けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

「激論!原発再稼働と日本のエネルギー」を見てのコメント~その2~

2015-03-09 00:07:54 | 政治
昨日のブログで「激論!原発再稼働と日本のエネルギー」へのコメントを書かせて頂いたが、今日はその続きである。

昨日のポイントは、マスコミも含め反原発派の人々は、「情報の意味する、その本質」の理解のための努力を怠り、一方では読者に刺激的な切り口の情報にはすぐ飛びつくという問題点を紹介した。意外なことに、原発再稼働容認派の口からは、反原発派の人々が騒ぎ立てる問題よりも数桁深刻な課題の問題提起もされていて、昔の「原子力ムラ」とか「安全神話」に象徴されるような隠蔽体質ではなく、非常にまじめに論理的な議論をしようと呼びかける傾向がある。しかしマスコミの方は、その様な論理的な議論をしても一般の視聴者や読者に対する訴求力は期待できない(自分たちが理解できないので、視聴者や読者も理解できないはずと確信しているため)と考え、全く無駄な行為と切って捨てている様だ。つまり言い換えれば、論理的に安全のための議論をするのは無意味で、感情論的に国民が原発に拒絶反応を示すネタを探すことのみが正義だと考えているという話である。

さて、番組ではこれに加えてふたつのポイントが問題提起された。ふたつは問題の表と裏の面を意味していて、相互に関係がある話である。まあ、以前から私を含めて多くの方々が唱えていた問題点の再掲となるが、以下に整理したい。

そのひとつ目は、「ゼロリスクをどう考えるか?」と言う点である。「ゼロリスク」とは「全く安全で、何も心配がいらない」ということを意味する。今現在の世の中の風潮は、「原発にはゼロリスクを求めても良い」という歪んだ主張がまかり通っている。明治大学の飯田泰之准教授はこの点を問題視し、いかなる問題も「ゼロリスク」は有り得ない訳で、何処までのリスクを許容すべきかを定量的に議論すべきだと主張している。

番組中ではこの意味することを流石に省略していたが、ここでは折角なので私なりに分かり易く説明を加えてみようと思う。例えば最近話題になっている話として、日本では医薬品や医療機器の承認に要する時間が海外に比べて長くなり、その承認の遅れが時として助かるはずの命を救えない結果に繋がっているという。これに対する対策は、この分野にもっと大量の税金を投じて時間を短縮すべきという議論と、ある程度のリスクを許容して承認の手続きを簡素化すべきという話がある。前者に関しては、税金の投入量を2倍にし、人員を2倍にすれば期間が半分になる訳ではなく、踏むべき手続きが同じままであれば、100倍の税金を投入しても期間の半減がまあ良い所であろう。だから重要なのは後者なのだが、ここでの承認のハードルを下げると、今度は「実際は危険性を秘めた医薬品・医療器具」を誤って承認してしまう可能性があり、こちらでも死なずに済むはずの命を危険に晒す可能性が生じてくる。子宮頸がんの予防ワクチンの話などはより複雑で、結果的に子宮頸がんにならずに寿命を全うできたかもしれない方が、予防接種の副作用で重度の麻痺で苦しむことになったりしている。ただ、では短絡的に予防接種を廃止すれば良いかと言えば、実は表には出てこないのだが、予防接種の為に子宮頸がんにならずに済んでいた人もいるかも知れない訳で、予防接種が無かったらこの人は子宮頸がんで死ぬべき運命だったかも知れない。死ぬべき運命の人を事前に救っても、それは決して表に見える形では分からないので、あくまでも統計上の数字で確認するしかないのだが、その統計上の数字を見れば子宮頸がんのワクチンは有意な効果が認められているようなので、実際には死ぬべき運命の人を事前に救っている可能性は極めて高いのである。ただ問題は、この様に死ぬべき運命であったはずの人と、副作用に悩まされる人は全く別人であるために、そこに変な不公平感が生まれてしまうのである。したがって、上述の承認のハードルを下げるということは、この様な問題が将来生じた際の責任を誰が負うべきかという問題に帰着される。副作用で苦しむ人のリスク、ないしは将来裁判で国が誤った承認をした責任を問われるリスクと、新技術で救えたかも知れない人の命が失われるリスクをどの様にバランスさせるかが議論の対象なのである。マスコミは都合の良いもので、医療問題に関しては初めのうちは後者のリスクを過大評価し、患者さんをつかまえて「国家の不手際のせいで、この人の命は失われるかも知れない・・・」と訴えながらも、暫くして副作用などの問題が生じると立場を反転させて「国家のせいで、これ程副作用に苦しんでいる人がいる・・・」と慎重な承認手続きをしない奴が悪いと糾弾する。リスクに関する考え方のバランスが問題なのに、マスコミは最初からバランスを崩すことに必死なので、全くもって論理的な議論が出来ない。原発の問題も同様で、再稼働のリスクと再稼働しないリスクを如何にバランスさせるのかが重要なのに、先ほどの医療問題の様に自分は変わり身の早さで常に都合の良い側に立ちたいので、リスクのバランス問題に関与することを嫌うのである。早い話が、責任を取りたくないので無責任を貫く!という主義が一貫している。

さて、ふたつ目のポイントはこのリスクのバランスをどの様に考えるべきかという問題に近い話題である。リスクのバランスを議論するためには、選択肢の双方のリスクをそれぞれ定量化する必要がある。例えば、自分の子どもが重い難病にかかっていて、医師から新薬の使用や新しい術式の手術の打診を受けたとする。その場合、サイコロを転がして手術するか否かを判断しようとする親はいない。医師からなるべく多くの情報を定量的に引き出そうとするはずである。例えば、新しい技術を使用した症例が過去にどのぐらいあり、それで成功した人、失敗した人がどの様な割合かを聞くはずである。同様に、この新技術を見送った場合、その他の既存の技術で子どもがどの程度危険な状態になるのか、さらには新たな安全な技術が子供が死ぬ前に利用できる確率についても聞くだろう。具体的には、その様な技術の研究を行っている医療機関が実際にはあるのかないのか、それが人体での臨床段階なのか動物実験段階なのか、さらには筋の良さそうな技術なのか等々。そして、それらのリスクやメリット・デメリットを総合し、その上でどのリスクを覚悟し、どのリスクを回避すべきかを判断するはずである。その判断に必要な情報は、可能な限り定量化して収集して議論をすべきなのである。おせっかいな人が横から割り込んできて、「何か、新しい技術って怪しいよね。患者をモルモットにしか考えていないんじゃない・・・」などと感情論のみでかき回す様なことを言っていたら、本気で真面目に考えている人は「うるさい、黙っててくれ!」と言うはずである。しかし、直接の当事者じゃないと結構、井戸端会議的に「そうだよね、モルモットみたいだよね・・・」と相槌を打ってしまうかも知れない。マスコミの狙いはこちらなのである。全員が当事者意識で本気で考えたら、今の様には行かないはずである。

つまり原発再稼働に関して言えば、原発再稼働による原発事故のリスクも定量的に行うべきだが、同様に再稼働しない場合のリスクも定量的に議論がなされるべきである。原発再稼働のリスクに関しては、例えば活断層や火山、竜巻、テロなどの影響について実際に評価が行われている。この中で、実質的には廃炉宣告を受けた原発も存在している。にも拘らず、それでもリスクが十分に小さいと判断されたところは、限定的に再稼働をすることができるようにと議論を進めている。つまり、再稼働のリスクを定量的に議論しようとする試みは比較的良心的に行われているのである。

しかるに、再稼働をしないリスクはどうかと言えば、これは全く十分ではない。再稼働容認派はこの問題を主張するが、この問題に真摯に取り組もうとしているメディアは非常に限られている。慰安婦問題や安全保障問題で反政府的、ないしは反日的と言われるメディアの多くは、限りなくこの「再稼働をしないリスク」を黙殺すべきと主張している様に見える。しかし実際には、ドイツなどでも再生可能エネルギー活用による電気代の暴騰で、多くの国民がこの問題への見直しを訴えていたりする。例えば、実際にドイツなどでは一般家庭の電気代は2倍以上に高騰しているという。分かり易く言えば、毎月5千円の電気代だった家庭では、電気代が1万円を超えることを意味する。毎月の負担は5千円以上増えたことになる。ここで、これを消費税に換算してみる。昨年の消費税増税は3%であったが、それにより消費が大幅に落ち込んで、日本共産党や社民党などは「弱い者いじめの悪政」と糾弾している。実際、それまで上向きだった経済指標は急激に下向きになり、思い切り日本の経済成長にブレーキを掛けた結果だ。とすると、先ほどの5千円を3%で割ると、約16万6千円の消費において生じる消費税の増額分に相当する。これは、あくまでも消費税がかかる部分についての話だから、額面の給料から天引きされる税金などは当然関係なく、手取りの給料の中でも貯金だとか直接的な消費に関係ない部分は除外した値である。その様な消費の総額が16万6千円の家庭における消費税増税分に相当する支出の増加であり、当然、経済活動にも影響を与える。さらに、企業からすれば一般家庭以上に電気料金の増額はインパクトが大きく、そこで減った収益は社員の給料にも直結する。この様な家計への負担増は、更に消費意欲を冷却させ、景気の減退によるリストラや失業者の増加など、負のスパイラル的に影響は様々な方向に波及する。その様な係数的に乗算されて効いてくる効果も含めれば、見かけ上の毎月5千円以上の負担増以上のインパクトとなって帰ってくるのは明らかである。

さらに、その様になる前の前段として、アベノミクスで景気が回復しつつある中で、消費が増大するとそこで工場の稼働は現在よりも大幅に増加し、そこで使用される電気量も増加する。しかし、あるところまで来ると「不景気故に原発が無くても足りていた総発電量」を実際の電力需要が追い越す日が来ることになる。その瞬間、予測できない大規模停電が発生し、信号なしによる交通事故であったり、極寒の北海道で暖を取れずに死に至る事故などが発生したりする。その死者は確実に原発を再稼働していれば死なずに済んだ命であり、それを防ごうとすると経済成長にブレーキを掛ける政策を取らなければならなくなる。当然、その様な国内での生産に企業は耐えられないから、一斉に工場を国外に移すところが出だすだろう。折角、民主党政権時代に空洞化した国内産業を復活させ、海外から国内に企業の工場が回帰しつつある中で、それにもブレーキをかけて、雇用の確保を妨げることになる。考えれば考える程、リスクのバランスの重要性は増してくるはずである。

しかし、その様なリスクのバランスの議論をしようとすると、番組に出演していた民主党の阿部知子氏などは「感情論」に訴えて、その議論を断ち切ろうとする。しかし、池田信夫氏などは執拗に食い下がり、全国民にこの様なリスクのバランスの議論を徹底させ、その議論の末に得られたコンセンサスとして法律を改正して再稼働にストップをさせるのは法治主義的で同意できるが、原発を再稼働するリスクを完全に目くらまし状態で黙殺し、何もリスクを知らない状態で「危険な原発を選んで良いのか!」と国民に迫るのは卑怯だと訴えていた。しかし、全くもって反原発の人の耳には届かない。それは最初の話題と同様で、論理的な議論をしても彼らにとって何のメリットもないからである。国民にとってはその様な議論をしないデメリットは膨大なのだが、あくまでも彼らの評価基準では国民に情報を提供して議論をするメリットが皆無なのである。

これは例えて言えば、群馬大学医学部付属病院の腹腔教手術の事故と同じ状況と言える。この医師は手術のリスクを患者に十分に説明せず、「今、私の薦める手術をしないと命がないよ!」と言って腹腔教手術に誘導し、それで手術が失敗すると今度は「私は悪くない。私に責任はない。」と逃げまくっている。まさに、反原発派の主張そのものである。

この様に色々書いてきたが、この手の政治課題においては論理的な議論は必要不可欠なはずである。しかるに、ラディカルな一派は論理的な議論を極端に嫌い、全てを感情論で押し切ろうとする。国民は感情論に訴えれば騙せると確信し、それにマスメディアが乗っかっている。勿論、再稼働容認派の中にも旧態依然たる安全神話に乗っかった人もいるのは確かで、その様な人も論理的な議論を好まない。しかし、朝まで生テレビを見て分かるように、最近の傾向は再稼働容認派の大勢は論理的な議論を主張する人が多く、逆の反原発派の人には論理的な議論を嫌う人が多い。

だから、原発の問題を突き詰めていけば、原発に関する技術的議論を如何に建設的に行うかについても重要だが、それ以上に声高に感情論のみにしか訴えない輩の言論の自由は守りながら、如何にすれば正しい情報を国民の耳に届けることができるかの問題と言い換えても良い。ここで、重要なのは、国民と東電との信頼関係以外にも、国民と政府の信頼関係も非常に重要である。東電が情報公開をするのは当然だが、政府に求められるのはシビアアクシデント発生時に国家が何をしてくれるのかを情報発信することだろう。これまでは過去の話として補償の話が中心であったかも知れないが、これから重要なのは原発事故時の避難体制など、「如何にして、国家が我々の命を本気で守る気があるか」を示すことである。バbb組中の議論にもあったが、災害発生時に例えば半径30km圏内の人々の避難のためのバスの派遣は民間バス会社の運転手に危険地帯に救助に行けとは言えないから、自衛隊とか国が積極的にこの様なものに関与していく必要はあるだろう。その様な地方自治体で出来ないことを国が如何に行うかを示すことは価値が大きい。そして、その様な議論はこれからもっと盛んになるだろう。
感情論的な人に感情論で勝負を仕掛けても無駄である。やはり、やり方の工夫に大分エネルギーを割かなければいけなさそうである。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます


最新の画像もっと見る

コメントを投稿