶対的に認められる訳で、あの様な下品な誹謗中傷であっても「表現の自由は絶対的に認めるべき」という意思表明が込められている。この事実の是非は、ここでは取りあえず置いておく。

では次のようなケースだったらどうだろうか?例えば、オウム真理教から派生する教団「ひかりの輪」代表の上祐氏は、オウム事件の反省を受けてか、以前の「ああいえば、上祐」と言われた面影もなく、テレビなどのメディアに表立って現れることが少ない(先日、オウム裁判で少しだけテレビに出演していた)。彼は、本音はどうか知らないが、建前上は「オウム真理教事件を反省し、麻原彰晃の影響を排除する」と明言し、結果的に教団アーレフ代表の座を追われ、現在の教団「ひかりの輪」代表となっている。私の感想は、仮に彼が何と言おうと信じられないので、その様な宗教の勧誘活動などは許せないと感じるが、しかし、憲法に保証された思想・信条・宗教の自由を考えれば、その宗教活動を法的に縛ることは許されないと感じる。
さて、そこで思考実験なのだが、その様な彼が仮に再びテレビなどのメディアに顔をだし、勧誘活動を活発化させたら快く思わない人が彼の暗殺を画策してもおかしくはない。仮に過激組織に彼が暗殺されたとしたら、「私は上祐」というビラを持って行進してくれる人は一体何人いるのだろうか?シャルリエブドに関して言えば、少なくとも政府関係者などはお下劣な風刺画を快く思っていなかったはずだから、「私はシャルリ」のビラを持って行進するのはシャルリエブドが超称賛に値する存在として認めているからではなく、あくまでも表現の自由を守るためである。であれば、宗教の自由を守るべきだと考える人は、一斉に「私は上祐」というビラを持って行進しても良いはずだが、実際にはそうはならない。これは断言しても良い。

次に、例えば原発事故以降、マスコミから「御用学者」のレッテルを張られている人がいたとして、その様な人が「停止中の原発を直ちに再稼働すべきだ!」とテレビや雑誌で吠えまくっていたとする。その様な行動に耐えかねた、福島の原発事故被害で故郷を追われた人が、その御用学者を暗殺したとする。滅茶苦茶な空想話でしかないが、この様な事件の後で、「私はxxx(御用学者と言われている人の名前)」とビラを持って行進する人は何人いるだろうか?安全と判断された原発の再稼働は政府も容認している訳で、原発再稼働を声高に主張してはいけないなどという理由は何処にもなく、全く疑いもなく言論の自由、思想・信条の自由の範囲内である。表現の自由や思想・信条の自由を認めるということは、その人の思想信条に共感することを意味しないから、全く意見は反対だが、その様な発言をする自由は絶対的に認めてあげるという意味である。だから、シャルリエブドと全く同じ状況の訳で、是非とも言論空間でリベラルと目されている人には「私はxxx(御用学者と言われている人の名前)」とのビラを持って行進して欲しいのである。しかし、彼らは絶対にそんなことはしないだろう。上っ面の「テロ行為はいけない!」と発言した上で、「ただ一方で、この様な発言によって多くの福島の人々の心が傷つけられていることを忘れてはいけない!」などと言うのは目に見えている。しかし、それは「私はooo(殺人犯)」というビラを持って行進するようなものである。

私なりの考えはシャルリエブドの事件を例に取れば、テロ事件が起きた際には「いかなる理由があるにせよ、テロ行為を正当化することなどできない!」とテロリストを糾弾することに重点を置き、「私はシャルリ」などの様な余計な感情論のニュースは流すべきではないと思う。それは、「無条件」でのシャルリエブドへの支持ではないからである。しかし、一方でこのタイミングで「イスラム教徒がシャルリエブドを襲撃したい気持ちは分かる」などと言ったらテロ行為を部分容認したようにもとられかねないから、シャルリエブドの問題点などは目をつぶるべきであろう。しかし、その翌週に発行された雑誌の中で再度イスラム教徒を茶化す様な風刺画をシャルリエブドが掲載した際には状況は異なる。1週間と言う冷却期間を置いたうえで、「表現の自由は認めるが、一般の善良なイスラム教徒の心をここまで踏みにじる行為は『下品』と言わざるを得ない。とてもではないが『私はシャルリ』と言うには値しない行動だ!」とたしなめて然るべきだったと思う。そうでなければ、上述の例において「私はシャルリ」なら喜んで飛びつくが、「私は上祐」「私はxxx」などとは死んでも言えない・・・という人の論理的整合性が説明できない。

以上長々と書いたが、言論空間で著名なコメンテータと言われる人々の発言には、論理的な一貫性よりも、感情論的に人からの支持を受けやすい短絡的なポピュリズム的な発言が多い。感情論的に何となく納得してしまうのだが、しかし思考実験をしてみると、なんかちょっとおかしい・・・ということは多々ある。正義だと思われていることが、必ずしも無条件で正義となり得るかは怪しい。物事は、多角的な視点で見ると「世の中、そう単純ではない」ということが殆どなのだが、中々それを理解して頂くのは難しいようだ。思考実験はその様な矛盾に気づくきっかけとなるかも知れない。

感情論よりも論理的な議論を尊重させるということは、思っている以上に大変なようだ。

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