けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展・その後」問題の解決法

2019-10-01 22:42:56 | 政治
現在、一旦中止された「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展・その後」が再開されようとしていると共に、文化庁からの公的助成金の支払いの停止問題が話題となっている。今日は、この問題の簡単な解決方法を提案したい。

まず、助成金の停止問題は、「混乱が生じることを予見しながら展示を強行した」ことに対し、文化庁にはなんの相談も報告もなく、国民の血税を使う以上、必要最低限の文化庁への説明責任を果たしていなかったことには弁解の余地はない。という以前に、中止せざるを得ない事態が当然予測できたのにその点を隠し、勝手に開催を中止しておいて「金だけは払え」というのは言いがかりに近い。例えば、「イベントやるからスポンサーを求む」としてクラウドファンディングを立ち上げ、しかし裏では「明らかにイベントが没になる」理由が明確にあるのにそれを隠し通していたとする。結果、イベントは没になり、それに気づいた時点でまだお金を払っていないスポンサーがいたら彼らは支払いを拒否するのは当然で、イベントが没になったのに「約束通り金を払え」というのは明らかに無理があるだろう。

更に、天皇陛下のお顔の写真を燃やしてその灰を踏みつけることや、政治的に偏ったプロパガンダを表現の自由と称して(公金を用いて)世間にアピールすることが本当に良いことなのか、という問題も当然ながら着目されるべき点である。私は、税金を使う以上はある種の公序良俗に反することは反対なのだが、今回は大上段に「表現の不自由展」とうたい、その点に主催者は敢えて切り込んでいこうと言うのだから、ある種の問題提起ととらえ、場合によってはその立場に寄り添ってみても良いかもしれないとは思った。

そこで、この問題を解決するための提言をしてみたい。

答えは簡単である。現在の展示に加えて以下の展示を追加して開催するのである。

(1)大村知事のお顔の写真を燃やしてその灰を踏みつける映像を展示
(2)津田芸術監督のお顔の写真を燃やしてその灰を踏みつける映像を展示
(3)ライダイハンの象徴の像を慰安婦像の横に並べて展示

この三つの展示を合わせて展示すれば、「表現の不自由のタブーに挑戦するイベント」との認識を誰にでももってもらうことができる。例えば、大村知事はことある毎に「検閲は良くない」というのだから、自分にとって最も不都合な表現の自由をも許容するのは当然のことである。津田芸術監督も、同じくその責を追うべき立場だから、自ら率先してこのような展示を許容すべきだろう。最後のライダイハンは、偏ったプロパガンダの毒を中和すると共に、真の意味での「表現の不自由」をアピールするなら、これほど適した展示はないのである。何故なら、今回の展示を企画した者達にとって、これほど不都合な展示はないのだから。つまり、すべての者にとってバランスをとって、主催者側ですら不自由に感じることをあからさまにさらけ出せば、ダブルスタンダードを廃した議論ができること、請け合いである。

多分、このような内容になれば、過激な脅迫など大分緩和されるだろう。偏った政治的プロパガンダの毒を抜くことで、警備の方も少しはやり易くなるだろう。実際に世の中の議論を深める展示が再開できれば、文化庁も「金は払えん」とは言いにくくなる。今回のA級戦犯の二人も責任を果たすので、多くの不満のガス抜きにもなる。
これで丸く収まる...と、私は思うのだが。

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大胆予想!

2019-08-06 22:58:15 | 政治
今日は大胆予想をしてみようと思う。

先日、トランプ大統領が中国に対して追加関税を課す措置を発表した。さらに続けて、中国を為替操作国に指定までした。日本もそうだが、アメリカの株が暴落した。

一方、韓国は対日本の経済戦争を宣言し、大々的な不買運動を行い、日本に対する経済的な打撃を大統領自らが声高に叫ぶような事態だ。この結果、安全保障上の輸出管理措置の見直しも相まって、サムソンなどの主要企業の業績悪化が軒並み底抜けに悪化し、韓国ウォンの下落と韓国発の通貨危機の再来がカウントダウンに入った。北朝鮮は連日の様に謎の飛翔体を発射し続け、一触即発の事態となっている。

そんな泣きっ面に蜂の韓国をあざ笑うかのように、中国とロシアは自称韓国領の竹島の領空に連携して軍用機を飛来させ、半ばあっかんべーをして、韓国軍機の威嚇射撃を誘った。そこに韓国はGSOMIAの破棄をちらつかせて日本とアメリカを恫喝し、トランプ大統領が韓国を見限る土壌を醸し出している。

人はこれを「惑星直列」と呼ぶ。ここまでの事態は中々お目にかかれるものではない。所謂、「リーマンショックの再来」級の危機的事態である。しかし、安倍総理はこれまで、増税の延期の際には必ず選挙を行っていた。しかし、今は選挙など行っていられる状況ではない。そこで、安倍総理は10月に向けて、「一時的な緊急避難措置として、全品目に8%の軽減税率を適用する」方針を打ち出すのではないかと予想する。

これで法律的に定められた消費税増税の導入と、実効的な消費増税の見送りを両立することになる。どこかで軽減税率の解除が求められるが、それはデフレを脱却したとの判断がなされた時で十分である。安倍総理の任期中に実施する必然性はない。

何処かでもう一度、最初から議論し直す場を設けるべきではないか。

p。s。
それにしても笑った。人は今年の8月2日を「ホワイトデー」と呼ぶらしい。ホワイトデーは男性から女性へプレゼントを贈る日。アメリカと日本の二人のジェントルマンが、黒に近い紺色のスーツに鮮やかな金色(黄色)のネクタイという”超、偶然な”おそろいのいで立ちで、にっこり笑って韓国の女性にプレゼントを授ける。韓国の女性は戸惑って顔が硬直する。中々、憎い演出であった。

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例え話をしよう!!

2019-08-04 09:25:28 | 政治
例え話をしよう。
ここには二つのケースがある。あなたなら、それぞれのケースにどの様な評価を行うだろうか?

これらは、どちらも地方の弱小銀行のお話である。弱小銀行は経営破綻が囁かれ、多くの銀行・禿鷹ファンドが狙っている状況である。

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【ケース1】
国内屈指の某大銀行は、その財力を駆使してその弱小銀行を吸収合併する。弱小銀行の経営者は経営権を奪われ、その社員も長年慣れ親しんだ銀行名を失うことになる。しかし、旧経営陣も含めて彼らの雇用は守られ、大銀行の福利厚生制度や様々な恩恵を享受できる状態になる。給料体型は大銀行の高給そのままとはならず若干の差別は残るが、旧弱小銀行時代より業績が大幅に改善したために、給料が上がり社員の暮らしは大幅に改善する。当初は弱小銀行系社員は簡単には出世できなかったが、徐々に課長、部長クラスの人材を排出するようになる。しかし、どこの世の中にも不満を口にする人はいて、中には「自分を育てた銀行の名前が消えてしまった」、「経営に一言も口を挟めなくなったのは屈辱だ」という人もいないわけではない。ただ、生活の改善度が目覚ましかったため、気がつけば旧弱小銀行系の社員の中で吸収合併した大銀行を悪く言う人は少なくなっていった。

【ケース2】
ケース1の国内屈指の大銀行が吸収合併する前に、外資系の禿鷹ファンドが一瞬の隙をついてその財力に物言わせて弱小銀行の株を買い漁り、2/3以上の株式を確保することに成功する。禿鷹ファンドは株主として弱小銀行の行動に何から何まで口出しをして自在に操るが、経営権は元々の経営陣に委ねたままである。当然、銀行名も元のままだが、禿鷹ファンドは株主として声高に声をあげ、弱小銀行が持つ資産を次々に売却させ、その売却益を株主(禿鷹ファンド)に還元させる。禿鷹ファンドは、株の購入に要した資金を遥かに越える売却益を得てぼろ儲けだが、弱小銀行は骨と皮だけになり、社員への給料もままならない。みるみるうちに、社員の大半はリストラされ、気がつけば経営陣と僅かな社員だけが残る。弱小銀行の名は残り、経営陣も退陣せずに済んだが、社員たちは地獄に突き落とされることになった。それでも、経営陣は「我々の尊厳だけは守り通した」と胸を張る。
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この様なふたつのストーリーを見てどう感じるだろうか?

私の感覚では、当然、ケース1の方がベターなストーリーだと思うが、中にはケース1を最悪と罵る人がいる。彼らにとっては、銀行として(会社として)の尊厳を保てる(正確には、わずかばかりでも延命できること)の方が重要なのだろう。「名より実をとる」のではなく、「実より名をとる」方が重要なのだと・・・。しかし、それは僅かな延命策でしかない。タイミングを逃せば、ケース2のストーリーが待っている。ケース1を非難する人はケース2を望んでいるのだろうか?

冷静に考えてみよう。買収を仕掛ける側に立てば、どちらが得かと言えば明らかにケース2の方だろう。国内の大銀行がケース1の行動をとらなくても、放っておけば外資系の禿鷹ファンドは普通にケース2の行動をとる。少なくとも、このストーリの時代には、それが常識だった。国内の巨大銀行が行動に起こすか、外資系禿鷹ファンドが行動に移すかの違いで、何れにしても、地方の弱小銀行がケース1の状態を回避すれば、ケース2の様にペンペン草も生えないほどにむしりとられる運命にあるのは間違いない。

なお、このケース1のストーリーには続編がある。巨大銀行が吸収合併した際の社員達には吸収合併したことを悪く言う人は少なかったが、その孫の世代になると雲行きが怪しくなる。とにかく「大企業=極悪」の思い込みの激しい思想の偏った人が「巨大銀行は極悪非道だった」と一大キャンペーンを張りだした。よくよく調べてみると、そのキャンペーンを仕掛けた人たちは、その巨大銀行に対し何故か敵意をもった人たちであった。責める方も責められる方も、その時代に生きていた人ではない。その時代に本当は巨大銀行がどの様な行動をとり、その弱小銀行の経営状態がどの様なもので、その社員の生活がどれほどだったかを定量的且つファクトベースで議論するのに必要な知識を持った人たちではない。ただ、あくまでも扇動的に煽りまくる人々の言葉を鵜呑みにしているだけである。

やがてマスコミもその騒動を記事にするようになるが、彼らのスタンスは「弱者に寄り添う」である。巨大銀行が「強者」なら、自動的に「強者」と対立するものを「弱者」と位置づけ、盲目的に巨大銀行を責めることになる。いつしか、マスコミの中には根拠のない誹謗中傷を平気で書くメディアも出てきた。

業を煮やした大銀行はついに法的措置に踏み切る。メディア上には、あからさまな誹謗中傷が躍っているので、裁判での証拠としては十分である。裁判で膨大な賠償請求が追わせられることにやっと気が付いたメディアは、紙上で「裁判に訴えるなど悪意に満ちている!」と書きなぐり狼狽する。この頃になって、新聞の読者は「記事が真実なら、裁判で正々堂々と戦えば勝てるのに・・・」と思い、狼狽するメディアに「なんかおかしくない?」と気づくことになる。

・・・
以上、ここに書いたお話は単なるたとえ話である。まさか、実際の世の中でこの様な展開になることはないだろう。というか、ならないことを私は信じている。しかし、えてして予想外の展開というのは何処の世界にもあるものである。そのような時に、その状況をファクトベースで精査し、本来、どう判断すべきかを自分自身の頭の中で整理すべきである。その「頭の中の整理」を訳の分からん活動家やマスメディアに任せてはいけないのである。

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大人の対応をしてはいけない理由

2019-08-01 07:31:01 | 政治
せっかくなので、もう少し続編を書いてみようと思う。

日本のOLDメディアは、日本政府に対して「大人の対応をしろ!」という主張を紙面でしている。彼らには、ことの本質が理解できていないようだ。日本には「大人の対応をしてはいけない理由」があるのだ。

先日、日本の外務省が日韓請求権協定の議事録を公開したが、この本当の意味も分かっていないのだと思う。多分、彼らは「議事録に書かれているんだから、もう、日本には賠償責任はないよ」という主張を外務省がしたかっただけ、と思っているに違いない。ただ、これは問題の全体像を1/3も見ていない理解である。ことの本質は、韓国の最高裁の判決の法的根拠にかかっている。

実は、外務省が日韓請求権協定の議事録を公開したことに対し、韓国のマスコミは「韓国最高裁の指摘する補償は、日本の外務省が主張する日韓請求権協定の中の補償とは異なる」と主張している。実はこの背景に、日本政府が今回、背水の陣で臨んだ理由がある。

議論のポイントは、韓国最高裁が下した判決の中にある。実は、文在寅は最高裁判決の中にトラップを仕掛けたのである。日本にも韓国にも既に知られている通り、これまでの韓国政府は、(所謂)徴用工問題は日韓請求権協定の中で解決済みというスタンスをとってきた。だから、ここで韓国最高裁がこれを判決でひっくり返したとしても、それは単に「個人の補償の請求権が消滅していなければ、(日本政府には支払いの義務はないから)その請求先は単に韓国政府になるだけ」ということになるはずだった。三権分立と言えど、国内法よりも上位の国際条約を、高々、韓国国内の裁判所がひっくり返せる法的根拠はないのだから。しかし、韓国最高裁はこのハードルをクリアするために、飛び道具を使ってきたのである。それは、戦前の日本の行動は全てナチスと同じ非人道的罪に相当するから、その後の国際条約をも全て超越して、「オールマイティーに好きなものを好きなだけ卓袱台返しする権利を韓国国民は有する」と宣言したに等しいのであった。国内法の上位概念の国際法に対抗するために捻りだされたウルトラCの方便と言える。

(最終的に不本意ながら)韓国政府が韓国/日本の企業に韓国政府もお金を入れて基金を作ると言ったのは、この未来永劫の卓袱台返しの権利が認められた実績を作るためであり、本来はここで勝ち取れる金額など些細なものでどうでもよい話だった。しかし、この実績が判例的に確定すると、未来永劫、韓国は日本の企業をターゲットに虐めを繰り返すことが可能になってしまう。だから日本政府には、この韓国最高裁の判決をチャラにする必要があるのである。

それは、国際司法裁判所における韓国側の国際法違反認定である。

しかし、韓国は国際司法裁判所での裁判を受け入れないだろう。だからこそ、韓国経済を崩壊寸前まで追い込み、国際司法裁判所への提訴受け入れの韓国国内世論を巻き起こす必要がある。それができないなら、国際社会が韓国に「国際司法裁判所で決着をつけたら!」と促す土壌を作る必要がある。国際社会は、韓国最高裁の飛び道具についての認識などないから、外務省が公開する日韓請求権協定の何たることかの理解を深めれば、十分に「文句があるなら国際司法裁判所で決着をつけたら!?」という流れにつながる。

そもそも、韓国最高裁の主張がまかり通るなら、戦争をした国同士の平和条約など意味を持たないことになる。請求権を抹消しない交通事故の示談交渉が意味を持たないことと同じである。一旦戦争をしたら、千年経っても請求権を振りかざされるのであれば、国交回復などせずに断絶した状態を維持するしか道はなくなるのだ。誠意を見せることにも意味がなく、結果的に世界中に紛争が絶えないことになる。これは、国際社会の常識に反した考え方である。

私の理想は、この問題を契機に、日本が戦時中、韓国に対してそこまで酷いことをしたのかという議論が国際社会の中で話題になることにある。慰安婦問題は人間の裏側(秘めごと)の世界なので、証拠が明確に残らず本人が被害者と言えば否定は難しかった。しかし、所謂徴用工問題は別である。様々な証拠が残っている。議論ができるテーマなのである。今になって思えば、今回の事態は両国にとっても世界にとっても、良い切っ掛けになったのかも知れない。

話を戻せば、韓国はオールマイティーというカードを切ってきた。切ってしまったと言うべきかもしれない。覆水盆に帰らず。このカードの有効性を維持したままでの決着はあり得ない。マスメディアは、ことの重大性をもっと説明する責任があるのではないか。今一度、ジャーナリズムを名乗る方々は自問自答して欲しい。

なお、補足であるがアメリカが日韓の仲裁に乗って出たと言うニュースがあった。韓国は大喜びだろうが、これは日米のトラップではないかと予想する。仲裁の中には、日本が8か月以上に渡って続けてきた、あからさまな国際法違反の是正も含まれる。つまり、仲裁するための大前提として、国際司法裁判所での裁判の受け入れは当然含まれるだろう。それが受け入れられなければ、アメリカは日本に対してベタ降りを強いる仲裁をすることになる。アメリカがこれを認める筈がない。仮に韓国が国際司法裁判所での裁判を受け入れたら、日本政府はホワイト国からの削除の延期は承諾するかもしれないが、それはあくまでも一時的な延期の話でしかない。韓国が態度を改めなければ、いつでも再開は出来るのである。さらに3品目の輸出管理の見直しは既に確定済みで元には戻らない。いずれにしても、韓国の通貨危機の再来はカウントダウン中である。

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日本のOLDメディアがすべき仕事がある!!

2019-07-31 07:37:47 | 政治
超久しぶりの投稿である。
議題は言うまでもなく、日韓問題である。

様々な報道があるなか、根本的に欠けている議論がある。それは、どうしてここまで、両国の議論が噛み合わないかの理由についてである。多分、文在寅や韓国の政権中枢の者は流石に分かっているのだろうが、一般の韓国国会議員やほぼ100 %の韓国のマスメディア、韓国国民は分かっていないのだと思う。そして、朝日、毎日などの日本の一部のマスメディアも分かっていないのだろう。日本政府叩きを目的化していると、眼鏡が曇ってしまうのであろう。

では、議論が噛み合わない理由を順番を追って説明する。

まず、日本政府の立場である。今回の件は、あくまでも国家安全保障的観点から、輸出管理を不断に見直しするという国際的な義務を実行しただけで、輸出管理上、十分に信頼に足るとして特別扱いをしていたホワイト国から一般の国の扱いに、韓国の位置付けを変えただけである。3品目についても同様である。したがって、WHO で議論する対象などにはなり得ず、日本政府のこれまでの行動は、実に理にかなったものであった。決して日本国民を煽ることもなく、抑制の効いた行動である。

一方、韓国側の主張はこうであろう。今回の日本政府の行動の裏には徴用工問題が強く関係している。実際、安部総理も世耕経産相も、当初の発言の中で、徴用工に絡めて国際法も順守できない国に対する信頼性の低下について言及していたと思う。だから、どっからどう見ても、ここ最近の一連の韓国の行動に対し日本の堪忍袋の緒が切れて、輸出管理の見直しに繋がったのは自明である。韓国サイドが、今回の日本政府の行動を「経済制裁」と言っているのはこのためである。

さて、誰もがご存じのここまでの単純な整理であるが、ここから見えてくるものはないだろうか?
話は簡単である。上の二つの立場は、論理的には「排他的」ではないということである。実は非常に注意して上記の韓国側の立場を書き下したのであるが、この韓国側の立場を維持したまま、日本政府の立場を維持するのは可能なのである。コロンブスの卵的な話だが、それに気がついている人が非常に少ない気がする。下手をすると、韓国国民の中には国全体を探しても10人もいないのではないかとすら思ってしまう。

説明を加筆すると、こういうことである。

日本政府は国家安全保障上の要請から、輸出管理の見直しを迫られた。国際的に責任ある国故に当然である。しかし、それを実行に移すと韓国に致命的な打撃を与えることになる。だから、日本政府は韓国の立場を忖度し、これまで長いこと行動に移すのをためらっていた。この状況で、躊躇わずに即座に行動に移しても、国際法上は何ら問題はない。しかし、それを長いことためらっていた。実際、西村官房副長官が3年以上、韓国に協議を求めてもなしのつぶてであったと語っている。そんな最中の徴用工問題、レーダー照射事件、北朝鮮への瀬戸問題である。自制に自制を重ねた堪忍袋の緒が切れてしまったのは、まさに韓国の主張通りである。しかし、その堪忍袋の緒が切れる前の時点で、輸出管理措置の見直しは既に合法的なのだから、その後にどの様な経緯(躊躇したこと)があろうと関係ない。あくまでも、二つの話は切り分け可能で、韓国の言い分を聞いたら日本政府の立場が崩れるような話ではない。
勿論、日本政府の発言は、場外乱闘のリスクを最小にするため、韓国の主張を認めてはいない。しかしそれは当たり前のことで、それをもって批判される話ではない。重要なのは、日本政府が韓国の立場を認めようが認めまいが、そんなこととは関係なく、日本政府の立場の正当性は成り立つのである。逆に言えば、韓国が日本政府の立場を切り崩すためには、現在の主張を何処まで続けても無意味なのである。空くまでも、韓国が輸出管理をしっかりやっていて、ホワイト国に相応しい国であることを、証拠と共に示す必要がある。説明責任は韓国にあり、徴用工問題が関係していることを説明しても意味などない。

いい加減、そこに気がついて欲しいのだが、日本の中でさえ、OLDメディアにはハードルが高いようである。「両国政府は冷静な対処を!」などと社説で言う暇があったら、「韓国の立場を100%認めても、やはり輸出管理の見直しは正当である」ことを、何故、韓国に知らしめてあげないのか。本気で議論を意義あるものにしたいなら、日本のマスメディアは韓国側にこのポイントを指摘すべきである。

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安倍的なもの?

2018-07-07 23:15:53 | 政治
既に下火になった日大アメフト事件について少しだけコメントしておく。

腐るほどの報道があるので今さら感が強いが、ズバリと指摘されていた報道を見たことがないので敢えて言っておきたい。ことの発端は、内田監督が相手選手に怪我を追わせることを条件に加害者選手を出場させたのだが、内田監督のリアクションが何ともドン臭く、火に油を注ぐ結果になった。日大の理事会も輪をかけてドン臭く、さらにガソリンを投下して、面白いように炎上した。反安倍陣営はここぞとばかりに「安倍的」なものとして、面白おかしく政権叩きに活用している。まあ、短絡的でパブロフの犬のように、何を見ても「安倍が、安倍が!」と言っている連中に対しては、何を言ってもしょうがないが、普通に考えたら「内田監督も日大の理事会の連中も、何故、あそこまで分かりやすいドツボに自らはまるの?」と思うはずである。今日は、その背景についてコメントしたい。

まず、仮説を立ててみたい。仮に内田監督が、本気であの選手の「分かり易い非合法な反則行為」を期待していたのなら、少なくとも話題に上った時点で罪悪感はあるはずなので、もう少し、申し訳なさそうな言動に終始するはずである。にもかかわらず、彼があれだけ抜けシャーシャーと開き直っていたのには訳があると考えた方が自然である。では、実際に内田監督がどの様に考えて、選手に対してどの様な指示を出していたとしたら辻褄が合うのか?
私の答えはこうである。

内田監督の本音は「相手の選手に怪我を負わせてこい。それも、世間から責められることのないように、あたかも正当なタックルに見せかけて、実際には大怪我を負わせるような、高度なテクニックで潰してくるんだ!」と言ったところだろう。多分、(その他のコーチが意訳して直接的な指示を出していた可能性は大いにあるが)言葉の上っ面だけを取れば内田監督は直接的な非合法なタックルを明示的な言葉では指示していなかったのではないか?と私は予想する。あの選手の2回目の反則はそれに近い、合法的(プレー続行中のタックル)と非合法(プレー停止中のタックル)の紙一重のタックルであった。しかし、合法的タックルではタックルされる側の相手も身構えるので、そう簡単には怪我をしない。普通ならば、そのルールと反則の隙間のようなところを狙うのだろうが、あの選手は強迫観念に刈られて、怪我を負わせる方を優先してしまったのだろう。勿論、まだ若い選手に恐怖を植え付けてそうさせたのだから、悪いのは内田監督の方である。しかし、内田監督からすれば、仮に裁判にでもなったとすれば、「私は直接的な指示をしていないのだから無罪だ!」と思っていたのだろう。流行りの「忖托」という言葉を借りれば、忖托することを半ば強要する形で接しながら、言質は与えないというやり方である。内田監督からすれば、ボイスレコーダでも出てこようもになら彼の無罪が証明されるようなものだから、確信をもって「俺は悪くない。意識的に言葉を選んでいた。」と言い続けていたのだろう。そして、忖托したのは選手自身なのだから、自分で罪を被るには当然だ!と思っていたのだろう。

ここで、ここまで説明すると、反安倍陣営は「やっぱ安倍が悪い」と言うのだろうが、果たしてそうなのだろうか?

例えば、ある野党の政治家の熱狂的な支持者がその政治家の気持ちを忖托して「安倍を排除すべし」「安倍を殺すしかない」と思って殺人未遂を犯したとする。忖托された政治家はその責任をとるべきだろうか?答えはNo!!である。忖托を強要した訳でもないのに、勝手に忖托をされた責任を問うのはおかしな話である。これが通るなら、いくらでも政治家や著名人を失脚させることができてしまう。

では、忖托の強要とはどういうことか?

以前、小沢一郎の秘書が逮捕されて、秘書の一部は有罪となったことがあったが、当の小沢氏は上手く逃げおうせた。非合法なお金の流れは、わざと小沢氏に報告させないようにして、それでいて実際には非合法なことを暗黙に強要していた。幸いにも小沢信者にとっては殉教も止むなしというところだから、絶対に尻尾を割ることはなかった。その暗黙のルールを全ての秘書が共有することで、その(小沢氏を罪に問えないという)完全犯罪が成立する。

内田監督がここまで非情なことを選手に期待していたかはなにも証拠はない。状況証拠的には忖托の強要があったのは選手の証言から明らかであるが、内田監督が直接的な表現で指示したか否かはグレーである。報道による人民裁判ではなく、証拠を前提とする裁判であったならば、(コーチは有罪となる状況ではあると思うのだが…)内田監督が罪に問われることはないのかも知れない。この意味で、日大アメフト事件は「安倍的なもの」ではなく、「小沢的なもの」と言った方が遥かにしっくりくる。
話を安倍政権に戻してみよう。財務省の佐川氏にしてもその他の全ての登場人物にしても、安倍総理が忖托を強要した形跡は皆無である。「私か妻が関与していたら議員辞職する」と言ったから話をややこしくしただけで、あの発言が無かったら誰もここまで引っ張れる話だとは思わないだろう。実際、長々と引っ張っておきながら忖托の強要を裏ずける何かを示すような報道は何もない。仮に安倍総理が上述の「小沢的なもの」を意図しているならば、完全犯罪のために「私か妻が関与していたら議員辞職する」などと言う訳がない。

では何故「私か妻が関与していたら議員辞職する」などと発言してしまったかであるが、これは理由は明確である。新聞やテレビは繰り返し繰り返し「安倍は信用できない!」とネガティブキャンペーンを続けてきた。彼自身の発言の信憑性を高める為に、彼は「私か妻が関与していたら議員辞職する」と言ったのは明らかだ。しかし、性悪説を前提とする野党や既存マスメディアにとって、これほど好都合な発言はなかった。だから、国益を害することがエンドレスで続くことになる。
テレビや新聞に洗脳されている世代には届かない声かもしれないが、今回の事件を例えるならば、やはり「安部的なもの」ではなく「小沢的なもの」という方が正しいのである。

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遅ればせながらの米朝首脳会談の意味

2018-06-21 22:40:09 | 政治
長いことブログが書けなかった。これからもかけないと思うが、気が向いた時に書いてみたい。

今日の話題は米朝首脳会談の意味についてである。余りに最近の報道が現実を捉えていない様に感じるので、現状、何が起きているのかを私なりにまとめてみたい。基本的な考え方は、過去のブログ、「もしかして歴史的転換点かもしれない?」に通じるところがある。

まず、様々な多くの報道では、「トランプの負け」、「金正恩の勝ち」というのがもっぱらの評価である。特にこの評価はアメリカにおいて顕著である。常識的に考えれば、この会談の目的は北朝鮮の非核化だと思うから、「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(Complete Verifiable Irreversible Dismantlement)」を共同宣言に明記できなければ、それはトランプの負けだと誰もが信じるはずである。しかし、これにはひとつのトリックがあることを気がついている人はどれ程いるだろうか?それは、「この会談の目的は北朝鮮の完全かつ検証可能で不可逆的な非核化」であるという仮定である。この仮定を真としてとらえるならば、多くの報道での結論は多分、正しいだろう。しかし、その前提が崩れると結論は180度変わるのである。ここにトランプのトリックがある。

まず現状確認であるが、このタイミングで金正恩は3度目の中朝首脳会談を行ったという。言うまでもないが、北朝鮮と中国の仲は本来は最悪である。金正恩は習近平に頭を下げるなど死ぬほど嫌に違いない。しかし、その様な関係にありながら2回目の中朝首脳会談では習近平の語る言葉をメモする、到底、対等な首脳がやるとも思えないような失態を犯すことになる。これは、北朝鮮が如何に経済的に追い込まれているかの裏返しである。ちょっと前までは、アメリカの国防筋は北朝鮮が核開発、長距離弾道弾開発を終えてアメリカを直接核攻撃できるようになるまでには数ヵ月と言っていたので、時間稼ぎをしたいのは北朝鮮であると思われていた。これが正しいならば、北朝鮮がここまでなりふり構わない態度など見せる必要はなかった。しかし、ここ最近のアメリカの動きを見ていると、その程度の時間稼ぎは特に気にしないという態度に変わってきている。大きな変化である。その様なアメリカの「見切り」に合わせての北朝鮮のなりふり構わぬ態度である。つまり、状況証拠を見る限りでは、時間稼ぎをされて困るのは北朝鮮であることが明らかなのである。

この仮説が正しいとすると、アメリカにとって重要なことは、北朝鮮への制裁解除を先伸ばしすることである。この先伸ばしの根拠は、北朝鮮が完全な非核化を達成していないということで十分である。北朝鮮の戦略は、北朝鮮が非核化プロセスに入ったことに対する段階的非核化に対する「行動対行動」の原則に基づく経済制裁解除および援助である。だとすれば、アメリカにとっては北朝鮮がそれらしき段階的「行動」を仮にとったとしても、制裁解除、経済援助を言い逃れる言い訳が必要である。

それは何か?

言うまでもなく、トランプは既に米韓軍事演習の中止というカードを切っている。これは相当思いきったカードだから、トランプは金正恩にもそれに見合う「アメリカによる査察を伴う核廃棄」を求めるはずである。これを北朝鮮は飲めるはずはないのだが、面白いのは北朝鮮は完全なトップダウン国家であるということである。金正恩がOKを出せば、それを覆すことが出来る人が北朝鮮内に誰もいないことを誰もが知っている。であれば、核査察をアメリカが要求したときに北朝鮮が拒めば、トランプは金正恩に「まさか俺を騙そうと思ってないよな?俺を世界中の笑い者にしようと言うなら、それなりの覚悟があるんだよな?」と恫喝することが出来る。金正恩は、次なる「行動対行動」のご褒美を求めてギリギリのところで核査察を受け入れざるを得なくなるのは目に見えている。

すると、トランプが「行動対行動」のご褒美として次に切るカードは何か?「在韓米軍の撤退」である。在韓米軍の撤退にはそれなりに時間がかかるので、その間、北朝鮮は疲弊し続ける。しかし、ここまでやったら北朝鮮の核を丸裸にでもしないとアメリカと北朝鮮のバランスが取れない。金正恩の正念場である。

しかし、金正恩も北朝鮮首脳部も、本当に核放棄したらカダフィになるのが目に見えているから、この条件は飲めずに拒否するはずであろう。ここまで来る間に、北朝鮮の経済状況はさらに劣悪になっているはずである。それは、金正恩暗殺クーデターを呼び込むには十分な条件が揃うことを意味する。さらに言えば、この様に追い詰められたら金正恩の権威は地に落ちることになる。「老練なトランプにしてやられた若造」というレッテルは、神聖化された金正恩にとっては命取りである。

国内ではクーデターに怯える生活。国外では、トランプが北朝鮮に対して軍事行動を起こす恐怖に怯えることになる。金正恩も卓袱台返して暴発したいところだが、ここまで習近平との間で築いた信頼関係を裏切ることになるから、それでは中国からのサポートを期待することができない。トランプからすれば、習近平に対しても「ここまでやったのに、ロケットマンの野郎がブチ切れたんじゃねーか!」と開き直ることができる。さらに言えば、北朝鮮が暴発した際に最も厄介だった米軍への被害についても、韓国から撤退していれば被害は最小化することができる。

多分、トランプの頭の中の詰将棋はこんな感じだろう。そこまで条件が整えば、北朝鮮内のクーデターか、ないしは金正恩が亡命する可能性は飛躍的に高まる。折しも、柔軟路線を示し始めた北朝鮮だから、受け入れ先国にとっての金正恩の亡命のハードルも下がっているはずである。

もう一つの朗報は、韓国経済の失速である。在韓米軍の撤退となれば、韓国国内世論は二分される。そんなタイミングでの経済破綻前夜である。韓国国内では文在寅に対する甘い声だけでは決してない。「北朝鮮と心中するのか?」という声が湧きあがり、オリンピックの時の様な飛び道具は通用しなくなるだろう。北朝鮮にとって、韓国はもはやあてになる存在ではない。

北朝鮮の最後のカードは日本に対する「拉致問題」である。何らかのカードを切ってくる可能性は格段に高まる。安倍総理の腕の見せ所である。「最後の一人が帰国するまでは絶対に諦めない」を合言葉に、北朝鮮を焦らすことが可能である。トランプも援護射撃をしてくれるだろう。

以上のシナリオはあくまでも憶測だが、決して絵空事と笑えるレベルではないだろう。それなりの信憑性を感じてくれる方も多いのではないだろうか?

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小池都知事の最大の敗因は勢いで「政権選択選挙」と言ってしまったことである

2017-10-30 23:00:51 | 政治
選挙が終わって1週間が経った。テレビでは、旧民進党出身の希望の党で比例復活した面々が小池切りを画策している。テレビのコメンテータは「見苦しい」と糾弾するが、当の本人たちは何故か「自分たちは正しい」と思っているようで、「堂々とさえしていれば見かけ上は正義を貫いているように見えるはずだ」とばかりに過剰に胸を張る。まあ、その様なパッパラ系の人は相手にしないでほったらかしにしておけば良いのだが、そうは言っても気になる人物が一人だけいる。小池都知事である。

彼女は一体、今回の選挙で何を狙っていたのだろうか?何故、失敗してしまったのだろうか?その辺を少し考えてみたいと思った。

まず、多くの人の同意が得られているのは、希望の党のピークは解散当日の9月28日だったということ。この日を境に、翌日から坂を転げ落ち始めていく。29日には例の「排除します」「サラサラ・・・」という発言が飛び出し、それが致命的だったといわれているが、それは少しおかしな話だと思う。私の答えは、小池都知事の最大の失敗は、9月25日の希望の党立ち上げの記者会見で、「政権選択選挙」と言ってしまったことが最大の敗因だったと分析している。

その理由を順番に説明したい。まず、「政権選択選挙」というのであれば、小池都知事の目論見は少なくとも選挙後の政界再編を含めて、過半数の勢力を手中に収めることでなければならない。必然的に、この場合には民進党の議員を多数取り込まなければ帳尻が合わない。自前の候補者を大量につぎ込み、それでも足りないところには前回の選挙で落選した民進党の議員を当てはめ、それらの人が大量当選しなければ数合わせができない。仮に、石破茂の謀反を引き出すにしても、彼に同調する議員が30名、公明党を味方につけたとして30名を加算して過半数を超える人数でなければ、石破茂の謀反を引き出すことは出来ない。だとすると、希望の党だけで170名以上の議席を確保するのが必須となる。しかし、かつて自社さ連立政権というものがかってあったが、そのガラス細工の様な政権のもろさを間近に見ていたのだから、政策としての一致がある程度見込める議員でないと後々裏目に出ることになるので、民進党の丸のみという訳にはいかない。必然的に、170名という数には遠く及ばないというのが常識的な路線であったはずである。これは、多分、小池都知事も理解していたはずである。

では、本当は何をしたかったのか?

多分、答えは前回の自民の議席から80議席程度を引きはがし、その議席を手中に収めてギリギリ自公の過半数割れに追い込めば、自公との連立政権が期待できるようになる。その際、安倍総理は失脚して小池氏に近い石破氏が自民を掌握しているだろうから、小池氏としては様々なことができるようになる。仮に小池氏が都知事の職にあっても、はたまた都知事を辞職して国政に打って出ても、いずれにしても小池氏の意に沿わない政策は国政では通らなくなるから、実質的には影の総理として君臨することが可能になる。現実的なシナリオの中では、やはりこの程度のシナリオしか小池氏には勝算がなかったはずである。

選挙戦のさなか、若狭氏が、「次の次」と言って顰蹙を買ったが、私の理解では、小池氏と若狭氏との間では公然と「次の次」という話をしていたのではないかと思う。そうでなければ若狭氏が軽はずみに「次の次」と言うはずがない。しかし、小池氏は記者会見をするにあたり、「次の次」では如何にも迫力に欠けるから「政権選択選挙」と言ってしまった。言ってしまった以上、それが嘘でないためには最低でも170議席を取る体制を整える必要が出てきて、それで前原民進党代表との協議で色気づいた話をせざるを得なかったのだろう。しかし、まかり間違って170議席を取ってしまうのであれば、小池氏が国政に打って出ないとその議員たちをとても掌握などできない。「政権選択選挙」との嘘を取り繕うためには国政に討って出なければならないが、仮に打って出て本当に政権を奪取してしまったとしても、その先の展望が全く見えない。烏合の種の寄せ集めの衆院と、過半を持たない参院を組み合わせても、北朝鮮問題などの難問に直面した中では、全くもって展望など開けないのだから・・・。

そんなジレンマに駆られている最中、排除します発言や都政への不満がマスコミの格好の攻撃材料になってしまい、総攻撃を食らう羽目になってしまった。

彼女は風を吹かせるのが得意だが、実際のところはその吹かした風が強すぎて押し出されてしまい、本来狙っていた落としどころを超えたところを狙わざるを得ない状況に追いやられてしまった。思い返せば、石破氏は自民にいながら自民の足を引っ張るような発言が多かったし、小池氏と石破氏の間ではそれなりの密約があって準備を進めていたのかも知れない。しかし、あまりの急展開で短時間の判断を迫られ、結果、勢いで「政権選択選挙」と言ってしまったのだろう。

多分、反安倍色を表に出し、自民党政権を葬り去るのではなく安倍首相を引きずり落とすことだけを前面に出していれば、民進党の中の政策的に協調可能な一部の勢力を取り込むことに成功し、野党第一頭に躍り出ることは可能であったろう。安倍嫌いのマスコミならば、敵の敵は味方とばかりに応援してくれるだろうし、都知事との二足のわらじでも攻撃などしなかっただろう。民進党の議員が大挙して雪崩れ込むこともなかっただろうし、希望の党の乗っ取りなどを狙われる心配もなかった。

政治家は、はったりをかましてナンボのモノと思われていたが、今回のケースははったりが命取りになった良い例なのだろう。


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策士は策に溺れ、能ある鷹は爪を隠す!

2017-10-09 19:19:07 | 政治
明日から選挙戦が始まるので、その前に思ったことを書きを残しておこうと思う。

まず、民進党から希望の党に移った元民主党議員に何処かで会うような機会があった時のツッコミについてである。

言いたいことは、「あんた、恥ずかしくないのか?政治家のくせに政策的な主義主張よりも自己保身を優先するなんて!」ということだが、彼らは彼らなりの言い訳を考えているのだろうから、二の矢、三の矢で突っ込まなければならない。

例えば、「2年前とは状況が変わった。今の北朝鮮情勢のもとでは、日米安保をより強固にせざるを得ないので、それで現実的な路線に切り替えた。」と彼らは答えるかも知れない。であるならば聞いてみたい。「あなたは、2年前に『たかだか2年先のこと』を予想できなかったのか? 」と・・・。すると彼らは答えるだろう。「北朝鮮がこの様な状況になるなど読める訳がない。」と。

であれば、こう答えれば良い。「安倍総理や自民党は、遅かれ早かれ、この様な事態が訪れることなど予想できていた。というよりも、我々が本当に恐れるべきは北朝鮮ではない。中国の覇権争いである。中国が第1列島線を越えてきたとき、本当の意味での日米安保が試される。真の意味で安全保障法制が求められるのは、北朝鮮危機よりもその先である。たかだか、この程度のことも予測できなかったというのであれば、あなたの目、あなたの所属していた民進党の目は節穴だったと言える。仮に、節穴ではなく『そこまで予測することは出来ない』というのであれば、如何に安倍総理に先見の明があるかは明らかだ。にも拘らず、安倍降ろしに明け暮れるあなた方の政治姿勢は、日本を滅亡に向かわせる行動そのものではないか!」・・・と。

ないしは、彼らはこの様に言い訳をするかも知れない。「我々は、政策的な変更をしてはいない。今回、希望の党が求めた政策協定では、安保法制に対し是々非々で現実に即して変えていくことに賛同したに過ぎない。であるから、2年前の行動とは決して矛盾していない。」・・・と。

であるなら、こう聞いてみたい。「あなた方は、あの安保法制のことを『憲法違反!』だと言った。憲法違反の法律をどの様に変えると憲法違反でなくなると言うのか。また、あなた方は『戦争法案!』だとも言った。戦争をするための法案とまで言う恐ろしい法案は、ちょこっと書き換えただけで平和法案になるのか?仮にその程度の差でしかないのなら、何故、あの時、その修正提案をしなかったのか。あなた方はゼロリセットしなければならない程の悪法だから『戦争法案!』と言っていたはずだ!であれば、現実に即した修正で対応できる訳がないのだから、『今、政策を変えたのに変えてないと嘘を言っている』か、ないしは『あの時、戦争法案でない現実的法案のことを嘘をついて戦争法案だと囃し立てていた』のかのいずれかだ。いずれにしても、あなた方は嘘つきであることに違いはない。」・・・と。

また、この様に彼らを追い込むと、彼らは常套手段の議論のすり替えに走るのが目に見えている。自民党との最大の差分は消費増税反対(ないしは凍結)であり、彼らは安倍総理(及び自民党)に対し「消費増税などしたら、日本経済は再びデフレに舞い戻ることになる。自民党の政策は間違っている。」と主張するかも知れない。

であれば、こう答えれば良い。「あなた方、本当に安倍総理の発言を注意深く聞いていたのか?安倍総理は消費増税を凍結するつもりなのに、そんなこともあなた方は分からないのか?安倍総理は『また、リーマンショック級の経済危機が訪れない限り・・・』の条件付きで消費増税を訴えた。あなた方、増税を判断すべき1年後までに、その様な事態が起きないとでも思っているのか?多分、11月以降に北朝鮮危機は深刻化する。シナリオは二つ。アメリカと北朝鮮の戦争が起きるか、その前に金正恩がロシア経由で亡命するかである。前者は確実にリーマンショック級の経済危機に繋がり、後者であっても膨大な数の北朝鮮難民が拡散し、それに準ずる経済危機となる。その状況で消費税を凍結しても誰も否定する者などいない。財務省ですらそうであろう。だから、たかだか1年で状況が変わるのに、ハレーションの大きな消費税凍結に触れなかっただけだ。現在の状況を2年前に見切っていた安倍総理が、この先1年を先読みするなど容易な話だ。だから、5月に憲法9条の加憲発言もした。これから国民のために死に行くかも知れない自衛隊員に対し、憲法違反の汚名を着せて戦わせる訳にはいかない。憲法改正までは間に合わないかも知れないが、自衛隊が合憲という国民のコンセンサスだけはまとめ上げたい・・・という気持ちがあの様な行動を安倍総理にさせた。その返り血が、朝日、毎日新聞の加計問題キャンペーンである。何一つ違法性が示されない中で、印象操作だけであそこまで安倍政権にダメージを加えた。しかし、それでも自己保身の為でなく、国民のために信念を曲げずに戦っている。それなのに、あなた方は何なのだ!恥ずかしくないのか!」・・・と。

結局、来年の12月までの間で選挙ができるのは、この一瞬、ワンポイントのこの一瞬しかなかったのである。良いか悪いかではなく、そこにしか選択肢がないことを安倍総理は見切っていたのである。

結果的に、小池都知事はスケジュールを変更して慌ただしく動かなければならなくなった。明日、いきなり都知事を辞職して衆院選に立候補する可能性もなくはないが、仮に解散が確定した9月25日の時点で衆院選への立候補を決断していれば、50億ともいわれる都知事選の費用を衆院選とのダブル選挙とすることで埋め合わせることができたはずである。たかだか、サプライズのために明日まで引き延ばしたとすれば、小池氏の私利私欲のために都民の血税50億が無駄になったと責められる。これは、東京選挙区では致命的な痛手となる。ここまで来ると、小池都知事の出馬は相当な諸刃の剣となり、逆風を巻き起こすことに繋がる。衆院選が終われば、野党第一頭になるであろう希望の党のガバナンスが問われる。党役員の透明性が問われ、多数決をすれば旧民進党議員にかなうわけがない。小池氏が衆院議員になれば分からないが、党の重要ポストは民進党議員に独占されることは目に見えている。若狭議員や細野議員の発言権など無いに等しい。この様な展開から見ても、小池都知事はテレビ的には攻勢をかけている様に見せながらも、実際には守勢に回っていたことになる。

小池都知事の奇をてらった勝負と、前原氏の捨て身の選択で政局が混沌としたため、政局の行方は不透明なままである。しかし、全体が3極化して大手メディアが小池都知事に反旗を翻した結果、政権与党で過半数の安倍総理の勝敗ラインはクリアできる公算は高まっている。ここで、仮に多くの議席を自民が失ったとしても、改憲勢力が衆参で2/3を超えるのはまず確実な情勢である。これは、自民の議席数を引き換えにするとしても、安倍自民党にとっては大いなる一歩になるはずである。

小池都知事は「策士、策に溺れる」であったようだが、安倍総理は「能ある鷹は爪を隠す」ということらしい。

答えが出るのは2週間後である。


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もしかして歴史的転換点かもしれない?

2017-09-12 22:24:03 | 政治
半年ほどブログを書けなかったが、今日は非常に興味深い展開に、ブログを書いてみようという気持ちになった。もちろん、北朝鮮情勢についてである。

少し遡って昨日のことを思い出すと、私は今日、北朝鮮が取り返しのつかない何かを仕掛けてくることを本気で恐れていた。というのは、今日はアメリカ時間で9月11日。そう、「9.11」、その日である。最もアメリカ人が敏感に反応する日だから、北朝鮮が何かを仕掛けるには最も都合の良い日である。しかも、史上最強の国連決議を採択する予定でもあったから、仮に何らかの採択があれば、北朝鮮が何かを「仕掛けない理由がない」日となるはずであった。デッドラインはワシントン時間で9月11日中であるから、日本時間で今日のお昼を乗り切れば、少なくとも峠は越したことになる。お昼を過ぎて大きなニュースが飛び込んでこなかった時点で、私はふっと胸をなでおろした。

一方、国連決議の方はどうかと言えば、多くの有識者が答えるように、かなり骨抜きになった内容である。これでは意味がないではないか・・・ということなのだが、私は逆に、この展開の中でのアメリカの思惑を予想し、そのしたたかさに少し驚きを感じている状況である。

今日は、この点に関する私の考えをまとめてみたい。

まず、現状認識を確認したい。現在の状況は、確実に北朝鮮が優位な状況である。本当のところはかなり怪しいが、先日の核実験で、ブラフには十分すぎるほどの核のポテンシャルを北朝鮮が備えた可能性を全世界にアピールすることに成功した。核というのは、本当に核攻撃能力を持ったか否かはあまり重要ではない。その能力を確認することができない以上、ブラフとして有効か否かだけが重要で、既にブラフに対する有効性を否定できる者はいなくなった。ここまでくれば北朝鮮にとって核放棄の理由など何一つないから、軍事力を含まない外交的手段での決着は、「北朝鮮の核の容認」以外の選択肢がなくなったことになる。アメリカは当初はレッドラインなどを口にしていたが、現状ではずるずると後退しまくり、完全に後手に回っていることが否定できない。さらに制裁に関しても、中国とロシアが北朝鮮を完全に締め上げることに合意する訳はないから、原油の供給完全停止などに漕ぎつける可能性も相当低い。

一見すると、アメリカには一切、打つ手がない手詰まり状態に見える。

さて、今日のお話はここからである。私も、今現在のこの展開を見るまでは、すっかり北朝鮮優位でアメリカの手詰まりを確信していた。しかし、あまり同意してくれる人はいないかも知れないが、何年かして振り返った時、実はこの流れが反転した瞬間が今日であるということになりはしないかと、私は感じ始めている。その理由は以下のとおりである。

まず、アメリカの狙いについて考えてみたい。そう、アメリカにとってのベストのシナリオである。少なくとも言えることは、軍事オプションの行使はあり得ない。ソウルが一面、火の海になるリスクが大きすぎるからである。したがって、軍事衝突なしに北朝鮮の非核化のシナリオを本気で考えているはずである。では、その様な好都合なシナリオがあり得るかであるが、実は、ひとつだけその可能性が残されているのである。

それは、北朝鮮内でのクーデターである。

つまり、北朝鮮内部から金正恩を排除するという動きを誘発するのが、現時点でのアメリカが唯一、取れる選択肢であると私は考えている。逆に言えば、それ以外の選択肢は皆無である。

一方、現在、北朝鮮内部ではお祭り騒ぎ状態である。今までは下等国であったはずが、国連常任理事国の5大国と肩を並べる核保有国として、いきなりトップに躍り出たというお祭り状態になっている。だから、アメリカに対しても超挑発的なことを繰り返すし、今回の国連決議に対しても、制裁決議が採択されれば「米国が考えもしない強力な行動措置を連続的に講じる」「最後の手段も辞さない準備ができている」と表明していた。この様な強気の発言の裏側には、ロシアのプーチン大統領の発言などからも、強硬な制裁決議は採択できないだろうという読みから、過激な発言をすれば過激な発言をするほど、制裁決議がまとまらない可能性が高まると考えていたはずである。

その結果、一見、骨抜きの様な決議が採択された。

しかし・・・、である。この決議の意味を考えるとき、多くの有識者はアメリカの立場でものを考え過ぎている。本来考えるべきは、この決議を北朝鮮から見た時、どの様に考えるかである。私が金正恩をはじめ、北朝鮮の幹部連中の立場だったら、ハラワタが煮えくり返る思いで受け止めるはずである。だから、当然ながら、強烈な反撃をアメリカに即座に食らわせなければ理屈に合わない状況に陥っているはずである。何故なら、「米国が考えもしない強力な行動措置を連続的に講じる」「最後の手段も辞さない準備ができている」とまで言っているのだから、それをただ、行動に移すだけでよいはずなのだから・・・。

しかし現実は、「9.11」のその日に何も行動を起こせなかった。これは、北朝鮮にとっても、最後の手段などは最後まで取っておきたいはずであるから、当然と言えば当然である。ギリギリ、ロシアや中国が原油供給を現状維持でまとめてくれたのも、ここで一線を越えると間髪入れずに更に強硬な制裁に流れる可能性がある。ただ、あそこまで煽りまくっておきながら、決議が採択されて何も行動が起こせないのは、北朝鮮内部からすればストレスがたまる状況である。

私の予想では、アメリカの戦略はこうである。北朝鮮を挑発し、北朝鮮に過激な発言を目一杯させておきながら、それを腰砕け状態に落とし込む作戦なのだと思う。先にも述べたように、現在の北朝鮮はお祭り状態である。それが自殺行為であることは明らかなのだが、国内では「アメリカに一撃食らわせてやれ!」という雰囲気が出来上がっている。しかし実際はどうかと言えば、電磁パルス攻撃でも仕掛けかねないような雰囲気を出しておきながら、制裁決議に対して有効な反撃が何一つできないでいるのである。本気で原油の供給ストップとなれば、北朝鮮はロシアや中国に対し、「それは北朝鮮にとってのレッドラインだ!」と言わんとばかりの行動をとっても、ロシアや中国にとって納得感があったのだが、この状態でその様な行動はリスクが大きすぎて取れそうもない。しかし、実際には真綿で首を絞めるような攻撃であり、鼻で笑い飛ばせるような軽い内容でもない。アメリカはギリギリ、北朝鮮が何も暴発できない寸止めのところで、真綿で首を締める様な制裁決議に成功したのである。

今後の展開は、今回と同様に北朝鮮を挑発して北朝鮮国民をイケイケ・ドンドンにしておきながら、実際には「達磨さんが転んだ」状態で少しずつ真綿で首を絞め、日増しに経済も何もかもが好転するはずだとの北朝鮮国民の思い込みに反して、実際には日増しに息苦しくなるような展開を目指すのだと思う。

今までも全く同じ作戦をとっていたはずだが、昔と今とで最も違うのは、今現在が北朝鮮内ではお祭り状態であるということである。苦しい時には様々なことが我慢できたはずであるのに、お祭り状態になれば些細なことが我慢できなくなる。その様な中で、昔から根強く残る親中国派の勢力が、金正恩の排除に動き出すタイミングを狙っているのではないかと思う。

過去の私のブログでも書いたが、当初はアメリカも中国も張成沢をキーマンとして策を弄していたが、その策略も周永康のタレコミで失敗に終わった。今回はそのリベンジである。

半分は希望的観測ではあるが、国連決議が採択された「9.11」に北朝鮮が何もできなかったという事実は、実際には(特に北朝鮮にとって)非常に重たい現実を表したものであるのではないかと思う。

いかがだろうか?

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秒速病の処方箋 ~「秒速5センチメートル」鑑賞後に思い悩む方へ~

2017-03-26 00:30:52 | 日記
もう、100回ぐらいの周回遅れの書き込みで恐縮であるが、先週、テレビで「秒速5センチメートル」が放映され、その鑑賞後の1週間、どうしようもなく行き場のない思いに悩まされ続けた状態から立ち直るに至った過程について書いてみたい。

最後に書いたブログから1年以上も経ち、日々の忙しさで政治ネタではとてもブログを書けそうもないのだが、「秒速5センチメートル」については書かずにはいられないという思いは止められず、書かせていただくことにした。一言で「感動」という言葉を使う時、それはどちらかというと清々しい気持ちと共に語られることが多いと思う。しかし、今回は清々しい気持ちとは真逆である。しかし、心を揺さぶる、大好きな映画であることは疑いもない。ネット界隈では、検索してみれば膨大な数の「秒速5センチメートル」の書き込みがあり、ちょっと見ただけでも相当な数だった。新海誠監督の作品の根っからの(「君の名は。」以前からの)ファンの多さと、その思い入れの強さには敬服する。しかし、それらの幾つかを読んでも、行き場のない思いは晴れることがなかった。巷では、「秒速5センチメートル」のことを「鬱映画」と評する人もいるようで、その表現には賛同することは全くできないが、その言葉の意味する処が何かは理解できる気がする。その様なことで思い悩む「病気」を、新海ファンは「秒速病」と呼ぶらしい。実に言い得て妙な命名に、「私も秒速病の患者なんだ・・・」と強く感じた。多分、この状態からは一朝一夕では回復することはできない。以下の内容は、かなり遠回しな書きっぷりで、結論だけを書いた方が良いのかも知れないが、敢えて余計なことも書かして頂く。今までのブログの中でも最長の記事になると思う。しかし、私にとっても、この文章を書く過程がリハビリの様なものなので・・・。

以前の私のブログ、映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」のタイトルの意味を探して・・・
を書いた時も、映画を観終わった後の消化不良な感覚から、その映画をより深く知りたいと思い色々と思い悩んだのだが、今回はそれ以上に悩みに悩んだ。「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」の時と同じアプローチなのだが、映画を観ながら湧いてくる疑問の数々を少しずつ紐解いて、少しずつ答えに近づきたいと思い、まずは映画の中で感じた疑問を整理してみた。以下、ネタバレになるので、これから映画を観ようと思う方は読まない方が良いと思う。

最初に余談ではあるが、少し背景的なことを書いておこうと思う。我が家では長男が「君の名は。」にはまり、長男の薦めで残りの家族全員で「君の名は。」を鑑賞しに行った。確かに面白い映画だった。多くの人が引き込まれるのも良く分かる映画だった。しかし、長男の様なはまり方をすることはなかった。しかし、「秒速5センチメートル」は全く別だった。この映画を観た後、さらに2週間ほど前に放送された新海作品、「言の葉の庭」も観た。この2作品を観て確信したが、新海誠監督が作りたかった映画は、間違いなく「君の名は。」よりも「秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」の様な映画だろう。ただ、「言の葉の庭」の方は「秒速5センチメートル」とは全く別で、鑑賞後の感想は極めて心が晴れた状態であった。決してハッピーエンドではないのだけれど、登場人物に対して親心の様な気持ちで「心から良かった・・・」と見守ることができた。ハッピーエンドという言葉の「定義」があまりにも狭すぎて不適切ではあるのだが、あの状況の中で許される限界的な幸福な終わり方であり、深い余韻と共に少しだけ幸せな気分になった。しかし、「秒速5センチメートル」の鑑賞後には余韻などというものはなかった。これも、余韻という心地よい言葉の定義とは違う、しかし胸が締め付けられるような状態が幾日も続いた。その答えの様なものを求めてネットを彷徨うと、驚くほどの考察ブログが見つけられた。ひとつだけ紹介しておくと、以下のブログは半端ない強い思い入れが溢れたサイトであった。これを読んで私も参考にさせていただいた部分は多いし、以下の記述の中にもその受け売り的な内容も含まれる。

筑波嶺夜想曲 「秒速5センチメートル」考察

このブログは考察が何段階にも分かれ、これは「その1」であるが順番に読んでいけばいろいろなことが分かる。「秒速5センチメートル」には映画、小説(新海版)、漫画の他に、新海監督以外が書いた小説(加納新太版)なるものも存在している。小説のあとがきの中でも、新海監督は、映画と小説を同じ内容にするのではなく、少しずつ敢えて異なる部分を残すことで、新たな楽しみを感じてもらえればと思っているようである。映画で描写されていない部分を小説を読んで答えを探すことも可能であるが、私は小説の方も読んでみた後で、「映画と小説は全くの別物」であることを確信した。小説だけを読んだ人が「秒速病」になることはまずないだろう。それは、小説には映画の中で、私が最も重要であると感じているセリフが出てこないのだ。

「そして、ある朝、かつてあれほどまで真剣で切実だった想いが綺麗に失われている事に気付きもう限界だと知った時会社を辞めた。」

私の「秒速病」の病根はここにある。

以下、この映画を観終えて感じた幾つかの疑問を整理し、それらを少しずつ解決することで「秒速病」の病根を治癒していきたいと思う。疑問を数え上げたらきりがないし、しかしその疑問にはひとつずつ大きな意味があるのだが、「秒速病」の治癒に必要と思えるところだけを抜粋してみた。また、小説や漫画などに「答え」が書かれていたとしても、私はあくまでも答えをこの「映画」の中だけに求めてみたいと思っている。映画の中にある描写やセリフなどが全てであり、小説や漫画に描かれたストーリーは「君の名は。」にも出てきた、所謂、パラレルワールドの様なもので、別世界の正解は私の求める世界の正解とは必ずしも言えない。私の勝手なこだわりであるが、この辺はご容赦頂きたい。

(疑問その1)=================================================
貴樹が明里への想いを断ち切れず、何時までもいつまでも引きずっているから彼は明里以外の人を心から愛することができず、そして傷つき傷つけ合い、救われない人生を歩まざるを得ないのが痛いほど良く分かる。であるならば、「かつてあれほどまで真剣で切実だった想いが綺麗に失われている事に気付」いたのであれば、それは明里への想いへの呪縛からの解放に繋がる。であれば、寧ろ「吹っ切れた状態」に辿りつけるはずなのに、それは会社を辞めなければならないほど切実な「限界」であるという。どう理解すれば良いのだろうか?

(疑問その2)=================================================
第3話の中での時間の流れが分かり難い。貴樹と明里が踏切ですれ違うシーンで始まり、やはりすれ違うシーンで終わる。同じシーンで挟まれているので、その間のストーリーが回想的に入り組んでいるのは分かるのだが、その入り組み方が1度見ただけでは理解できない。第3話のオープニングの踏切のシーンに続き、明里が岩舟駅で両親と別れるシーンがあり、それに続けて

「ゆうべ、昔の夢を見た。私も彼もまだ子どもだった。きっと昨日見つけた手紙のせいだ。」

と続く。そして、最後に貴樹が会社を辞めてコンビニに行き、降り出した雪を見つけた時、

「昨日、夢を見た、ずっと昔の夢。
その夢の中では僕たちはまだ十三歳で、そこは一面の雪に覆われた広い庭園で、人家の明かりはずっと遠くに疎らに見えるだけで、降り積もる深雪には、私たちが歩いてきた足跡しかなかった。」

と続く。二人の声が交互に交わされ、同じ時、異なる場所で貴樹と明里が同じ夢を見たことが分かる。しかし、この時系列がやはり分かり難い。この時間の流れの解読が、何かのヒントになっているような気がした。

(疑問その3)=================================================
第3話のタイトルが映画のタイトルそのものである。しかも、映画の途中で山崎まさよしの「One more time, one more chance」の曲と共に、「バーン」と音を立ててタイトルバックの様に出てくる。タイトルバックというのは、オープニングなら分かり易いし、エンディングでも十分に分かる。しかし、エンディングには別のタイトルバックが用意され、天門「思い出は遠くの日々」がエンディング曲として流れる。あのシーンはいったい何だったんだろう?何故、あんな場所で急に前面に出てくるのだろうか?

(疑問その4)=================================================
第2話のタイトルは「コスモナウト」である。「cosmonaut」の意味を辞書で引けば、

【cosmonaut】(特に旧ソ連の)宇宙飛行士 《★【比較】《主に米国で用いられる》では astronaut》.

とある。我々には「アストロノート」は少しは馴染みのある言葉だが、「コスモナウト」は聞いたこともない。また、第2話にはロケット、衛星は出てくるが宇宙船や宇宙飛行士の話ではない。第2話の最後の探査衛星の打ち上げシーンといい、第2話のタイトルに何か意味があるのは間違いないのだが、ならば何故タイトルは「宇宙へ」とかではないのか?百歩譲って「アストロノート」ではないのか?また、ロケットや衛星が明里とどう関係があるのか?

(疑問その5)=================================================
第3話が短すぎる。時間を測っていないから分からないが、あくまでも感覚としては第1話が全体の50%、第2話が35%、第3話が15%ぐらいだろうか・・・。本来なら第3話は重要なはずなのに、あまりにも短すぎる。また、やたらと短いカットの素早い切り替わりシーンが目立つ。とても目で追えるレベルではない。走馬灯の様に頭をよぎったというのも分からないでもないが、その使われ方は半端ではない。また、水野さん(映画に合わせて、敢えて「水野さん」と表現する)という女性が、この映画では一体、どんな人なのかが全く分からない。何故なんだろう・・・。

(疑問その6)=================================================
何故、貴樹は送る宛のないメールを書く癖がついたのか?貴樹と明里は当初、手紙のやり取りをしていたはずである。貴樹があれだけの想いを明里に対して持っていたなら、そして、筆不精な訳でもなく携帯メールを書くだけの気持ちがありながら、手紙が途絶えてしまう。大学に入れば、また会うチャンスがあるのだから、何故、手紙が途切れてしまったのだろうか?

(疑問その7)=================================================
貴樹は踏切ですれ違った女性が明里であると強く感じたのに、何故、彼女の後を追わなかったのか?明里への想いを断ち切れていないのであれば、踏切の向こうまで追いかけて当然なはずなのに、何故か微笑んで踏切を後にしてしまう。誰もが、「ちょっと、ちょっと・・・」と突っ込みを入れたくなるシーンである。しかし、そこで映画は終わる・・・。何故・・・。
============================================================

まあ、こんなところだろうか。言い出せば幾らでも書けるが、処方箋のためにはこの辺りで十分であろう。以下、私なりの謎解きである。順番が少し前後するがご容赦頂きたい。

(疑問その2について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
この映画を読み解くには、この時系列の整理が極めて重要である。まず、ポイントは以下の点である。

・踏切のシーンは桜が咲く4月上旬である
・明里が両親と岩舟駅で別れるのは前の年の12月末である
・明里は翌月1月に結婚している
・明里が貴樹との別れの日の夢を見たのは両親と岩舟駅で別れる前日の夜である
・貴樹が明里との別れの日の夢を見たのは明里が夢を見た日と同じ日である(二人が交互に夢のことを語っていた)
・貴樹が会社を辞めたのは岩舟駅の夢を見た日の直前である(12月末)
・貴樹が水野さんから別れのメールを受け取るのは会社を辞めたタイミング(例えば直前)である
・会社を辞めたにもかかわらず、貴樹の部屋にはプログラミングの仕事の納品は4月6日であることが記されている(2月、3月にも仕事の予定が入っている)

つまり、踏切のシーンの前年の年末12月、貴樹は仕事で心身共にボロボロになり、会社を辞めることを決心する。丁度同じ頃、憔悴しきっていた貴樹は水野さんの電話にも出ることができず、最後に別れのメールを受け取ることになる。このタイミングであのセリフをつぶやくのである。

「そして、ある朝、かつてあれほどまで真剣で切実だった想いが綺麗に失われている事に気付きもう限界だと知った時会社を辞めた。」

(疑問その3について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
この映画を観た後、繰り返し繰り返し、山崎まさよしの「One more time, one more chance」を、歌詞を噛みしめながら聞き返している。Wikipediaによれば、新海監督が山崎まさよしに楽曲使用を依頼し快諾された背景があるようで、新海監督はこの曲を聴きながらストーリーを膨らましたのかもしれない。
そしてこの曲の出だしは、こうである。

「これ以上何を失えば 心は許されるの
 どれほどの痛みならば もういちど君に会える」

悲しい歌なのは言うまでもないが、この出だしは自傷的な歌詞である。自分を傷つけることで救われることを祈るような歌詞である。しかし、この曲は歌い続ける中で微妙に表現が変わってくる。急にボリュームが上がって「秒速5センチメートル」のタイトルが表示されるのは、次の歌詞からである。

「いつでも探しているよ どっかに君の姿を
 向かいのホーム 路地裏の窓
 こんなとこにいるはずもないのに
 願いがもしも叶うなら 今すぐ君のもとへ
 できないことは もう何もない
 すべてかけて抱きしめてみせるよ」

既に、自傷的な自分を責める歌い出しから、愛する人への想いを真っすぐに受け止めて、自分を偽ることは止める気持ちが芽生えている。さらに続けて、

「奇跡がもしも起こるなら 今すぐ君に見せたい
 新しい朝 これからの僕
 言えなかった『好き』という言葉も」

この辺りになると、「かつてあれほどまで真剣で切実だった想いが綺麗に失われている」状況から、少しずつだが「真剣で切実だった想い」が再び心の中に芽生えてきたことが読み取れる。あの映画での演出は、あの直前と直後で彼の心の中に何らかの変化が生じたことを、映像的に示した象徴的なシーンなのだと思う。

(疑問その4について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
その変化が生じたのは、立ち寄ったコンビニで立ち読みした科学雑誌に「国際宇宙探査衛星エリシュついに太陽系外へ」の記事を見つけた時である。映像によれば、打ち上げが1999年なので、時系列から考えて花苗と貴樹が種子島での打ち上げを見た衛星である(実際、貴樹の高校の掲示板にもエリシュの張り紙があり、貴樹が高校時代に読んでいた科学雑誌にもエリシュの名称が出ている)。先に紹介した筑波嶺夜想曲さんの考察の中で紹介されているのだが、実は2006年(映画が封切られた前の年)にJAXA(元NASDA)が打ち上げた衛星の中に「赤外線天文衛星『あかり』(ASTRO-F)」がある。宇宙探査衛星ではないが、貴樹にとって、あの衛星は明里の象徴(必ずしも、衛星=明里とは限らない)である。思い切り手を伸ばしても届かなくて、それでも何とかそれに触れようと、触れなければならないとの強迫観念があり、更に手を伸ばそうと必死にもがき苦しんでいた、その象徴があの衛星である。貴樹が書いていた出す当てもない携帯メールには、「今朝の夢」というタイトルで「異星の草原をいつもの少女と歩く・・・」と書かれていた。宇宙(そら)の向こうの存在として明里は位置づけられている。本当は、手を伸ばすどころか宇宙船に乗っていかなければ会うことのできない存在になったということだろう。であれば、明里と再会するためには自分は宇宙飛行士にならなければならない。アメリカのアストロノート(宇宙飛行士:astronaut)はこの時代、宇宙に行くためにスペースシャトルを利用していた。テレビでもたびたび見ることのあったスペースシャトルは、(2度の事故はあったが)変な言い方であるがちょっとした「宇宙旅行」の様な身近な雰囲気があった。日本人宇宙飛行士が宇宙から帰ってきてテレビに出ているさまは、手を伸ばしても届かない存在とはほど遠い。一方で、実際には生きて無事に帰ってくるのではあるが、ロシアの宇宙飛行士(cosmonaut)にはその様な親近感がなく、もう少しストイックな感じを受ける。遠く彼方の異星への旅は、astronautではなくcosmonautであったのかも知れない。

追記). コスモナウトの中で、貴樹と明里が草原で並んで立っている時、遠く向こうに大きな球体の星が見える。あれは何なんだろうと思っていたが、よく見ると、草原の向こうにはクレーターが沢山見られ、貴樹と明里がいる場所が地球ではなく「異星」であることが分かる。その先に見えるのは多分地球で、明里が住む異星に辿り着くためには「コスモナウト」にならなければならない・・・という理解が貴樹にあることが分かる。

(疑問その5について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
第3話の構成は、その短さに反比例して、やたらと短いカットの素早い切り替わりシーンが多い。しかし、その素早い切り替わりシーンをスローモーションで見れば、凄まじい情報量が溢れている。例えば、多くの方がご存じの様に、花苗と貴樹が赤い円形の昔風のポストの横を歩くシーンの直後に、高校生のカップルが後ろ向きで赤い四角い今風のポストの横を歩いているシーンが続く。ほんの一瞬だが、これは言うまでもなく、種子島の昔風の円形ポストと都会の今風の四角いポストを対比していて、これは明里とその彼氏が一緒に歩いているシーンを意味している。貴樹が種子島の空港から大学進学で東京に旅立つとき、花苗は空港に見送りに来ていたことが分かるし、貴樹が旅立った後、花苗はいつものスーパーカブで一人寂しく帰るシーンもある。大学進学で東京に出てきてから以降、貴樹は「One more time, one more chance」の歌詞の様に、色々な場所で無意識のうちに明里の姿を探し求め続けていたようだ。また、社会人になった貴樹が女性(水野さん)とひとつのベッドで寝ているシーンが現れるが、二人は背中合わせで離れて寝ている。一見、あっという間の様だが、凄まじい凝縮された時間の流れがそこにあることが分かる。本当のところは分からないが、ある程度、その様なシーンを書き上げながら、エディティングでエッセンスを極限まで抽出した映像を作り上げたような感じがした。

(疑問その6について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
さらに、短いカットの素早い切り替わりシーンの中から、明里が高校2年で数IIAを習っている時までは、二人の文通は続いていたことが分かる。明里が手紙を待ちわびてポストを開けても手紙がなく悲しむシーンの後で、貴樹も空のポストを見つめ身動きできずにポストを凝視するシーンがある。この流れを見る限り、手紙をいつしか書かなくなったのは貴樹である。高校2年までくれば、あと少しで再開することができるはずであるが、多分、貴樹にも説明できないような複雑な気持ちがそうさせたのだろう。明里の手紙に男友達の存在を感じたのかもしれないし、でも、そんなことはどうでもいい。いつしか、夢の中の異星の草原の少女の顔が見えなくなるほど、心に迷いがあったのかも知れない。しかし、ロケットの打ち上げの日に見た夢の草原の少女は、明里、その人であることを明確に意識することができた。

(疑問その1について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ここで、最初の疑問に戻ってみたい。

「そして、ある朝、かつて、あれほどまでに真剣で切実だった思いがきれいに失われていることに、僕は気づき、もう限界だとした時、会社を辞めた。」

このセリフは、この時系列の中で、この前のセリフからの続きでその意味が理解できる。

「ただ生活をしているだけで、悲しみがそこここに積もる、日に干したシーツにも、洗面所の歯ブラシにも、携帯電話の履歴にも。
あなたのことは今でも好きです。三年間付き合った女性は、そうメールに書いていた。でも、私たちはきっと千回もメールをやり取りして、たぶん心は一センチくらいしか近づけませんでしたと。」
「この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのか、ほとんど脅迫的とも言えるようなその思いがどこから湧いてくるのかも分からずに、僕はただ働き続け、気づけば、日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった。そして、ある朝、かつて、あれほどまでに真剣で切実だった思いがきれいに失われていることに、僕は気づき、もう限界だとした時、会社を辞めた。」

貴樹は、宇宙探査衛星に象徴される明里に近づきたくて、精一杯手を伸ばし、背伸びして、我武者羅にもがいている。何処から手を付ければ良いか分からず、目の前の仕事に没頭することで手を伸ばしている自分を実感していながら、何かに触れた感触を掴むことができず、強迫観念の様なものが更に自分を追い込むことになる。水野さんの様に付き合う女性がいても、その強迫観念を癒すことはできず、逆に近しい人を傷つけてしまう。そのことが更に仕事に没頭せざるを得ない状況を作り、まるで自傷的・他傷的な自分に直面し、心の弾力が失せていくのを実感する。であれば、心の中に明里が潜む貴樹にとって、水野さんとの別れは大したことではなかったかと言えば、会社を辞める決心をし、水野さんからの別れのメールを受け取った後のマンションのエレベータの中で、手に持っていた鍵を思わず床に落とすシーンから、貴樹の心の傷の深さが思い知られる。また、「ただ生活をしているだけで、悲しみがそこここに積もる」さまは、貴樹の心の救いがたさが滲み出ている。

多分、貴樹にとって明里を思う気持ちは、他に付き合う彼女がいるとかいないとかとは関係なく、変な言葉ではあるが、彼にとっての存在意義の様なものになっていたのだろう。それほどまでに真剣で切実だった思いが、強迫観念に追われて没頭した仕事の中で失われてしまい、彼にとっては限界に達し会社を辞めることになる。

しかし、傷心の中で街を彷徨い、偶然入ったコンビニで探査衛星の記事を見ることになる。彼の心の中で何かがはじけ、たまたま偶然、神様の悪戯とでも言うか、昨晩、明里と貴樹が夢で見た岩舟駅での一夜の思い出がよみがえる。すっかり消えてしまった「真剣で切実だった思い」が貴樹の心に蘇る。道に出て、空を見上げると、ロケットや宇宙船、衛星ではないが、雪の降る夜空の中で羽ばたく2羽の鳥がいて、手の届くところまででいいから手を伸ばし、羽ばたいてみようかという気持ちが芽生えてくる。

彼にとっての再生の物語の始まりの瞬間である。「秒速5センチメートル」のタイトルバックと「One more time, one more chance」の曲は、その象徴的な映像だったのだと感じる。多分、この後で本当に立ち直ったと言えるまでには暫くの時間を要したのだろう。だから、12月末から翌年4月までの映像がこの映画には描かれていなかったのだと思う。

(疑問その7について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
そこで、第3話の最初と最後の踏切のシーンである。先ほど説明した貴樹の再生の物語の始まりは前年の12月末の話である。踏切のシーンはあれから3か月以上が過ぎたワンショットである。残念ながら、明里は1月に結婚し、東京での幸せな新婚生活3か月目の出来事である。出だしのシーンで、貴樹は自宅でコンピュータで作業をし、一区切りついて席を立つ。つまり、会社を辞めた後、生きていく限界を感じた貴樹が「もう一度、やり直してみよう」と仕事を再開し、その仕事が軌道に乗ってきたところを表しているシーンそのものである。そこには強迫観念はなく、「取り合えず、出来ることを着実に何とかやっている」姿から、彼なりに立ち直ったことが読み取れる。言ってみれば、貴樹の再生の物語の締めを飾る象徴的なシーンと言える。実際、その時の彼の表情は穏やかで血の通った顔である。既に、岩舟駅の夢を見た12月からは3か月以上が経ち、やっと、明里との思いでに溢れるあの街にやって来て、思い出の場所を歩き回るのである。

そして、あの踏切に辿り着く。

多分、満面の幸せを感じさせる明里の姿を見て、貴樹の心も何故か幸せになったのだと思う。その心のゆとりは、貴樹の心の再生を表しているのだと思う。もし明里が貴樹への想いを未だに持ち続けるならば、踏切を渡り切ったところで振り返り、貴樹に微笑み返すだろう。残念なことに、踏切を行きかう電車は、上り、下りと立て続けてやって来て、その電車が通り過ぎた時には明里の姿はそこにはなかった。「何故、追いかけないの?」という気持ちはだれもが持つが、あそこで仮に追いかけていたら、そして仮に二人の気持ちが両思いであったら、明里の新婚生活は破たんに向かうわけで、貴樹はまた誰かを傷つけることになる。
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あの後の貴樹がどの様な人生を送ったかは、あの映画の中には何もヒントがないし、「秒速病」の治療にはあまり意味がない。自分で見ていないので詳しくは分からないが、漫画版では貴樹のことを忘れられない花苗がお姉さんに背中を押されて東京にやって来て、貴樹と再会するシーンがあるようだが、ひょっとしたら既に水野さんとやり直すことができているのかも知れない。

しかし、私にとって重要なのは、あの最悪な年の暮れの出来事の後に訪れる、そこからの着実な再生という事実である。その「再生」は多分に貴樹一人での歩みであり、そこにはもはや鬱の要素はない。多分、「秒速病」患者の多くも、この点については同意していただけると思う。

その様な方に、少しでもモヤモヤが晴れてくれたらと思い、長々と書かせていただいた。書きながらの私のリハビリも順調の様である。これで、私も仕事に復帰できそうである。


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世間に蔓延する「デッドゾーン現象」

2016-03-12 13:16:40 | 政治
唐突で申し訳ないが、皆さんはデヴィッド・クローネンバーグ監督、クリストファー・ウォーケン主演の1983年の映画「デッドゾーン(原題:THE DEAD ZONE)」をご存じだろうか?以下の内容にはこの映画の「ネタバレ」記述があるので、それを気にする方はご注意をお願いしたい。

まず、映画の紹介は以下にある。

Yahoo!映画「デッドゾーン

簡単に振り返っておくと、主人公はある日、交通事故にあい昏睡状態の5年間を過ごすことになる。その後、奇跡的に目覚めるのだが、その特異な経験故に、何故か手に触れた人の未来を予知する能力を身に着けてしまう。その後のストーリーは、その特殊な能力により悲劇の運命に巻き込まれることになる。

その詳細は(ネタバレなので)後ほど紹介するが、今日のブログでは、3.11以降の日本では、この主人公の様な能力を身に着けてしまったと勘違いしてしまった人々が多く現れ、それが現在の様々な混乱を招いてしまったと私は感じている。

まず、その典型的な「事件」は以下の高浜原発3,4号機の運転差し止めの仮判決である。

日本経済新聞 2016年3月9日「関電高浜原発3・4号機の運転差し止め 大津地裁仮処分決定

これは、昨年にも高浜原発3, 4号機の再稼働差し止めの仮処分決定があったので、その延長線上の話なのだが、その際の福井地裁の樋口英明裁判長は、どうも思想的に偏った感がプンプンとしていたので「この裁判官、特殊なんだ・・・」と勝手に思い込んでいた。実際、その際の判決の要旨を読んでみれば、その異常さは理解できる。世の中には、この様な裁判官が一人ぐらいはいてもおかしくないだろう・・・と思って話を聞いていた。しかし、今回の判決に関しては、そこまでの思想的な偏りは感じられない一方で、結果的には同様の判断をしまうところから、その様な言葉では片づけられない何かを感じた。

例えば、今回の裁判の山本善彦裁判長は、昨年11月には再稼働前の高浜3,4号機をめぐる同様の仮処分申請を「再稼働は迫っておらず、差し止めの必要性はない」と却下していたそうなので、極端なイデオロギーを持った特殊な人という訳ではなさそうである。しかし、以下の判決文を読んでみると、やはり裁判官としての論理性を捨てざるを得ない何かを感じたのではないかと私なりに読み取った。

平成27年(ヨ)第6号 原発再稼働禁止仮処分申立事件

長ったらしいので、下記のサイトの方で要点が整理されている。
アゴラ 2016年3月10日「『ゼロリスク』を求める裁判官」池田信夫

こちらには要約が書かれているが、私個人が着目した点は少々異なる。上記の判決文を読むと、今回の裁判には7つの論点があることが分かり、その中の第1番に上げられたのは、「原子力規制委員会の判断をどの様に評価すべきか」というポイントである。ただし、判決文ではこの様な表記ではなく、16ページ目から始まる[争点1]「(主張立証責任の所在)に関する当事者双方の主張」として扱われ、すなわち「主張の立証責任は誰にあるか?」が議論されている。ここでは、原発関連の裁判に関しては「行政事件」と見なした場合と「民事事件」と見なした場合で判断は微妙であるが、「行政事件」であれば過去に最高裁判決(伊方原原発訴訟最高裁判決)があり、そこでは「原子力委員会若しくは原子炉安全委員会の専門技術的な調査審議及び判断」は尊重されるべきであり、これらの判断を基に行政庁が(行政としての)最終判断を下した際に、その判断に不合理な点があるか否かが争われるべきで、その際の立証責任は(証拠は被告側が殆ど持っているので)被告側にあるとした判決を行っている。つまり、行政側も特殊な専門知識を持ち合わせていないので、当時であれば原子力委員会等、現在であれば原子力規制委員会が技術的な精査を全て行い、その結果の発表を受けて行政が最終判断を判断を行うのであるが、その際の「原子力規制委員会の判断」を受けて「行政の判断」をするまでの間に不合理がある場合には差し止めも止む無しだが、判断は全てこの間の合理性で判断する・・・としている。

ちなみに、民事事件の場合には少々状況は異なり、原告側の主張としては、「行政の話ではないから原子力規制委員会の判断など関係なく、純粋に関西電力が原告側の『人格権』が侵害されていないことを立証すべし」となっている。被告側の主張は当然ながら異なっていて、民事事件であろうが「専門性がなければ判断できないのだから、日本の中でその専門性を持った組織として法的に定められた原子力規制委員会の判断は認められるべき」としている。

これに対して判決では、第41ページ以降で、(行政事件の最高裁判決に従い)「立証責任は被告側が担うべき」だが、多分、民事事件だから原子力規制委員会が下した判断には何ら拘束されず、原子力規制委員会に対して行ったのと同様の反証をこの裁判でも行うことを求めているようである。中では、「(当裁判所が)原子力規制委員会に代わって判断すべきであると考えるものでもない」と言及しており、裁判所が原子力規制委員会並みの判断能力を持ち合わせていないことを暗黙に認めているが、しかし、その他の論点で行っている判断はまさに判断において専門知識が求められる内容ばかりである。言い換えれば、「専門知識がなければ客観的に判断できない事案ではあるが、裁判所なりの主観的な判断で電力会社の主張を解釈し、その妥当性を判断します」と言っているようなものである。

勿論、私は関西電力が原発に向き合う姿勢が謙虚であるとは思っていないし、いい加減にごまかして済まそうとする体質についても糾弾せざるを得ないと考えている。私が原発に対して譲れないと考えている免震重要棟の存在も、高浜原発では免震構造を耐震構造に引き下げて許可が下りている様で、この辺は全て厳しく対処して頂きたいとも思っている。しかし、如何に関西電力の経営層がパッパラパーであっても、原子力規制委員会は取り寄せた客観的な事実から、その原発の安全性を論理的且つ客観的に議論し、定量的な安全性の評価の基で結論を下すという、スペシャリストとしての自負を彼ら(原子力規制委員会)が持っていることだけは私は認めている。多分、その評価は国際機関であるIAEAでも変わらないだろう。

被告側の主張も、まさに民事事件であっても、国内で唯一、その専門性を認定された機関が原子力規制委員会なのだから、その判断結果は尊重されて然るべき・・・と主張したが、裁判長は「それだけでは不十分」として退けた感がある。残りの争点に関しては、まさにその専門性が問われる論点が多いが、明らかに専門性の乏しい裁判官が判断を下してしまった。

池田信夫氏も指摘するように、裁判官がゼロリスクを求めるのは非論理的である。例えば、先の池田氏の記事では下記の様に指摘されている。

===========
(「『ゼロリスク』を求める裁判官」より抜粋)
このように「よくわからないからリスクはゼロではない」という論理は、何にでも使えそうだ。たとえば
・建物の安全性の挙証責任は建設会社にあり、リスクがゼロでない限り高層ビルは建設してはならない。
・東日本大震災の原因究明は今なお道半ばであり、建築基準法が正しいかどうか不安である。
今の耐震基準で十分かどうか、建設会社の資料ではよくわからない。
・したがって高層ビルのリスクはゼロではないので、建設してはならない。
こういう論理は、他にも使える。たとえば年間11万人死んでいるタバコのリスクは、原発よりはるかに大きいので、タバコも製造禁止だ。旅客機のリスクもゼロではないので、航空会社も運航禁止だ。
===========

この様に言ったとき、例えば航空機のリスクは航空機を利用する利益の享受者がリスクを負うことになる一方、原発はリスクを負うべき者と利益の享受者が別なのが問題なのだと指摘する人がいる。しかし、最も分かり易い例である「自動車のリスク」は分かり易い。世の中に車が溢れることになった結果、毎年、膨大な数の歩行者が交通事故に巻き込まれるのである。歩行者は自動車の利益を享受している人ではない。しかし、その利益を享受する運転者のトバッチリを受けて死ぬことになる。原発の問題と異なり、確実に、毎年膨大な数の死者を出している。仮に、「歩行者だって、自宅に車もあればバスにだって乗るのだから、自動車の利益を享受しているじゃないか!」と言われるかも知れないが、だったら「原発を含む電気という利益を享受していない人など、日本には一人もいない」という点で同じである。

この裁判官の論理が正しいなら、誰かが「人格権」を主張して「日本国内での自動車の使用の仮差し止め申請」を出したら何が起きるだろう?多分、「自動車の安全性、危険性を示す証拠の大部分は自動車業界が持っているので、自動車の安全性の立証責任は自動車業界側にある。その自動車業界が、例えばテンカンや心臓発作、ないしは泥酔者や麻薬常習者が適切な運転ができずに歩行者を轢き殺す危険性が存在しないことを自動車業界に証明する義務を課し、それが不十分なら自動車の使用仮差し止めも止む無し」という判決になるだろう。少なくとも泥酔者や麻薬常習者の自動車運転の危険性の除去は「譲れない」となるのは間違いない。しかし、何故か「自衛隊に対しては違憲性を問わないが、安保法案だけは違憲性は重要である」のと同様に、「自動車に対しては危険性を問わないが、原発に対しては危険性を無制限に問いまくる」という議論になっている。肝心なのはリスクの大きさと、そのリスクが顕在化する確率の積で、それを最小化するための「リスクの最小化」のための努力に注目を向けるべきである。だから自動車業界は発展し、人々は様々な恩恵を享受できたのである。

さて話を戻せば、私の感触としては、この裁判長は法律の論理構成に従えば、立証責任が原告ではなく被告にあるとの根拠を上述の「行政事件に関する最高裁判決」に求めているのだから、その最高裁判決で認めた原子力規制委員会の判断結果の尊重は当然のこととして認めていると思われる。しかし、それにも拘らず最後の最後で「やっぱ駄目!!!」とちゃぶ台をひっくり返してしまったのではないかと感じた。それは、3.11以降の日本人にありがちな、根拠のない使命感にあるのだと思う。

ここで話を戻して映画「デッドゾーン」の話題に戻らせて頂く。映画では、主人公が未来予知能力を持ってしまったがために、ある政治家が「将来、世界を核戦争に導くボタンを押してしまう」ことに気が付き、この政治家の暗殺を試みるのである。結局、ど素人が慣れない狙撃を試みても上手く行かず、暗殺には失敗するのだが、その政治家が身の安全を守るために取った行動がその政治家の政治生命を立つことになり、主人公の目的は達成される。彼は警官に撃たれて死んでしまうが、未来が当初の予知内容から変わったことを知った後、息を引き取ることになるのである。

この映画を見れば誰しも考えると思うのだが、「自分が主人公だったらどうする?」と考えるはずである。私もそうだが、ほぼ全ての人が「私も暗殺を試みただろう」と感じるはずだ。「それ(地球を滅亡させる)が確かなら、世界平和のために身を挺することは厭わない」との思いから、その様に感じるのである。しかし、ここにはひとつのトリックがある。それは、「それが確かなら・・・」という前提条件が映画の中では担保されているが、現実の世界ではその様なものが担保されることはないという点である。分かりやすく言えば、自分が特殊能力を持っていれば別だが、自分の友人が「俺は特殊能力を持っている。そんな俺が言うんだから確かな話だが、あの政治家を暗殺しないと人類が滅亡する!!」と言われて実行に移す人はそう居ない。それは、本当にそれが「人類のためになるのか?」が確かではないので、言われたままの決断を下すことなどできないのである。今回の裁判にしても、裁判官は本当にそれが「確か」なのかを下す判断能力が欠如しているにも関わらず、それでも何らかの使命感を感じて「人類のために、私が行動するしかない・・・」と感じてしまったのだろう。

しかし、その様な判断がどの様な未来を生むのか、本当は我々は体験しているのである。教祖、麻原彰晃こと松本智津夫が部下に対してサリンの散布を命じたり、坂本弁護士一家を殺害したりしたのは、常識で考えればありえない話なのに、「教祖が言うのだから、貴と正しいに違いない!」と変な勘違いをした信者が「世の中人の為・・・」と暴走したからである。この様な暴走を止めたければ、論理的な思考に基づき、ルールに則って判断を下すしかない。ルールを外れて、「俺が世界を救うんだ!」とかやりだしたら何が起こるか分からない。ISILの連中だってまさにそうである。彼らは「自分一人で世界を変える」とまでは自惚れていないが、「イスラム世界再興のために、私も立ち上がらねば!」ないしは「キリスト教又は西側諸国による世界支配を防ぐために、私も立ち上がらねば!」と考え、その他大勢の一人として勘違いして「世の中人の為・・・」と暴走しているのである。方向性は違うのだが、その根底の思考パターンは今回の裁判長も同様である。

しかし、「本当にそれで良いのか?」と私は問いたい。

オウムやISILの思考パターンから脱するためには、自分が世界を救うなどとうぬぼれたことを考えるのではなく、純粋に論理的な思考とルール(ないしは法律)に従った行動に徹するべきであり、特に裁判官にはそれが求められる。

しかし、何故か3.11以降の日本では、「自分こそが善悪の判断を下すことができ、その判断の基では『論理的な思考もルールも関係ない』」と思う人が増えてしまった。安保法制にしてもしかり。例えば、「安保法制は違憲だが、自衛隊が違憲か否かは全く議論する必要が無い」という考え方の人々がなんと多いことか。「ISILへの対抗のための人道支援も、ISILに狙われないように止めておこう」という発想が、どれほどISILへの援護になっているのか、何故わからないのか・・・。しかし、デッドゾーンの主人公の様な特殊な能力を持った人であれば、その客観的で論理的な正当性の説明は不要で、「ただ、感じるのみ」で自らの行動を正当化するのには十分なのである。

しかし、私はその様な世界にはなって欲しくない。ISILと同様に、それはもはや宗教の世界である。その様なものを認めていると、いつしか隣人が自らに彼らの宗教を強いるような事態に繋がっていく。そうなってからでは遅いのだ。多分、朝日新聞や毎日新聞なども、その様な勘違いで変な使命感に燃えている人が多いのだろう。

状況な中々深刻である。中東問題が宗教問題でもある以上、話し合いで解決する可能性は限りなく低い。勘違いした正義感も、その様な宗教的な色彩が強い。

我々にはただただ、「論理的な思考とルールの順守」をアピールするしか道はない。

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国家権力の暴走を止めるのが目的ならやり方が違う!!

2016-03-05 00:03:46 | 政治
長いことブログが書けなかったが、少し時間が出来たので久しぶりに書いてみたい。時すでに遅しという感もあるが、先日、田原総一郎氏などが高市総務相の停波発言に対して批判する行動を起こしたことについてのコメントである。

既に多くの議論がなされており、大体はそれで十分なのだが、部分的に議論から漏れていると感じる点について若干補足したい。まず、大局的な話は下記の2件をご確認いただければ、これで十分整理されていると思う。

YouTube 「[2016.2.13]【完全版】辛坊治郎ズーム そこまで言うか!」1:10:15~1:20:54
長谷川豊公式ブログ 本気論 本音論「『政治的公平性は権力者側が決めるものではない』は正論だが、アホみたいな給料をもらい続けている既得権益集団が決めていいものでもない

前者のYouTubeは後半の1時間10分辺りから10分程度なので聞いていただければと思うので、ここでは敢えてその内容についての紹介はしない。それでも私がこの記事を書こうと思ったきっかけは、2/26の朝まで生テレビの冒頭で一方的な主張が垂れ流され、非常に不愉快に感じたからだ。そこで幾つかの追加の論点を整理したい。

(1)田原氏達と民主党の主張の関係
まず、朝まで生テレビには民主党の小西洋之参議院議員が参加していて、好き放題のことを言っていた。番組としては、この小西氏と田原氏達が結託して自民党を批判しているのだが、この批判は何とも不自然なのだ。多方面で指摘されている通り、民主党政権の多くの閣僚も高市総務相と同様の国会答弁をしていたので、その発言の内容自体が問題なら、本来は民主党政権時代に自称ジャーナリスト達は当時の政権に噛みつかなければならなかった。しかし、実績としては誰ひとり噛みついた人はいない。ただ、その当時に噛みつかなかったのは「きっかけがなかった」からだと弁解するかも知れないが、今回、ここまで問題が表に出たのだから、民主党に対してもその立場を明確にすべきである。しかし、番組の中での議論の行方は、決して民主党を批判するものではなく、民主党員からの批判を受けて「そうだ!そうだ!」と一緒になって批判しているのである。

この様に書くと、何故、小西氏は自分達の発言を棚に上げて自民党を責めれるのか…と思うのだが、その理由は以下の点である。それは、「高市総務相はひとつの放送局ではなく、ひとつの番組を例えば4ヶ月とかモニタし、政治的な公平性に明らかに欠ける場合にはそれを理由にテレ朝の電波を停止させることが出来ると発言した」という点である。民主党は国会でも同様の質問をしていて、自分たちは「(停波自体は問題ではなく)少なくともひとつの番組ではなく、複数の番組を見て総合的に判断すべきという立場」だと主張している。その差が「天と地」の差であり、「ひとつの番組」と言った高市総務相は許せないというのである。

そこで私が問いたいのは、田原氏達自称ジャーナリストは、この小西氏の主張に同意するのか否かである。つまり、「複数の番組で判断されるならば、国家権力による停波は止む無し」という立場なのか、「複数かひとつの番組か?などというのは枝葉の問題で、国家権力による停波自体が問題である」という立場なのかである。もし後者ならば、朝生の中で田原氏達は小西氏に対し、「お前が言うな!」「お前に資格などないだろ!」と一喝すべきであった。しかし、場の雰囲気はまったく真逆で、自民党の吊るし上げを結託して行っている同志という感じだった。これは論理的に矛盾している態度である。ジャーナリズムを自称する以上、自分の論点を自分の中で整理し、その主張の論理的一貫性を守るべきである。

ちなみに話は逸れるが、先日、自民党の某議員がゲス不倫問題で辞任したが、彼の何処に問題があったかと言えば、不倫自体が問題だった訳ではなく、育休という少子化問題にまつわる問題を自らの売名パフォーマンスのために悪用した点にあると思っている。その意味では、この小西氏は様々なところで売名パフォーマンスや恫喝的なことを平気でやっていて、安倍総理の言葉ではないが「(私が民主党員だったら)政治家を辞めるという選択肢がある」という言葉を実践して欲しい政治家だ。

(2)問題の本質は「法律の恣意的な運用」では?
次に議論したいのは、今回の議論は「放送法のあり方」という範囲の狭い問題ではなく、国家権力の暴走を如何にして止めるかという問題がその本質にあると思っている。ジャーナリズムが国家権力を監視する必要があるのは、国家権力はいつ暴走しだしてもおかしくないので、常にその暴走を監視する必要があり、報道の自由はその監視機能を正常に機能させることを保証するための権利である。その監視の第一歩は「国家が法律を恣意的に運用する」ことの監視であり、例えば中国政府などは法律を恣意的に運用し、政府に異を唱える者は簡単に牢屋に投獄できるのである。実際、中国国内にはスパイ容疑で数名の日本人が投獄されているが、この様な暴走が日本で起きないようにすることは非常に重要である。この様な国家の暴走を回避する第1の手段は、国家に「法の下の支配」を徹底させることである。勿論、戦時中の日本の様に国会議員が結託して国家の暴走を後押しする法律を作ったら問題だが、そうでなければ「法の下の支配」は最低限守るべき原理原則である。この辺の話は、私の過去のブログで書かせて頂いた。

けろっぴぃの日記 2014年9月7日「ジャーナリズムによる『法律の恣意的運用』の強制

ここでも書いているように、国家による「法律の恣意的な運用」は止めなければならないが、そのためには第1歩として、国家権力サイドでなければ「法律の恣意的な運用」は認められるという甘ったれた考えを払拭すべきである。つまり、ある日突然、恣意的に国家権力により投獄されたくないのならば、仮にオウム真理教の信者であっても、法律を恣意的に捻じ曲げて投獄するようなことはしてはいけないのである。古くは明治時代の大津事件の様に、ロシアの皇太子の殺人未遂だからと言って「殺人未遂に死刑を適用する」ことは当時の法律的には許されておらず、マスメディアが「死刑にしろ!」と言ったからと言って死刑にしてはいけないのである。これは、法律により明確に禁止されている事項を堂々と破り、何度も是正勧告を受けてもそれを無視しまくり、その様なものに対する罰則規定まで明確に設けられている非合法な活動に対し、「国家権力が恣意的に法律を捻じ曲げて黙殺しろ!」と迫るのは、まさに「法律の恣意的運用を積極的に認めよう!」という運動に他ならない。ひとつの番組だけでも判断することがあり得るというのは論理的には正しく、テレビ局が「最も視聴率が高く国民への影響度が高い番組を一つ選び、その番組だけで偏向報道をするなら許される」などというお墨付きを与えたら、それは抜け穴を作るようなものである。それは恣意的な逆運用を強いるようなものである。

この様な問題に直面したとき、賢明な人はどう考えるのか?答えは簡単である。「国家権力が恣意的な法律の運用をする口実に使われないように、まずは自らの行動を顧みて、正すべきことは正していこう!」というのが正解である。しかし、現実はその真逆である。自らの行動を顧みるためには、例えば「放送法遵守を求める視聴者の会」からTBSの「News23」のアンカー、岸井成格氏に公開質問状が送られたが、先日の記者会見ではこの様な質問を「低俗」「品性のかけらもない」と語気を強めて切り捨てているようで、「まずは自らの行動を顧みて、正すべきことは正していこう!」というつもりは鼻から無いようである。これはジャーナリズムの自殺行為であると言わざるを得ない。

(3)放送法の背景を知る
過去にも私のブログで書いたが、テレビ放送の電波というのは無尽蔵な資源ではなく、限られた有限の周波数帯域を複数の事業者が分割してシェアをして利用しているのである。携帯電話の事業会社もそうだが、その電波資源で商売をしている訳であるから、その資源を独占できれば濡れ手に粟の商売が出来るのである。この傾向は同じ電波でもテレビ局に強く、テレビ局の社員の平均年収は他の業界に比べて圧倒的に高い。下記の記事にこの辺の事情が詳細に書かれている。

現代ビジネス「『電波停止』発言に反論できないテレビ局の弱み~政府は切り札を握っている~

例えば、河野太郎氏が2008年頃のブログに書いていた記事によると、日本のテレビ放送局の営業収益総額は3兆1150億円であるのに対し、電波利用料総額は34億円であったという。大雑把に言えば電波利用料の1000倍の収益を上げていることになる。金額が大きくてピンとこないが、たとえ話をしてみよう。

米作農家を例にとると分かり易いだろうか?まず、1ヘクタール当たりの米の収穫は豊作時で6000kg程度である。計算を単純にするために、仮に政府の買い取り価格が10kgで5000円であったとすると、6000kgで300万円の収入となる。3.3ヘクタールの土地を所有している農家の場合、売上高は1000万円となり、そのうちの3割が農薬や農機具などの経費だとする。この場合、大体、700万円の収入になる。3.3ヘクタールの土地というのは、概ね180m×180mの広大な土地であり、誰かからこれだけの土地を借りて農業をするとすれば、相当な借地料になるはずである。しかし、テレビ放送局は収益の1/1000の電波使用料で済んでいるので、180m四方の膨大な土地を、1000万円の1/1000の年間1万円でレンタルして農業をやっている状況に似ている。多分、180m四方の肥沃且つ膨大な土地を年間1万円でレンタルできるとすると、日本全国から膨大な数の応募があるに違いない。しかし、これを毎年、同じ人に繰り返し繰り返し貸し与えているのである。土地の持ち主が、「これだけ便宜を与えているのだから、地域の人が求めている農作物を安価で提供しなさい!」と条件を出しているのに、「うるさい!金儲けのためには外国で高値で売れる農産品を作るのが一番。何を作ろうと俺の勝手だ!」と逆切れし、さらに丁寧にお願いしても聞かないので「あまりにも酷かったら、農地の使用を禁止することもないとは言い切れませんよ!」と言ったら「権力を笠に着あがって、コノヤロー!」と徒党を組んで地主の家の前でシュプレヒコールを上げる…といった状況である。

ここまでくれば答えは簡単で、「自分の作りたいものを作るなら、オークションでレンタル金額を決めますよ!」とその土地を一般の人に開放すれば良いのである。その暁には、アメリカの様に放送法も廃止し、政治的公平性も求めないようにすることができる。放送局によって支持政党が異なるので、結果的に様々な意見を公平に聞き分けることが出来るようになる。しかし、既得権益を握る放送業界は表立っては動かず、左寄りの偏向した放送を支持するジャーナリストが代わって政府を糾弾し、これをテレビニュースで流すというのが現在の構図である。

(4)放送業界は委縮するのか?
この自称ジャーナリストの主張は「放送業界が委縮する」とのことなのだが、それは本当だろうか?私の理解では、放送業界には2種類の人がいて、確信犯的な左巻きの人と、概ね中道の人である。インターネットなどのメディアは別として、テレビ放送では右翼は生きていけない。中道の人は最初から「放送法を順守」する意識を持ち、全体のバランスを気にして番組作りをしている。この人たちは、政府からの「停波」の発言を聞いても委縮することはなく、「常識の範囲でやっている限りは停波を恐れる必要はない」と考えるはずである。一方、確信犯的な左巻きの人はどうかと言えば、確信犯だから「停波」と聞けば更に血が騒ぎ出し、委縮の真逆の反応を示すはずである。いずれにしても委縮することはありえない。あり得るのは、経営層が人事権を使って余りに酷い左巻きのプロデューサを更迭することだが、古賀事件などに代表される様に彼らの放送局に対する圧力は物凄く、更迭でもしようものなら返り血を浴びることにならざるを得ない。これは政府からの圧力とは真逆の圧力で、結果的にどちらの圧力の方が支配的なのかは分からない状況になっている。

では「放送業界が委縮することはないのか?」と聞かれればそんなことはない。我々も先日、天下のテレ朝が委縮した瞬間を垣間見ることが出来た。それは、安保法案が通った日だったと思う。過去のブログにも書いたと思うが、その日の「報道ステーション」は異様だった。それまでは、「放送法遵守を求める視聴者の会」の意見広告などにもあるように、報道ステーションなどでは90%を優に超える時間を割いて「法案反対!」を訴えてきた。街中での市民のインタビューでも反対だらけの報道だった。しかし、その日の放送はちょっと違った。私の記憶では、反対派が60%、賛成派の声も40%程度は拾って報道していた。「何が起きたのだろうか?」と思っていたら、スポンサーの高須クリニックの高須氏が、「こんな偏向は耐えられないからスポンサーを降りる!」と報道ステーションのスポンサーを降りてしまったのだ。ただ、テレ朝の別の番組のスポンサーに切り替えるとのことだったので、結果的にはテレ朝は大きな損失を被った訳ではない。単に、雪崩式にスポンサーを失いたくないので、流石にバランスを取ろうと自主的に行動を正したのである。

しかし、考えて頂きたい。政府に対し、「国家権力の介入は許さん!」と「我こそは正義!」と胸を張るならば、たったスポンサー1件が番組を降りたところで、自らの信念をあっさりと引き下げるのはおかしい。それこそ、「金儲けのためなら正義などあっさり捨てる!」と公言しているようなものである。これは、自らの報道の使命よりも金儲けの方が優先されると白状したようなもので、それは戦前の朝日新聞などの様に、金儲けのために好戦的な紙面を作り、国民を戦争に駆り立てたのと等価である。自称ジャーナリストなら、テレ朝のその様な裏切り行為にまずは非難の声を浴びせるべきであろう。それをしないのは、ある種の裏取引の様なものであり、論理的一貫性の破たんを表徴している。

(5)NHKへの圧力は良いのか?
NHKの予算は毎年、国会審議を経て決まるので、国会ではNHK会長が良く呼ばれて野党の議員につるし上げられている。この様な国会審議が必要な理由は放送法で定められているのだが、ここでの民主党などの恫喝行為は反吐が出るレベルのものである。お財布を握られているのでNHK会長も我慢せざるを得ないのだが、あそこまで堂々と圧力をかけてつるし上げて、ジャーナリストの端くれならば異を唱えないのであろうか?「番組に問題があるならBPOで審査するから、政治家は予算の使い道だけを審査して下さい!」と言っても良さそうなのだが、結局は左寄りの言い分だけがまかり通るのが現状である。この辺の整合性をジャーナリストには解説して頂きたいものである。

以上、色々と書かせて頂いたが、結局のところ、自称ジャーナリストの方々には首尾一貫した論理的な思想などなく、場当たり的なご都合主義で行動しているだけなのである。近年、左翼(サヨク)の劣化が激しいと言われるが、それは健全な民主主義にとっては悲劇でもある。早く、自らの行いに気づき、健全なジャーナリズムを志して欲しいものである。権力の監視と言う意味では、テレビや新聞と共に「ムラ社会」を形成している一部の言論人の発言も、我々は監視していかなければならないのではないか?

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今更ながらの安保法制の論点の切り分け~その2~

2015-10-04 23:07:46 | 政治
今日は昨日に引き続き、安保法制についての「議論の仕方」の整理を行う。昨日整理した論点は(A)安保法制の合憲性に関する議論であったが、今日は(B)安保法制におけるリスクの考え方について整理することにする。(1)集団的自衛権に関する議論、(2)集団的安全保障に関する議論、の二つの切り口に関しては、基本は(1)集団的自衛権に関する議論をベースとするが、最後に(2)集団的安全保障に関する議論についても簡単に述べておく。続きは明日以降にしたい。

(B-1)安保法制におけるリスクの考え方 [集団的自衛権の場合]
まず、リスクというものの物の考え方を確認したい。数学的な「期待値」のアプローチでは、様々な事態が所定の確率で発生するとした場合、その様々な事態に起因したメリット、デメリット(例えば、経済効果を利益はプラスで、損失はマイナスでその金額を示す)があるとすると、全体的にどの程度の恩恵が期待できるかを計算するために、様々な事象の「発生確率」×「そのインパクト」の値を個別に算出し、それを全て加算した結果として安全保障的、ないしは経済的なインパクトとして評価する。リスクマネージメントでは、この期待値がプラス方向になるべく大きな値となる様に(ないしはマイナスになるならば、そのマイナスを最小限に食い止める様に)対応の仕方を管理する。

例えば(見積もりとしては非常に雑な議論で恐縮だが)、今回の福島原発事故の程度の事故の発生確率が1%で、その損失が総額で30兆円だとする。この場合、原発を再稼働して利用し続けるとなると、大雑把に100年に1回、30兆円の損失を出すことになる。一方、原発を止めるとこの30兆円は不要になるが、その代わりに100%の確率で毎年、1~3兆円の燃料費の高騰が期待される。最近は原油価格も安くなってきているし、LNGの価格も低下しているから一時の3兆円よりは大幅に安くなるが、それでも1兆円程度は見込まなければならない。控えめに見て、毎年1兆円が100年とすると、100年当たり100兆円の損失を計上することになる。さらに、CO2排出量が増加するのは避けられない。大幅に増大した状況で、発展途上国に対しCO2排出量を減らせと言っても説得力はないから、その影響で地球温暖化が進み、近年の豪雨による甚大な被害がさらに深刻化することが予想される。この影響を金額に見積もるのは困難だが、少なくとも半端な額でないのは確かだ。アメリカや中国が利己的な発言をする中で、日本の様な国が率先して見本を見せないのは、100年スケールの視点で見れば致命的である。

ここで、例えば太陽光発電をより普及させ、そこでCO2排出量を減らすことは可能かも知れない。しかし、そこまでドラスティックにCO2排出量が減るのであれば、高い価格に設定された電気の買い取り制度の影響で、各家庭の電気料金は少なくとも3倍程度に跳ね上がる。これまで、5,000円/月の家庭では15,000円/月に跳ね上がり、年間で12万円の支出増につながる。この影響を簡単に見積もってみよう。昨年、消費税が5%から8%になったことでそれまでのデフレ解消傾向が完全に逆戻りし、多くの経済指標が逆転した。電気料金が5,000円/月の家庭の消費支出が仮に200万円だとすると、3%の消費税増税は年間で6万円の支出増に相当する。ざっと2倍の影響だから、これが日本経済に与えるダメージは半端ではない。多くの家庭で買い物を控え、消費意欲が減退すれば、その経済効果を金額で表せば、年間数兆円のマイナスという結果に繋がるかも知れない。既に、高い太陽光発電の買い取り制度が導入済みだから、今更、原発を再稼働してもこのマイナスの半分ぐらいは織り込まざるを得ないかも知れないが、それでも残りの半分だけでも消費税増税効果並みのインパクトである。この対策で経済対策の財政出動を続ければ、日本としての財政破たんも現実的に近づいてくる。これらの経済効果を合わせれば、100年で30兆円などの金額の比ではない。

ただ、この様に言えば、放射性廃棄物の処理費用に膨大な金額が必要になると言われるかも知れない。しかし、その費用はここで原発を廃止したところで必要な費用であることは間違いない。世界中が対策のために知恵を絞っているが、その道筋をつけるための費用と、その道筋がついた後で、処理するべき量が少し増えた際の費用の増加とを比べれば、前者の費用が圧倒的で、後者の費用は相対的にも絶対的にも小さい。ここで、安全が確認された原発を限定的に再稼働することにより増大する支出は上述の経済的な影響に比べれば微々たるものであろう。

以上は原発に対するリスクの評価である。これと同様のことを安全保障の世界にも適用すべきである。即ち、安保法制を制定することでアメリカの戦争に巻き込まれる可能性が、今後、30年の間で10%程度の確率で発生し、そこで自衛隊員が1000人程度、亡くなると仮定しよう。実際には安全を確保し、後方支援に徹するはずだから、この1000人というのは少々過大評価しているが、取りあえずそこには目を瞑る。結果として期待値は、確率の10%を乗算すると、30年で100人の自衛隊員が死亡する計算になる。一方で安保法制を導入しない場合、中国は益々、東シナ海での影響力を行使し、尖閣諸島で局所戦が勃発する可能性は格段に高まり、今後30年で考えれば、どう少なく見積もっても50%は超えるだろう。日本があっさり尖閣を放棄すれば話は別だが、尖閣を死守しようとすれば、楽勝で1000人規模の自衛隊員が死ぬことになるだろう。期待値で見れば30年で500人ということになる。しかし、尖閣を中国が占領することになると、次は沖縄が狙われるのは間違いない。狙いは沖縄のクリミア化である。米軍基地がある限りは本格的な戦闘になる可能性は低いが、石垣島などの米軍基地のない島々に侵攻する可能性は否定できず、この際には多くの民間人に犠牲者が出ることになる。アメリカの戦争に巻き込まれる際のシナリオでは、日本経済に致命的な影響が出る可能性は極めて低いが、中国との戦争が勃発すれば、経済的な破たんがそこら中で起きてもおかしくない。世界経済全体の停滞にも繋がりかねない。その被害は直接的人的被害とは異なるが、インパクトの大きさでは勝るとも劣らないものである。これらを全て見込まねばならない。

なお、アメリカの戦争に巻き込まれる際のシナリオには、「集団的自衛権」行使に伴う場合と「集団的安全保障」を行う場合のシナリオが存在する。以上の議論はその両方を包含する場合についての議論であるが、「集団的自衛権」行使に伴う場合のみに限定して、若干説明を加えておく。

朝鮮半島有事の場合の議論では、北朝鮮が日本に対する攻撃意志が全くない場合において、北朝鮮が攻撃を仕掛けるアメリカの艦船を自衛隊の艦船が助けようとすると、野党側は自衛隊の艦船も危うくするとしていたが、米軍基地が日本国内にこれだけある以上、別に直接的な攻撃行動を取るか取らないかに関わらず、実質的に北朝鮮は日本が参戦したものと見なすのは間違いない。北朝鮮が様々なミサイル兵器を持っているならば、日本国内の米軍基地も攻撃対象とするのは目に見えており、そこに攻撃を仕掛けると、自動的に日本は個別的自衛権の行使が可能な状態となり、実質的に北朝鮮と戦争状態となる。上述の自衛隊員のリスクに関する議論では、「集団的自衛権」行使に伴うリスクだけを議論していたが、そこで「集団的自衛権」を行使せずとも、在日米軍への基地の供与は既に北朝鮮的には「集団的自衛権」の行使にしか見えないから、自動的に個別的自衛権の行使による北朝鮮との戦争状態が勃発する。「自衛隊員のリスク」という視点、ないしは日本国民のリスクと言っても良いが、そのリスクは「集団的自衛権」だろうが「個別的自衛権」だろうが、結局は同様に危険な状態となるため、その説明に「集団的自衛権」を使おうが「個別的自衛権」を使おうが、全く、同レベルでの危機がそこに生じうるのである。野党やマスコミの議論はこの「個別的自衛権」によるリスクは全く目を瞑るとしている時点で日本国民の安全を既に無視した議論である。また、自民党の小野寺五典元防衛相が参議院での質疑で発言していたが、彼が防衛大臣の時に自衛隊員に問いただした答えとして、自衛隊員は、日本海で米軍艦船が北朝鮮からの攻撃を受けた場合、現行法で米軍の艦船を守るためには、敵のミサイルの衝突コースに自らの艦船を進め、強制的に「個別的自衛権」が使える環境に自らの身を置いて、日米安保が破たんする事態を防がざるを得ないと答えていたそうである。防御の為に有効な手段は、自らの艦船を敵ミサイルからの衝突回避行動を取りながら、同時に敵の艦船を攻撃するのが基本であるはずだが、わざわざ衝突コースに艦を進めなければならないならば、それは自衛隊員のリスクに通じる。上記の行動は日本国憲法にも自衛隊法などの現行法規にも反するものではないから、多分、現状では自衛隊員は同様の行動を取ることになるだろう。この様な事をせざるを得ない自衛隊員のリスクを考えれば、寧ろ安保法制が成立した方が自衛隊員のリスクは低減できることになる。少々極端な例だが、仮に自衛隊員が命を落とすことになった時、集団的自衛権の行使に伴い敵艦船に攻撃されて命を落としたとしても、自衛隊員の家族はそれなりの覚悟でその事実を受け止めるはずである。しかし、わざわざ衝突コースに艦を進めて被弾して死亡した場合には、悔やんでも悔やみきれない状況になるのは間違いない。もし安保法制が成立せずに、この様な事態になった場合、野党やマスコミはその責任を自らのものと受け止める訳がない。「ほうらみろ、衝突コースに艦を進める方が馬鹿なんだよ!自業自得だ!」と言って自己弁護するのは目に見えているが、その声を聞いた自衛隊の遺族はどの様に考えるのだろうか?野党国会議員、マスコミの無責任さを糾弾するのは間違いない。そどうせ自衛隊員のリスクを議論するなら、こまでを考えて議論して欲しい。

(B-2)安保法制におけるリスクの考え方 [集団的安全保障の場合]
以下では、安保法制の中の安全保障関連に限定して追加で議論してみる。

「集団的安全保障」に関わる自衛隊員のリスクとは何か?現行の法規では、自衛隊員はPKOで派遣される先において、正当防衛以外の形での戦闘行為を認めておられず、そのため、携行する銃火器は極めて軽微なものである。しかし、敵の方はロケット砲まで持っているのだから、はっきり言って幼稚園生と大人の喧嘩の様な差であるのは間違いない。それで幼稚園生が自分の身を守ることができるかと言えば、守れる可能性は極めて低いだろう。必然的に、自分の身を守るためには、誰か別の国の軍隊に守ってもらうしかない。

実は先日、この集団的安全保障の行動を日本の自衛隊は取ることになった。

産経ニュース2015年3月12日「【政治デスクノート】違法まがい『韓国軍への銃弾提供』は批判せず、安保法制見直し批判“神学論争”に終始する野党の不思議

これは、南スーダンでPKO活動に参加している陸上自衛隊が、現地で活動する韓国軍に銃弾1万発を無償提供したことに関する話題であるが、ここに説明してある様に、PKO協力法の明文化された規定では直接は違法ではないが、法案の制定過程での国会質疑で「武器・弾薬については要請されても提供しない」としていたので、この意味では違法性が高い事案だ。しかも武器輸出三原則に対しては確実に逸脱した行為だから、安倍政権はわざわざ閣議決定により半ば超法規的緊急事態として「武器輸出三原則の例外措置」を宣言することになった。思考実験であるが、ここで銃弾の供与をせずに韓国兵が死に至ったと仮定する。その後、日本のPKO部隊がゲリラに襲われた時、たまたま近くにいたのが韓国軍だとして、彼らが日本の自衛隊を救援に来てくれるかと言えば、相当疑わしいと言わざるを得ない。もう少し正確に言えば、近くまで救援には来るが、命を張ってまで敵と戦おうとはせずに傍観する事態が容易に想像できる。これは韓国軍だけではない。仮に何処かの軍隊が救援に来て、その軍隊で死傷者が出た場合、その次の駆けつけ警護に支障が及ぶのは容易に想像できる。国際世論として、「自分の身も守れないなら、こんな場所にノコノコ出て来るんじゃねぇー!」と言われるのが関の山である。

ところで日本国憲法の前文には以下の様な記述がある。

==============
日本国憲法 前文
(・・・前略・・・)
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
==============

日本国憲法に違反しないためには、日本国政府はPKO活動を必要とする諸外国に対して「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」のであって、それを実行することは日本国政府の「責務」であると明言している。しかし、この日本国憲法前文を行動で示そうとすると、十分な武器を持たなければ自衛隊員のリスクは計り知れない。しかし、野党もマスコミもこの様なリスクをまともに議論しようとはしない。それは、議論すれば必ず負けてしまうからである。絶対に、その様な話で国民の理解を得ることは出来ない。多くの国民は、自衛隊のPKO活動を支持している。東日本大震災で米軍がトモダチ作戦と称して多くの日本人の命を救ったのは記憶に新しい。それは災害だけでなく、世界中には他国の軍隊の助けを求めている国々が沢山ある。しかし、その助けの背後には、その助けを快く思わない集団が当然ながら存在する。だからこそ、国際社会が一致団結することが必要であり、今後の手段安全保障の在り方を議論する必要がある。しかし、その様な集団安全保障はには協力はしないが、その恩恵だけは被りたいというのが野党やマスコミの考え方である。

その様な考え方は、将来に大きなリスクをもたらせはしないだろうか?真面目にマスコミに問うてみたい。

・・・続く・・・

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今更ながらの安保法制の論点の切り分け~その1~

2015-10-03 22:15:56 | 政治
今更ながらの話題であるが、これまでの反省の意味を込めて、安保法制についての「議論の仕方」の私なりの整理してみたい。

まず第1に重要なのは、論点を切り分けることである。その論点とは、大きくは(A)安保法制の合憲性に関する議論、(B)安保法制におけるリスクの考え方、(C)安保法制における歯止めのかけ方、の3点である。更にもう一つの切り口として、(1)集団的自衛権に関する議論、(2)集団的安全保障に関する議論、の二つがある。これらの組み合わせで3×2のマトリックスを作れるが、ある部分は共通の議論になるかも知れない。その辺は整理して順番に議論すべきである。

なお、書いていたらそれなりの量になりそうなことが分かったので、今日はその一部のみを書き、続きは明日以降にしたい。まずは(A)と(1)の組み合わせについて・・・。

(A-1) 安保法制の合憲性に関する議論 [集団的自衛権の場合]
まず、先日のブログにも書いたが、砂川判決のポイントは、最高裁は高度に政治的な議題に対しては行為統治論を採用し、仮にそこで議論が分かれる様なことがあっても、「一見してきわめて明白に違憲無効と認められない」法案や行為は「違憲」とは見なさないことを宣言している。これは判例として現時点では確立された認識なのだと思う。共産党ですら、この認識は否定できないだろう。上述の論点(B)のリスクとは、安全保障上のリスクを議論しているのだが、多分、共産党などの主張は「判例としては確立しているが、これだけ憲法学者がNoと言っているのだから、違憲立法の判決が出てもおかしくはない。そのリスクは(仮に小さくても)無視できないはずだ!」という、違憲審査上のリスクを主張しているのだと思う。そのリスクはゼロではないのは明らかだが、「リスク・マネージメント」の観点からは、様々な選択肢にリスクもあればメリットもあり、その選択肢を選択した場合のリスクに加えて、選択しない場合のリスクも考えなければならない。その様なリスクを総合的に判断をする権限は、憲法上、その時の政府に与えられており、国家・国民の利益に照らし合わせて最良の判断をすることが義務付けられている。これまでにも行政側の「不作為の罪」が問われた例は腐るほどある訳で、適切な判断を下さないリスクの罪が問われる以上、価値判断が分かれる状況であっても、時の政府が必要不可欠と判断するのであれば、「違憲判決」のリスクよりも重い「不作為のリスク」の回避を選択する権限は政府にあるはずである。とすれば、「違憲」を理由に法案廃棄を主張するのであれば、判断が分かれないほどの「一見してきわめて明白に違憲無効と認められる」理由を説明し、その主張の反論に対して丁寧に論破することをすべきである。現在の状況は、反対派は「政府が俺たちを納得させないから悪い!」というスタンスだが、それは「安保法制の必要性」の議論に関する話であり、「安保法制の違憲性」を主張するのが反対派ならば、「一見してきわめて明白に違憲無効と認められる」理由の説明責任は反対派側にある。

その点をはき違えてはいけない。

次に、次の議論に行く前に例え話をさせて頂きたい。次の様なケースをイメージして欲しい。ある人が、他人の物を盗んだとする。これは窃盗罪である。しかし、「あの人の物を盗みました」と言えば窃盗罪が成立するが、「あの人の物を、拝借しただけです」と言えば罪に問われないなどという話は有り得ない。犯罪行為とは、その行為そのものの犯罪性を問うのであって、その行為を説明する表現の仕方で有罪/無罪が変わるなどということはいうことは有り得ない。即ち、明文化された法律があるなら、その法律に照らした違法性の有無は、その行為自体によって判断されるべきである。しかし、その様な法律とは異なり、ある種のコンセンサスで成り立っている事柄は、そのコンセンサスを崩す様な行動は周りの者から受け入れられない。例えば、会社の寮の同僚同士で車が必要になり、みんなでお金を出し合ってカー・シェアリングをすることになったとする。しかし、忙しくて中々車を使う機会がない同僚に対し、一人だけ頻繁にその車を使う機会がある者がいたとする。コンセンサスとして、他の人が使っていない時には使う権限を認められているので、カー・シェアリングとして利用している分には構わない。しかし、その人が他の人に「(実質的に)あの車は俺の物だよ!」などと豪語しまくっていたら、そのコンセンサスは崩れてしまう。ひとつの行為に対し、他の人が広く認める説明をする限りにおいては、その権限は広く認められるのだろうが、到底認められないような説明をし出したら、その後に大きなトラブルが発生するリスクを回避する為、仲間外れにされても致し方ない。

これは何のことを言っているかと言えば、憲法に照らして合憲か違憲かの議論は、その行為の中身によって議論されるべきで、その行為が合憲であるならば、その行為の呼び方(説明の仕方)を変えたところで合憲/違憲の判断結果に影響を及ぼすのは非論理的である。まず確認したいのは、例えば最近話題になっている通り、民主党の岡田代表は朝鮮半島有事の際に、日本海の公海上で米軍の艦船が北朝鮮からミサイル攻撃された際に、その時近くにいた自衛隊の艦船が防御の為にミサイルを迎撃するのは許されるべきであると発言している。櫻井よしこ氏がNHKで発言し、民主党が発言取り消し要求を求め、それに櫻井氏が反論し、更に民主党が再反論しているが、このやり取りの中でも民主党の公式見解は「その行動自体は認めるべき」「ただし、呼び方は集団的自衛権より個別的自衛権が良い」とのスタンスに立っている。しかし、これは明文化された憲法に関する議論だから、同じ行動に対して呼び方を変えたら合法で、別の呼び方だと違法になるというのは論理的に破綻している。前回の民主党の代表選でも散々、岡田代表はこの様に説明しており、行動自体に問題がない事は何度も認めている。同様のことは、維新の党でも言えるはずである。以前、日本維新の党と結の党が合併する際にも、橋下大阪市長は「集団的自衛権」に賛成で、江田憲次元代表は「集団的自衛権ではなく個別的自衛権で対応」すべしとして、集団的自衛権には反対して対立していたが、両党の議員の説明では「中身的には意見は一致している」から問題ないとしていた。つまり、行動を基準にすれば両党で差がなく、あくまで呼び方のみが違うという説明だった。であるとすれば、「集団的自衛権が違憲である」から安保法案反対というのは論理的に破綻している。さらに言えば、国際法として集団的自衛権も個別的自衛権も認められているが、個別的自衛権の範囲が何処までかというのはコンセンサスベースでしか共通認識は得られていない。そのコンセンサスとしては、「ほとんどすべての戦争は、自衛の名のもとの個別的自衛権の拡大解釈から始まったので、個別的自衛権は極めて抑制的に実施されるべきである。一方、緊急避難的状況で、複数の国家の同意のもとで集団的自衛権を行使することは認められている。つまり、「これは、カーシェアリングで借りてる車だよ!」と言って車を(集団的自衛権と同様に)他の人との合意のもとでの利用ならば認めるが、「この車は俺様のものだ!」と言って車を(個別的自衛権と同様に)俺様のみの勝手な言いっぷりで独占しようとしていれば、それは認められないという話になる。国際的には、集団的自衛権という説明なら納得するが、個別的自衛権との説明だと納得できないという考え方が一般的なのである。だから、政府は個別的自衛権の拡大解釈という見方を明確に否定しているのである。

結論としては、行為としては何処までが合憲かを明確にし、そこまでは法的整備をきっちりやるべきであることを国民として認識すべきことと、その法的整備の対象である行動の呼び方を、国際的なコンセンサスに照らして適切に呼ぶことを、我々はもっと冷静に話し合わなければならない。

なお、集団的安全保障的な視点では、何処までが許されるべき行動かについての民主党、維新の党などの共通の認識は現時点では出来上がっていない様に感じる。この点は、後述する議論となる。

・・・続く・・・

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