高知ファンクラブ

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第4回 磁器上絵付け 体験教室 (リム<縁>飾りの風景皿)

2013-01-10 | 高知のイベント情報

第4回 磁器上絵付け 体験教室 (リム<縁>飾りの風景皿)  平和公民館 2012年11月22日

 

1・ ティッシュにアルコールを付けて、白磁をキレイに拭きます。

2. 型紙を利用して、転写紙を 好みの形に切ったり、パンチで切り抜きましょう。

3. 転写紙を30秒ほど 水に浸して、上のフィルムを 軽く押さえ、下の台紙を 抜き取ります。

 一枚ずつ水に入れましょう!

   テッシュで軽く押さえて水分を取り、 ゴムべらで軽くなでて、 中の空気を抜きます!!

4. 手描き下絵の裏を鉛筆でなぞり、ペンでカップに写します。

5. 平筆・円筆で絵を描いたり、スポンジで色をつけましょう。  絵の具の色を変える時は、筆を水で洗います。

6. 最後に筆で、サインをしましょう。

    

        

   

 

 

 

川田さんの 磁器上絵付け 体験教室 目次

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根木勢介 さんの記事・・・高知城その6:二大政治家・末路の悲惨 兼山、東洋

2013-01-10 | 高知の偉人(歴史上)
根木勢介 さんの記事・・・高知城その6:二大政治家・末路の悲惨 兼山、東洋
 
 

 「多聞」から始まった高知城シリーズ(?)、わたくしの中で高知城ガイドの

「マンネリ」化を感じたのが、シリーズを始めるキッカケとなりました。

期待されるほどのことは、できませんが、「根木の雑記帳」くらいの気持ちでお読み

いただければ幸いです。

●25年1月7日の次のメールについて、Sさんから下記の返信をいただきました。

1867(慶応3年)年海援隊が

結成されると文司(書紀)として隊の往復文書のほとんどを手掛けた。

同年、龍馬が土佐藩参政後藤象二郎に提出した独自の国家構想『船中八策』も、

龍馬の意を受けて謙吉が起草したものである。

(25年1月7日メール)

 

<Sさんからのメール>

長岡謙吉が書記の役にあったことは認められますが、船中八策を謙吉が起草したと

長崎遊学辞典に書かれてあったのですか?

起草するとは単に文書を作成するのではなく、文案を起こすことです。

あくまでも文案は龍馬の考えで謙吉は単に代書したに過ぎないのでは 

ないですか。

隊の往復文書のほとんどを手がけたとありますが、彼は海援隊の中でどのような

位置にあったのですか、当時龍馬に具申するほどの立場だったのですか。

そのあたり誤解をうけやすいので根木さんの考えを聞かせてください。

 

⇒根木より:

・紹介しました「長崎遊学事典」では、転記の文章通り、です。

 この本は、図書館で閲覧できます。各県(藩)別の長崎遊学者の人物・紹介本

です。

・この事典の長岡謙吉「評価」の高さに少し「違和感」をもちながらも紹介

 しました。

 特に長岡謙吉の業績・分担(書紀)について、「断定」した書き方をしている

 のが気になります。

船中八策について、長岡謙吉”自筆”の「八策・起草下書き」など発見されれば

「断定」もできるでしょうが、・・・。

 

 これについては、日を改めて取りあげたいと思います。

 

★さて、O(おー)さんから、吉田元吉(東洋)の「元吉」は、どのように読むのか?

問合せをいただきました。

おかげさまで、吉田元吉(東洋)について、勉強ができました。

<もときち?、もとよし?、げんきち?>

 

■土佐人物抄記・平尾道雄著・昭和28年発行 12pより

七、吉田東洋

 

 野中兼山を藩政初期の大政治家とすれば、吉田東洋は藩政末期の代表的政治家で

あって、しかもその末路の悲惨さにおいて両々相対するものとせねばならない。

その識見の遠大さにおいて、その施策の果断さにおいて抜群の器量を持ちながら、

独裁ぶりを吏僚に嫉視せられ衆人の怨恨を受けて自ら運命を縮めたことまで

奇しくも相似たものが感じられる。

 

東洋の通称は官兵衛、後ち元吉、名は正秋である。知行二百石の馬廻りの武家に生れ、

師を求めて和漢の学に通じ、殊に史書を読み経済の道を講究した。

少壮早くもその才腕を認められて船奉行、郡奉行を歴任したが、嘉永六年米艦浦賀に

来航して修好を求め、国事漸(ようや)く非常なるに及び、藩主山内容堂は東洋を

抜いて参政(仕置役)に任じ江戸に迎えた。かれが、水戸の藤田東湖と親交する

ことになったのもこの頃で、その活躍を期待されたが、一日旗本松下加兵衛を饗応の

席上加兵衛が酒酔にまぎれて無礼を加えたのを、東洋は我慢できず即座に

なぐりつけた。

「吉田元吉頭をこくが、数寄屋小橋で伊達もこく」と当時の世間は流行歌にした。

「こく」とはなぐるの方言、伊達こきに対句したもので、東洋の性格の烈しさと

装身に凝る生活態度がこの歌詞に窺われるものである。

松下は、山内家とは親戚の家筋だったので、東洋は土佐に追還せられ、長浜に蟄居

した。この地に設けた鶴田塾の後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎のごとき英材が

養成されたのである。

 

幕末混乱の時勢は、東洋の幽居を許さなかった。安政戊年の獄に連座して山内容堂

が退隠し、ついで幽門を命ぜられると、東洋は再び参政に復活し、藩政の要路に

たつことになったのである。

彼の読書力はすでに西洋事情を知識し、世界の大勢を理解していた。したがって、

彼は開港主義をとり、いちはやく岩崎弥太郎を長崎へ派遣した。外国事情を操って

他日の貿易を予想したもので、汽船の四十五艘をも備え海外雄飛の策を容堂に進言

したのである。

 

不幸にしてこの構想は生前に実現できなかったが、後藤象二郎は彼の遺策をうけて

開成館を創立し、岩崎を長崎貿易に活躍させた。

東洋は、また新時代に即応する学制改革を計画して致道館を新築し、階級打破の

一端として文武官の世襲制度を廃止した。「海南政典」の編修も「藩吏」の編修も

彼の企画に成るものであった。

階級制度の打破は、当然門閥家の反感を招くものだったし、致道館の新築や幕府の

命による大阪湾防備のための住吉陣営工事は民衆に労費を負わせ、豪華を好む生活

ぶりが、一層上下の憎悪をつのらせた。

 

文久二年四月八日の夜、東洋は四十八歳を一期に暗殺されたが、手を下したのは

勤王派の刺客で、尊王攘夷を念願する武市瑞山等の必死の策動を軽視したところ

にも彼の大きな不覚があったのである。

 

 

武市半平太 月と影と:松岡司著 1997年発行 54pより

・・・。

東洋はこの夜、藩主の参勤交代発途をもって御前講の終会日としていた。そのため

家老衆がつとめる奉行職から、近習、外輪(とがわ)をとわず役所の面々が

きらぼしのごとく二ノ丸に列席し、その講義「日本外史」の終了とともに祝いの酒が

ふるまわれた。

約一時間。午後十時すぎ、ようやく東洋は息のかかった重役をつれて下城。追手門を

出て、追手筋を東にすすみ、家老深尾丹波邸の角で最後の伴、大目付大崎健蔵と

わかれた。

南にくだること約百メートル。帯屋町通りに面した四つ角に家中・中屋茂馬の屋敷が

ある。その長屋門の蔭から顔をかくした刺客がおどり出た。

「元吉、参る!」(「壬戊変事」『寺村左膳日記』『皆山集』)

雨の闇夜に暗殺剣が舞う。

背後から真っ先に切りかかった六尺の偉丈夫、那須信吾だ。

活劇の状況は彼の書面を借りよう。

 

 先(まず)、件(くだん)の右側より後ろへ踏ん込み、首を見込左の肩より唯(ただ)

 一打と思い刀を下候所、傘に障(さわり)、但しは手凝(こ)り候歟(か)、浅手に

 而件 直(ただち)に見返り抜合、六、七篇切り合候所を外方より段々手を下し、否

 (いなや)切伏せ直に私立寄、俯(うつぶ)せに斃(たおれ)候を刀に而首を打候所

 、首筋より腮(あご)え掛り余程切れかたく、屡(しばしば)拝み打ちに仕候、

 (青山文庫蔵)

 

東洋は、南下して自邸のある東に歩をむけていた。その南の蔭から傘(かさ)ごと

背面をおそったのだ。

東洋も容易に命をすてるわけにはゆかない。

浅手で振り向きざま「不届者、にくきやつ!」とさけんで刀を抜く。

その気迫にさすが豪胆な信吾も押され、数合切り結びながら中屋屋敷の対角にある

間市之進邸のしもまで下がった。東洋の家来に対していた大石団蔵・安岡嘉助が

引き返し、嘉助がまたも東洋の背後から切りかかる。

刃(やいば)は肩口から首にかけて横に払われた。

「グワッ」

東洋は絶命した。

・・・。

 

 

※中々、「元吉」のふりがなは、出てきません。やっとありました。

 (赤字部分は、根木による。一部漢字を現在漢字に直しています。)

■土佐偉人傳:寺石正路著・昭和15年発行 59pより

吉田東洋

 

 吉田東洋(よしだとうよう)通稱は元吉(もときち)、名は正秋(まさあき)、

字は子悦(しえつ)東洋は其號なり

其先秦氏の名将吉田市左衛門正重に出づ

正重征韓の役唐人町豆腐屋(とうふや)秋月氏租(あきづきしそ)、朴好仁(ぼく

こうじん)を擒にしかへる子孫山内氏に仕へ馬廻に列し禄二百石を賜はり帯屋町に

住す

人となり明快俊偉(しゅんゐ)学問宏博(かうはく)に自ら一家の識見を備ふ

初幼時藩士安並雅景に就き和漢の書を学び弱冠以後東遊の途次伊勢斉藤拙堂

(さいとうせつどう)の門に入り文章を学び大に得る所あり

天保十二年二十六歳の時父跡目を相続す

尋で船奉行に任ぜられ明年郡奉行に転じ又再び船奉行に任ぜられる 時に承平日

久しく百度弛廢す

東洋鋭意諸制を改革して諸制一新大に見るべきあり 巳にして母疾を以て一旦官を

辞し家居す

 

嘉永六年米使渡来し海内忽(たちま)ち騒然たり 幕府米国国書の漢詩文を諸藩に

送致す

当時土藩の国老重役皆肉食の徒にして一人も能く右の漢文を読む者なし時に新藩主

容堂豊信(とよしげ)は深く之を慨し執政には宜しく読書の人を用ゆべし

当今其任に當(あた)る者は東洋を除きて其人なしと直に擢でゝ参政の重任に任ず

同年江戸に上り藤田東湖、鹽谷宕陰(しおやとういん)、横山湖山の諸名流と

相往来し互いに師友の交を訂す

 

此時偶容堂江戸藩邸にて其親戚にして旗本たる松下嘉兵衛を饗応することあり

東洋其接伴たり

嘉兵衛酔ふて東洋の頭を殴打(おうだ)す 東洋怒て之を拳撃して櫞下(えんした)

に擠下(さいか)す事聞こゆ 容堂深く嘉兵衛の妄禮を怒るも幕府の後難を畏れ

枉(ま)けて東洋を罰し官祿を奪ふて土佐に遂下せしむ 東洋蟄居を命ぜらるるも

意気軒昂平日に異ならず一書を東湖に寄せ其懐を述ぶに曰く

・・・。(途中略)

安政二年江戸大震あり東湖壓死(あっし)す 訃至る東洋謫(たく)中痛惜の情に

堪えず書を鹽谷宕陰に寄せて曰く

 

「誠に一昨年来は毎々天變御難儀奉ㇾ察候且藤田東湖翁の訃驚入候人之云亡邦国

 診瘁(ひとのここにほろぼうしんすい)ㇾ惜之至りに御座候云々」

 

東洋巳に罪を獲る城南三里吾川郡長濱村に謫(たく)せられ鶴田の里に居り日に

読書を事とし意気少も衰へず 後進の俊才後藤象次郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎等

住居に来て其教を受く 安政五年容堂は時勢切迫の為め再び東洋を起して故の参政に

復す 東洋謫居四年是に於て再び赦されて旧職に復し公の知遇に感激し粉骨国事に

尽くさん事を期せり 即ち藩政改革に関する一大覚書を呈出し人材の養成と採用を

新政の主眼とすべきを痛論し安政末年土藩が摂海の防御を申し付けられるや住吉に

陣営を建て直に兵備の充実を世に示したり 同年容堂は戊午(ぼご)獄事(ごくじ)

に関し品川に幽居を命ぜられるや東洋は驚きて東上公に謁(えつ)す 

公一詩あり

 

「人生何事如₂生死₁、別後相逢情更深、話ㇾ舊(旧)不ㇾ知宵過ㇾ半、一燈風雪

 五年心」

 

君臣遇合の情懐想ひ見るべし 万延元年桜田騒動以来世情騒然となりしが東洋は

少しも騒がず 人材教育は興国の大本なりとの持論を抱き容堂に請うて藩校文武館

設立の許可を得て其経営に余念なかりき然(しか)も国論反対の多きを見て快からず

其年の暮江戸に上り公に謁し国暇を乞ひ自ら大阪に下り私塾を開かんとの内願を

なせしも公は手づから酒を賜り慰撫(いぶ)して許さず 東洋詩を作り懐を述べて

曰く

 

「歳終喧閙(とう・さわがしいの意)攪(かく)₂吾眠₁、久苦官途鬢(ひん)欲

 ㇾ斑、挂(けい)綬(じゅ)有₁心猶(なお)未ㇾ果、風塵中又遇₂新年₁。」

 

之を読で東洋の心事潔白又功名を貪(むさぼ)る念の淡泊なりしを察すべし 然るに

東洋は兼ねて容堂の主唱せし公武合体論を飽くまで信奉し当時土佐勤王党を代表せる

武市瑞山等の懐抱せる絶対討幕論には少しも之を賛する意志なかりき抑 武市瑞山

は土佐勤王党の主領にして識見遠大に時勢を洞察する明ありて兼ねて京洛にて西国

強藩の有志と連絡を通じ藩主を抱して蹶起(けっき)其時機を待つばかりなりき

文久元年の暮れ瑞山江戸より帰り時勢に就きての献策を東洋に致す 東洋自ら容堂の

信任を受け己が持論を断行するの確信を有し断乎として之を退けて用いず 

 

瑞山の党(なかま)遂に東洋暗殺に決す 文久二年四月八日東洋藩主豊範(とよのり)

の前に日本外史の侍講をなし帰途中勤王党の壮士安岡正定、那須重民、大石団蔵三人

の為め殺害さる年四十八 妻其淑(しゅくとく)あり兼ねて伉麗(こうれい)

尤(ゆう・すぐれた意)篤し變(変)を聞き驚哭し越へて七日卒す 城南潮江山高見

に葬る 嫡子(ちゃくし)源太郎家を繼ぐ 後正春という 維新後外交官となり令名

あり 東洋、人となり才学あり識見又秀づ故を以て自ら一家の主張をなし人と相いれず

遂に中道に斃れる 惜しむべきかな兼ねてより藩治整頓の志あり 嘗(かつ)て制度

改正役を設け儒家松岡毅軒(きけん)、細川潤次郎等を其官を任じ秦氏以来山内家

時代に及ぶ制度法律の調査をなし一部の大法典を編す 名付けて海南政典と称す

徳川氏三百年列藩の制度皆不文律に留まる 然し荘重典雅の漢文を以て始めて成文律

となし 後世に遺す者此の書を以て唯一となす 史論以て不朽の偉績となす 

 

※根木のコメント:

 ・「読み方」がわからないとガイドの時に困りますね。

 ・「元吉」の名前は、よく使われているものの「ふりがな」なしが、ほとんど

  でした。

  原因としては、東洋自体の研究(評価)がされてないからだと推測します。

  「東洋についての本」の少なさにも驚かされます。

 ・最後の紹介文は、長文です。転換ミスがあるかも。

  読みにくいですが、よく読めば伝わってくるものがあります。 

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069   

 
 

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